双翼の墓標③【了】

 ――ふざけないでよナーシャ。

 その叫びを聞き届けて、アナスタシア・ユーリエヴナ・コマロワは個人無線を切った。


 ようやく名を呼んでくれた。あんな取り繕わないエカチェリーナの声、いったいいつぶりに聞いただろう。

 その実感は疲弊した心にちいさな芽を生んで、大輪の花を咲かせていく。じくじく最後の生気を吸い取るように。どくどく高鳴る心臓の血を注がれたように。


 嬉しい。痛いくらいだ。苦しい。歓びみたいに。


 矛盾した心地の海にたゆたいながら、宇宙船ソユーズが完全に宇宙ステーションサリュートから分離されるのを待つ。向こう数時間は暇だ。これまで散々節約してきた宇宙食に手をつけて気を紛らわせる。過去の事故から帰還時は与圧服を着るように厳命されていたが、もう必要ないだろう。どうせ地上には辿りつけない。


「もしかしたら、無線も鳴るかなあ……」


 そう思うと、エカチェリーナからの未練のようで少し嬉しい。二度と出るつもりはないが。

 嘘でも優しい言葉をかけられてせっかく名前を呼んでもらえて、最高の幕引きにしたのだ。大嫌いだとか、心の底から憎いのだとか、一緒に生まれたくなんてなかっただとか、そんな悲しい言葉は聞きたくなかった。


 ……分かっている。アナスタシアは、ずっとエカチェリーナに嫌われていた。


 きっと自分が鈍くさいから。そのくせエカチェリーナよりもいい成績が取れてしまうから。けれど頑張るエカチェリーナを前に自分が手を抜けば、多分もっと嫌われていただろう。ジレンマに囚われながら、アナスタシアは妹と同じ道を歩んできた。

 だから職業選択を機に道が分かれて、寂しいなりに安堵したのだ。もうエカチェリーナに嫌われることはない。このまま違う道を行けば、きっとアナスタシアだって妹に好かれる日がくる……そんな夢想は、息苦しさの前に押し潰れた。


 エカチェリーナがいない。泣き虫の自分の手を引いて、導いてくれる妹がいない。

 手元から消えてはじめて気がついた。アナスタシアは妹がいないと生きていけない、なにも目標にできない。

 妹がすることをして、妹に誘われたことをして、妹についていった。アナスタシアの目の前には、エカチェリーナがいなければ駄目だった。


 だから、エカチェリーナと同じところに行こうと決めたのだ。


 妹が宇宙飛行士を目指していることは知っていた。そのために空軍に入ったことも。ならば自分も空軍に……と少しは思ったが、職場にパラシュートのクラブがあることを知った。

 パラシュート乗りで好成績を残せれば、女性の宇宙飛行士の話があったときに声がかかるはず。その計算は果たして当たっていた。


 アナスタシアを見つけたときの妹の顔を、今でも鮮明に思い出せる。恐怖と絶望の狭間で凍る表情。それを目にして、アナスタシアは喜びと罪悪感を同じくらいに覚えていたのだ。


 嫌われている。分かっていた。

 これ以上嫌われたくない。それ以上に自分の手を引いてほしい。

 たとえその結果、自分がエカチェリーナの道を塞ぐことになったとしても。


「だから、バチが当たったんだろうなあ」


 ひとりごちて、笑う。アナスタシアは多くのソ連人と同じく神を信じていないが、こればかりは神さまからのお叱りに思えてならない。


 アナスタシアは悪い姉だ。エカチェリーナの安寧や幸福より、自分の欲を優先させた。妹を不幸にしてでも妹の傍にいたかった。

 挙句の果てには最後の弾劾にも背を向けて、欲しかった言葉だけ貰って満足して終わろうとしている。こんなもの、愛とはとても呼べないだろう。

 そんな姉がいるのだから、神様が世界を分けても不思議じゃない。もうふたりの道が交わらないようにと、壁が姉妹の間を遮ったのかもしれなかった。


 唯一の救いは、妹を地上に残してきたことだ。逆だったら最悪だった。何事も妹よりも上手くできてしまう自分の性質を、これほど喜ばしく思ったことはない。

 アナスタシアは妹のいない世界で生きてはいけない。けれどエカチェリーナは、姉のいない世界こそを望んでいるのだから。


「……カチューシャ」


 名を呼んで、無明の宇宙と青い地球を眺めて、目を閉じる。幼い頃から呼び続けてきた愛称を、唄のように口ずさむ。

 堕ちていくまでどれくらいだろう。最期の瞬間まで、彼女の名を呼び続けていたかった。


 アナスタシアは妹の片翼、エカチェリーナは姉の片翼。それを誇りに思い続けてきた。

 けれど考えてしまう。あの言葉の通りだったなら、どれだけよかっただろうか。


 ――いつだってあなたの隣には私がいるわ。忘れないで。


 本当に彼女の隣にあれたなら、きっとまた違う道があった。

 ふたりにはそれができなかった。エカチェリーナがアナスタシアの前で手を引いて、アナスタシアがエカチェリーナの前を塞ぐ。それしかなかった。だからこんな結末になったのだろう。


 互い違いに羽ばたく、こんな不完全な翼では、飛び立てないに決まっているのだ。


***


 天と地を分かつ壁は、いつしか「天使の壁スティナ・アンゲラ」と呼ばれるようになった。


 その由縁は1982年の8月末、シベリアで観測された粒子化現象にある。人々は短い夏を惜しみながら謳歌し、針葉樹林タイガは厳しい冬も予感させず青々と茂っていた。その広く透き通るような青空から、使が降ってきた。


 「壁」の発見以来、粒子化現象自体はいくらか目撃されていた。しかしこの例が特別だったのはあまりに範囲が広すぎたからだ。広大なシベリアの約六割、場合によってはその外の地域でもこの現象は観測されていた。

 さしものソ連もこの規模となると隠蔽しきれず、翌日には民衆に「壁」の存在を公表することとなった。「天使の壁」という名称はこの出来事を経て自然発生し、爆発的に広まっていった。


 度重なる研究により、粒子の降る範囲は粒子化対象のもつエネルギーに比例することが分かっている。それを考えれば「天使の羽」現象で分解された物体は相当の高度から落下してきた可能性があるが、「壁」ができて以降その上空へ飛び立てた例などない。天使が堕ちてきたのだ、という都市伝説さえ囁かれ、一部では「天使の墓標」とも称されている。


 なんにせよ、「壁」は世界のシステムを根本から変えた。

 核ミサイルは無用の長物となり、それまで停滞していた核削減交渉が冗談みたいにスムーズに進むようになった。一方、飛行機の利用には国家的な承認が必要となり、長距離移動は船が主体となっていく。気象観測の技術は数十年後退し、惑星探査は事実上不可能となる。


 世界は変わっていくだろう。少なくない不自由に囚われながら、しかしそれを受け入れながら。


 宇宙そらから還ろうとした片翼を、地上に取り残された片翼を、あの時喪われた歪な双翼を。今は誰も知らない。

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貴女を手折るまでの千の夜 (殺伐百合短編集) 橘こっとん @tefutefu

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