死んでもいい人
深見萩緒
Y川T郎 四十七歳・男性
死んでもいい人なんていない。それが綺麗事であることなど、みんなとっくに知っている。だから開き直ることにした。
『死没者代替法』が開発されたのは、人類がいい加減に己の性悪性にうんざりし始めていた頃だった。そのとき俺はまだ生まれていない。しかし聞くところによると、魂というものの実在が科学的に証明されてからあっという間に法整備がなされ、この世から「非業の死」が消えたのだという。
つまりは、死にゆく魂の交換。まだ死ぬべきでないと判断された「善人」の死を、死んでもいいと判断された「悪人」の死で代替するのだ。
生きていれば、もっと素晴らしいものを生み出しただろう芸術家の死。多くの人の命を救った医者の死。若者の事故死。嘆かれる死はあまりにも多い。一方で、なぜこんな人間がのうのうと生きているのだと周囲から憎まれつつ、厚顔無恥にも大往生を遂げる悪人もいる。
そういった「世界のアンバランスさ」に、ついに終止符が打たれたのだった。
死んでもいい「悪人」と判断するのは、『死没者代替法』のために作られた人工知能だ。これが人間の様々な行動を集計し、生きるに値しないと判断された人間は「死の代替者」に選ばれる。そして罪のない善人――例えば病気の女の子とか、まだ働き盛りの善良な青年とか――の代わりに死ぬことになるのだ。
死んでもいい人なんていない。人類は、もうそんな綺麗事を吐かずに済む。死ぬべき人は死に、死ぬべきではない人は死なない。その構造に理不尽さを覚えるものがあれば、それはまさに「死ぬべき人」なのだろう。
十年に一度の暖冬と言われた暖かな冬ではあるが、今日は一段と冷える。俺は仕事帰りにコンビニに寄って、安い缶チューハイと成人向け雑誌と猫缶を買った。二台あるレジのうち、バイトの女子高生が入っている方に並ぶ。『女子○生の淫らな私生活~あなたの××でイかせて~』という雑誌を、わざと表紙が上になるように置く。女子高生は慣れているのか、顔色ひとつ変えずに会計を済ませる。一体何を期待していたのか分からないままに、ビニール袋を下げてコンビニを出た。「ありざっしたー」と女子高生のやる気のない声が追いかけてきたときには、既に彼女の顔を忘れてしまっていた。
死んでもいい人なんていない。それが綺麗事であることなど、俺だってとっくに知っている。だから開き直っている。
近所の集合住宅の駐車場で、猫缶を開けた。どこで聞いていたのか、パキッという小気味のいい音を聞きつけて二匹の猫が寄ってくる。いつもより一匹少ない。ハチワレ柄の子猫はどこへいったのだろう。とりわけ人懐こかったから、もしかしたら誰かに拾われたのかもしれない。
考えながら、おれはコンクリートの上に猫缶をひっくり返した。駐車場のフェンスに『猫に餌をあげないで!』という張り紙がしてある。「分かってる、分かってる」と呟きながら、一心不乱にマグロのほぐし身を頬張る猫の、曲線を描く背中を撫でる。
キジトラと三毛。最初は俺を警戒していたが、何度か餌を持ってきたらすぐに懐いた。今では餌を食べ終わると、ごろごろと喉を鳴らしながらごろんと仰向けに寝転がる。今日もいつもと同じように、寝転がった二匹の腹を撫でる。柔らかくて、温かい。明日は餌に毒を混ぜよう。既に買ってある殺鼠剤のことを思うと、幸福感に満たされた。
「よしよし」と声をかけながら撫でていると、こちらをじっと見ている女子高生と目があった。下校途中なのだろう。コンビニバイトの子より地味で、もっさりと垢抜けない。猫を触りたいのか、それとも思わず不審者を注視してしまったのか。たぶん後者だろう。俺はニタニタ笑いながら、コンビニの袋から成人向け雑誌を取り出し彼女へ向けた。女子高生は顔をしかめ、慌てて走り去っていく。
「お前になんか興味ねえよ、ブス!」
おさげの後ろ姿に罵倒を投げつけると、さっきより質の悪い幸福感が胸を満たした。寒い。振り返ると、猫はまだコンクリートの上に寝転がったまま、ビー玉のような目で俺を見ていた。
野良猫がコンクリの上に冷たく転がった日、俺の元に「代替通知票」が届いた。市役所のパリパリの封筒に入った紙は、一見すると電気料金の振込票にも見える。しかしそれは、俺が生きるに値しない人間になったという証拠なのだ。
殺鼠剤の入った餌を、猫は食べようとしなかった。混入物に匂いで気が付いたのだろう。俺は車止めに使われていたコンクリブロックを掴んで、猫の頭蓋に振り落とした。猫は「グュッ」とおかしな声を出して動かなくなった。満足感は得られなかった。そして俺は、死んでもいい人になった。
猫を殺したことが駄目だったのか、或いはそれは最後の決定打に過ぎず、これまでに積み重ねた小さな悪徳のせいなのかは分からない。ポストに投函された代替通知票には、三日後に市役所まで出頭するようにと無機質なお役所言葉で書かれてあった。無視することもできるが、そうなると強制的に身柄を確保され、代替死の順番待ちをしている間の待遇が悪くなるらしい。
俺は代替通知票に目を通しながら自室へ戻り、玄関の鍵もかけないままに冷蔵庫を開けた。いつもの缶チューハイを開けて一口飲み、床に叩きつけた。スチール缶は泡を吐きながら跳ね転がる。
「俺は死んでもいい人間だ」
平日午後に特有な静寂の中、俺の言葉だけがはっきりと響いた。
これまでの人生に後悔はない。というより、後悔するほどの密度が四十数年の人生に見当たらなかった。子供の頃は真面目だったし、大人の言うことをしっかりきく良い子だった。勉強も進学も言われるままにこなしたが、そこに自分の意思が介入した記憶はない。親が言うから、なんとなく勉強。先生が勧めるから、なんとなく進学。
なんとなく、なんとなくで生きてきた。「俺、人生なんとなくで生きてきたんっすよね」と笑いながら言えない年齢になってようやく、俺はこうしてなんとなくで生きて、そしてなんとなくで死んでいくんだろうな、と無性に虚しくなった。
「俺は死んでもいい人間だ」
もう一度呟いた。その言葉と事実の意味を噛み締めたかった。床にぶちまけられたチューハイが、まだプチプチとかすかな発泡音を立てている。
結婚を諦めたのは三十八のときだ。結婚相談所や婚活パーティに足繁く通ってはいたが、いつもあと一歩のところで交際に漕ぎ着けられない。連絡先は教えてくれるし、何度かデートもできる。けれど決まって女性たちの方から連絡がつかなくなり、そしてそれっきりだった。一体俺の何が悪いのか、と結婚相談所の男性スタッフに訊くと、彼は俺を小馬鹿にするように笑った。
「真面目なだけじゃ、駄目なんですよね」
「何か取り柄があって、その付属品として『真面目』がついてくるなら良いんですけど」
「真面目だけが取り柄の人って、真面目なんじゃなくて『真面目にならざるを得なかった人』なんですよ。自分の意見を主張できないとか、そもそも自分の意見がないから周りに流されっぱなしとか」
「そういう人がみんな、自分のことを『真面目』とか『いい人』とかって評価しちゃうんですよね。そういうの。女性は分かるみたいですよ」
男性スタッフの話を聞きながら、俺は途中から違うことを考えて気を逸らしていた。死没者代替法は、こういう人間には適用されないんだろうか。内心では人を馬鹿にしているくせに、さも自分はこの人のためを思ってアドバイスをしているんですよ、みたいなふりをするやつ。
この時、俺の中にあった何かの種が芽吹いた。スタッフが俺をいじめるのに飽きるまで、俺は手元のボールペンを何度もノックして、芯を出したり引っ込めたりを繰り返した。スタッフは、その行動をも嘲笑しているようだった。
「貴重なアドバイス、ありがとうございました」
立ち上がって「真面目に」頭を下げると、彼は「まあ、頑張ってくださいね」と俺を見もせずに言った。その結婚相談所へは二度と行かなかったし、そのまま婚活もやめてしまった。
芽吹いた鬱屈の芽を、摘み取ることは出来なかった。「真面目にならざるを得なかった人」――図星をつかれ、しかし一言も反論できない自分があまりにも惨めで、鬱屈はみるみるうちに成長する。
それは歪んだ万能感であり、ある種の復讐心でもあった。俺はつまらない人間じゃない。俺は真面目なだけの人間じゃない。そのころから、俺は「代替者」になりたいという願望を抑えられなくなっていた。代替者は真面目から最も遠い場所にある存在だ。どうせつまらない人生をなんとなく送るくらいならば、何の役にも立たない真面目さなんか投げ捨てて、世間から死を望まれる存在になってやる。
最初にやったのは、道ですれ違うときに肩がぶつかった女性に舌打ちをすることだった。見知らぬ彼女は驚いたように振り向いて、「すみません」と小さく言いながら頭を下げた。そのとき、身体の芯を電撃が貫くような衝撃を覚えた。次はさり気なく、故意にぶつかりに行った。小柄なオーエルは数歩よろけたが、俺が舌打ちをすると足早に立ち去った。またも俺は、これまでに感じたことのないほどの快感を味わった。
自分は真面目な人間じゃないとアピールする快感。お前たちの言うことなんか素直にきいてやらないぞと主張できる快感。思春期の少年らが派手な身なりをして吸えないタバコをふかす理由が、初めて解ったような気がした。
しかし結局、そういう取るに足らない地味な悪行にしか手が出ないのが、俺という人間の小ささを物語っていると思う。物を盗むとか人を殺すとか、そういう発想はあるにはあったがとても実行できなかった。そしてそのためか、代替通知票はなかなか俺のもとには届かなかった。
四十を過ぎて、俺は焦り始めた。嫌な奴、迷惑な奴程度では、死んでもいいなんて思われないのか。一体何をすれば、死んでもいい人間だと思われるのか。駐車場で缶コーヒーを飲みながら考えていたとき、視界に入ってきたのが野良猫たちだった。
「俺は死んでもいい人間だ……」
アルコール臭い部屋の中で、俺は膝をかかえて座り込んだ。猫の頭を潰したときの感触が、いつまでたっても右手から離れなかった。
受付で俺を迎えた役所の職員は、まるで年金の相談に来た老人を相手にするように、無表情で「代替手続きでしたらこちらです、ご案内します」と言った。
こんなもんか、というのが正直な感想だった。もっと汚物を扱うような態度をされるのかと思ったが、よくも悪くもこの無機質さがお役所仕事というやつなのだろう。この職員になんとなく会ったことがあるような気がしてしまうのも、徹底してフラットな態度が、コンビニの店員や通行人の無関心さを想起させるためかもしれない。
代替者に選ばれた人間は、順番が来るまでは施設の中で集団生活を送ることとなる。健康診断を受けて問題ないと判断されれば、成人男性専用の待機施設へ送られるらしい。
「あの、そしたらひとつ聞きたいんですけど」
長い説明のあとに「何か質問はありますか」と言われ、俺は口を開いた。
「俺が代替者に選ばれた理由って、聞けたりしますか」
「ご不満がおありでしょうか。Y川様の場合は第三類代替者ですので、不服申立てが可能ですが」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、なんとなく」
職員は、左上でホッチキス留めされている分厚い書類の束をめくる。俺はその様子を見守る。ノックを繰り返すためのボールペンは手元にない。
「あ、ありました。これですね」
開かれたページを見ると、「将来的な人的被害の想定される器物損壊」とあった。
「猫を撲殺されていますね。小動物への危害は、将来的に人間の子供や女性など弱者への加害に移行する可能性がありますから。その予防措置としての、今回の通知となります」
職員はもう一度「ご不満がおありですか」と訊いたが、俺は首を横に振った。
「器物損壊、なんですか」
「はい、猫ですから」
事前説明が終わり、俺は健康診断のための問診票を記入するように求められた。名前を書いて、既往歴を書いて、自覚症状にチェックを入れる。その間、俺は必要以上にボールペンをノックしていた。芯が出たり入ったり。カチカチカチカチ。カチカチカチカチカチカチカチカチ。心臓の鼓動よりも早く、俺はノックをやめられなかった。
健康診断は滞りなく終了した。酒の飲みすぎと不規則な生活がたたったのか、肝臓が少し弱っていたらしい。しかしそれ以外は至って健康で、俺の魂は問題なく代替品として使えるとのことだった。
職員の案内に従って、市役所の裏口から外へ出る。待機施設は、ここから下道で二時間ほど行った場所にある。白いミニバンがハザードを点滅させたまま俺を待っていた。俺にとっての霊柩車だ。
後部座席のドアが開いた時、俺は背後を振り返った。俺の手続きを担当した職員が、やはり無表情で俺を見送っている。俺と目が合うと、彼は呟くように「じゃあな、Y川」と言った。
「
彼が首から下げているネームカードは、スーツの上着の中に隠されていた。もしネームカードが表に出ていても、俺はわざわざ職員の名前を確認したりしなかっただろう。だからどちらにせよ、俺は気が付かなかった。見覚えがある気がしたのは気のせいではなかった。
三好とは、小学校から高校を卒業するまでの付き合いがあった。四十数年の人生の中ではとうてい長い付き合いとは言えない年月ではあるが、それなりに親しい仲で、彼もまた俺と同じように「真面目」と評されるタイプの人間だった。俺と同じ、真面目で面白みのない、つまらない人間だったはずだ。なのに、
「なんでお前がそっちがわにいるんだよ」
俺の言葉の真意を理解することは、三好には不可能だろう。それでも俺は、問いかけずにはいられなかった。誰でもいいから答えを教えてほしかった。俺と三好の一体なにが違って、俺はこんなことになっているのか。
「ちくしょう、馬鹿にしやがって。三好、俺はお前たちとは違うんだよ。どうせお前は、つまらん人生をなんとなく生きているんだろう。俺は違うんだ、俺はお前たちとは違うんだよ」
大声を出すと輸送担当の職員に抑えられたが、俺はなおも叫び続けた。無表情に、あるいは少しうんざりしたような顔で俺を見る三好を、輸送担当の職員を、記録担当の職員を、全ての「善良な」人々を、指差しながら怒鳴った。
「お前たちは、俺に助けられるんだぞ。俺が死ぬから、お前たちに必要な人間が生き延びられるんだ。俺はお前たちの恩人だ。ざまあみろ、俺の方が偉いんだぞ」
ミニバンに押し込められながら、俺は四肢を暴れさせて叫ぶ。子供のころ、あのおもちゃが欲しいと駄々をこねた記憶すらない。俺は良い子だった。親を困らせないようにじっと我慢できた四歳の俺はもはやなく、四十七歳の俺は子供のように地団駄を踏み、泣き叫んだ。
「俺は死んでもいい人間なんだ、俺は死ぬんだぞ、三好、俺は死ぬんだ。お前たちのために死ぬんだ。俺に感謝しろ! 俺は死ぬんだぞ!」
首にチクリと小さな痛みを感じた。鎮静剤かなにかを注射されたらしい。もっとしつこく暴れたかったが、薬には抗えなかった。
「俺は死んでもいい人間だ」
ミニバンの灰色の天井を見つめながら、俺は力なく呟いた。呟きながら、なぜだか猫のことを思い出していた。器物損壊ですね。三好が言った。俺は器物を損壊した。ひどく柔らかな器物だった。
「猫、可愛かったな……」
甘えるような声を出してすり寄って、無防備にお腹を見せる猫。その腹を撫でたときの柔らかさ、温かさを思い出したかった。空中に手を伸ばし、撫でるようにそっと動かす。右手には、猫の頭を潰した感覚しか残っていなかった。
<終>
死んでもいい人 深見萩緒 @miscanthus_nogi
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