Oración soleada

三上 エル

晴天の祈り

「ねえ、あなた」

「なんだい、君」

「私、あなたの描いたこの絵がとても好き。この花の名前はなんていうの?」

「……名前なんて大切じゃない。大切なのは、僕たちの心にその花がどう映るかだよ。そして、僕の描いたこの絵は君の心に強い印象を残した。それが大事なことなのだから、名前なんてどうだっていいだろう?」

「……そうね。あなたの言う通りだと思うわ」


 あなたがそう言ったことも、間違ってはいないと思うけれど。あなたがいなくなった後の部屋で、私は花の絵を見つめて呟いた。


「やっぱり私、名前が知りたいの」


 きっと名前が分かれば、この花のことを思い出せると思うから。




 気がついたら、この屋敷であなたと二人で暮らしていた。あなたは画家で、屋敷にはあなたの絵がたくさん飾られていた。私たちは互いに愛し合う仲睦まじい夫婦だった。私はあなた以外の人のことは知らないし、屋敷の外のことも分からない。そのことに特に不満はなかったし、疑問もなかった。私はあなたを愛していたし、あなたも私を愛していたから。


 屋敷にはたくさんの部屋があって、私たちは毎日違う部屋で過ごした。部屋にはそれぞれ色の名前が付いていて、あなたはその部屋の色の何かをいつも描く。ある日には黄色の部屋で砂漠の絵を描き、その次の日には緑の部屋で森の絵を描いた。またある日には桃色の部屋で花の絵を描き、別の日には紫の部屋で野菜の絵を描く。そんな日々の繰り返し。


 あの花の絵は赤の部屋にあった。花の絵は色々な部屋にたくさんあるけれど、一つとして私はその名前を知らない。別に他の花の名前など知りたいとは思わないけれど、何故だかあの赤い花の名前だけは知りたいと思うのだ。ひらひらしたフラメンコのドレスのような花びらを持つ、情熱的で、可憐で、けれども温かくて、まるで母親の愛情のような、そんな花。その花のことだけは知っている気がするのだ。ここに来るよりもずっとずっと昔から。だから名前を教えて欲しいのに、何故だかあなたは頑なに教えてくれない。あなたは私に何を隠しているのだろう。それをあなたに聞くことはきっと出来ないけれど。


「どうして、あなたの瞳の色の部屋だけはどこにもないの?」


 私はあなたの瞳の色が何よりも好きだった。吸い込まれそうな、透き通った瞳。けれど、その色の名前を私は知らない。数多の色の名前が付いた部屋がある屋敷の中で、その色の部屋だけが存在していなかった。それどころか、屋敷中どこを探しても、彼の描いた沢山の絵の中にすら、その色を見つけることは叶わない。ある日不思議に思ってあなたに問いかけたけれど、あなたは苦しそうに首を振った。


「僕は僕の瞳の色が何より嫌いなんだ」


 そう言ったあなたの表情は、まるで私の知らない誰かのようだった。憎しみと悲しみと苦しみと、底知れない寂しさを湛えた瞳を涙で震わせて、彼は私を抱きしめる。


「だから、君にその色を出来る限り見て欲しくないんだよ。本当なら、僕の瞳の色だって見て欲しくはない。今すぐこの目を潰してしまえたらいいのに」


 きつく私を抱きしめて、熱に浮かされたように囁くあなたはとても怖かった。


「やめて、やめて。あなたの瞳が潰れてしまったら、もう素敵な絵を描けなくなるし、私を見ることも出来なくなるでしょう。そんなことになったら、私、耐えられないわ」


 するとあなたは私を見て微笑んだ。その様子はどこか儚げに見えて、迷子の少年のようだった。


「ごめんよ。君にそんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。大丈夫、目を潰したりはしないよ。そんなことをすれば絵が描けなくなって、《神様》との約束を守れなくなってしまうからね」


 さあ、お茶にしようか。そう言ってあなたは私の手を引いてダイニングへ向かう。私はその日から、あなたの瞳の色のことを口に出来なくなった。




 白の部屋は、あなたにとってとても大切な部屋のようだった。そこには真っ白な祭壇と《神様》の像だけがある。あなたは毎朝その部屋で《神様)に感謝し祈りを捧げて、私にも《神様》への感謝を忘れないように、今の暮らしは全て《神様》のお陰なのだから、と何度も言った。私はあなたと《神様》が交わした約束を知らないけれど、あなたが絵を描き続けていることもその約束のうちの一つらしいことは分かっている。あなたの描いた絵の全てがこの屋敷に残るわけではない。残るのはあなたがとびきり気に入ったものだけで、他はどこかに消えてしまう。それはきっと、《神様》に差し上げているのでしょう。けれど、あなたに《神様》のことや約束のことを聞けば、あなたはまた瞳の色の話をした時のような顔をする気がして、私は聞くことが出来ない。今までも、きっとこれからも、聞くことはないのだと思う。




 あなたと二人きり、どこにも行かずに暮らすこの生活に不満はない。あなたは物知りで、毎日私の知らない色々な話をしてくれるから飽きることはないし、屋敷中に飾られたあなたの絵はあまりにも多く、一つの部屋に飾られたものだけを眺めるだけで一日が過ぎていく。全ての部屋の絵を見終わった頃には最初の部屋の絵を見てから何日も経っていて、私はまた最初の部屋に戻ってあの人の作品を隅々眺める。その繰り返しだ。代わり映えのしない、けれど穏やかで優しい日々。ただ、あなたが時々苦しそうな、寂しそうな顔をするものだから。あなたを救いたい。あなたの隠しているなにかを知りたい。それを知れば、あなたを救える気がしていた。どうしてかは、分からないけれど。



 あなたの絵は全て好きだけれど、もし順位を付けるならばやはりあの赤い花の絵が一等好きだ。どこか懐かしいような気がするから。でも、どうしてそう思うのだろう。私にはこの屋敷の外にいた頃の記憶はない。いつからこの暮らしをしているのだったか、それすらも曖昧だ。疑問に思ったことはなかったけれど、普通ではないことは分かっている。私は何一つ、自分が誰だったのかさえも分からないけれど、あなたはきっと全て知っているのでしょう。ねえあなた、私は外で何をしていたの。あなたと私はどうやって出会ったの。どうして、私たちは一緒にいるの。どうすれば、あなたに聞くことが出来るのだろう。あなたは何をそんなに怖がっているの。



 あなたは時々、屋敷からいなくなる。地下の貯蔵室から食料がなくなると、あなたはすぐ帰ってくるから、と言って微笑んで、どこかにある外に繋がる扉を開けていってしまうのだ。その扉がどこにあるのか、私は知らない。私が知る限り、この屋敷には外に繋がる扉もなければ窓もない。私が屋敷の外の景色を見ることが出来るのは、あなたの描いた絵を見るときだけ。だから、あなたが屋敷にいないとき、私はどこかの部屋で絵を眺めながら、今頃あなたはこんな景色を見ているのかしら、と空想に耽る。


 その日はたまたま橙色の部屋にいて、そこにある絵を見つめていた。それは緑色の葉を生い茂らせた一本の木の絵で、その枝には生命の輝きを湛えた橙色の実がたくさんなっていた。最初は何も思わなかったけれど、しばらく呆けたようにその絵を見つめていたら、あの赤い花を見つめていたときのような懐かしい気持ちがわき上がってきて戸惑いを覚える。何故だか、はっきり分かった。私はあの実を知っている。ずっと、ずっと前から。でも、どこで、いつ、それを知ったのかは全く分からない。それがとてももどかしくなって、思わずその絵の額縁に触れて顔を思い切り近づけた。そこになにか、重要な何かが隠されてはいないかと。


 その絵自体には何も特別なことはなかったけれど、顔を近づけた弾みに絵を少し動かしてしまい、壁と額縁の隙間に挟まっていた何かがバサリと音を立てて私の足元に落ちてきた。私は驚いて飛び退き、それが何なのか知るべくまじまじと見つめた。それは古ぼけたボロボロの本のようなもので、茶色い革表紙には金色の飾り文字で”Diario”と書かれていた。どうしてこんなところに日記が挟まっているのだろう。私たち夫婦がこの屋敷に来る前にも、住んでいた人がいたのだろうか。他人の日記なんて見るべきではないと分かってはいるけれど、好奇心は抑えられない。私は誰もいないのが分かっているのにきょろきょろと周りを確認してから、そっと古ぼけた表紙を開いた。


《×/××, Lunes

 今日からここであなたと二人で暮らすのね。とても嬉しいから、その気持ちを書き留めておきたくて日記を始めることにします。これから毎日あなたと素敵な思い出が作れると思うとわくわくして、じっとしていられない! 本当なら、晴れた空の下、どこまでも広がる草原に出て走り回りたいような気持ちだけれど、あなたが心配するからそれは出来ないでしょう。代わりにあなたが、晴れ空の下で走る私の絵を描いてくれたら嬉しいわ。


×/××, Martes

 昨日私が描いて欲しいとお願いしたあの絵が、もう出来上がっていた。君が草原を楽しそうに走っているのを想像したら、この絵が描きたくて仕方がなくて眠れなかったんだよ、というあなたを思い切り抱きしめて、お礼のパンケーキを振る舞った。あなたはとても美味しそうに食べてくれて、それから大きな欠伸をした。その姿が愛おしくて仕方がない。愛しているわ、あなた。


×/××, Miércoles

 今日は二人で外に出かけた。空はあいにくの曇り空で少しがっかりしたけれど、あなたとなら灰色の空の下でも楽しく過ごせるわ。市場に行ったとき、とても立派なオレンジを見つけたものだから、思わず綺麗ね、と呟いてしまった。そうしたら、あなたは優しく微笑んでそのオレンジを買ってくれた。美味しそうだから食べてしまいたいけれど、それと同じくらい、綺麗だからなくなって欲しくない。あなたにそう言うと、あなたがさっとオレンジをスケッチしてくれた。帰ったらちゃんと書き直そうか、とあなたは言ってくれたけれど、私はその鉛筆で描かれた白黒のオレンジにどうしようもなく心を打たれてしまって、そのスケッチが欲しい、とわがままを言ってしまった。あなたは嬉しそうに笑って、君のために描いたものだから、と私にそのスケッチをくれた。このスケッチはきっと、私の一生の宝物になる。そう思って、どうしようもなく嬉しかった》


 そこまで読んで私は日記を閉じる。どうやら、この日記を書いた前の住人も、絵描きとその妻の二人で穏やかに暮らしていたらしい。違うのは、私と違って二人は仲良く外に出かけていること。


 読み終えた最後の部分が何故か心に引っかかった。私の知らない言葉がある。その言葉を声に出して読んでみた。


「オレンジ……」


 その瞬間何かが頭を駆け抜ける。そうだ、思い出した。この日記が落ちてきた、橙色の部屋にあるこの絵に描かれているのはオレンジの木だ。日記の夫婦が二人で買っていたもの。日記にあったスケッチが日記に挟まっているのではないかと思って、ぱらぱらとめくってみる。それは裏表紙と最後のページの間にあった。おそらく手元にあったノートを引きちぎって使ったのだろう、そんなに質の良くない白い紙の上に、真っ黒な鉛筆で楕円形の木の実が描かれている。太陽を浴びて、その木の実は光り輝いているように見えた。白と黒しかない絵なのに、はっきりと生命の色鮮やかな息吹を感じ取れるスケッチだった。日記の持ち主が心を打たれたのがよく分かる、そんな絵。ただ、そのスケッチは一つだけ欠点があった。それはところどころ濡れたような跡があって、鉛筆の線が滲んでしまっている。まるで、誰かがそのスケッチを見つめて涙を流したかのように。


 気の遠くなるような時間、私はそのスケッチを見つめ続けていたのだと思う。気がついたときにはあなたが外から帰ってきていて、私の名前を呼んでいた。その声を聞いて私ははっと我に返る。何故だかこのスケッチや日記はあなたに見られてはいけないものだと直感した。スケッチを日記に挟み、日記を絵の裏に戻す。そしてあなたが私を探してここに来る前に部屋を出て静かに扉を閉めた。何事もなかったかのような顔をしてあなたを出迎える。私があなたに隠しごとをしたのは、それが初めてだった。私を見てあなたが嬉しそうに笑う。その笑顔に、胸がちくりと痛むけれど。許してね、あなた。あの日記を見たら、あなたはあれを取り上げてしまうでしょう。私はどうしても、あの日記を読まなければならないの。どうしてかは、分からないけれど。




《×/××, Jueves

 あなたは毎日、私のために絵を描いてくれる。喜びに満ちあふれた赤、穏やかで優しい黄色、元気をくれる橙色、切ない気持ちになる紫、静かな安らぎをくれる緑。鮮やかな色で溢れたあなたの絵を見ていると、まるで鳥のように翼が生えているような気持ちになる。あなたの絵は、私の足ではいけない遠い世界に連れて行ってくれるの。今日もあなたは私を素敵な場所に連れて行ってくれる。私たち二人の翼は絵筆と絵の具とカンバスなのね。あなたとなら、どこへだっていける。私、心からそう思うわ。


×/××, Viernes

 今日は特別なことは何もなかった。でも、あなたが絵を描くのを隣でずっと見ていられたから、とても良い日だった。ずっとこうして暮らしていけたら良いのに》




 あれから、毎日ちょっとずつ日記を読み進めている。毎日橙色の部屋に出入りしているとあなたに気づかれてしまうから、あなたに見つからないように日記を私の部屋に持ち帰った。特になんということもない、穏やかな日常が綴られた日記。最初は誰かの日記など初めて読むものだから、とても面白い読み物を読んでいるような気分だった。けれど、あまりに何も起こらない平凡な毎日が綴られているものだから、だんだん飽きてきた。けれど、最後まで読まなければならないという使命感は消えるどころか強まるばかり。


 日記の中の夫婦は私たちに良く似ていて、けれど私たちよりどことなく幸せそうに感じた。これは一体誰の日記なのだろう。書き手の名前がどこかに隠れてはいないかとすみずみまで探してみたけれど、手がかりさえどこにもない。どうして二人はこの屋敷を出て行ったのだろう。何故この日記をあの絵の裏に隠していったのだろう。分からないことが多すぎる。この日記のことも、屋敷のことも、あなたのことも、私のことも。あなたは、どうなのだろう。あなたは全て知っているのだろうか。あなたと私がどこで、どうやって出会ったのか。プロポーズはいつ、どこで、どちらからだったのか。きっとあなたからだと思うけれど。あなたの瞳の色をあなたが嫌う理由、赤の部屋の花と橙色の部屋のオレンジ。あの二つの絵が私の心を掴んで離さないわけ。


「ああ、そうだったのね。やっと分かったわ。私、本当に何も知らないのね」


 思わず口にして、自分の言葉に納得する。今まで私は何も思わなかった。何も覚えていないこと、あなたが何も教えてくれないこと、不満なんて何もなかった。それは、分かっていなかったからだ。私が「何も知らない」ことに、本当の意味で気づいてなどいなかった。私の心の中に、きっとかつてはあったのだ。あの真っ赤な花も、鮮やかなオレンジも、あなたの瞳の輝きも。けれど、今の私には何もない。悲しみに暮れるあなたの瞳は閉じられて、花は萎れオレンジは枯れ落ちている。これ以上に恐ろしいことが、この世の中に存在するだろうか。何もかも忘れた私の世界は死んでいる。愛しているはずのあなたのことさえ、わたしは何も知らない。私の心の中で、あなたは花や木の実と同じように、死んでいるのだ! そんなことが許されて良いはずがない。


 私は思い出さなければならないのだ。あなたを生き返らせるために。きっとこの日記の持ち主も、同じことを思ってこの日記を書いたのだろう。愛する人と過ごした記憶を忘れることがないように、殺してしまうことがないように、祈るような気持ちで書き綴ったに違いない。私は何故この日記を最後まで読み進めなければならないのかやっと理解した。私たちに良く似た誰かの思い出を辿っていけば、私もあなたとの忘れ去った日々を思い出せるだろう。丁度、彼らのオレンジにまつわる思い出が、私の心の木の実にもう一度命を灯してくれたように。




《×/××, Sábado

 あなたが私のために用意してくれたこのお屋敷は、窓がたくさんあってどこからでも空が見える。私が空の色を見るのが何より好きだということを考えて、あなたがデザインしてくれたのだと知ってとても嬉しかった。たくさんあるお部屋は赤、黄色、緑……、数え切れないほど野色の名前を付けて、あなたが描いたその色の絵を飾っている。まるであなたの絵だけを飾った美術館みたいだ。夢のようなお屋敷ね。どの色も大好きだけど、私はあなたの瞳の色が一等好きよ。だって、あなたの瞳の色は……。あら、あなたが呼んでいる。今日は私のためにとっておきの絵を描いてくれるのですって。とっても楽しみだわ。きっと今日も、忘れられない一日になるわね。


×/××, Domingo

 今日は具合が悪くて、ベッドから出られなかった。折角あなたと海に出かける約束をしていたのに。どうしても海に行きたいと私が泣くものだから、あなたは私のベッドの隣で海の絵を描いてくれた。それは夕日に染まった真っ赤な海と、砂浜で白いワンピースを風にはためかせて笑う女の人の絵。これは君だよ、とあなたは笑った。君は今、僕の心の海で踊っているんだよ、私はあなたに、あなたはどこにいるの、と尋ねた。するとあなたは、僕は君の側で、君の踊りを幸せそうに見つめているんだよ、と答えた。僕は君の隣にいられるだけで、幸せだから。微笑むあなたがかすんで消えてしまいそうで、私は泣きながらあなたの腕を強く握った。そのまま眠ってしまったようで、目が覚めるとあなたがベッドの隣の椅子に座ったまま私にもたれかかって眠っていた。握ったままの手を離さないでいてくれたあなたの優しさが、何故かとても痛かった》




 日記を読み進めるほどに、日記と現実の私たちの生活の区別が付かなくなっていく自分がいる。現実のあなたと私。日記の中の《あなたと私》。それはとてもそっくりで、日記の出来事はまるであなたと私の間に起こったことのようで、けれどそうではない。現実のあなたと私は、彼らのように温かい間柄ではない。あなたと私の間には、一枚のガラス板があって、私たちはそこからお互いを愛情溢れるまなざしで見つめているけれど、決して触れることは出来ないのだ。私はあなたのことを何一つ知らず、あなたは私がなにかを知ることを恐れている。いいえ、あなたは何もかもを恐れているのだ。私も、この屋敷も、《神様》も、自分自身の目の色も、全部あなたは怖がっている。それは恐怖ではなくて、壊してしまいそうなガラス細工に触れるときのような、そんな気持ち。そして私もあなたが怖い。私が、あなたの心のガラス細工に触れた瞬間、それは砕け散って元に戻らないような気がするから。




《×/××, Jueves

 あれから、体調を崩してしばらく日記が書けなかった。元のように起き上がれる日が少なくなってきて、あなたが憔悴していくのがよく分かる。まるであなたのほうが病気みたいね。空元気を出して明るく振る舞って、私が見たいと言った景色の絵を描いて、どこにも行かないで、と泣きながら私の手を握って、二人で眠りに落ちる。ああ、もう時間がないのだと、分かってきた。あなたは必死に私を留めようとするけれど、お医者様でさえどうも出来なかったものを、他の誰も治せるはずがない。最後の希望は神様だけで、だからあなたは屋敷の中に白の部屋を作って毎日祈りを捧げるようになった。ああ、空が見たい。晴れた日に空の下で、あなたと一緒にお散歩がしたい。それすらも、今の私には叶わない願い。ねえ、あなた、どうかそれ以上泣かないで。あなたが涙を流すのを見ていると、私まで泣いてしまいそうになる。私が一番好きな色をしたあなたの瞳に最後に映るのは、私の笑顔であって欲しいのに》




 あなたと私は今日も変わらない。朝起きて、白の部屋で《神様》に祈りを捧げて、私はどこかの部屋であなたの絵を眺めて、あなたは別の部屋で何かの絵を描く。最近のあなたの絵は前と同じように上手だけれど、どこか魅力に欠けていた。迷子の子どもが描いた絵みたいね、と言った私に、あなたが向けたまなざしこそ迷子のようだった。




《×/××, Sábado

 私が空を見たいというものだから、あなたは私と二人で晴れ空の下にいる絵ばかりを描いてくれる。散歩したり、踊ったり、歌ったり、昼寝したり。絵の中でなら、私たちは何だって出来る。何だって出来る、から。絵の中でなら、私はいつまでも生きていられる。ねえ、あなた。私の絵を、たくさん描いてね。私がいなくなった後も、あなたが寂しくならないように》




 今日は出かけてくるよ。そういうあなたはいつもと違って、去り際に私を強く抱きしめた。苦しくなるほどに、強く。どこにも行かないでくれ、僕のいないところに行ったりしないでくれ。どこにもいったりしないわ、と私が何度言っても、あなたは熱に浮かされたように繰り返していた。私も、あなたも、気づいている。ああ、もう、時間がないのだ、と。何かが終わってしまうのは、もう、時間の問題だった。


 あなたのいない屋敷で、一人日記のページをめくる。終わりに近づいた日記の文字は、とても薄く、震えて、涙のしみで滲んでいた。


《×/××, Domingo

 もう、ペンを握るのもつらい。だから、日記を書くのはこれが最後。私、あなたを愛しているわ。


 初めて出会ったのは母の店の前のテラス。カーネーションの花が咲き乱れて、とても美しかったのを覚えている。側にはオレンジの木が植わっていて、空はどこまでも晴れて澄んでいた。突然、あなたの絵を描かせてくれませんか、と言われて驚いたけれど、あなたの手元のスケッチブックを見せてもらって、ああ、こんな素敵な絵を描くひとなら大丈夫、と思った。あのときあなたのお願いをお断りしなくて、本当に良かった。声をかけてくれて、本当にありがとう。あなたと出会えなかったら、私は決して幸せになどなれなかったでしょう。


 プロポーズもあのお店の前で、カーネーションが咲き乱れる中、ずっと隣にいて欲しい、と言ってくれた。ああ、あの日も空は雲一つなく晴れていて、その下で頷いた私を優しく抱きしめたあなたの笑顔を今でも鮮やかに思い出せる。あの日からずっとずっと一緒だった。


 私の病気が分かり、それが治らないと知って、療養のためにこの屋敷を建ててくれてからは、片時も離れずに過ごしたわね。毎日私のために絵を描いてくれて、祈ってくれて、笑わせてくれて、本当に嬉しかった。


 行かないで、というあなたの願いを叶えてあげられなくて、ごめんなさい。けれど、私はいつでもあなたと一緒よ。いつまでも、あなたと一緒。


 私がいなくなってしばらくは、私との思い出を振り返るのは痛くて苦しくて仕方がないかもしれないから、この日記は思い出のオレンジの絵の裏に隠しておきます。本当はカーネーションの絵の裏にしようかと思ったけれど、あの絵にはあなたが隠しごとをしているでしょうから、私はそれを暴かないようにします。私のことを思い出したくなったその時は、この日記を読んでね。私のことを思い出して、そして晴れ空の下で踊っている絵を描いてくれたら嬉しいです。あなたが私を描いてくれたら、私はあなたの絵の中で、生き続けることが出来るから。


 ねえ、あなた。私ね、あなたの瞳の色がとても好きなのよ。だって、あなたの瞳の色は、私が大好きな晴れた日の空と同じ色をしているから》


 ぱたり、と微かな音を立てて日記が手から滑り落ちた。カーネーション、オレンジ、あなたの瞳の色。ああ、そうか、この日記を書いたのは。


 バタン!


 下の階から乱暴に扉を開ける音がする。多分、あなたは分かっていたのだ。今日、何かが終わってしまうこと。


「君、どこにいるんだい! いるなら返事をしてくれ!」


 行かなければ。あなたに捕まらずに、あなたより先に、《あの部屋》へ。きっとあるはずなのだ。たった一つだけなかった、《あなたの瞳の色の部屋》が。私は日記を拾うことなく、私の部屋を出た。赤の部屋はあなたの声がする方、一階の隅にある。ごめんなさい、あなた。これは全てあなたのためなの。私という枷に捕らえられて、晴れ空の下で自由に飛ぶための翼を失ったあなたを、解き放ってあげなくては。


「どうしたの、あなた? 随分早く帰ってきたのね。私はここよ!」


 何事もなかった風を装ってあなたを呼んだ。私はあなたに気づかれないように、私の部屋に向かって上がってくるあなたとは別の階段からそっと、けれど素早く駆け下りる。走馬燈のように記憶が戻ってきていた。私はあの日記の《私》で、あなたはあの日記の《あなた》。私とあなたは出会い、結ばれ、愛し合い、そして私は病気で————。


 最期のとき、私はあなたにどうしてもとお願いして屋敷の庭に連れ出してもらっていた。最後にどうしても空の下にいる私の絵を描いて欲しい、と懇願する私に、あなたは困った顔をしながらすぐ戻ってくるから、と言って画材を取りに屋敷に戻った。私は車椅子に座ってあなたを街ながら、大好きな空を眺めていた。そのうちまるで空が私を吸い込んでいくような気がして————。


 最期に見ることが出来たのはあなたの顔ではなくて、どこまでも広がる空だった。確かにそこで私という存在は消えたはずだったのに、何故今私がここにいるのか分からない。けれど、多分あなたは《神様》に願ってしまったのでしょう。あなたが自分の瞳の色を嫌うのは、それが私を吸い込んでしまった空の色と同じだから。そしてあったはずの窓を全て塞いで、外へ繋がる扉さえ隠してしまったのは、きっと————。


「君、行かないでくれ! どこにも行かないと言っただろう!? 僕を置いて、行かないでくれ……!」


 あなたが追いかけてくる音がする。あなたも、私がどこに行こうとしているか分かってしまったのね。けれど、そのときにはもう私は赤の部屋に辿り着いていた。扉を開けて、中にあった重たいソファを引きずって扉を塞ぐ。そしてあの花の絵——カーネーションの花——の絵を壁から外した。そこには古びたレバーが隠してあった。思った通り。力を込めてそれを引き下げる。途端に隣の壁が開いて、隠された階段が出てきた。


「————!」


 あなたが部屋の外で叫ぶ声がする。きっと泣いているのだろう。けれど私は振り返らない。振り返ることは出来ないのだ。




 らせん階段のようになっている隠し通路を降りていくと、突然目の前が開けて見たことのない部屋に辿り着いた。その部屋には見たことのない絵——いや、今までその存在を忘れていた絵がたくさん飾ってあった。その全てが晴れ空と一人の女性を描いたもので、胸がいっぱいになる。ここにあるのは、全て、私の絵だ。私と、あなたの絵。この部屋こそ、見つからなかった《あなたの瞳の色の部屋》だった。二人が出会ったあの店の前のテラスの絵もある。カーネーションとオレンジ、それから空。幸せだった私たちの日々の全てが、この部屋にあった。思わず涙がこぼれ落ちる。それをぬぐって顔を上げると、そこには大きな扉があった。茶色い木製の立派な扉。それを開ければ、もう戻れないことは分かっていたけれど。もう、終わりにしなければならないから。


 ギイイイイイイイイイイ!


 まるで世界が終わるときのような軋む音を立てて、扉が開く。目の前にはさっきと同じようならせん階段が続いていた。もう急ぐ必要はない。ゆっくりと、一歩一歩踏みしめながら歩いて行く。もう何年も感じていなかった風を感じた。ああ、もう外はすぐそこなのだ。嬉しいはずなのに、涙はどうしても止まってくれない。ああ、光が見えてきた。もうずっと目にしていなかった太陽が、そこに、ある。


「待ってくれ!」


 あなたの声がすぐ後ろで聞こえた。腕を引かれ、後ろから抱きしめられる。まるで、もう離したりしないとでも言うように、強く。けれど、そのとき私は既に最後の一歩を踏み出した後だった。久しぶりに踏みしめた草の感触は優しくて、太陽は温かくて、そしてどこまでも空は晴れていた。ああ、また、吸い込まれていきそうだ。けれど、吸い込まれる前に、あなたに伝えなくては。


「ねえ、あなた」

「嫌だ! 行かないでくれ! 二度も君を失ったら、僕はもう、生きていけない————!」


 あなたは真っ暗な階段の方へ私を引っ張ろうとするけれど、その努力も虚しく、気づけば私の体はふわふわと浮いていた。足の方から、空に引っ張られていこうとするのを、あなたがかろうじて引き留めている。そんなあなたに私は微笑んだ。今度こそ、あなたが最後に見る私の姿が笑顔であるように。


「私はあなたの瞳の色が大好きよ。だって、その色は晴れた日の空と同じ色をしているもの」

「空なんか大嫌いだ! 空が君を二度も僕から奪っていくのなら、今度こそこんな瞳はいらない!」


 泣きじゃくるあなたをあやすように、そっと抱きしめ返す。


「そんなこと言わないで。空はあなたから私を奪ったりしないわ。私はずっとあなたと一緒にいる。ねえ、聞いて、あなた。あなたはずっと、私は空に吸い込まれたと思っていたかもしれないけれど、それは間違っているのよ。私は空に連れて行かれたのではないの。空色のあなたの瞳に溶けていくのよ。だから、あなたの瞳が晴れ空の色をして、世界中の景色を映して、私の絵を描いてくれたら、私はずっとあなたと一緒にいられるの」


 涙を流しながらあなたが私を見た。あの、迷子の子どものような顔で。大丈夫、私はいつでもあなたと一緒だから。


「だから、もう屋敷の中に閉じこもるのはやめてね。私に世界中の空を見せて。そして絵を描き続けて。あなたが私の絵を描き続けてくれる限り、私は生き続けることが出来るから」


 まだ悲しみに震えるあなたの唇にキスをする。もう、私の体は透けて空に溶けていっているけれど。ああ、やっぱり、あなたの瞳の色はとても綺麗だ。


「さよなら、あなた。あなたの瞳の色も、あなたの描く絵も、あなた自身も、全部————」


 あなたの腕をすり抜けて、私の体が空に吸い込まれていく。あなたが私に手を伸ばした。私も手を伸ばす。もう二度と、届かないと知っていても。


「愛しているわ」


 最期に見たのは、私が愛してやまなかった晴れた日の空と同じ、どこまでも透き通ったあなたの瞳の色だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Oración soleada 三上 エル @Mikamieru_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ