第6話 エピローグ

理系大学の十二月ははっきりと二つに分かれる。クリスマスを祝う者とクリスマスを呪う者である。

コンクリ―ト工学研究室の学生達は後者であるとはっきり言える。毎年この時期は一部の計画性のない学生は大晦日と正月以外はほとんど実験棟に入り浸ることになる。

太陽も灰色の空にすっかりと姿を隠した十二月二十四日のクリスマスイブである。

研究室には修士二年と四年生の一部がPCで作業をしている。その他は実験棟でひたすら実験に打込んでいる状況である。

「なあ」金井が後藤に向かって言った。動いているのは口とキーボードを叩いている手だけである。

「何?」

後藤も返答するが状況は金井と同じである。

「なんでもっと早くやらなかったんだろうな」

「今それを言っても進まないだろう・・・」後藤の声は僅かに金井の鼓膜を振動させる程度だった。

今、PCの前に座っていないのは立花と松崎そして上条である。

その他は全員がPCの前に座っている。朝から誰も喋る人間はいない。その理由は今日が卒論の実験結果以前までの内容を教員に提出する締切りだからである。修士二年生も同じく修論を一部執筆し、今日が提出締切りである。研究室の方針としてこの締切りに遅れた学生は以後、論文の指導をしないと明言している。大学側がそう言っているわけではないが、四年生への脅かしとしては十分だった。

すなわち四年生にとってはかなりの危機である。

「よりにもよってなんで今日なんだよ」飯田が愚痴る。飯田は四年生の中で唯一彼女がいる。今日も予定を入れていたがこの状況である。飯田自身のプライベートも危機が迫っている。

「まあ、今実験をしている奴らよりはマシか」金井は椅子に座り直す。

「お疲れさんでーす」合六が研究室に入って来た。白い耳当てにピンクのマフラー、赤いPコートに厚手のスカートとブーツである。

「あれ?合六さん、今日はかわいい格好ですね」後藤が座りながら背を伸ばしてPC越しに合六を見る。

「おーい、言葉のチョイスを間違えるなよー。『今日も』だろー」合六は鞄を降ろして耳当てとマフラーを外し、強引に鞄に入れた。

「あれ?今日松崎に実験の指示をしました?」金井が合六に言った。合六が今来たこととその格好から実験棟にいたわけではないということが理由だった。

「え?今日卒論の中間提出でしょー?そっちやれって言ったよー」合六は自分の机に座りながら言った。

「え?今朝からあいつ見てないですよ?」金井が驚いたように言った。

「はぁー?あいつ何しているんだよー」合六は鞄からスマートフォンを取り出す。

「松崎君なら朝早くに来ていたわよ」真中が金井に向かって言った。

「え?そうなんですか?」金井が驚く。

「そう。なんか泊まっていたのかなあ。私は今日早めに来て実験を少ししてから論文書こうと思ってさ。朝七時にここに来たんだけど、すでに松崎君がいてね」

「あいつ鍵は?」後藤が言った。

コンクリ研では、方針として研究室と実験棟の鍵を四年生以下には持たせていない。大学院生以上は一人一つずつ所持している。

全員が合六を見る。

「うん?いや、渡してないよ」合六は自分に向けられた視線の意味を感じ取り返答した。

「それであいつはどこに行ったの?」後藤が誰ともなく言った。

「私が実験棟で二時間くらい作業した後戻ってきたらもういなかったわね」真中が言った。

「まあ、もう大人なんだからさ。自分で判断していないってことだからもういいんじゃないか?放っておいて」飯田が投げやりに言った。自分の進捗が悪いことが感情に出始めている。

一連の流れを塩田と佐々木、そして三枝はイヤホンで聞いていなかった。行儀は悪いがある意味賢い選択と言える。

合六はスマートフォンを握りしめながらそのやり取りを聞いていた。

合六はスマートフォンのロックを解除して確認してみるが松崎からの連絡はなかった。椅子の背もたれに身体を預け、足を延ばして天井を仰いだ。



同日、午前十時、松崎は東郷の個人研究室にいた。応接用のテーブルを挟んで松崎の正面には東郷と鹿島が座っていた。

松崎は椅子に深く腰掛け、両手を膝の上に置いている。背筋をしっかりと伸ばしていた。まるで就職活動で面接を受けているようだった。

体格の良い松崎がそのような座り方をすると、それだけで迫力があった。

鹿島は腕組みをしながらわずかに俯き、両足を先端で組むようにして伸ばしていた。

「考えは変わらんのか?」

東郷がテーブルに両肘をついて言った。両手は組んでいる。

「はい。急なお話で申し訳ないのですが」

松崎は落ち着いた声で言った。

松崎は大学を辞めることを相談するために東郷の部屋を訪れた。この日は午前中に東郷が外出して一日不在のため話をするならば午前中の早い時間帯である必要があった。そのために朝早くに大学に来たのである。

「両立することはできないか?」鹿島が顔を上げて言った。

「はい。実家に帰らなければならないので、物理的に難しいと思います」松崎が鹿島の目を見て答えた。

「実家は新潟の米農家だったよな?」東郷は言った。

「あ、そうです。鹿島会にもお米を送ってもらいました」

「確かにあの米は美味しかった。本当にありがとう」鹿島は礼を述べる。

「九月に父が倒れまして。その時少し帰らせてもらったのですが」松崎は伏し目がちに言った。

「ああ、大事に至らなくて良かったな」東郷が背筋を伸ばして言った。

「その節はどうもありがとうございました」松崎は座ったまま礼をする。

「いや、こちらはそんな迷惑かけられていないよ。そのセリフは合六に言ってあげろ」鹿島は表情を変えずに言った。

「それもそうですね」松崎は笑った。

松崎は表情を元に戻す。

「その時に母から涙ながらに帰ってきて継いでくれないかと懇願されまして」

東郷は唸った。そして横目で壁に掛けられている時計を気にする。

「そうか・・・泣かれてはねぇ」東郷はそう言って黙る。

「まあでも、卒論ぐらいは提出していった方が良いんじゃないか?」鹿島は提案した。

「ええ、せっかく一年くらい頑張りましたし、やる気がないわけではないのですが、実家に帰るとすぐにやらなければならないことがありまして」松崎は俯きがちになった。

「うん・・・先生、仕方がないでしょうね」鹿島が東郷を見た。

「まあ・・・なー。勿体ないけれどなぁ」東郷は右頬を摩る様にした。

松崎は膝の上に置いた手を握りしめていた。

「松崎、分かった。そのようにこちらで報告しておこう」東郷が言った。

「後で書類を送る可能性があるから住所決まったら連絡してくれ」鹿島は冷静に言った。

「わかりました。ありがとうございました」松崎は頭を下げた。

張り詰めた緊張が解けてかのように松崎の身体から力が抜けた。

「それにしてもさ、お前も成長したよな」鹿島が微笑みながら言った。

「はは、酒に強くなったよなぁ」東郷は豪快に笑う。

松崎も釣られて笑う。

「配属当初は全く感情がなかったよな。何考えているかわからねぇ奴だなって思っていたよ」鹿島は砕けた言葉で言った。

「そうだったか?まあおれはあまりお前らに接してなかったからなぁ」

東郷はまた豪快に笑う。

「いや、コンクリ研に配属されて、頼りになる先輩や、個性的な同期達に囲まれて生活していましたからね。何より合六さんには本当に感謝しています。研究室生活からプライベートからいろいろ教えていただきました」

「プライベート?」鹿島は眼鏡を直して身を乗り出した。

「あ、えっとそう言う意味じゃなくて、実験終わった後に夕飯食べたり、他の先輩や同期とお酒を飲みに行ったりっていう意味です」松崎は慌てて訂正する。

「ああ・・・そういう・・・まあ、別に本当に何かあっても良いんだけどな」

鹿島は意地悪そうな笑みを浮かべた。

「いやいや無いです。合六さんは古見澤先輩に夢中ですから」

松崎は笑いながら言った。



東郷が外出、鹿島は講義ということで松崎は鹿島と一緒に東郷の部屋を出た。

「下に寄っていくか?挨拶しておいた方が良いだろう?」鹿島はエレベータを待つ松崎に言った。

「あーそうなんですけど、こう、なんていうか顔を合わせてしまうと自分も決意が鈍ってしまいそうですし、金井あたりからお前だけ卒論やらないなんて狡いとか言われそうで」

二人は到着したエレベータに乗り込む。

「そんなこと言ったらぶっ飛ばすけど?」鹿島は正面を見て言った。そこまで広くないエレベータである。知っている者同士でもどうしても面と向かってという形にはならない。

「先生、最近は問題になるんですよ、そういうの」松崎の発言と同時に一階に到着した。

鹿島が先に出て、松崎が後に出る。鹿島が振り向いて松崎を見た。

「本当に挨拶は良いのか?」鹿島は松崎を見て言った。

「はい。大丈夫です。皆さんによろしくお伝えください」

松崎はそう言って笑うと頭を下げた。

「わかった。また遊びに来いよ」鹿島はそう言うと振り向いて研究室へと向かった。

松崎はまた頭を下げた。鹿島の最後の優しさだと思っていた。

松崎は五号館の正面ではなく、一階のトイレ側から外に出ることにした。研究室とは反対側に位置する。

松崎はそちら側の思い鉄扉を開けて外に出た。このまま五号館の裏手に回ると実験棟や無津呂が使っているプレハブがある。

松崎はそちらには行かずに五号館の前の道に繋がる方に向かって歩いた。少し進むと右手に喫煙所がある。

松崎はなるべく五号館の人間に見つからないように小走りになった。

喫煙所を通り抜けようとすると、「おい」と声を掛けられた。

松崎にとって見覚えのあるその声に思わず足を止めていた。

「どこに行くんだよー。そんな暇あるのかー?」

松崎は声のする方向に顔を向けられないでいる。

松崎自身が笑顔でいるからである。

「見つかっちゃいましたね」それだけ言った。

「見つかっちゃいましたね、じゃないよー」

松崎には合六がこちらに向かって歩いてくる音が聞こえている。

合六は松崎の目の前に仁王立ちした。

「今日は余所行きの格好なんですね?」松崎は笑った。

「そうだよー。一年に数回しかしない格好だよー」

「クリスマスだからですか?ブーツかわいいっすね」

松崎は身長差からどうしても合六を見下ろすようになってしまう。

合六は顔を赤くして黙った。松崎は見たことがない表情だった。

「顔赤いですよ?熱でもあるんじゃないですか?」

合六は目を吊り上げて松崎のふくらはぎを蹴った。必然とローキックになる。

合六はふくらはぎを摩っている松崎を前にして深く深呼吸をした。

「なんで何も言わずに辞めるんだよー。実験どうするんだよー」

松崎は目を大きく見開いた。

「知っているんですか?話していませんよね?」

「真中さんが朝からお前がいたって言っていた。まあどうやって部屋に入ったかは知らないけどねー。それで二時間くらいして戻ってきたらいなくなっていたって言ったの。でも実験棟にはいないって言っていたから、行きそうな所を探したんだよー。電話も通じないしさー」

「あ、ごめんなさい、電源切っていました」

松崎はそう言うと合六の手を握った。

合六の手は保冷剤のように冷たかった。

合六の顔は先程よりも赤くなる。すぐに手を振り払った。

「こんなに冷たくなるまで探してくれたんですね。ありがとうございます」

合六は二回目の深呼吸をした。

「でも見つからなかったからー。最後に見ていないのは東郷先生の部屋だと思って、見に行ったら、ドアの透明な部分から東郷先生と鹿島先生とお前が会話しているのが見えて。聞き耳立てていたら辞めるっていう話が聞こえたから」

合六の声のボリュームが後半になるにつれて小さくなっていった。

「ああ、じゃあ隠している必要ないですね」

二人の間に沈黙が流れていた。

ふと松崎は向かいの建物の方を見つめた。そして視線を合六に戻す。

「合六さん、ごめんなさい、もう行きますね」松崎は言った。

松崎は合六の横を通り抜けて図書館の方へと向かった。そこを抜けて食堂の方から大学を出ることにした。

「松崎!」合六が叫んだ。

松崎は歩みを止める。

「また・・・また来いよー。私、後一年いるから。まだお前の卒論終わってないんだからなー。実験手伝えよー」

松崎は合六の方を振り向かなかった。涙声の合六の言葉に、ただ右手を挙げて答えた。



都内のある建物の地下、男は廊下を歩いていた。廊下を歩く自分の足音がただ響いている。初めてこの廊下を歩いた時の事を思い出していた。あれから何回もこの廊下を歩いた。その度にこの音を耳にしていた。

すっかりと手に馴染んだカードキーを使ってその部屋の中に入る。

部屋の中には誰もいなかった。

ある時期まではこれは異常な状態だった。そしてある時期からはこれは平常になった。

男はゆっくりと部屋の中に入る。そのままの歩調で正面にあるPCの乗っているデスクに近づく。初めて来たときに置かれていた椅子はもうない。

男は綺麗に片づけてある机の上を右手の指でそっと触れた。

「坂口さん・・・どうして・・・」

男は両手を机の上に置いた。組織が動いて坂口の釈放までの段取りをつけている間に留置場で坂口は死んでいた。警察は自殺だという発表をしたようだったが、組織としては到底納得のできない状態だったためである。

坂口は手首、脇の下、膝裏、首筋が切断されており血の海の中に倒れていたという。

男は坂口から常々、次はお前がここに座って回せと言われてきていた。自分は器ではないと何度も言ったが、それならば自分の方が器としては適任ではないと言われた。そして最後には立場が人を作るのだと言った。

男は坂口が死んでから、今の立場になってその意味が理解できた。

その時、ドアを開錠する音が聞こえて、誰かが入ってきた。

「あら、ボス、いたのね」

「その呼び名はまだ慣れないよ」男は女の顔を見て言った。

女はゆっくりと男に近づいた。

「そうかしら?やっと呼び名に貫禄が追いついて来たわよ」

そう言うと女、火鳥真理恵は腕を抱くようにして立った。

「そう言ってもらえるとありがたいね」

「合六ちゃんとのお別れは悲しかったわね」

男、松崎将兵は火鳥を睨んだ。

「どうして大学にいたんだ」

「特等席で見ようと思ったのよ」

火鳥は松崎のその目を見返す。

あの時、喫煙所から見える向かいの校舎の四階の窓に火鳥が立って見下ろしていたのを松崎は見ていたのである。

「大学の方もすっきりして良かったじゃない?」

「草薙の作ったAIの破壊まで到達できたのは運が良かったな。笠倉建機の方は?」

「回収してすべて処分しているわ」火鳥は報告した。

「もう一つの方はどうだったの?」火鳥は目を細くして松崎を見た。

松崎は机に腰を掛けた。

「十分だったよ。塗師明宏がどうやって接触していたかも分かった」

「ああーその名前を聞くのは嫌」火鳥は右手の肘を摩っている。

松崎は無視して続ける。

「学生が良く出入りしている食堂がある。そこの窓際に座って一人で食事を摂っている人物をよく見かける。特徴からして塗師明宏だな」

松崎は火鳥を見た。その目からはすべてを見通すような一種のエネルギーが出ているようだった。

「さて仕事だ。出来るか?」松崎は感情を一切出さずに言った。

火鳥は口角を上げて微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

土木系女子(ドボジョ)のアンビバレントな日常 八家民人 @hack_mint

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ