第5話 上品な行列と土曜日
先月までの昼間の暖かさと夜の肌寒さがはっきりとしていた日々に比べて、十一月のR大学周辺は昼間太陽が照っていたとしても肌寒い。
最寄りの駅から大学までの道のりの間に運河がある。その運河を渡るために橋が架けられている。その橋から見えるR大学の敷地を区切っているフェンスに『R大祭まであと十三日』と看板が設置されていた。『R大祭』とは大学の学園祭の事である。看板の数字の部分は付け替えられるようになっており、今日現在であと十三日後に学園祭ということである。
土木工学科コンクリート工学研究室の研究室はそんな学園祭を楽しみにしている学生が多い。後期に入り、大学院生も学会が終わって卒論生や修士二年生は卒業研究に取り組むだけという状況である。その中でのお祭り騒ぎは息抜きになるためということが表向きの理由である。
裏の理由としては外部からやってくる他の大学生や高校生と何とか良い仲になれないものかと画策しているのである。
それは主に卒論生の男子である。
「ああ、早く学園祭にならないかな」金井が右手でマウスを操作しながら言った。
「楽しみだなーあと二週間だろう?」立花が壁に掛けられているカレンダーを見ながら言った。
研究室には今四年生しかいない。その大半が机に向かっている。作業している者もいればネットサーフィンを楽しんでいる者もいる。卒業研究に時間を使えるようになったと言ってもそれを本当に研究のために使うかどうかは本人次第である。それが大学という機関である。ここにいない卒論生は実験棟で作業をしている。
今の時間帯は実験実習科目の授業中であり、大学院生以上の学生と鹿島は授業を教えている。
基本的には科目の担当は東郷と鹿島であるが、東郷自身が直接実験棟で実験を教えるわけではない。講義系の実習項目に関しては東郷が講義を行っているが、実験棟で身体を動かす項目については助教の鹿島が主体となっている。
大学院生以上はティーチングアシスタント、通称TAとして大学側に雇われる形で授業を教えている。TAには大学院生以上しか採用されないため、卒論生は実験授業中に先輩と一緒に作業が出来なくなる。その場合は院生が四年生に授業中にやっておいてほしい作業を与える。実験授業で実験棟のスペースが使われてしまう場合は研究室でのデスクワークになる。現在研究室で作業をしている卒論生は実験棟でも作業ができない状況だった。
「どうせ女の子目当てだろう?」松崎が作業着で言った。松崎は先ほどまで実験棟で作業していたが、今は実験データを入力するために一時戻ってきていた。
「それが何か悪いのかよ」金井が言う。
「それくらいだろう俺らの楽しみっていうのはさ」飯田も援護する。
「いや、悪い意味で言ったつもりはないんだけどね。俺はただみんなで賑やかな時間を楽しむもんだと思っていたからさ」松崎はそう言うと研究室を出て行った。
松崎としては悪気があって言っているわけではなかったから、金井達に言われることが疑問だった。
五号館を出た松崎はすぐに右に折れるさらに右に折れて五号館の裏手に回った。土木工学科のプレハブの脇を抜けて実験棟の中に入る。長い廊下の奥に見える構造実験棟では多くの学生達が見えた。松崎は右手の練り場に続く扉を開いた。
賑やかな声の中に合六や塩田の声が響いている。
実験科目の授業ではおよそ百二十人の学生を対象としている。他の大学では実験系科目が選択式であるところもあるが、R大学ではすべての実験系科目が必修科目となっている。百名を超える学生を一度に教えることはマンパワーも実験棟の敷地面積としても無理があるため、約六十人ずつ二つのグループに分けて二日にわたって授業をすることになる。これだけ人数が多いのは私立大学ならではの現象と言える。六十人に分けた学生達はさらに一班五人程度に分けられ、全部で十二班が出来上がることになる。それが二日分で全二十四グループである。十二班に分けられた学生達をさらに六班ずつに分けてそれぞれ塩田と真中をトップとした大学院生達の実働部隊が教えることになる。つまり一日当たり、二つの実験項目が行われることになる。
本日は練り場でコンクリートの練り混ぜを真中のグループ、コンクリートの強度試験を塩田のグループが構造実験棟で行っている。松崎は練り場の脇にある恒温室で作業があったため、直接練り場に出なければ自分の実験をすることができた。松崎は学部生たちが実験をしている中、間を縫うようにして恒温室に入った。
松崎は実験に没頭した。単純な作業ではあったが、試験体の数が多いため手際よくこなさなければいつまでたっても終わらない。今日中に終わらせる量は決まっているために時間をかけすぎることはできなかった。
松崎はしばらく作業をして一息つこうと時計を見ると、あと少しで授業も終わる時刻だった。授業が終われば合六にも手伝ってもらうことができると考えた松崎は恒温室の外に出た。
練り場ではすでに実験のまとめが行われていた。実験授業はもう終わりである。
「以上が今日やったことねー。今日までの内容をレポートにまとめて来週の朝八時五十分までにレポートボックスに入れておいてねー」合六が喋っていた。
実験のレポートは実験項目が終わった段階で五号館二階の事務室前にあるレポートボックスに投函することになっている。スチール製のボックスで前面に蓋が付いており南京錠が付けられている。一段で四つに区切られており、それぞれに蓋が付けられているボックスでそれが二段になって設置されている。この実験だけではなく他の実験科目のレポートボックスにもなっているために蓋に科目名が書かれた札が付けられている。
「じゃあ。今日回収した前回の実験のレポートで遅れた人返却します。追加の課題をつけてあるのでそれをこなして今日までのレポートと一緒に来週までに提出してくださーい」合六が手元にある数部のレポート用紙の束を見せて言った。
合六が四人の名前を読み上げると、そのうち三人が怒りの声で合六の元までやってきた。
「ちょっとおかしくないっすか?僕らちゃんと時間までに入れましたよ」一人の学生が語気を荒げて言った。後ろにいた残り二人の学生もおかしいだろう、と合六に詰め寄っている。
背の低い合六は見上げるように男子学生三人を見た。
「いーや、君らは遅れたの。間違いないよー。さっさと授業終わらせたいから下がってくれる?」
合六は微動だにせずにそう言った。
「いい加減なこと言わないでくださいよ」後ろの二人の一方が前に出ようとする。
松崎は身構えた。何かあれば飛び出せるようにしていた。
「TAさん、僕も言っていることが変だと思います」
別の方から声がした。
合六とクレーマーの三人が見ると、眼鏡をかけた見た目に真面目そうな学生だった。彼もまた先程合六から名前を呼ばれていた。
「僕は遅れたことに関して文句はありません。昨日レポートをやっているうちに寝てしまって、何とか午前中に仕上げて持って行きました。すでにボックスの方は回収しているだろうと思って研究室に提出しに行こうと思っていました。五号館に着いたのは十一時頃だったと思います。研究室のドアをノックしようとしていたら二回からTAさんが降りてきたじゃないですか」
眼鏡の学生は合六を指差した。
「僕のレポートはその時にお渡ししましたよね?僕のレポートは遅刻になりますからそれは良いのですけど、彼らのレポートは遅れたとTAさんは言えないはずですよね?」
眼鏡の学生は手を前で組んで体操の休めのように足を広げて合六に言った。
「ほらー。自分も提出時刻よりも遅く回収したんだろう?俺らのレポートは遅刻じゃないんだよ。さっさともう一度回収してくれよ」
先頭に立つ学生はレポートを合六に差し出した。
合六は一呼吸すると、クレーマー三人を睨んだ。
「あー眼鏡君の時ねー。よく見ているね。確かに回収したのは十一時くらいだったかな?」
合六は言った。
「ほら認めたな」先頭の学生は笑いながら言った。
「でも君らのレポートは遅刻扱いだよ」合六は言い切った。
「まだ言っているよ」後ろの二人の内の一方は時間内にちゃんと提出できた学生達に向かって言った。ちゃんと提出した学生達はさっさと終われと言った顔で見ている。
「確かに私は提出時刻きっかりに回収してないよ。レポートの回収は本来先生たちがやるんだけどねー。今日は時間までに先生が回収できないからって私が頼まれたの。でも八時五十分って一時限目の開始時刻だからね。君らは一限が無いから良いだろうけれど土木の修士一年は講義があるのよー。講義は五号館のゼミ室でやっているから頑張れば間に合うかもしれないけどねー。事務室にボックスの鍵があるからそれを受け取って鍵を開けて回収して、鍵を閉めて返却してってやっていたら結構時間かかるのよ。百二十人くらいのレポートだよ?君らの成績に関するものだからちゃんとレポートを回収したいからさー」
合六はいつもの口調であるが淡々と話した。
クレーマーの学生達は腕組みして聞いている。
「だからちょっと考えたんだー。八時五十分になったら、これをボックスに入れておくの」合六は手元のクリアファイルから何も書かれていないA4サイズのレポート用紙を取り出した。
クレーマー三人は頭を傾けるが、他の学生達は半笑いで頷いている。
「私はこの用紙をボックスに入れてすぐに講義に行ったんだー。それで、講義が終わったらゆっくりと鍵を開けてレポートを回収したの。そうしたら三人分のレポートが私の入れた用紙の上に置いてあったからねー。間違いなく遅刻だよー」
合六は三人の学生を見上げながらニコッと笑う。
「ちなみに、今見せているのは適当にファイルに挟んであった紙だけど、私がボックスに入れたのには『これより上のレポートは遅刻』って書いておいたよー。誰か他の人が気を利かせて回収してくれた時用にねー」
そこで合六は一歩前に踏み出した。
「わかったら大人しく追加課題をやって来い!」合六は怒鳴った。
クレーマーの三人は大人しく引き下がった。後ろに並んでいる正しく提出した学生達からの視線にも耐えられなかったようであった。
「はーい、では今日の授業はこれで終わりまーす。お疲れ様でしたー」合六の元気な声が練り場に響いた。
学生達がぞろぞろと練り場を出て行く。その後姿を見送りつつ、合六に真中が近寄った。騒動の最中でも真中は学生達の後ろでその様子を見守っていた。これは真中が合六が騒ぎをどうやって収拾するのかを見ていたということだった。
「菜々子ちゃんお疲れ様」真中はそう言って合六に言葉をかけて微笑んだ。
「真中さんお疲れ様でした。最後はごめんなさい」合六は申し訳なさそうな顔をした。
「機転が利いていて良かったわね。でも、今日授業があったら私か塩田君に頼めば良かったじゃない?」真中は指摘したが、顔は笑顔のままである。それは皮肉を込めているわけではなく、合六にもっと頼って欲しいという意味が込められていた。修士二年にもなると講義は全くないため自分の研究活動に時間が費やせる。
「えへへ、そうですねー。でも先輩方二人にお願いするのも少し気が引けてしまってー」合六ははにかむように笑うとそう言った。
松崎はそれを遠目に見ていた。まるで母親と子供みたいだと感じた。
真中が先に研究室に戻ると言って練り場を出たところで、松崎は合六に歩み寄った。
「合六さん」松崎は合六に声をかける。
「おーごめんねー。作業終わった?」
「あ、いえ、えーっとまだ少し残っています」
「そっかー。じゃあ、あとちょっと待ってて、後片付けだけしてから行くから」合六はジャージの裾を巻くって言った。
「あ、あの」松崎は片づけをしようとしている合六の後姿に声をかけた。
合六は振り向いて松崎を見た。顔で『どうした?』と聞いていた。
「えっと自分は合六さんの下で卒業研究ができて良かったです。いつか言おうと思っていたんですけど」松崎は合六の目を見て言った。
しばらくの沈黙。
「で?」合六は振り返った状態のまま言った。
「え?それだけっす」
松崎が言ったと同時に身体を折り曲げて腹部を押さえて後ずさった。合六が後ろ回し蹴りを繰り出したからだ。
「普通その後は告白だろー」合六は叫んだ。
「そんなのは合六さんの勝手でしょう」松崎は掠れた声で言った。
「うるさいっ」そう言って合六は後片付けを始めた。
「おかしいな・・・なんでこんな事になるんだろう」松崎は合六の背中に呟くように言った。
松崎は腹を押さえたまま恒温室へと戻っていったが、松崎に背中を向けている合六の口元が緩んでいるのは松崎の位置からは見えなかった。
作業を終えた合六と松崎が研究室に戻ったのは十八時を回った頃だった。実験棟を出る時には中に二人以外はおらず、中の窓や扉の施錠などを確認する必要があった。それらが終わり、着替えも済ませた二人が実験棟を施錠して五号館に戻ろうとすると五号館の方からコンビニの袋を持った人影が見えた。外はすっかり日も落ちているためにその人影が無津呂風音だとわかるのに二人は十分近づかなければならなかった。
「あ。無津呂―」合六は手を振る。
無津呂の方も気が付いたようだった。無津呂は実験棟と五号館との間にあるプレハブを自分の個人研究室のようにしている。
「ああ、合六」無津呂は素っ気なく言うとそのまま近づく。無津呂は背が低くまるでカエルのような容姿をしている。
「ごはん買ってきたのー?」合六はコンビニの袋を見て言った。
「ああ、そうだよ。ほら」無津呂は袋を持ち上げて見せた。無津呂はいつも話のトーンが低く、暗い性格だと思われることが多い。しかし正義感が強い性格であるため、困っている人がいたら見過ごせない。そのため普段の話し方で損をすることが多い。
「ちゃんと炭酸水買っているね。好きだもんねー」合六は笑った。
「ストックが切れてしまったんでね。合六は?あ、そうか、今日は鹿島会か」無津呂が言った。
鹿島会とは研究室での飲み会の名称である。飲み会には冠が必要だろう、という東郷の発案で助教の鹿島の名前が付けられている。毎週一回開催される飲み会であり、来客も時間があれば参加するという飲み会である。そこで出る料理やお酒、会場設営などは卒論生が準備する。この会費は学生がワンコインであり大人はその倍を支払う形になっている。それらの会費をやりくりして飲み会を運営するのである。
今日はその鹿島会の日であった。会のスタートは十八時からであり、すでに始まっているが、実験で遅れる場合などでも終わってから参加すれば良い。
「そうだよー。そこでお腹を満たして帰るのです」合六は腰に両手を当てる。
「いつも楽しそうな声がしているよね。研究室の前を通ると声が聞こえてくるよ」無津呂は全く顔を変えずに言った。その顔は楽しそうには見えない。
「じゃあ、俺は実験があるから」無津呂はそう言って片手を挙げるとプレハブへと入っていった。
二人はそれを見送って歩き始める。
「先輩の感情が良く分かりませんでしたね」松崎が言った。
「え?そうだった?めちゃくちゃテンション高かったよ?」合六は前を見て言った。
松崎は無言で合六を見るが、すぐに前に向き直る。
「ちょっと俺には難しかったですね」
「そうかなー。二週間一緒にいればわかるよー」
二人が五号館の中に入る頃にはすっかり空が夜の色に染み渡っていた。
「すいませーん。遅れましたー」合六が元気よく研究室の扉を開けると、中は賑やかな雰囲気に包まれていた。
「おう、お前らさっさとこっちに来て飲め」東郷が威勢よく声を上げた。
飲み会は部屋の中央のソファや打ち合わせテーブルがあるスペースで行われていた。テーブルの上にはカセットコンロの乗せられたキムチ鍋がグツグツと音を立てている。
合六と松崎はそれぞれ空いている席に腰を下ろした。すぐさま飯田が合六に缶ビールを手渡す。松崎は冷蔵庫から自分で取ってきたようだった。
「合六、実験だったのか?」東郷の向かいに座っている鹿島が合六に言った。
「あ、はい、そう・・・ですね」合六は言いづらそうに言った。
「もう十八時回っているぞ?」鹿島は言った。
コンクリ研では十八時以降の実験は禁止されている。それ以降の実験は教員の安全管理が難しいということに起因する。
しかし、実際に学生達は十八時以降も実験をしている。十八時以降は実験を禁止するというのは、十八時までに終わるような実験計画を組む、というのが鹿島の意図することである。
「良いじゃねぇかよ、鹿島さん。ちょっと過ぎただけだろう?」東郷が鹿島を宥める。
「先生の発案ですけどね」鹿島は言った。
「うーん、まあ、そうか」東郷は合六に顔を向けた。
「というわけで合六、以後、気を付けるように。はい、以上終わり。よし、改めてカンパーイ」
東郷はジョッキを差し出す。全員が東郷のジョッキにグラスや缶を合わせる。鹿島もしっかりとジョッキを合わせていた。
鍋が器に取り分けられてそれぞれの手元に行きわたる。後は飲みながら、食べながらの時間が過ぎていく。
二時間ほど経ってから、鍋も空になりお酒も落ち着いてきた。雰囲気も穏やかになりつつ、四年生も使い終わった食器を洗うなど、後片付けをしていた。
「鹿島さん、笠倉建機さんからメール来た?」東郷が鹿島に言った。
「いえ、まだ来ていませんね」鹿島も答える。
「だよなぁ。じゃあこっちから連絡するわ」東郷はソファから立ち上がった。
「そんじゃあな。今日もおいしかったよ」
研究室の各々がお疲れ様でした、と挨拶をした。そんな中を東郷は片手を挙げて研究室を出て行った。
「笠倉さんって誰ですか?」阿部が鹿島に言った。
「あれ?笠倉って笠倉建機ですか?」児玉が鹿島より先に反応する。
「そうそう。笠倉建機さんだよ」鹿島はまだキムチ鍋を食している。
「共同研究ですか?」塩田が前のめりで尋ねる。
「いや、そういう訳じゃないんだけれど、ほら今自動化施工が注目されているでしょう?」鹿島は食べ終わった器を傍にいた立花に渡す。立花はそれを持ってシンクに立っている佐々木と上条の所へと持って行った。
「自動化施工って何ですか?構造物を自動的に作ってくれるシステムですか?」
「えーっと、ちょっと違うかな。まあそれが目標なのかもしれないけれどね。俺も別に専門じゃないから、大雑把な説明しかできないけれどね」鹿島はそう言うとジョッキのビールを飲み干した。
「自動化施工っていう言葉だけど、ICTによる自動化施工って言った方が正確かもしれないね。ICTっていうのは情報通信技術のこと。かなり発展している分野だからね。これを建設現場で適用しようっていう動きが出ているんだよ。これは建設現場に限ったことじゃないけれどね。製造分野なんかではもう少し前からICTを取り入れているよ。例えば車なんかは大きな部品はすでに機械が組み立てているでしょう?建設現場でもそこを目指しているんだよね。完全なオートメーション化ってやつさ」
鹿島は足を組んで話を続ける。四年生もある程度会場の後片付けが終わり、洗い物も済んでいた。数人はゴミ出しに出て行っていた。
「今言われている、いわゆる自動化施工ってやつは、まず測量をする。それからそのデータを基にCADを使って設計、そしてその三次元データを使って建設機械で自動化施工する、最後に出来上がりのチェックっていう工程に大きく分けられる。今回笠倉建機から話が来ているのは建設機械の自動化施工についてだね」
「さっ言っていた情報化施工とは違うんですか?」真中が質問する。手にはお茶のペットボトルが握られている。
「情報化施工っていうのは、うーん、さっき言っていた計測データや設計データを建設機械に入力して施工するっていうのもそうなんだけれど、遠隔操縦も含まれるし、施工状況をモニタリングしながら施工するっていうのも含まれるね。トンネルを掘る時なんかは常に地盤の膨らみとかを計測しながら掘削しているよ。一色さんのところの現場もそうだったね。それらの最終的な到達地点としては建設機械をロボット化して自律的に作業してもらうっていうことじゃないかな」
「そう言えば坂口さん残念でしたね」ゴミ捨てから帰ってきていた立花が言った。
次の瞬間、矢木に口を押さえられて部屋から連れ出された。室内に残された面々は真中の俯いた顔を見た。
先月の終わりに、拘留されていた坂口が死んでいたことが発覚した。その知らせが片山を通じて東郷と鹿島に連絡があったのである。両者とも片山と真中の親密さを知っていたためにその事を伏せていた。しかし、留置場内での死亡ということがマスコミに取り上げられニュースになってしまった。それを真中は耳にして塞ぎ込んでいたのである。
研究室としてはそっとしておくということで真中に特別な対応はしないという方針を取った。それが真中のためにもなるという判断だった。
「よし、今日はお開きにしよう。みんな今日もありがとう。料理美味しかったよ」鹿島がそう言って鹿島会はお開きとなった。
二日後の金曜日の午前十時、鹿島と修士一年一行は笠倉建機を訪れていた。この週の鹿島会の翌日、鹿島から次の日に笠倉建機に向かうために修士一年を対象とした見学会の参加者を募る連絡があった。
真っ先に手を挙げた合六と児玉、そして矢木が行くことになった。さらに松崎もどうしても行きたいということだったので鹿島は特別に許可した。修士一年を対象としたのは修士論文や卒業論文の実験を優先して欲しいという東郷と鹿島の意向があったためである。つまり修士二年と四年生については強制ではない、という程度の意味であり希望する学生を断る理由は鹿島にはない。
笠倉建機は可士和市にある建機メーカであり、自社製品のラインナップは大手メーカと並ぶくらいに豊富である。また、オーダメイドで特殊な用途に使われる建設機械も請け負っているため県内外からも頼られている。
会社へは大学から鹿島の車でやってきた。鹿島の車は大型のミニバンで、八人まで乗車できるため参加者全員が鹿島の車に乗ってやってきた。
笠倉建機は可士和市の市内から内陸側へと十分ほど車を走らせた国道沿いにある。会社の敷地は高さ四メートルほどのスチールパネルで囲むようになっており、周囲の住宅街の光景から浮いている存在である。正面の門から入ると広い敷地に重機がいくつか並んでいる。その奥に社屋が建っている。社屋は横長で二階建てだった。鹿島の車が敷地内に入ると、すぐ右脇にある乗用車の停車しているスペースに停車した。社員用の駐車スペースと外部からの客用の駐車スペースが一緒になっている。そのうち客用の駐車スペースに鹿島は車を停めた。駐車スペースは入り口から見て二列になっており、壁際が社員用、建物側が客用となっていた。地面に白い枠が二十個ほど引かれており、その枠内に社員用、お客用と白い文字で書かれていた。社員用は空きがない状態であり、客用には車は止まっていなかったため、鹿島は奥の壁際の駐車スペースに停車した。
車から学生達が降りるのを確認した鹿島は車を施錠した。
「うわっ」
後方で叫び声がして鹿島が振り向くと児玉が車の後方で倒れていた。
「何?どうした?」鹿島が駆け寄る。合六達も駆け寄っていた。
「すみません、躓いちゃいました」
児玉は松崎が差し出した手に対して右手で制するようなポーズを取った。自分は一人で立てるという意思表示だった。
児玉は鹿島の後方に停車していた車のボンネットに手を置いて立ち上がった。
「お前さ、そんなところに手を置くなよ」矢木が注意する。
「ああ、悪い」児玉は矢木に言ったが、本来であれば車の持ち主に対して言うべき台詞だった。
「何だろう。老化かな」児玉が服を払いながら言った。
「お前みたいな若者が老化を語るな」鹿島は腕組みしていった。
「人間一日一日死へと向かっているんですよ。年齢は関係ありません」児玉は空を見ながら言った。
「哲学が過ぎますよ」松崎が諭すように言った。
「それにしても郊外っていうイメージだったけれど、そこまで郊外でもなかったな」児玉が周囲を見渡して言った。照れ隠しのようでもあった。
「国道沿いにあるからな。重機の搬出とかに便利なんじゃないか?」矢木が後ろから声をかけた。
「まあでも可士和にもこんな場所があるとはね。ゆったりとした雰囲気で長閑だね」児玉が辺りを見回しながら言う。
その時、遠くからサイレンの音が聞こえてきたため全員が入り口の方を見ると、パトカーが二台連なって鹿島らが来た方向へと向かっていた。
「騒がしいな」矢木が言う。
「先週強盗が市内の方であったんだろう?」鹿島が言った。
「え?知らないです。そうなんですか?」矢木が言った。
「マンションのお隣さんが言っていたから間違いないと思うよ。まだ捕まってないからここら辺まで捜査しているんでしょうね」鹿島はスマートフォンで何かを確認している。
「お隣さんの情報網をかなり信用しているんですね」矢木が目を大きくして言った。
「そう、俺にとっては信頼できる情報屋さん。主婦の情報網は侮れないぞ」鹿島は腕組みをしてそう言った。
「壮観だねー。あ、ホイールローラーだー。バックホウもあるー。」合六は嬉々とした表情で言った。
「重機にそんなにテンション上がりますかね」松崎が冷静に言った。
「どう?重機系女子って流行るんじゃないか?歴女とかと同じようにさ」鹿島がはしゃいでいる合六の背中を見て言った。
「歴史の重みと重機の重みを一緒にするのは女子に失礼ですよ」矢木がにやりと笑って言った。
「一人上手いこと言ったみたいな顔しているから腹立つな」鹿島は松崎に同意を求めるように言った。
「一応後輩なんで同調する発言は控えさせていただきます。でもなんで女子に失礼なんですかね」松崎は冷静に言った。
「先生、言わせてあげてください。研究室同期の中でも常識人と言われる人間が、頑張って言った上手いことですから」児玉が同情の眼差しで矢木を見た。
「俺はそういう発言も許されないのか?」矢木はそんな三人に向かって呟いた。
「あーモーターグレーダーもあるー。渋いー」合六は飛び跳ねるようにして喜んでいた。
一行は喜ぶ合六を引き摺るようにして社屋の中に入った。
正面玄関から中に入ると受付と簡単な応接セットが見えた。
受付の女性に鹿島がR大学から来たことと笠倉の名前を告げた。事前に学生帯同で来ることは告げている。
「はい。社長は今会議中ですが、もう少しで終わる予定ですのでそちらでお待ちください」
鹿島は入り口脇の応接セットの方を振り向く。応接セット脇には笠倉建機が取り扱っている建機のミニチュアがケースに入って飾られていた。
しかし今そのミニチュアは鹿島の位置から見ることはできなかった。ガラスケースにへばりつくようにして合六が中を覗いていたからである。
「合六、お前、離れろ」矢木と児玉が合六をガラスケースから引きはがそうとしているが、どこを掴んで良いのか躊躇っていた。
鹿島は正面を向いて唖然としている受付の女性に深くお辞儀をすると衣擦れの音も無に合六に近づき脇を羽交い絞めにして引きはがした。
「お前ら、合六くらいで右往左往するな。どんな手でも使って良いから大人しくさせろ」鹿島は三人の純情な男子学生に冷徹なダメ出しをした。
「おい、合六、お前ロードローラに引いてもらうか?最近太りすぎのお前の身体がスリムになるぞ」
鹿島は怒りが混じってはいるが、努めて冷静に言った。
「最悪それでも良いかも・・・」合六は大人しくなったが人には見せられないような弛緩した顔になった。
鹿島は受付に背を向けるように合六を座らせた。指導者として教え子の悲惨な顔を公にするわけにはいかないという判断だった。
それから五分ほど経過し、合六の顔も落ち着いてきたところで受付の奥の扉が開いた。
「ああ、鹿島先生、お忙しいところをすみません」
小柄な体格に禿頭で脇に少し残っている髪の毛も白髪ではあるが、背筋の伸びた老人が入ってきた。背は合六よりも少し高いくらいである。上着として作業着のブルゾンを着ており、その下はワイシャツ、下はスラックスだった。
「先日はご連絡ありがとうございました。東郷先生は所用で来られませんが代わりに若輩者が馳せ参じました」鹿島は挨拶をした。
「いえいえ、とんでもないですよ。お忙しい所ありがとうございます」笠倉は丁寧に返答した。
「お客さん用の駐車スペースに一台だけ停めるのは恥ずかしいですね」
「ああ、そうですね。今日は先生方しかお客さんはいませんし、社員用の駐車スペースも空きがないんですよ。車通勤したい社員が多いんですな。空き待ちになっている状況です。広くしないといけませんな」笠倉は笑った。
「それと学生の帯同まで了承していただいて感謝しています」
「学生さんもこういった建機は間近で見ることは無いでしょうからね。良い機会ですから何か得るものがあれば良いですね」笠倉は合六達に向かって言った。
「気の利いたこと言えないかもしれませんがよろしくお願い致します」鹿島は言った。
「見ていただいたらそれだけで良いのですよ。学生さんは何年生ですかね?」笠倉は鹿島と合六達を交互に見た。
それを見た矢島が自己紹介をする。続いて児玉と合六そして松崎が挨拶をする。
「修士一年生と四年生ですか。ということはもう就活とか考える時期ですか?この会社もぜひ候補に入れておいてもらえれば嬉しいですね」
「はーい、是非、前向きに考えています」合六が目を輝かせた。
「楽しいですよ。まあ、そう言ったことも含めて、まずは社内を案内しますよ」笠倉は先程入ってきた扉に向かって歩いて行った。鹿島達もそれに続く
笠倉が入ってきた扉を抜けると右手に階段があり、左手には廊下が伸びていた。笠倉は廊下の方を進む。
「天井が高いですね」鹿島が言った。
「そうですねえーっと五、六メートルくらいあるんじゃなかったかな」笠倉は首を傾げながら言った。
廊下の左手はオフィスになっており、営業部、総務部と言ったプレートが見えた。廊下と室内を隔てる壁にはガラスが嵌められており、廊下から室内が一望できるようになっている。廊下の右手には開発してきた建機の紹介用のパネルが並べられていた。
「後で建機の紹介はさせてもらいますが、おおよそここにあるような建機が我社で扱っている建機です」笠倉は歩きながら言った。
「すげー、学校みたいだ」オフィスの方を見ていた児玉が言った。
「はは、確かにそうですね。こうした理由も学校の教室がそうなっている理由と同じかもしれませんね」笠倉は歩きながら児玉の方を見て言った。
「何でしたっけ?」児玉は返答した。
「まあ、私も今の学校がこのような教室にしている理由は調べてないのですが、我社の方は風通しを良くすることが目的ですね。外から誰がいるか一目瞭然ですからね」笠倉は笑いながら歩いている。
営業課と経理課を通り過ぎると廊下の端まで到着した。廊下の突き当りは倉庫になっており、その左側には階段があった。
笠倉は階段を上る、後から鹿島達も続く。二階に到着すると一階に倉庫があったところには社長室があった。
「ここが私の部屋です。ここでいろいろ建機のことを考えながら仕事をしています」
笠倉はそう言うとポケットから鍵束を取り出して扉のノブに差し込んだ。鍵が開かれた社長室に笠倉は入り電気をつけた。鹿島達は社長室へと通された。
社長室に入ると、左手に空間が伸びていた。左右の壁には窓があり、扉の正面には豪華なデスクと椅子が置かれていた。扉と机の間には接客用のテーブルとソファが置かれている。扉側の壁には本棚があり、仕事関連の書籍や論文の類も並んでいた。
「どうぞ。狭い部屋ですが入ってください」笠倉はそう言うと机の方に近寄った。
矢木と児玉はすぐに本棚の中身を確認するように眺めた。合六は左手の窓際に並んでいる建機のミニチュアの所に早足で歩いて行って眺めた。
鹿島と松崎はその場に立ち尽くしている。
笠倉は机の上に置かれた電話の受話器を取り上げて、本体の方のボタンを押した。
「ああ、笠倉です。簑島くん?鹿島先生達がいらっしゃったから、よろしくお願いします」それだけ言うと笠倉は受話器を置いた。
「ああ、すみません、先生そちらにどうぞ。今担当者を呼んでいますから」笠倉はそう言うと鹿島にソファを進めた。
「あ、では失礼します」鹿島はソファに着席する。松崎もそれに続く。
「おい、君らも座りなさい」鹿島は修士一年達に向かって言った。
児玉と矢木はそれに気づいてすぐに戻ってきた。合六はまだミニチュアを食い入るように見ている。
「ああ、先生、大丈夫ですよ。珍しいものもあるでしょうから、じっくり見せてあげてください」笠倉は机の横に立って言った。
「本当に礼儀のなっていない学生で申し訳ありません」鹿島は笠倉を見て言った。
「いえ、興味があっての事でしょうから、問題ないですよ。それよりも自分の主張をあそこまで出せるのは今の若い人にしては珍しいのではないですか?」
笠倉は合六の後ろ姿を見て言った。
「ただのアホなんですがね。そう言っていても私も少し気になっているんですが、後ろの棚にある賞状は・・・経産省のものづくり大賞ですか」鹿島は笠倉の後ろに置かれているキャビネットに仕舞われている賞状とメダルが置かれていた。メダルは透明なパネルの中に収められていた。パネルは高さが三十センチ、幅が十五センチほどの細長いもので、メダルはパネルの上部に収められていた。その下に社長を含めた社員たちとの写真が入れてある特注のものだった。
「ああ、そうです。これは今日見てもらうシステムではなく前に開発した建設機械で受賞させてもらいましてね。大変注目されました」笠倉は謙虚に言った。
「それは素敵ですね。では今回の自動化施工も応募されるんですか?」
「そうですね。草薙先生の意思を勝手に継いでいると思っているものですから、草薙先生の弔いのためにもまた出そうと思っているんですよ」笠倉が賞状とメダルを見ながら言った。
二か月前に草薙が謎の失踪を遂げた。家族は捜索願を出したが依然として発見されていなかった。草薙は完全自律型のドローンを研究しており、そのドローンを使って構造物の維持管理が可能かどうかの研究をしていたのである。ある日の実験に合六達も呼ばれて行ったが、そこでドローンの墜落事故が起こった。また同日、所属しているK大学の研究室で火災が発生し、研究資料および開発したドローンは失われたものと考えられていた。しかし、一緒に開発していた修士二年の学生のもとに、開発したドローンが何故か一体送られていた。学生はそれを基に准教授らと研究を進めることが出来たのである。
「そうでしたか。確か草薙先生とは共同研究をしていたとお聞きしましたが」鹿島は言った。
「そうです。このシステムの開発当初からタッグを組んで研究していました。学生の小峰君も残念だと思うよ」笠倉は言った。
小峰とは草薙と共にドローンを開発していた修士二年の学生である。
「社長―凄いですねー。ここならどれだけいても飽きませんよー」合六が早足で戻ってきてソファに座った。
「合六、お前な、お邪魔している方なんだから少しは落ち着いたらどうだ?」鹿島が諭すように言った。
「ごめんなさい。でも楽しすぎて」合六が申し訳なさそうな顔で言った。
「鹿島先生、本当に大丈夫ですから、気になさらずに」笠倉が笑顔で鹿島に言った。
場が少し悪い雰囲気になってしまったところでドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」笠倉が威勢よく声を上げた。その声は場の空気を少し変える威力があった。
「失礼します」
体のふくよかな男性が部屋に入ってきた。上下作業着で髪を短く刈り込んでいる。
鹿島達は立ち上がって会釈した。それを見て男性も会釈をする。
「彼は開発部長の簑島です」笠倉が紹介をする。
「どうも初めまして。簑島です」簑島は胸ポケットから名刺ケースを取り出す。
鹿島もジャケットの内ポケットから名刺ケースを取り出して簑島と名刺交換をした。
「R大学で助教をしている鹿島です。今日はよろしくお願い致します」鹿島は会釈しながら言った。
「こちらこそよろしくお願いいたします。近い場所にありますけどなかなか会う機会はありませんでしたね。これからは何かありましたらよろしくお願いします」簑島は鹿島を見て言った。
「こちらこそ、お役に立てるかわかりませんがよろしくお願いします」
「簑島さん、今日の予定はどんな感じになっていますかね?」笠倉が二人の会話が途切れたところで入ってきた。
「はい。まずは自動化施工を実際に見てもらおうと思っています。どんなものかっていうのは実際に見てもらった方が早いですからね」簑島は言った。
「見学は裏で?」笠倉が入り口から見て右手の窓を指差した。
「はい。それを考えています」
「わかりました。じゃあ行きましょうか。あ、準備はもう?」笠倉は一歩踏み出して言った。
「はい。竹下君が準備しています」簑島はドアの外を指差した。
笠倉は窓に近づいて左側の窓を横に開いた。外を確認してから窓を閉める。
「はいはい。じゃあ皆さんまた下に行きましょう」笠倉がソファの後ろに立って言った。
鹿島と学生達は立ち上がり笠倉と簑島に続く。鹿島らが退出するまで笠倉が扉を押さえて待っていた。全員が恐縮しながら退出する。全員出たことを見届けると笠倉はもう一度部屋の中を見渡し、部屋の灯りを消してから扉を施錠した。
「次はこのフロアを説明しましょう。さあ、こちらへどうぞ」笠倉はまた先頭に立って歩き始めた。その後ろに簑島が続き、後ろを鹿島達が歩く。
「このフロアは設計部と技術部があります。技術部の方が大きいですね。設計部もそれなりには大きいですがね」笠倉が歩きながら言った。
廊下の左手は一階と同じく窓は無く、パネルやテレビ出演時の様子などが掲示されている。右手にあるオフィスは一階と同じ間取りではあったが、笠倉が言った通り技術部のフロアが広く取られていた。
笠倉は技術部が仕事をしている部屋の前で立ち止まり鹿島達を振り返った。
「ちなみに簑島さんは技術部に所属しています。仕事風景でも紹介しようと思ったんですけどほぼ全員がパソコンに向かっていることがほとんどですね」笠倉はオフィスの中を覗いてから簑島に言った。
「そうですね。自動化施工では新しく建機を製作するということは少なくともうちではないですからね」困ったような笑顔で簑島が答えた。
「また、仕事風景は次回の時でお願いします」鹿島も困った顔で返事をした。
「そうですか、じゃあ下に向かいましょうか。あ、そう言えば簑島さん竹下君は?」笠倉が言った。
「朝一度出社してからそのまま自分の車で工場の方に行ってもらっていますね。先程電話があって先生方が丁度社屋に入って行くところが見えたと言っていましたからもう試験場にいるはずです」
簑島は笠倉に向かって言った。
「工場?」合六が首を傾げた。
「見当たらなかったね」矢木も児玉の方を見て言った。
「ああ、工場はね、同じ敷地内にはないんだ。車で十分ほど市外へ向かった走ったところにあるんだ。流石に騒音の問題があるからね」笠倉が合六達に向かって言った。
各部署を一通り見て回った一行は社長室と反対側の階段に差し掛かった。
「あ、しまった」笠倉が手を額に当てて口を歪ませた。
「どうしたんですか?」鹿島が言った。
「今日の資料机の上に忘れてきてしまった」笠倉は簑島を見た。
「あ、では私が取ってきましょうか?」簑島は笠倉に向けて言った。
「そうか、ではお願いしようか」笠倉は鍵を取り出して簑島に手渡す。
「施錠と消灯を忘れないようにしてくれな」笠倉は念を押すように言った。
「大丈夫です。先に試験場へ向かっていて下さい。すぐに追いつきます」簑島は来た道を戻って社長室に向かう。
それを見送ると一行は階段を下りて一階に戻った。受付の脇を通り抜けて外に出る。笠倉はすぐに左手に折れて駐車スペースと社屋の脇を通って裏手に向かう。
「笠倉さん、今我々荷物持っているんですが車に置いてきても良いでしょうか?」鹿島が笠倉に提案した。
「ああ、そうですね。その方が良いと思います」
笠倉の了承を貰った鹿島らは車に荷物を置いた。
その間、鹿島がずっと不審そうな顔をしていた。
「先生どうしたんですか?体調が悪いんですか?」矢木が鹿島の顔色を見ながら言った。笠倉に聞こえないような声量で発言するところが矢木の気遣いでもあった。
「いや、体調は大丈夫だよ」そう言うと鹿島は顎を摩りながら黙った。矢木も鹿島から体調が悪くないと言われたためにそれ以上言うことはなかった。
全員が荷物を車の中に入れたことを確認すると鹿島は車を施錠した。
「お案たせしました。よろしくお願いします」鹿島は待っていてくれた笠倉に言う。
「いえ、では参りましょうか」笠倉はまた歩き出した。
敷地の四方を囲む壁面のうち社屋の裏手にある壁面の一ヶ所が途切れている。
その奥からはエンジン音が聞こえている。
「あの先が社の試験場になります」笠倉が言うと一行はその門に近づく。
「あーバックホウだー」合六がおもちゃを見つけた子供の様に走って近づこうとする。
「ちょっと待って」笠倉が大声を出した。
その声で合六は急ブレーキをかけた。勢いがついていたために前傾姿勢で止まる。
「目の前をよく見て」笠倉が早足で近づく。本人としては走っているのかもしれない。
合六が良く見ると赤いカラーコーンが四つ並べられており、コーンバーがその間を仕切っている。
鹿島達も合六に追いつく。
「お前な、本当に落ち着いたらどうだ?」鹿島は周りからわかるくらいに怒りに震えた声をしていた。
カラーコーンで区切られたその奥の地面がわずかに濡れていた。コーンバーには紙が貼りつけられており、『コンクリート硬化中につき立ち入り禁止』と記載があった。
「あ、危なかった」合六は座り込んだ。
「コンクリートじゃなくて建機の方にしか目がいないのは問題な気がするな」児玉が呟いた。
「いや、こちらも説明しておくべきでしたね」
笠倉が息を切らしている。
「重機が行き来するんでどうしてもアスファルト舗装だとすぐにダメになるんですよね。だから敷地内はコンクリート舗装になっているんです。それでここは試験場に続く通路だから摩耗も激しくてね。今朝早くに生コン屋さんに来てもらった土間コン打ってもらったんだ」笠倉は説明をした。
「お前ここに来た時に舗装がコンクリートだったことに気が付かなかったのか?」矢木が言った。
「それは気付いていたよー。でもコンクリートの養生中とは思わなかったからさー」合六は言い訳をした。
「思い込みは思考を鈍らせる。ましてや僕らの分野なんかは人の生死に関わる事故が起こる可能性も常にあるからな」鹿島が諭すように言った。
「合六さん、今日はおかしいですよ。少し落ち着きましょう」松崎がまだ座り込んでいる合六に手を貸す。
「すみません」立ち上がった合六は俯いて言った。
「笠倉さん、ご迷惑おかけして申し訳ありません」鹿島は頭を下げた。
「いえいえ、全く迷惑ではないですよ。土間コンも無事ですしね」笠倉は笑顔で言った。
「そこまで建機を好きになってくれてこちらとしても嬉しいです」
「ところで、土間コンの奥にも建機がありますけど出す時は大変ですよね?」鹿島は雰囲気を変えようと少し明るく言った。
コンクリートが打たれているスペースは社屋と社屋後ろの壁との間にあるスペースである。試験場への入り口よりも奥側一帯がすべてにコンクリートが打たれている。その奥には三台の建機が駐車されている。社屋側からローディングショベル、ブルドーザーそしてバックホウという順番に並べられている。鹿島はその建機を出すことが大変ではないのかと言っていた。
「あの三台は急ぎ動かす必要のない車両なので大丈夫ですよ。必要になったら横の壁を一時取り除いて動かせば良いだけですから」笠倉は言った。
「ああ、そうですよね。建機ならありますからね」鹿島も頷いた。
鹿島達の後方、駐車スペースの方から簑島が歩いてきた。隣にはもう一人の作業着を着た男性がいた。
「社長、どうしましたか?」簑島はまだ試験場にいない一行を見渡しながら言った。
「ああ、大丈夫だ。なんの問題もないよ」笠倉は言った。
「そうですか。柳橋さんにも声を掛けました」簑島は隣に立っている男性を指した。
「みなさん、初めまして。柳橋です」会釈程度に頭を下げて柳橋は挨拶をした。
「彼は設計部の柳橋さんです。うちに古くからいてくれる功労者です」笠倉が柳橋の肩を叩いて言った。
「いえ、そんなことは」柳橋は顔の前で手を振った。謙遜しているポーズだった。
「そんなことないでしょう。彼はね技術部とタッグで自動化施工のコンセプトからシステムまで作り上げたんですよ。大したものです」笠倉はこれ以上ない賛辞を送った。
「はい・・・ありがとうございます」柳橋は頭を下げながら言った。
「ああ、そうだ社長、忘れずにこれを」簑島が社長室の鍵束を笠倉へ返却した。
「おう、ありがとう」笠倉はそれを受け取ってスラックスのポケットへと仕舞った。
試験場の方から若い男性が出てきた。
「社長、準備できていますが・・・」
「竹下君、すまんすまん。今行きます。さあ先生方どうぞ」
笠倉が試験場に入ると鹿島らが続き最後に簑島と柳橋が入る。試験場の入り口は五メートルほどの広さがある。入口の足元にはレールが敷かれており、その上を門扉が動いて施錠するような仕組みになっている。
試験場に入ると、地面が土になっているフィールドが広がっている。サッカーグラウンドが二面分の面積があった。入口の脇には建機が三台並べられていた。社屋側と試験場の間は社屋を囲んでいるスチールパネルと同じ物だった。つまり会社の敷地を囲んでいるスチールパネルの後方部分で試験場と会社敷地を仕切っていた。
「ここが我社の試験場になります。見ての通り広い敷地です。今日はここで自動化施工の試験運転をしたいと思います」笠倉が言うと、建機と反対側の壁際に置かれた机に向かった。すでにそこには竹下が座っていた。
「ああ、彼が技術部の竹下君ね。さっきそこで会ったから良いよね」笠倉は竹下の横に座った。
「あの社長、僕の紹介簡単すぎませんかね」竹下は社長の耳元に口を近づけて言った。
「まあまあ、気にするなって。それに気にしないって」
竹下は憮然とした表情で机の上に置かれたPCに向き直った。竹下は笠倉建機の四人の中では最も若かった。背が高く、作業着の着こなしもファッションモデルが来ているかのようだった。黒々とした髪を短くしており清潔感がある。
簑島と柳橋は社長の後ろに立った。
「先生方、竹下君の隣の椅子に着席していただけますか」簑島が言った。
鹿島達は並べられたパイプ椅子に座る。地面が土だからか座り心地が良くはなかった。簑島が社長室から持ってきた資料を全員に配布する。
「じゃあ始めますね」竹下がそう言うとPCを操作した。
建機三台のエンジン音が同時に発生した。
「おおーテンション上がる―」合六が足をバタバタとした。
「まるで子供だな」児玉が横でそれを見て言った。
「テンションが上がった合六に大人らしい対応を求めるのも酷だろう」矢木も同調する。
動き出した建機はバックホウ、ブルドーザーそしてホイールローダだった。それぞれの建機の運転席には誰も座っておらず建機自ら動いていることが鹿島達にもはっきりとわかった。
それぞれの建機が動き出し、何やら作業をし始めた。
「本当に無人ですね」鹿島が口に出す。
「基本的に起動だけは手元のパソコンで行っています」竹下が鹿島の方を向いて言った。
「これは今日たまたまこれを使っていますが、いずれはスマートフォン等でも起動できるようにする予定です」
「技術的には十分可能でしょうね」鹿島も答える。
「そうですね。最近のスマートフォンも高性能ですからね。例えば本部とかで動きをプログラミングして現場でスタートさせるっていうこともできますね」
「やはり動きのプログラミングは必要ですか?」
「そうですねー。今日やる作業を言えばやってくれるまで行ければ良いんですけどね。結局工事内容もそうですけれど詳細な条件を覚えさせることは結局プログラミングですからね。でも工事に必要な人間を考えると大分楽にはなりますよ」竹下は饒舌に喋った。
「ああ、ほとんど竹下君が喋っちゃったね。さっきのお返しかな」笠倉は笑ってはいるが竹下をじっと見て言った。竹下は何も言わない。
「あの、今日はこれで何をするんでしょうか?」矢木が質問をした。
「今から盛土を造ろうと思います」竹下が言った。
盛土とは、低い土地や傾斜している土地に土砂を盛り上げて平らにする工事の事である。比較的基本的な建設工事であると言える。
「この試験場はそもそも平らなので、別の所から土を掘りだして、盛土を造ります」竹下は言った。
バックホウが土を掘り返して一ヶ所に少しずつ貯めていく。それをホイールローダが運び、ブルドーザーも土を押し進める。
「本当に自分で動いているんだねー」合六が半ばうっとりしながらそれを見ている。そんな合六の顔を松崎は見ていた。
「ちょっと一つ良いですかね」笠倉が立ち上がった。
笠倉はおもむろに作業中のバックホウに近づく。社員三人は黙ってそれを見ていた。鹿島達は何をするのか簑島ら社員と笠倉の背中を交互に見ていた。
笠倉はバックホウが土を掘って回転しようとするアームの挙動上に立った。
「え?」矢木はその場で立ち上がる。
「社長どうしたんですか?」児玉は座ってはいるが背筋を伸ばしている。
バックホウが回転を開始するが笠倉に当たる寸前になってその回転を止めた。
同時に竹下が見ているPCから警告音が鳴った。
「安全装置っていうことですね」鹿島が竹下に言った。
「そう言うことですね」竹下は笑顔で言った。手元のPCを操作して警告音を止めた。
笠倉はこちらに向かって歩いて戻ってきた。
「このシステムでは建機本体にセンサを取り付けています。そのセンサで建機同士の接触を防いでいます。同時に人が作業半径に立ち入った場合もその場で止まるように設計されています」笠倉は言いながらパイプ椅子に座った。
「安全面でも優れているシステムなのですね」鹿島が言った。
「お客が来る度にやっていますが何回やっても慣れないですね」笠倉が笑いながら言った。
鹿島達は時折笠倉や竹下らの説明を受けながら建機の仕事ぶりを見ていた。
「さて、まだ時間はかかりますから一度部屋に戻って詳しい説明をさせていただきます」笠倉が言うと同時に立ち上がった。簑島も後に続き、鹿島達もそれに続く。竹下と柳橋はその場に残っていた。まだ開発中のシステムであるため、予測できない事態に陥ったばあに対応するためである。
一行は試験場を出ると再び社屋に向かって歩き出した。笠倉は鹿島と話しながら先頭を歩いている。簑島は最後尾を歩く。その間に合六達が歩いていた。
「全自動になったら本当に人間が必要なくなるね」矢木が言った。
「また雇用が減るんだなぁ」児玉が呟く。
「うーん、でもそうなるように、つまり楽できるように人間は頑張っていたんだからー。思っていた通りになったってことだよー。喜ばないとー」合六はにこやかに言った。
「面白いこというね」簑島が笑って言った。
「あーなんかごめんなさい」合六はまた失礼なことをしたと思って謝罪した。
「いやいや、そう言うことじゃないよ。その感覚というか考え方が良いねっていう意味さ」簑島は言った。
「ありがとうございます」
合六は素直に喜んだ。
「簑島さんはここで働いて長いんですか?」
「そうだね。十年ほどになるかな」
「やっぱり簑島さんも建機が好きなんですか?」矢木も質問をする。
「そうだね。好きだよ。でも弟の方が私より余程好きだよ」簑島は前を向いて言った。
「弟さんがいらっしゃるんですか?」矢木が言った。
「そうだね。私と同じでここに勤めていたよ。竹下君と同期だったかな」
「あ、では今はどこか別の所に?」合六が言った。
「いや、その、一年前に亡くなってね」簑島が俯いて言った。
前方の笠倉と鹿島は社屋前に並んでいる建機の所に向かっていた。笠倉が紹介しようとしているらしい。
「社長はまた開発した建機の自慢だな。まあ実際宣伝にはなるかな」簑島が社長と鹿島を見て言った。
「あ、そうだったんですか・・・不躾で申し訳ありません」矢木が謝罪した。
「ごめんなさい」合六も謝った。
「いや、君たちが責任を感じることはないよ。弟が死んだのは事実だしね」簑島は笑顔で言った。
「病気ですか?」矢木の後ろにいた児玉が言った。
矢木は後ろを振り向いて険しい顔をした。
「いや、過労死だよ」
簑島の発言に合六達は息を飲んだ。次の言葉が誰からも発せられない。質問の主である児玉でさえも。
「自動化施工のプロジェクトも弟がトップでやっていたんだ。社交的で社内でも顔が広かったからね。柳橋さんなんか弟の頼みだとすぐに引き受けてくれていたよ。でもそれに比例するように社長からの要求も高くなってね。無理が祟ったんだな。ある日ばったりと倒れてそのままさ」
簑島と合六達は社屋の正面までやってきた。笠倉と鹿島は敷地の奥の方まで行っている。
簑島は顔を上げて社屋を見た。
「結果は悲しいものになったけれどね。このシステムは弟が残した最後の仕事だからね。最後までやり通すよ」そう言うと合六達を見て笑った。
「簑島さんは身体を壊さないようにしてくださいね」児玉が慎重に言葉を選んで言った。
「私は大丈夫だよ。すぐに人に頼るからね」
「すまんね、鹿島先生と話し込んでしまったよ」笠倉が笑いながら帰ってきた。
隣にいる鹿島は顔から僅かではあるが精気が抜けている。
「じゃあ戻りましょう」笠倉は先頭になって社内へと入って行った。
その後ろを歩いている鹿島の足取りが重くなっていたのを学生全員が心配した。
先程社長室から降りてきた道順と同じように受付から入ってすぐ右手の階段で二階へと向かう。二階の廊下を社長室へと歩いている。
「少しだけど重機の音が聞こえるな」矢木が言った。
「そうだね。盛土できたかなー」合六は心からこの会社を楽しんでいるようだった。
社長室の前まで来ると笠倉が鍵を取り出して扉を開錠した。
扉を開けてすぐに電灯のスイッチを入れた。
蛍光灯が発行して室内を照らす。再び社長室の中に足を踏み入れた。
「どうじ、皆さんはソファに座ってください。簑島さん、先生方に飲み物をお願いできるかな」笠倉は最後に入ってきた簑島に言った。
「承知しました」そう言うと簑島は部屋から出て行った。
笠倉は一度机の方へと向かう。机の上のPCを操作してからすぐに立ち上がりこちらに来ようとするが、動きが止まった。
「無い。そんなバカな。どうして」笠倉は叫ぶように言うと机の後ろの棚に齧り付くような勢いで迫った。
「笠倉さんどうしたんですか?」という鹿島の声と「社長どうしましたか」という簑島の部屋に叫んで入ってくる声が同時に起こった。
合六達もソファから立ち上がっている。
「無くなっている。ものつくり大賞のメダルと賞状が」こちらを振り向いた笠倉は今にも泣きそうな顔で言った。
大きく落胆した笠倉は社長室のソファに倒れ込んだ。
「余程ショックだったんですね」松崎がその姿を見ながら言った。
「そりゃ苦労して受賞したんだろうからな」児玉が松崎に言った。
二人共小声だった。
「なあ、合六、なんか思いつかないのか?いつも変なこと思いつくだろう?」児玉が所在なさげに立っている合六に向かって言った。
「えー。そんなこと言ってもなー」合六も小声で児玉に返答する。
今社長室にはソファに寝ている笠倉と簑島、そして鹿島達しかいない。
「社長、大丈夫ですか」簑島が笠倉の耳元で囁く。
笠倉は片手を挙げた。とりあえずは大丈夫というくらいの意味である。
「みなさん、申し訳ありません。ちょっと急なことで」簑島が鹿島達に向かって言う。
「とりあえず盗難っていうことですよね」鹿島は冷静に言った。
「ああ、そう言うことですね。警察に連絡した方が良いのでしょうかね」簑島はまだ理解が追いついていないようだった。
「とりあえずメダルと賞状は無くなっているということですが、その他のものは無くなっていないか確認するべきではありませんか?」鹿島は簑島を落ち着かせるように言った。
「その通りですね」
簑島はそう言うと社長室を一通り見て回る。
「待ってくれ、私も探そう」笠倉がゆっくりと身体を起こした。
簑島と鹿島が近寄って身体を支える。
「社長、もう少し休まれた方が」簑島が笠倉の顔を除き込むように言った。
「いや、もう大丈夫だ」
笠倉はそう言って立ち上がる。鹿島が身体を支えながら途中まで笠倉と一緒に部屋を見て回った。
その間に合六は部屋にある二つの窓を見に行った。会社正面側の窓は施錠されていたが、試験場側の窓は笠倉が試験場を確認してから施錠はされていないようだった。
一通り見て回った笠倉はまたソファに倒れ込んだ。
「社長いかがでしたか?」簑島が笠倉の頭付近に片膝をついて言った。
「他のものは盗まれていないよ。あの賞状とメダルだけだ」そう言うと笠倉は何も言わなくなった。
「ということは金目のものとか重要な書類には目もくれずに賞状とメダルだけ盗んでいったのか」鹿島は腕組みをして俯いて言った。
「どうしたら良いのでしょうか。あ、まず警察ですね」簑島はスマートフォンを取り出す。
「あの」合六が簑島の方に近寄る。
簑島と鹿島は合六の方を向いた。
「一応、社員の方に不審者を見かけたかどうか聞いてみてはいかがでしょうか?あと会社を出て行った人も確認した方が良いと思います。それから電話しても遅くないと思うのですが」
鹿島は発言した合六を睨んだが黙っていた。
「そうですか・・・そうですね。そうします。少しお待ちください」
そう言うと簑島は出て行った。
二十分後簑島が部屋に戻ってきた。
「全員ではないですが、不審な人物を見かけたという社員はいませんでしたね。試験場の竹下君と柳橋さんも誰も見ていないと言っています。会社を出て行った人もいないようです」
「そう・・・ですか」合六はそう言って黙った。
「では申し訳ありません、警察に電話するので」
簑島はスマートフォンを取り出して警察へと電話した。
「合六、なんかわかったか?」矢木が合六の耳元で囁く。
「分かったことねー。分かったことは外部の人間がこの部屋に入れなかったっていうことかなー」合六も矢木の耳元で言う。
「どういうことですか?」松崎も会話に入るが音量が大きかったのか、鹿島に睨まれる。
「詳しくお願い」松崎の頭を叩いた児玉が合六に急かす。
「まずこの部屋自体が試験場側の窓以外は施錠されていたでしょー?それで一階と二階の廊下も各部署の廊下に接する壁が全面窓になっているから誰か通れば気が付くし、建物の正面からも後ろからも人がいたから近づくことが不可能じゃない?」
「正面からは近づけるのでは?」松崎が小声で言った。
「入り口は一つだけで、受付の人がいるでしょう?裏は竹下さん達がいるしー。上手くタイミングが合って入れたとしても出て行った人も見られていないからねー」
「合六、さっき見ていた試験場側の窓からは入れるんじゃないのか?」矢木が言った。
「それは無理だよー」
「なんで?」
「コンクリート打っていたから近づけないでしょう?」
「唯一施錠されていなかった試験場側の窓に近づくには今朝打ったばかりのコンクリートの上を歩かなければいけないってことか」児玉が脇の下に指を入れるようにして腕を組んだ。
簑島が電話を切ってこちら側にやってきた。
「電話出来ました。すぐに来てくれるようです」
簑島の言う通り、警察はすぐに到着した。しかし、制服警官が数名来たのみであり、簡単な事情聴取の後、被害届を出すかどうかを笠倉に尋ね、笠倉が何としてでも出すことを訴えた。警察は現在強盗犯の捜査で新たな展開があったとのことで、こちらの捜査に人が回せないため明日の朝にもう一度来ることだけを伝えて帰って行った。
鹿島達も事情聴取を受けて連絡先などを控えられただけで帰宅しても良いということになった。
「先生方申し訳ありません。面倒なことに巻き込んでしまって」
社長室の前の廊下で簑島が言った。社長室では笠倉が警察へ抗議をしていた。簑島が気を利かせて鹿島達を室外へと連れて行った。
「笠倉さん、大丈夫ですか?血圧とか」鹿島は閉ざされた社長室の扉を見て言った。
「多分上がっているでしょうね」簑島は困った表情のまま笑った。
「では我々は帰ります。捜査の協力はしますのでご連絡ください」鹿島は言った。
「大変感謝します。ありがとうございます」
簑島は頭を下げると思いついたような顔をした。
「試験場を見に行きますか?盛土が完成しているかどうか」
「そうですね。本来の目的でしたからね」鹿島も困った表情のまま笑った。
簑島の案内で再度試験場へと向かう。一行が入ると重機は最初に停車していた場所に戻っており、敷地の中央には土砂が台形に盛られていた。
「盛土が完成してるー」合六が拍手しながら言った。
それを見て竹下も柳橋も笑顔を浮かべていた。
「どうでしたか?ほとんど任せてしまいましたけれど」簑島が申し訳なさそうに言った。
「僕らも二人でずっと見ていたわけではないですけど、特に問題なかったですよね?」竹下が柳橋の方に振り向く。
「ああ、そうだね」柳橋はそれだけ言った。
「わかりました。ではまたデータ含めて報告書をお願いしますね」簑島は二人に向かって言った。
「簑島さん、それよりも社長大丈夫なの?」柳橋が低い声で言った。細身の体からはアンバランスな声だった。
「血圧が上がってそうですね。今は起き上がって警察に抗議していますよ。早くちゃんと捜査に来いって」簑島は二人に言った。
「お二人は私たちが社長室に戻ってからずっとここにいたのですか?」鹿島は二人に言った。
合六達は目を見合わせた。それは簑島達も同じだった。
「さっき簑島さんにも聞かれたけど見てないな」柳橋が投げ捨てるように言った。
「柳橋さんも僕もどちらかがいなかった時があるけど、どちらもそんな不審な人物は見ていないですね。見ていたら確実に報告しますからね」竹下もまたかというような顔で言った。
「わかりました。ありがとうございました」鹿島は言った。
鹿島と学生達は簑島達に礼を言ってまた機械があれば来させていただきますと伝えると試験場を後にした。
一行はそこから歩いて駐車スペースに戻ってきた。
「では東郷先生にもよろしくお伝えください」簑島はそう言うと会釈をして社屋へと戻って行った。
鹿島達も会釈をした。
「先生、気になることがあったんですか?」矢木が尋ねる。
鹿島は車の鍵を取り出してロックを解除した。
「ん?いや、一応確認をね」そう言うと運転席に乗り込む。
学生達も各々車内へと入り込んだ。
時刻はお昼をとっくに過ぎて十三時を回っている。
「あー長居し過ぎたな」鹿島がエンジンを掛けて言った。
「盗難騒ぎがあったからじゃないですか?」児玉が助手席から言った。
「それはそうだな」鹿島はギアをドライブに入れて車を動かす。
「先生―お腹空いたー」合六が中央の座席から言った。
「お前は小学生かよ」矢木が後部座席から身を乗り出す。
「矢木、座ってくれる?」鹿島はバックミラー越しに言った。矢木はすみませんと言って座る。
鹿島はハンドルを握ったまま動かない。
「先生?どうしたんですか?」児玉が鹿島を見ている。
「いや、なんでもない。ご飯食べに行くか」鹿島はアクセルを踏んで笠倉建機の正門を出た。
「牛丼で良いか?」鹿島はバックミラー越しに全員を見た。
「もうちょっとメニューが選べるところに行きませんかー?」合六が言った。
「じゃあ、たそがれにするか?」鹿島はハンドルを切る。
「はーい。やっぱりたそがれだよねー」合六は笑顔になる。
たそがれとは大学の側にある『たそがれ食堂』というお店でR大学の学生が頻繁に利用する食堂である。今鹿島達がいる所からだと車で五分くらいだった。すでにランチのピークは過ぎている。
「みんなはどう?」鹿島が前を見ながら言った。
全員が行きたいという意思表示をした。
鹿島の車は一路『たそがれ食堂』に向かうことになった。
お店に着くとすぐに店員が案内してくれた。店内にほとんど人はいなかった。店内の中央にあるコの字型のカウンターキッチンを挟んで右側の窓際にある席に眼鏡をかけた青年が文庫本を開きながら定食を食べているだけだった。
鹿島達はキッチンを挟んで左側の窓際の席に通された。まだランチタイムが終わっていなかったようだった。すぐに注文をして五分ほどで料理が届いた。ほぼ無言で全員が料理を食べ終わる。
頃合いを見計らって店員がコーヒーを全員分運んできた。ランチタイムだけのサービスであり、一人一回までのお代わりは無料だった。
一杯目のコーヒーを啜りながら鹿島達はその苦さを楽しんでいた。
「あれは誰が盗んだんだろうな」児玉が呟いた。
「社長室の?」矢木が椅子に背を預けながら言った。
「そう。合六が言ったように外部から入ることは無理だしなぁ。内部の人ってことかな?」児玉が合六を見る。
「内部の人でも社長室に入ることは無理だと思うよー。部屋も鍵が掛けられていたんだからね」
「あ、そうだ。わかった。犯人は簑島さんだ」矢木が言った。
「どうしてですか?」松崎が前のめりで言った。
「笠倉さんは一度だけ鍵を貸しているでしょう?部屋に資料を忘れた笠倉さんに自分が取ってきますって言って鍵を受け取っていたじゃん?」
「あーそんなことあったな」児玉が思い出すようにして言った。
「あの人も笠倉さんに思うところあったじゃない?だからこう、一泡吹かせてやろうっていう遊び心でやったけど思った以上に効果があって言い出せないでいるってとこころじゃないかなぁ」矢木は前のめりになって言った。
「何だ?思うところって」鹿島が首だけ動かして矢木に尋ねる。
「あーそれはですね・・・」
矢木が言いにくそうにしていると、合六が代わって説明した。
「ふーん、そうだったのか・・・」鹿島はそれだけ言うと両肘をついて顎を手の平に乗せた。
「矢木君の説だけど、仮に簑島さんが社長室から持ち出したとして、どこに隠すかっていう問題があるんだよねー」合六はコーヒーを飲み干した。
店員さんを呼んでお替りを注文する。お替りは合六と松崎だけだった。
「どこに隠すって・・・服の中とか」
「賞状はそれでも良いけど、メダルが入ったケースはそんな簡単じゃないでしょー?」
「ああ・・・そうか、服の中に隠すのは無理なんだ・・・」矢木は頭を傾けて考えた。
「じゃあ自分の机・・・もダメか。周りに人がいるもんな。じゃあ倉庫は?」
「そうだとしても部屋から持ち出した後にどうするのかっていう問題があるよねー。きっとどこかで倉庫の鍵を管理していてそこから鍵を持ち出すのだと思うんだけど、その間にとこかに賞状とメダルを置いておかないとすぐにわかってしまうよねー」
「んー。そうかぁ。簑島さんが動機としてはばっちりだと思ったんだけどな」矢木が頭を掻いて言った。
「動機があったから犯行に及んだっていうのは冤罪を生むんじゃないか?」鹿島が呟いた。
「その通りですね」矢木が反省する。
「それで・・・合六はなんか思いついたのか?」鹿島が合六に向かって言った。
「え?急に放り込んできますねー」合六は驚きながら言った。
「まあ、十分に時間はあっただろう?そろそろ得点を決める時じゃないか?」
「そんなサッカー見ている人みたいに言わないでくださいよー。でもまあ後は研究室に帰るだけですしねー。思いつくまま喋ってみるっていうことで良いですかー?」
「どうぞ。こっちが納得すればそれで良いんだよ」鹿島が腕組みをして背もたれに身体を預けた。
「はあ、じゃあそうですね。結局正攻法で社長室の正面から入ったら駄目だっていうことがこれまでの話で分かったんで、それ以外の方法を取ったっていうことだと思うんですよー」
「それ以外?」松崎が聞き返す。
「正面の扉じゃなければ、試験場側の窓しかないねー」
「え?それは不可能だって言ってなかった?」矢木は怪訝そうな顔で言った。
「そう。普通に地面を歩いて行くことは不可能っていうこと」
「どういう意味ですか?」松崎は前傾姿勢にになった。
「二階の窓へ続く道をもう一つ作ったの」合六はゆっくりと言った。
「屋上?」児玉が言う。
「社屋は二階建てで屋上は無かったでしょう?」
「あーそっか」
「もう一つの道っていうのは重機よ。二階の窓の下に並んでいた重機を使ったんだと思う」合六はゆっくりと言った。
「ちょっと意味が分からないんだけど」児玉は口元に笑みを浮かべながら言った。相手が何を言っているのかわからない、という意味で嘲笑しているのである。
「重機の上を進んだっていうこと?」矢木が言った。
「惜しい」合六は矢木を指差して言った。
「どちらにせよ。重機の上を進んだっていうことは社屋側からは近づけないから試験場側からだよね。となると柳橋さんか竹下さんのどちらかがやったと?」矢木は額を摩りながら言った。
「そうなるね。っていうか重機の上を進んだっていうことが、惜しいっていうことに関しては何も思わないのー?」合六は矢木を小突く。
「すまん、完全に話をすり替えた。どういうことなの?」
「ちょっと待て。そうだとしたら、試験場側から仕切りを上って重機が並んでいるところまで行ったっていうことだろう?」児玉が先程の失態を取り戻そうと指摘した。
「そうだよー」
「それは無理だろう。仕切りのスチールパネルが高すぎる。足をかけるようなところも無かったし、机はあったけど脚立みたいなものも見当たらなかったぞ?」
「そんなことないよ。あるんだよ」
「どこにだよ」
「だから重機で作ったんだよ。二階までの道を」合六は軽く机を叩く。
「工事でもしたのか?」
「違う違う。えっと土間コンを打っていた先にある重機を覚えている?」
「いや、覚えてない」
「社屋側からローディングショベル、ブルドーザー、バックホウの順番だったと思うんですけど」松崎が割って入る。
「そうその通り。この並び順が肝だったんだよね」合六が松崎に言った。
「ああ、なるほど」鹿島がそう呟くとコーヒーを一口飲んだ。
矢木、児玉、松崎は鹿島を見てから合六を同時に見る。
「つまりね、あそこに置いてあった重機は自動化施工用のシステムが組み込まれているんだよ。それで、私たちが試験場を立ち去ってからエンジンを遠隔で起動させるでしょー。それであらかじめプログラムしておいた行動をとらせたんだと思う。まずバックホウのアームを上に上げたまま試験場側へ九十度回転させてアームを降ろす、仕切りの壁を跨ぐ様にしてアームを降ろすのね。最後まで降ろせないかもしれないけれど、しがみつければ良いの。そうしたらアームを上って仕切りを渡りつつバックホウの運転席側に到着するでしょう。そうしたら床に着かずにブルドーザーの上を渡ってローディングショベルまでたどり着く。ローディングショベルって積み込み専用のショベルカーだからバケットが上方に上がるようになっているのね。だからそのバケットの中に入って上方まで上げてくれれば二階まで届くことができる。後は同じ道を戻って建機を元に戻して終わりかな」
鹿島以外の三人は呆気に取られていた。
「ちょ、ちょっと良いかな。そんな事をしている時間があったのか?」児玉が言った。
「簑島さんが言っていたけど、いつも自動化施工を見に来るお客さんに社屋に戻る前に社屋前に置いてある建機の自慢を、じゃなかった説明をするんでしょう?」
「あれは正直参った」鹿島が目を閉じて思い出していた。
「大変でしたね」矢木が労う。
「きっと恒例になっていたんだろうね。時間を測ることが出来たんじゃないかな?それに社長室に電気が灯っていなければ人はいないっていうことでしょう?消灯にまで煩く言っていたくらいだからさー」
「それで・・・合六はどっちだと?」矢木は言った。柳橋か竹下かということである。
「竹下さんだろうね。プログラミングもできたでしょうし、動機の面でもね。簑島さんの弟の無念というか、きっとあの賞状とメダルは笠倉さんが持つべきではないっていうことを伝えたかったんじゃないのかな」合六は最後のコメントを元気なく言った。
「賞状とメダル、弟さんのお墓にお供えしているかもしれませんね」松崎が言った。
「お前、美味しい所持って行くね」児玉が羨望の眼差しで言った。
笠倉建機の設計部、時刻は二十二時を回っていた。すでに周りの社員は帰宅しており、部屋には柳橋だけが残っていた。となりの技術部ではまだ人の気配がある。
昼間に起こった社長室の盗難で社内が騒々しかったかと言えばそうではなく、煩かったのは社長のみだった。
柳橋はR大学が自動化施工の見学に来て時間が取られたためにその分の仕事をこなしていたらこの時間になったと言うだけである。
そこまで仕事が残っていたわけでもなかったため、残業と言っても比較的早い時間に終わることができた。自動化施工のプロジェクトが立ち上げの時は何日も帰れなかったのだ。それに比べると大きな問題ではない。
荷物をまとめて鞄に詰め肩に掛けると部屋の電話が鳴った。この時間に外線だった。不審に思いながらも受話器を取った。
「はい。笠倉建機設計部です」柳橋は声のトーンを変えずに言った。少なからずもう帰るところだったという気持ちがあったが、その気持ちはすぐに抑え込んだ。
「あ、業務時間外に申し訳ありません。R大学の鹿島ですが」
受話器から聞こえてきた声は鹿島だった。
「あ、鹿島先生、柳橋です。どうしましたか?」柳橋は抑揚のない声で言った。
「ああ、柳橋さん、良かったです。知っている人が出てくれた」鹿島の声は安心したようだった。
「ああ、そうですか、今この部屋には私しかいませんでした。ちょうど変える所だったからタイミングが良かったですね」
「あ、そうなんですね。申し訳ありません。ちょっとお話ししたいことがありまして。すぐに終わります」
柳橋は鹿島の言葉に返答しなかった。無言で続きを促したのである。
「ご帰宅されるということでしたから、簡潔に申し上げますね。えっとそちらの会社に強盗犯がいます」
柳橋は身体を硬直させた。
「え、あ、申し訳ありませんが、もう一度仰っていただけますか?」柳橋は何とかその言葉を発した。
「そちらの会社に強盗犯がいるんです。警察への連絡をお願いします」鹿島は先ほどと同じ内容を話した。
「鹿島先生、ちょっと意味が分からないのですが、どういったことでしょうか?」柳橋は眉間に皺が寄っていた。
「えーっと今強盗事件が可士和市の周辺で発生していて犯人がまだ捕まっていませんよね?」
「そうですね。今日もパトカーが走り回っていましたね」
「はい。その強盗事件の犯人がそちらの社員である可能性があります」
「えっと、申し訳ありません。急な話で。何故こちらに犯人がいるっていうことになるのでしょうか?」
「はあ、説明いたしますが、少し時間を頂くことになりますが大丈夫ですか?」
鹿島は柳橋が帰宅するということに対して配慮をしている。
「はい、大丈夫です。もし仰ることが本当であれば、こちらも早急に対応しなければなりませんから」柳橋は言った。
簑島に連絡を入れてからにしようかと思ったが、変に時間を空けても良くないと思いそのまま話を続けた。
「ご配慮ありがとうございます」
鹿島はそう言って、話始める。
「最初に変だと思ったのは、駐車スペースに車を停車させる時です」
「駐車スペースですか?」柳橋は上ずった声で聞き返した。
「はい。そちらにお邪魔した時に外部のお客用のスペースに車を停めました。その時に社員用の駐車スペースは開いているところがなかったんですよね。私の車は外部のお客用のスペースの最も奥側に停めました」
柳橋は黙って話を聞いていた。
「それから社内を見させてもらって、試験場を見せていただいたんですが、ちょっと疑問がありまして」
「はあ、何でしょうか?」
「竹下さんは今日の午前中に工場の方に行かれていたとお聞きしました」
「そうですね。そんなこと言っていましたね」柳橋は淡々と答える。
「工場はそちらの敷地から距離があるということでしたね。きっと車で行ったと思うんですよ」
「はい。社員が工場に行く場合は自動車ですね。社の自転車もありますが時間も労力もかかるので工場に行く場合は使わないですね」柳橋は鹿島の話が良く見えなかった。
「だとするとですね。僕が車を停めた時に社員用の駐車スペースが満車になっていたことが変なのですよ。竹下さんは一度出社してから自家用車で工場に行かれたんですよね」
柳橋は何も言えなかった。
鹿島は柳橋を気にせずに話し続ける。
「そうすると私が駐車した時に駐車場が満車になっていたことはちょっと変ではないかなと思いました。最初は気が付かなかったんですが、御社から帰る時に違和感がありました。車に乗り込んでバックミラーを見た時にその違和感の正体がわかりました。朝と帰る時とで後ろに置かれていた車が違ったんですよ。社長と二人で話している時に聞きましたが皆さんが駐車している車は自家用車ですよね。公用車は道路の反対側の駐車場に置かれていて営業の人とかはそちらを使うようですね。一応他の車も見てみましたけど代わっていたのは私の車の後ろの車両だけです。朝と帰る時とでなぜ車が代わったのだろうかと思いました」
鹿島は一度言葉を切った。
「ここからは私の妄想です。私の車の後ろに停まっていたのは強盗犯が使っていた車だと思います。それを社員の誰か・・・面倒だから言ってしまいますけどあなただと思っています。竹下さんも噛んでいるかもしれませんね」
「かなり失礼なこと言っていますけど、聞いておきます」柳橋が落ち着いた声で言った。
「ご理解いただけて感謝します。竹下さんは帰ってきたときに満車になっていた駐車スペースの一番手前に車を置きました。それから試験場に言って試験の準備をします。それから社長と我々が社長室に戻る時を見計らって、竹下さんは社長室にメダルを盗みに向かいます」
「竹下が盗んだんですか?」
「ああ、すみません。説明が長くなってしまいますがよろしいですか?」
柳橋は無言で肯定した。鹿島は合六が食堂で話した説明を始めた。
「それは・・・」柳橋は意識せずに人差し指を噛んでいた。
「というわけで、竹下さんはメダルを盗みに行きます。その間に竹下さんが私の車の後ろに停めていた車を試験場まで持って行きます。試験場では建機が盛土を作っていましたが、その時の土は同じ敷地から持ってきていますね。そこには穴が開いています。そこにあなたは車を落としたんです。その穴は盛土の後ろに開いた穴なので正面から盛土を確認した我々には見えませんでした。あなたは、頃合いを見計らって今度は竹下さんの車を移動させます。それで竹下さんが戻ってきて終わりですね」
柳橋はゆっくり息を吸った。
「面白い妄想ですね。小説でも書かれてはいかがですか?」
「こんな話小説にもなりませんよ。やっていることが低俗ですからね」
柳橋は受話器を持つ手に力が入っていることが分かった。
「先程、盛土を造った時にできた穴に車を落としたって言いましたが、それが先生の車の後ろに置いてあった車だという証拠はないでしょう?」柳橋が言った。
「いえ、証拠はあります」
柳橋は視線が定まらなくなっていた。肩にかけた鞄を降ろすことも忘れていた。
「そちらの会社に着いた時にうちの学生が転びましてね。立ち上がった時に後ろの車のボンネットに手をついて立ち上がったんです。本当に不躾な事で情けないですね」
鹿島はゆっくりと話した。
「だから、もし盛土の後ろの穴から車が見つかってそのボンネットに学生の指紋があればそれはあの時に私の車の後ろに停まっていた車だと説明が付きます。なぜそんなことをしたのか、納得できる理由があれば良いですね」
柳橋は額から汗が流れ落ちるのを感じた。
「一応、連絡させてもらいました。出来れば自首された方が良いと思います。警察にはこれから連絡させてもらいます。では失礼いたします」
鹿島から通話を切った。柳橋はしばらく受話器を持ったままその場に立ち尽くしていた。
時刻は二十三時を少し回っていた。
社屋の裏手、試験場への扉の前に柳橋は立っていた。横には竹下、目の前には簑島もいた。柳橋は一時間ほど鹿島と喋っていた。それからすぐに二人に連絡を取った。幸いにも二人はまだ会社内にいた。
「どうするんだ?もう警察が来るんだろう?」竹下が焦ったように二人に言った。
「とりあえず逃げるか?俺達がいたら全員アウトだろう」柳橋が言った。
「疑われているのは少なくともお前と竹下だったはずだ。とりあえず俺は残ってうまく対応してみるか」簑島が腕を組んで言った。
「まあそうだな。あんたが計画を練って俺らが動いているからな。それがあんたの仕事だろう」
「どこに逃げる?」竹下が言った。まだ焦っている様子だった。
「まず、あの助教を痛めつけよう。拉致してしゃべれなくしても良いぞ」簑島が指示する。
「言われなくてもそのつもりだ」柳橋は懐を叩く。
「携帯しているのか?」簑島が呆れた顔で言った。
「今の時代何が起こるかわからんからな。たまたま見学会に来た大学の先生が犯罪を暴くっていうこともある」
「まあいい。身体の処理はうまくやれよ」簑島は二人に諭すように言った。
その時、三人同時に試験場の方向を見た。
全員がそれに気が付いたのである。
灯りなどの照らすものが無い試験場の中で、それはあまりにも目立ちすぎた。
白い影が宙に浮いていた。マントのようなものが影の後ろになびいている。
三人はそれを目にした直後息を飲んだが、目が慣れてくるとそれが人であると認識できた。昼間に作った盛土の上に立っていたために浮いているように見えていた。しかし、服が上下とも白かったために闇夜にはっきりと浮かんでいたのは事実だった。
三人とも動けずにいた。
白い人物は盛土から飛び降りるとゆっくりと三人のもとへと歩いてきた。白い人物は試験場と会社敷地との境界に立った。顔は見えないが、暗がりからはっきりと浮かび上がる白い服が三人の目に映っていた。
「だ、誰だ。何者だ」簑島が白い人物を見て言った。
「大人しく自首すればそのまま帰ろうと思ったけどね。物騒な話をしているからさ」
訪問者は足を広げて身体を落とした。右手を前に突き出して構える。
「なんかあいつやる気みたいですよ」竹下が言った。
「あんたには関係ないだろう」柳橋が訪問者に言った。
「いや、仕事と恩返しだ」
訪問者は言うと、地面を蹴った。簑島達三人も後ろに飛ぶ。訪問者は迷うことなく竹下に向かって行った。
竹下は後ろに下がると同時に作業着のスラックスのポケットから折り畳み式のナイフを出した。
竹下が着地するとナイフを突き出す。
訪問者は身体を仰け反らせながら懐に入る。素早く左右の掌底で右の脇腹と顎を突き上げる。
訪問者はすぐに手を戻し、身体を半回転させる。そのまま竹下のナイフを持った腕をつかんで背負い投げをした。訪問者は倒れている竹下の腕を離さずに足で踏み込んで腕を折った。
竹下の泣き叫ぶ声を後ろに残して訪問者は次の標的を簑島に定める。
走って近づき、そのままの勢いで腹にパンチを入れる。簑島はそれだけで胃液を出して気を失った。
訪問者は振り返る。同時に頬の脇を熱い風が通り過ぎて行った。
目前の柳橋はサイレンサー付きのハンドガンを構えていた。
訪問者は瞬時に戦い方を変更した。
両腕を力なく下に降ろし、肩を回転させながら柳橋に近づく。
柳橋も銃を構えながらそれを見ている。
ガスの抜ける音と同時に銃弾が発射された。
同時に訪問者は身体を右に傾けて避ける。そして、一気に柳橋との距離を詰めた。
柳橋もその動きに合わせて再び照準を定める。
訪問者はそれよりも早く動きハンドガンのスライドを右手で掴み、中指で引き金に指を入れる。柳橋は引き金が引けなくなった。
訪問者は腕を返すようにしてハンドガンを払い落し、喉に手刀を打ち込んだ。
柳橋の苦しい声が聞こえて、血が噴き出した。
訪問者は腕を取りながら三角締めを行った。柳橋はすぐに気絶した。
服の埃を払って訪問者は立ち上がる。ハンドガンを取り上げて自分の指紋を拭き取った。コートのポケットから手袋を取り出して嵌めて、柳橋に握らせる。
訪問者は空を見上げた。
胸ポケットからスマートフォンを取り出す。着信が来ていたからである。
「はい。ああ。うん。終わりました。いや。今日は良いです。警察に渡します」
遠方からサイレンが聞こえてきた。
「はい。じゃあ。手続きの方お願いしますね。戻ります」訪問者は電話を切った。
時刻は午前零時を回って土曜日になっていた。
C県警の寿は笠倉建機に向かうことを笹倉に告げた。
「行くのか?」警部の笹倉がデスクの隣の寿に言った。
「はい」寿は笹倉に言った。
「またR大学だな」笹倉はそれだけ言った。ここ数ヶ月。R大学が関わる事件がいくつか発生している。
「直接先生と話したのか?」笹倉が寿の方を向いて言った。
「はい。古見澤君から聞いて合六さん経由で鹿島先生の連絡先を聞きました。直接電話で話しました」
「そうか、任せるよ」
笹倉がそれだけ言ったので寿は車を飛ばした。
笠倉建機にはすでに制服警官が到着していた。また強盗事件の担当刑事も到着していた。
笠倉建機に車を停めた寿はまず捜査担当者に了承を取った。邪魔しない代わりに参加させてくれとお願いをした。暇なんだな、と嫌味を言われたが了承は貰えた。
寿は簡単に現場を見て回り、最後に社屋裏に倒れていた社員三人に話を聞くことになった。
三人は容疑を肯定しており、またひどく痛めつけられていた。担当する刑事からは内輪揉めだろうということを聞かされていた寿だったが、三人とも怯えていた。
「本当に内輪揉めなのか?」寿が会社の会議室に座らされた三人に聞いた。
連行の前に傷の手当てをしてから連行するということだった。その僅かな時間を使っていた。
「白い・・・悪魔」竹下が呟いた。全員が身を硬くした。余程の恐怖を与えられたということだった。
「もういいか?」担当の刑事が部屋の外から扉を開けて言った。
「あ、はい。ありがとうございます」寿は大人しく引き下がった。
部屋に一人残された寿はテーブルに両手をついた。
「あいつじゃないのか?」
その疑問は自分自身に向けられたものだった。
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