第4話 沈黙するハチドリ

「お前ら、同じ物注文しろ」

東郷の大声が食堂に響いた。東郷の地声である。本人も若い頃は気にしていたようであるが、すでに六十手前の年齢になっているためか最近は気にしていないようだった。

R大学理工学部キャンパス内にある食堂『カナル』、英語で運河を意味するこの食堂は運河の脇に位置しているR大学の食堂名として取って付けたような名前だった。

食堂の食券機の前で何を頼むか迷っている面々は土木工学科コンクリート工学研究室の学生達と教授の東郷である。

九月の初旬のお昼時の食堂はすでに夏休みに入っている学部生はおらず、それでもテーブル席を埋めている学生は部活動やサークルで大学に来ている学生か、研究室に所属している学生と教員が占めている。それでも一部であり大学外部の数少ない食堂やコンビニに階に行く学生や教員もいる。

今日の昼食は普段ほとんど大学にいない東郷がいることもあって研究室に来ている学生で昼食に行くことになった。

助教の鹿島が都内で委員会に出ているために学生にとってクッション役になる人間がいないということもあり修士二年の塩田と真中が負担する役割は非常に大きい。

次の週に学会が控えていることもあり、大学院生は全員揃っていた。学会には大学院生全員が発表を控えているために発表用スライドを造る必要がある。また、造り終わっても発表練習を何回も行う。学会発表には優秀発表賞が設けられている場合が多く、年齢制限があるために学生や企業の若手と呼ばれるような年齢の研究者が対象となる。大学の教員にとっては優秀論文賞よりはハードルが低く、しっかり発表が出来て研究内容もそれなりであれば学生に実績を作ってあげられるため、時間と頭を使ってほしいと考えている。

コンクリ研の大学院生もここ数日詰めてスライド作成と発表練習に時間を取っていた。今日は東郷が来ているために午前中からゼミ室を借りて全員で発表練習を行っているところだった。

今は昼休憩として学食まで足を運んでいる。大学院生以外の四年生も自分の実験をするために研究室へ来ていた。

「今日のメニューだとラーメンハンバーグ定食ですかね」四年生の飯田鉄平がショーケースに並べられているメニューを見ながら言った。

「お前本気で言ってんの?カロリーの爆弾じゃんか」修士一年の児玉庄司が言った。

「腹減っているんだろうから放っておけば?」阿部が言った。

阿部も児玉もそう言っているが目線はショーケースの中を見ている。

「あ、そうっすか?じゃあクリームパスタ&ピラフセットに・・・」

「飯田君、炭水化物がサンバカーニバルしているからよく考えなさい」真中が諭すように言った。

「なんで文句ばかり言うんすか?この学食のメニューがおかしいんでしょう?」飯田が文句を言う。

四年生は松崎、飯田、佐々木恵そして立花がその日研究室に来ていた。学食には四年生は松崎以外、大学院生は合六以外がいる状況である。四年生の彼らは卒業研究の実験をすることが目的だった。彼らの上についている大学院生から指示を貰って午前中は作業をしていた。だから学食にいる四年生は全員が作業着を着ている。

「席とっておきましたよー。もう東郷先生食べているんですけど」佐々木がスマートフォン片手に食券機の彼らのもとに戻ってきた。全員分の席を確保してきたということだった。佐々木は毎日自分で弁当を作って持ってくるため学食では食べることは滅多にない。

彼らがテーブル席の方を見ると、周辺のテーブルの大半が人で埋まっている中、誰も座っていないテーブルで東郷が一人カレーを食べていた。

「ああ、やばいな。早く行こう」

塩田と真中、そして矢木が食券を購入する。彼らが迷っていたのは夏休みに入ってから学食のメニューが全く代わり映えしなくなったためだった。彼らは大学の学食にメニューの豊富さと味を求めているため、毎日訪れることになるとどうしてもこのような事態に陥る。

全員で食券を購入し、料理と引き換えて席に着くとすでに東郷は食後のコーヒーを飲んでいるところだった。

「お前ら遅い、決断力が足りないんじゃないのか」そう言って大声で笑った。これは注意をしているわけではない。東郷にとっては若手と日常会話をしていると考えている。

「あ、あとー、松崎君から電話があったんですけど、昨日の夜に実験棟使った人いるかって」佐々木は鼻にかかるような声で言った。

その場にいた全員が使っていないと言った。佐々木はそれを受けてメールで松崎に返信をしていた。

「松崎は何でそんなこと聞いて来たんだ?」ラーメンをすすっている矢木が佐々木に聞く。

「知りませんよぉ。本人に聞いた方が早いんじゃないですかぁ?」佐々木は矢木の後ろの入り口辺りを指差す。

合六と松崎が食券機から料理との引き渡しカウンターに向かっていた。

「合六は実験していたんだっけ?」塩田が聞いた。

「研究室でスライド作っている時に松崎が呼びに来たじゃないですか。ビーカ割ってしまいましたって」阿部が塩田に言った。

「あいつは本当に実験が上手くならねぇな」東郷が笑った。

「すんませーん、同期にばったり出会ったのでちょっと遅くなってしまいました」合六が言った。

「すんません」松崎も言う。

松崎は合六とチームを組んでから行動が似てきていた。

「おう、ご苦労さん。松崎ビーカ何個割ったんだ?」東郷が大きな声で言った。

「あ、えっと十個です」

松崎が言った途端に東郷と合六以外の全員が一斉に動きを止めて松崎を見た。

「おお、豪快にやったな。合六、追加発注は?」東郷が笑いながら合六に言った。

「もう終わってまーす」合六は目の前のサラダうどんを吸い上げながら言った。

東郷が『結構だ』と言って笑っている。

「マジか・・・」阿部が呟いた。

「鹿島先生には言うなよ」塩田がハンバーグカレーにスプーンを突き立てながら阿部に言った。



昼食後、コンクリ研のメンバーは研究室へと戻ってきた。大学院生は発表練習をしていたりスライドの修正を行っていたり、それぞれの作業をしていた。

東郷は部屋の中央にあるソファでくつろいでいた。その向かいには合六と塩田が座っている。

「お前ら二人は修正しないのか?」

東郷はスマートフォンを操作しながら言った。

「終わりましたー。みんなが発表練習している間に修正しました」

合六はソファに身体を深く預けながら言った。

「他の奴の発表聞けよ。確かに随分発表中静かだと思ったよ」

「自分はほとんど指摘がなかったですよ。言い回しと質問対策をします」塩田が言った。

「おお、そうか。修士二年だしな。まあ他の奴らはコテンパンにしてやったからしばらく立ち直れないだろう」

東郷は修士一年の方を見たが全員が顔を下に向けていた。

「ゆかりはちょっと珍しいくらいまとまりが良くなかったな。なんかあったのか?」

東郷は真中を見た。

「ああ、申し訳ありません。すぐに修正します」真中はそれだけ言った。

「いやいや、まあじっくりやってくれれば良いよ」東郷は何か察したように前を向いた。

「さて、じゃあお二人さん、発表練習やりますか?」東郷は身を乗り出して言った。

「そうですね」塩田が賛同する。

「はーい」合六も返事をした。

「そうそう、忘れないうちに言っておかなきゃいかんな」東郷が言った。

「何かあるんですか?」塩田が聞き返す。

「おお。K大の草薙いるだろう?」

「はい。草薙先生ですね」塩田が言った。

「あいつが近くで実地試験をするっていうんで学生が暇なら見学に来てはどうだと言っていてな」

K大とはR大と同じ私立大学で都内にキャンパスを持っている。草薙はK大の土木工学科の教授であり、専門は東郷と同じくコンクリート工学である。東郷と大学が同じであり後輩にあたる。その中でも維持管理が研究テーマである。

「ちょうどお前ら二人暇なんだろうから行って来れば?」

「あの暇ではないんですけれど」塩田が言った。

「もうスライド終わっているんだろう?」

「まあ、そうですけれど。行った用が良いのですか?」

「あいつが研究しているドローンを使った維持管理手法は今後発展する分野だろうからな。そうそう見る機会もないだろうから行って来ればと思ったんだがな」東郷が言った。

「私は行きまーす」合六は言った。

「そうか。お前はどうする?半日くらいだから問題ないだろう?」

「そうですか。ならば私も行きます」塩田も折れたように言った。

「よしわかった。四年生も適当なやつを連れていけ。連絡はこっちからしておくから」東郷はソファに深々と座り直した。

「先生、共同研究絡みですかね?」塩田が尋ねる。

「そうらしいな。国交省とやっているらしい。お国も社会インフラの維持管理については注目しているからな」

「やっぱり維持管理が今後の主流になってくるんですかねー。私は基礎研究が好きなんですけどねー」合六が腕を組みながら言った。

「そうだなぁ、お前も知っていると思うけど日本は高度経済成長期から新規構造物の建設費用が減ってきているからな。代わりに補修や修繕の費用が増えてきている。まあ古い構造物を修理しながら長く使おうっていうことだな。その方が今風に言えばコスパが良いってことだよ」東郷は頭髪を撫でつけながら言った。

「維持管理やメンテナンスの方向に研究や調査が今も行われていますからね。どうやってお金や手間を掛けずに点検調査が出来るかっていうことに社会の流れが向かいつつありますよね」

塩田はマグカップに淹れたコーヒーを飲んで言った。

「そうですねー。でも点検調査なら人がじっくり時間をかけてやった方がいいじゃないですか?点検調査の基本はどのような場合でも目視で行うことって言われていますよね?長く持たせようと努力するのなら、丁寧に見ていった方が良いですよー。そう言うことに人を割けば雇用の問題とか解消するんじゃないですかねー。熟練の技術者も活躍の場が増えるし、後進の技術指導も出来れば時間はかかるかもしれませんけど今後もその経験を使えると思うんですよねー」

合六はソファから伸ばした足を小刻みに揺らしながら言った。

「まあ、そうだな。でも合六、俺は基礎研究も好きだぞ。やっていて楽しいな。世の中がもっとそう言うことに寛容になっていけば良いのになぁって最近思うぞ。いつから大学は成果を直ちに社会に還元しなきゃいけない風潮になったんだろうなぁ。特に工学部だけどな。なんか学生が良いところに就職するために大学を選ぶとか、大学側も良い企業に学生を送り出せるように良く分からんことに時間を使うようになった時期と同じような気もするなぁ」

東郷は天井を見上げた。

「とは言っても、大学で働いている以上、こういった状況になったのはこちら側の責任もあるからな」

東郷はよいしょと言いながら膝を叩いて立ち上がった。

「将来有望な若者たちにボヤくのもやめた方が良いんだろう。じゃあお前ら終わったら声かけろよ」

机に向かっている学生にそう言うと東郷は研究室から出て行った。



翌々日、塩田の車の中に合六と松崎、そして佐々木が乗車していた。後続には飯田の車が走っており、中には後藤が乗車している。

塩田は自分の下についている佐々木、合六は松崎に声をかけたところ、飯田と後藤も参加したいということだったので一緒について来た。塩田の車が四人乗りだったため四年生で唯一の車持ちである飯田が車を出すことになった。

「あいつらだけは遊びに来ている気がするんだよなー」合六が助手席でサイドミラーに移る飯田の車を見て言った。

「そう言うなって。そうだとしても行きたいって言っているんだから断る理由は無いだろう?」塩田はたしなめるようにして言った。

「塩田さん災難でしたねー」合六は塩田に言った。

「最初はな、そう思ったけれどさ。でもドローン見たいし」そう言って合六に向かって笑った。

「今日はどこまで行くんですかぁ?」佐々木が塩田に尋ねる。

「S県の方だね。そこの橋梁に行くんだ」塩田がバックミラー越しに返答する。

「そこ行って私たちは何をすれば良いんですかぁ?」佐々木は肩までかかった長い茶髪を髪ゴムでまとめていた。

「そこで見学会ってことですねぇ」佐々木がスマートフォンを取りだして言った。

「あ、一応特許とか関わっているみたいだから、トンネル見学の時と一緒で写真は禁止ねー」合六が佐々木に向かって言った。

「はぁい、了解でっす」佐々木は敬礼のように手を額に当てて言った。

「塩田さん、ちょっと聞いて良いですか?」松崎が律儀に手を挙げる。

「うん?何?」

「今日は草薙先生の開発したドローンの試験運転の見学ですよね?」

「そうだよ」

「ドローンって最近よく聞くんですけど、草薙先生のドローンは何がオリジナリティー何ですか?」

「学会発表みたいな質問するね。えっとね。まあ最近ドローンって言葉聞くよな?」

「はい。プロペラが四つついているのをよく見ますね。なんか墜落したことがニュースになったのを見ました」

「そうだね。でもあれは正確にはマルチコプタとか呼ばれるものだよ。代表的なのは四つのプロペラだね。クワッドコプタって言うのかな?他にもヘキサコプタっていうのもあるね。プロペラが多い方が安定して飛行ができる」

「へぇ。そうなんだぁ。知らなかったです」佐々木もスマホを見ながら言った。

「じゃあドローンっていうのは違うものですか?」

「ドローンは無人航空機の英訳だよ。流行りのやつとかニュースになっているやつはほとんどマルチコプタの仲間だね。つまりラジコンヘリコプタの仲間さ」

「そうだったんですか。ということは点検調査で使われるいわゆるドローンってマルチコプタなんですね」松崎が言った。

「そうだね。まあ結局人が点検調査する時に行き辛い場所を点検するために使われたりするから、人が操縦していた方が都合は良いんだろうね」

塩田はウィンカーを出して左折する。

「草薙先生の開発したドローンは、本当にドローンなんだ。えーっとつまりね、完全自律なんだ」

合六が驚く。

「え?AI搭載ですか?」

「そうみたいよ。AIっていうよりはフライトコントローラっていうのが搭載されているんだよ。ちょっと具体的にどのような仕組みになっているかとかわからないけどね。流石にどこを点検するかを自分で判断するところまではできないかもしれないね」

「少なくとも自律行動ができる構造物維持管理専用のドローンを開発したってことですね?」佐々木が言った。

松崎が隣を見る。佐々木はスマートフォンを見ているが、画面にはSNSの写真等がスクロールされている。

「お、おう。そうだな。良く分かっているね」塩田は圧倒されながらも答えた。

「さっすが佐々木ちゃん、賢いね」合六が言った。

「え?そうなの?」塩田が言った。

「知らないんですか?佐々木ちゃん都内の進学校の出身ですよ」合六はその学校の名前を告げる。

「え?本当?あ、凄いね。知らなかったよ。すみません」塩田は言った。

「全然、大丈夫ですよぉ。ドローン楽しみですねっ」佐々木は塩田に笑顔を見せた。



指定の場所である橋梁が見えたのは午前十時を少し過ぎたところだった。約束の時間よりも早いが、手伝うことがあれば手伝おうということで早めの到着を目指したからだった。到着したのは荒川に架けられている橋梁である。塩田達の車は離れたところに架けられているもう一つの橋梁を渡った。待ち合わせ場所は実験対象である橋梁の上だが、車の駐車場の都合で反対側へと渡ったのである。

鋼製の橋梁はところどころ変色しており架けられてからの年数が想像できるほどであった。

塩田達は橋梁に差し掛かる前に近くのコインパーキングに車を停車した。五分ほど歩いて河川堤防に到着する。周辺は民家やマンションが立ち並ぶ住宅街だった。塩田達が歩いているとどこかからか子供のはしゃいでいる声が聞こえてくるが、その発生源はわからなかった。

河川堤防が見えてくると塩田達は階段を見つけ堤防に上がった。

「ああ、良い眺めですね」松崎は言った。

「そうだねーきっとこの辺の子供たちが遊んだりするんだろうねー」合六も言った。

河川堤防の川表と川裏には草が生えており、塩田達が立っているところから遠くで子供たちが段ボールで滑り降りているのが見えた。全員が同じ服を着ていることから近所の幼稚園生だと思われた。

「あれ子供の時やったな。懐かしい」飯田が言った。

「鉄平ちゃんにもそういう時期があったんだねぇ」後藤が感慨深げに言った。

「そりゃやるよ。小さい時ってああいうのが楽しいんだよ。背も小さいからさスリルがあるんだよ」

塩田達はダンボール滑りをする子供たちを背に橋梁の方へと向かった。河川堤防の高水敷は面積が広く、サッカーコートや野球のグラウンド、そして簡単な遊具などがある公園も設置されていた。川表の法面を降りるとすぐに自動車が走れるくらいの道路もあり、さらに内側にはジョギングコースもあった。

塩田達の視線の先に試験対象の橋梁が迫ってきた。橋梁に差し掛かり渡ると、片側二車線の道路だった。橋梁の中央より塩田達がいる堤防寄りの所で一車線分が通行止めになっており、机が置かれていた。中央分離帯を挟んで反対側の車線の同じ位置には中型のトラックが停車されていた。荷台部分はクレーンのようになっているが、先端にはゴンドラが取り付けられていた。

「高所作業車ですねー」合六が言うと全員がそちらを見た。

「本当だ。何に使うんですかね?」佐々木が言った。

しばらく歩くと机が置いてあるスペースに到着した。

歩道側に学生らしき男性が一名、机には白髪の混ざった黒髪を後ろに撫でつけた中年ンの男性がいた。学生風の男性は歩道に置かれた台座の上にあるドローンをいじっていた。中年男性は机上のPCで作業をしていた。

「草薙先生」塩田が声をかける。

中年男性の方が顔を上げる。

「おお、塩田君、久しぶりだな」

草薙は立ち上がって塩田達の方に向かってくる。

「おお、随分大人数で来たね。初めて会う学生さんが多いかな」

塩田以外は初めて草薙に会うことになる。塩田はそれ以前にも研究室間での交流会や学会で知り合っていた。そこからは一名ずつ自己紹介をした。

「自己紹介ありがとう。私はK大の草薙です。今日はよろしくお願いしますね」

そう言うと草薙は頭を下げた。塩田たちも頭を下げる。

「申し訳ないが私は人の名前が覚えられなくてね。自分の研究室の学生でもやっと最近名前を覚えたところだよ。それにしても東郷先生の学生さんは本当にしっかりしているから安心だろうね」

草薙は塩田に言った。

「いえ、東郷先生には迷惑しかかけていませんから」塩田は言った。

「塩田君、就職先は決まったのかい?」草薙は言った。

「あ、はい。国交省から内々定を貰いました。来月正式に内定ですね」

「おお、国家一種?」

「一応、そうです」塩田は言いにくそうに言った。

「凄いじゃないか、素晴らしいね。就職したらもしかしたら正式にお付き合いがあるかもしれないね。その時はどうぞよろしく」

塩田が苦笑いしているとドローンをいじっていた学生が草薙のもとに寄ってきた。

「先生、調整終わりました。確認お願いします」

「わかった。ありがとう。あ、彼の自己紹介がまだだったね。塩田君は知っていると思うけれど、彼は小峰くんだ」草薙は小峰を紹介した。

「初めまして、K大学土木工学科修士二年の小峰と言います」小峰は頭を下げる。

塩田以外が草薙の時と同じように自己紹介しようとするとそれを手で制した。

「さっき先生に自己紹介していた時に聞いていました。だから大丈夫」にこやかに言った。

「爽やかだなぁ。イケメンだし」佐々木が両頬に手を当てて小声で言った。

「そうか?耳だけ傾けていたってことだろう?気持ち悪い奴だよ」飯田も小声で答える。

「男女で何故感じ方が違うんだ?」松崎もその隣で小声で呟く。

小峰がドローンの方に戻ると、草薙が話し始めた。

「まだ実験開始まで時間があるから少し概要を説明しておこうか。まず今日使うドローンだが目の前にあるこれだ。もしかして勉強してきてくれているかもしれないが一応説明しておこう。一般的に世の中に広まっているドローンというものはラジコンヘリコプタと同じだ。自分で操作していきたい場所へ向かわせるわけだからね。でもこの機体は完全に自律飛行する」

そう言うと草薙はドローンの方に歩み寄る。

「仕組みは具体的に言うとかなり難しいから省くが、本来のドローンが持っている姿勢制御等のフライトコントロール系の上位制御としてもう一つのコントロール系の制御下に置いたんだ。そうだな、人間で例えるとフライトコントロールが小脳で上位のコントロール系が大脳だな」

草薙の説明を全員で聞いていると、飯田が手を挙げた。

「先生、説明の途中ですみません。質問良いですか?」

「何でしょう?」

「ドローンの期待に書いてある英語は何ですか?」

飯田はドローンの期待に書かれている『H・B2』を指差して言った。

「ああ、これはこのドローンの名称だよ。意味はハチドリの英訳であるハミングバードの頭文字ですね」草薙は微笑みながら答える。

「ハチドリですか」飯田が言った。

「そう。ハチドリの飛行安定性がドローンのそれとよく似ているからね。それにあやかるように名前を付けたんだ」

「ハチドリなんて可愛らしい名前ですねー」合六も草薙に向かって言った。

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」

「このドローンは小峰君の修論ですか?」塩田が尋ねる。

「その予定だよ。だから彼には開発に最も時間を費やしてもらっている。多分コンクリートを練り混ぜるよりはパソコンに向かってプログラミングする方の時間が多かったのではないかな?」

草薙は小峰を見る。

「その通りですよ先生。機械工の研究室にも勉強のために何度もお邪魔していましたからね。最近はもうこっちで修論出せばって言われますよ」小峰は苦笑いで言った。

「という訳さ。まあでもそれなりのものが出来たと思うよ」草薙は言った。

「今日の試験もドローンが自律運転するのですか?」後藤が質問する。

「それなんだが今日は実はプログラミング運転なんだ。つまりあらかじめこちらでプログラミングした挙動で橋梁を点検する形になるね。それでもこちらでは操作はしないよ。ドローンに勝手に動いてもらう形になるよ」

「そうなんですねー。ちょっと残念」合六は少し落胆して言った。

「また今度見に来てください」小峰は言った。

「さて、このドローンを使って今日行うのは精度検証だ」草薙が言った。

「精度検証ですか」塩田が言った。

「このドローンには前方と上方にカメラを装着している。それぞれのカメラで撮影された映像で橋梁の点検が可能かどうか、制度は目視で直接観察する場合と同じかどうかっていうことの検証だよ」

草薙が言い終わると道を挟んで反対側の高所作業車の方から声がした。

「草薙先生こちらの準備は終わっています。どうしますか?」

「わかりました。ちょっとそちらに行きます」草薙が言った。

「小峰君、ちょっとここ頼むね。みんな反対側に行きましょう。ルール違反だが交通量が少ない橋だからこのまま横断してしまおう」

そう言うと草薙は道路を突っ切るように反対側に向かう。R大学の学生達もそれに続く。途中の中央分離帯は硬質ゴムの赤いポールが並んでいるだけなので、その間を通過して反対側に向かう。

先程いた場所から見て高所作業車の裏側には作業服の男性が四人いた。二人は薄緑色の作業着に黄色の反射帯、一人がベージュの作業着に赤色の反射帯をつけており、もう一人は薄緑色の作業着で反射帯をつけていなかった。

「綿貫さん、こちらも準備できました。あとこちらは昨日お話ししていたR大学のコンクリ研の学生さん」

塩田達は同じように自己紹介する。

「こんにちは、私は国交省の綿貫と言います。草薙先生と共同研究をしています。東郷先生にも委員会でお世話になっていますよ。今日はよろしくお願いしますね」

綿貫は眼鏡を直して言った。

「あとこちらは関東地方整備局の君津さんと前野さん、そしてクレーンオペレータの武田さんね」

君津と前野が会釈をする。君津はヘルメットを被ってはいるが、浅黒い顔に刻まれた皺から年齢が高いことが予想される。前野は君津よりは若く壮年期であるように見える。武田は作業のブルゾンの前は締めているものの、中に赤いTシャツを着ており、髪も茶髪である。四人の中では最も若かった。

「君津さんと前野さんにはこの高所作業車で目視調査をしてもらうことになっています」綿貫が説明をした。

「検証の方法としては、橋梁の両側面を目視観察とドローンによる点検を交互に行って後で綿貫さんにドローンの映像を見てもらって同じに見えたかどうかを評価しようと考えているよ」草薙が試験の評価について説明を行った。

「じゃあそろそろ始めましょうか?」綿貫が言った。

草薙が頷く。

「君津さん、お願いします」綿貫が合図を送る。

「はい。前野君行こうか」君津と前野はすでに橋の欄干よりも外側に準備されていたゴンドラに乗り込む。

「では私達もドローンの準備をしましょうか」

学生達は草薙と共にドローンのもとへと戻った。

小峰がPCの前で作業をしていると、振り返って草薙に顔を向けた。

「先生、ドローンの方確認してもらえますか?」

小峰は先程草薙に伝えてから反故にされている要望を再度投げかけた。

「ああ、すまん。見るよ。綿貫さん、ちょっとストップ」草薙はドローンの方に駆け寄って作業をし始めた。

塩田達には手出しできないような作業だったため、しばらくドローンの中身などを観察していたが、それも邪魔だろうと考えてR大学の学生達はドローンから離れた。

塩田達は放置されたので橋梁の欄干へと向かった。

「良い長めですねぇ。気持ちいい」佐々木が欄干に身体を預けて眺めを楽しんだ。

「ああ、ここの部分は高水敷の上にあるんだ」塩田が欄干から下を覗き込んで言った。

現在塩田達がいる場所は、堤防の高水敷の部分に建てられている橋台で支えられている部分だった。つまり、下に草地の地面が見える。高水敷が広く取られているため、堤防の両端で二径間分は橋台が高水敷に建てられていた。

「ここだったらドローンが落ちても大丈夫ですね」松崎が塩田の隣で言った。

すぐさま合六が松崎の腿に膝蹴りを入れる。

合六がわずかに首を後ろに向けると草薙と小峰は二人で会話をしながら作業をしていた。松崎の声は聞こえなかったようだった。

「なんで蹴るんですか?」松崎は言った。

「その通りだとは思うけどー、ちょっとは考えようねー」合六は言った。

松崎は首を傾げながらも橋梁からの眺めを楽しんでいた。

「では始めようか。綿貫さんお願いします」草薙が声をかける。

君津と前野の乗ったゴンドラが下に降りていく。

小峰はデスクに戻り、PCを操作する。ドローンのプロペラが一斉に回転を始める。

「おお、なんか興奮するな」後藤が笑いながら言った。

「結構風が来るねぇ」佐々木も興奮しているようだった。

回転数が上がってくるとドローンが少し浮上するとすぐに上空へと飛び立った。

ドローンは三メートルほど上昇すると、塩田達の上空を通って橋梁の外側へと向かった。

そのまま橋梁の側面に向かうと、そこで静止した。

「みんなこっちへ来てごらん」草薙が言った。

塩田達が机のある方へと向かう。

机の前には草薙と小峰が座ってPCの画面を見ていた。PCの画面には二つのウィンドウが表示されていた。縦長のウィンドウには三次元座標が数値で表示されていた。他にも数値データが表示されていた。もう一つの画面の八割を占める面積で表示されていたのは橋梁の側面の画像データだった。

「これは今現在の橋梁の側面だよ。ライブ映像だ」草薙が画面を見たまま言った。

草薙の言う通り、画像データの方は小刻みに動いており、リアルタイムの動画であることがわかる。

「あ、本当だ。でもよく見ないと動画だってわかりませんね。凄い安定している」塩田が素直に驚いた表情で言った。

学生達もそれぞれ感想を口にしていた。

「これってー録画しているんですかー?」合六が尋ねる。

「そうだよ。PCのハードディスクに直接録画できるようになっているんだ」小峰が言った。

「俺下覗いてみようっと」飯田が言ってその場を離れた。

後藤も俺もと言って飯田の後に続く。

PCの画面には橋梁の側面がゆっくり右に流れている。ドローンは左に移動していることになる。

「ちょっと私も見てきまーす」合六も飯田たちがいる所に向かって行った。

「プログラムとしては、飛び立った後に橋梁側面を認識して近づき、その場所を原点として左に三メートル移動、その後原点に戻ってきて右方向に三メートル移動っていう動き方になっているよ。その後は橋桁の下も点検するんだ。その時はカメラも上方に切り替えることになるね。今回の試験用に画面から目視でも確認できるような速度に調整しているんだ。本来の自律飛行するたドローンでも同じ速度で移動するけど必要なところで移動を止めることも可能なんだ」小峰が塩田に言った。

「へー。凄い。小峰君大変だったでしょう?」塩田が言った。

「本当に大変だったよ。草薙先生はずっとこのドローン開発をしていたけれど、僕は修士一年から手伝わせてもらっているんだ。昨年はこのプログラムとドローンの技術開発に費やしていたね。機械工学部に入り浸っていたからね。道具の使い方から何からすべて教えてもらったんだよ」

「本当に小峰君には尽力してもらったよ。私も足を向けて寝むれないさ」草薙が言った。

「でもしっかり形にできそうで良かったですよね」

「うん、もう少しだね」

「小峰さん凄いですぅ」佐々木が目を輝かせながら小峰の前に顔を出す。

「あ、ど、どうも」小峰は焦りながら言った。

塩田は佐々木を引きはがして後ろに追いやった。

「小峰君、ごめんね。なんか節操がなくて」塩田は申し訳なさそうに言った。

「いやいや・・・元気があればね。なんでもできるよね」

小峰はプロレスラーのようなセリフを言った。

「橋梁側面を点検し終わったら今度は橋梁の下部を点検するよ」草薙が言う。

画面が切り替わり、空と欄干から見下ろしている合六達が見えた。するとすぐに橋梁の下側がPC画面に映った。

「あれドローンが橋の下に行っちゃったー」合六が声を上げる。

「合六、プログラムで決まっている行動だから。橋梁の下も点検するんだ」塩田が言った。

「ああ、そうなんですねー」

合六達はドローンが見えなくなってもその場に留まっていた。

草薙と小峰の前に置かれているPCの画面には橋梁の下部が映し出されていた。

「こんなに近くで見るって人じゃあ難しいですね」塩田が言った。

「そうだね。ドローンならではだね。人が点検しにくいような場所でもこうやって簡単に鮮明な映像を映し出すことができる」草薙は言った。

ドローンは橋梁の下部も同じように点検した。ちょうど中央分離帯ぐらいの所まで移動して画像データを取得しているということだった。

「そろそろ戻ってくるかな」草薙が立ち上がった。

「みんな、そろそろドローンが戻ってくるから気を付けてね」

草薙は橋梁から下を覗いている学生達に言った。

「それとせっかくだから実務の点検の様子も見てくると良いよ。滅多に見ることができないだろうからね」

草薙の提案を受け入れることにした塩田達は反対側の高所作業車に向かう。

クレーンオペレータの武田と綿貫が欄干から下を覗いている。

「すみません、こちらも見せてもらって良いでしょうか?」

塩田が学生代表で話しかける。

「もちろん、見て行ってください」綿貫が快く応じた。

学生達はそれぞれ欄干から下を覗く。

高所作業車の後方から伸びたアームが欄干を跨ぎ、その先端に取り付けられたゴンドラが橋梁の側面に貼りつくような形で浮いていた。

ゴンドラの幅は人が一人すれ違える程度の幅だが、長さは十分に長い。ビルの窓ふきのゴンドラよりも少し長かった。今はそこに君津と前野が立っており点検作業をしていた。君津がヘッドの小さなハンマーを持って鋼橋を軽く叩いている。そのハンマーの持ち手の先はバネのようなラインが繋がれており、その先は君津のベルトに繋がっていた。鉄と鉄とが触れ合うときの軽快な音が響いている。前野その隣で小さな手帳に記入しながら、首からかけたデジタルカメラで写真を撮っていた。

橋梁に限らず、君津らが行っている近接点検では、目視および打音検査を実施し、その際に発見された不具合や損傷をチョーキングする。それを写真や記録に残す。ここまでが野外で行うことである。これを屋内に持ち込んでデータ整理後、損傷図や長所を作成するところまでが点検作業である。

「橋梁をハンマーで叩いて良いんですかぁ?」佐々木が合六に言った。

「うん。あれは点検用ハンマーって言って、先端の叩く部分が小さいでしょう?それで持ち手の部分が結構長いよね?あと君津さんのやり方見てごらん。叩くというよりも打ち付けているような感じなんだよ。あれは一定の力で叩いたときに手に返ってくる反動を見ていたり、音を聞いて内部の空洞の存在を判断するんだよ」合六が説明した。

「よく勉強しているね。その通りだよ」綿貫が合六向かって言った。

君津が叩いているハンマーを見ると合六が言った通りの形状だった。点検用ハンマーの先端は二つの形状になっている。一般的な金槌にある平滑な部分と反対側の円錐状で比較的鋭利になっている部分である。鋭利な方はピンポイントで点検を行うときに使用するなど多用途である。点検に使うために使われあるハンマーであるため、釘を打つと言った用途に用いられるものではない。

ゴンドラに乗った君津が一通り点検し終わると、前野に向き直った。

「前野君、次やってみる?」

急に振られた前野は書き込んでいた手帳から顔を上げる。

「え?自分ですか?はあ」

前野は気の抜けた返事をした。

「本来の試験の目的とはちょっとずれるけどな。俺ももう少ししたら定年だから。今の内に君にいくつか伝えておこうと思ってな」君津は笑って言った。

「君津さん、後進は育てて置いて下さいよー」綿貫が橋の上から笑いながら言った。

その言葉に君津は恥ずかしそうに笑った。

君津達を乗せたゴンドラはさらに移動して橋桁の下に向かった。ドローンと同じように橋桁の下を点検するのである。

「やっぱり技術伝承って重要なんだなあ」後藤が言った。

「それが問題になるから草薙先生がドローン造っているんでしょう?」

松崎が隣で言った。

「そういうことなのか」飯田が松崎に向かって言った。

「日本全体でその技術を持っている熟練した技術者が若い技術者にそのノウハウを伝える機会がほとんどないまま、維持管理の時代になってしまったんだよね。今は各機関でそう言った講習や勉強会が開かれているから、まあ大丈夫だと思うけれどね」綿貫が飯田や松崎に説明をした。

「でもね。草薙先生のドローンのような技術も必要だと思うんだ。君津さんのような技術者がいらないという意味ではなくてね。どうしたって人が足らなくなるのは予想できるしね」綿貫は下ではなく正面を見て言った。

「もちろんドローンを使う利点はあるよ。人が点検できないようなところでも点検可能になるし、コスト面でも優れているしね」綿貫は飯田に向き直って言った。

「そうなんですね」松崎が返答した。

「綿貫さん、終わりましたんで上がりますね」君津が言うとゴンドラの橋にある操作盤に向かう。武田側でも操作は出来るが、ゴンドラに乗る方でも操作ができる。

ゆっくりとゴンドラが上がってきたため、学生達は欄干から離れた。

ゴンドラが欄干まで到着すると扉を開けて君津と前野が降りてきた。

「次は向こう側ですね」君津が綿貫に確認した。

「そうですね。お願いします」

「武田君、向こうに回してくれる?」君津が武田に言った。

「はい。わかりました。ゴンドラ戻します」車の後方にいた武田が手元のレバーを操作してゴンドラをさらに上げた。ゴンドラは縮んで短くなるとアームが高所作業車の荷台に収まり、そしてアームの先に取り付けてあるゴンドラもそこに収まった。武田が車の方に移動すると荷台と運転席との間にあるレバーを操作して、車体から出ているアウトリガを収納した。次に武田は前後の片側車輪に取り付けてある木製の楔を取り外して、荷台の隙間に入れ込んだ。

武田は運転席に乗り込むと、車を発進させて、橋を渡り切った。その先で方向転換をして、今草薙がいる所へと向かうことになる。

武田の車を見送ると、綿貫と君津、そして前野は車に注意しながら道路をはんたいがわへと渡り切った。

逆に草薙と小峰がドローンを持ってこちらにやってきた。

「俺らも手伝おう」塩田の掛け声に松崎、飯田そして後藤が駆け出す。その後に合六と佐々木も続く。

草薙と小峰がそれぞれドローンとドローンを置く架台を持ってきていたため、松崎らは机やPC等の小物を持ってこちらにやってきた。

草薙から架台を受け取った塩田は直ちに設置する。

「塩田君ありがとう。みんなも助かります」草薙は言った。

「いえ、これくらいは大丈夫ですから」塩田は言った。

「塩田君ありがとう」小峰も感謝する。

R大学勢が手際よく設置まで済ませたため、草薙や小峰はただ見ているだけだった。

「いや、いつも思うけれど本当に東郷先生の教育は凄いね」草薙は感心していた。

「いつもは馬鹿なことばかりですけどね。やると意思決定した時はすぐに動いた方が速いし、楽だっていうことを全員が知っているんです」塩田は言った。

確かに塩田の号令から全員が動いて再設置するまでの時間は遥かに短かった。

「これならもっと早めに来てもらった方が良かったな」草薙は笑いながら言った。

「二人だけで最初の準備はなかなか大変でしたものね」小峰も驚きながらR大学の行動を見ていた。

「草薙先生―こんな感じで良いですかー?」合六が笑顔で草薙に尋ねる。

「結構、結構です。ありがとう」草薙はサムズアップで応える。

「先生これはどこに置けば良いですか?」松崎と飯田が大きな箱を持っていた。

「ああ、それはドローン充電用の発電機だから、台座の傍に置いてください」

松崎と飯田が発電機を置くと小峰が発電機を作動させた。ガソリンで動くタイプのものでその中でも比較的小さいものである。

次に草薙と小峰がPCを操作してまた準備に入った。

塩田達は何もすることがなく見ていると、反対側の道路に武田の運転する高所作業車が戻ってきた。

武田が準備しながら綿貫、君津そして前野もその準備を手伝っていた。道路を挟んで双方が準備を終えるのに十分ほどかかった。

「綿貫さん、こちらは準備オーケーです」草薙が綿貫に声をかける。

「先生、了解です。こちらも大丈夫です」綿貫もその声に応えた。

双方が先程と同じ動きで点検の準備を進める。草薙と小峰はドローンを起動させる。先程ドローンが戻ってきてから充電をしていたようであった。プロペラが回転してドローンが浮かび上がる。

「頑張って来いよー」飯田がドローンに向かって手を振った。

ドローンは先程と同じ飛行経路で点検を開始した。

ドローンが飛び立った頃を見計らい。君津と前野もゴンドラに乗り込んで欄干から消えて行った。

塩田達は少し離れたところで見学をしていた。草薙と小峰はPCを見ながら何やら会話している。綿貫は高所作業車近くの欄干から下を見下ろし、何か指示を出していた。

「本当にすごいなぁ。私達もこういった研究したほうが良いんじゃあないですかぁ」佐々木が塩田に向かって言った。

「それはどうかなぁ。みんなが同じこと研究したら分野として終わっちゃうよね」

「うーん、そうですか?」佐々木は良く分かっていないようだった。

「簡単に流行りに乗っかるのって普通怖いですよねー?」合六が言った。

「そう言うのが好きな人もいますよね」松崎は言った。

「そうだな。だから否定するべきことじゃないさ。草薙先生はドローンが必要だってことを考えたから研究しているんだ。まあ東郷先生がやるって言ったらやることになるだろうけどね。そうじゃなければ僕らとしてはやらないよ」塩田は言った。

「塩田さん、まだいるんですか?」飯田が甘えたような声で言った。

塩田が飯田の顔を見る。

「もう同じことの繰り返しですよね?もういいんじゃないですか?」飯田はさらに続ける。

「お前さーさっきの草薙先生の言葉聞いてなかったの?二人で準備して大変だったって言っていただろー?撤収までいてあげようって思わないの?お前は子供か?」

合六が飯田に詰め寄って言った。

「合六ありがとう。飯田、俺が言いたいことも同じだよ」塩田はそれだけ言った。飯田は不貞腐れた顔で引き下がった。

「点検調査って重要性の高さに比べて地味ですよね」松崎が言った。

「重要なことって目立たないことが多いからな」塩田が松崎を見て言った。

塩田が顔を元に戻す動作と同時に、机にいた草薙と小峰が一斉に立ち上がった。

塩田達はその動作があまりにも突然だったため、呆気に取られていた。

立ち上がった草薙と小峰は飛び出すようにして駆け出して堤防方向へと駆け出した。

それを見た塩田も駆け出す。遅れて合六と松崎そして飯田、後藤そして佐々木が続く。

反対側にいた綿貫もそれを見ていたようで塩田に続いて駆け出していた。

塩田は机を通り過ぎる時に机上のPCの画面を見た。画面の大半がブラックアウトしていた。ただのPCの不具合ではないと塩田が判断したのは画面の左端の計器類のウィンドウが生きていたからである。

塩田はさらに走り出す。合六と松崎が追いつく。三人体制で橋梁を渡り切る。すぐに方向転換をして堤防の法面を駆け下りる。すぐに舗装された道路に出るが、さらに方向転換をして橋梁の下へと向かう。前方に草薙と小峰が佇んでいるのが見えた。

塩田と合六そして松崎は自動車道路を渡り、ジョギングコースをしばらく走った。三人の後方から綿貫もついてくる。そのさらに後方からは飯田達三人が法面を降りてくるのが見えた。前方を走る三人はジョギングコースの途中からさらに河川側の草地に入る。そのまま佇んでいる草薙と小峰のもとへ向かう。

息を切らした塩田が小峰の後ろに立つと、小峰は少しだけ塩田の方を見てすぐに視線を前方に戻した。

合六と松崎も息を切らしながら立っている。

草薙は視線を外さずに前方を見ていた。

草薙と小峰、二人の視線の先には草地に落ちて動かなくなっている機械式のハチドリの姿があった。



草地に墜落していたのは先程まで空を飛びまわっていたH・B2だった。

点検対象である橋梁の橋桁の真下、他の場所よりも背丈の高い草が生えている部分にH・B2は墜落していた。背丈が高いと言っても人の脛程度の高さであるために立っていれば機体は十分に見えた。この場には人力で点検作業をしている君津と前野以外が立っていた。橋梁で点検作業をしている君津と前野はこの騒動をまだ知らない状態だった。その場にいる誰もが予想していない状況であり、特に開発者の草薙と小峰、そして共同研究者である綿貫の動揺は隠しきれなかった。

しばらく呆然としていた小峰が我に返ると、H・B2を持ち上げた。煙等は出ておらず、先程まで空を舞っていた様子からは想像できなかった。

「小峰君戻ろう。分析してみよう」草薙は言った。

草薙と小峰は塩田達の脇を抜けながら堤防の法面を上り始めた。小峰の腕の中にはH・B2が抱かれている。その後ろに草薙も続いた。

綿貫は困惑の表情を浮かべながら、頭を掻くと二人の後ろを追いかけた。

塩田達はしばらく呆然としていたが、下にいてもやることが無いので橋桁の上に戻ることにした。戻る前に合六は下から橋梁を見上げる。橋桁下の点検通路の奥に君津達の乗っているゴンドラが降りてきたところが見えた。



塩田達が橋桁の上まで戻ると草薙と小峰そして綿貫が台座の上に置かれたドローンを囲むようにして立っていた。

「草薙先生」塩田が声をかける。

「ああ、なんか取り乱してしまって申し訳なかったね」草薙は力なく笑った。

「いえ、そんなことは」塩田はそれだけ言うと黙った。

小峰を見ると、心底落胆しているようだった。塩田も声をかけづらくしていた。

「先生、これは・・・どういったことなのでしょうか?」綿貫が草薙に聞いた。これはテレビドラマなどで見る皮肉が混じった言い方ではなく、綿貫は純粋な疑問として聞いていた。

「そう・・・ですね。まず、確実に墜落したっていうことですね」草薙は言った。

「それはそうですね」綿貫は即座に返答する。

草薙は余程ショックだったのか、判りきったことを言った。

「その原因は何でしょうか?」綿貫は続けて質問する。

隣にいる小峰はただ俯いて立っているだけだった。草薙は額に流れる汗をハンドタオルで拭うだけだった。

「雲行き怪しいな」飯田が小声で言った。

塩田達は草薙達から少し離れた場所に移動していた。彼らを包む重苦しい雰囲気に気押されてしまったためである。

「あれだけ自信満々に開発したことを話していたからな。ショックだろうよ」後藤も飯田の横に立ち、小声で返答する。

「小峰さん可哀想・・・」佐々木が悲痛な声で言った。

「お前らなー。小声で喋っているところは成長したなって思うところだけど、考えていることが酷すぎるぞー」合六が小声だがいつもの調子で飯田と後藤に注意をする。

「でも、合六さん、結局墜落しているっていうことはドローンとして欠点があったっていうことでしょう?」飯田が言った。

「飯田、それはまだわからないだろう?反対側の橋梁側面の点検では普通に点検で来ていたし、ちゃんと飛んでいただろう?」塩田が声を落として言った。普段は良く通る声の塩田だが、声のトーンを落として喋ると、発言の中に凄みが増す。

「でも、急に墜落することってあり得ますか?」後藤も飯田の意見に賛同するようだった。

「ただ単にドローンが出来たから実地試験しますっていうだけじゃあここまでの規模で試験しないだろう?」

飯田も後藤も首を傾ける。

「あのな、草薙先生のドローンは先生の研究室で単独で開発したわけではないだろう?綿貫さんの方もこのプロジェクトに関わっている。共同研究者だからな。だからまあ飛ぶから大丈夫だろうっていう簡単な考えでここにいるわけではないんだよ。それまでに試行錯誤を繰り返してここ以外の所で実験をしてっていうことを先生と小峰君はずっとやってきたんだ。それこそ昼夜問わずね。だから俺はこんな形になってしまったことが残念だよ」

塩田の発言の後半はほとんど独白のようだった。飯田も後藤も少し俯いていた。

「小峰さん悔しいだろうなー」合六もその気持ちが良く分かっていた。

「合六さんもやっぱり悔しく感じますか?」松崎は合六の顔を見て言った。

「うん、それはねー。小峰さんの立場だったら悔しいと思うよー。やっとここまで漕ぎつけたっていう気持ちだろうからね」

松崎はその顔をじっと見ていた。

ドローンを囲んでいる三人を取り巻く空気はまだ重いままだった。

「原因・・・ですが、まただ詳しく調べてみないことには・・・」草薙は言った。

「先生、ここに穴が開いていますよ」いつの間にか松崎がドローンの横に立っており、ドローンを観察していた。

松崎の報告を受けた草薙は飛びつくようにドローンを観察した。

H・B2の機体は本体分が黒色をしており、プロペラが白色をしている。そのプロペラはフレーム状の黒い硬質ゴムで覆われている。仮に対象の構造物に接触してもそこがクッションとなってプロペラを傷つけることがない構造になっているのである。その機体本体の部分、ちょうど中央付近に橋桁の下部を撮影するために取り付けられたカメラがある。松崎が指摘した穴はカメラの脇にあった。カメラが二センチほどの穴の中に設置されているが、その脇に五ミリほどの穴が開いていた。

「確かに穴があるな」草薙は言うと、台座の上でドローンの上下を反転させた。ドローンの底面部分が上方になる。

「同じ位置に穴が開いているな」草薙は言った。

綿貫と小峰、そしてR大学の学生たちも近づいて覗き込むと同じ位置に穴が開いているのが確認できた。

「飛び立つ前はこんな穴ありませんでしたよね」小峰が草薙に確認した。

「確かにこんな穴なかったな」草薙も言った。

「この穴が墜落の原因ですか?」綿貫が草薙に確認を求める。

草薙は綿貫の発言に答えなかった。代わりに小峰の方に顔を向けた。

「小峰君、カバーを外してみようか」

小峰はドローンを元の正しい位置に戻すと机の下に置いてあった工具箱を取り出し、中の工具を手に取った。

小峰以外の全員が見守る中、小峰は慣れた手つきでドローンのカバーを外した。今まで何回も開けたことがあるのだろうその手つきは滑らかだった。

カバーが開かれたドローンの中身は基盤やカメラがむき出しになっていた。

草薙と小峰が中身を調べている間、向かいの道路に停められている高所作業車から武田が声をかける。

「綿貫さーん、君津さんが終わったと言っています」

小柄な武田から甲高い声が発せられた。

「了解です。上がってきてもらってください」綿貫は武田に言うと片手を挙げた。

「あ、そうか、まだ君津さん達は下で点検していたんだ」飯田が呟いた。

向かいの道路で君津らの乗るゴンドラが上がってくる中、草薙と小峰はドローンの中身を点検していた。

ゴンドラから降りた君津と前野は、こちら側の異様な雰囲気を察したのか、武田に話を聞いている。武田もこちらの事情を良く分かっていないのか首を傾けるだけだったため、君津と前野は道路を渡ってこちら側へとやってきた。

「お疲れ様でした。何かあったのですか?」君津はヘルメットを外して言った。前野も後ろから覗いている。

「少しトラブルがね」綿貫はそう言うと、言葉を慎重に選びながら君津と前野に説明を始めた。

「それは・・・大変ですね」君津はそう言った。前野も無表情で見ていた。

彼らにとっては草薙や綿貫ほどに思い入れはないため、それ相応の感情表現だった。

武田はゴンドラを車の荷台に収納しているところだった。しばらくはその音だけが現場には響いていた。

草薙や小峰がドローンを調査し終わったのは君津らの撤収準備が完了してから五分後の事だった。

「詳細はしっかりと研究室に帰ってからじゃないとわかりませんが」草薙はそう言った。

草薙は顔を上げて説明を始めた。

「H・B2の上面と下面に開けられた穴は貫通しています。中身のフライトコントローラとCPU、つまりAI部分の基盤が破壊されていたよ。機体前面と上面に設置されていたカメラ自体は無事ですが、しっかりと画像データが得られたかどうかはわからないな。PCを見てみないとわからん。それは今小峰君が見直してくれているからそっちの結果待ちだな。墜落した原因は、フライトコントローラが破壊されたことで制御不能状態に陥ったためだろうと思う」

「ピンポイントで破壊されているっていうことですか?」塩田が質問した。

「結局これくらいの大きさのドローンなので機体の胴体部を貫ければ必ず両方の基盤を破壊することはできるからな」

ドローンの機体本体が破壊されれば墜落するということだった。

「継続は難しそうですね」綿貫は言った。

「現状、墜落するまでのデータで何とかするしかないですね」草薙が言った。

草薙と綿貫はその場で議論を始めた。五分ほど話していると草薙が塩田達に気が付いた。

「あ、ごめん、すっかり放っておいたままだったね。すまん。こんな状況になってしまったのは何とも・・・こちらも参っているよ」草薙の顔からは疲労の色が見えていた。

「いえ、こちらも無理言ってお邪魔しましたから。では我々はもう帰ることにします。また今度は研究室にもお邪魔させてください」塩田は言った。

綿貫は君津達に話しかけていた。それが終わると君津達は高所作業車に乗り込んでその場を去って行った。

草薙はぜひ声を掛けさせてもらうよ、と塩田達に言った。R大学の学生達は各々草薙や綿貫にお礼を言った。

最後に塩田は小峰のもとに近寄った。

「小峰君」塩田は声をかけた。

「落ちちゃったねぇ」小峰は笑いながら言った。小峰の精一杯の強がりだった。

「また作れば良いと思うよ。今までの積み重ねは絶対に裏切らないからさ」塩田は言った。

「青臭い言葉ですね」松崎が隣にいた合六に言った。

「わかりやすい方が響きやすいでしょー?それに・・・」

正直な気持ちもあると思うんだよねー、合六は塩田の後ろ姿を見ながら言った。

塩田達はぞろぞろと歩いて橋梁から河川堤防へと向かった。時刻を見ると正午を過ぎたところだった。

「本当に半日だな。というか濃い二時間だったな」塩田が言った。

「一日分疲れた気がするのは何故ですかねぇ?」佐々木が歩くのも疲れたというような表情で言った。

「結果としてああなりましたけれど、最深のドローンを見ることができて良かったですよ」後藤が言った。

「そうそう。凄い静かだったよね?」飯田は後藤に言った。

「あー全く音を聞いていないわ。そう言えば」後藤も驚く。

「ドローンの『脳みそ』だけじゃなくて、『足』の方も工夫を頑張ったみたいだよ」塩田は振り返って言った。

「さて、じゃあ飯食って帰ろうか?」塩田は笑顔で振り返った。

「お腹すきました。そうしましょー」合六が一番に言った。その他もその意見に続く。

車を停めたコインパーキングまで到着すると、行きと同じように車に乗り込んだ。

塩田はパワーウィンドウを下げて横に停めてあった飯田の車へ声をかけた。

助手席の後藤が気が付き、パワーウィンドウを下げる。

「飯田、『たそがれ食堂』にしようと思っているんだけどどうかな?」

「良いんじゃないですか?」飯田は言った。後藤も頷く。

「こっちの車はどうだい?」塩田は振り向いた。

全員が首肯したので、また窓の外へと顔を向ける。

「オーケー、じゃあそこで」

塩田はそう言うと車を発進させた。

塩田と飯田は車を走らせてC県まで戻ってきた。R大学に戻るその手前で国道沿いにあるお店に車を停めた。橋梁の現場からここまで一時間ほどだった。

店の入り口の上に掲げられた看板には手書きの墨文字で『たそがれ食堂』と書いてあった。店の前にある駐車場には十台以上が停められる駐車場があるが、今は塩田と飯田の車しか停車していない。

ここの食堂は大学からも車を使えば十分とかからない距離にある。R大学の学生も頻繁に利用する。ランチタイムは学生が利用する店らしく、リーズナブルな値段で料理を提供してくれる。夜もリーズナブルな値段でお酒が飲める居酒屋として営業していることで学生にも人気ではあるが、定食屋に併設して別棟が建っており、そこでは大人向けの高級感あふれる雰囲気と料理が楽しめる。片田舎にある店としては申し分ない存在であり、利用者の大半は頭が下がる思いをしている。

それぞれの車から降りる。

「合六、鹿島先生には連絡してくれた?」塩田が言った。

「はーい連絡しておきましたー」

「先生は何て?」

「ごゆっくり、だそうですー」合六は人差し指で頭をトントンと叩く。

「はは、そうか。まあ見学に行っていることは知っているからな。まあ良いでしょう」塩田は言った。

ぞろぞろと連れ立って店に入ろうとすると、塩田は何かに気付いたようにポケットからスマートフォンを取り出した。

「あ、小峰君からだ。ごめん、ちょっと先に入っていて」塩田は車の所まで戻ってスマートフォンを耳に当てた。

「はーい」合六は返事をすると店内に入った。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「六人ですー」合六は言った。

店員に案内されて店内の奥へと向かう。通された席は入り口から左奥の席だった。店内にはお客はほとんどおらず、中央にあるカウンター付きのキッチンを挟んで反対側に座っていた眼鏡をかけて文庫本を読んでいる男性のみであった。

通路側に開いたコの字型の席に合六達は座った。店員がお冷とメニューをテーブルに並べていると、入り口から塩田が入ってきた。

店員から合六達と同じように接客を受けた塩田は指で合六たちが座っている席を指した。店員はメニューを取りにキッチンカウンタの中に戻り、塩田は合六達の席に向かった。席に向かっている塩田の顔は強張っていた。

「電話なんだったんですかー?」合六がまだ立っている塩田に言った。

「K大学の草薙先生の研究室が火災に遭った」塩田はそれだけ言った。

席にいる全員が驚いて塩田を見た。

「どういうことですか?」飯田が塩田に言った。

「小峰さんは大丈夫なんですかぁ」佐々木が両手を組んで塩田を見る。

「ああ、草薙先生と小峰君は大丈夫だったみたいだ。というより今研究室に帰っているところらしい」

「研究室の被害はどうだったんですか?」後藤が言った。

「うん、まだ先生たちも状況を完全に把握してはいないみたいだけれど、研究室は学生の部屋と先生の個人研究室の両方が全焼しているって。でも、被害者はいないみたいだよ。誰も研究室にいない時に出火したようだね。不幸中の幸いだよ」

塩田は合六達に話したことで安心したようだった。身体の力が抜けた動きを利用して席に座った。

「それは良かったですね。誰も被害に遭っていなかったのが唯一の救いですね」飯田は安心したように言った。

「でも草薙先生、今日は踏んだり蹴ったりでしたね」後藤が言った。

「うん」塩田はそう言うと腕組みをして考えていた。

その場が落ち着いた頃に、塩田は顔を上げた。

「まあ、とりあえず食べよう。お腹空いた」塩田はそう言うとメニューを見た。

キッチンカウンタでも店員が注文はまだかというような雰囲気で見ていたからというのも理由だった。

全員の注文した品が届くのにそれほど時間はかからなかった。塩田達の注文が厨房に届いてから店主と思わしき小太りの中年男性と不釣り合いのコック棒を被った男性料理人のリズムの相性が抜群に良く、瞬く間に料理が出来上がっていった。

並べられた料理を塩田達は黙々と平らげていく。それらをすべて食べ終わると、ランチタイムのサービスであるコーヒーが運ばれてきた。これはランチメニューのサービスで一人一回であればお替り無料である。

「それにしても、なんで墜落したんですかね」松崎がコーヒーに口をつけながら何気なく言った。

「うーん、そうだなぁ。何故だろうな」塩田がコーヒーを一口飲んでテーブルに戻した。

そこから緩やかになぜ落ちたのかという議論に移り変わっていった。

「やっぱりドローンの調子が悪かったんじゃないの?」後藤が言った。

「そうだよな。所詮機械だからな。何度も試行錯誤したって言っても、本番で必ずしも上手くいくっていう保証にはならないからな」飯田も同調した。

「じゃあ、あの穴な説明はどうするの?」松崎が真直ぐな目で言った。

「それは・・・たまたま本体に疲労が溜まっていて、そう金属疲労ってあるじゃないか、それと同じことがドローンの機体にも起こったんだよ」飯田は思いついたように言った。

「あのドローンの機体って、軽くする必要があるからプラスチックとかABS樹脂とかでしょう?あんな風に円形に綺麗に穴が開くように破壊するかな。ひび割れも見つからなかったよね」

「うーん・・・」飯田は考えているような素振りを見せた

「もう一つ言うと、中の基盤まで穴が開いていたよね?だとすると期待の疲労っていう説はあまり考えられないと思うんだよね」松崎は飯田の方に身を乗り出しながら言った。

飯田と松崎の間にいた佐々木は身を仰け反らす。

「うるさい、マスカレードパーティーみたいな顔しやがって」飯田は松崎に言った。

「どういう意味か分かりますか?」松崎は合六に尋ねる。

「知らないよーお前らの中で処理しろよー」合六は突き放した。

「仮面舞踏会みたいに華やかな顔っていることじゃん?」佐々木が言った。

「本当にポジティブで頭が下がるよ」塩田は言った。

「そう言うお前はどう考えているんだよ」飯田は松崎に向かって言った。

「全く見当がつかない」松崎はそれだけ言った。

「何だよそれ」飯田は不貞腐れた。

「無理なこと考えるよりはわからないっていう方がまだマシだろうねー」合六が言った。

「それとお前ら橋の上で言っていたことと何ら変わってないじゃないか。それ以降に得られた情報とか知識から自分の説を改めるっていうことも重要だと思うけどね」塩田は諭すように言った。

いつの間にか席に座っている全員が考え始めていた。すでに考えを否定された飯田と後藤、考えつかないという松崎もまだ考えているようだった。その様子は外から見れば六人の男女が黙ったまま何か考えごとをしているという異様な光景に映っている。

「えーっとじゃあ、私、いいですかぁ?」佐々木が言った。

佐々木はコーヒーを一口丁寧に手を添えて飲むと背筋を正して話し始める。

「まず、墜落したドローン本体に開けられた穴ですけど、それに注目しました」

佐々木はそれまでの耳に残るような話し方から凛とした透き通った声に変わった。

隣に座っている後藤が頬杖をついて聞いている。

「あの穴は、飯田君は自然に、材料の劣化が原因で空いた穴だとしましたが、やはりそれは無理だと思います」

「わざわざ否定から入るのかよ」飯田が小声で呟いた。

「ごめんね飯田君。でも前提としての話だから許してね」佐々木は両手を合わせて笑顔で言った。

「だから、あの穴は人為的に開けられた穴だと思うんです」

「うん、そうだろうね。問題はその方法だ」塩田は言った。

「そうですね。それと誰がやったか」佐々木が言った。

飯田は頬杖をついていた手を戻して腕組みをして座った。

「まずあの穴がどのタイミングで開けられたのかっていうことですが、ドローンが橋梁の桁下を点検している時だと思います。それ以外は私たちが見ていましたから何かするタイミングがありません」

「うん、そうだね。というか佐々木、お前はあの場にいる誰かがドローンを破壊したって考えているのか?」松崎が言った。

「そう。少なくともあの時に堤防の高水敷に人がいるっていうことはなかったと思う。見晴らし良かったからね。誰かが橋梁の傍にいれば気が付いただろうし」

佐々木が松崎に向かって言う。

「人気は無かったな。遠くに子供たちはいたけど何もできなかっただろうしね」後藤が言った。

「そう。だからあの時あの場にいた人間の中にドローンに穴を開けた人間がいる」佐々木は言った。

その場の全員が黙った。キッチンから聞こえる食器を洗う音だけが響いていた。

「実験の参加者ってこと?俺らも含まれるのか?」後藤が言った。

「うーん、一応そうだけど、ほとんど固まっていたしね」佐々木は口に指を当てながら言った。

「そんなことする理由が他の六人にあるの?」飯田が言った。

「そんなことは私たちにわからないじゃない?この場はドローンに穴を開けられた人間とその方法についての話。可能性だけの話だよ」

「じゃあ具体的な方法とそれをした人間については?」塩田が言った。

「はい。その人物については、私は君津さんと前野さんだと考えています」

佐々木以外の他の人間の反応はなかった。塩田は鼻から深く息を吐いた。

「そうか。じゃあその方法は?」塩田が口を開いた。

「使ったのは点検用ハンマーです。方法としては、一回目と場所を交換した二回目の点検時にゴンドラを橋桁の下まで移動させて下から放り投げるようにして点検用ハンマーを投げたんです。その時点検用ハンマーの鋭利な方ありますよね?ワインのボトルキーパーみたいな」

「確かにボトルキーパーみたいだな」塩田は笑って言った。

「そっちの方を当てるようにして投げたんです」佐々木は言った。

「なんで下投げなの?上投げの方が投げやすくない?」飯田が言った。

「上投げだと橋桁に当たる可能性があるでしょう。それに上に物があると投げにくいし」

「点検用ハンマーはどうやって回収したの?下に落ちてなかったでしょう?」後藤がいいつの間にか注文したケーキにフォークを突き刺しながら言った。合六が気付いて食べたそうな顔をした。

「点検用ハンマーには落下防止用のラインが取り付けてあった。君津さんのベルトにつないでありましたよねぇ。だから投げても回収できるようになっている」

「君津さんが実行犯?前野さんは?」松崎は律儀に手を挙げて質問する。

「正直どちらがっていうのはわからない。でもなんとなく君津さんっていう気がする。ハンマーを扱っている経験年数が違うからね」佐々木は松崎に向かって言った。

「ああ、確かにゴンドラの上で君津さんから点検ハンマーを初めて渡されたような場面があったな」

「だから共謀してやったけど、投げたのは君津さんで前野さんはゴンドラを操作したとかそういう感じじゃないかな?」佐々木は言った。

「それが佐々木の説だな」塩田は確認するように言った。

「点検用ハンマーを投げたっていうのはなんか無理があるというか、うまく当てられるのかなー?」合六が言った。

「ラインが繋がっているから、何回も投げられると思うんですよね?」佐々木は引き下がらない。

「でもさードローンが落下した時ってまだ君津さん達は橋梁の側面にいたんじゃないかなー」合六が言った。

「何故そう思うんですか?」

「ドローンが落ちた時も君津さん達は点検を続行していたでしょう?それで下にドローンを確認しに行ってそこから帰る時に私君津さん達がゴンドラで降りてくるのを見ているんだよねー」合六は思い出しながら言った。

「え?そうなんですか?」佐々木が前のめりで聞く。

「うん。それにさ、ドローンが丁度墜落した時に、草薙先生と小峰さんが机から立ち上がって駆け出して行ったよね?」

「そんな感じでしたねぇ」佐々木も思い出しながら言った。

「あの時に綿貫さんが欄干から下に向かって指示出していたでしょう?その時点でまだ側面にいたんじゃないかと思うんだよね?それじゃなかったら綿貫さんも共犯ってことになるけど・・・ねぇ。共同研究の対象をだめにする理由ってあるかなぁ。国で動いているっていうことでしょう?」合六は言った。

「うーん、まあゼロではないだろうけれど、限りなく考えにくいね」塩田も言う。

「あぁ、なんか途中までは良い感じだったと思うんだけどなぁ」佐々木は机に突っ伏して言った。

「飯田と後藤ペアよりはまだマシだったよ」塩田が該当する二人を見ながら言ったが、両社とも何も言えずに黙った。

「合六の話にさらに補足すると穴の形状だな。全員で見たと思うけど、点検用ハンマーの鋭利な方が当たって開いた穴だったら、ドローンの上と底面では穴の大きさが違うでしょう?下の方が大きくなきゃいけないよね」

ドローンの底面から上方へ円錐状の物体が貫いたら底面の方の穴が大きくなければならない。

「そうかぁ。じゃあ塩田さんはどう考えているんですかぁ?」佐々木は塩田に向かって言った。

「俺は・・・武田さんじゃないかと思っている」

「え?武田さん?クレーンオペレータの?」意外に思ったのか佐々木が驚いている。

「そう。具体的な方法なんだけれど、実は俺たちは武田さんがあの時どこにいたか把握していないんじゃないかと思ったんだ」

全員が思い出そうとしているが、誰も反論できずにいた。

「あ、そう言えば下で墜落したドローンを見つけた時に一緒にいましたよ」後藤が言った。

「ああ、そう言えば俺たちの後ろにいたな」飯田も思い出したように言った。

「そうなんだ。だから少しおかしいと思った。綿貫さんが来るのはわかるんだ。草薙先生の方を気にしていただろうからね。でも武田さんはクレーンオペレータだし、ゴンドラの方で操作できると言ってもその場から離れる必要は無い」

「言われてみればそうですね」松崎は言った。

「そこから考えてみたんだけれど、綿貫さんも武田さんが何しているか気にしていなかったんじゃないかな。クレーンの操作って高所作業車の後方にあったから綿貫さんが気にしていないっていうのもわかるし、こっちも現にどこにいたかわかっていない」

「僕らが気にしていない間に武田さんがドローンを破壊したっていうことですか。でもどうやったんですか?道路の反対側に向かっても先生達がいるから止められちゃいますよ」松崎は言った。

「もう一つドローンに近づける道があるんだよ」塩田は言った。

「橋桁の下の点検通路ですね?」合六が言った。

「そう。その通り」

四年生全員が首を傾げた。

「君らはもっと日常で土木構造物を見なさい」塩田は笑った。

「橋梁の点検用に橋桁の下とかに点検用の通路が設けられているんだよー。高速道路を下から見たことない?簡単な通路が設置されているでしょう?」合六が補足する。

「この点検調査で違和感を覚えたことがあって、何だろうと思っていたら下に降りて思いついたよ。橋桁の下の点検でも高所作業車を使っていたんだよね。点検することは不可能じゃないけれど、点検通路を使った方が楽だね。でもそれをしていなかった。多分だけどドローンと同じ条件で点検することにしたんじゃないかな」

塩田はそこでコーヒーを一口飲んだ。

「だから武田さんはこの通路を使ったんだと思う。手順としてはまず二回目のゴンドラを降ろして綿貫さんもその見学に入ったら、堤防側に向かう。そして法面を降りていって点検通路の入り口から階段を上って点検通路に向かったんだ。普段通路には鍵が掛けられているけれど、用意はしていたんだと思う。何か理由をつけて君津さんから受け取ったんだね。それを使って入った。ドローンが橋桁の下の点検に入ったら、前方のカメラは一切映らない。ドローンの点検範囲は橋桁の中央まで、点検通路も中央に通っていたから十分に手の届く範囲にドローンが近づく。下から何か、そうだな、ねじ回しみたいなもので突き刺したんだろうな。点検通路から戻る時は高所作業車の所には戻らなかった。落ちたドローンの所に先生達がやってくることが予想できたから鉢合わせになる可能性がある。だから入り口辺りに留まって、最後にやってきたように見せかけたんだ」

塩田はそう言うとソファにぐったりと身を預けた。

塩田以外は各自ソファに深く座りながら黙っていた。

合六を除いて。

「じゃあ、最後に私の考えね。これまでの議論と同じくあの橋梁にいた誰かがやったことは間違いないと思う。私はそれが小峰君だと思っている」合六があっさりと言った。

合六の発言にその場の誰もが驚愕した。

「え?小峰さん?なんで?」佐々木が驚いて言った。他の四年生もあり得ないだろうという意見や、どうしてだという意見が口々に出た。

「合六、どうしてそう思ったんだ?」塩田が表情を変えずに言った。わずかに怒りの表情が見えた。

「単純に消去法で」合六は言った。

「方法は?」塩田が矢継ぎ早に聞く。

「まず、穴の形状についてですねー。さっきも言った通り貫かれた穴は全部同じ大きさだった。つまりおなじ大きさの物体が下から上へと抜けて行ったことになる。その点で塩田さんが言ったねじ回しっていう手もありますけど、綺麗に貫けるかは微妙です。人間の速度では貫くためには力が足りないと思います。ドローンも動いていますからね」

塩田は黙った。

「私が小峰さんが怪しいと思うのは、ドローンのプログラミングを担当していたからです」合六がゆっくりと言った。

「私が考えるあの時の状況ですけどー、まずドローンは墜落していません」

合六の言葉に全員の頭に疑問符が浮かんだ。

「何言っているんですか?実際に落ちていたでしょう?」飯田が言った。

「順を追って話すねー。まず小峰さんはドローンが点検中にある位置に来た時にカメラの映像が切れるようにプログラミングしたんだと思うの。そうしたら直ちにその場で一定の高さ、多分下の草地の少し上くらいまで下降する。そうしたらあらかじめ草地に隠してあったボウガンの矢を発射できる装置から矢を発射させるの。多分単純に筒と火薬でできたものだろうね。もしかしたら小さめのボウガンを使ったかもしれない。ボウガンの矢はドローンを貫いて草地に落下する。同時にドローンもその場に落ちて動かなくなる。装置の位置はプログラミングの時にドローンに指定した位置に置けば良いよねー。そうやってドローンを墜落したように見せかけたんだね」合六は言った。

「待って。あの時にドローンを・・・」塩田はそこで止まった。

「草地でドローンを拾い上げたのは小峰さんですよー。その時に装置は蹴って隠したりしたんでしょうね。草が生えていたからわかり難かったしー。飛ばした矢はどこに行ったか分からないでしょうからね」

誰もが黙って合六を見ていた。

「これが最も無理がないと思いますよ。そうするとプログラミングを担当していた小峰さんしかできないっていうことになりますからねー」

合六はコーヒーを飲み干した。



都内の閑静な住宅街、時刻は午後十一時を回っていた。訪問者は住宅地の中にある公園のベンチに座っていた。目的の人物はいつもこの公園を通って帰宅する。治安が良い地域なのか若者が集まっているような公園ではない。人もさっきから全く通らない。

この時刻にもなると少し気温が下がっている。昼間の強い日差しから比べると随分過ごしやすい。

間もなく通るだろうと考えていると、訪問者の耳に足音が聞こえた。間違いないと訪問者は思い、立ち上がる。視線は公園の二つある入り口の一つに向けられている。その先には暗がりに人影が見えた。

人影が公園に入ってくると、訪問者を認識したように歩みを止めた。

「さて、何の用だろうか?」

「わざわざわかっていることを聞くのは何故ですかね?礼儀の一つでしょうか?」訪問者は人影に向かって言った。

「そんな質問は不可だな」

人影が公園内の薄暗い外灯の下に移動する。外灯に照らされた草薙は眼鏡の位置を直した。

「わざわざ待ち伏せかね?」草薙は淡々とした口調で言った。

「いえ、大学だと大変でしょう?火事の対応で忙しいでしょうから。あ、今思いついたんですけど、これが本当のマッチポンプってやつですよね」訪問者も淡々と言った。

「全く面白くない。不可だ。こっちがどれだけ労力を使ったか考えてくれ」草薙の声には疲労感が漂っていた。

「自分で作ったものを自分で壊すのはどういう気持ちですか?」訪問者は語り掛ける。

「作らされたものを壊されるよりはまだマシだ。何を考えているんだ?そっちが作れと言ってきたんだろう?」

「本来の目的とは正反対の目的で使われようとしていたからですよ。こっちも非常に迂闊だったということです」訪問者は腕を身体の後ろに回して言った。

「何も考えてないっていうだけじゃあないのかね?」草薙の言葉は皮肉を含んでいた。

「こっちも火事まで起こすとは思いませんでしたよ。事を大きくすると面倒くさいことになりますからね。配慮が足らなかったのではないですか?」

「最も簡単な方法を選択しただけだがな。一切合切の研究データの破棄はあれぐらいの事をしなければね」草薙も言った。

「ドローンの機体本体の破棄もお疲れ様でした」訪問者は言った。

「本当に面倒くさい。やる気がある学生だったからな。壊れても修理しようとするだろうからな。完全に破壊しなければならなかったよ」

「ドローンの破壊方法もマッチポンプでしたね」訪問者が言った。

草薙が訪問者を見る。

「何故知っているのかっていう顔していますね」訪問者が言った。

「そんな顔しているかな?どこでわかったんだ?」草薙が言った。

「名前ですかね」訪問者はそれだけ言った。

草薙は大きく息を吐いた。

「『H・B2』という名前を聞いたときになぜ『2』ってついているんだろうと思ったんですよ。それで、もしかしたらもう一台あるのかもしれないって思ったんですよね。今回使ったのは二台目でもう一台ある。完全自律飛行ができる『H・B1』です」訪問者は言った。

「あなたは『H・B1』に少し改良を加えました。上方カメラの場所にボールベアリングの射出装置でも取り付けたのでしょう。その『H・B1』を試験対象の橋梁の河川を挟んで反対側の高水敷に隠していました。『H・B2』の点検開始と同じタイミングで遠隔操作でドローンの電源だけ入れます。『H・B1』は河川を渡るように移動します。この時橋桁の下をなるべく通るようにして移動したと思います。それでなければ上から覗いている学生達にばれてしまいますからね。音に関しては問題ないはずです。『H・B2』でも音が気になりませんでした。河川を渡った『H・B1』は先生方がいた方の橋脚の近くでホバリングで待機します。『H・B2』が橋桁の下の点検に移動した時を見計らって『H・B1』はその真下に移動します。それから真上に向けてベアリングを発射します。発射したら直ちに退避してスタート場所まで戻った。後程回収すれば終わりです」訪問者は短く息を吐いた。

草薙は黙ったまま聞いていたが口元に笑みを浮かべて持っていた鞄をベンチの上に置いた。

「結構、結構だ。良く分かったね」草薙は上着を脱いだ。鞄を置いた時と同じようにベンチに投げて置いた。

「夜は結構冷えますよ」訪問者は言った。

「構わん。少ししたら暖まってくるさ」

「何をしているんですか?」

「君が来たっていうことは、そう言うことだろう?」草薙はシャツの袖のボタンを外して袖をまくった。二の腕まで露わになる。年齢の割には目に見えて筋肉の量が多い。そのまま腕時計も外してベンチに放り投げた。

訪問者は笑みを浮かべる。

「あなた風に言うと結構、結構だ、ですかね」

訪問者は言い終わると同時に地面を蹴る。五メートルあった両者の距離が一瞬で縮まる。草薙は腕周りを整えて両手を広げて腰を落として構えたところだった。その胸元に訪問者は飛び込んだ。訪問者は一瞬で草薙のネクタイを右手で掴む。そのまま訪問者側に引く。同時に左手で顔面に掌底を打ち込んだ。草薙はかけた眼鏡のグラスが激しく割れて飛び散り、身体が後方に吹き飛ばされるが、訪問者は右手のネクタイを手放さずに再び力を入れて自分の方に引き寄せる。草薙の身体が弓なりにしなる。さらに、再び左手で掌底を打ち込んだ。

眼鏡のガラスが草薙の顔と訪問者の左手に刺さる。訪問者はネクタイを持つ手を緩めた。

今度は草薙の体が吹き飛ぶ。起き上がった草薙の鼻からは血が噴き出ていた。顔の細かい切り傷からも血が垂れている。

「もう歳なんですね」訪問者が左手の平を眺めながら言った。

草薙は流れる血をポケットから取り出したハンドタトルで拭う。

「私がここに来た理由っていうのはあなたの処分です。しっかり自分で後始末をつけてくれたからこっちも楽になりました。ありがとうございました」訪問者は笑顔で言った。

草薙は何かを喋ろうとしているが鼻血があふれており喋ることが出来ない。

「少し前に道具を使ったら処理班に怒られたんで今日は素手で仕事しますね」淡々と言った訪問者は草薙の後ろに回って首に手をかける。

そのまま首の骨を折った。

訪問者はゆっくり立ち上がって草薙の亡骸を見る。

「結局鼻血が多いからまた怒られるな」

訪問者はスマートフォンを取り出し電話を掛けた。

「終わりましたので後はよろしくお願いします。え?はい。はあそうですか」訪問者は電話を掛けながら草薙を見下ろした。

「わかりました。では」

訪問者は電話を切る。

「最後にH・B1を残していたとはね。年齢を重ねると余計な事に頭が回るんだな」

訪問者は草薙の顔を見降ろしながら言ってその場を後にした。

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