第3話 ハードカバーインチューブ
八月の中旬、お盆を過ぎて、世の中が働き始めていても大学はまだ夏休みの真っ最中である。
理系の大学生にとってはお盆という風習に何も思わない、あるいは興味がないといった人間が多い。
実際に、前期の授業が終わり、教授の講義の手伝いや実験授業、あるいは大学院入試が終わってやっと研究に打ち込める時間が取れるという学生と、やっと遊びに行けるという学生に分かれる。
コンクリート工学研究室では、大学院生が前半、四年生が後半に大別される。家の事情もあるから仕方ないこともあるので、東郷も鹿島も特にこの時期に煩く言うことはない。それに前期のミーティングで自分達が立てた実験計画がある。計画というもの一般に言えることだが、想定した通りに進まないことが多い。そのためこの時期にある程度進めておく必要があるのは自明だからである。それを守ろうと努める人間はこの時期に少しずつ進めるのである。
R大学五号館一階にある研究室の室内には、着席して作業している学生は数えるほどしかいない。今は二人だけである。ここにいない学生は実験棟で作業している。
研究室にいる一人、修士一年の阿部信也はPCに向かって朝からずっと検索していた論文を読み込んでいた。
「やっべ、全然わかんねぇ」
阿部は椅子の背もたれに身体を預けて背伸びをした。
阿部は今年から新しく研究室で取り組むテーマを担当することに決まっており、実験のための準備を課せられた。実験方法から実験項目の決定まで、東郷との打ち合わせでゴーサインが出るまで検討することになったのである。自分の就職活動が一段落するまで先延ばしにしていたことが今になってしわ寄せがやってきたのだ。何もしていなかったわけではなく、五月時点で一度東郷とのミーティングに臨んだのだが、散々な結果に終わったのである。
「難しいっすよねぇ」
四年生の立花真が同じ声を上げた。
立花は阿部のもとで実験を行って卒論を書き上げなければならない。一蓮托生ということになる。
彼らが取り組むのはコンクリート中の鋼材腐食に関する研究である。一筋縄に行かないテーマであるため、これまでも膨大な研究が行われている。二人が行うのは基礎的な研究であるために理屈がある程度自分たちの中でしっかりしたものがなければただ路頭に迷うことになる。
「最近は鉄筋を使った研究ってやってなかったんですよね?なんで急にやることになったんですか?」立花が不貞腐れたような表情で言った。
「鉄筋腐食の研究はまだ良く分かってないところが多いからなぁ。やるべきことは沢山あるんだよ。これからのことも考えるとやる価値があることをやって行こうとしているんじゃないかな」
阿部は立花に説明するが、それは東郷の考えていることではないと考えていた。テーマの説明があった時に同じようなことを言われたが、それが東郷の本心ではないと阿部は考えていた。
「とりあえず、鉄筋でも引張ってみるか?」阿部は立花に提案する。
立花もずっと研究テーマに関することの勉強と論文の読み込みだけで何も実験をしていない。他のチームから手伝いで呼ばれることがあり、それ自体も勉強になっているはずではあるが、自分のテーマではないということがもどかしく感じるのだろうと阿部は考えていた。
「鉄筋引張るんですか?」立花は聞き返した。
「そう。学生実験でも最近はやってないし、研究室全体でもやってないからいい機会だと思って」
「ああ、そういえば学生実験でも見てないですね」立花はPCの画面を見たまま言った。
「よし、そうと決まれば早速やろう」阿部は椅子のバネの戻りを利用して立ち上がった。
実験棟へと移動した阿部と立花は長い廊下を進む。途中にあるコンクリート試験室、通称『練り場』に人の気配がした。阿部が途中で覗いてみると、室内では真中と矢木、そして上条新太がコンクリート練り混ぜの準備をしていた。真中はTシャツにワークパンツで計算機を片手に部屋の脇にある黒板に向かってチョークで数字を書き込んでいる。矢木と上条も真中と同じようなスタイルだった。二人はそれぞれ砂と砂利が入った大きなボックスからスコップで掬い上げて、はかりの上に乗っているバケツに入れているところだった。
「ああ、阿部君、どう?論文進んでいる?」真中は言った。これは先ほどまで阿部が読んでいた論文が進んでいるかということである。
「そうですね。一進一退ですかね」
「あまり良くない感じね」
「試験体作製ですか?」阿部は室内の中央に置かれたコンクリート用ミキサを見て言った。
「阿部、暇なら手伝ってくれ。三人だとなかなかつらい」矢木は言った。
「阿部さーん、お願いします。手伝ってください」上条も根を上げている。上条は線が細く、砂や砂利を運ぶだけでも苦労しているようだった。
矢木の発言は、実質二人であるから手伝ってくれと言っているということが阿部にも理解できた。矢木は女性に重いものを持たせることを良しとしない人間だった。
「手伝ってやりたいんだけど、こっちも試験でね。鉄筋の引っ張り試験をやろうと思って」
「鉄筋の引張り?最近やってないだろう?出来るのか?」矢木は言った。
「そうね。最近万能試験機動かしていないから。大丈夫かしら」真中も心配そうにしている。
「大丈夫ですよ。この前の大掃除の日に万能試験機が動くかどうか確認済みですし、やり方も研究室で作製していたマニュアルを読んでいましたから」阿部はそう言うと恨めしそうに見ている矢木に小声で誤ってから大空間に向かった。
大空間といっても、他の部屋よりは多少大きいというくらいである。この部屋には四台の試験機が置いてある。耐圧試験機という試料を圧縮することが出来る試験機が二台、万能試験機と呼ばれる試料を圧縮も引張りも両方できる試験機が二台ある。万能型試験機の内一台はかなり昔からあるもので阿部が動作確認した時も電源から入らなかった。そこでもう一台の万能型試験機を使うことになる。こちらは阿部らが学生実験をしていたくらいの時に新たに購入したものらしい。四台ある試験機の内で最も規模が大きく、そして新しい試験機ということになる。
阿部は制御盤のブレーカを上げ、そして試験機のブレーカも上げた。そして試験機自体の電源と油圧ポンプの電源を入れる。低い振動音と高い音を上げて試験機が動き出した。
阿部が試験機を操作しているころ、立花は鉄筋を切断していた。鉄筋はただ購入した状態では三メートルほどの長さがあるため、切断しなければ試験に使用できない。鉄筋カッタで切断をする必要がある。電動で回転刃が高速回転して鉄筋を切断するタイプである。鉄筋の太さがおよそ二十ミリあるため、ニッパなどで切断できないからだ。切断時に大量の火花が飛び散るために立花は安全ゴーグルをかけて作業していた。十分ほどかけて三本の鉄筋を切断した。
阿部は切断した鉄筋を受け取ると手際良く印をつけて行った。鉄筋の引張試験では試験機で鉄筋を掴む位置が明確に決められている。そのための印をつけているのである。阿部は切断面がまだ高温のため、気を付けて作業を進めた。試験の手順は一通り頭に入っているが、念のため試験方法が書かれている日本工業規格を手元に置いて作業をした。
大空間内にある分析機器が置いてあるプレハブから合六が出てくるのが見えた。
「珍しー。鉄筋の引張りやるの?」作業台で阿部が行っている作業を一目見てわかったようだ。
「暇なんで。鉄筋くらい引っ張ってみようかと」阿部はさらっと答えた。
「そうだよねー身体動かしてないとねー」
「合六さん、ちょっといいですか?」
プレハブからもう一人ドアだけ開けて顔を出した。四年生の松崎だった。プレハブは土足禁止だからわざわざ靴を履くのを面倒臭がったのだと阿部は思った。
「なにー?」合六はそちらを見ずに返事した。
「ちょっと見てもらいたいんですけど・・・」
「阿部ちゃんが今鉄筋の引張試験やるんだよー。それ見ているからちょっと待ってー」
「硝酸銀水溶液が漏れているんですけど・・・」
「早く言えー」
合六はプレハブに吸い込まれるようにして戻った。松崎と立花はそれをただ見つめていた。まだドアを開けている松崎が軽く二人に会釈をして扉を閉じた。
「なんで、阿部って名字の人ってちゃん付けで呼ばれやすいんですかね?」立花が言った。
「そこかよ」阿部は彼の今後に不安がよぎった。
鉄筋の引張試験は三十分ほどで終わった。引張試験は鉄筋が破断するまで引張り力をかけ続けることになる。阿部は初めて実験をしたが鉄筋が引きちぎれる時の音は想像をしていたものよりも大きく感じていた。引きちぎれた鉄筋は破断面に向かって絞り込まれるように破断する。破断の瞬間、鉄筋に貯えられた引張りのエネルギーが音と熱に変換される。実際に破断面を触ってみた阿部は想像よりも熱かった。
阿部と立花が実験終了後の掃除をしていると鹿島がやってきた。ポロシャツにハーフパンツという装いだったが、授業もなく会議もない夏休みの服装だった。
「真中はどこにいるかわかる?」大空間に歩いてきた鹿島は阿部に言った。
「お疲れ様です。真中さんは練り場です」阿部は鹿島を見て言った。
ありがとう、と一言投げかけた鹿島は練り場に入って行った。
五分後、廊下側にある練り場の扉が開いた音がした。
その後、阿部らがいる大空間の扉が開き、中から真中、矢木そして上条が出てきた。矢木はスコップ、上条は一輪の手押し車にフレッシュコンクリートを乗せて押して入ってきた。
「じゃあ、捨コンお願いね」真中はそう言うと、矢木と上条が返事を返して実験棟の裏手に向かう扉を開けて出て行った。実験で余ったコンクリートを一旦外で適当な大きさに固めてから、後日廃棄するコンクリートの山に捨てるのである。試験体を余分に作ることもあるが、それでも余ったのだろうと阿部は思った。
阿部らも掃除が片付いて、一息入れているところだった。
「真中さんお疲れ様です」阿部はストレッチしている真中に言った。
「本当に疲れた。阿部君が手伝ってくれないからだよ」真中は緩いTシャツを着ている上半身を前に倒して言った。
阿部は咄嗟に視線を外し、じっと真中を見ている立花の顔の向きを強制的に変えた。
「そういえばさ・・・あれ?立花君は何で首を押さえて座り込んでいるの?」
「ああ、気にしないでください。寝違えたらしいので。どうしたんですか?」阿部は悶絶している立花と真中の間に立って言った。
「うん、さっき鹿島先生から聞いたんだけど、うちの研究室のOGの人がさ、今都内で地下鉄新線の工事をしているのね。それで現場見学に来ないかって言ってくれているの。研究室で見学にどうぞと言ってくれているんだけど、一応参加を募ってみようかなと思って。阿部君行く?」
「はい。行きたいです」
「私も―」いつの間にか合六がプレハブから飛び出してきていた。
「俺も行っていいんですか?」松崎がその後ろに立って言っている。
「結構多いかもしれないわね。わかった。じゃあみんなにメールで連絡するから、もう一度返信してくれる?」
そう言うと真中は戻ってきた矢木と上条と共に練り場へと戻って行った。
その日の夜、真中から贈られてきたメールには、一週間後の日程が記載されており、参加不参加の連絡をするようにとあった。メールが送られてきた翌日に開かれた研究室全体ミーティングでも真中は周知した。結果、予定の都合がついた学生が総勢十名、そして、引率者として鹿島が付いていくことになった。
一週間後の午後十二時、鹿島を先頭に学生達は大学から最寄りの駅へと向かって歩いていた。
お昼時の出発であるが、これは真中から参加者だけに送られた詳細事項連絡のメールで、午後三時からの見学という先方の予定に合わせたためである。大学最寄りの駅からどこかでお昼を摂って、現場へと向かうことになった。お昼で一時間、大学から先方の管理事務所までドアトゥドアで二時間程度だと真中は予想してこのスケジュールを組んだ。
コンクリート工学研究室は、このようなイベントに加えて、毎週一回、研究室飲み会を開催している。それらの幹事や取りまとめ役は基本的に学生達の中から選出される。
今回の現場見学は真中の知人のOGが関わっているために真中が担当している。対外的なものや研究に関することなどは大学院生以上が担当することにはなるが、週一回の飲み会は四年生の中から三人ないしは四人のグループを作り、そのグループがローテーションで酒の肴を料理したり、お酒等の飲み物を準備する。東郷や鹿島の提案で研究室創設当初からのしきたりである。学生たちに段取りをする力を養ってもらおうということが主目的である。その成果がはっきりとわかることは極めて少ないのかもしれないが、OBやOGは大学の近くで仕事がある時などは顔を出したりすることを話しに挙げて、教員側としては一定の効果はあると見ているようだった。
この飲み会自体は強制ではなく、予定があればそちらを優先して良いが準備だけはするというように学生自身も考えながら取り組んでいた。
一行は駅へ向かう途中にある橋を渡る。鹿島と真中が銭湯でその隣には矢木と上条、その後ろに阿部、後藤、金井そして立花が歩いている。さらにその後ろに松崎と三枝が話しながら歩いており、一番後ろを合六が電話をしながら歩いていた。
「えー知らんよーそんなー。うん。うん。そりゃそうだよね。わかった。うん。じゃあね」
合六は電話を切ると溜息を吐いた。
「なんかあったんですか?」松崎が後ろを向きながら言った。三枝も後ろを向いている。背の低い三枝と体格の良い松崎が隣で歩くと親子のように見えるだろう。
「いやーちょっとクレーム処理をねー」
松崎と三枝は顔を見合わせる。
「穏やかじゃないですねぇ。何ですか?」
松崎と三枝は歩を緩めて合六を挟むように並んだ。
「どこからのクレームなんですか?」三枝が言った。
「んー、地盤研」
「ああ、ってことは居石さんですか?」松崎が言った。
「正解。あいつ細かいんだよなぁ」
「なんか私達しましたっけ?」三枝が思い出すようにして言った。
「いや、うーんどうなのかな?良く分かんないんだよね。なんか試験機のデータが飛んだとか」
「それが何でこっちに関係あるんですか?」松崎が言った。
「えーっとね、クレームってさっき言ったんだけど、正確には愚痴の位相が違うバージョンというか」
「具体的にお願いします」松崎は言った。
「そうだね。地盤研とうちは同じ建物でしょう?だからこっちでもデータが飛ぶようなことなかったかってことを聞かれたんだよ」
「クレームになるんですか?」三枝が尋ねる。
一行は駅の改札を抜けて、ホームに降りる。
「だからさ、意見であっても言い方でクレームと取る人もいるんだろうなって身をもって知ったっていうこと」合六は三枝と松崎に言った。
一行はホームに入ってきた電車に乗る。車内はほとんど人はおらず、車両にいる人数としては合六ら一行以外には二人だけだった。車内で真中がお昼は現場の最寄り駅に着いてから食べることにしようと提案した。
途中二回ほど乗り換えて一行は都内の某駅に降り立った。大学の最寄り駅からは二時間程度かかった。隣の駅が繁華街になるため、降り立った駅でも周囲に飲食店が多くあった。ぞろぞろと歩いて遅めの昼食を摂るために一件の店に入った。これは真中が電車の中で事前に調べておいた店だった。管理事務所と駅との間に位置している店を探した結果だった。
店は全国チェーン店のファミリーレストランである。それぞれが注文をして雑談が始まった。しばらく雑談をしていると、合六の隣にいた阿部が話しかけた。
「合六、さっきなんか困った顔してなかったか?」
真中や矢木は鹿島の話に耳を傾けており、他の学生は松崎の馬鹿な体験談に爆笑している時だった。
修士一年ともなると、実働部隊でもあるため、このような時にこっそりと打ち合わせをすることもある。
松崎の話に爆笑していた合六も上手にフェードアウトをして阿部の方を向く。
「えーいつー?」
「大学出てからの橋の上で」
合六は、思い出したように阿部に説明した。
「そうなんだ。先生には報告した?」
「まだー。報告するべきことかもわからないからさ。こっちには実害は無いしー」
二人がこそこそ話していることに鹿島は気が付いた。
「おい、そこの若人二人、イチャイチャするなら陰でやりなさい」
「違いますよー先生、私はもっとイケメンの男子が好みですからー」鹿島の発言に合六が反応した。それを聞いた他の学生が笑う。
「地盤研から来たクレームの話をしていたんですよ」阿部も言訳をする。
「クレーム?聞いてないな」鹿島は思い出すような顔をした。
「すみません、同期の居石から直接私に来たクレームなんです」
合六は今日三回目の説明をした。
「こっちはなんかデータ飛んだのか?」鹿島がアイスコーヒーを飲みながら言った。
「いえ、こっちは継続的にデータを摂っているものがなかったので問題なかったっていうこともありますけどー」合六は後ろめたそうに言った。
鹿島に黙っていたことを後ろめたく感じていたのである。
「そうか、わかった。地盤研にはこっちから謝辞を入れておくよ。あと強度試験、特に鉄筋の引張試験をする時はこれから地盤研の誰かに連絡を入れるように」
鹿島は学生全員に言った。必然とその場にいた全員が鹿島を見る。
「え?どういうことですか?」阿部は鹿島に聞いた。
最近鉄筋の引張試験をしたのは阿部と立花のグループだったからだ。
「何か関係あるんですか?」矢木が鹿島に尋ねる。
「ある。端的に行ってしまえば、こっちが悪い」
「えー?何故ですか?」合六は納得がいかない顔をしていた。
「こっちが鉄筋の引張試験をしたから地盤研の試験データが飛んだんだ」
阿部がわかりやすくがっかりした。立花も両手で頭を抱える。
「すみません、ちょっと意味が分からないんですけど。僕が試験したのが行けなかったのですか?」阿部は何とか声を出して言った。
「結果としてはな。でもその原因を作ったのは東郷先生と僕だ。君たちのせいではないよ」鹿島は言った。
その発言に誰もが疑問の顔をしていた。
「うちにある万能試験機は二台あるな?そのうち今一台は昔からほとんど動かない状態だ。もう一台の試験機は普段コンクリートの圧縮試験に使われている。本当はあの試験機を導入したのも耐圧試験機が足りなくなった時期があったからなんだ」
鹿島はアイスコーヒーで喉を潤す。
「ところであの万能試験機がどうやって設置されているかわかる?」鹿島はその場の全員を見渡すようして言った。
「え?普通に地面に置いてあるんじゃないんですか?」金井が言った。
「そうなんだよ。普通に地面に設置してある」
「ですよね。それだと何がダメなんですか?」後藤がオレンジジュースの中の氷を回転させて言った。
「振動ですね」鹿島の正面に座った真中が言った。
「そうそう。普通、あの大きさの試験機だったら、みんなが作業している床のレベルから三、四メートル床を掘ってそこに設置するんだよ。それは試料の破壊時に衝撃が強い場合があるから、なるべく周囲に影響がないようにね。でもあの試験機を入れた時はコンクリートの圧縮試験で使うことを想定していたからさ。鉄筋は考えてなかったんだよ」
「コンクリートは大丈夫なんですか?」立花が言った。
「お前最近見ているだろう?鉄筋は大きな音がして衝撃もあったと思うんだけど。コンクリートの圧縮試験は、まあ、普通の強度の範囲ならばじわじわ壊れていくからな。大きな衝撃っていうのは無いよ」
鹿島はアイスコーヒーを飲む。するとウェイターが料理を立て続けに運んできた。
「やっぱりお前かよ」金井が立花を小突く。
「え?俺って言うか、阿部さんだろう?」立花が金井に文句を言った。
「俺、静かに傷ついているから、労わってくれ」阿部がそっと二人に向かって言った。
「だから、結果そうなったけど、教員サイドのせいだから、ごめん!許して」鹿島はそう言うと目の前のハンバーグにナイフを入れた。
全員が食べ終わり、店を出る頃には待ち合わせ時間まで十分だった。ここからは歩いて十分程度だったので時間通りだった。ファミリーレストランを出てから駅と反対方向に大通りを進む。途中で交差点に差し掛かったところで左折する。少し進むとオフィスビルが見えた。この三階が管理事務所である。一行は階段室に向かい三階まで徒歩で上がる。階段室から三階のフロアに出る。三階のフロアはパーティションで区切られたような空間だった。この事務所は工事完了までの間で借りているレンタルオフィスであるため、作りが簡素になっている。
「こんにちは、お邪魔します。片山さんいらっしゃいますか?」鹿島が先頭で事務所に入って言った。
「ああ、先生、お疲れ様です。遠いところありがとうございます。どうぞ、中に入ってください」
事務所の奥から片山が出てきて鹿島に挨拶をした。
「片山さんお久しぶりです。お元気でしたか?」真中がいつもより嬉しそうに話しかけた。
「ああ、ゆかりちゃん、元気そうね」そう言った片山の顔には若干の疲労感があった。
「片山、会議室開けてあるぞ」片山の後ろから男性が話しかけてきた。髪を中央で分けて眼鏡を掛けている。
「一色さんありがとうございます。では皆さん、あちらの部屋で工事の概要を説明いたしますので、どうぞ」
片山と一色に先導されて一行は事務所の奥にある部屋に入る。長机と椅子が並べられた簡素な部屋だった。部屋の中央にはプロジェクタが設置されており、その正面にはスクリーンも設置されていた。
テーブルの上に置かれた資料とお茶のペットボトルの前にそれぞれが着席すると一色がスクリーンの脇に、片山がプロジェクタに繋がれたPCの傍に座った。
全員が着席して準備ができたのを確認すると一色がスクリーン前方の室内灯を消した。
「改めまして、本日は遠いところありがとうございます。早速ですが実際の現場見学の前に簡単にですが工事の概要を説明させていただきます。あ、マイクを使いませんが私の声は聞こえますでしょうか?」
片山は最も遠いところに座っていた松崎に目配せする。松崎は両手で頭の上で丸を描いた。
「あ、大丈夫そうですね。ありがとうございます。では始めさせていただきますね」
それから片山は説明を始めた。最初に今回の地下鉄新線の概要と担当している工事区間の説明が行われた。すべての区間を片山らの建設会社が担当するわけではなく、その一部区間を担当していた。
「だから実際の工事としてはトンネルの掘削ということになります。掘削工法についてはシールドトンネル工法です。シールドトンネル工法については皆さん説明しなくても・・・」
そこで片山は言葉を区切って室内を見渡す。学生は黙って聞いていたが、何かを察したように片山は笑みを浮かべた。
「一応・・・話しておきましょうか?」
「恥ずかしいことですけどお願いできますか?」鹿島は申し訳なさそうに言った。
「先生、大丈夫ですよ。片山は入社時にはスランプ試験を忘れていましたから」
横から一色が口を出す。一色の掛けている眼鏡がプロジェクタの光を反射しており、口は笑っているが目はどうなっているか判断できない。
「はは、それは何ともこちらも申し訳ないです」鹿島も申し訳ない顔をしている。
部屋の中に一瞬の静寂が訪れたがすぐに片山が口を開いた。
「では、復習ということで話をさせてもらいますね。ちょうど一般の見学者用にスライドも準備していたので問題はないですよ。あ、それと二週間前にシールドトンネルマシンの修理が終わったので見学会でも実際に見れる範囲でお見せ出来ますから。楽しみにしていてくださいね」
片山はPCを操作して次のスライドを出した。
「シールドトンネル工法はシールドマシンと呼ばれる筒状の機械で土の中をゆっくりと掘り進めていく工法です。切羽、つまり前方の土砂を削りとりながら掘った部分が崩れてこないようにマシン内部でセグメントと呼ばれるトンネルの外壁となるブロックを組み立てていきます。トンネルの壁を造りながら安全に掘り進めていくことが出来ます」
片山は次のスライドを出す。
「利点としては、まあいくつか挙げられますが、まずセグメントは工場で大量生産できるのでコスト面で優れていますね。あとは軟弱地盤に強いので、水底トンネル、都市部の地下鉄や道路トンネルの施工に使われるようになりました」
次のスライドが映し出された。
「シールドトンネル工法はフランスの技術者によって発明されたと言われています。アイディアの発端は、その技術者が造船所で働いていた時に見たフナクイムシだという説が濃厚です。フナクイムシは水中の木材に穴を開けてそこに住むために厄介ものだったわけですね。でも水中の木材にただ穴を開けただけだとすぐに穴の周囲の木材が水で膨張して穴を閉じてしまうのですが、フナクイムシは石灰質を開けた穴の壁面に擦り付けて一種のトンネルを作っていたそうです。そのアイディアから現在まで進化してこの工法になっているということになります」
学生達は一様に頷いていた。
「施工の手順としては、土を掘る、土を運び出す、前進する、セグメントを組み立てると簡単にですが四通りに分けられます。土を掘るのはシールドマシンの前面、切羽に接している部分ですね、それが回転して土を掘っていきます。ここは見学でも見ることは出来ませんので説明しておきますね。シールドマシン全体としてはコップを横に倒した状態に似ていますね。コップの底にカッタビットが付いていて、底の部分だけが回転して土を掘っている状態です。ちなみにカッタビットが付いている面をカッタフェイスと言います」
「それはわかりにくくないか?スライドの絵があるから良いだろう?」一色が横からコメントした。
「そうですか?伝わらなかったらすみません」片山は笑顔で言った。
「土を運び出すのはスクリュコンベアとベルトコンベアの二つですね。スクリュコンベアの方はカッタビットのすぐ後ろにあって、斜めに取り付けられています。その後ろには水平にベルトコンベアがあって、掘削した土がこのベルトコンベアで外まで運ばれるんです。この絵ではわかりやすいようにベルトコンベアがむき出しですが、実際は天井付近を通っているので見えません」
「スクリュコンベアもそうだね。配管に包まれていますので見えないです」
「そうでした。ありがとうございます。次は前進ですが、これはシールドマシンの円周に備え付けられているシールドジャッキを使います。これはシールドマシン自体の大きさにもよりますが、ここの工事で使っているマシンのジャッキは八十個ついています。そのジャッキを使って、すでに組み立てられているセグメントを押すことで前進します。ジャッキ分前進したら、部分的にジャッキを元に戻して、空いた空間にセグメントを設置していきます。セグメントの設置にはエレクタという装置を使います。セグメントを掴んでマシン内部の円周方向に回転できる装置です。この装置でセグメントを一周分設置していきます。設置し終わったらまたカッタフェイスを回転させて掘り進めていきます」
片山は次のスライドに移った。次からは詳細な現場の説明と今日の見学コースの内容だった。
十分ほどでその説明も終わり、部屋の電気が付いた。
「以上で説明を終わりますが、何か質問は無いでしょうか?といっても、なかなかでないかな?現場では音がありますからなかなか聞けないと思いますが、今日は懇親会もありますし、その時にでも聞いてください」片山は言った。
その時真中が挙手した。
「説明していただいてありがとうございました。シールドトンネルについても良く分かりました。現場見学も引き続きよろしくお願いいたします」
真中はお辞儀をした。
「おお、随分礼儀正しい学生さんだな」一色が言った。
「私の後輩ですから」片山は満足げに言った。
「では、現場まで行きます。すでにお伝えしていたように今日は運動靴で来ていただいていますかね」一色は片山の発言は無視して学生達の足元を見た。
真中から注意が何度もあったため全員が運動靴を履き、裾のヒラヒラしていないジーンズやスラックスだった。
「反射帯とヘルメットをお渡しするのでこちらに来てください。荷物などはこの場に置いて下さい。最後にここまで戻ってきますから」片山が学生を先導して出て行く。最後に鹿島と一色が出た。
「先生、大学なんか大変ですね」
一色が声を落として言った。鹿島の前に居た合六と真中も少し振り返る。
「え?ああ、そうですね。緊急の会議が入ったり、親御さんへの説明があったり大変ですけどね」
「大学に勤めるとそういうことへの対応も求められますものね」
一色は同情するように言った。
前方では金井が松崎の反射帯の付け方が変だと笑っていた。それを見た真中は真面目な顔で注意をするために向かった。
真面目に仕事をしている人たちがいるのに失礼だと考えたためである。
「まあ、私立大学ですからね。お客様が第一ですよ」
鹿島は素直な気持ちで言った。
「そうですね。まあ、弊社も人様の事を言えた身分ではないですが・・・」
一色がそこまで言いかけると片山が二人に近寄ってきた。
「先生、反射帯とヘルメットです。一色さんそろそろ行きましょう」
「わかった。拡声器持った?」一色は歩いて学生達の前に立った。
「準備できていますね?」一色は全員の様子を確認した。
準備が出来ていることを確認すると一色を先頭に学生達が後に続き、その後ろに鹿島、最後が片山で事務所を出た。
事務所を出た一行は歩いて現場まで向かうことになる、先程まで真中達が歩いてきた道を交差点まで戻り、左折して交差点を渡った。駅から真直ぐ進んだことになる。行きかう人々の波の中では反射帯にヘルメットの装飾はかなり目立つがすれ違う人々はあまり気にしていないようであった。すでに工事の人間が毎日のようにこの道を歩いていることで日常となってしまっていることがその一因であることは間違いない。
しばらく進むと建物やお店の間に白いパネルで囲まれている空間が見えた。一色が鍵を取り出してパネルの一つに嵌め込まれている扉に差し込む。ここが扉になっていた。一行が少し身を屈めて中に入る。
パネルによって囲まれた中は広い空間が形成されていた。何よりも目を引いたのは開かれた敷地の大半が大きな穴であることだった。その穴には鉄骨やフレームが組まれており、巨大なクレーンも見えた。
「ここから地下まで降りていきます。ここは発進立坑というところです。シールドマシンを地下に入れる時に開ける穴ですね。ここからは掘削で排出された土砂も搬出されます」
一色は拡声器を使って話し始めた。一色の持っている拡声器は肩から掛けるタイプのものでマイクは右手の手元にある。メガホン型の発声部分も同じ右肩に掛けられている。
「ではここから我々も降りていきます。三十メートル地下に向かいます」
一色は歩き始める。学生一行も後に続く、円周に沿って進むと、九十度分進んだところに工業用のエレベータがあった。
全員でエレベータに乗り込み、立坑を降りていく。四方を金網に囲まれているようなエレベータは降りるだけでスリルがある。
「一色さん、あの質問良いですか?」上条が手を挙げた。
「はい、何でしょう?」
「シールドマシンの全長ってどれくらいですか?」
「十三メートルぐらいですね。ちなみに直径は十五メートルほどです」
「ありがとうございます。ここからシールドマシンを入れるのって大変ではないですか?」
「そうですね。シールドマシンは分解されてここまで運ばれてきます。パーツを一つずつ穴の中に入れて、そこで組み立てる形になりますね」
一色の前にいる立花、後藤そして矢木が深くなずいていた。エレベータはその間に最下部まで到達した。
「うわー、冷えるなぁ」合六が声を出した。
最下部は直射日光が届かないため気温が低い、かつ湿度も高い環境である。
エレベータを降りたすぐの場所には先程管理事務所でスライドの絵で見たセグメントが三つずつ重ねられて置かれていた。
立坑の中は三面が鉄板に囲まれている。残り一面には巨大な横穴が開いており、シールドマシンが掘削した道筋が見える。その先はわずかに下に傾斜しているため先が見えなくなっている、数人の作業員が作業をしているが、汗だくで動いているというような環境ではなかった。横穴からは天井にパイプが敷かれており、パイプの先は立坑の入り口に伸びていた。
「えー皆さんよろしいでしょうか?ここが立坑の最下部になります。ここがシールドマシンの出発地点ということになりますね。先程もエレベータで質問をいただきましたが、今回のシールドマシンはパーツで運んできてここまでパーツを降ろして中で組み立てました」
一色は指を空に向けて話した。
「今はここにあるようにセグメントの置き場にもなっています。セグメントはすでに引いてある線路に載せてトンネル先端まで運びます。では、先端まで歩いて行きましょう」
一色は先に進む。
セグメントが置いてある場所の脇を抜けて横穴に近づく。横穴の脇には点検用の通路が設置されている。この点検路はトンネル天井部に近く、通路に立って手を伸ばせば簡単に天井部に手が付く。一色は階段を使って点検通路へ上り、後の一行もそれに続いた。点検通路を少し進んだところで警告音が響き渡った。
「はい。これは先頭から土砂が積まれたトロッコが来ますよというサインです」一色が言うと、前方から白いボックスを三つ連結させたトロッコがやってきた。
トロッコはそのまま立坑の方に進むと専用のクレーンが降りてきてボックスを一つずつ掴み上方へと運んでいった。
「下の線路を見てもらうとわかりますが、二系統あります。今、土砂が満杯になったボックスが戻ってきたので、次に空のボックスが先頭に向かいます」
そう言うと一色はまた前方へと歩き始める。後ろからからのボックスが三つ連結されたトロッコがトンネル先端部へと進んで行った。
トンネル自体は待ったく同じような風景が続いた。点検通路は人一人がかろうじてすれ違うことが出来る程度のものであるため、見学者である学生一行が一色を先頭に進んでいる。他の作業員は下の線路の脇を進んでいるようで、先端部に進む途中でも何人かの作業員とすれ違った。
しばらく一色も何も話すことなく進んでいた。最後尾には片山、その前に鹿島、その前に合六がいた。
「片山さーん、質問良いですかー?」合六が鹿島越しに片山を見た。
「あ、じゃあ俺先に行こうか」鹿島が気を遣って合六と変わる。
「はい。何でしょうか?」片山は言った。
「えっと、あ、合六と言います。今回は見学の機会を作っていただいて・・・」
「ああ、いいから、実は知っているのよ。ゆかりちゃんから聞いているわ」
「え?かわいいっていうことですか?」
「えーっと、そうね。まあそんなところかな。質問って?」
「えっと、今進んでいるトンネルの壁面ってセグメントを組み立てたものなんですよね?」
「そうよ」
「地下鉄とか乗って外を見ているとこんな感じになっていないんですけど、何か覆っていたりしているんですか?」
「そうね、場合に寄るかな。このまま使う場合もあるし、覆工する場合もあるからね」
「ああ、やっぱりそうなんですね。あともう一つあるんですけど良いですか?」
「うん、どうぞ」片山はちらりと先頭の一色を見た。わずかに左に曲がっているトンネル内部では後方の片山でも先頭の一色を見ることが出来た。片山は一色を見てどれくらいで先端部に着くか計算していた。
「セグメントの組み合わせ方を見ていると互い違いになっているんですけど理由は何ですか?」
合六は天井の方を見て言った。すでに組まれているセグメントは一周を九個のセグメントで構成されていた。それぞれのセグメントの進行方向の継ぎ目が、隣合うセグメントと一致しないように組まれていたのだ。
「ああ、これはね、さっきの説明の時にシールドマシンがジャッキで押して前進するって言ったでしょう?もし継ぎ目が一致していたら、ジャッキで押した時にずれてしまう可能性もあるでしょう?だから継ぎ目をずらしているのよ」
「ああ、なるほど。そう言うことなんですねーありがとうございました」合六は元気よく答えた。
前方の一色が手を挙げた。先端部に到着したようであった。線路上に大きなフレームや鉄製の容器などが見える。
その先まで進むと小さめのプレハブがあり、中でPCといくつもの液晶画面に向かっている三人の技術者がいた。さらに進むと発電機や配管が敷き詰められており、合六たちが進んでいる通路も狭く感じるほどの圧迫感だった。
さらに進むと通路の幅と同じ大きさの鍵付きの扉が見えた。その扉には関係者以外立ち入り禁止というプレートが取り付けられていた。扉というよりは柵に近い。ただ関係者と見学者を分けているというだけの扉である。
一色はその扉の前に立って拡声器を左肩に持ち替えて右手で扉を押す。鍵の開いた音がして一色は中に入っていった。その後、奥にある階段を使って線路が敷かれた位置まで降りた。
「えー先端部に到着しました。説明の関係上私はこの中に入りますが、皆さんは今いる所で聞いてください」
一色が拡声器で喋る。
「先程通り過ぎてきましたが、皆さんが今いる場所がシールドマシンの内部です。まず後方にあったのですが、ちょっと見えなかったかもしれません。この天井にあるベルトコンベアの終点がそこにありました。切羽で出た土砂がそこで容器に貯められる形になっています。さらにその次に見えたと思いますが、プレハブのようなところに人がいたと思います。そこではシールドマシンの制御をしています」
シールドマシンの先端部の作業員は一色と片山を除外すれば一人だけだった。
「シールドマシンのカッタフェイスに生じている圧力やジャッキの強さなどを管理しています。下の方を覗き込むようにしてもらうとわかりますが、今作業員は一人しかいません。しかし、セグメントの施工になるともっと人は増えますね」
学生たちはそれぞれ天井を見たり下を覗き込んだり、前方と後方を交代したりとじっくり見学した。
しばらくすると、一色がまた切り出した。
「では、以上で見学を終わりたいと思います。もとの事務所に戻りたいと思います」
今度は片山が先頭になって事務所へと引き返した。
事務所に戻った一行はまた元の会議室に集合した。
「身に着けていたヘルメットや反射帯はその場に置いておいてください」片山が言った。
学生一行は一旦着席して休憩をすることになった。トンネル内部の見学で往復二キロメートル歩いている学生たちの中に疲れ切っている者も数人いた。
時刻は午後四時半を回っていた。片山は懇親会が十七時からで店を予約していることを告げた。参加者は一色と片山二人ということだった。
二人が一度部屋を出てから十分後、スーツに着替えた二人が戻ってきた。
「お待たせしました。向かいましょう」一色の声で全員が立ち上がる。根を張るように座っていた金井と後藤はゆっくりと立ち上がった。
「あ、もう時間か、もう少しゆっくりとしたかったな」後藤が呟いた。その呟きが終わる前に矢木が後藤の腿に膝蹴りを入れた。
「おい。後藤、考えてから物を言え。お世話になったんだぞ」矢木は言った。
「はい。ごめんなさい。あー痛い。最悪だ」後藤も言った。
矢木の言葉は後藤以外には誰にも届かなかった。現に片山と一色はすでに部屋を出る所だった。矢木の指摘は後藤にとっては運が良かったと言える。
後藤の横、矢木と反対側に立っていた合六がすでに蹴りの動作に入っていたからである。また、片山と一色の後ろから歩いて行こうとしている鹿島も首を少し振り向き殺気を持った目で後藤を見ていた。矢木や合六が気付かなかった方が後藤にとっては最悪なことになっていた。
全員で事務所を出ると、駅へと続く道に出た。道路を渡ってしばらく駅の方へ歩くと一件の居酒屋が見えた。
「ここです。よく僕らも行くんですが、魚も肉も両方美味しいんですよ」一色が後ろの鹿島に言った。
「楽しみです。ありがとうございます」鹿島は笑顔で言った。
道から階段を上って店に入る。店員が笑顔で奥の座敷へと案内した。座敷席は長テーブルが一つ置かれていた。
ぞろぞろと座敷席に入り込む。鹿島と一色がテーブルの中央に並んで座り、その向かいに片山、そして残りの席に学生が散らばって座った。
「料理はコースでお酒も飲み放題にしています。お腹が空いているなら、単品で頼んでもいいからな」一色は学生に向けて言った。
学生達は口々にありがとうございます、と言った。
「なんか申し訳ないですね。ここまでしていただいて」鹿島が恐縮する。
「いえいえ、こちらもお世話になっていますから」一色は言った。
その間、矢木が飲み物のアンケートを取っていた。
「生以外の人いますか?」
真中と片山と合六が手を挙げて合六以外はカクテルを注文した。合六はジンジャーエールだった。
飲み物が揃ったところで乾杯が行われ、しばらく歓談となった。主に一色と片山が学生達に質問をしつつ、鹿島にも話を振るような流れで時間は進んだ。
このように見学会に参加した後の飲み会ではなくても外部の人間を招いた飲み会が開催された場合、余程の事が無い限り時間の経過に伴って社会人と学生でしっかりと別れてしまう。今回も例外に漏れずにそのような状態になった。
「研究室ではコンクリートの切り返しも最後までやらなかった片山が立派に社会人だもんなあ。驚きだよ」鹿島は焼酎に切り替えてグラスを傾けている。
「先生やめてください。過去の事ですよ」片山は焦るように言った。
「お前には過去でも先生にはつい最近だろう」一色が言った。
「えー片山さんそうなんですかぁ?」合六が本当に驚いた顔で言った。
「え?合六ちゃんは私のことどう思っていたの?」
「私は背も小さいですけど、切り返ししっかりやりますよ?」合六が勝ち誇ったように言った。
「でも危なっかしいから僕らがやるんですよ」片山の左隣に座っていた松崎言った。
「おい、筋肉!なんか言ったか?」合六がテーブルを乗り越えそうな勢いで立ち上がろうとした。
「お前ら出先っていうこと忘れてないか?」鹿島が普通の注意を鋭利な声色に乗せて言った。
従順な学生達は合六だけでなくその場の全員が静かになった。
「先生のその言い方変わりませんね」片山は懐かしそうに言うと下を向いた。
「昔から鹿島先生はこんな感じだったんですか?」真中が言った。
「あのな、君らが注意されるようなことしなければ俺も穏やかに過ごせるんだぞ」
「えーそんなこと本当に思っていますかー?」合六が早速言った。
「当たり前だ。出来れば背中に『朗』と彫っておきたいくらいだ」鹿島も合六に向かって言い返す。
「片山さん?どうしたんですか?」片山の右隣に座っていた真中が言った。
別の理由で場が静寂に包まれた。
「片山、お前泣いているのか?」一色が言った。
「片山さん、ごめんなさい。気持ち悪いですか?」合六も少し目を潤ませて片山を見る。合六は自分の責任でこうなったのかもしれないと考えていた。
「あ、うん、ごめんなさい、大丈夫です。本当、大丈夫」片山は下を向いたまま片手を前に出して小刻みに震わせた。もう片方の手にはハンカチが握られて目元を押さえていた。
「先生、申し訳ありません。ちょっと今片山は感情が不安定な状態で」一色が言った。
「何かあったんですか?」鹿島が一色の方を向いて言った。
真中が片山の背中を摩りながら寄り添っている。
「ええ。彼女には入社してすぐに付き合い始めた恋人がいたのですけど・・・」
「もしかして亡くなったんですか?」合六が声を上げた。
「おい合六、落ち着け。最後まで話を聞け」
誰よりも早く一色の隣に座っていた矢木が制した。
まだ落ち着いていない片山に代わって一色が話し始める。
「一週間前になるのですが彼女の恋人、名前を坂口と言いますが、坂口が警察に捕まったんです」
「罪を犯したということですか?」鹿島が尋ねた。
「そうですね。坂口は弊社の社員でもあるのですが、十日前に女性を刺して逃亡しました。この女性は坂口と付き合っていたと言っているそうです。幸いに女性は一命を取り止めたのですが、その女性の証言で坂口が刺したことが発覚したんです。坂口は逃げて三日後に逮捕されました。その時には右手を負傷していたそうです」
座敷席は静まり返った。襖で遮られているため他の客の笑い声が響いていた。
「そんなことがあったんですか」真中は片山に寄り添いながら言った。
「会社の方は大丈夫だったのですか?」鹿島は一色に言った。
「はい。多くの意見がありましたが、結果として通常業務を続けることになりました。片山にとってもそれが良いと個人的には思っていたのですが」
一色は片山を見る。
「片山は結婚まで話を進めていたのでかなりショックだったと思います。二重の意味ですけれど。それでもしっかり業務をこなしてくれました」
片山が涙をハンカチで拭いて顔を上げた。
「とても落ち込みましたけど、もうそうなってしまったことを取り返すことは出来ませんから、前を向いて仕事していたんですけどね。まだ心の中はダメだったみたいですね。こうやってお酒を飲むと防御が下がってしまいますね」そう言って笑った。
「だから本当に大丈夫なんです。みんなごめんね。だから気にしないでね」片山の発言で場の雰囲気も少し和らいだ。
「あ、元カレの写真見る?」そう言ってスマートフォンを取り出した。合六や真中、松崎が覗き込む。
「それだけさらっと言えるのならば大丈夫なんだろうな」鹿島は言った。
「酔っているからっていうこともあるのだと思いますけどね」一色も鹿島を見て言う。
片山がスマートフォンを操作して写真を出す。何かのタイミングに事務所で取られた写真だった。写真には一色と片山そして坂口が映っていた。他の職員も周りに群がるように映っていた。
「この一色さんの隣で一色さんと肩を組んでいるのが元カレよ」片山は説明した。
「かなりいい男ですね」松崎が言った。
「うん、モテそう」真中も同調する。
「そうなんだよな。いい男なんだよ。俺と同じだな」一色も言った。
真中と合六、そして離れた席に座っていた三枝が同時に一色を見た。そしてすぐに写真に顔を戻す。
「三枝さんって写真見えてないでしょう?」一色がボヤくように言った。
片山は見てない学生にもわざわざ写真を見せに行って説明をしていた。
「一色さん、女性はやはり顔のいい男が好きなんですよ」矢木が一色を励ますように言った。
「お前は何歳なんだ?」鹿島がその光景を見て言った。
笑っていた一色が気付いたような顔をして鹿島に向き直った。
「そう言えば坂口は逮捕されたんですけどね。本人も認めているんですけれど、警察はまだ良く分かってないことがあるらしいんですよ」
一色が鹿島に言い終わるのと同時に片山が席に戻ってきた。
「ああ、そういえば言っていましたね」片山も会話に入る。
その場の雰囲気が片山の復活と共に少し持ち直したこともあって、全員がその話を聞いていた。
「坂口が刺してしまった女性なんですが、坂口はその女性の家で刺したらしいんですよね」
一色は座り直した。
「坂口の行動としては、その後に現場に戻って仕事しているんですよ」
「トンネルに潜っていたんですか?」矢木が驚いたように言った。
「凄い根性してんなぁ」上条が言った。
「そう思う。坂口がどんな心境で刺した後現場に戻って作業していたのかはわからないけどな。こっちが知る由もない。ただ時系列として話すよ」
一色が会場の意見を踏まえて言った。
「坂口の当日の勤務記録を見ているとトンネル内部に居たのは十二時から十四時まででその日は仕事が上がっているんです。そして、日付が変わって午前零時に事務所に戻ってきて深夜一時からもう一度トンネルで作業しています。ちなみに女性が刺されたのは確か二十三時くらいだと言っていました」
「なるほど。一度その人の家まで戻って時間を過ごしてからもう一度職場に戻ったということですね」矢木が言った。
真中は隣の片山の顔色を見ていた。
「それがですね、ちょっと問題らしいんだ」一色は矢木の方を見ながら言った。
「どこがですか?」鹿島が尋ねる。
「その彼女の家まではここから約五十キロ離れているんですね。坂口は自家用車で出勤しているんですが、車だとおよそ一時間かかります。それがちょっとおかしいことになっているようなんです」
「あまり変には思わないのですけど。二十三時に刺してすぐに車でこっちに戻って来ればそれくらいの時間に事務所に戻れるんじゃないんですか?」
「そうなんですけどね。警察が調べても車の鍵が出てこないらしいんです。坂口の家もすべて調べたらしいのですけど合い鍵も見つからないし、ディーラーも坂口は合い鍵を作ってないということでした」
「車自体は見つかっているんですか?」後藤が言った。
「事務所で契約している駐車場に置いてありました」一色は言った。
「電車で移動したっていうことは無いんですかね?」三枝が身を乗り出して質問した。
「電車だと一時間半以上必要なんだよね。だから事務所に到着する時間がとても遅れるし、トンネル内部に深夜一時の時点で作業していることができない」一色が言った。
懇親会の会場が静寂に包まれた。
「確かに鍵どこ行ったんだろうね。でも・・・正直な感想言ってしまうと、どうでも良い問題だよね?犯人捕まっているんだし、本人認めているんだし。車もあるんだし」鹿島が真顔で言った。
会場から少し笑いが起きた。
「そうなんですよ先生。どうでも良い問題なんですよ。それが見つかったとしても何も変わらないと思います。ただなぜ見つからないのかなとずっと思っているんですよね」一色が言った。
「すいません」真中が背筋を伸ばして言った。
全員が注目する。
「あの、片山さんの気持ちに決着をつけるためにも鍵の在処を考えてみませんか?あ、えっと、推測で終わると思いますし、必ずしもそれで片山さんの気持ちが晴れるかはわかりませんけれど。その、後輩として何かしてあげたいんです」
「真中、気持ちとしては理解するけれど非生産的ではないかな?まあ止めはしないけどな」鹿島が言った。
「部屋はあと一時間くらいありますからご自由にしてください」一色は事務的にそう言ったが口元にわずかに笑みが浮かんでいた。
「じゃあ早速先生なんかないですか?」合六が言った。
「何言っているんだ。俺はそう言う非生産的なことはしない。君らの方が得意だろう?話は聞いていてあげるから好きに話しなさい。ああ、そうだ。オブザーバという立ち位置で参加させてもらうよ」そう言うとテーブルの焼酎のボトルを手に取ってグラスに注いだ。
学生達は各々考えているような様子で飲み物のグラスを傾けていた。相談している者もいたが、全員が考えているかは外見だけでは判断できない。
「じゃあ良いですか?」松崎が先陣を切って手を挙げた。
松崎は全員がこちらに向いたことを受けて話し始めた
「えーっと、そもそも坂口さんの自家用車を使ったんでしょうか?」松崎が言った。
「どういうこと?電車でもダメなのよ?」三枝が尋ねる。
「ああ、そうかタクシーだ。そうだろう?」金井が言った。
「いや、えっと俺の考えは違うんだけど、そうだね、タクシーの方がもっと簡単だね」松崎は金井の意見に賛同した。
「いや、ダメでしょう。タクシーの運転手に顔を覚えられるし、行きは大丈夫かもしれないけど人を刺した帰りにタクシーに乗ろうとできる?」真中が言った。
真中は鹿島が半ば戦線離脱しているために、議論を回す役目が自分だと思い込んでいた。
「松崎君、最初に考えていた話を教えて」
「確かにそうですね。あ、えっと最初に考えていたのは、まあタクシーに近いと言えば近いのですけど。一色さん、社用車ってあるんですか?」松崎は一色に尋ねた。
「あるよ」一色は渋い声で回答した。
「ありがとうございます。坂口さんは社用車で女性宅に向かった。だから車の鍵は探しても見つからないってことじゃないですかね?つまりそもそも使ってないから見当たらない。あれ?」松崎はしゃべりながら頭を傾けて天井を見上げた。
「そうね。ちょっと変じゃないかな?まあ行き返りに社用車を使ったっていうのは、自分の車だとナンバーとか車種を近所の人も覚えられる可能性もあるから認めたとしても、自家用車の鍵がなくなっている理由にはなってないわよね?捨てる理由がないわね」真中が言った。
「そうですよね」松崎は飲み会開始から変わらずに飲んでいるビールのグラスを傾けた。
「逃亡時は車を使ってないってことですよね?」矢木が一色に尋ねる。
「車が残っていたからね。そうなるかな。あと社用車の鍵は事務所内で管理されているので使うには許可が必要なんだ。ちなみに事件当日に社用車は使われていないよ」
松崎は溜息をついてビールグラスを空にした。横に座っていた立花にお替りのお願いを頼んでいた。
「一色さん、坂口さんが事務所に戻ってきてからの行動はどうだったんですか?」真中が言った。
「そうだな。職員の証言をまとめると事務所に戻ってきてから自分のデスクに荷物だけ置いて、すぐに作業着に着替えてトンネルに向かったらしい。その途中で片山とすれ違っているんだよね」
一色は片山を見た。
「そうですね。すれ違っています。自分は事務所に戻るところだったし、仕事中なので簡単に挨拶してすれ違いました」片山は淡々と言った。先程泣いていた時よりは言葉がはっきりとしていた。
「その後はトンネルで作業していたな。俺は後方で作業していたが、坂口は前方でセグメントの組立作業の管理をしていた。次の日の明け方五時過ぎくらいかな、一度トンネルの外に出て行ったんだよ。そこからは戻ってこなかった。そのまま逃亡していたんだな」
「警察は車の鍵を探したんでしょうか?」手を挙げながら立花が言った。一色の方に顔は向いていた。
「車で事務所に帰っているようだったから、事務所を重点的に探していたかな」一色は言った。
立花は少し考えた素振りを見せた。
「では、わざと車の中にインキ―させたっていうのはどうでしょうか?何故と言われても理由はわかりませんけれど」立花が言った。
「わざと車の中に?警察が調べているだろう?」阿部が言った。
「確かに調べているね。もちろんなかったようだよ」一色も否定する。
「そうですよね」立花はがっかりする。
「これまでの情報から考えると事務所からトンネル現場のどこかで捨てたっていうことになるんでしょうね」矢木が言った。
「でも道で捨てるのはないんじゃないんかなー」合六が言った。
「なんで?」矢木が尋ねる。
「もし拾われたら警察に届けられるでしょう?手放したい理由があるのに拾われそうなところに捨てるのは変だなって思ってー」合六は言った。
矢木は軽く何回も頷いた。
「確かにな。ということはトンネルの現場ってことか」矢木は言った。
「作業していた場所的に恐らく先端部かな」阿部が言った。
「途中の道とか、地上の立坑がある区域とかに隠した可能性はないんですか?資材のゴミ捨て場とかありましたよね?」三枝が阿部に言った。
「点検通路は今日通ったけど隠すような場所って無かったよ。俺が見た限りね。それど地上のパネルで囲まれた部分、立坑に降りる前の場所はそもそも隠すようなところはほとんどない。それに合六が言ったことと同じで拾われてしまったら意味がないからな。あと建設現場の資材廃棄って結構分類が厳しいって聞くよ。適当に捨ててしまったら見つかる可能性があるから難しいんじゃない?」阿部は三枝に反論した。
「そうなるとやっぱり先端部かぁ」上条が言った。
「あ、いいですか?」三枝が手を挙げる。
「土砂を搬出するためのベルトコンベアに乗せたのではないでしょうか?作業の合間を縫ってこっそりと」三枝は最後の言葉だけ小さい声で言った。
「ベルトコンベアか」矢木が言った。
「あーそれは無理だねー」合六が言った。
「なぜですか?」三枝は身を乗り出して合六を見た。
「覚えてないの?水平に流れていたベルトコンベアってパイプの中を通っていたでしょう?どこからもベルトコンベアに物を入れられなかったはずでしょう?」
三枝は気付いたような顔をした。
「じゃあ、スクリュコンベアの所から、だから、切羽から出てくる土砂に鍵を混ぜ込んでスクリュコンベアから入れたというのはどうでしょうか?」三枝は食い下がる。
「それも無理だねー。シールドトンネルってね、まあ種類によるんだけれど、ここの場合、カッタフェイスとそれを回転させるモーターの間に空間があってね。そこに加圧することで切羽が崩れるのを防いでいるんだよね。ここに土砂が溜まってそれをスクリュコンベアで後方に送っているんだよ。そこの空間は人間も点検目的で入れるけれど、掘削中に人は入れない。スクリュコンベアの入り口はここに接しているから、二週間前にマシンの修理が終わってそれ以降二十四時間体制で動いている状況でスクリュコンベアに土砂以外のものを入れることは不可能だと思うよ」
合六の反論に、一色と片山は頷いていた。
「じゃあ、もう一度俺、話してよいですかね?」阿部がまた手を挙げた。
真中が無言で促す。
「はい。えっと結局先端部のどこに鍵を隠してあるかってことなんですけど、考えていたら思いついたんですが、セグメントと地盤との間ではないでしょうか?」
「どうやってそんなところに隠すんだ?」矢木が言った。
「鍵なんだから地盤に直接差し込むんじゃないの?」金子がハイボールを飲み干した。
「あのな、豆腐に箸を突き刺すわけじゃないだろう?シールドトンネルは軟弱地盤でも施工できるのが特徴だけど、普通の地盤じゃあ使えないわけじゃないし」
阿部が一色を見た。
「ここら辺一帯は確かに地盤としては柔らかい方だけれど軟弱地盤とまでは言えないな」一色が阿部の視線に答えた。
「一色さんありがとうございます。だから力任せに地盤へ隠すことは難しいです。でも、それが出来る方法があります。まず。二週間前に修理をしている時に技術者を一人買収します」
「簡単に凄いこと言っているな」鹿島が阿部に言った。一色と片山も笑みを浮かべている。
「先生、好き勝手な想像の時間なので許してください。それで、修理の時にカッタフェイスに細工をします。それは本来前面に出ているカッタビットと直行方向に一つだけカッタを取り付けるんです」
「それは筒の円周側にカッタをつけるということね?」片山が確認する。
「そうです。しかもそれはスイッチで飛び出るような機構にしておきます。その時の刃は前面のカッタビットよりも薄く少しだけ地盤に食い込むだけで良いんです。事前に計画しておいたタイミングでその刃を飛び出させたらしばらく掘り進めます。すると掘削した穴の壁面にらせん状の溝が出来ることになるんです」
「ほお。なるほど」一色が言った。
「後は当日現場に戻ってきたときにセグメントを施工する段階で見えている地盤に溝が彫られているためにその溝に鍵を落として何食わぬ顔をしてセグメントで隠してしまえば良いんです」
阿部は言い終わると夏みかんサワーを一口飲んだ。
「終わった?」合六が阿部に言った。
「うん。満足です」阿部は笑顔で答えた。
「じゃあ、意見しても良いかなぁ?」合六が阿部を見て言った。
「ああ、やっぱりそうなるよね」阿部は肩を落とす。
「そりゃそうでしょー。議論の場だよー。あのね。その取り付けた刃をどれくらいのタイミングで出すのかわからないけど、まあ一周分くらいかなぁ、それくらいの長さの溝を掘ったらさ、作業員に変だって思われちゃわないかな?」
「うーん、わかってしまうかもしれないけど、地盤だってどこまでも同じってわけではないだろうからさ。大丈夫じゃない?」
「でもさ、らせん状に繋がっている溝でしょう?少なくとも記憶には残るんじゃないかな?」
「ちょっといいかな?ちなみに当日の作業員からは特に何も報告は受けてないな。報告事項として上がってないだけかもしれないけどね」
一色が身を乗り出して言った。
「そうですね。そんな状態になっていたら報告の一つでもあって良いかもしれませんね」片山も言った。
「個人的にはすごく面白いと思ったんだけどな」
阿部は残念そうに言った。
「じゃあ私が言うねー」合六が手を挙げて言った。その時店員が入ってきてラストオーダを告げた。合六の話の前に追加のオーダがある人が各々店員に注文をした。
「ではラストオーダも終わったところで改めて。私の話ねー」合六は座り直して言った。
「結構阿部君の言っている説と似ているんだけどねー。坂口さんってセグメントの取り付け作業をやっていたわけでしょう?だから単純にセグメントに鍵を取り付けたんじゃないかと思ったんだー」
「簡単に作業員にバレちゃうんじゃないか?」矢木が言った。
「うん。だから工夫したんだと思う。具体的には、まあどの場所のセグメントでも良いんだけれど、一周の最後の一つになるセグメントを接合する場所まで持って行くのね。確かひとつ前のセグメントとの接合ってボルト留めでしたよね?」合六は一色に尋ねる。
「そうだよ」一色は言った。
「ありがとうございます。それでボルト留めを終わってからジャッキが稼働してマシンが掘削を開始するまでの間に、ジャッキの先端部がセグメントと触れる部分つまり力が伝わる部分に鍵を貼りつけるの。あの片山さん、ここで使われているセグメントってコンクリートですか?」
合六は片山に尋ねる。
「えっと、うん、そうだよ」片山は焦ったように言った。
「ありがとうございます。それで張り付ける時はダクトテープのようなセグメントに近い色合いのテープを使ったのだと思うよー。これは一見して張り付けてあることがわからないようにするためにそうしたんだと思う。それと最近の車の鍵ってボタン押すだけでロックが外れるよね。大体そう言うボタンって鍵のお尻というか、指で摘まんで回す部分にカバーがしてあってそこに装着されているよね。その部分は嵩張るから外しておいた。それからジャッキが動き出してテープと一緒に鍵を潰したんじゃないかなー。まるでコンクリートの圧縮強度試験だねー」
合六は一旦区切ってジンジャーエールを一口飲む。
「次のセグメント設置区間まで来たら、そこに設置するセグメントが運ばれてエレクタで所定の位置に置かれる。つまり次のセグメントを所定の位置まで運ぶ時に人は必要ないんですよー。だからテープで貼った鍵が見えることはないよ」
「ちょっと待って」阿部が入ってくる。
「それだったら、あらかじめひとつ前のセグメントとの接地面に貼っておけば楽じゃないか?」
「それだと鍵の分がわずかに出っ張るから前のセグメントとの間に隙間が発生してしまうでしょう?すると変だってなるからさ、鍵が見つかっちゃう可能性もあるでしょう?ジャッキである程度潰してしまえば、もし完全に潰せなくてもコンクリートにめり込んでくれるからね。その心配が少なくなる」
「ジャッキ自体に貼りつけるのはダメなんですか?」松崎が聞いた。
「それでも良いのかもしれないけど、ジャッキは変わることなくずっと同じだからね。いずれ見つかってしまうかもよー」
松崎は頷いた。
「当たっている・・・かもしれないですね」片山が言った。
「まあ面白い議論だったね。酒の席での空論、いや妄言と行っても良いかもしれないね」鹿島は顔が赤い。合六たちが議論している間ずっと飲んでいたからである。
すると部屋の扉が開いた。全員がそちらを見る。
「あの・・・お会計をお願いいたします」女性の店員が驚いた表情で見ていた。
会計は一色らが支払った。建設会社側としては大学の先生に支払わせるわけにはいかないということであった。
店から出た一行は鹿島達は駅へ、一色と片山は一旦事務所へと引き返して帰宅するということであったため、店先でお別れということになった。
鹿島らはぞろぞろと駅へと向かう。
「先生、議論の最中一言もしゃべらなかったですけど」真中が言った。
「え?ああ、そうだね君らの議論には入らなかったよ。でもみんなが勝手に盛り上がっている隙に一色さんと話をしていたりしていたよ。気が付かなかった?」鹿島は真直ぐ正面を見たまま言った。
「え?ああ、そうだったんですね。私としては先生がどのように考えていたか聞きたかったんですが」
「うーん、全く考えてないよ」鹿島は相変わらず前を見て答えた。
「え?そうなんですか?」真中は言った。真中が考えているよりも大きな声が出てしまったが他の学生は各々会話をしていたために気が付く者はいなかった。
「そう考えてない。正直どうでも良い話でしょう?あ、断っておくけど片山の気持ちがどうとかっていう話ではないよ。議論の内容がっていうことね」
真中は良く分からないという顔をしていた。
「若い時しか、そういう下らないというか、些末なことで議論ってできなくなってくるんだよね。ああ、えっと、可能かどうかっていうことではなくて、こう同じ方向を見て話しできるかっていうこと。うーん、これもわかりにくいな。分かった?」
鹿島は初めて真中の方を見た。
「わかりません」真中は鹿島を見て言った。
「そう、その目さ。その目が出来ない。あの議論中少なくとも君はずっとその目をしていた。それが若さっていうことだと思うな」
先頭を歩く二人の目の前には駅の自動改札があった。
片山は管理事務所から外に出た。管理事務所内は二十四時間体制で掘り進めているトンネル工事であるため、夜番の職員がしっかりと作業をしていた。現場に出ている職員もいるだろう。一色はすでに退社している。
時計を見る。入社時にこれから社会で頑張るために購入した時計である。まだ終電まで時間はある。駅へと向かって歩き出した。
交差点を右折する。そのまま真直ぐ進めば駅である。
「片山さん」
最初は気のせいだと思った。後ろを振り向く。まばらだが片山と同じように駅に向かって歩いている人はいるが知っている顔は見えない。
ふと自分の右側を見た。二つのビルの隙間の路地に人影が見える。
「片山さん」
今度は間違いなく聞こえた。そして自分の前にいるその影が発している声だった。
「どちら・・・様ですか?」片山は陰に向かって話した。もし本当に影だったら滑稽に見えただろう。
路地というには少し広めの道には街灯がまばらに立っている。その街灯間にその人物は立っているようだった。
片山は勇気を出してその路地に入ってみた。明るい大通りを背にしていればすぐに逃げ出せるだろうと考えたからである。
暗闇に立っていた人物が同じように片山の方に向かって数歩歩き出した。街灯に照らされている方向だっただめ少しずつ体のシルエットが鮮明になってくる。そして街灯の真下までやってきた。
「あなたは・・・」片山は声を出した。その人物に見覚えがあったからである。
「どうも」その人物、訪問者は片山に簡単に挨拶をした。
闇の中の光源に佇む訪問者はただ立っているだけなのだが、その所作に隙が無い。
「都合の良い展開になりましたね」訪問者はそう言った。
「何を言っているのでしょうか?」片山は言った。
「それは嘘でしょう。自分がしたことなのに忘れているわけではない。恍けているのでしょうか?」
「こんな路地で何をしているんですか?不審な人物だって警察に通報しても良いんですよ?」
訪問者は片山を見ていた。
「だったらもう通報しているはずでしょう。この路地に入ってきたこと自体がその証明です」
「ただ気になったから見に来ただけですよ。不審な人物がいたら通報しますよ」
「どうぞ。お好きなようにして下さい。私は勝手に話をさせてもらいますから」
「私は話すことなんてありません」
片山は鞄からスマートフォンを取り出した。
「あなたの婚約者の事でもですか?」訪問者は片山の発言を遮るように言った。
片山は鞄に手を入れたままで止まった。
顔は訪問者の方を向いている。その目線は冷たさを帯びていた。
「それこそなんの話なんですか?坂口はすでに捕まっています。これ以上何があるっているんですか?」
「ああ、そう言う感じになるんですね」
片山は自分の中で想像していた返答と異なっていたのか不思議そうな顔をした。
先程の冷酷な目が元に戻っていた。どの感情よりも疑問が勝っていた。目の前の訪問者が片山に対する今の反応を意図して発した言葉ならば、簡単に心を開くような相手ではないと片山は思った。
「ああ、すみません、こっちの話です」訪問者は全く変わらない声のトーンで言った。
「とにかく、私はもう帰りますよ。あなたももう帰ってください」
「懇親会の席ではとても面白い話をしていましたね」
また片山の動きが止まった。
「別に・・・面白くはないわ。後輩達が私の事を気にしてくれていろいろ考えてくれたっていうだけよ。それが何だっていうの?」
「いえ。待ったく無駄な時間だったなって思います」訪問者は真直ぐ片山を見て言った。
「私の後輩の好意を踏みにじるようなことを言わないでもらえるかしら?」
片山も訪問者の顔を見て言う。
「踏みにじっているのは私の方なのでしょうか?本当にそうなのですかね?良く分かりません」
「どういうことなの?」
「いえ、あなたの方がそれに該当するのではないかと思ったからですよ」
片山は訪問者の事をじっと見た。
訪問者は動じなかった。
片山が聞く姿勢が出来たという合図を待っているかのようだった。
「坂口さんの車の鍵が見つかっていないという時点でまず恋人だったあなたに意見を求めていないでいるということが不思議です」
「どういうこと?」
「どこかに隠した、捨てたと言った議論よりもまず恋人であるあなたが受け取って隠し持っていると考えた方が単純だということです」
片山はじっと立って訪問者の話を聞いている。
「そうでしょう?良く考えてみれば車で戻ってきて事務所から現場へ出てそれから逃走したんですよね?その中で捨てたり隠したりっていう行動はひどく不自然です」
片山の後ろの大通りにはまばらではあるが人が行きかっている。
「だから懇親会の議論の場でなぜそのことを誰も追及しなかったのかっていうことが疑問です」
「それがなぜ後輩の好意を踏みにじったことになるの?」
「懇親会であなた急に泣きましたよね?そこから坂口さんの話になって、見つかっていない鍵の話になったんですよ」
訪問者は淡々と語った。
「それから学生たちの推論がいくつか挙げられました。繰り返しになりますがこの時にあなたに鍵の所在を聞くということはなかった。それは最初のあなたが見せた涙が彼らの意識にくさびのように打込まれたからだと言えると思います」
「だから何なの?それがどうしたの?言っていることはあなたも後輩達も同じことよ」片山は言った。
「いえ違います」
「どこがよ。同じだわ」
「いいえ、違います。私はあなたに何も感じることはありません。同情や慰めの感情だってありません」
訪問者は言い放った。
片山はその発言に何も言い返せなくなっていた。
「あなたは、当日現場に向かう坂口さんとすれ違ったと言っていましたね。多分そこまではほとんど一色さんの言っている通りだったと思いますが、そこからが違います。あなたと坂口さんはそこで入れ替わったんです」
「何を言うかと思えば。とんだ妄想ね」
「あなたは坂口さんから女性を刺してしまったことを電話等で連絡を受けると、まずシフトが入っていますからそのまま普通に戻ってくるように連絡しました。その後、事務所に行って作業着に着替えさせたあなたはタイミングを見計らって現場を離れて事務所に向かいます。その途中で坂口さんと落ち合ったあなたはヘルメット等の装備品を交換します。服は買える必要はなかったでしょうね。男女とも同じ作業着のデザインですからね。この入れ替わりの目的としては逃走用の時間の確保でしょうか?」
「鍵は?」片山は言った。
「まだそれ気にします?坂口さんが自分で持って逃げて途中で捨てたに決まっているでしょう。遠く離れたところまで逃げて捨てたんでしょうね」
片山はじっと黙っていたが、鼻で笑った。
「何を言い出すかと思ったけど、後輩達の推論の方がまともね。本当に適当なことばっかり。坂口さんと私が入れ替わった?そんなこと出来るかしら?」
「出来ると思いますよ。わざわざ懇親会参加者全員に写真を見せて回っていたじゃないですか。あなたと坂口さんは同じ背丈ですね。声も女性にしては低い方ですから多少練習すれば声色も似せることが可能だったかもしれませんね。それに両方ともスレンダーな体型していますからちょっと大きめの作業着だったらわからなかったでしょう。特にトンネル内に入ってしまえばさらにわかりにくかったと思いますよ。付け加えてしまえば、例えば薄く色の入ったゴーグルとか、保護メガネのようなものでも構いませんが目線を覆ってしまえばわかりにくくなりますからね」
「あなた本気で入れ替わっていると思っているの?そんなこと無理だわ。不可能よ」片山が言った。
「ICチップがあるからですか?」訪問者は片山が言い終わると直ちに言った。
片山は目を見開いて黙った。
「最近はGPSやICチップを使って作業の管理しているところが多いそうですね。そしてこの現場では新しい手法のテストケースの対象となっているそうですね。それまでは発信器を所持する必要があるとか制約があったみたいですが。新しい手法では体の中にICチップを埋め込む方法のようですね」
片山は下を向いている。
「世の中には出てないということは、まあ反発する人間も多いということですかね」
「知っていたの?」
「いいえ。一色さんがトンネル内の見学の時に点検通路の先にある立ち入り禁止の区間に入る時に扉に手をかざしただけで鍵が開いて入っていきましたよね。だからそういうものが埋め込まれていると思ったんです」
訪問者は街灯の下に移動した時から全く動いていなかった。
「あなたが入れ替わりの計画を立てる時にそこだけがネックでした」
訪問者は片山を見つめる。
「だからあなたは、坂口さんの右手に埋め込まれているICチップを取り出したんですね」
片山は俯いたままだった。
「坂口さんが逮捕されたときに右手が負傷していたのはあなたがICチップを取り出したからだ」
訪問者はそこまで言うと後ろを振り向いて歩き出した。
「何をしに来たの?あなたがこんな話をしなければ、本当に忘れることが出来たのに。どうして?」
訪問者は歩みを止めた。
「自分を騙すっていうことがどういうことか私にはわかりませんが、それだけならわざわざ私が話す必要はありませんでした。でもあなたは自分以外も騙し始めた。だから話をする必要があると思いやってきました」
「私はどうすれば?」
片山は訪問者の背中に向かって言った。
「自分で考えてください。私にはわかりません」
訪問者は路地の奥の闇に消えて言った。
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