第2話 左回りでオーバードライブ

合六と松崎は実験棟に向かった。コンクリート工学研究室、通称コンクリ研の実験棟は研究室が集まっている五号館の裏手に存在している。

合六達が研究テーマとしているコンクリートや河川や海域の変化などを研究対象としている水理研究室、そして地滑りや地盤沈下などを対象としている地盤工学研究室などは土木工学でもハードな学問である。これは硬度として硬いという意味でも、身体を酷使すると言った意味でもない。しかしコンクリ―トを対象とする場合は言葉通りの意味かもしれない。逆に計画学研究室や地球環境工学研究室の分野はソフトな分野である。

ここでいうハードやソフトという言葉はテレビゲームを想像するとわかりやすいかもしれない。ゲーム機本体をハードと指すように形があるものを対象としており、反対にソフトとは有形ではない情報や意識などを対象としている。

五号館の裏手に回るとプレハブがあり、そこは環境、地盤、計画の三つの研究室が各々使用している。コンクリ研の実験棟はこのプレハブの裏手にある。入口もプレハブに隠れるようにしている。もともとプレハブのある場所は更地であり、見通しが良かったがプレハブが建ってから入り口が隠れてしまった。

コンクリ研の実験棟は地盤研と共同で使っている。正確には地盤研のスペースは入り口が異なっており、長屋のようになっている建物の側面に入り口がある。室内も区切られているために地盤研とコンクリ研が室内で一緒に作業するということは全くないと言っても良い。

合六と松崎は実験棟の扉の前まで到着した。合六がジャージのポケットから鍵束を取り出した。実験棟の鍵は大学院生以上であれば全員が持っている。本来であれば建物の管理をする教員が鍵を管理する必要があるが、外出していることも多く、使用の度に借りに行っては実験が思うように進まないという事態に陥り、実情と合致していない。そのために、非公式ではあるが、大学院生以上には鍵を複製して配布している。大学院生以上には自分で責任を持って実験施設を管理するという理由が付けられている。

「合六さん」

「んー?」

「さっき塩田さんが実験棟に行きましたよ」

「あーそっか、じゃあ」

合六はドアノブを回した。がっしりとした鉄製のドアが軋む音を上げて開いた。

「開いているってことねー」

二人は実験棟へと入る。

実験棟の正面扉を入ると長い廊下が続いている。入ってすぐの左手にはトイレがある。さらに進むと右手に扉、さらにその先にはシームレスに大きな空間に接続されている。

「試験体、養生層から出しておきますか?」松崎が前を歩く合六に向かって言った。

「ああ、そうだねー。強度用に三本出しておいてー。私粉砕の準備しておくからー」

「わかりました」

松崎はそう言うと右手の扉に入って行った。合六はそのまま正面の大空間に向かう。松崎が入った部屋はコンクリート試験室である。ここでは一年中空調が効いており、室温と湿度が一定になっている。この部屋ではコンクリートを練り混ぜて、試験体を作製したり、固まっていないコンクリートの試験をする目的の部屋である。そのためには室温や湿度を一定にしなければいけない。部屋の中にはコンクリートを練り混ぜるためのミキサもある。

その部屋の中にも右手に扉が二つ離れて設置されており、その向かい側にも扉が一つある。その扉は合六が向かっていった大空間に通じている。松崎は右手の壁に二つ並ぶ扉のうち向かって左側の扉を開けた。入った部屋は養生室と呼ばれる部屋でここも一定の室温と湿度に保たれている。この部屋には大きな水槽が置かれており、水が溜めてある水槽の中にはコンクリートの試験体がいくつも置かれている。固まる前のコンクリートに余計な水が入ることは御法度であるが、固まった後のコンクリートはセメントの化学反応のために水分が必要となる。そのために作製したコンクリートはこの水槽の中に所定の期間沈めておくのである。

松崎は水槽の前に立って、中を覗き込んだ。研究テーマごとに大学院生を筆頭にグループが作られているため、水槽の中にはいくつもの試験体が沈んでいる。コンクリートは圧縮強度で管理されることが多いため、円柱試験体を作ることが多い。実際に水槽に沈んでいる試験体もほとんどが円柱試験体である。他にもサイズの異なる円柱や四角柱と言った形状が確認できる。学生実験の授業がピークの時などは授業で使った試験体もここに沈んでいることになる。

松崎は水面から試験体にインクで書かれている文字を確認する。置いた場所は覚えているが、他のグループが試験体を沈める際に邪魔になっていたりすると、水槽内の整理の目的で動かされることがある。だから覚えていたとしても確認しておかなければいけない。

松崎は試験体を確認すると、試験体を引き上げるための専用ハサミを手に取って、水槽に掛けられている橋に上る。この橋は単管とベニヤ板を組み合わせた手作りである。松崎はここに上る度にいつか壊れないかと心配するが、案外丈夫だった。

松崎は三本の円柱試験体を引き上げると専用の運搬用の容器に入れた。養生室を出てコンクリート試験室から大空間へと向かう扉を開ける。そこには四台の載荷試験器が置かれており、部屋の中央には木製の作業台が四台並べてある。壁には工具類が置かれている棚があり、もう一方の壁際には鉄筋が並んでいる棚がある。大空間の奥にはプレハブが設置されている。ここには化学分析機器が設置されており、土足禁止の上に空調が効いている。分析中の温度も一定にする必要があるためである。

この実験等の中で唯一、大空間には空調が設置されていない。この時期にはかなり厳しい環境と言えるため、扇風機が回っている。

一つの作業台の側で塩田が作業をしていた。手のひらに乗る大きさの円柱供試体の寸法をノギスで測っている。塩田は青いツナギに着替えていた。作業着として使っているわけだが、通常の整備士が着るような着こなしではなく、上半身をツナギから出して袖の部分を腰で縛って止めていた。

「お疲れ様です」松崎の挨拶に塩田は、おう、とだけ答えて作業を進めた。松崎は左に折れて大空間から接続されている別の部屋に向かった。その途中プレハブを横目に見ると入り口に真中の靴が置かれていた。中で作業をしているようであった。

大空間から繋がっている部屋に入ると合六が地面に座って作業をしていた。この部屋には作業台が三つあり、さらに乾燥炉等の実験設備もある。そのため面積はある部屋なのだが人の動ける範囲は限られている。

「採寸しておけば良いですか?」松崎は床で作業をしている合六に聞いた。

「おねがーい。もう少しでこっちも粉砕の準備できるから」合六はカットされている試験体をハンマーで粉砕している。小石くらいのサイズまで粉砕した後に専用のミルで粉体状になるまで粉々にするのである。本来であればこの粉末を分析機器にかけることで結果が得られるのであるが、現在故障中のため分析をすることが出来ない。修理には来月中旬までかかると業者から連絡があった。

さらにタイミングが悪いことに今月末に学会に提出する論文の骨格をなすデータが得られるために修理を待つことが出来ない。そのためにこの分析機器が近場で借りられるところということで土木技術研究所に向かうことになったのだ。合六と松崎はその準備をしている。

「採寸したらどうしますか?」松崎は作業台の下を覗き込むようにして言った。

「今日の午後に配送頼んでいるからー、えーっと段ボールどっかから見つけてきて梱包してくれるー?」

「ういっす。了解です」

松崎はそう言うと実験棟を出てゴミ置き場まで向かい捨てられている段ボールを貰ってきた。

「貰ってきました」

「お疲れー。ええ?それ何?」合六は粉砕ミルの前でしゃがみこんでいたが松崎の手に持っている段ボールを見ると、血相を変えて言った。

「え?段ボールですよ?見てわかりませんか?」

「いや、段ボールっていうことはわかるよ。二十年以上この世の中で生きているからねーじゃなくて、その大きさだよ」

「大きさですか?なんか変ですかね?」

「試験体が三本と粉砕した試料が十個もないけど?これってトイレットペーパの箱じゃない?」

「ダメなんですか?」

「サイズ感が無いでしょー。ペットボトル入れてあったくらいの大きさの段ボールなかった?」

「あったと思いますけど」

「それくらいで良いよ」

松崎はゴミ置き場からペットボトルが入っていた程度の大きさの段ボールを貰ってきた。

「これで良いですか?」

「うん、じゃあ梱包してもらえないかな。こっちも粉砕終わったから」

「はい」

松崎は強度試験用の試験体三本と分析用の試料が入ったサンプル瓶十本を段ボールに入れて梱包した。

「これで良いですか?」松崎は段ボールに最後のガムテープを張ると合六に向かって言った。

「お前は他のことはダメだけど梱包に関しては天才的だよねー」

「ありがとうございます」

「これを褒めているって聞こえることが素敵だよねー。本当に前向きで感心するよ」

合六は荷札を張り付けた段ボールを作業台の上に置いた。

それから一時間ほどで宅配業者が集荷に来た。合六は梱包した段ボールを業者に渡す。明日には先方に届くということだった。

「明後日から行くんですよね?」松崎は掃除をしている合六に聞いた。

「そうだよ。届いた時点で強度試験は乙川さんがやっておいてくれるっているから分析だけだね」

二人で大空間の方に出た。

「乙川さんってどんな人なんですか?」

「えーっと、研究所で働いている人だよ。もうすぐ定年だって言っていたけどねー。おじいちゃんだよ」

「そうなんですか。何で知り合ったんですか?」

「東郷先生がもともと研究所に勤めていたんだよ。先生の経歴知らない?」

「あー気にしたことなかったです」

「そっかー。でも知っておけよ。自分の指導教官でしょう?」

「はあ。なんかすみません」

「だからそこで働いていた時から実験については全幅の信頼を置いていた人だったんだって。それで実験で困ったことがあると聞きに行ったり、ここにない試験機を貸してもらいに行ったり。お世話になっているんだよー」

「俺もお世話になったことあるよ」塩田が、ノートにボールペンで何かを書き込みながら答えた。

「皆さんお世話になっているんですね」松崎が塩田に返答する。

「そうだな。駆け込み寺ってやつだな」塩田が言った。

実験棟の扉が開く音がして矢木が入ってきた。

「なんか地方紙の記者の人が来て取材をしに来るっていうんで実験棟を片付けて欲しいって先生が言っていました」

矢木は大空間に来るなりそう言った。

「急だな。どれくらい後に来るの?」塩田が矢木の方を向いて言った。

「えっと三十分くらいだったと思います」

「じゃあ、片付けるか」塩田が腰を上げた。

分析室から真中も出てきた。プラスチック製のバットにビーカーがいくつか載っていた。

「え?何?掃除するの?」真中は松崎に聞くが松崎も答えに詰まっている。

それを見て矢木が簡単に説明する。

「でも実験棟が綺麗って実験系の学問としてどうなの?まるで実験していないみたいじゃない?」真中がバットを先ほどまで合六達がいた部屋に置いてきてから矢木に言った。

「言っていることはわかりますけど。こう、いい具合に掃除すれば良いんじゃないですか?こうやって机の上に使っているのかどうなのかわからないペンとかが置いてあるのは良くないっていうことでしょう」

矢木は作業台の上に無造作に置いてあったボールペンを持ち上げて言った。

「仕方ないわね。やりますか」

それから十分ほど全員で分担して実験棟を掃除した。基本は整理整頓として掃き掃除などは塵や埃が舞うことも考慮して最低限で行った。

「よし、こんなもんだろう。後は先生に根回ししておいて余計なところは紹介しないようにしてもらおう」

塩田は首にかけていたタオルで汗を拭いた。

「いやー俺取材とかって初めてです」矢木が言った。

「確か俺たちが四年の時にテレビの取材が来たよね」塩田が真中に向かって言った。

「ああ、そうね。試験体作った気がする。実験系のテレビだったっけ?」

「へーそうなんですか、いいなあ」矢木が目を輝かせて言った。

塩田らの会話に入らずに松崎が壁に掛けられていた時計を見た。松崎は実験棟の裏手から外に出た。実験棟の裏手はコンクリート用の砂や砂利が溜めてあるヤードになっており、裏門から外の道に続いている。ここから砂や砂利の搬入が行われる。

砂や砂利の他にも実験で使用したコンクリートの試験体が置かれている。コンクリートの試験体は産業廃棄物扱いなので、燃えないゴミに捨てるわけにもいかない。年間で二回ほど業者を通じて廃棄物処理施設に廃棄しに行くことになる。このコンクリートの処理にもお金がかかる。

松崎は積み上げられている砂利の山の上に腰を下ろして寝転んだ。

「おい」

目の前に合六の顔が出てきた。

「うおっ」松崎は滑り落ちそうになった。

「取材の人来るよー?」

「いや、俺そう言うの無理なんです」

「そんなこと言うなよ。立っているだけで良いからさー」

「別に俺がいなくても大丈夫でしょう?」

合六はしばらく考えていた。

「それもそうだねー。じゃあお前は何しているの?」

「えっと空でも見ています」

「名案だね。じゃあ私もそうしようかなー」

合六は隣の砂利の山に寝転んで松崎と空を見ることにした。松崎は無表情でそんな合六をじっと見ていた。



研究所へ向かう当日の朝、合六と松崎は大学に集合していた。二人共大学周辺に下宿があるという理由もあるが、一番の理由は研究所へと向かう手段である。二人は電車で移動することを考えていたが、塩田が車を出してくれることになった。ついでに三枝が行ってみたいということで実験の手伝いをするということでついてくることになった。総勢四人で車による移動ということになったのである。

合六が測定の心配をしているのをよそに、三枝と松崎は遠足にでも向かうように気分が高揚しているようだった。塩田は意に介さない様子だった。

「後で鹿島先生も来るから」車に乗り込むとシートベルトを締めながら塩田が言った。

「お仕事ですか?」後部座席の松崎が尋ねる。

「学内で緊急会議だってさ」

「大変ですよね。急に会議って何かあったんですかね?」

「何かはわからないな。ただそんなにドタバタしていなかったからそこまで緊急なことじゃないと思う」

塩田は助手席の合六を見る。ちょこんと座った合六は窓の外をじっと見ていた。

「日頃煩い奴が黙っていると本当に心配になるな。どうしたんだ?」塩田は合六に話しかけるが合六は、大丈夫でーす、と覇気のない声で言った。

車を一時間ほど走らせると目的地である土木技術研究所が見えてきた。I県にあるこの施設は国の研究機関としては最高峰の設備を持っている。

敷地内への車での入場が制限されているために近くのコインパーキングに停めることになった。そこから五分ほど歩いて研究所に着く。正面入り口にある警備室で乙川の名前を出すと取り次いでくれた。

警備員からこの場で五分ほど待つようにと言われて素直に従って待っていると研究所の入り口から作業着を着た白髪の男性が合六達のもとへとやってきた。

「おお、すまんな。待たせてしまったかな」

片手を挙げてにこやかに近づいてきた。

「乙川さんこんにちはー。お久しぶりですー。元気していましたか?」

合六も大きく手を振って応える。合六たちの傍まで来た乙川は老人にしては背筋もしっかりと伸びており背も高い。体つきも程よく筋肉がついているのがわかるほどだった。

「おお、菜々子ちゃん。大きくなったんじゃないか?」

そう言って乙川は合六の頭に手を置いた。

「あれは嫌味ってことで良いのですかね」三枝が塩田に言った。

「いや、多分本心で言っているんだろうな。田舎のおじいちゃん的な感覚だ」

塩田はじゃれあっている祖父と孫のような二人を見てそう言った。

「あれが乙川さんですか」松崎はじっと乙川を見ていた。

「お前らを紹介しないとな」塩田は二人に言った。

塩田は乙川を呼び止める。

「乙川さん、そろそろ孫を愛でるのも落ち着いたところですよね。今日は四年生を連れてきたんですよ」

「おー塩ちゃん。元気だったか」

「絶対に視界に入っていたでしょう?まあ、いいですけど」

乙川と塩田は握手をした。この場合の握手は友好の意味を持っているが、年齢を重ねるとスキンシップが増えがちであることにも起因している。視覚、聴覚以外の他の器官を使っておかないと思い出せなくなるのかもしれない。

「こっちの女の子が三枝恵梨香さんで、こっちのむさ苦しい男は松崎将兵です」

二人は並んで挨拶する。

「おおいらっしゃい。女の子が実験系の研究室なんて大変だろう」乙川は三枝に向かって言った。

「おつかわさーん、扱いが違うことに私は疑問があります」合六が飛び跳ねながら抗議した。

「そんなことはないぞ。あんたはもう染まりきっているからな」

乙川は笑っていた。

その後にしっかりと二人共握手を交わした。

「よし、どうする?もう測定始めるか?」

「はい、お願いしまーす」合六は元気よく答えた。

乙川を先頭に研究所の内部に入って行く。正門から見える近代的な建物の中には実験設備はない。

建物の中を通り抜けて裏手に出るとそこにはいくつものプレハブや倉庫が並んでいた。このプレハブや倉庫群の中に実験設備が設置されている。

一行はその間を縫うように移動すると大きな倉庫のような建物が現れた。

乙川はその倉庫の前にある扉に着くとポケットから鍵を取り出して開錠した。

「送ってもらった強度用試験体だけど届いた段階で試験はしておいたよ」

「あ、ありがとうございます。ちゃんと強度出ていましたか?」

全員で倉庫内に入る。

「ああ、後で結果を渡すよ。データの方が良かったりするかい?」

「三本だけだし、寸法もこっちで計測しているんで、最大荷重だけ教えてください」

「わかった。後で忘れずに言ってくれな。年取ると三十分前の事忘れるんだよ」

乙川の後ろを付いていくように四人は進む。大学の実験棟よりも大きな空間が広がっている。大学の実験棟にある何倍も大きな試験機を横目に倉庫の奥へと向かっていくと、大学の実験棟と同じような綺麗なプレハブが見えた。

「うちと同じようなプレハブだ」松崎が最後尾で言った。

「ちょっと違うなー。うちがマネしたんだよ。鹿島先生がここに来た時にこの中で化学分析をしていたのを見ていたんだねー。だから実験棟に分析装置を置くときもここを参考にしていたんだ」合六が松崎の方を見て言った。

「鹿島君はよく来ていたね。いろいろ聞かれたが勉強していったみたいだよ」

乙川は分析室の扉を開けた。ここも土足厳禁のようであった。

「分析用の試料はここの中に入っているよ。菜々子ちゃん使い方はわかるよな?」

合六は室内の分析機器本体を観察した。

「はい。大学と同じ装置だから問題ないと思います」

「よし、じゃあ俺は別の仕事があるから、終わったら声かけてな」

そう言うとまた引き返して行った。

それから四人は計測に取り掛かった。合六は大学を出る時から、というよりも平時から作業着代わりにジャージとTシャツを着ているのでそのまま作業に入れる。松崎も大学で作業する時は合六に近い格好であるが、国の研究所で作業するとあってか、スラックス型の作業ズボンにベルトをしっかりと回していた。

「お前、今日は珍しい格好しているねー」合六が松崎の身体全体を見て言った。

「あ、いや外で実験するのって初めてだったのでちゃんとした格好にしようかなと思って」松崎は作業着のズボンの裾を広げるようにして言った。

「似合ってんじゃないかなー。でもTシャツは外に出しても良いんじゃない?コンクリート練混ぜするわけじゃないんだからさ」

「はあ、そうですか」松崎はスラックスに入れていたTシャツを引き出した。

「まあ、お前はいいけどさ。三枝ちゃんは全く実験する気ないよね?」

合六はプレハブ内の分析機器を見て回っていた三枝に言った。

「え?実験するんですか?試験体を回収しに来ただけかと思っていました」三枝は抑揚をつけずに言った後、分析機器の観察を再開した。

「あー私もあそこまで開き直れたらなー」

合六は皮肉を言ったつもりだったが、どうやら効果はなさそうだと判断すると松崎と作業を始めた。塩田が見当たらなかったが乙川の方に遊びに行ったのだろうと合六は考えた

自分たちが発送した荷物から試料を取り出してラベルごとに並べる。これを分析するためには専用の容器に入れる必要がある。合六と松崎はその作業を行っていた。

「乙川さんってここで働いて長いんですよね?」薬さじで容器に粉末を入れながら松崎が聞いた。

「うーん、長いって言っていたよ。大学院を出てからずっとここで働いているってさ」

「凄い。もう四十年選手ですね」

「若いころは相当怖かったって言っていたけれど今はもうおじいちゃんだねー」

「さっきの先輩に接する態度を見ていたらなんとなくわかります」

それもそうだね、と合六は言ってから分析機器に容器をセットした。

「でも昔はどうか知らないけれど今の六十代って若いと思うんだよね。体力だってあるしさ」

測定条件を入力してから測定開始のボタンを押す。後は機械任せである。こちらは何もすることがない。一つ目の試料の測定中に専用の容器に詰める作業は終わったので後は待つだけである。それ以外に測定中はすることがない。トラブルでもない限りはその場にいる必要がないのである。大学の実験棟にいる時はそれぞれで他にする作業があるため、測定中はそちらの作業を行っているのだが、今はそうはいかない。部屋の外に出ても職員の迷惑になるだけである。

結果、この部屋内で測定が終わるのを待つだけということになる。

「確かに乙川さんって年齢の割にはしっかりしていますよね?」三枝がいつの間にか二人の傍で座って会話に参加していた。

「そうだねー。若い頃から体は鍛えていたらしいよ。今はもう無理だって言っていたけど、コンクリートの円柱試験体の片手でバスケットボール持つみたいにして運んでらしいよ。しかも直径十五センチのやつ」

それには二人の四年生は驚いていた。

合六が言っているのは円柱試験体のサイズであり、直径が十五センチで高さが三十センチのコンクリートの塊を片手の握力だけで持っていたということである。一つ約十二キロ程度はある。円柱という形状のためか引っかかるところがない。それでも若い乙川は握力だけで持っていたというのだから驚くことだろう。

「漫画の中の話みたいですね」松崎が言った。

「さっき握手した時に大きな手だなって思っていたんですよね」三枝が納得というような表情で頷いた。

「うん。この業界にはそんな話がよくあるよね。でも乙川さんも歳には勝てないっていうようなこと言っていたよ」

「そういうもんですか」松崎が合六の顔を覗き込むようにして言った。

「顔が近いよ。キスする距離だよ」

「ああ、すみません。絶対にそんなことしませんから。ごめんなさい」

「ああ、うん。そこまで否定されて悔しく思っている自分が嫌だな」

測定終了の合図が響いたので合六は試料を交換する。終わった容器は松崎が回収して掃除等の後処理を行った。

松崎と三枝は残りの試料の測定中もずっと雑談をしていた。合六は持ってきた鞄からタブレットPCを取り出して測定が終了したデータから順番にPC内に取り込んだ。データの整理を行うためである。

二時間後にはすべての作業が終了した。合六はPCにデータを取り込み終えて、四年生二人と部屋の掃除を行った。三枝はこの時ばかりは参加した。汚れるような作業はしていないが、使い始めの時と同じくらいの綺麗さを確保できたところで掃除を終えた。

持ってきた荷物を整理していると乙川と塩田がやってきた。

「お疲れさん。終わったか?」乙川が靴を脱いで部屋に入ってきた。

「お疲れ様でーす。終わりました。ありがとうございました」合六は言った。

「お、掃除までしっかりとしてくれたんだね。君らはそう言うところしっかりしているから感心だよ」

「厳しくされていますからね」塩田が言った。

「良いことだな。よし、お昼だからご飯食べに行くか。食堂だけど行くかい?」

「いきまーす。お腹すきました」

一行は荷物をプレハブに残して食堂へと向かった。

食堂は最初に通った建物とは別棟にあり、国道を渡って反対側にある。敷地内から歩道橋を使って国道を渡り、反対側の敷地に向かう。そちらは比較的倉庫やプレハブが少なかった。初めて行く四年生の二人が最も注目したのはサーキット場のようなコースだった。

「乙川さん、なんでサーキット場があるんですか?」

「ああ、あれはな。試験舗装路ってやつだ。舗装の研究をしているグループが良く使うな。試験舗装の耐久性とか実際に車を走らせて実験しているんだよ」

「そんな施設もあるんですね」三枝が感心したように言った。

「今は舗装の研究は活発ではないんだけれどな。最近良く使っているのは自動運転技術の研究だな。ほら最近流行りだろう?」

歩道橋の上から試験舗装路を見ると試験舗装路の周りには運動会でよく見るテントが張られている一画があり、そのテントの中には人がいた。また舗装廊の上には車も確認できた。

「今もその実験をしているんですかね?」塩田が額に手を当てて日よけを作りながら言った。

「恐らくそうだろうね」

「見学できたりしませんか?」三枝が言った。

「あーどうだろうなぁ。開発系の研究だったら外部には見せづらいところがあるんじゃないのかな」

五人は歩道橋を降りた。そのまま道なりに進んで建物へ入る。

一階の食堂へと向かって昼食を摂った。学生分の食事代は乙川が支払った。食べ物が載ったトレイを持って五人はテーブル席に座る。

「乙川さん小食ですね」塩田が言った。

乙川のトレイにはライスの小盛と小鉢が二つ程度だった。

「健康診断で言われてなあ。数値が高いってことで食事も押さえているんだよ。飯はまあ我慢できるんだがね。酒も飲めなくなったっていうのは参ったな」

乙川は短く刈り込んだ頭を掻いた。

「そうなんですね。鉄人も人間ですね」塩田が言った。

「鉄人か。呼ばれたことないがな」そう言って乙川は笑った。

「でも君らはまだ何十年と先の話かもしれないがね。まああっという間だったな」

「そんなこと言わないでよー。乙川さん元気じゃん」合六が元気良く言った。

「君らみたいな若い子たちがこうやって来てくれると元気をもらうんだよ。大学の先生なんか気持ちが若いだろう?東郷ちゃんも見た目はおじさんだけどな。気持ちが若い」

「そうかなあ」三枝が言った。

「君らはいつも接しているからな。そうは思わないかもしれないけどな」

雑談をしながら五人は箸を進めた。食堂の人数がまばらになってきた頃、食器を片付けようと全員で立ち上がった。

「あれ?参ったな」乙川が作業着のポケットを弄りながら声を上げた。

「どうしたんですか?」松崎が言った。

「ああ、いや薬を忘れてね」

「え、急ぎますか?」合六が真剣な表情で言った。

「いやいや問題ないよ。実験棟の控室にある鞄の中に入っているんだ」

「持ってくるのを忘れたんですか?」

「実はいつもは家内が作る弁当を持ってきていて実験棟の控室で食べるんだけど、今日は君らが来るからご馳走したくてね。自分だけ弁当だと白けるかなと思って一緒に食堂のメニューにしたんだ」

乙川なりに気を遣ったということであった。

「すみません。なんか気を遣わせてしまって」塩田が申し訳なさそうに言った。

「気にしないでくれ。さっきも言った通り君らに会うだけでこっちも元気を貰っているんだから」

そういうと、じゃあ帰るか、と乙川が声をかけて五人は食堂から出た。先程と同じルートで歩道橋まで戻ろうとすると、試験舗装路の方から人が走って出てきた。食堂のあった建物の方に向かっている。

「おーい、牧田君」乙川が声をかけた。

牧田と呼ばれた男性がこちらを見ると走る方向を変えて向かってきた。

「乙川さん、お疲れ様です」

牧田は息も切れ切れにそう言った。

「彼は牧田君だ。この研究所の道路舗装研究グループに所属している男でな。大学の時はコンクリートの研究をしていたっていうことで暇な時にこっちの実験を見に来たりしているんだ」

「乙川さん、初めて会う人に僕がサボることのある人間だということをさらっと紹介してもらってありがとうございます。でも、そんなことはどうでもよくて、ちょっと良いですか?」

牧田はそう言うと乙川の肩に手を置く。

「何だ何だ?どうした?」乙川は汗だくになっている牧田の様子から狼狽えていた。

「あの、今、試験舗装路でデモをしようとしているんですが、ちょっとミスをしてしまって、被験者を呼んでいなかったんです。それで研究棟の方に手伝ってくれる人がいないかどうか探しに行こうとしていたんです」

「それはどうしようもないなぁ」乙川もそう言うしかなかった。

学生四人はそんな牧田と乙川のやり取りを困惑した表情で見ていた。

「誰か実験見に来ているのか?」

乙川が冷静に牧田に聞いた。両方とも我を忘れていては問題解決ができない。

「えっと年明けくらいに実際の公道で実証実験に移行するんですけど、そのためのプレゼンなんです」

牧田は早口で言った。乙川の質問の答えにはなっていないが、乙川は察したようだった。

「なるほど。メーカーやら国のお偉いさん方がお客さんってことか。もう来ているのか?」

「いえ、まだです。十三時には来ます」

学生はそろって腕時計やスマートフォンを見る。現在十二時五十分である。

「なるほど。お前らのチームの人間では駄目なのか?」

「一応開発チームっていうことで第三者が良いと主任が・・・」

「大森か。もっと柔軟に考えれば良いのになあ。全く」

「乙川さん、お願いできませんか?」

「え?俺か?まあお前らからしてみれば第三者だけど・・・同じ研究所所属だが良いのか?」

「はい。問題ないと思います。来てもらっても良いですか?時間は取らせません。十分から二十分で終わりますから」

今にも泣きそうな牧田の顔を見ていながら乙川は考え込んでいたが合六達学生の方を見た。

「わかった。じゃあ手伝うよ。お前からの頼み事だしな。ただし、こいつらも一緒に見学させてやってくれるか?」

乙川は合六達を指差す。

「え?彼らは・・・」牧田は乙川と合六達の顔を交互に見ている。

「実験しに来た学生達だよ。何か問題か?」

「えっと、そうですね・・・わかりました。じゃあ特別に良いですよ。ただ、写真や動画の撮影は禁止ね。それが条件です」牧田は乙川に向かって言った。

「よし、決まりだ。みんな分かったな。写真とかは取るなよ」

乙川は合六達に言った。

「乙川さん、時間がないですから、行きましょう」牧田は急かすようにして言った。

乙川も歩き始める。

「良かったな。これで見学できるぞ」

三枝の横を乙川が通り過ぎる時、耳元で囁いた。

学生一行は乙川と牧田の後ろを付いていくが、三枝は動けないでいた。

合六がそれに気づいて駆け寄ってくる。

「早く行こー。始まっちゃうよ」合六は覗き込むようにして三枝を見た。

「はぅう」そんな声を上げて三枝が動けないでいた。

「ど、どうしたの?」

「枯れ専って・・・ありですね」

三枝は全く合六の方を見ずに言うと、とぼとぼと乙川達の後ろを付いて行った。

「免疫なさすぎだろう・・・」合六はそう呟くと後に続いた。

牧田を先頭に乙川達は試験舗装路へと向かった。緩い勾配の坂道を真直ぐ進むと乙川達の前に白い布製の屋根が見えた。先程合六達が橋の上から見た運動会のテントである。先程ははっきりとわからなかったがテントは二つあるようであった。さらに進んで坂道を登り切ると手前のテントの下にはパイプ椅子と机が並べられている。しかし今その椅子には誰も座っていない。逆に奥のテントには十人程度の人が同じようなパイプ椅子に座っており机の上にはPCや計測器が並んでいた。

試験舗装路には一台の灰色の乗用車が停車している。これが試験車両ということになる。その試験車両の前後の扉は開け放たれており、作業着を着た人間が二人とスーツを着た人間が一人その周りで作業をしていた。

「大森さん、被験者が見つかりました」

牧田が試験車両の方に叫んだ。

車の運転席側から車内を覗き込んでいた大森は顔を出した。大森の顔は歪んでいたが合六達が太陽を背にしているためだと各人がそれぞれ思っていた。しかし、手で庇を作るように額に当てても、まだその顔は歪んでいた。

牧田から遅れて数秒で乙川を先頭にした合六達が追いついた。

「おーう。久しぶりだなあ、大森」乙川が右手を挙げて言った。

大森は隣にいた技術者と何回か言葉を交わした後、試験舗装路から合六達の所までやってきた。

「牧田、他に人はいなかったのか」大森は牧田に言った。

「はい。探そうと飛び出していきましたけれど、たまたま通りかかった乙川さんにお願いしました」

「なんで乙川なんだ?」

「おい、大森、俺じゃあ駄目なのか?」乙川は大森に詰め寄っていった。

学生が不安げな顔をして見ていたためか、牧田が合六のもとに近寄ってきた。

「乙川さんと大森主任はね同期なんだ。乙川さんは出世には興味なかったみたいだからあんな感じだけれど大森主任は野心的でエスカレータのように出征していったんだよ」

「はあ、だからあんな感じの話し方なんですね」合六は納得した。

見るとテントにいる他の研究員も呆然とした顔で二人のやり取りを見ている。

二人の声が響いている中、坂の向こうから人の集団が昇ってこちらに向かってくるのが見えた。

「主任、来ました」

牧田の声にいち早く大森は反応した。

「仕方ないな。彼に頼もう。準備に入ってくれ」

大森はチームのメンバーに指示を出してから、集団の方に向かっていった。

「あいつも大変そうだなあ」乙川は大森の後ろ姿を見ながら言った。

「乙川さん、こちらへ」牧田が乙川を舗装路に停車してある乗用車へと促した。

「俺は結局何をするんだ?」

「はい。今から説明をします」

乙川の後ろから合六達もついて行った。注意されるかと合六達は考えていたが以外に誰にも何も言われなかった。

「乙川さんにお手伝いしていただくことなんですけれど、実は何もありません」

「ん?どういうこと?」

「この車の助手席に乗っていて欲しいんです。やっていただくことはただそれだけです」

「運転席ではないのですか?」塩田が質問をした。

「ああ、この車は自動運転技術のモデル機なんだ。本当に運転手が必要ないっていう車なんだ」

「えー。すごーい」合六は驚いた。

「まだ試作中の試作なんでけれどね。とはいってもかなり高い水準まで持って行くことが出来たからさ。この試験走行で良い結果を出して今度の一般道への試験走行に持って行きたいんだ」

牧田は試験車両を撫でるようにして言った。

「俺はただ座っていれば良いのか?」乙川は試験車両の中を覗きながら言った。

「そうです。助手席に乗っていただいて、試験開始してからは車が勝手に運転してくれます。まずこのサーキットを普通に一周します。その後、急発進や急ブレーキなどを試しながらもう一周します。今日の走行テストはそんな予定です」

牧田は指でくるりと試験舗装路をなぞる様にして説明した。つまり乙川のすることは試験車両の助手席に乗って、この試験舗装路を二周するということである。

「わかった」

そう言うと乙川はテントの方を見た。大森が視察に来た人たちをもう一方のテントに誘導していたところだった。

「おお、所長までいるな」

合六達が見ると研究所の作業着を着用した人物が一人座っていた。あの人物が研究所の所長ということになる。その他の人たちは着ておらず、スーツである。

しかし全員がヘルメットを着用していた。テントの下で見るだけでなぜヘルメットが必要なのか、合六には分らなかったが、決して身の危険を防ぐという意味で被っているわけではないことは明白だ。

「乙川さん、そろそろ良いですか?」

牧田は丁寧に言っているがとても焦っていた。

「乙川さーん、頑張ってね」合六が言った。

「応援しています」三枝が瞳を輝かせて言った。

「まあ、座っているだけだからな。大した仕事でもないさ」乙川は試験車両に乗り込んだ。

牧田は運転席側に回り込んで開いているドアから中を覗いた。

「シートベルトは絞めておくのか?」乙川は助手席背を預けて言った。

「もちろんです。当たり前でしょう。急発進や急ブレーキのテストもするから絞めておいてください」牧田は乙川に言い聞かせる。

合六達も乙川側から試験車両の中を覗き込むが内装は一般の乗用車と同じ作りだった。ハンドルの横に画面が付いており、そこには車のワイヤーフレームが描かれており、そのほかにも計器などがデジタル表示されている。

「これ凄いな。ガンダムみたいだ」乙川がモニタをじっと見ている。

「乙川さん、これは触らなくて良いですからね」牧田は乙川に釘を刺した。

「乙川さん、触っちゃだめですよー。フリとかじゃないですからね」合六も釘を刺した。

「わかったよ。じっと座っているよ」乙川は腕を組んで座り直した。

その時合六達の後方から観客の案内が終わった大森が近づいてきた。

「おい、もう準備できているのか?始めるぞ。なんで学生がここにいるんだ?」

大森は近づいてきて声を落として言った。

そしてすぐに車内を見渡した。

「牧田、コップはどうした?」

牧田はしまったという顔をした。

「申し訳ありません。すぐに準備します」

そう言ってチームのテントの方に走って行った。

「コップってなんだ?」乙川は助手席から顔を出して大森に言った。

大森は乙川を一瞬だけ見て目を逸らしたが、小さくため息を吐くと話し始めた。

「お前は被験者だからな。話しておくのが筋だろうから話そう。この車に装備している制振装置のテストも行う予定だ。そのために使うんだよ」

牧田が走って戻ってきた。

「持ってきました」

牧田の手には紙製の背の高いコップとペットボトルに入った水が握られていた。

「じゃあセットしてくれるか」

牧田は重ねられた紙コップに水を入れると運転席側から身体を入れて、乙川の前方のダッシュボード、助手席と運転席の間にある小さなテーブル、そして後部座席のドアを開けてリアガラスと後部座席との間の空間に置いた。後部座席の方に置いたコップはバックミラーにも映っている。

「つまり、このテストが終わってもこのコップが倒れていないことで制振性能の証明になると」塩田が言った。

「そうだな。特に急発進と急停車の時の性能だ。しかしすでに何回かのテストを重ねてコップは倒れないことは実証済みなんだ。今回はビジュアルにも訴えかけた方が良いだろうと思ってな。もう一度実施することになった」大森は言った。合六達がいることはもう気にしていないような様子だった。

「わかった。俺はいつでも良いぞ」乙川は言った。

「では始めますよ。乙川さんよろしくお願いしますね」牧田が運転席のドアを閉めて言った。

「俺らのチームが作った車だ。まあ老人らしく車の中で惚けていればしていれば良いさ」そう言うと助手席側のドアを閉めて大森は去って行った。

「あのな、お前と俺は同じ歳だからな。それを忘れるなよ。全く一言多い奴だな」

「じゃあ、君たちは僕らの方のテントの後ろに居てくれるかな?」

牧田の指示に合六たちは従って大森のチームがいるテントの横で実験を見守ることになった。

観客のテントの前に立った大森が時計を見て時刻を確認してからマイクを使って話し始める。

「それでは定刻になりましたので、実験の方を始めさせていただきます。実験の概要につきましてはお昼前に会議室でお話しさせていただきましたので省略させていただきます。皆さんの目前にある車が新型のAI搭載車になってございます。これからこの試験舗装路を使って制御実験を行おうと考えております」

大森は淀みなく言うと試験車両の方を指した。

「ご覧いただきます通り、被験者に助手席に乗車してもらっております。運転席には誰も乗っておりません。これから車を発進いたしますが、すべて搭載したAIが考えて運転しております」

そこまで言うと観客の一人が手を挙げて質問をした。

「さっき聞きそびれたのですが、例えば道の情報などを前もってインプットしたということはないのでしょうか?」

「はい。そのようなことは御座いません。搭載のAIが自分で道を判断して運転するという仕組みになっています。今日は隣のテントに私達のチームがおりまして、あたかも遠隔操作で動かしているかのような印象を持たれるかもしれません。ですが、今回は実地データを得ることも目的としていますのでこのような形でテストさせていただきます」

大森が流れるようにそう言うと質問者も黙った。大森は観客達を見渡して質問がもう出ないことを確認するとマイクを口に近づけた。

「では始めたいと思います。エンジン点火とスタートの信号だけはまだ検討中の所がありますので私たちの方で出したいと思います」

大森がチームの方のテントに合図を送った。

それと同時に試験車両のエンジン音がかかった。もちろん乙川は何もしていない。

「乙川さん大丈夫かなぁ。顔が緊張しているよー」合六が試験車両を見ながら言った。

「乙川さんって緊張する方ですか?あまりそうは見えませんでしたけれど」松崎が塩田に言った。

「うーん、実は意外に緊張しいだな。あんな感じだからあまりそうは見えないだろうけれどね」塩田はにっこりとして言った。

「そういうものですか」松崎は頷いた。

車が動き出すと観客側のテントからは鈍いどよめきが起こった。

合六達の中でも三枝が受けた印象は良かったようであった。

「凄い。あれ、運転してないんですよね」

「そう大森さんが言っていたね。でも、こっそりテントで動かしていますって言われても判断できないな」塩田が言った。

「塩田さん、なんでそんなこと言うんですかー。凄い技術じゃないですか」合六は密かに感動していたようであった。

「まあ、そうだけれどね。外から見たらわからないよ。運転席に誰も座ってないことはわかるけど。AIなのかテントからラジコンみたいに遠隔操作しているのか、区別できないよ」

試験舗装路は円弧と直線で構成されており、いわゆる普通のサーキット場のような形状をしていた。試験車両は最初のコーナーを左に曲がっているところだった。

観客のテント脇にいた大森が牧田を呼び寄せて耳打ちした。牧田はチーム側のテントに座っているメンバーに何やら支持を出していた。それが終わると牧田は合六達とテントとの間に立った。するとチーム側のテントに座っていた研究員が一人ずつテントから出てきた。すべての研究員がテントから出るとノートPCが机の上に並んだだけの空間になった。六人ほどの研究員はすべてテントの後ろに立っている。

「皆さん、こちらのテントをご覧ください。研究員は現在誰も座っておりません。またデータは自動で保存されていますので、AIによる自動運転であることがわかっていただけるかと思います」

大森がチームのテントを示しながら言った。

観客からはまた鈍いどよめきが起こっていた。

「大森さんからすれば大成功で鼻が高いだろうね」塩田が言った。

「そうでしょうね。実験が始まる前もピリピリしていましたからね」松崎が返す。

「牧田さーん、今大丈夫ですか?」合六がそろりと牧田に近づく。

「ああ、大丈夫だよ」

牧田は先程よりは安堵の顔を浮かべている。

「あの車ってどれくらいの早さで走っているんですか?」

「今は時速四十キロメートルだよ」

「ああ、そうなんですね。ちなみに中の乙川さんの体調とかはデータ採集しているんですか?」

「それは調べてないな。一応今回人を乗せるにあたって健康な人っていうことが一つあったんだけど」

それすら忘れてしまっていたということである。牧田自身もかなり追い詰められていたに違いない。

「そうですか。中の乙川さん大丈夫かなって思って」

「大丈夫だよ、あの人は」

「まあ、だと良いのですけど」

合六は試験車両に目を移す。今は最後のカーブを曲がって直線に差し掛かるところだった。

外から見た試験車両は普通に走行している。何もおかしいところは見受けられなかった。

テント前を走る直線に侵入した試験車両はまもなくテントの前を通過しようとする。

「一周目は一定の速度で走行していましたが、二周目は急発進や急ブレーキなども取り入れて行きたいと思います」大森は試験車両がテント前に差し掛かかる頃を見計らって言った。

それと同時に試験車両は合六達がいるテントの前で停車した。

「ここでこの試験車両に搭載している制振性能の証明をしたいと思います。こちらをご覧ください」

大森は運転席側のドアと後方のドアを開ける。

乙川が神妙な顔をして大森の方を見たが、すぐに前を向き直す。設置したコップは倒れることはなくそこにあった。

「カーブや直進であってもこのように設置したコップは倒れないくらいの制振性能を持っています」

観客側のテントの何人かは頷いていた。

「では続いてのテストに移ります」そう言って大森は扉を閉めた。

大森が離れると試験車両はまた動き始めた。

試験車両はしばらく進むと急停車をした。そして、二秒ほど停車すると急発進する。そのまま速度を上げてカーブに進入する。試験車両は左回りのカーブへ速度を上げながら走行するが人間がハンドルを握る時よりもスムーズに曲がっていた。

「凄い」三枝は声を落として言った。

試験車両はテントの奥に見える直線に差し掛かる。ここでも急ブレーキと急発進をする。そして今度はカーブに差し掛かる前に速度を落として、ゆっくりとカーブに入る。その途中で速度を急激に上げて曲がり切った。そして最後の直線はさらに速度を増しながら走行する。

「今、時速八十キロメートルだ」牧田はテントの外からPCの数値を読んだ。

そして最後の直線で急停車した。外から見ると勢いよく止まったように見えるが中の乙川の体は大きく揺れることはなかった。

観客からは拍手が起こった。

「あの拍手って何の意味ですかね」松崎が言った。

「実験が上手く行って良かったねってことだろうけど。まるでアトラクションやショーが終わったみたいだよな」塩田が言った。

「あんなに車がガタガタ止まったり動いたりして乙川さんは大丈夫かなー」合六は乙川の心配をしている。

牧田と技術者が二人、試験車両に向かおうとしていたので合六もそれについて走って行った。松崎もそれについて走る。

小柄なためか合六が先に試験車両に着いた。

「乙川さん大丈夫―?」そう言って合六は試験車両のドアを開けた。

車内の乙川は天井を見て黙っていた。

牧田らも到着する。

「乙川さん、お疲れ様です。上手く行きましたよ。これで路上・・・」

牧田はそこで言葉を切った。

合六と牧田が見た乙川の腰から下、股間辺りから太ももがびっしょりと濡れていた。

足元には紙コップが二個落ちていた。

「嘘だろう・・・」牧田は力なく言った。

「乙川どうだった乗り心地は?最高だっただろう」

大森が観客を連れて近づいてきた。

「しゅ、主任」

牧田が力なく言った。



大森の間違いは観客を一緒に連れてきたことだった。自動運転技術のプレゼンテーションが主目的だったとはいえ、制振技術を始めとした車内環境も売りにしていたという点で大森は事態の収束に奔走することになった。それは牧田らチームも同じであり、大森以上に立ちまわることになったのである。

乙川はまだ助手席に座らされたままだった。合六達学生はというとその中でどうしたら良いのか戸惑いの顔を浮かべていた。

「ああ、参った。ちょっと立たせてくれないか」乙川は学生たちに言った。

「乙川さん大丈夫ですか?何があったんですか?」塩田は乙川のシートベルトを外しながら言った。

「いや、ああ」シートベルトを外された乙川は唸るように声を出すと塩田と松崎に肩を担がれて外に出た。三枝が心配そうな顔で乙川を見ていた。

乙川は外に出てすぐに背伸びをして屈伸運動をする。身体はしっかりとしているようであった。

「大丈夫だ。ありがとう」

「何があったんですか?」塩田が尋ねる。

その間、合六は試験車両の中を覗いていた。

「いや、急発進で最後のコーナーを走っている最中にコップが倒れてきてな。それで驚いてしまって」

「ショック状態にあったようですね」松崎が声のトーンを変えずに言った。

「ああ、そうだな」

合六も乙川に近寄る。

「乙川さん、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だよ。ちょっと驚いてしまっただけさ」

「良かったー。でも」合六は乙川の下半身を見る。

「なんかこう酷いことになっているな」乙川は情けない顔で笑った。

「着替えましょう」塩田がそれだけ言うと乙川の背に手を当てて歩くことを促す。

大森や牧田が奔走しているのを横目に五人は歩いて試験舗装路を後にした。



五人は実験棟へと戻ることにした。そこならば乙川の着替えがあるからである。道中誰も口を開かなかった。橋で国道を渡って元の倉庫やプレハブが並んでいる敷地へと戻ってきた。さらに歩いて乙川がいつも作業にしている倉庫へと戻ってきた。

中に入って試験機の間を縫うようにして奥へと向かう。先ほどまで分析をしていたプレハブが見えてくるとそこから左に折れてさらに進む。そこには分析室よりも質素ではあるがプレハブがあった。

乙川はポケットから鍵束を取り出してその中から一つを選ぶとプレハブのドアを開けた。五人が中に入るとそこは机と椅子のセットが三組とそれぞれの机の上にPCが置かれている簡単な部屋だった。実験のデータ整理や簡単な事務作業が出来るようになっている。奥にはロッカーが四つ並んでおり、乙川はそこまで進んで一つの扉を開け、中から着替えを取り出した。

乙川は黙ってその場で作業着のスラックスのベルトを外して脱いだ。下半身が下着だけの何とも滑稽な状態になっている。

「あ、じゃあ僕らは外に出ていますね」塩田は俯いている三枝を促しながら全員で外に出た。

「ああ、すまん。レディーがいる所でこんな格好になってしまったな」

その言葉を背に四人は外に出た。

「乙川さん落ち込んでいましたね」三枝が言った。

「まあな、ただ座っているとはいえ、大切な実験が中途半端に終わったことには変わりないからな。自分を責めているのかもしれないね」塩田は冷静に言っているが顔からは不安が見えていた。

「でもなんでコップが倒れていたんですかね?」三枝が疑問を口にした。

「それはただ実験が失敗したっていうことじゃあないの?」松崎が三枝に言う。

「でも今日以前のテストでは倒れていなかったって、牧田さんが言っていたよな?」塩田が確認するように松崎に言った。

「でも人が乗っていなかったんでしたよね。人が乗ると条件が違ったっていうことでは?」松崎も食い下がる。

「人が乗るためのものだぞ?そんな風に開発するわけがないだろう」塩田がはっきりと言った。

「普通にコップが倒れてきたのはショックですよね。それも二つも同時に自分の方に倒れてきたなんて」三枝が残念そうに話した。

「いや、三つだよー」

合六が言った。

「え?」塩田が声を上げて全員が合六を見た。

「後部座席とリアウィンドウの間に置かれていたコップも倒れていたよー。後部座席がびしょびしょだった」

「全然駄目ですね。大失敗だ」松崎が言った。

その時プレハブのドアが開いて乙川が出てきた。

「いやーすまんすまん。着替え終わったよ」

乙川は先ほどまでベージュの作業着だったが、今はカーキ色の上下の作業服に着替えていた。

「それにしてもびっしょびしょでしたねー」合六が明るく言った。

「ああ、あんなところ濡らすことなんてなかなかないからな」乙川もそう言って明るく振舞った。

「さて、君らもどうする?大学に帰るか?」

「ちょっとだけデータ整理して行っても良いですか?」合六は言った。

「ああ、それは構わないよ。じゃあ、帰る時にまた声かけてくれ。この倉庫内にいるから」

そう言って乙川は倉庫の中に消えて行った。

「合六、データ整理なんて大学でできるだろう?」塩田が言った。

「はい、でもなんか気持ち悪くないですか?」合六は先程乙川に起こったことについて言っていた。

「ちょっと話しませんか?まだ鹿島先生も来ていないし」

「僕らだけで何が起こったかなんてわかりませんよ」松崎が言った。

「もちろんそうだよー。でも私たちが納得すれば本当の所なんてどうでも良くない?」



合六の提案に反対する者はいなかったので四人で分析室に入った。

分析室内ではカーペットの敷かれた床に備え付けの椅子を並べて四人で座った。

「さっき合六が後部座席のコップが倒れていたっていう話だけれど、」

着席早々、塩田が先陣を切った。

「そうです。乙川さんを車から出した後に中を覗いてみたんですよ」

「あの騒動の中で良くできましたね」三枝が言った。

「あの騒動の中だからだよー」合六は言った。

「なるほどね」塩田は納得した表情を見せた。

「あの良いですか?」三枝が手を挙げた。ゼミでもないのに意見を言うときに手を挙げるのは根が真面目だからである。

手を挙げた三枝に対して全員が素直に顔を向ける。

「やはり実験が失敗しただけだと思うんですよ。私達もそうじゃないですか?プレ的な実験で成功したとしても本番の実験で成功するとは限らないですし」

三枝は早口で言った。三枝の話を聞きながら乙川のフォローをしている意見だと全員が思っていた。

「やっぱりそれは考えづらいかな。三枝の気持ちはわかるけどね」塩田が言った。

三枝は肩を落として俯いた。

「三つ置いたコップがすべて倒れていたってことですもんね」松崎が腕組みをして言った。

「うん、今回のお披露目に至ったわけだから適当な状態ではこの場に出さないと思うんだ」塩田はさらに言った。

腕組みしていた松崎が腕を解いて全員の顔を見た。

「それを前提にして、どうやってコップは倒れたのかっていうことを考えた方が良いと思うんですよ」松崎は言った。

「具体的には?」塩田が松崎を見て言った。

「事故のようなものなのか、それとも」

そこで松崎が三枝の顔を一瞬見た。

「意図的なものなのか」

「それって、乙川さんが自分で倒したっていうこと?」三枝が前のめりになって行った。

「まあ、そう言うこと」

「ちょっと待って、なんで乙川さんが自分でコップ倒すようなことする必要があるの?」

三枝は語気を強めて言った。

「えっと、三枝さん落ちついて。可能性の話をしているからさ。それに松崎はどっちなのかっていうことを検討しようって提案しているんだよ」

三枝は塩田から宥められると、落ち着いて座り直した。

「それを踏まえて松崎はどう思っているの?」

塩田は松崎に先を促す。

「正直わかりません。事故、つまり実験失敗っていうことですけど、それだって塩田さんの言っているように完璧に仕上げてお披露目したとしてもこの世に絶対はないと思うんです。だから倒れる可能性もあると思います。それで意図的に、つまり乙川さんが倒したっていう場合も可能性だけ見ればあり得ますが、なんでそんなことしたかわかりません」

「まあ言っていることはわかるけど、今はどうやってコップは倒れたのか、だからな。方法っていうことに焦点を絞って考えた方が良いんじゃないかと思うんだ」塩田は松崎に言った。

「塩田さんはどー考えていますか?」合六が塩田を見て言った。

「俺は・・・意図的に倒したんじゃないかなと思っている」

塩田が全員の顔を見て言った。

「どうしてですかっ?」

案の定三枝が厳しい目をして見てきた。三枝は最早、乙川がコップを倒したことはありえないと決めつけているようであった。結果が自分の中で決定している人間の意識を変えることは難しい。それ以外はすべて『ありえない』のである。塩田はそれを理解しているのか、三枝を無視している。

「後部座席のコップが倒れていたからだ」塩田は抑揚をつけないで言った。

「どういうことですか?」松崎が言った。

「まあ、この議論の前提として想像で何があったか語るってことで良いよな?」

塩田は合六を見る。合六は頷いた。

「多分、あの試験車両の中で、まあどのタイミングかはわからないけど、後部座席のコップだけ倒れたんじゃないかなと思うんだ」

塩田の発言を三人は黙って聞いていた。

「あの車ちょっと変わっていて、乙川さんの座席からもバックミラーで後部座席が見えるようになっていた。そういう仕様の車なのか、たまたまそうなったのかはわからないけどな。試験走行の最中に乙川さんはバックミラー越しにコップが倒れてしまったのを見つけたんだよ」

「それでなぜ残り二つのコップも倒したんですか?」松崎が言った。

「三つあるコップの内で一つだけ、しかも自分の手が届かない後部座席のコップは倒れて自分の手が届く範囲の前方と右手のコップは倒れていないってなると」

塩田はそこまで言うと松崎を見る。

「お前はならどう考える?」

「倒れそうなコップを・・・手で支えていた?」

「そう。実際に乙川さんがそんなことしない人なのは、少なくとも俺と合六はわかっている。牧田さんや大森さんもなんだかんだ言ってわかっているかもしれない。でも、今回のメインは外部から来たお客さんだ。そんな状態で車内を見たらそう思われる余地が生まれてしまう」

松崎は無表情だが頷いていた。

「だからあえて自分で前方と右側のコップを倒したんだ」塩田は前屈みになって言った。

その場の全員が静かに塩田の話を聞いていた。

「俺の考えは以上だよ。後は思いつかない」

そう言うと視線は自然と合六へと向かった。

「合六、お前はどう思う?コップは故意に倒されたのか、アクシデントだったのか」

合六は目を閉じて先程からじっと考えていたが、音がしたのではないかというくらいにはっきりと目を開けた。

「私はー乙川さんが倒したのだと思う」合六は全員の顔を見てしっかりと言った。

「合六さんまでそんなこと言っているんですか?乙川さんがなんで評判を落とすようなことをするんですか?」三枝がやはり突っかかってくる。

「大森さんに対して恨みがあったとかですか?」松崎が抑揚のない声で言った。

「乙川さんはそう言う人じゃないよー。試験走行の前にバチバチやりあっていたけど、そんなに嫌な感じはしなかったよ。少なくとも私はね」

「じゃあ何故ですか?」三枝はまた納得していない。

「えーっと・・・うん、ちょっと、こうなんだろう。踏み込みにくいところも話をするんでー、そこは大人な皆さん、ちょっと配慮をお願いしまーす」

「珍しく煮え切らない言い方だな。まあ良いけれど。その点については多分みんな大丈夫だと思うよ」

それを聞くと合六は頬を挙げて笑顔を作った。

「わかりました。じゃあ私の考えを話しますね。まず変だなって思ったところはコップの倒れたタイミングです」

「タイミング?」松崎が聞き返す。

「うん。一周目に車が停車して大森さんが車内を見せた時はコップは倒れていなかったでしょう?」

「そういえばそうですね」三枝が顎に手を当てて考えている。

「何故二周目に倒れたのかなって思ったんだー」

「それは二周目は急停車とか急発進とかしたからじゃないのか?」塩田が言った。

「でも一周目の発進と停車も急と言えば急でしたよ」

「まあ、車が動いたり止まったりするときには車内は揺れると言えば揺れるけど・・・」塩田は納得していないように言った。

「今回コップが置かれたところって日常生活でも物を置いたら倒れるようなところだと思うんですよね。ドリンクホルダーに入れていない飲み物があそこに置かれたらって思うとちょっとゾッとしませんか?」合六は車を持っている塩田に問いかけた。

「ああ・・・まあそうかも」塩田は納得したようだった。

「だから一周目で振動が制御出来て二周目が出来ないっているのはちょっと変だなって思ったんです。でもその時はまあそういうこともあるかなって思っていたんですけどね。でも、実際にコップが倒れていたっていうことを目にしてもう一つ変だなって思ったんです。それが乙川さんが故意にコップを倒したんだなって思ったきっかけですね」

「何だろう?」松崎は考えていた。

「それはね、コップが倒れた方向と車内から出てきた乙川さんのコメントだよ」合六は松崎の発言を待たずに言った。

「あ、なるほど」塩田だけ気付いたようで、他の二人は疑問の顔だった。

「つまりね、三つのコップが倒れた方向っていうのは、まずダッシュボードの上に置いたコップは乙川さんの方に倒れてきた、そして運転席と助手席の間に置いてあったコップも乙川さんの方に倒れてきた。そして後部座席のコップは前方の座席の方に倒れてシートを濡らしていた」

「そうでしたね。三つめは合六さんが確認していましたね」松崎も言った。

「それが何なんですか?」三枝はまだ良く分からないという顔をしている。

「乙川さんがその時の状況をコメントした時に、言ったのは『最後のコーナーを走っている最中にコップが倒れてき』たって言ったんだ。あの試験舗装路を試験車両は左回りに走行していたでしょう」

松崎も三枝も気付いたようだった。

「どのコップもカーブで倒れるべき方向に倒れていない」松崎が言った。

「そう。左回りでカーブを曲がった時にコップが倒れたのならば、遠心力で倒れる方向は右手側になるはずでしょう?この場合はダッシュボード上のコップは運転席側へ、運転席と助手席との間のコップは運転席側を濡らすはず。そして後部座席のコップは、これは結果としてコップだけ下に落ちていたことも考えられるけど、後部座席のシートをぐっしょり濡らしていたのだから前方向に倒れて落ちたっていうことでしょう?ほら、何一つ本来倒れるべき方向に落ちてないじゃん?」

プレハブの中を張り詰めた雰囲気が包んだ。

「つまり俺が話した想像もちょっと変なことになるわけだな。合六、ということはどういうことなんだ?」塩田が言った。

「つまりどこかのタイミングで乙川さんが自分でコップを倒したんですよー」

「合六さん、疑問があるんですけど後部座席のコップはどうやって倒すんですか?」

三枝が言った。

「それなんだけどね。多分みんなそうだと思うんだけど、車内で乙川さんがどうなっているかってテントの所からはわからなかったよね。太陽が昇っていたし、例えば反対側の直線を走行している時は最も離れているからわかりづらかった」

全員が無言で頷く。

「これも想像だけど、乙川さんはある目的でダッシュボードと助手席脇のコップを倒して水を被るでしょ。そうしたらシートを倒したんだと思うんだ」

「シート?」松崎が聞き返す。

「そう。なんとなくシートベルトを外すと管理している側にばれる可能性も考えたんじゃないかな?最近はシートに座っているだけで脈拍とは測定してくれるものもあるけれどさ、その機能があるかは一種の賭けだったのかな?それでシートを倒してシートベルトとの間に空間を作ってから体勢を変えて腕を伸ばして後ろのコップを倒したと思う。指が引っかかるギリギリでやったから手前に倒れていたんだね」

全員が無言で聞いていた。

「うーん、なんとなくそれっぽいような気もするけど・・・じゃあ、なんで乙川さんはそんなことしたんだろうな?」塩田が聞いた。

「それについて想像、っていうか妄想になるかなー。当たってなかったらかなり乙川さんに失礼なことになるしー」合六は慎重になっているようだった。

「まあ、今更だし、さっきもお前が言っていたけど、俺らが納得すれば良いだけだから、それを乙川さんに確かめる必要性もない。だから大丈夫だろう?」塩田が念を押すようにして言った。

「まあ、自分で言っておいて忘れていますけど、そうでしたねー」合六はそう言って笑った。

「なんで乙川さんがそんなことをしたのかっていうことなんですけれどー。乙川さんは隠そうとしたんだと思うんです」

「隠す?」三枝が言った。

「うん、下半身を水で濡らすことで隠すことが出来るもの」

これも塩田が先に気付いた。

「あー、え?そういうこと?」

「何ですか?」松崎が本当にわからないというような顔で塩田を見る。

「下半身が濡れたことで隠せるものですよね?」三枝も考えているが思い当たらないとい言った顔をしている。

「合六、つまり、漏らしたんだな?」塩田が言った。

三枝も松崎も判らないという顔をした。

「そうです。乙川さんはあの試験走行中にお漏らししちゃったんですよ」

三枝も松崎も一緒に声を上げた?

「は?」

「なんで?」

合六は思っていたより大きな声だったのか、少し焦った顔をした。

「えーっとそうなるのは良く分かる。でも、そうじゃないかなっていうだけだから」

「うーん、どうかな?」塩田は言った。

「乙川さん最近身体が衰えているって言っていたと思うんです。薬も飲んでいるって。でも見たところ丈夫そうだし、身体の具合が悪そうには見えなかった。だけど薬を飲んでいるっていうところからの連想です」

「まあ、確かに年齢を重ねるとそっちの方も緩くなるっていうのは聞いたことはあるけど」塩田は腕を組んで言った。

「それに乙川さんは豪快そうに見えて意外に緊張しやすいですよね。あの実験中もかなり緊張していたんじゃないかと思うんですよ」

「それは間違いないな」塩田は納得したようだった。

「さらに牧田さんに呼び止められた時って私たちが何をしていたかっていうとー」

その発言に三枝は気が付いたようだった。

「薬を飲みに帰っていた・・・」

「そう。つまり乙川さんは薬を服薬していない状態であの試験に臨んでいたっていうこと。さらに緊張しやすい性格だった。あと、牧田さんや大森さんの説明も悪かった」

「どういうことですか?」松崎は合六を見て言った。

「急停車や急発進の試験をするとだけ伝えていて、走行中どのタイミングでそれが起こるかは教えていなかったでしょ?まあ、時間がなかったっていうことで仕方ないんだけれどね。だから二週目はどのタイミングで急停車や急発進が来るか全くわからない状態だった。乙川さんの身になって見ればとても緊張していたんだと思うよ」

全員が苦い顔をしていた。

「それが本当だとしたら乙川さんはかなり焦っただろうな」塩田は天を見上げて言った。

「相当気まずいですよね。帰ってきてドア開けたら大参事ですよ」合六も天を見上げて言った。

三枝は口元に両手を当てて涙ぐんでいる。

「私のせいだ・・・あれを見たいって言ったから・・・」

「えーっと三枝さん、これは想像だから。妄想、戯言、なんでも良いけど確証がないのよー?勝手に自分のせいにしない方が良いよー」

合六はそう言って三枝の両肩を左右に揺らした。

しかし、三枝の涙が合六の推論にこの場の全員が納得したことの証でもあるようだった。

塩田の携帯電話が着信を知らせて、鹿島が到着したことを知ると、四人は鹿島を迎えに行った。



誰も居なくなった倉庫で一人乙川が作業をしている。もともとこの倉庫、正式には材料試験場は不特定多数が扱うために、忙しい時などはこの倉庫内も職員や技官や外部からの見学に来る人々が多くなる。そんな時は学生が試験機を借りるのも断ることがある。今のように特に忙しくない時期などに来るように乙川は伝えている。

倉庫は大型の試験体などが搬入されることもあるために、正面に大きなシャッタが付けられているが、滅多に開くことはない。そのような大きな試験体が入ることもあるため、シャッタから倉庫の奥に続くように大きな通路が伸びている。その通路を奥まで行ってからT字路を右に行くと学生たちが使っていた分析機器が置かれているプレハブがあり、左手に向かうと乙川が事務作業などをするためのプレハブがある。

乙川は今その大きな通路の脇に置かれている一つの試験機の内部メンテナンスをしていた。

倉庫の外は正午をとっくに過ぎて、すでに太陽が傾きつつあるがまだ日が強い。乙川はタオルを首にかけて作業していた。

倉庫内にドアが開いて閉じる音が響いた。乙川はドアの方を一瞬見たが、しゃがんでいるために誰が入ってきたか見えない。平時より勝手に誰か入ってくることがあったため、乙川は気にしなかった。

しばらく乙川は目前の試験機の中に手を入れて作業をしていた。しかし、人が入ってきたはずなのに人がいる気配がしないことに気が付き、ゆっくりと立ち上がった。

シャッタの方を見ると、人影が視界に入った。乙川のいる所は倉庫の奥の方で、シャッタよりもプレハブの方が近い。それに対して訪問者は通路のシャッタに近い方に立っていた。ちょうど影が出来ているために訪問者の顔は見えない。

乙川と訪問者は相対する形で通路に立っている。

「そうだと思ったよ」乙川は首のタオルで汗を拭きながら言った。

「わざわざこんなところまで来たっていうのはご苦労なことだね」

訪問者は黙ったまま立っている。

「喋らねぇやつって聞いていたけど、本当だねぇ。それじゃあコミュニケーション困るだろう?実際困っているか?」

それでも訪問者は黙ったままである。

「それで?用は何だ?それも言わないのか?それくらいは礼儀として良いだろう?」

訪問者はゆっくりと三歩歩いた。正確には四歩目を踏み出そうとしたが、歩を戻したと言った方が正しい。訪問者は乙川から発せられる威圧感に立ち止まるしかなかった。

「うまくやりましたね」訪問者は口を開いた。

「やっと喋ったじゃないか」乙川は右手に持ったラチェットレンチで左手の手のひらを叩いている。

訪問者はまた黙っている。

「すぐにダンマリか。まあ良いさ。こっちも長いんでね。なかなか機会がなかったから、時間がかかっちまったが、結果オーライだろう?」

乙川はヘラヘラと笑っている。

「あんたはそれだけ言いに来たのか?まあ、若い時は小間使いしかすることなんてないがな」

「部外者を入れなければ仕事を達成できなかったのですか?」訪問者はただ淡々と言った。

「あいつらは俺の友人みたいなもんだ。それにしても、あいつらは良い奴らだな。何でああいうことになったのか、必死に考えてくれたよ。それにしても興味深かった」

「教えてもらったのですか?」訪問者が言った。

「いや、この施設のいたるところに盗聴器を仕掛けてある。もちろんあのプレハブにもな」

訪問者は目を見開いた。

お前にも教えてやろう、といって乙川は学生達が話した内容、見たものをすべて訪問者に話した。

「な?なかなか面白いだろう?」

「彼女の推論には疑問が残りますね。まだ取り入れていない点がある。それに気付いていればあのような考察には至らないでしょうね」

今度は乙川が黙っている。普段よく喋る人間は黙った時にすぐに心中を悟られやすい。

「そんなに動揺することですか?別にあなたの目的がわかってしまったわけではないでしょう?彼女の見落とした点というのは、あなたが自分のプレハブに入った時のことです」訪問者は乙川を無視して話し始める。

「プレハブで着替え始めたあなたは普通の下着を履いていました。もし彼女が言った通りのことが車内で発生していたのだとしたら、日常生活でも起こりうるはずですよ」

乙川はラチェットレンチをじっと見ていた。

「それが?」乙川はそれだけ言った。

「だからもしそうならば対策しているはずだと思います」

乙川が訪問者を見る。

「今は乳幼児用だけではなく、年配の方専用の商品だって売られているはずです」

乙川は口元だけ笑みを浮かべた。

「そのような対策を取っていなかった。だからそう言った病気ではないと考えることが出来ます」

「俺がそう言ったものを使うことを嫌だと思う性格だとしたら?」乙川が訪問者の目をじっと見て言った。

「そのような病気に罹った人が緊張しやすい人間だった場合、対策をしないということはそれ以上に恥ずかしいことになるのではないですか?」

「新人にしちゃあいい感じだな」乙川は言った。

「私の目的を聞かれたと思いますが、私の目的はあなたの最後の仕事を見届けて始末することです」訪問者は抑揚のない声で言った。

乙川は首に掛けたタオルを試験機に放り投げた。

訪問者は半身になって身構えた。すぐに動けるように腰を落として、ベルトのバックルに手をかける。

「新人、掛ける言葉を間違うんじゃあないぞ」乙川は両足を広げて立つ。

静寂が五秒ほど過ぎた後、最初に動いたのは乙川だった。

手に持っていたラチェットレンチを振りかぶって訪問者に投げつけた。同時に地面を強く蹴る。

訪問者は回転しながら向かってきたラチェットレンチを身体を仰け反らせるだけで避ける。

次の瞬間、乙川が右手を広げて訪問者の顔を掴もうとしていた。訪問者は後方に飛びながら乙川の右手を躱した。

訪問者は着地と同時に、ベルトを腰から引き抜いて、腰を落とした状態で身体を回転させた。その右手には鞭のようにしなやかな鉄製の帯が握られていた。

「ウルミか。カラリパヤットだな」

乙川が言った。

カラリパヤットはインドの武術であり、ウルミはその中で使われる鞭のようにしなやかな長剣である。

「獲物を間違えてないか?広い通路だが、ウルミを振り回すほど広くはないぞ」乙川は第二打の準備をしている。

乙川は手の指を鳴らしながら腰を落とした。すぐさま右脚で地面を蹴って訪問者に飛び込んだ。今度は左手を広げている。

訪問者はウルミを水平に持ち、身体を右側に傾けながら飛び上がって回転させた。身体を軸とした時に地面と平行に回転軸を作るようにして回転させたということである。

しなやかなウルミは乙川の右半身を回転のこぎりのように切りつけた。

訪問者の着地と、乙川が事切れて通路に倒れ込むのは同時だった。

訪問者が振り返ると、乙川はまだ息がある状態だった。

「痛てえ。お前よ。切りつけが甘いんだよ。アドレナリンが出ている人間ならばまだ襲ってくるぞ」

乙川はそう言いながらも立てないでいた。

訪問者が近づく。

「ここで俺を始末しても遺体の処分はどうするんだ?」

「まだしっかり考えられるのですね」

「俺を誰だと思っているんだ?」

「処理班が来ますから心配しないでください」

訪問者は言ったが、乙川の耳にはすでに届いていなかった。



帰りの車中で合六達はまた乙川に会いに行こうという話をしていた。塩田の車の後ろには鹿島の車が走っている。鹿島は乙川に挨拶だけするとすぐに帰ることになった。

「また行きましょうね」後部座席の三枝はすっかりファンになったようだった。

「試験機借りることがあればねー。用もないのに行くのは迷惑だからさー」合六はその隣で言った。

「三枝さんは完全に乙川さんの虜になっているなぁ」塩田はバックミラーでそれを確認して言った。

そんな車内の会話に入らずに松崎は窓の外で遠ざかる研究所を見ていた。

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