同年同日23:02~6:07

23:02

 紋芽はふと目を覚ました。

 特に何かを催したわけでもないが、すでに頭ははっきりとしてしまっていたので、また眠気が襲ってくれるまでベッドの中でじっとすることにした。

 皆が寝静まった夜は静かだと思っていたが、意外にも音に満ちていた。鳥の羽音、犬の鳴き声、風の音、それに揺られる木々のざわめき……。その中に、紋芽は小さな違和感を覚えた。

 うぅ……うぅ……

 声が聞こえる。それらの音よりも近い。呻き声。苦しんでいるような、飢えているような。

 ううぅ……ううぅ……

 次第に声は大きくなる。それにつれて、紋芽の不安は膨らんでいく。

(何? 誰なの? まさか、さっきの……)

 起き上がり、辺りに視線を巡らせるが、風呂で感じた強い視線はない。目を閉じて耳を澄ませた。呻き声の場所を探す。

 ううぅ……ううぅ……

 ううぅ……うぁ……ああぁ……

 その声は想像だにしていなかった場所から聞こえていた。

「りっくん? どうしたの?」

 二段ベッドの上から見下ろしてみるが、陸は布団にすっぽりと潜り込んでいて、表情は窺えない。ただ、踠くようにごそごそ動いている。

「怖い夢でも見たの?」

 返事はない。ただ「うぅ、うぅ……」と呻くだけだ。

 ううぅぁあ……あぁ……

 ああぁぁぁあ……

 ぐぅあああぁ……

 呻き声が哮りに変わった。同時に、踠きも激しくなり、のたうち回り始める。

「りっくん? だっ、大丈夫?」

 慌ててベッドから下り、紋芽は陸の布団を力任せに剥ぎ取った。

「ひぃっ」

 思わず息を呑んだ。

 陸の顔は、幼稚園児にこんな顔ができるのかと感心してしまうほど恐ろしく歪められていた。赤くなっている顔に手を当てると、煮えたように熱くなっていた。

「どうしよう……。待ってて、ママたち呼んでくるから」

 そう言って陸のベッドから離れようとする。だが、それはできなかった。陸が紋芽の腕を掴んだのだ。

「りっくん……?」

「おね……ちゃ……。行かないで……」

「だ、駄目だよ。ママに言って、お医者さん連れてってもらわなきゃ……」

 振りほどこうとする手は、きつく握られていて離れない。この子は、こんなにも強い力を持っていたのか。

 腕を掴んだとき幾分か和らいでいた陸の顔は、一変して再び恐ろしい形相へと変貌した。

「ぐ、あぁ……あぐ、う、うぁ……あああああっ」

 一際大きな声で哮る。その瞬間バリバリと額の肉が裂け、ぬらりと光るそこから小さな突起が二つ生えてきた。眼球は血走り、眼窩がんかから半ば飛び出している。

 異形だった。

 紋芽は、自分の目の前で弟が異形へと変わっていく様を呆然と眺めていた。

「何これ……」

 しかし、ぬらぬらした粘膜に覆われ血走った目でぎょろりと見られ、麻痺していた恐怖が一気に沸騰した。

(あの目は……)

 まるで飢えた獣のよう。――風呂場で感じた視線だった。

 がたんと膝から崩れ落ちる。それが合図だったかのように、異形のモノと化した陸は紋芽に飛び掛かった。

「いっ、嫌ぁっ!」

 陸に向かって手を翳す。だが、それは何の障害にもならず、陸はその腕に噛みついた。

「あぐっ!」

 今まで感じたことないような痛みが紋芽の全身を駆け巡る。血飛沫が上がり、紋芽にも陸にも等しく降りかかる。陸は生々しい赤とピンクと黒の紋芽の肉を貪り喰らう。陸が齧るたびに鋭く重い痛みが突き抜け、そのたびに紋芽は叫び声をあげた。ずぶずぶと何かが肉にり込む感覚がする。

 ぶちっ。肉が噛み千切られる音がした。

「っあ……!」

 紋芽の腕から顔を離した陸の口からは、血で汚れた肉と腱がずるりと垂れ下がっている。その口には、つい先刻まで生えていなかった二本の鋭い牙。それを見て、紋芽は己の腕に減り込んでいたのは、その時まさに生えてきていた牙だったと知る。そして同時に、はもう陸ではなく、別のなのだということも。

「ひ……ああああぁぁぁあぁああっ!」

 悲鳴が夜をつんざいた。

 化け物を振り払い、がくがくと震える足で這うように両親の部屋へと逃げ込む。

「パパ、ママ、助けて! りっくんが……りっくんが化け物になっちゃったの!」

 泣き叫びながら両親を起こす。

「もう……紋芽、どうしたの?」

「嫌な夢でも見たのか?」

 熟睡していたところを起こされた二人は寝惚け眼で娘をあやす。異常なほどに取り乱した娘の様子にも、娘の顔を彩る赤にも、まるっきり気づいていない。

「違うっ夢なんかじゃない! ほらここ、りっくんに食べられた……!」

 紋芽は鈍く疼くそこを両親の眼前に示した。まだ温かい血の滴るそこは、仄暗い部屋の中でひどくグロテスクに蠢いていた。目の前で蠢く生傷を見て、両親はようやく娘の言が本当だと理解したらしい。

「紋芽っ。どうしたのその傷!」

 母親が悲痛な叫び声をあげる。

「だから、りっ、りっくんが……」

 父親が傷に触れようとして躊躇した。

「これ……本当に陸がやったのか?」

 歯の根の噛み合わない紋芽は、しゃくり上げながら頷く。

「おい陸! こっちに来なさい! やっていいことと悪いことがあ……」

 呼ぶ必要のない陸を呼んだ父親の声は不自然に止まった。気配なく彼らの傍まで忍び寄っていたそれは、声を発した父の喉笛に噛みついていた。

「ぐああう……う、うううっ」

 ぐちぐちと粘っこい音を立てて父親の肉を咀嚼する。血液と臓器と肉片で汚れた顔は、陸とは懸け離れた様相だった。感情がほとんど麻痺した状態で、己の父親が異形の弟に喰われていくのを見ていた。ふと、床が濡れていることに気づいた。生温かいけれど、血液よりもさらりとしている。どこから流れてきているのかと視線で辿れば、床にへたり込む母親の股間に行き着いた。しかし、紋芽には手を汚す母親の尿を醜いとも汚いとも思う余裕がなく、また母親も、自分が失禁したことに気づいている様子はなかった。

「陸……陸、何をしているの?」

 震える声で問う。その声は陸に届くことはなく、「あ」の形でもう二度と動くことのなくなった父親の口から、逆流した血液がごぽりと溢れた。

「ねぇ、陸」

 それでも母親はに語り掛ける。

「お父さんを……食べてるの?」

 が顔を上げた。父親は肉のへばりついた肋骨を剥き出しにし、歪に切開された腹からだらりと零れ食べかけの腸から糞尿が漏れている。

 ぎらついた瞳がまだ手をつけていない母親に向けられる。人間を一人食べ終えたにもかかわらず、その瞳は先程よりも飢えに満ちていた。ベッドから降り、ゆっくりと母親に近づく。ぺとり、ぺとり、と血に濡れた足の裏が音を立てる。母親は目の前の出来事を受け止めきれず、すでに狂っていた。

「おいで、陸、おいで……。いい子だから……怖かったね? もう大丈夫。お母さんがいるからね……」

 に向かって腕を広げる。すでに息子ではなくなってしまったへ。

 しかし、はやはり母親にも容赦はなかった。座ったままの腰を強く抱き締めた母親の髪をぐいと掴み、勢いをつけて後ろへ引っ張った。ごきん。と骨の折れる鈍い音が響いた。

「んぎっ……」

 奇妙な声で母親が鳴いた。

 ぐらぐらと揺れて首の据わらなくなった頭を片手で固定し、もう一方の手で脳天を叩く。一度、二度、三度――。母親の眼球がだんだん前方に飛び出し、鼻からは血と体液が溢れ出した。

 色々な液でぐしょぐしょになった母親の顔は醜く、恐ろしかった。頭を叩き潰すのに飽きたのか、は母親の身体を放り、跳躍した。人間でなくなった弟の身体は、天井近くまで真っ直ぐに飛び上がる。そしてそのままの勢いで、両足で母親の頭に着地した。ぐしゃっ……と肉と骨が飛び散る。原型を留めていない頭部は、耳とおぼしき場所から脳髄を垂れ流していた。首から下が傷つけられていないことが、より一層気持ち悪さを引き立たせていた。

 紋芽はもの言わぬ物体となった両親を静かに見つめた。

(パパもママも死んじゃった。陸の身体を盗んだ化け物に殺された。次は、私の番……?)

 うまく回らない頭で思考する。

(嫌だ……死にたくない)

 しかし、に喰われたところから絶えず血が流れ出し、紋芽の意識は朦朧とし始めていた。

 それはのそりとこちらに目を向けた。残った最後の獲物に狙いを定める。

 向かってくるそれをぼんやりと見ながらそこに陸の面影を見つけようとし、紋芽の意識はそこで途切れた。


     *     *     *


同年2/4.6:07

 血溜まりの中、陸は呆けたように座り込んでいた。何かをぶつぶつと呟いている。周囲には三体の惨殺死体。特に紋芽と思われるものが酷い有り様だった。右腕は手首から先がなく、断面からは細い筋が幾つも飛び出している。傍らには齧りかけの眼球が一つ、双眸は暗く開かれている。耳元まで引き裂かれた口は歯が欠けていて、首から下は父親以上に喰い荒らされていた。

 陸の額の突起はなくなり、そこには二つの生々しい痕が残っているだけだった。陸は、血と臓物がこびりついた口で「福は外、鬼は内……」と呟いていた。

 この一家に何が起きたのか、知る人は誰もいないし、発見されるのは恐らくもう少し先のことだろう。


 福はぁ外ぉ……

 鬼はぁ内ぃ……

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福は外、鬼は内 桜々中雪生 @small_drum

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