6.エピローグ

 冬霊節が過ぎ、街は次なる新酒祭へ向けてまた入念な準備を始めている。

 ふいに頭上が蒼く陰って、影が音もなく通り過ぎていった。店先を掃いていたテュエンは、箒を持つ手を休めて見上げる。底の鋼色をした雪雲のはしりが、谷沿いに流れてゆくところだった。

 昨夜は少しだけ雪が降り、半地下のテュエンの店は、入口に屋根があるとはいえ、下り階段がやや凍ってしまった。開店前に雪を払っても、今の青空はすぐに曇ってまた積もるのかもしれない。

 同じように感じたらしいレムファクタも空を見る。釣り鉢のアイビーにかかった雪を払いながら息を白くした。

「山から雲が来そうですね。おれ雪は好きだけど、もっと寒くなるのかなあ」

「晴れているほうが寒いんだよ、レム。厚い雲が空を覆って雪を降らせたほうが暖かい」

「えー、ほんとですか? そうだったかなあ」

「今朝はすごく冷えてただろう?」

 さかんに首をひねりながら、弟子は青硝子のように澄んだ色の空を見上げている。息は吐いたはしから音を立てて凍りつきそうだ。そばかすを散らした少年の頬と鼻の頭は林檎の色で、おそらく同様に赤くなっているだろう己の頬をテュエンはさすった。

 青硝子といえば、アルナーダの箱のおかげでエルネストは見事に難を逃れたらしい。それどころか曾祖母の香水で、彼はまたもや名を上げたようだ。貴族たちの夜会サロンだけでなく、下町でも小耳に挟むくらいに彼の新作は噂になっていた。

 〈夜明けに〉と名付けられた香水がアルナーダの遺産であることを、結局エルネストは隠さなかったらしい。小心な人物だったから気が咎めたのかもしれないが、公国の偉大な錬金術師アルナーダ・ヴィルヌーヴの名前は、品物の価値を高める効果的な宣伝にもなったようだ。

 とはいえ、彼はレシピの出所が〈哲学者の箱〉であるとまでは明かしてはいない。きっとエルネストにもそれなりの度胸はあって、新作の手がかりはアルナーダの遺稿から発見し、現代風に再現したとでも説明したのだろう。

 ――良い評判しか聞こえてこない。よかった、どうやら〈哲学者の箱〉は、本家に知られないうちに返却できたらしいな……。

 考えて、テュエンはこっそり笑った。あのつつけば灰になって崩れそうだった困った上級術師が、これを機に自信を取り戻してくれれば何よりだと思いながら。

 それにエルネストは、店に素敵な追加報酬も与えてくれた。

「術師様、レムちゃん、おはようさま。あらちょっと早かったかしら」

「おはようございます、おばさん! 今開店するところですよ、ねっ師匠!」

 道から客が挨拶してきた。近所の常連の奥様だ。彼女は嬉しげに身体を揺すり、気合いを入れるように買い物籠を肩にかけ直した。

「じゃあ一番乗りね! なんて言いながら、実はそのつもりだったのよ。あの軟膏、こないだは売り切れで買えなかったんだけど、今日はあるかしら?」

「兎の耳草の軟膏ですか?」

「そうそう、それよ。今日こそは買い足さなくっちゃと思って」

「ございますよ、新しく作ったものが。けれど、月初めにお買いになったばかりだったと記憶してますが……」

「それがねえ、聞いてちょうだいよ。うちの旦那も使うようになっちゃったのよ。匂いつきなんて女みたいだ、俺はつけねえ、なあんて言ってたくせにさ。いつのまにかこっそり使ってて、しかも一度にごっそり塗ってくからたまらないわよ!」

 興に乗った感じでまくしたて始めた客に苦笑しつつ、テュエンとレムは彼女を店内へ案内する。

 兎の耳草の軟膏は、最近急に売れすじになった。もとは軽く青草の香りが漂う薬らしい品だったのが、優れた調香師のエルネストが工夫を授けてくれたのだ。

 最初にエルネストを店内へ案内した日、彼はカウンター上に置かれていた軟膏壺の香りを嗅いでいた。それでひらめいたというのが、一枝花いっしかの樹液と杏花の精油、崖柳がけやなぎの灰をある比率で混ぜ込む処方だった。まるで若い無花果いちじくの樹の下にいるような、かぐわしい香りを持つ薬になるだろう、と。

 ――なるほど、香りにも注意を払うと薬の売れ行きも変わるんだな……。

 熱心な主婦の様子にしみじみ実感していると、錬金素材店の弟子がすっかり板についてきたレムファクタも、名案を思いついた顔で師匠の袖を引く。

「ねえ師匠、香りをつけるのって他の商品でもできるんじゃない? お客さんが喜ぶように、定番商品ももっと改良しましょうよ!」

「そうだね、良い意見だと思う。時間があるときに、そうできそうな品物を一緒に調べてみようか」

 そして、客を追ってレムファクタとカウンターへ向かいかけたときだった。閉まったはずの背後の扉が、ドアベルの音とともに開いた。

 テュエンと弟子が振り向くと、そこには既視感のある客の姿。みすぼらしい長衣ローブに目深な頭巾の、吹けば飛ぶような男が一人。

「テュエン師……」蚊の鳴くような声と、頭巾の下にちょっぴり覗く特徴的な鼻は、工房〈ミモザの花束〉の上級術師エルネスト・ヴィルヌーヴに間違いなかった。

 初めて会った日を思い出させる萎びた顔つきの彼が、胸の前に抱えた物にテュエンは沈黙する。

 上等な分厚い布にくるまれた品物。大事そうに抱えられた箱の形。まさか――

「申し訳ありません。また本家から、無理難題を頼まれてしまい……。この箱を、曾祖母の遺した別の〈哲学者の箱〉を、また開けては頂けませんでしょうか!?」

「……今回は、何のレシピが封印されているんです?」

「秘密の薬酒だそうです。あっ、いやご心配なく、これは本家から正式に私に持ち込まれたものですので」

「ちなみになのですが、アルナーダ師は他に、いったい幾つの〈哲学者の箱〉を遺されたんですか?」

「え? はっきりした数は私も存じませんが……。ただ本家の屋敷の小部屋ひとつに、うずたかく積まれていますから、三十――いや、五十くらいはあるでしょうか」

「五十……」

 公国の偉大な錬金術師は、謎や秘密を作るのが好きだったらしい。

 この事態をどう捉えるものか迷うテュエンの後ろで、こちらも謎が大好きな弟子が嬉しそうに翼を立てた。

「また暗号かなあ、師匠。今年の冬は仕事に困りませんね!」

 まあ確かに、その点は喜ぶべきかもしれない。

 先客がカウンターから呼んできて、エルネストがぎょっと逃げ腰になる。他に人がいると思っていなかった上級術師をなだめてから、テュエンは溜息ともつかない息を吐き、ひとまずカウンターへと向かった。




著者注;作中の詩はフォーレ(Fauré: 1845-1924)『不滅の香り』を参考にしています。作品のため大幅に改変して使用したことをお詫びいたします。

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月蝋通り、一つ目不死鳥の錬金店 鷹羽 玖洋 @gunblue

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