デブリガン

かつたけい

第一章 覆面デブ

     1

 熱気と熱気とが、ぶつかりあう。

 竜虎の激突、それはそう呼んでもさしつかえないほどに凄まじいものだった。

 人生の全てをかけた超絶バトル。

 地球の、いや銀河の歴史と誇りをかけて戦うスーパーイレブンたち。

 誰しもが、そう思っていた。

 そう、コアサポたちの、誰しもが。

 しかし悲しいかな当人たちの脳味噌内に出来上がった熱い世界など覗けようはずもなく、部外者からすれば「のどか」以外に言葉が浮かばない、そんなスタジアムの光景であった。

 熱海市かもめ公園陸上競技場。

 JR熱海駅から北西に位置する、山の中腹にあるスポーツ施設内に、五年前に完成したばかりのまだ新しい競技場だ。

 いまこのスタジアムで行われているのは、サッカーの試合である。


 五月一六日 日曜日

 東海社会人一部リーグ 第二節

 熱海エスターテ 対 ライナマーレ岡崎


 社会人とはいうものの、どちらも将来のJリーグ入りを目指しているクラブである。

 熱海エスターテのFPフィールドプレイヤーユニフォームは、シャツと靴下が橙色、パンツが緑色。胸には「熱海こずゑ旅館」とスポンサー名が書かれている。

 対するライナマーレ岡崎は、白赤の縦縞シャツに白いズボン。アウエィ用の、セカンドユニフォームだ。胸には大きく「かんむり」。日本酒の名前らしいが、まるで有名ではなく、はじめてこのロゴを見る人の大抵が注目してしまうところだ。

 観客席は全体的にはガラガラだというのに、それぞれのゴール裏にはそれぞれのチームユニフォームを着たサポーターたちが、養鶏場の鶏よろしく肩寄せ合ってぎっちりとひしめき合っている。

 どちらもサポーターの人数が多くもなく、客席の一角を占める程度の人数しかいないため、分散するより一箇所に集中したほうが応援に厚みやパワーが出るという理屈だ。

 最大収容人数一万八千人のスタジアムだが、現在、観客は五百人ほどしかいない。

 このスタジアムをホームとする、熱海エスターテのユニフォーム姿が約二百人。ライナマーレ岡崎側が百人ほど。残りは、メインスタンドとバックスタンドに散らばり座っている一般人。

 なおライナマーレ岡崎のサポーターたちは、ピッチ上の選手たちと違い、赤と黄色の縦縞シャツを着ている。サポーターからも選手たちからも大不評なカラーリングの、ホームゲーム用ファーストユニフォームだ。

 サポーターたちは履いてはいないが、ファーストユニフォームのズボンは赤緑の縦縞。他チームのサポーターが思わず同情する、ユニフォームである。

 両チームのサポーターともお互いに、人数の少なさを太鼓の音をどんどん鳴らして誤魔化している。

 こうした応援合戦もまた、試合の一部なのである。


「声出せ声! 向こうのが人数少ねえのに、こっち負けてっぞ!」


 熱海エスターテ側ゴール裏で、プロレスラーのような覆面をかぶった大きな男が拡声器で叫んでいる。

 かなりブクブクと太った男だ。

 レプリカユニフォームにサインが書かれているが、字が横長に何倍にも広がっていて、いまにもはちきれそうだ。

 太って重たそうに見える反面、なんだか得体の知れないガスが詰まっていて宙に浮きそうにも思える。

 現在試合は前半戦。お互いに、まだ得点はない。

 どちらに流れが傾くこともなく、完全に均衡した状態で時間ばかりが進んでいる。

 サポーターとしては、お互いに絶対に負けたくない相手。それが今日のこのカードだ。

 両チームとも将来のJリーグ入りを目指しているというのに、順調なステップアップどころかJFLから地域リーグへまさかの降格。サポーターとしては、いろいろと複雑な感情がからみあってしまうのである。

 運悪く降格してしまったとはいえ、去年までJFLに所属していたのだから、地域リーグで格下どもに勝つのは当然。従ってこのような「直接対決」を落とさないようにすることには大きな意味がある。JFLというのは、Jリーグを目指すチームにとっては一歩手前のリーグ。地域リーグとはレベルが違うのだ。運悪く地域リーグに落ちたとはいえ、「誇りはJFL!」と、サポーターはみな、そう思っているのである。

 この対戦カード、サポーターのみならず、選手たちも少なからず特別な思いがあるようだ。

 かなりの人数が入れ替わった熱海エスターテにも、去年の屈辱の一年を忘れていない者はいるし、去年の選手がほとんど残ったライナマーレ岡崎は特に雪辱に燃え、一年でのJFL復帰を心に誓っているであろうから。

 だがそうした選手たちの熱い気持ちは、今回お互い悪い意味に影響してしまっているようであった。

 この相手には絶対に負けたくない、そういう強い思いが、アグレッシブにチャレンジをしていくことではなく、反対に、ミスをしない堅実なプレーを選択してしまっているようで、近場で開催されているサッカー観戦をただなんとなく無料で楽しみに来ていただけの一般客には、ただ倦怠感を与えているだけだった。

 しかしどんな退屈な試合内容であろうとも、サポーターの応援は変わらない。一勝の重み、勝ち点3の重み、敗北の悔しさは変わらない。


 ドドンドドンドン ライーナマアレッ!

 ドドンドドンドン ライーナマアレッ!


 ドドンドドンドン あたみエスタアテッ!

 ドドンドドンドン あたみエスタアテッ!


 大きな太鼓の音頭に、チームを後押しする両サポーター。

 だが、応援の甲斐もなく、ゲーム展開になんの変化進展も見られないまま前半戦終了の笛が鳴った。

 控え室へと引き上げていく選手たちに、拍手が送られる。


「後半頑張れよ!」


 熱海エスターテ側ゴール裏で、はげ頭の青年が拡声器で声援を送る。

 その隣にいる、覆面を被った太った男が、興奮したように拡声器を素早く奪い取り、


「岡崎ぶっ殺せ!」


 と、叫んだ。

 それが耳に入ったか、対岸であるライナマーレ岡崎側ゴール裏から、やはり拡声器で、


「死ねっ!」

「そっちが死ねっ! 氏ねじゃなくて死ねっ!」


 と、すかさず覆面の男も返す。相手の反応を予期していたかのような、間髪入れないタイミングで。


「帰りに事故れ!」

「温泉干上がれ!」


 チームへの応援そっちのけで、単なる罵詈雑言のかけあいになってしまっていた。


     2

 そうこうしているうちに、時間も経過し、メインスタンドの下から両チームの選手たちがぞろぞろと出てきた。

 ハーフタイム終了。

 選手たちはピッチ上に散らばり、後半戦が始まった。

 なお両チームとも、選手交代はない。

 前半とまったく変わらずの膠着ムード。お互いの監督としては、相手の出方を見た上で、交代などのアクションを起こしたいのだろう。

 ボールは行って戻ってを繰り返すだけ。刻々と時間ばかりが過ぎて行く。

 残り時間、あと二十分であるが、得点の気配はまったくない。

 このままスコアレスドローで終わってしまうのか。

 しかし、ついに状況に変化が訪れた。ある意味「ゴール」に次いで、時にはそれ以上に大きい状況変化。そう、選手の退場である。

 ライナマーレ岡崎のDFながゆうろうが、熱海エスターテのFWを引っ張り倒してこの試合二枚目の警告を受けたのだ。


 ドンドンドンドンドン!


 熱海エスターテサポーターの、激しい太鼓の音。

 大歓声が沸く。

 こうして、熱海エスターテ十一人に対し、ライナマーレ岡崎は十人で戦うことになった。


「どんどん行けえ!」

「点取れや!」


 叫ぶ熱海エスターテのサポーター。

 彼らにいわれるまでもなく、選手たちの動きは変わらなかっただろう。

 相手の退場に、攻撃のスイッチを入れたようであった。

 今年から選手が大きく入れ替わったとはいえ、熱海エスターテはもともと攻撃的であることを売りにしているチーム。人数有利になったことを機に、中央から、サイドから、DFまでが折を見てはがんがんと上がっていく、まさに怒涛の攻撃が開始されたのであった。


 ドドンドドンドン ライーナマアレッ!

 ドドンドドンドン ライーナマアレッ!


 ドドンドドンドン あたみエスタアテッ!

 ドドンドドンドン あたみエスタアテッ!


 両サポーターの応援が、いっそう熱く激しく燃え上がる。

 熱海エスターテのサポーターは、自分たちの得点チャンスつまりは勝利がぐっと近づいたのだから当然のことだし、ライナマーレは絶対不利な状況を打破し最低でも勝ち点1、あわよくば勝ち点3を得たいところで、これまた応援が熱くなるのは当然のこと。

 怒涛の攻めによって、熱海エスターテは、コーナーキックを得た。

 ライナマーレ岡崎サポーターがすぐそばで密集しているアウェイ側のゴール前だ。そこに選手のほとんどが集まって、ひしめき合い、手や肘で突き飛ばし合い、ポジションを争っている。

 熱海エスターテのキッカーが、コーナーにボールをセットした。

 主審の笛を待っている。

 その時である。

 キッカーの体が、ほんの一瞬ではあるが、ちかっと光ったのである。なにかに照らされたかのように。


「あいつら、鏡使いやがった!」


 熱海エスターテ応援席で、太鼓叩いている太った覆面男の隣にいる禿げ頭の青年、のさらに隣にいる筋肉質の大男が双眼鏡を顔から離した。


「本当かよ、ジロさん」


 太ったレスラーマスクの男が、野太い声で尋ねた。


「ああ、顔にちっこい光が当たってよ、ミネミネが眩しそうな顔してたぜ」

「くそう、岡崎サポの野郎、だせえユニフォームのくせに汚え真似しやがって。ぶっ殺してやる!」

「ああ、ぶっ殺そうぜ!」


 熱くなる二人の大男。

 と一括りにしたが、片や脂肪のまるでない筋肉質体型で、片や脂肪しかないといったもにょんもにょんのブクブクデブであったが。


「このコーナーを決めればいいんだよ。そうなれば勝ちだ。人数は多いんだし」


 二人に挟まれている、ひょろりとした禿げ頭の眼鏡青年が、二人の大男を冷静にたしなめる。


 エスタ ゴール! エスタ ゴール!

 エスタ ゴールゴールゴール!


 サポーターたちが、太鼓の音に合わせて叫ぶ。ゴール近くなど、得点の匂いがありそうなセットプレーで使われるコールだ。

 反対側ゴール前にいる選手たちに熱い気合を送る熱海エスターテサポーターであったが、しかし「ミネミネ」の蹴ったボールは空中でラインを割り、ライナマーレ岡崎のゴールキックになってしまった。


「くそ、運のいい奴らだ。だがお前らが得点されるのも時間の問題だぜ。お前らはもう死んでる」


 という太った覆面男の台詞と裏腹に、驚異的な粘りの守備を見せるライナマーレ岡崎の選手たち。引き気味になり、相手にボールを支配させながらも、肝心の一線は絶対に越えさせない。

 チャンスを逃し続けた側にはピンチが、我慢し続けた側にはチャンスがやってくる。誰がいったか知らないが有名な台詞であるが、熱海エスターテの選手、そしてサポーターは、そんな台詞をあらためて思い知らされることになる。


「ボールに行ってたろうがよ!」

「腐れ審判!」

「うんこレベル!」

「くそがあ!」


 熱海サポーターの、罵詈雑言。

 ライナマーレ岡崎の選手を、熱海エスターテのDFがスライディングタックルで転ばせてしまったのだが、主審はDFに歩み寄ると躊躇なくイエローカードをかかげ、次いでレッドカードを出したのである。

 熱海エスターテの退場。

 これでお互い十人同士、人数は対等になった。

 しかし、同じ十人と十人とはいえ、心理的にどちらが有利な立場か、どちらが不利な立場か、いうまでもないだろう。

 しかし、どちらが有利であろうと、不利であろうと、もう残り時間は少ない。

 サッカーは、簡単に点の動くスポーツではない。自分を不利と思った側が、しっかり守りを固めるからだ。

 結局、スコアレスドローか……

 残念なような、ほっとしたような、でもやっぱり残念なような、いやいややっぱりほっとしちゃったりなんかしちゃったりしている、そんな熱海エスターテサポーターたちの複雑に揺れる乙女心。

 しかしそうした心境は胸の奥にしまって、サポーターは選手を、チームを鼓舞し続ける。

 前へ、前へ進めと。

 攻撃的に、とにかく前へ、攻めろと。

 それが熱海エスターテなのだから。

 ロスタイムに入った。

 残り時間は二分。

 サポーターの鼓舞も虚しく一方的に攻められ続ける熱海エスターテ。

 パスを回され続け、翻弄され続け。

 しかしようやく、相手の連係ミスをついて、ボールを奪うことに成功した。

 すかさず前線のFWへとロングフィード。

 FWは胸で上手にトラップし、ドリブル開始だ。

 時間を考えれば、おそらくこれがラストワンプレーであろう。


「行けえ!」

「タッちゃ~ん!」

「上がれ!」

「クリアだクリア!」

「打っちまえ!」


 対岸同士、両サポーターの必死の叫びが飛び交う。

 熱海エスターテのFWは、ドリブルで相手陣のペナルティエリア内に入り込んだ。仕掛けることを躊躇なく選択、細かなドリブルに切り替え相手DFを一人かわした。

 そしてシュートだ。

 だが運悪く、相手キーパーの胸に当たってゴールインならず。

 ライナマーレ岡崎のDFは、こぼれたボールに素早く駆け寄り、大きくクリアした。

 蹴った本人も、これほどに遠くまで飛ばそうとは思っていなかったに違いない。ボールはハーフラインを越え、ぎらぎら輝く太陽の下、風にも押されてぐんぐんと伸びていく。

 熱海エスターテGKのやまろうは、あまりにも前に出すぎていた。

 頭上を飛んでいくボールを見上げる。うわっ、眩しい。慌てて後ろを振り向くと、ちょうど宙から落ちてきたボールがワンバウンドして、ゴールネットを揺らすところであった。

 主審の笛が鳴った。

 試合終了。

 熱海エスターテ 0 - 1 ライナマーレ岡崎


     3

「てめえら、なんだよさっきの鏡は?」


 先ほど応援席で太鼓を叩いて奇声をあげていた、プロレスラーのような覆面をかぶった太った男。熱海エスターテサポーターの、コアサポと呼ばれる応援団の中心格、その一人である。

 周囲には他にも、熱海エスターテのユニフォームを着ている者が何人もいる。

 スタジアムの公園側門で、ライナマーレ岡崎サポーターのリーダーに因縁をつけているところだ。

 鏡の件というよりも、ライナマーレ岡崎に負けたことがどうにもムシャクシャしてしょうがないのであろう。


「知らねえよ。言いがかりつけんじゃねえよ、バーカ。デーブ」

「ぶっ殺すぞてめえ!」


 覆面男は怒鳴り声を張り上げた。


「やんのかよ、おー!」


 岡崎のリーダー、ガタイは遥かに小さいが気迫で負けていない。


「気色の悪いユニフォーム着やがってよ! 岡崎のユニフォーム趣味悪いんだよ!」

「関係ねえだろ! 気にしてるこというんじゃねえよ! デブ! 温泉干上がっちまえ!」

「うるせえバカ! つうか温泉出なかったら、熱海こずゑ旅館がスポンサー撤退しちまうだろバカ野郎」

「知るかクソデブ!」


 二人、どちらからともなく手を伸ばし、がっぷり四つの体勢に組み合った。

 いがみ合っているのはデブたちだけではなく、他の者たちもそれぞれ臨戦態勢だ。

 下手をすれば乱闘沙汰、一触即発の状態であった。

 さて、その中で本日のメインイベントともいえる覆面男と岡崎リーダーとの対決。

 覆面の男は、熊のようにかなり大きな体格であるが、そのくせに、小柄でひょろひょろ貧弱そうな外見の岡崎リーダーに力負けして押されていた。

 どうやら、単に脂肪と血気が多いというだけの、見かけ倒しの男のようである。

 自覚はあって、それが恥ずかしいということなのか、なんとか必死に挽回しようとして力みに力み、「なめぬらあ!」などと、わけの分からない奇天烈な叫び声をあげている。

 しかしその努力が結果には繋がらず、虚しくも、ふた周りも小さな相手に、ぐいぐい押されていく。


「やめてください。やめてください。警察呼ぶことになりますよ!」


 オレンジと緑のジャンパーを着たボランティアスタッフの老人が、二人の腕を掴んで仲裁に入る。

 しかし、すっかり興奮している二人の耳には、その声は届いていないようで、戦いは止まらない。戦いというよりは、覆面デブが一方的に押されているだけであったが。


「こんなんかぶって、バカじゃねえの」


 ライナマーレのリーダーは、仲裁しようとする老人の手を払い、一瞬の隙を付いて太った男の覆面を剥ぎ取ってしまった。


「キャァーーーー!」


 無精髭をいっぱいたくわえた、中年男のぷっくらした顔が現れた。初期のザンギエフのような。

 覆面を取られたショックか、引っこ抜かれたマンドラゴラのような、女のような甲高い悲鳴を上げている。

 なんだか、急になよなよとした雰囲気になった。

 片手で顔を隠すのはまだ理解出来るが、もう片方の手で胸を隠しているのは一体全体どういう心理であろうか。

 こちらは予期せぬ終戦を向かえたが、彼らの隣では、


「てめえだろ、鏡ピカピカやってたの!」


 先ほどジロさんと呼ばれていた筋肉質の大男と、ライナマーレ岡崎サポーターの一人が、不良の喧嘩のように胸を密着させて、ガンを飛ばしあっている。


「だから、やめてくださいって!」


 ボランティアスタッフも大変だ。


     4

「だからさあ、キヨの使い方が間違ってんだって。中央のミネミネに対して、キヨを右サイドにとりあえず置いときゃオッケー、って、ただそれだけなんだもんよ」


 先ほど覆面を剥ぎ取られてキャーキャー甲高い声で騒いでいた異様に肥満した肉体の中年男は、今は堂々と素顔をさらしている。顔のイメージ通りの野太い声。さっきは、一体どこからあんな甲高い声が出ていたのだか。

 男は、シシャモにちょいとマヨネーズを付けて口に入れると、あまり噛まずにビールで流し込んだ。


「いやあ、テバさん、ぼくはねえ、ミネを中央にする監督のこだわりこそが、根本原因だと思ってます。トップ下や、DFの要の役割だからって、プロ契約の選手にこだわる必要はない」


 サポーター仲間から長老さんと呼ばれている青年。頭がつるつるの完全無毛で、ヤギ髭を生やし、表情は温厚、そして声や喋り方になんとも風格がある、ということからそう呼ばれているのだが、まだ若く、二十六歳だ。

 実際に性格は穏やかで、まず怒らない。しかし、いざ怒るとブチ切れ方が半端でなく、サポーター仲間の間では、一番怖いのは彼だということになっている。


「まあ確かに、プロだからどうこうってこだわる必要ないけど、おれはとにかくキヨがなんだか浮いちゃってんのをなんとかしたいね。新規加入で実力の底は分からないけど、もっといけると思うよあいつは」


 テバさんことばりきよみつ三十三歳は、枝豆の皮を小皿に入れると今度は箸を取って豚の角煮をつまんだ。

 取り皿には、角煮の脂身部分が山盛りになっている。他の人が食べずに残している脂身を貰って、自分の皿にかき集めたものだ。

 だからというべきかなんというべきか、手針は肥満体である。会社の健康診断ではいつもメタボといわれているが、知ったことではない。

 ここは「居酒屋こてきゅう」。熱海駅すぐそばにある古びたお店で、手針たち熱海エスターテのコアサポたちが、なにかにつけてよく集う場所だ。

 この店で喜びの酒に酔い、悲しみの涙を酒で流すのだ。

 今日は試合に負けてしまったため、ここで反省会を行っているというわけである。「会」といっても名目だけ、単にサポーターが飲んで話しているだけだが。勝てば祝勝会、負ければ反省会だ。

 今日この店に集まったコアサポメンバーは、手針と長老さん以外に、シゲさん四十七歳、ジロさん三十歳、はたおか君二十八歳、シュリンプ二十三歳、ダーヤマ君三十歳、いい氏三十六歳、我孫子あびこ夫妻四十二歳と三十四歳。計十人。


「今度オフィシャルに、メールでも送ってみるかな。右サイド舐めんなゴラって」

「テバちゃんよ、メールなんて効果ないぜ」


 ふふんと笑うジロさん。同じ大男ながら、ジロさんは運送屋の現場で働いているだけあって筋肉隆々、脱げば腹筋も割れていて、もにょもにょしたお腹の手針とは対極的だ。


「エスタのホームページって、もう試合の勝ち負け結果くらいしか更新しないくらいだからな。運が良ければそこに選手のコメントが載るってくらいだからな」


 一昨年、JFLでの熱海エスターテの順位は五位であった。現在の戦力でもそこそこ戦えることを確信したフロントは、遂にJリーグ入りを目指して金にものをいわせた大補強を敢行、Jの規定を満たすようスタジアムの増築、オフィシャルホームページのコンテンツ拡充……しかし結局、補強した選手を活用させるどころか、むしろチームのバランスを大きく崩してしまい、このメンバーで何故勝てないのか不思議なくらいに負けに負けを続け、勝っても入れ替え戦負ければ地域リーグに即降格という最終節、十点取られてボロ負けを喫し、地域リーグへと降格してしまったというわけである。

 サポーターにとってなんとも悔しいのが、自分らを地獄に突き落とした相手がハズミSCだということ。

 JFL参戦初年度はリーグ終盤まで一点も取ったことがないという生き伝説的な弱小チームだったくせに、入れ替え戦で勝利して残留してからというもの、えらく調子がいい。その弱小時代から一人も補強を行っていないというのにだ。

 そしてハズミSCのJFL二年目、熱海エスターテはJ2参入を賭けた運命の年、前述したような熱海の惨劇が起きたというわけである。

 ぶっちぎり最下位で地獄に落ちた熱海エスターテと反対に、その年のハズミSCはJFL第三位の好成績。もしもJリーグ参入を目指しているクラブであったならば、その資格のある順位だ。

 目指してはいないので参入はしなかったが、それがまたなんとも熱海エスターテサポーターとしては腹立たしい気持ちなのである。だったらお前ら、別に負けたっていいだろう、と。

 さて、話を戻すとしよう。

 手針のメタボ体質について、いや、ジロさんがオフィシャルホームページでの意見投書の無意味さを説いたところからだったか。


「やっぱり掲示板だろ。ネットのさ、ごちゃんねる。あれ、選手も監督も絶対に見てるって。メールするより絶対に効果あるって。ムギって、必ず試合前に靴紐を直すじゃん。点取った試合って、たいてい左靴から直してんだよな、って書き込みがあってよ、それから絶対に左から靴紐結んでるもん。もうしばらく全然点取れてないってのに、相も変わらず」

「うん。そいつは見てるなあ」

「絶対見てるってばよ」

「うおっし、なんか書き込むか。個人的にあの掲示板大嫌いなんだけど、久々に行ってみるか」


 手針とジロさんが、掲示板になにを書くかどう書くかで盛り上がっている隣で、長老さんとシゲさんの穏やかコンビが穏やかに話をしている。


「しかしほんと、簡単には勝てないってことかねえ。所属カテゴリーが下がったんだから、対戦相手も弱くなってるのにね。前回は、審判運もあってなんとか勝ったけど」

「開幕前は、余裕の全勝優勝を疑っていなかったのになあ。まあ考えてみりゃ、選手の大量離脱があったから実質新しいチームだし、まだ二試合目でチームも方向性探してるとこだろうからね」

「そうそう。今日戦ったライナマーレなんか、うちと一緒にJFLから降格したくせに選手ほとんど残っているんですからね。そんな相手に対して、その実質新しい、スタートしたばかりのチームが、今日はあとちょっとで引き分け、ってとこまでいったわけですし、ある意味上々な滑り出しと思うしかないですね」


 長老さんは相当以前からのサポーターで、県リーグと地域リーグを行ったり来たりしていたのをその目で見て来ているので、達観しているところがある。まあ、だから長老さんなのだ。

 しかしブチ切れると怖くて、上半身裸でヌンチャク片手に相手サポーターの大群の中に単身身を躍らせてあっという間に全員をのしてしまったという、本当か嘘か分からないがそのような伝説がある実は怖ろしい人なのである。


「でもやっぱり、負けは悔しいですね。チーム状況の差がどうだろうと、サポーターとしてはライナマーレにだけは絶対に負けたくなかった。日韓戦みたいなものかな」

「あの鏡ピカピカの件がなければなあ、違った結果になってたかも知れないのになあ。ミネのコーナーが、直接決まっていたかも知れないのに」

「その鏡の件って本当なんですか、シゲさん。ジロさんたちも、随分と騒いでいたけど」


 長老さんの質問に、シゲさんの対面にいる我孫子夫妻の奥さんの方が、


「ほんとほんと。あたしも見てた。ばっちりデジカメで、その瞬間を撮ってやったわよ。あのライナマーレのハゲクソ野郎、JFLん時から忌々しい奴だと思ってたのよ、なんとなく」


 JFLや地域リーグのサポーターは人数が少ないため、コールリーダーや、ちょっと特徴のある者などは、観客席でとにかく目立つのだ。

 我孫子夫妻の奥さんは、バッグからデジタルカメラを取り出して起動させると、液晶画面に問題のシーンを映し出した。

 完全に、画像が潰れてしまっている。


「お前、三百万画素三倍ズームの中古デジカメで、陸上競技場対岸ゴール裏の何を映そうってんだい 

 我孫子夫妻の旦那さん、呆れ顔だ。


「大丈夫。あたしのパソコンの編集ソフト使えば、3200%まで拡大出来んだから」


 ふふん、と得意顔の奥さんである。


「だからそれはぁ……」


 説明しても無駄な気がして旦那さんは口を閉ざした。

 と、突然に、アルコールが回ってきたダーヤマ君が「よよよよ」と泣き出した。自棄酒をさらにぐいとあおる。

 畑岡君がなぐさめるがダーヤマ君は泣きやまず、なんだか場が湿っぽい雰囲気になってしまった。

 手針は豚の角煮、の脂身をひとつつまんだ。


     5

 手針清光は住宅街の中、自転車をこいでいる。

 帰宅途中だ。

 新聞配達に使うようなごつい実用自転車だが、彼が乗っていると今にも潰れてしまいそうなほどに脆く感じる。それほどまでに、手針の肉体は肥満しているのだ。

 ぎい、ぎい、ときしむような音。タイヤがいつ破裂しても不思議でない。

 おおおおおん、

 手針は、なんだか物悲しいような雄叫びをあげている。

 背中にはユニフォームや覆面、拡声器などの入ったスポーツバッグと、丸めたゲートフラッグを入れたケースを背負っている。

 酔っている。

 つい先ほどまで、「こてきゅう」で飲んでいたのだ。

 ビールだけだが、しかし大ジョッキで六杯は飲んだであろうか。

 サポーター仲間のダーヤマ君に影響されて、すっかり自棄酒モードになってしまったのだ。

 おおおおおおん、

 悲しい漢の叫びであった。

 グギイ、と嫌な音。突然、急ブレーキをかけて自転車を停めたのだ。


「おりゃ!」


 なんの脈絡もなく、背負っていたゲートフラッグを手にすると、人様の家の窓ガラスをぶち割った。

 やべえ、と我に返り、慌ててペダルしゃかしゃか全力疾走。

 後方から怒鳴り声が聞こえてきた。ガラスを割られた家の住人だろう。

 違うんだ!

 手針は心の中で言い訳をしていた。

 試合に負けたエスターテが悪いのだ。

 そうよ、あたしじゃないのよ! エスタが全部悪いのよ! と、脳内では何故かオネエ言葉で絶叫している。

 身体を伏せるように下を向いて、闇雲に自転車を走らせている。

 猛烈な速度で後ろに流れる背景。

 一緒に、敗北の嫌な記憶も流れてしまえ~~!

 心の中ではマッハ一〇!

 そして、自転車ごとドブに落ちた。


     6

 株式会社ケーワイプランニング。

 JR熱海駅から徒歩十分、小さな雑居ビルの中の小さな会社である。

 元はデータ入力業であったが、現在は、情報システムの提案、構築、保守などが主な業務だ。

 メインの顧客は、古い旅館や土産物屋など。

 創業三十年。

 「うちもなあ、そろそろコンピュータとやらを導入しないとならないかなあ」そんな時代の波に巧みに乗っかり、細々とではあるが安定した業績をあげている。

 ちなみに社名は、小林と山田という二人の創業者からとったもの。現在ならばとてもそんな名前、付けられなかっただろう。頭の悪そうな女子高生に、ブッチャケアリエナーイなどと看板を指さされて笑われてしまう。

 ばりきよみつは、ここの社員である。

 以前は派遣社員としてだったが、二年前に直接雇用してもらい、正社員として働いている。

 ボーナスは出るものの、全体的な収入は減った。

 しかし安定性のほうが大事である。まあ、会社自体がいつ不況の波に流されるかも知れないわけだが。

 手針は、プログラマーだ。肥満体なので男のくせにおっぱいもでっかいが、プロのグラマーさんというわけではない。コンピュータのプログラミングをする人ということだ。

 下っ端である。

 クライアントの業務内容にそったコンピュータプログラムを、製作することが主。

 小さなものを一人で作ることもあるし、チームリーダーのもと長期的なプロジェクトを組んで仕事に取り組むこともある。

 アセンブリ言語とフォートランを熟知している点は、他の者に一目置かれるところだが、肝心のJAVA言語が得意でないので、まあ未だに下っ端なのだろう。


「おい、、バッチをタスクに組んどいてっていったろう!」


 チームリーダーであるようのキンキンした声が響く。手針と反対にガリガリの体型、年齢は確か四十。


「いや、当てましたよ、バッチ。そしたらエラー出たんで、ちょっと中見たら、変なファイル呼び出すルーチン入ってたんで、その行コメントアウトしちゃっていいのか、そもそもなんのファイルなのか、隣に解析させていて結果待ちです。さっき、メッセンジャー送ったじゃないですか」


 しんすけ、二十九歳。頭脳明晰迅速的確、ほとんど残業をしたことがないというこのような職場においては非常に珍しい男である。


「そうか、確かにメッセージ来てるな、ははは。ごめんね」


 キンキン声で、うるせえなあ。はははじゃねえやバカ。手針清光は、頬杖つきながら大あくび。

 椅子に座って片足だけ組んでいる。

 組んだ足の上に、雑誌を載せて開いている。

 現在の長期プロジェクトでは要田がチームリーダーだが、今日の手針は一人で別業務。

 プログラムをコンバートして擬似環境に組み込んで動作チェック、というところまでは自動化させており、今はその自動作業中なので人間は暇なのだ。


「人と人との関係は大変、合間合間にエスターテ」


 なんだかよく分からないことを、ほとんど口を閉じたままモゴモゴと呟いている。

 鼻毛を抜いて、ふうと息をかけて飛ばした。

 飛んでけタンポポの綿毛~。

 今の行為、どうやら脳内ではとてもメルヘンな扱いになっているようである。

 なお、読んでいる雑誌は、「週間蹴球」だ。

 サッカー全般を取り扱った、マニアックな雑誌である。

 今年になってさらにマニア度が増しており、J1や海外を一切排除。「男子サッカー、J2以下」のみが記事の対象だ。

 廃刊寸前と噂されており、「いよいよ自暴自棄に出たのでは。最後に開き直って、本来やりたかったことをやっているのでは」「いやいや、気をてらうことで差別化をはかっているだけだ」と、この雑誌の動向自体が一部サッカーマニアの楽しみにもなっているらしい。

 差別化をはかりながらも、やはりそれなりに需要のある分野を扱わねば雑誌として成り立たないので、必然的にJ2と高校サッカーを取り上げる割合が多くなるが、JFLも試合結果くらいは必ず取り上げるし、特集を組む事だってある。

 社会人リーグともなると、さすがにそう頻繁に特集は組めないが、たまに取り上げるだけも凄いというものだ。

 今週号が、まさにそれであった。

 なんと熱海エスターテを巻頭カラーで特集しており、手針はその記事を読んでいるところである。

 喜んで二部購入したはいいが、しかし記事の内容が手針には面白くないらしく、


「……好き勝手いいやがってよう。おれのミネミネはそんな男じゃねーよ」


 また、小さな声でぶつぶついっている。

 ふと顔を上げる。

 パソコンの画面に目をやると、自動で行わせていた仕事が終わっていた。

 作業の性質上、十五インチ画面で足りるような仕事ばかりなのだが、手針はわざわざ自腹購入した二十六インチワイドのモニターを使っている。

 画面の余った部分で、いつも熱海エスターテの壁紙が見えるようにするためだ。時には選手の写真であったり、時にはチームのロゴマークであったり、自動処理で定期的に壁紙が変わるようにしている。たまに、モー娘。の画像になることもあるが。


「うお!」


 なんとなく腰をちょっと横に捻った瞬間、グキ! と背中に激痛が走った。

 先日、自転車に乗ったままくるんと回転してドブに落ちたのだ。きれいに一回転ならともかく、九十度余計に回ってしまい、対岸のコンクリートの壁に思い切り背中をぶつけてしまったのだ。


「くそう、エスタがライナマーレなんかに負けっからだ」


 ぶつぶつ文句をいう手針。

 そのための自棄酒の帰りに起こした事故だから、といいたいのであろうが、もしも勝利していたら、きっと喜びの美酒に周囲人民巻き込んでもっと凄まじいことになっていただろう。


     7

 熱海エスターテの、試合日程記載のポスターを張っている。

 ポスターの写真は、みねざきみつたかしゆうのバストショット。二人とも勇ましく腕を組んでいる。

 張る場所は、店舗のガラス窓、町内会掲示板、熱海駅構内の通路、等々。

 いま作業員一同のいる場所は、駅前の広場である。

 本当はホーム開幕戦前に張ることが出来ればよかったのだが、色々と手違いが発生し、間に合わなかったのだ。

 ポスター張りの作業員は三名。熱海エスターテ広報のたけなお、副務のしゆん、ボランティアとしてサポーターの長老さん。

 他にも、サポーターが十人ほど、チームのレプリカユニフォームを着てぞろぞろとついて来ている。ポスター張り作業の傍らで、ゴミ拾いなどの清掃作業を行なっているのである。

 このゴミ拾いはサポーターが勝手にやっていることで、要はユニフォームを着ての地域貢献によりチームの宣伝をしているというわけだ。声を張り上げて宣伝しようものなら反感抱く者も出るが、黙々とした清掃活動なら少なくとも不快に思う者はいないだろう、と。


「半期分とはいえ、こないだのライナマーレ戦にメインスポット当てたポスターだからなあ。やっぱりかっこつかないなあ」


 もう既に何枚か張り終えているというのに、夜竹直子は腕を組んで顔をしかめながら、いまさらのようにぼやく。でもポスターを刷り直す金も時間もないので、どうしようもない。

 夜竹直子は、二十九歳。広報活動が主な業務である。

 それなりに美人といえる顔つきではあるものの、体がガッチリしており、それが美人特有のトゲを良い塩梅にそぎ落として、愛嬌というような雰囲気を与えている。

 彼女は、他の会社からの出向社員だ。

 クラブのJ2参入後のために、広報として招かれたのだ。

 しかし残念ながら、J2参入どころか地域リーグへの降格。本来ならば専属広報や副務など置いておける状況ではない。単にまだ契約期間が残っているというだけの話だ。

 契約期間は今年いっぱい。

 JFLに再昇格したとしても、広報の契約延長がされる可能性は少ないだろう。J2での広報活動のために呼ばれた立場なのだから。ましてや再昇格が叶わず地域リーグのままであるならば、それはほぼ確実だ。

 働いている間にチームへの愛着も湧いて来たし、昇格を果たし、奇跡的に契約延長が出来ればいいのだが。いや、ここを離れるにしても、自分がここのスタッフとしている間に、再昇格決定の瞬間を見たい。夜竹直子は、そう思っているようである。

 副務の木戸俊二は三十歳。夜竹と反対に、ひょろひょろと軟弱そうな男である。

 そして、夜竹と反対に、熱海エスターテへの愛着はさして無い。

 公言しているわけではないが、言動の細かなところから、周囲にはそう思われている。

 実際、その通りであった。

 地域リーグへ降格したせいで、本業がかなり暇になってしまい、今日もこうして雑用の手伝い。「どうでもいい」から「嫌い」になってきた気さえする木戸俊二。

 自分にはもっと能力があるのに、なんでこんなくだらない仕事をしていなければならないのか。なにがサッカーだ。なにがサポーターだ。単なる暇人がくだらないことに無駄に熱くなって、人に暴力ふるったりして。なにがフーリガンだ。

 なあにが熱海エスターテだ。


「しかし、このポスター、いい出来ですよねえ。確か木戸さんが撮影した写真ですよね。プロみたいじゃないですか」


 長老さんがのんびり口調で、木戸の顔を見つめる。


「そうなんだよォ。写真の勉強なんかしてないから、からっきし技術なんてないけど、クラブへの愛情かなあ。うふふ」


 木戸俊二、気が弱く、自己主張の出来ない男である。もちろん血液型はA型。

 夜竹直子は、にこにこ笑みを浮かべながら、


「謙遜しちゃって。プロ雇うお金すらないからね、木戸君にカメラの才能があって助かったよ」

「才能なんてとんでもない。エスタが好きなだけですよお、フフフ」


 木戸は、ただでさえ雀の巣のような頭を、ガリガリと掻いた。


「うおおおい」


 彼らのほうへと、ぎい、ぎい、と自転車をきしませながら一人の男がやって来た。

 この男もまた、熱海エスターテのユニフォームを着ている。キングサイズなのかも知れないが、それでも今にも破けそうなくらいピチピチだ。ピチピチというか、お腹モニョモニョだ。それほどに、男は肥満体型であった。

 顔には、覆面レスラーのようなマスクを付けている。

 サポーターが作詞作曲した熱海エスターテの応援歌を歌いながら、自転車で近付いて来る。

 新聞配達に使うような、大きくて頑丈な実用自転車なのだが、乗る者があまりに巨大であるため、相対的に小さく貧弱に見えてしまう。いまにもペシャンと潰れそうだ。

 サーカスのクマ。シルエットだけ見ると、まさにそんな感じである。

 自転車は、なんだかうっすらドブの臭い。

 応援団サブリーダーの、ばりきよみつである。


「土曜出勤することになって、遅れちまった」


 手針は自転車を降りた。

 我孫子夫妻の奥さんが、手針の姿を見ていまさらのように、


「テバちゃん、顔隠しててもさ、かえって目立つんだけど。とてつもなく」

「目立とうがなんだろうが、とにかく顔がばれなきゃあいいんだよ」


 他のサポーターたちに混じって、ゴミ拾いをはじめる手針。地味な地域貢献のはずが、巨体の覆面男の出現により、一転してなんだか異様な雰囲気になってしまった。


「ねえ長老さん。テバさんて、なんでユニ着ると絶対に覆面付けるの?」


 夜竹直子は常々感じていたであろう疑問を、彼らと知り合って半年にして初めて口に出した。


「サッカーの応援してる人 = フーリガン、って思っている人が職場にいるらしく、クライアントに暴れているとこ絶対にばれるなよ、仕事なくなるぞって脅されているんですよ」

「ああ、テバさん、暴れるもんねえ」


 夜竹直子は、納得したように頷いた。


「いやいや、それは覆面するようになってからですよ。気が強くなっちゃって」

「ひょっとして、覆面取った直後に妙にナヨナヨしてんのって、その反動?」

「そうです」


 などと二人が話していると、噴水の向こう側では、


「タダだっていってんだから、ちょっとくらい試合を観に来たっていいだろが、クソガキが! どうせ下らないテレビゲームやってんだろ!」

「デブデブ! お前の父ちゃんもデブ! デ~ブ」

「皮剥いで殺すぞてめえ!」


 手針清光が、小学低学年くらいの男の子と本気で口喧嘩をしていた。

 夜竹直子は前髪をかきあげると、ため息をついた。

 サポーター同士のいざこざならともかく、一般の、しかも地元民にあんなことをしていたら、入る客も入らなくなる。


「ちょっと覆面剥ぎ取ってくるわ」


 そういうと、手針の方へ小走りで駆け寄っていった。


     8

 JR熱海駅から海沿いに南方向、バスで十分、徒歩なら三十分ほどの住宅街に、ばりきよみつの自宅はある。

 住宅街の奥に入り込んだところなので、残念ながら海などの綺麗な風景とは無縁だ。それどころか家屋が密集しているため、どこの窓を開けても隣家の壁しか見えず、かろうじて二階の北側窓から景色がほんの少し見回せるという程度。

 築四十年ほどのボロ家だ。

 多分、吹けば飛ぶ。

 ここで手針は、母と妹との三人暮らしだ。あと数年で定年の父は、単身赴任で広島に行っており、定年と同時に戻ってくる予定だ。


「おっと、あぶねえ馬鹿野郎!」


 二階の自室(外がまるで見えない方の部屋)で、手針は誰にともなく叫びながら素早くテレビのリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。

 危うくJリーグ関連のニュースを見てしまうところだった。パソコンいじりに夢中になっていて、うっかりしていた。

 ……でも、Jリーグって、どんな世界なんだろうな。

 と、手針は思う。

 興味はある。

 もの凄く。

 とっても。

 しかし、J所属クラブのホームページも、協会のホームページも、見たことがない。

 意地でも見ないようにしている。

 テレビのニュースだって、いまみたく咄嗟にチャンネルを変えてしまう。床に落ちているリモコンに回転レシーブよろしく飛びついて、勢いあまってベッドを真っ二つに破壊したこともある。

 週間蹴球を買った時も、Jリーグ関連のところはあらかじめ他人に頼んで破り捨てて貰う。

 もし、Jリーグ所属クラブのホームページ作成や情報網構築の仕事など来てしまったら、自分はきっと会社を辞めるだろう。安定性重視で正社員になった身だが、そんなの知ったことではない。まあそういう仕事が熱海市の小さな会社などに回ってくることはまずないので、その点は安心してよいのだが。

 手針清光は、Jリーグというものを知らない。

 名前くらい。

 ……あと、ラモスくらい。

 熱海エスターテサポーターになる前はそもそもサッカーにまったく興味がなかったし、サポーターになった後は意識的に情報遮断をしている。

 昇格して、はじめてJという世界を知るべきなのだ。

 先に華の世界を知っておいて、上から手を伸ばして引き上げてやるなんて、あまりに傲慢だ。

 チームとサポーターが一心同体となって、一緒にJ2参入を果たすべきなのだ。そしてJ1に上がるべきなのだ。なんとかカップとかいうのを制するべきなのだ。アジアなんちゃってリーグだかなんだかの覇者になるべきなのだ。

 とか思いつつ、今もパソコンでついJリーグクラブへのリンクをクリックしてしまうところだった。


「あぶねー! 魔がさした!」


 ドキドキする胸をおさえると、続いて自分の顔を両手でパシパシと叩く。闘魂注入闘魂注入。

 そして立ち上がると、


「あ! た! み! え! す! た! あ! て!」


 野太い声で絶叫した。


「くそ。まだまだおれは、本当のサポーターではない」


 どうしようもない、未熟者だ。

 熱海エスターテのために自分にかした戒律を、誘惑に負けて自ら破ってしまうところだったのだから。

 修行だ。

 精神修行が必要だ。

 それはそれとして、Jリーグに入って、自分とこの選手が代表に呼ばれたりして、点決めたりなんかしたら、すげえ気持ちいいだろうな。

 どんくらい、気持ちよいのだろう。

 射精と……どっちが気持ちよいのだろうか。

 くだらないことを考えてしまう三十三歳、童貞であった。


「馬鹿野郎かおれたちは! 射精とサッカー地域リーグとは、所属カテゴリーがまったく違うだろうがよ!」


 何故か複数形にした上で、己を叱咤する手針。

 危うく同一カテゴリー扱いにしてしまうところだった。そしたらきっとおれは、熱海エスターテのため自分に射精禁止の禁欲をかしていたに違いない。それはそれで、困る。いや、でも、それで絶対にエスタが昇格するってんなら、考える。


「兄ちゃん」


 半開きのドアがさらに開いて、妹の顔がのぞく。結構ブスだ。


「うるせーー! このデブが!」


 アホな考え事をしていた恥ずかしさを誤魔化すように、拳握り締めて怒鳴る手針。


「お前ほど太ってない。ボロ家でいちいち叫ぶな、さっきから」


 ばりけい、二十九歳。肥満。そしてブス。なのに、彼氏がいるらしい。

 父のさだてるはただ骨太でがっちりしているだけだが、手針清光と母のきよと妹の恵子、この三人は骨を包む肉の量も半端でない。たとえベテランの牛肉解体職人であろうとも、きっと解体に数時間はかかることだろう。


「なんか用かよ」

「友達が来てるよ、オタクの。あ、友達全員そうか」

「うるせえな。地獄突きくらわすぞ。吹けよ風、呼べよ嵐! って、どうでもいいから、上がってもらえよ」

「はいよ」


 恵子はそういうと、激しい足音を立て階段をきしませながら、一階へと下りて行った。

 しばらくすると、今度は打って変わって軽やかな、しかしどことなく病的な足音が近づいて来た。

 ドアが開き、そこには男が立っていた。


「ごきげんよう、手針氏!」


 腰まで届く長髪。

 額だけは剥き出していて、ぼさぼさ髪をヘアバンドでとめている。

 黒ブチ眼鏡。

 ひょろひょろっとした体格。

 ネズミのような出っ歯。

 ジーンズの中にシャツを入れていおり、左腕には意味があるのかないのかリストバンド。

 ラスカルというあだ名の男で、手針と同じく三十三歳。大学時代からの友達である。

 知り合って十年以上にもなる仲なのに、いまだに本名を知らない。正直、興味ない。

 ラスカルは、服装から分かる通り、アニメ漫画オタクである。

 手針自身にも、以前より性質や性格としてはオタク的なものは多分にあったが、これまでその情熱を向けられる対象物に出会ったことがなく、実際に何かにとことんのめり込むことになったのは、熱海エスターテが初めてだ。

 つまり、他人にオタク的趣味を見せたことなどこれまでに一度もなかったというのに、学生時代から寄って来る人間みんながみんなオタクっぽいのばかりとは、これいかに。ラスカルといい、鉄道マニアのほんたけしといい、家紋オタクのとくろうといい。


「今宵は手針氏と飲もうかと思ってね」


 ラスカルが右手に下げている、アニメキャラの顔がプリントされたベージュのトートバッグ。「ルナティック・スター・プロジェクト」略してルナプロの、ほうおんまいだ。そしてそのトートバッグから、日本酒の一升瓶の先端が見えている。


「やったあ」


 手針は万歳して喜んだ。

 そうして、お互いコップに注ぎあいながら、夜通し飲むことになったわけだが、


「どうしておれの周囲はこんな、終わっちまっている奴ばっかりなのだろう」


 酒おごってもらっている身分のくせに、平気で酷いことを呟く手針。


「ん? なんかいった?」

「いや。まあ飲めよ」


 手針はラスカルのコップに酒を注いだ。


     9

「セタップ!」


 手針清光は、マスクを天に掲げ、そして装着した。


「とりゃああ!」


 変身だ。

 スパーク!

 (背景、虹色に光る)

 ばりきよみつは、わずか1ミリ秒で熱海エスターテの覆面サポーターへと変身するのだ。



 という特殊効果映像やナレーションは彼の頭の中だけでのことで、実際は太った中年男が一人、家の玄関前で奇天烈な雄叫びをあげながらちくちくとレスラーマスクの紐をとめているだけである。


「変身完了! よし、今日はアウェイ、絶対に勝つぜ!」


 実用自転車に跨る。

 ヒラリかっこよく飛び乗りたいところであったが、なにせ体が無駄に重すぎる。その動きはもたもたとして、トドやアザラシを連想させる。

 なんとか自転車のサドルに跨った。

 マスク、よし。

 背中にバッグと、フラッグケース、よし。

 財布、持った。

 覚悟、完了。

 発進!

 手針はぐっとペダルを踏み込んだ。


「あた~みえすたーて! ドドドン、オイッ!」


 進む帝国軍移動要塞、いや単なる実用自転車。


「ドドドン、オイッ!」


 近所の主婦たちが、ヒソヒソと声をひそめ眉をひそめなにか話している。


     10

 五月二十二日 土曜日

 東海社会人一部リーグ 第三節

 津市水産 対 熱海エスターテ

 会場 津市サッカースタジアム。


 三重県津市にある収容人数二千五百人の、小さなスタジアムだ。サッカースタジアムと名がついているが、ラグビーの試合にも利用されている。

 座席はメインスタンドしかなく、ゴール裏へ入ることは出来ない。必然的に両チームのサポーターたちは、メインスタンドの両端に分かれて応援を行うことになる。

 津市水産も、熱海エスターテも、ユニフォーム姿で応援している人数は、それぞれ五十人ほどでほぼ対等だ。しかしその温度は、あきらかに異なっているようだ。

 熱海エスターテ側はJリーグ入りを目指すチームだけあって、熱海市近辺のサッカー好きが集まって、とにかく昇格を目指して熱心にそれは熱心に応援をしている。

 それに対して津市水産のユニフォームを着ている者は、選手の家族や、津市水産の社員が多い。上からの命令という、いわゆる動員がかかって来ている者もいるだろう。来たからにはとりあえず楽しめればいい、という程度であり、勝てばそれなりに嬉しいが負けてもさして悔しくもない。と、そんな雰囲気を漂わせている。

 現在午後十二時半、試合開始三十分前だ。

 ピッチ上で選手がウォーミングアップを行って戦いの準備をしている中、既に観客席では応援合戦という試合が始まっていた。

 合戦といっても前述したような理由で、同じベクトルを持った者同士の衝突ではなく、毛色は相当に異なっているが。

 そもそも津市水産を応援している人たちのほとんどは、自分のところの選手名すらろくに知らないらしい。一人が太鼓を叩いてガラガラ声で絶叫しているだけで、あとはまばらな拍手、声援が飛ぶ程度でしかない。

 対して熱海エスターテサポーターは熱いので有名で、選手の名前を知っている程度は序の口、ほとんど全員が、選手の応援歌をそらで歌うことが可能なくらいだ。

 熱海市かもめ公園陸上競技場での試合と違い、スタジアムDJによる選手紹介のアナウンスはなく、そのかわりにメンバー表のA5ペラ紙が配られている。

 さて、時計の針も回って、選手たちのアップも終わり、あとはキックオフの笛を待つばかりになった。

 センターサークルの中心に置かれているボールを、津市水産の選手が踏みつけている。

 そよそよと、おだやかな風が吹いている。

 手針清光は雄叫びをあげながら、太鼓をどんどんと鳴らしている。

 周囲には、長老さんも、シゲさんも、ジロさんダーヤマ君シュリンプに我孫子夫妻らいつものコアサポ集団の面々。

 JFL時代は移動範囲が全国であるため、コアサポを自称する者とはいえかかる旅費があまりに莫大であるため、持ち回りで遠征をしていたのだが、地域リーグ降格により移動範囲が東海地方に限定されることになったため、皮肉なことにアウェイの試合に行きやすくなったのである。



 主審の笛が鳴った。

 津市水産ボールでキックオフだ。


「こんな売れないカップ麺ばかり作っている会社に負けるわけがねぇ!」


 手針は両手のバチを乱れ打ちながら、野太い声で絶叫した。

 ご存知、覆面姿である。

 まったくの余談であるが、手針はこの姿で電車に乗ったのだが、駅員に注意され、仕方なく、こちらに着いてから被り直したものだ。

 売れないカップ麺かどうかはさておいて、津市水産のようなチームに特に負けたくないと思うのは手針だけではない。

 負けたくないどころではない。Jを目指さないアマチュアのみ社員のみのチームに、絶対に負けるわけにはいかないのだ。引き分けすらダメだ。勝ち。勝ちのみだ。

 こちらにはプロ契約選手だっているのだし、Jを目指しているという誇りもあるからだ。

 また、プライド云々の問題を抜きにしても、他にもプロ契約選手がいてJを目指しているチームがあるわけで、アマチュアチームに負けようものなら単純に競争が厳しくなってしまうのだ。

 津市水産のユニフォームであるが、上が深緑、下が真紅という、どぎついコントラストだ。靴下も、左右それぞれ緑と赤。胸の文字は二段に分かれて「緑のうどん」「赤のうどん」、赤のうどんは胸の位置というより腹の位置だ。なるべく文字を大きく保ちたいのだろう。自社主力製品の名称である。

 手針はこのスタジアムに入る前、緑のうどんと赤のうどんをそれぞれ四杯づつ、計八杯を食した。文字通り、相手を食うというゲン担ぎだ。

 最初は地元熱海市内のコンビニやスーパーで入手しようとしたのだが、探せども探せども見つけることが出来ず、結局津市のコンビニで購入し、そこでお湯を貰ってジロさんと一緒に食べたのだ。

 ちなみにジロさんは、それぞれ三杯づつ食べた。

 途中からお湯が足りなくなって、店員に作ってもらう時間ももどかしく、二人ともほとんど固いままバリバリ音を立てて食べた。


「あんなクソまずいカップ麺売ってる、倒産寸前の会社に負けるわけねえ! 売り上げ貢献して倒産エックスデーがちょっぴり伸びるように協力してやったんだから、かわりに勝ち点3貰うぜ!」


 手針は応援の太鼓を叩きながら、しきりにそんなことばかり叫んでいる。

 さて、手針のことにばかりスポットを向けているうちにも、ピッチ上では試合は進んでいる。

 一進一退、膠着したままの状態で前半を終えた。

 ハーフタイム。

 そして、後半戦の開始だ。

 手針とジロさんのゲン担ぎのおかげかは分からないが、後半二十分、ついに熱海エスターテが先制した。コーナーキックで、津市水産のクリアが、熱海エスターテ選手の顔面に当たり、みっともなくのけぞってゴールに背を向けたところを、クロスバーからの跳ね返りが後頭部に直撃し、ゴールインしたのだ。

 ゴールはゴール、熱海エスターテサポーターは、爆発したようにどっと沸いた。


「超スーパーミラクルプラズマグレートビューティホーゴオオオオオオル!」


 太鼓乱れ打ちの手針。

 泥臭いどころかある意味みっともないだけのゴールなのだが、熱海エスターテのゴール映像は手針清光の脳内フィルターを通すと全てビューティフルゴールになるのだ。

 手針の絶叫と太鼓につられて、サポーターたちは負けじとさらに大爆発。

 そうだ、個人的な雄叫びばかりしていられない。サポーターとしての応援をリードしなければ。両手のバチを乱れ振って、太鼓をどんがどんがとかき鳴らす。

 サポーターが声を揃えて叫ぶ。


「あっ・たっ・みっ! オイオイオイオイ!」

「あっ・たっ・みっ! オイオイオイオイ!」

「えっすったーあーてっ!」


 その応援が選手を後押し、熱海エスターテは攻め続け、津市水産を自陣に押し込め続けた。

 津市水産サッカー部は、社内のサッカー好きで構成されたチーム。地域リーグを勝ち抜くにはかなり薄い選手層だ。しかも情報によれば開幕戦で主力選手が二人、怪我してしまい、今日はベンチにも入っていないらしい。

 そんな状況のチームが先制を許してしまったのだから、それからは変にパスを繋いで崩そうなどとせず、しっかり引いて守ってロングボール主体の攻めに徹するようになったのはある意味当然の成り行きともいえた。

 これ以上失点しないようにし、あわよくば一点取って引き分けられればよし。

 そうなってからの津市水産の攻めは、非常に単調なもので、放り込んではクリアされ、放り込んではクリアされ。

 しかし、何度もチャレンジを続けているうち、ついにそこにドラマが生まれた。

 熱海エスターテのDFいしがきゆうがクリアミス。痛恨のキック空振り。

 津市水産のFW9番、それを拾って、ドリブルだ。

 石垣由斗は慌てたように振り返り、後を追う。

 観客席に点在している津市水産側の観客は、予期もしなかったチャンスの到来に、どっと沸いて、激しく声援や拍手を飛ばした。

 応援団員の太鼓が、ドンドンドドドン! とスピーディなリズムで、ドリブルする津市水産FWを鼓舞する。

 熱海エスターテGKの山田太郎は、自陣ゴールから飛び出しすぎていた。まさか味方があのようなクリアミスをするなど思わないだろうし、仕方がない。

 津市水産の9番は、あまり足が速くないタイプ。そのため、DFに追いつかれる前にいちかばちか、ということか、遠目からシュートを狙った。山なりの弾道、ループシュートだ。

 山田太郎は慌て振り返り、全力で駆け戻るが、ボールはむなしくも頭上を越えて行く。

 落下しながらも、ボールはぐんぐん進み、真っ直ぐとゴールへ向かっている。

 だが、津市水産9番の放ったシュートは、ほんの少しだけ精度が足りなかった。

 クロスバーに当り、跳ね返った。

 跳ね返ったボールは、全力疾走で駆け戻った山田太郎の顔面に当たって、ゴールネットに突き刺さった。

 ……オウンゴールだ。

 先ほどの得点シーンも客観的にかなりみっともないものであったが、その非ではないほどに情けない失点をしてしまった熱海エスターテであった。

 しん。

 と、静まり返っていた。

 熱海エスターテの、応援席が。

 隣の心臓の音すら聞こえるのでは、というくらいに。

 対する津市水産側応援席は、サポーターもそうでない者も立ち上がって、拍手喝采だ。

 数秒後、熱海エスターテサポーターたちの、内部から膨れ上がる怒りが、身を覆っていた氷の空気を爆発させて吹き飛ばした。


「練習してんのかお前!」

「タロ、てめえ!」

「てめえ、それでも去年までプロか!」


 まず、槍玉に上がったのがGK山田太郎であった。

 山田太郎は、降格にあたってプロ契約を解除された選手である。移籍先を探したがどこも雇ってくれるところがなく、職を斡旋して貰って本年も熱海エスターテに在籍している。

 彼はゴール前でひざまずいて、地面をばんばんと叩いて悔しがっている。


「ノリヲかおめーは!」


 ジロさんが怒りの形相で叫んでいる。

 なんのためにカップ麺六杯も食ったと思ってんだ。というところであろうか。


「キーパーのタロさんを責めてもしょうがないって。前目のポジション取るのはいつものこと。単純に石垣のクリアミスが原因、しいていえばこの前のタツの退場が原因、だから層の薄さが原因なんだよ」


 分析好きの飯田氏が偉そうに語っているが、周囲コアサポ誰も聞いていない。

 聞いてはいないが、層の薄さということは、確かにもっともなことではあろう。

 熱海エスターテの登録選手数は、去年は二十九人うちプロ契約九人であった。しかし今年は、登録選手数二十三人うちプロ契約三人だ。

 しかも大半の選手が離脱して大幅に入れ替わっているため、選手の技術レベル平均値は相当に落ちている。

 個々の連係、戦術の浸透といったチーム力がついているならばまだしも、監督はまだ戦術を模索中の段階。

 そうした点を考えると、このような試合展開、ある意味必然だったのかも知れない。

 津市水産サポーターは、追い越せムードで大盛り上がりだ。

 どんどんどんどん、とかき鳴らされる太鼓。

 拍手がやまない。


「うるせーーーっ!」


 と手針は叫ぶものの、届くはずもない。というか、届いたところでやめるはずもない。


「くそったれが。おれのミネミネが、おれのミネミネが絶対に点を取る!」


 しかし手針の大好きなみねざきみつたかも、相手の執拗なマークに自由にさせて貰えず、刻々と時計の針ばかりが進んでいく。

 しかしそんな中、ついに奇跡が!

 ……起こらなかった。

 なんにも。

 あっさりと、タイムアップを告げる笛が鳴った。

 熱海エスターテサポーターは、まるで示し合わせたかのように同じタイミングでがっくりとうなだれる。

 反対に、津市水産の側は拍手喝采だ。

 世の無常。勝ち点1ずつ分け合ったというのに、あきらかに存在する勝者と敗者。

 空を見上げると、絵に描いたような雲がぽっかり、ぽっかりと漂っている。

 さわやかな陽気。

 とても心地よい風が吹いている。

 それはもう、悲しいくらいに。

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