第二章 オレンジと緑のエクスタシー

      1

「オレンジと緑のォ!」


 ばりきよみつは、バチを持った両腕を高く振り上げた。

 か、か、か、か、どんがっ、どんがっ、どんがっ、どんがっ、と太鼓側面、そして皮を叩き、叫ぶ。


「エクスタシー!」

「ソイヤッ! ソイヤッ!」


 オレンジユニフォームを着た我らが熱海サポーターたちが、手針の音頭に烈火のごとき大噴火を始めた。


「エクスタシー!」

「ソイヤッ! ソイヤッ!」

「あっ! たっ! みっ!」

「オイオイオイオイ!」

「あっ! たっ! みっ!」

「オイオイオイオイ!」

「さっ! いっ! きょっ! ウッ! えっ! すっ! たっ! あぁ! てっ!」

「エクスタシー!」

「ソイヤッ! ソイヤッ!」

「エクスタシー!」

「ソイヤッ! ソイヤッ!」

「さっ! いっ! きょっ! ウッ! えっ! すっ! たっ! あぁ! てっ!」


 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!


 一昨年より使用されている、チームの応援コールだ。

 今日はアウェイでの試合である。

 ピッチ上では、両チームの選手たちがウォーミングアップを行っている。

 サポーターたちは、続いて選手個人の応援コールに入った。


「ゲットゴール! ゲットゴール! かり~や~。 ゲットゴール! ゲットゴール! かり~や~。 かりようすけ! ゲットゴール!」


「みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! お~お~ おれたちのファンタジスタ。お~お~ 今日も見~せ~てえくれ~ みねざきみつたか!」


「がんばれ やっまだ たろう 失点しないでよ~♪」


「マーキト なつマーキト  るるるるーるーるーるーるーるるー マーキト 夏田マーキト まーきーとー製薬~♪」


「奪取ダッシュ! しが~ 奪取ダッシュ! しが~ ダダダッ ダッダッダ しゆう!」


 手針の太鼓による音頭で、選手の応援コールが進行していく。

 熱海エスターテのユニフォームを着て応援に来ているサポーターは、今日は三十人ほどだ。

 これもアウェイの洗礼なのか、座席はなく、全員立ち見である。まあ、席があってもいつも立っているが。

 熱海エスターテの選手は、アウエィであるがファーストユニフォーム、橙色のシャツに緑のパンツだ。熱海をイメージしたカラー、ということらしいが、熱海ということで、JR東海道線の車両に使われている湘南色とも掛けているのかも知れない。

 なお、対戦相手は、ホームチームだというのに上下とも真っ白だ。

 両チームの選手たちは、それぞれハーフコート中央に集まって円陣を組み、掛け声を飛ばし合うと、それぞれのポジションへと散らばった。

 土のグラウンド、その中に引かれたセンターサークルの中心で、相手チームのFWはボールを踏みつけてキックオフの笛を待つ。


「おおおお~~~~~~」


 と、熱海エスターテサポーターは突き出した手のひらを、ひらひら揺すっている。

 主審の笛が鳴った。


「オーイ!」


 サポーター、腕を天に突き上げた。

 試合開始だ。

 相手FWは、いったん後ろにボールを戻す。


 ドンドン ドドドドン


 手針清光は、ゆっくりしたリズムで太鼓を叩く。

 この太鼓のリズム、手針はかなり勝敗にかかわる重要なものであると認識している。

 選手の気持ちに与える影響は少なくないと思うからだ。

 しかし単なる自己主張ではいけない。選手を操作しようとするものではいけない。

 選手の気持ち、チームの流れを汲み取り、それを後押しするものでなければならない。

 一点のリードを必死に守ろうとしている選手たちに、攻めろ攻めろやドンドコドンドコとやっていても試合を無茶苦茶にしてしまうだけだから。

 ホームなのに純白ユニフォーム姿の対戦相手は、ボールを回しながら様子を見ている。いや、そのつもりだったが、単にボールを回させられていただけであったことに、すぐ気付くことになる。

 網にかかっていた!

 ボールを持っていたMFの選手がそう思ったであろう時には、既に熱海の選手に囲まれて、さらにはパスの出しどころも限定されていた。

 それでもパスを出すべきか、それとも強引に仕掛けるべきか、躊躇してしまったためかは分からないが、とにかくほんの一瞬の隙に、熱海エスターテのMF峰崎光孝は走り寄り、ボールを奪い取っていた。

 峰崎はすぐさま前線へとパスを出した。彼は基本的に球離れが良く、しかしドリブルで相手を抜くテクニックも相当なものであるため、行動の予測がし難い。小柄だが、トップ下として活躍し、他の選手からの信頼も厚い。


 ドンドンドドドンドンドンドドドン!


 太鼓のリズムが若干速くなる。

 かりようすけなまむぎのツートップは、発射台から放たれたロケットのように、二人だけで相手守備を翻弄し、どんどん切り込んでいく。


「チョウさん行けっ!」


 応援席で太鼓を叩きながら、手針は叫んだ。なお、チョウさんとは、名前の響きからくる狩屋洋介の通称である。

 その叫びに応えて、というわけではないだろうが、狩屋はミドルシュートを放った。

 相手のGKの脇を抜けるかと思われたが、GKは鋭い反応で手を出して弾いた。浮き球に反応したムギこと生麦由紀矢が倒れながらヘディングでねじ込もうとするが、残念ながらボールは横にそれて枠を外れてしまった。


「なまむぎゆきやはできる子よ~。ゴール量産決めてくれ~。ムギムギイ~~~~。生麦由紀矢!」


「ゲットゴール! ゲットゴール! かり~や~。 ゲットゴール! ゲットゴール! かり~や~。 狩屋洋介! ゲットゴール!」


 ゴールこそならなかったが、立て続けに得点チャンスを作った二人のFWに、サポーターは応援コールを送った。


「今日は絶対に勝つぜえ!」


 手針の隣で、ムキムキマッチョのジロさんが、袖を肩までまくりあげて、腕の筋肉をムキムキさせている。彼は運送会社に長年勤めており、とにかく筋肉が凄いのだ。

 熱海エスターテはボールを支配するが、相手はがっちり引いてしまって、なかなか決定機を作り出すことが出来ない。

 だが、前半二十五分、ついに熱海エスターテが先制する。峰崎光孝がFKを直接決めたのだ。逆をつかれたGKは、ぴくりとも反応することが出来なかった。


「おおっしゃ、先制だ!」

「おれのミネミネ!」


 ドンドンドンドンドンドンドンドン!


 手針清光、太鼓の乱れ打ち。


「みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! お~お~ おれたちのファンタジスタ。峰崎光孝!」


 サポーターの大合唱だ。今日来ている熱海エスターテのサポーターは三十人ほどと数は少ないが、それだけに一人一人の声を出す意識は高いのであろう。

 なおも守備的に行くべきか点を取り返しに行くべきか、相手側にそんな迷いでも生じたのだろうか。白ユニフォームのチームワークがやや乱れ出した。

 峰崎はその隙を見逃さず、ボールをインターセプト、少しドリブルで駆け上がると、クロスボールを上げる。

 まったくプレッシャーのかかっていない状態ということもあるが、それを差し引いても実に精度の高いボールであった。

 相手GKとDFとの間を狙ったボールだ。駆け上がって来ていたボランチのなつまきが、落下地点へと超加速、走り幅跳びのようにジャンプしながらのヘディングシュートで、あっさりとゴールネットを揺らした。

 熱海エスターテ、二点目だ。


 ドンドンドンドン!


 激しい太鼓の音。


「マーキト 夏田マーキト るるるるーるーるーるーるーるるー マーキト 夏田マーキト まーきーとー製薬~♪」


 また、サポーターの大声援だ。


「誰だよマキト役に立たねえなんていってたのは! 誰だよ一番の穴だなんていってたのはよ!」


 個人的に夏田牧人のことが大好きなジロさん、一人で興奮しておおはしゃぎだ。幸せ独り占めだ。

 相手チームは、これ以上点差を広げられないよう守備的にいくことをはっきりさせたようで、熱海エスターテは追加点を奪えないまま前半終了。

 しかし後半、熱海エスターテは再び爆発した。

 ハーフタイムの選手交代で、ドリブラーのみやけんぞうを出したことが功を奏したのだ。彼は本来FWの選手だが、トップ下の峰崎の近くを衛生のように走り回ったことで、マークのきつさに手を焼いていた峰崎が息を吹き返したのである。

 いうなればダブルトップ下とでもいう役割で二人は中盤を支配し、前線に何度も決定的なパスを供給していく。時には二人で駆け上がり、抜群のワンツーコンビネーションで相手ゴールを脅かす。

 相手は、完全に混乱してしまっていた。

 こうなれば得点の生まれるのは時間の問題というものであり、そして実際に得点は生まれた。


 後半十分、峰崎のコーナーキックから、DFのおちたつみがヘディングで、


 同二十六分、狩屋洋介のシュートがポストに当たり、跳ね返りを野々宮健三がジャンピングボレー、


 同三十九分、ボランチの志賀修司がドリブルで五人を抜いてゴール。


 そして、タイムアップの笛。

 5-0での勝利。完勝だ。


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 あらためて熱海エスターテサポーターは歓喜に爆発した。


「勝ったぜー!」

「しかも5-0、すげえ!」

「おれのミネミネ~!」

「オレンジと緑のエクスタシィィ!」

「銀河最強軍団!」

「これからも勝ち続けるぜえ!」


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 まるでお祭り騒ぎのサポーターの前に、黒いスーツを着た女性が歩いて来て、向かい合った。

 熱海エスターテ広報担当の、たけなおだ。彼女は、あきらかに不機嫌な顔をしている。


「あの、みなさん。応援していただけるのは有難いんですが……」


 その不機嫌顔を隠しもせず、しかし大人の良識というべきか口調はぐっとこらえているような感じで、サポーターたちへ言葉を発した。


「関係者のご好意で、サポーターの入場を認めて貰ってるんですよ。わたしたちは、練習試合で高校のグラウンドにお邪魔している立場なんですから、騒がしすぎるのは迷惑です。さっき、ハーフタイムにもいったでしょ! テバ、話を聞け! だいたいなあに、このはしゃぎっぷり。相手高校生でしょうが!」


     2

 「居酒屋こてきゅう」熱海駅すぐそばにある、古びたお店だ。

 熱海エスターテサポーターたちは、ここで勝利の宴を開いていた。

 地域リーグ降格により今年はチケット代は無料だし、遠征費用もあまりかからない。そのためか今年は、試合に勝ったにせよ負けたにせよ、なにかにかこつけては飲んでいる。

 昨日は格下の津市水産に追いつかれてのドローで「敗者気分の酒」をたっぷり飲んだばかりだというのに。

 まあ、だからこそ、勝利の宴でモヤモヤをすべて吹っ飛ばしたかったのであろう。


 だがしかし……


 勝利の宴のはずなのに、飲めば飲むほどにみなのテンションが下がっていく。

 飲む前や、飲み始めてしばらくの間は、勝利に浮かれてみんなではしゃぎまくっていたというのに。

 要は、アルコールが本心本音を引き出しているということであった。アルコールの前では、自己欺瞞も限界があるということであった。


「勝ったっていってもよう」

「高校生じゃなあ」

「しかもさあ、たけさん、余計なこと教えてくれたよなあ」

「そうそう。昨日、大事な試合があったとかで、主力は全然出てなかったって」

「でもさ、相手が二軍とはいえ、おれたちだって昨日は津市水産とやって疲れているからな。それで一応快勝したんだし、悪くないんじゃないの」

「まあ、そうなんだけどさあ」

「しかし、リーグ戦、勝てねえよなあ」

「勝てねえなあ」


 はーあ、がっくり。

 酒のコップを片手に、うなだれるコアサポの面々。


 本年度の東海社会人リーグ第一部は、既に三節までが行われている。

 初戦の相手、いなべ製粉にこそ2-0で勝利したものの、第二節はJFL復帰とJ昇格を目指すライバルであるライナマーレ岡崎に0-1で負け、昨日の第三節、津市水産には1-1の引き分けだ。

 まだたかだが三試合が終わっただけとはいえ、プロ契約選手もいるJリーグ入りを目指すチームとしては、お世辞にも良い成績とはいえない。どんなに譲歩しても、許容戦績は二勝一分けだ。

 大幅に選手が入れ替わったとはいえ、JFLで戦ってきた選手だってたくさんおり、ここはそれより下位のリーグなのだから。


「でも、ポジティブに考えると、今日の試合、収穫もあったな。相手が高校生とはいえ、いろいろと見えてきたもの、あるよな」

「引かれたときにミネをどうするかなんて、はっきり答え出たしね」

「ボランチの攻め上がりについてもね。うちリーグ戦で、毎試合失点しているとはいえ、そこそこ守備は安定していると思うんだ。大崩れはしていない。毎試合、やっちまったなってのがあるのは、ほんとに集中して欲しいところだけど。とにかく、あとはやっぱり得点だと思う。守りつつ、どう二点目を取るか。攻撃サッカーが売りのチームなのに、なんか逆になっちゃっているけど」

「確かにリスク管理しっかりしつつも、もっと効果的に攻め上がれれば、相手を押し込めることが出来て、失点も減るよな。いまのエスタってさ、攻撃的に行こうとしているのは分かるんだけど、どう攻撃的に行こうとしているのかがいまいち見えなくて、それでどうにも迫力がないんだよな。まだ意思疎通が発展途上なんだよ。だから津市水産なんかとも引き分けてしまう」

「よし、後ろの攻撃参加のタイミングと、ミネミネのフォロー。帰ったら、ごちゃんねるに書き込むか」


 ごちゃんねる、超有名なインターネットの掲示板である。


「希望が出てきたな」

「まだまだ今シーズンは始まったばかり、ライナマーレのくそったれを抜いて、絶対に決勝大会に行くぞ!」


 手針清光は太鼓を取り出し、野太い雄叫びを張り上げるとバチを叩き始めた。

 JFLに戻るために。

 そして、Jに上がるために。

 ロードトゥJ!


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 ドドンドドンドン!


「熱海エスターテ!」


 手針の太鼓に合わせ、みな両腕を突き上げ、大声で叫ぶ。

 狭い居酒屋で。


「最強エスターテ!」

「オレンジと緑のエクスタシー!」


 ジロさんは、ぐいぐいーっとジョッキを干した。


「あんたたち、いくら常連だからって騒ぎすぎ! エクスタシーじゃないよ、バカ! 太鼓叩くのは貸し切りのときだけっていってるでしょ、この太っちょ!」


 女将さんに怒鳴られて、みなしゅんと肩を縮めてしまったのであった。


 その後も、勝者なのに敗者気分に満ち満ちた宴は続き、翌日、手針は二日酔いで仕事を休んだ。


     3

「こんにちは、熱海エスターテというJリーグ入りを目指している素晴らしいサッカークラブがありまして、地元住民としては頑張っている彼らをぜひとも応援しようじゃありませんか、と、つきましては試合告知のポスターなどを張らせて頂きたいのですが」


 金物屋に入るなり、はりきよみつは奥のカウンターにいる禿げ頭の店主に腰低く揉み手で話し掛けた。


「エスターテはよく知ってるけど、弱いし、降格したじゃないか。ポスター張ってもメリットないし、面倒なだけだから、今回は見送らせてよ」


 弱いし、って、知らねえじゃねえか! いま調子が悪いだけだ。だから応援すんじゃねえか。バカか。店潰れろや。

 しかし、手針清光は大人の男の子だ。怒りをぐっとこらえ、なにかあればまたよろしくお願いします、と金物屋を出た。

 ここは熱海すずらん商店街、何人かで手分けをしてお店を巡っている。

 最初は町内会にかけあってみたのだが、町内会としての協力は出来ないから、それぞれのお店で個別に頼んでみてくれと突き放されてしまったのだ。

 手針はめげずに、隣の店に入った。

 和菓子屋だ。

 木製の小さなカウンターの向こうに、少年が一人ぽつんと座っている。

 小学生の高学年か、せいぜいが中学生になったばかりといった感じだ。

 もともとの顔の造りなのか、なにかあったのかは分からないが、不機嫌そうな、むくれているような様子。


「なあ坊主、店番? えらいねえ。お父さんお母さんいる? 熱海エスターテってサッカーチームの(ファンの)者なんだけど」


 声を掛けた。

 少年は表情変えずにすっと立ち上がったと思うと、手針のほうへ小走りに寄ってきた。と思う間もなく、手針は脛を蹴飛ばされていた。


「いてっつ!」


 思わず悲鳴を上げる手針の、今度は反対の足に蹴りが炸裂。回り込んで膝の裏からの蹴りだったので、手針の巨体は膝かっくんの原理でバランスを崩し、尻餅をついて後ろに倒れてしまった。


「なにすんだ、てめえコラア! いてっ! 殺すぞ! てっ! ヤメレラア!」


 野太いガラガラ声で凄むも虚しく、全身を蹴られまくっている手針清光。最後のヤメレラアは別に呪文でも熱海弁でもなく、おそらくヤメロやコラアがごっちゃになったものであろう。

 手針は倒れながらも腕を背中に回し、ぼこすか蹴られながらも必死に、背負っているリュックを開けようとしている。

 覆面を取り出そうとしていると思われる。


「変身さえ……変身さえ出来れば、一瞬で宇宙の果てまでふっとばしてやるぜ」


 やはり……

 しかし、伸ばした腕を蹴られ、無防備になっていた腹部を蹴られ、顔を蹴られ、背中を蹴られ、大事なとこも蹴られて、なすすべなく、俗にいうフルボッコ。


「痛い痛い痛い痛い」


 手針清光三十三歳、とうとう泣き出してしまった。


「情けないなあ」


 熱海エスターテのサポーター仲間であるシゲさんが、店の入り口に立っていた。

 白い上下の服に、帽子をかぶっている。彼はこの和菓子屋の二つ隣で、ケーキ屋を営業しているのだ。

 聞き覚えのあるみっともない泣き声に、駆けつけたというわけだろう。


「おいゆう君、なにがあったか知らないけど、もう勘弁してやりな。おじちゃん泣いちゃってるよ。弱い者いじめはやめなさい」


 雄太と呼ばれた少年は、ようやく我に返ったのか、手針への攻撃をやめた。

 少年、雄太は蹴り疲れたのか、ぜいぜいと肩で呼吸している。

 手針が脂肪まみれのもにょんもにょんの身体なので、蹴るにも想像以上に体力を消耗するのかも知れない。

 いや……

 そういう問題では、ないのかも知れない。

 雄太の態度が、明らかにおかしかった。

 呼吸が段々と荒く、大きくなってきたかと思うと、よろけるように膝を付き、次いで両手を付いた。

 四つんばいのまま顔を苦痛に歪め、なおも喘ぎ続けている。

 ヒュー、ヒュー、とまるで笛の音のような、あきらかにおかしな呼吸になっていた。重度の喘息症状のように、まともに呼吸が出来ない状態になっているのだ。

 どんどんどんどん、と、店の奥で階段を下りてくる慌てたような足音が聞こえ、店の主人、おそらく少年の父親、が姿をあらわした。そして、苦しんでいる息子に気が付くと、その隣で、まだ蹴られた痛みに呻きながらごろごろ転がっている手針を見て、怒鳴り付けた。


「あ、あんた、雄太になにをしたんだ!」

「一方的に蹴られていただけですう!」


 大人の男の子は、情けない声を上げた。


     4

 ここにシゲさんがいなかったら、手針清光は今頃警察署の鉄格子を握り締めながら、最強エスターテなどと叫んでいるところだったかも知れない。

 シゲさんがいてくれたことで、手針が怪しい者……ではあるものの、少なくとも少年に危害を加えていたわけではないことが証明されたのだから。

 あらためて手針がここに訪れた理由を話したところ、今度は主人が、先ほどの雄太少年のように不機嫌そうな顔になった。

 手針は反射的に、「ひいっ!」と叫びながら屈んで両の脛をガードしたが、別に蹴りかかられることもなく、単に手針がアホのような格好になっただけであった。


「うちのせがれ、いまガリッガリになっちゃって、もともと背が低いのもあって小学生に見えますが、これでも中二なんですがね。小学生の時に、心臓のあたり、手術しましてね。成功する確率半分もないってくらいの、そりゃあ大手術。このままじゃ死を待つばかりだったから、やるしかなかった。一応成功で、一命はとりとめたものの、心肺や筋肉がもの凄く落っこちちゃいましてね、走れない体になっちまってるんですよ。ちょっと動くと、さっきの通り、呼吸も出来ない。……こいつね、その病気になるまでは、ずっと、サッカーやってたんですよ」


 そういうと、それきり主人は口をつぐんだ。ちょっと、涙ぐんでいるようにも見えた。

 当人である雄太は、恥ずかしそうな、怒ったような、なんともいえない気持ちをその顔に浮かべて、ただ下を向いている。

 シゲさんも手針も、言葉が見つからず、しばし黙っていたが、やがて、手針はおもむろに口を開いた。


「おれ、赤の他人だから、無責任なこというよ。おれさあ、こんな太っているからかなのか、そんなだから太っているのか分からないけど、スポーツまったくやったことないんだよね。小学校の体育くらい。中学になると、もうサボッて授業に出なかったよ。今後もそうだと思う。スポーツ苦手、動くの嫌い。でもさ、熱海エスターテって知ってる? サッカーチーム。そこのサポーターとして、試合に関わっているぜ。そういうのってダメなの? 十二人目の選手じゃダメなの? 老若男女、なりたいと思えば誰でもなれるし、選手なんだから負ければクソ悔しいけど、勝てば喜びは極上だぜ」

「うるせえな、デブ! クソデブ! 自分でさあ、自分で走ってさあ、ボール蹴れないんじゃ意味ないだろ! ふざけたこといってんじゃねえよ!」


     5

「てことがあってさあ」


 ばりきよみつは背もたれのある椅子に逆向きに座り、肥満した肉体を右に左にと回転させている。

 椅子がぎちっぎちっと音を立てて、いまにも壊れそうだ。というか一度壊してしまい、弁償させられたこともある。


「それは可哀想だね。でもサポーターになれなんて強制はよくないよ」


 たけなおも手針のように椅子に反対向きに座って、ぎゅいんぎゅいんと回転させている。


「まあね。で、なんであんたがおれの座り方マネしてんの?」

「楽しいのかなあって。思わず壊しちゃうくらい。全然楽しくなかった。弁償するだけ無駄だから普通に座ったら?」


 ここは熱海エスターテの事務所だ。事務所というと聞こえは良いが、プレハブの、揺れれば崩れ吹けば飛ぶような建物だ。

 このような建物を事務所としているには、経緯がある。

 以前はこの建物の隣にもっと立派な、というか普通の建物があり、その一室を山岸製作所サッカー部の部室として使用していた。Jリーグを目指す熱海エスターテというクラブへと生まれ変わったのと同時に、その建物はクラブ専用の所有物になった。

 JFLでの好成績により、念願のJ2参入を視野に入れ、建物を取り壊して新しくすることになった。

 そうして、一時避難のためにこのプレハブ事務所が建ったわけだが、結局J2参入を果たせなかったどころか地域リーグに降格してしまったため、事務所新築どころではなくなってしまったのだ。

 手針がサポーターになってから、スタッフの手伝いをしたあとにお茶に呼ばれてこの事務所にお邪魔することは何度もあったが、地域リーグ降格により、ますます組織が少人数になって入りやすくなった。ちょっとした提案や相談ごとがあると、気軽に立ち寄ってしまう。

 手針は、ジロさんと二人で一緒に来ることが多いのだが、今日は一人だ。

 余談だが、ここのすぐ近くに練習場があるが、選手や監督とは、決して会わないようにしている。

 へらへらサイン求めたりチョコあげたりしていては、それではただのファンになってしまうから、とコアサポ仲間同士で決めた約束事だ。

 十二番目の選手なのだから、と。

 手針の着ているレプリカユニフォームには、サインが書かれているのだが、それは手針本人のものである。サポーターとしてそれっぽい雰囲気のユニフォームにしたいが、選手には会いたくないので、だから自分で書いたのだ。


「みなさん、コーヒー入りましたよ~」


 副務のしゆんが、コーヒーカップの乗ったトレイを運んできた。


「お、ありがとうね。じゃ、テバさんの持ってきてくれた、シゲさんのケーキいただきましょう」


 夜竹直子がトレイを受け取り、カップをテーブルに並べた。


「それはいいですが、そもそもなんでボクが職場でコーヒー入れなきゃならないんですか。こういうのって女性の仕事でしょ」


 木戸俊二は雀の巣のようなもじゃもじゃ頭を引っ掻こうとして、手を止めた。目の前の怖い姉御に、フケ落とすなと殴られるからであろう。


「おっと、いまどきそんなこといってるの知られたら、なんたら団体から抗議来るよ~。別に男がお茶くみしたっていいじゃん。木戸君のコーヒー美味しいよ。適材適所だよ」

「また、よく分からんことを。……適材適所ってのなら、有能なボクがこんなとこでこんな仕事してるわけないでしょ」


 聞かれないよう最後の方を小声でぼそぼそ木戸俊二、血液型はA。


「みんな寄っといで」


 夜竹は、ケーキの箱を開いた。

 周りにいた数名のスタッフたちが、わっと集まってきた。


「あ、それ、その栗のモンブラン、オレ予約してっからね」


 手針清光が、ドスのきいたガラガラ声で叫ぶ。


「みみっちいこというね、テバさん。三十過ぎた大人が」


 夜竹は、自分用にイチゴのショートを取り分けた。


「伊達に太ってねえよ」


 手針は自分の腹を叩いた。ばんと音でもなればまだしもであったが、もにょ、とめり込んだだけであった。


「じゃあね、ボクは、そのチョコの、表面テカテカしてんのがいい。あ、そうだそうだ。テバさん、さっきの話ね、コーヒーいれながら聞いてたけど、ボクにいい案があるよ」

「なに?」


 手針の問いに、木戸俊二はすぐには答えず、うふふといやらしく笑うばかりだった。


     6

 五月三十日 日曜日

 東海社会人一部リーグ 第四節

 熱海エスターテ 対 飛騨フォーコーダ

 会場 熱海市かもめ公園陸上競技場。


 フォーコーダは、熱海エスターテやライナマーレ岡崎と同様にJリーグ参入を目指している。

 他の二クラブがJFLから堕ちてきたのに対し、飛騨フォーコーダは地域リーグ二部からの昇格組だ。

 元Jリーガーを何人も補強したことに、昇格したばかりという勢いも手伝って、開幕から無傷の三連勝。ある意味で、一番やっかいな存在といえた。

 熱海エスターテは、橙色のシャツに緑のパンツ。

 アウェイの飛騨フォーコーダは、白いシャツに黒いパンツのセカンドユニフォーム。色は地味だが、あまりない組み合わせだ。

 もっと印象的なのが半袖から出ているインナーで、鎖帷子模様。忍者をイメージしているとのことだ。

 ちなみにホームで着るファーストユニフォームは上下ともに黒で、やはり鎖帷子インナー。とにかくユニフォームのインパクトが強いことで有名なクラブだ。


 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!


 今日もばりきよみつたちコアサポは、ゴール裏に陣取り、太鼓の音に合わせて声を張り上げている。

 あんな山奥の、スタジアムまでのアクセスが凄まじく悪い、隣県からの観戦であっても一泊するべきかどうか悩んでしまうような人外魔境なクラブを、全国区へ上げるわけにはいかないのだ。

 手針、長老さん、シゲさん、ジロさん、我孫子夫妻、ダーヤマ君、シュリンプ、いい氏、はたおか君(たまに彼女を連れてくるが今日は一人)、中心地帯はいつもの面々。だが今日はその中に、普段見ない顔が。

 商店街の和菓子屋の息子、みずしまゆうだ。文句いう前に一度試合を観ろ、と、手針がなかば強引に連れて来てしまったのだ。


 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!


「無駄にうるせえ!」


 少年はしかめっ面で、両手で耳を塞いでいる。


「無駄じゃねえんだよ無駄じゃあ。うるさいほどいいんだよ。応援団のフリェ~~ッ! ってガラガラ叫ぶのと一緒。必死さが伝わることで、選手の力になるんだから」


 手針清光、いうまでもないが今日もプロレスラーのような覆面姿だ。

 既に試合は始まっている。

 かなり進んでおり、現在、前半の三十分だ。

 まだどちらにも、得点は生まれていない。

 熱海エスターテは、前節は情けない失点をしてしまったが、今日はDFのおちたつみが出場停止明けで戻っており守備が安定している。

 中盤もかなり支配している。

 何度か決定的なチャンスも作っており、得点は時間の問題と思われた。

 しかし、今まで様子をうかがっていただけだったのか、段々と飛騨フォーコーダの勢いが増してきた。

 熱海エスターテは、少しずつ押し込まれるようになっていた。

 いつしか、完全に飛騨フォーコーダのペースになっていた。

 熱海エスターテの選手がボールを奪っても、鬼のようなプレスにパスミスを誘われ、すぐにボールを奪われてしまう。

 熱海エスターテの選手たち、そしてサポーターたちにとって、我慢の時間帯が続いた。結局、流れを取り戻すことが出来ないまま、前半四十分に失点した。ワンツーで抜け出した飛騨のFWえんどうゆうの見事なミドルシュートが決まってしまったのだ。

 失点によって、攻め急ぐべきかじっくり行くべきかのチーム意識が混乱したのか、選手の動きがちぐはぐになってしまい、ますます相手のいいように攻められ続けることになった。

 GKやまろうの横っ飛びファインセーブや果敢な飛び出しによるクリアなど、前節の汚名返上の活躍もあって、なんとか0-1のまま前半を終えることが出来た。


「ほら、応援なんて、意味ないじゃんか。こっちのが、向こうより応援の人数ウジャウジャいるのに、いいようにボール回されて失点したじゃんか。金があって優秀な選手を集めたほうが勝つんだよ」


 水島雄太は怒っているような、悔しがっているような、複雑な表情を浮かべていた。


「バカだな。だから応援するんだろうが。だから勝つと嬉しいんだろうがよ」


 手針は即答した。


「意味分かんねえ」


 雄太は一瞬そっぽを向いたが、すぐにピッチ上へと視線を戻した。

 選手が控え室へと引き上げていくところだ。


「応援することで、ピッチ上を走る十二番目の選手になれる。ある意味、選手以上に嬉しいポジションだぞ。シュート決めるのも自分、ミラクルセーブも自分、がっかりして悲しむのも自分。選手と一体になって本気になれるから、負けて悔しいから、だから勝って嬉しい」


 手針は一人で語り続けている。


「おい、なんかテバちゃんがまともなこといってるよ」

「いつも、殺せとか、うっしゃミラクル、とかしかいわないくせに」


 シゲさんたちがひそひそ話している。

 手針の地獄耳は、それをしっかり拾ったようで、


「うるせえな! おれはいつもまともなことしかいわねえよ」


 ドン、と太鼓を鳴らした。

 さて、ピッチに選手たちが戻ってきた。

 ハーフタイムも終了し、後半戦が始まった。

 熱海エスターテに、選手交代があった。


 OUT ぐれけんぞう

 IN なんばらあつひと


 DFの選手を外し、代わりに本来MFの南原圧人を右SBとして投入した。


「おい、急造4バックかよ」


 ジロさんが心配そうに呟く。マッチョな腕の筋肉が、不安にぴるぴると弱々しく震えている。

 だが、後半のキックオフとともに、不安ぴるぴるはすぐに払拭された。

 パスが繋がる。

 フォーメーションをいじったこともあるが、選手の意識変化も大きいのではないだろうか。それほどに、ボールを保持した相手への寄せが早く、激しくなっていた。

 いまは熱海エスターテの流れ。我慢の時間。そう判断したのか、飛騨フォーコーダは引いて守ることを選択した。それは閉じた貝殻のように、がっちりと硬かった。こじ開けること、容易ではない。

 その硬い貝殻を、熱海エスターテはこじ開けるのではなく、蹴り砕いてみせた。それはみねざきみつたかの個人技によって。

 強引なドリブル突破で三人を抜いてシュート、GKが両手で弾いたボールに自ら反応してヘディングシュート。それが、ゴールネットに突き刺さったのだ。

 同点に追いついた。

 熱海エスターテサポーターは一斉に雄叫びをあげた。


 ドンドンドンドンドン!


 手針による太鼓の乱れ打ち。


「な、信じればチームは応えてくれる。これが十二番目の選手の役割なわけよ」


 手針の言葉にまるで反応を見せず、水島雄太はただ無言で、ピッチに視線を向けていた。

 流れを引き寄せ、同点に追いついたことにより、選手の動きはさらに活発化した。

 こういう良い流れのときに点を取れないと、勝利の女神は逃げていく。とにかくチャンスを作ること。それにはとにかく上がって、厚みのある攻撃をすること。選手たちからは、そのような気迫が感じられた。

 熱海エスターテはもともと攻撃的なチームなのだし、選手たちが攻撃的に行こうというのならば、サポーターはそれを鼓舞するだけだ。手針は両手のバチを握り直した。


  ドンドドン ドドドドン

  ドンドドン ドドドドン


 まるで民族音楽のような、不思議な太鼓のリズム。


  ドンドドン ドドドドン


  熱海 オレー!


  ドンドドン ドドドドン


  熱海 オレー!


 手針の叩く太鼓に合わせて、サポーターたちは叫ぶ。

 去年から採用されている、ガンガンいこうぜのときなどに使われる応援歌だ。

 それが選手たちを盛り上げたのか、熱海エスターテの凄まじい攻撃が始まった。

 基本は、単純なプレス。ただその気迫が凄まじい。飛騨フォーコーダの選手がボールを持つと数人の選手が猛烈な勢いで囲い込み、奪いに行く。

 プレスを恐れてその場逃れのロングボールを蹴っても、熱海エスターテDFがボールを受けるや、津波のようにざあっと全員で上がって飛騨の選手を飲み込んでしまう。

 飛騨フォーコーダは、すっかり防戦一方になっていた。

 敵陣で素早いパスを回す熱海エスターテの選手たち。そして志賀修司が、パスと見せかけ相手DFをフェイントでかわし、飛び出した。

 その瞬間であった。

 応援席からの、叫び声。


「行け~!」


 それは、雄太少年の絶叫であった。

 志賀修司は、GKと一対一なった。

 GKが飛び出したが、志賀修司はその動きを見ながら、丁寧にゴールへと流し込んだ。

 ゴールネットが揺れた。

 熱海エスターテ、逆転だ。


「よっしゃあ!」


 雄太は、両拳を天に突き上げた。

 志賀修司は喜び、両腕を広げてゴール裏のサポーターたちへと駆け寄った。


「奪取ダッシュ! しが~ 奪取ダッシュ! しが~ 志・賀・修・司!」


 サポーターは、選手コールで志賀修司の出した結果に応える。

 手針は、水島雄太の髪の毛をぐしゃぐしゃっとかき回した。

 熱海エスターテの攻勢はなおも続く。飛騨フォーコーダは逆転されたことによって攻めなければならない立場になったというのに、防戦一方でまともにボールを持つことすら出来ないでいる。

 立て続く波状攻撃から、熱海エスターテはCKを得た。

 キッカーは峰崎光孝。

 助走し、蹴った。

 ふわり、とファーへ。

 夏田牧人がジャンプして頭で折り返し、志賀修司がするりとマークをかいくぐり倒れ込むようにヘディングシュート。見事にゴールネットの中に吸い込まれた。


 3-1。

 熱海エスターテの追加点が決まった。


 志賀修司は、これで二点目だ。

 彼に走り寄り、喜び抱きつく熱海エスターテイレブン。志賀修司は、人差し指で自分の頭をちょんちょんと突付いている。「セットプレーってのは、要は頭脳の使い方」ということか。自我自賛も無理はあるまい。身長が百六十四センチしかない彼が、誰がセットプレーから点を決めると思っただろう。

 さらに時間は経過し、後半三十分。

 熱海エスターテの仕掛けるプレスも、走り疲れてきたのか少し弱くなってきた。

 しかし相変わらずリードは二点。あと十五分を耐え抜けば、そこには開幕戦以来の勝利が待っている。

 ここで熱海エスターテは、交代のカードを切った。

 

 なまむぎ アウト みやけんぞう イン

 かりようすけ アウト さつひとし イン


 先発FW二人を、控えFW二人と交代。

 それはあまりに単純な、監督からのメッセージだった。

 守備は前から。

 あわよくば、ゴールを狙え。

 これで熱海エスターテは、交代枠を使い切った。

 あとはとにかく攻める(=守る)ことだけだ。

 しかし、世の中も、サッカーの試合も、そう上手くはいかないものである。

 監督のプランはたった二分で、がらがらと崩れることになってしまった。

 理由は簡単で、ボランチの志賀修司が二分で二枚のイエローカードを貰い、退場してしまったのだ。


「ガシュー、一瞬でカレー券二枚かよ」

「二点取ったからって調子に乗ってガツガツ当たっからだよ」


 嘆くエスターテサポーター。

 かくして十人になった熱海エスターテであるが、やはり前線からの守備は捨てたくないという監督の思いからか、ボランチが夏田牧人一人になったまま、試合は続けられた。

 だが、舵取り役のボランチというのは、技術だけでなく賢さも運動量も視野の広さも求められるポジション。夏田牧人は、もともと、技術のあるほうではないし、残念ながら賢いプレーが出来るタイプでもない。実際のところ、チームの穴だと批判する者も多いくらいだ。

 なおかつ、すでに相当に疲労している。そんな状態の彼にワンボランチを任せることは、客観的に考えてかなり無理があるといえた。


「マキト、気合で行け~!」

「この試合はお前の双肩にかかっているぞ、マキト」

「マキトお!」


 必死に応援の声を張り上げるサポーターたち。

 監督が決めた作戦だ、もうこうなったら夏田牧人を応援し抜くしかない。気力で頑張ってもらうしかない。


 ドドンドドンドン なつ~だまきと!

 ドドンドドンドン なつ~だまきと!


 チーム応援の節で、夏田牧人個人を応援し始めるサポーターたち。

 その応援に、おれがチームだ! とばかりすっかりハイになってしまったのかどうかは分からないが、夏田牧人はドリブルで向かってくる相手MFを睨みつけ、


「来いや~~っ!」


 と、片腕突き出して雄叫びをあげた。

 しかし迎え撃とうにも、すでにそのMFはボールを持っていなかった。ハイになっている間に、矢は放たれていたのだ。

 ロングシュート。

 夏田牧人の脇を、唸りをあげて通り抜けたボールは、あっさりとゴールネットを揺らした。

 前に出すぎていて慌てて駆け戻ろうとしていたGK山田太郎は、間に合わず、むなしくもゴールネットの中に飛び込んだ。

 一点差に詰め寄られてしまった。


「来いやじゃねえよコラ!」

「だからマキトのワンボランチなんて無理だったんだよ、はじめからさあ。しかも相手のほうが人数多いんだから、攻められまくるに決まってんじゃん」

「誰かボランチに下げるか、選手交代しろよ!」

「もう交代枠使い切ってるっつーの」

「つーか、引けよ、全員。ドン引きでいいだろ。攻撃的チームもなにも、いまリードしてんだぞ。一人少ないんだぞ」

「監督、やっぱりあいつダメだ、使えねえ!」


 口々に漏れる、サポーターたちの悲痛な嘆き。


「テバちゃん、太鼓太鼓っ!」


 ジロさんの察することを理解した手針は、


「仕方ねえか……」


 と、諦めたような顔。

 本当は、このような操作はしたくないのだが。


 ドン ドドド ドン ドン   ドン……


 手針の叩く、太鼓のリズムが変わった。

 ひゅーどろどろのような、なんだかおどろおどろしい暗いリズム。

 その効果か分からないが、熱海エスターテの選手たちは自陣へと引きこもり、守備に専念するようになった。まあおそらくは手針の太鼓の効果というより、単に一点返されたことが原因であろうが。

 しかし、不利な側が自陣深くに籠るということは、それはそれで、飛騨フォーコーダのシュート練習相手になることを意味していた。俗にいう、サンドバッグという状態だ。

 山田太郎はやたら高い位置を取りたがることで知られているGKだが、普段彼が立っている位置よりもさらにゴールに近い場所に、敵味方のほぼ全員が集まって、攻防を繰り広げている。不本意か否かは本人のみぞ知るだが、とにかく山田自身もゴール前べったりであった。

 熱海エスターテは防戦また防戦で、息つく暇もない。弾き返しても、前線に受ける味方がいないものだから、すぐに拾われて、持ち込まれ、シュートを撃たれる。その繰り返しだ。

 完全にGK頼みの状況だ。

 サポーターたちは、山田太郎に必死の応援を送る。


「がんばれ やっまだ たっろっお~ 失点しないでよ~♪」


 サポーターたちの熱烈な願いが天に届いたのか、山田太郎はこれ以上の失点をすることはなかった。何故なら退場してしまったからである。

 ボールを持ち過ぎて遅延行為のイエローカード、それを立て続けに二回やってしまったのだ。

 熱海エスターテは、もうすでに交代枠を使い切っている。控えGKを出すことが出来ない。

 従って、フィールドプレイヤーの一人がGKのユニフォームを着なければならない。その役目は、なんばらあつひとが担うことになった。理由はおそらく、メンバーの中で一番の長身だからであろう。

 さて、それからの試合内容であるが、実に筆舌に尽くしがたいものであった。

 シュートを撃たれるたび、熱海エスターテサポーターから悲鳴があがる。

 シュートを撃たれるたび、心臓が止まりそうになる。

 たまにロングボールで大きく向こう陣地へと遠ざけても、数秒後にはもうボールは戻って来ている。上がれないのだから、前に誰も選手がいないのだから、当然だ。

 かつてこれほどまでに一秒が一分にも一時間にも感じられた試合があっただろうか。

 選手も、サポーターも、同様の気持ちであったことだろう。

 ほっとした瞬間に絶叫をあげているまさにジェットコースターサッカー。

 だが選手たちは耐えに耐え、そしてついに、待ちに待っていたその瞬間が来たのであった。

 そう。神はいることを確信した、その瞬間が。

 雲間から届く清らかなアテネの笛。いや、グラウンドにちんまり立っている禿頭のよこやまさぶろう主審の、長い笛の音が鳴り響いた。


 試合終了。

 熱海エスターテ 3-2 飛騨フォーコーダ


 これまでの不安、苛立ち、ストレスがそのまま歓喜へと転じて、サポーターたちは大爆発した。

 熱海エスターテは、この日ようやく、今シーズン二勝目をあげた。

 しかも、開幕から全勝している一番勢いのある相手に、二人の退場者を出しながらもリードを守りきったのである。

 選手たちはずらずらとゴール裏までやって来くると、横一列に並び、手を繋いだ。みんな、嬉しそうな笑顔だ。繋いだ手を高く上げ、サポーターとともに勝どきをあげた。


 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪


 サポーターは歌う。

 その後、あらためて勝どきの声をあげた。

 普段ならばここで選手は引き上げるところであるが、今日は様子が違っていた。

 ベンチの方からスーツ姿の男性が、ピッチを斜めに突っ切って歩いて来る。

 雀の巣のようなちりちり爆発頭、体はゴム人形のようにひょろひょろと細長い。

 熱海エスターテのスタッフであるしゆん副務だ。

 右手には拡声器を持っている。

 ゴール裏、サポーターの前まで来ると、チームキャプテンであるおちたつみにその拡声器を渡した。

 なにごとだろうか、とざわつくサポーター。

 落葉巽は、拡声器を口元に持っていった。


「元気ですかぁ!」


 といったのであるが、

 バリバリバリバリ! 最大音量で絶叫したため、音が割れてまったく聞き取れなかった。でもノリで、「おおー!」とサポーターたちは応えた。

 木戸俊二が慌てて横から手を伸ばし、マイク音量を調整する。


「あ~、あ~。失礼しました。えーと、熱海エスターテ、これで二勝目です!」


 おおー! と、またサポーターは咆える。


「やっぱりいま一番勢いがあるチームが相手とあって、一筋縄では行きませんでしたが、今日は絶対に勝たなければならなかったので全員が死ぬ気で頑張りました。というのも、うちのスタッフから、ある話を聞いたからです」


 落葉巽は、すこし間を置いて、また口を開く。


「ある少年が、大病を患い、心臓の手術をして助かったのですが、すっかり体が弱くなって大好きなサッカーが出来なくなってしまったのです。今日、その少年を招くと聞いて、それでぼくらは必死に戦いました。その少年に、勝利を捧げるために。ここに来てくれているのかは分かりませんが、この勝利を受け取ってくれたら、こんな嬉しいことはありません」


 また、口を閉ざし、ゆっくり周囲を見回すと、口を開いた。


「別にこのチームのファンになって欲しいとはいわない。ただ、サッカーを嫌いにならないで欲しいんです。自分を、人生を、諦めないで欲しいんです。今日の三点目、決勝点ですが、ガシューのゴールは取り消します。バカな退場して迷惑かけたし。決勝点は、その少年、そしてサポーターのみなさん、十二番目の選手の得点です!」


 うおおおおお、とサポーターは雄叫びをあげた。

 手針清光は感動の涙を流しながら、両手のバチを振るった。


 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!


「な、な、だからいっただろ。身体なんか動かせなくたって、サッカー出来るんだよ。ゴール出来るんだよ」


 しかし、手針の横に今の今までいたはずの水島雄太の姿は、既になかった。

 スタジアムには、サポーターの雄叫びがいつまでも轟いていた。


     7

 それ以来、みずしまゆうがスタジアムに姿を見せることはなかった。

 手針も、あれから一度も水島和菓子店には訪れていない。

 しかし、シゲさんから話を聞いて、少年がどうしているのかは知っている。

 一生懸命、リハビリを頑張っているとのこと。

 またサッカーが出来るように。

 そのためだけに。


     8

 これは手針もシゲさんも知らないことだが、このようなことがあったのだ。

 飛騨フォーコーダとの試合の後、水島雄太は体の奥から溢れてくるなんともいえない奇妙な感覚に困惑し、気が付くとスタジアムを飛び出していた。

 しかし、そこで心臓の発作が起きてしまい、苦しそうに胸を押さえてうずくまってしまった。

 雄太は近くにいた係員に介抱されて、熱海エスターテ事務所へと連れていかれた。

 夜竹さんという女性が、面倒を見てくれた。

 そして、夜竹さんから聞かされた。

 小学生のときに雄太と同じ病気になり、同じ手術を受けたことのある者が、いま熱海エスターテの選手として頑張っていることを。

 峰崎光孝という、元Jリーガーだ。

 雄太は、軽い驚きを感じていた。

 現在の所属は社会人リーグの選手であるものの、しかしJリーガーになれたのだ、と。

 別に雄太自身は、Jリーガーになりたいとは思っていない。

 それほど憧れも感じない。

 しかし、とにかく努力をすれば、またサッカーが出来るようになるのだ。

 努力をすれば、また走れるようになるのだ。

 自分にどこまでのことが出来るのか、それは分からない。


 でも、希望があるのなら、行けるところまで頑張ってみよう。


 自分、信じてみよう。

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