第三章 ドッグ

     1

 ピッチ内に、犬が乱入して来た。

 アップを行っている選手たちの間を縫うようにして、尻尾をくるりと背中に巻いたままハッハッと舌を出して楽しげな顔で走り回っている。

 茶色い日本犬だ。小柄なところや毛色などから、どうやら秋田犬のようだ。


「チクショウ、あのクソ犬!」


 ばりきよみつは吐き捨て、思わず太鼓のバチを持った手を、強く握り締めた。


「おれたちが土足で聖地に入り込むわけにもいかねえし」


 と、ムキムキマッチョのジロさんも、畜生の聖地乱入になんともはがゆそうな顔だ。

 他のサポーターたちも、あからさまに怒りの言葉を口にしている。


「こうなったらテバちゃんよ、おれたちの気迫で、クソ犬をピッチから追い出そうぜ」


 ジロさんは腕組みしながら、腕の筋肉をぴくんぴくんと痙攣させた。


「おう!」


 手針は太鼓を力強く叩いた。


 ドン ドン ドドドン!


「犬、出てけ!」


 自らの太鼓に合わせ、ガラガラ声で叫んだ。


 ドン ドン ドドドン!

 犬 出てけ!


 他のサポーターも手針の声に合わせ、合唱が始まった。


 いっぬ でってけ!

 ドン ドン ドドドン!

 いっぬ でってけ!

 ドン ドン ドドドン!

 いっぬ でってけ!

 ドン ドン ドドドン!

 いっぬ でってけ!


 妙なところでノリがよいというか、抜群の連係を見せる熱海エスターテサポーターたちであった。

 しかしその気迫も人の身ならぬ畜生の前には虚しく、ピッチ上に出現した動物は、一向に走り回るのをやめる気配を見せなかった。

 選手が下手に捕まえようとして怪我をするわけにはいかず、ボランティアスタッフの人たちが次々わらわらとピッチに入り込んで、捕まえようする。しかし犬はすばしっこく逃げまわり、追うは老人ばかりでは、捉えることなど出来るはずもなかった。

 だがしかし、犬は老人たちとの追いかけっこに飽きたのか、唐突に進路を変えて、観客席へと飛び込んで来た。人のほとんどいない、バックスタンドの席へ。


「ピッチから出りゃあこっちのもんよ。ぶっ飛ばしてやる」


 ゴール裏の手針は両手にバチを握り締め、バックスタンドに向けて走り出した。重戦車どころではない凄まじい肥満体のくせに、こういうときだけ妙に脚が速い。

 ジロさん、そして他のサポーターたちもあとに続いた。

 手針たちは、バックスタンド中央にたどり着いた。

 秋田犬はえてして利口そうに見えるものだが、世の中通例が十割ではない。こんなバカがいるのかというくらい能天気な感じに、犬はパッカパッカと馬みたいに跳ね回っている。

 しかしどれだけバカであろうとも、ピッチという聖地を汚した畜生であることに変わりなく、決して許される所業ではない。サポーターたちは、殺気満面、犬をぐるりと取り囲んだ。


「ここで会ったが百年目、正義の鉄拳、受けてみやがれ。お前はもう死んでいる」


 手針は、某世紀末救世主漫画の真似をして、手の指を鳴らしながら一歩前に出た。主人公を気取っているようだが、ぶくぶく肥満の見た目はどう考えてもハ○ト様なので、似合わないことこの上ない。

 ほあああ、と手針が気持ち悪い裏声で腕を振り上げた、その時であった。

 一体なにが起きたのか、突然、犬がおとなしくなった。○ート様に恐れをなしたのであろうか。

 犬は尻を地について、ちょこりんとお座りをしている。この姿しか見ていなかったら、数秒前までの究極的にアホな姿態など想像も出来ないだろう。

 手針は拍子抜けし、振り上げた手をゆっくりと下ろした。

 犬は立ち上がると、客席の一番前へと歩いていき、後ろ足だけで立ち上がって柵にもたれかかった。


「おい、これ観戦スタイルだぞ!」

「観戦犬だ!」

「なんだこの犬」


 サポーターたちは、口々に驚きの声をあげた。


「バカと思っていたら、サポーターだっ!」


 いや、バカとサポーターは同義かと。


「じゃ、そこで見てていいから、もうピッチに乱入すんじゃねえぞ。それと、熱海エスターテの方を応援すんだぞ。オレンジと緑の、エクスタシー感じるユニフォームの方だかんな」


 手針たちは、ゴール裏へと戻っていった。


     2

 六月一三日 日曜日

 東海社会人一部リーグ 第六節

 熱海エスターテ 対 ギューズ松坂

 会場 熱海市かもめ公園陸上競技場


 今日の対戦相手であるギューズ松坂は特定企業のサッカークラブではなく、三重県松坂市にある複数の牛肉関連企業と松坂市が投資し合って発足した、牛肉を中心とする松坂の宣伝のためだけのチームだ。

 選手は、各協賛企業のサッカー好き社員を集めただけのもの。選手登録されることにより、月の手当てと、午後の仕事の若干の免除が約束されている。

 ユニフォームの胸にはスポンサー名どころか商品名すらなく、ただひらがなで二文字「うし」と書いてあるだけ。完全なインパクト狙いである。

 本当はJFL、つまり日本フットボールリーグで全国的に宣伝出来れば良いのだろうが、競技場の規格の問題やら遠征費用やらの諸問題により、現在のところJFLは目指さず、あえて地域リーグでのプレーを選択している。

 まあ目指したところで簡単に上がれるものでもないのだが。

 なにせ地域リーグで優勝をした上でさらに、地域リーグ優勝者の集まる決勝大会を勝たなければ昇格が出来ないのだから。

 ギューズ松坂がホーム開催時などに着るファーストユニフォームは茶と黒であり、現在着ているセカンドユニフォームは白と茶だ。

 なんでも牛をイメージしているとのことである。

 愛称のギューズは、牛を音読みしただけでなく、一人一人は小さいけれどチームワークで大きな渦になって相手を飲み込めという意味も込められているらしい。

 ジロさんいわく「単なるネタクラブ」


     3

 しかし試合が終ってみれば、熱海エスターテはそのネタクラブ相手に0-2、一得点も出来ず、敗北を喫したのであった。

 今年の熱海エスターテは、試合をこなすごとに、どんどん酷い状況に陥っていた。

 前々節は、それまで全勝の飛騨フォーコーダから3ゴールを奪って勝利という快挙を成し遂げたものの、その次の試合ではチーム鳥羽と1-1の引き分け、そして今日は0-2での負け。

 連勝するどころか、格下相手からすらも星を落としまくっている始末。

 内容あっての不運な負けならともかく、今日はボールを回され支配され続け、突破を許しまくり、セカンドボールを拾われまくり、体力的にも相手のほうが遥かに走っており、どの要素においても完敗であった。

 ゆっくり迫り来る地域リーグ二部への降格という現実を前に、選手、監督、スタッフ、サポーターの心に暗雲が立ち込めようとしていた。

 だが唯一、ばりきよみつだけはさほど落ち込んではいなかった。

 むしろ、試合前よりもテンションが上がっていたといって過言ではなかった。

 といっても負けた直後は、仲間たちとともに相当に落ち込んだのである。太鼓のバチをへし折りたくなるほどに。

 しかし……

 手針は、人のまばらなバックスタンドに、なんともいえない輝き、眩しさを感じたのである。

 試合も終わって、観客が次々とゲートから出ていく中、その人は、反対に一人、入って来たのである。

 遠目からではあるが、それは髪の長い、若い女性であった。

 漂う風に香りを感じたのか、最前列にて試合観戦をしていた秋田犬らしき犬が後ろを振り返った。女性の姿を確認すると、すぐさまたたたと階段を駆け上って近づいていった。

 女性はしゃがみ、犬の頭を軽くなでると首輪に紐を付け、案内してきたらしいボランティアスタッフの老人にお辞儀をしながら去っていった。

 その女性の綺麗さ、爽やかさに、手針の異常な厚みを持つまるで巨大スライムのようなむにょんむにょんぶるんぶるんした脂肪の、その遥か遥か奥深くにある小さな心臓が、どっくんと動いた。

 うきうき心躍るハイテンションになるまで、さして時間は掛からなかった。


     4

 ばりきよみつは組んだ足の片腿にキーボードを置いて、叩いている。

 巨漢というのみならず異様に肥満しているため、腿の上はさながらテーブルのようで何でも置けてしまう。ことあるごとに脂肪でふるふる激しく震えるのが難点だが。

 その指は、脂肪なのか骨なのか筋肉なのか夢なのか、なにが詰まっているのかは分からないが、とにかく無駄にぶっとい。にも関わらず、器用に両手でタッチタイプをしている。

 ここは株式会社ケーワイプランニング。手針の働いている職場だ。

 手針は職業プログラマーである。旅館や菓子店などの顧客管理、受注管理、などのシステム構築が主な仕事だ。

 社内で群を抜いて有能というわけでもないが、アセンブリ言語、アルゴルやフォートランといった習得者の少ない言語などに幅広く通じており、それなりに重用されている存在である。

 今は外注に出していたルーチンプログラムを、メインプログラムに統合する前に負荷や単純なバグなど一通りの動作チェックをしているところだ。

 バッチを走らせて自動処理に入ったし、ちょっと一息入れるか、と週刊蹴球を手に取ったところ、


「どーもー」


 古臭い作りのガラスドアが開くのと同時に、女性のダミ声が聞こえてきた。

 手針はさっと週刊蹴球をしまって、「イフ、ゼットイコール、インキーダラー」などと懐かしのベーシック言語構文を呟きながら、キーボードを叩く真似を始めた。自動処理の最中なので、別になにもする必要はないのだが。

 ガラスドアを開けて誰が訪れたのか、わざわざそちらを見るまでもない。たまに大きな仕事を回してくれる、お得意先の会社の女性だ。

 年齢は五十歳をいくつか過ぎているといったところであろうか。手針にいわせると女性ではなく、ババアという生き物だ。

 ぶなひで。以前に招待された酒の席で、エイミーちゃんと呼んでなどと人類を舐めくさったようなことを抜かしていた女である。あの時には、思わず首をぎゅぎゅっとねじって殺したろかと、手を伸ばしかけたことがある。

 なにがエイミーちゃんだ、鏡見ろやブスが。ろうを固めたような厚化粧しやがってブスが。舐めんなブスが。この抱きたくない女、世界ナンバーワンが。ブスが。年増ブスが。

 直接口に出せるはずもないので、その分心の中で手針のマシンガンが炸裂する。

 手針はその酒の席で、会話の流れから彼女に、ひょっとして童貞じゃないのといわれたことにショックを受け、いまだ根に持っているのだ。

 ひょっとしてもなにも事実はその通りで、悪いのはいまだ童貞の手針なのであるが、まあ、だからこそである。


「手針ちゃん、元気ィ?」


 う・る・せ・え! 話しかけんなババア! ブスこの年増ブスが! ブス! ババア! ブス! ババア!


「はーい、元気でーす」


 手針は心を隠して、表面上愛想良く応えたた。

 しかし顔は画面に向けたまま、キーをがっしゃがっしゃと叩いており、決して真舟英美を見ようとはしなかった。

 現場というのは、いま仕事から手を離せませんというオーラさえ出しておけば、お得意さんだろうがなんだろうが別に無視して失礼でもなんでもないのだ。

 しかし、この犯罪級の世紀末ブスに比べて、この間のあの女性は、綺麗な人だったよなあ。

 手針は意味もなくキーを叩きながら、先日スタジアムで遭遇した髪の長い若い女性のことを、脳裏に思い描いていた。

 でももう、会えないだろうな。

 またピッチに、あのクソ犬が乗り込んでくりゃいいのに。

 まあ、たまたま迷い込んじまっただけだろうし、もう来ねえだろうなあ。


     5

 と、思っていたら、また犬がピッチに乱入してきた。

 しかも今日はあろうことか、試合の真っ最中にである。

 ちょっと暑さに脳のいかれた子馬のように、パッカパッカと跳ね回っている。

 間違いない。

 あの犬だ。あの、秋田犬だかなんだか。

 非礼無礼、一度ならず二度までも。サポーターたちの間に、一瞬にして殺意がみなぎっていた。

 もしもここに銃があれば、もしも射殺許可がおりていれば、そんな二つのIFが満たされていたならば、彼らは迷わうことなく銃を取り引き金を引いていたであろう。

 ただし、運良くというべきか悪くというべきか、今日の試合は公式戦ではない。

 日曜開催の多いJFLであるが、今節、熱海エスターテは土曜日である昨日、六月十九日に既に試合を行っている。今日は控えメンバーを中心とした、地元の大学生を相手にした練習試合である。


 余談ではあるが、日曜昼である今頃、ほとんどのチームがリーグを戦っているはずで、今節で全チームとの総当りは一巡、前半戦が終了である。

 なお昨日行われた熱海エスターテと土岐カンパヌーライレブンの試合は、0-0のスコアレスドローという結果であった。

 今期開幕以来久々の無失点試合であるが、残念ながらまたしても勝利はならなかった。圧倒的にボールを回され攻め込まれ続け、耐えていただけの九十分であったことを考えれば、勝ち点を拾えただけで儲けものともいえるが。


 さて、

 現在ピッチ上を楽しそうに駆け回っているアホ犬に話を戻そう。


「また来やがったぜ畜生、クソ犬が!」


 怒気満面のジロさん。

 練習試合とはいえ、神聖なピッチに入り込まれ試合を邪魔されたのであるから当然だ。


「出てけ、てめえ!」


 いつも温厚な我孫子夫妻や山田君も、二度目の乱入騒ぎにブチ切れている。

 すっかり怒気に包まれた熱海エスターテサポーターであるが、その中で覆面の男、ばりきよみつだけは犬そっちのけで、周囲を気にしてきょろきょろと、なにか期待するかのようにバックスタンドやメインスタンドを見回している。

 その願いは、天へ届いた。

 果たして、女神は姿を見せたのである。

 髪の長い、若い女性。

 前回同様に、輝かしいオーラを発しながら、バックスタンドのゲートから現れた。

 彼女は一番前の柵のところに行き、叫んだ。


「ジロー、戻ってきなさい! ジロー! 迷惑でしょ。どうも済みません、また迷惑かけてしまって」


 女性は犬を呼ぶと、ピッチ上の一番近くにいる男性に謝った。コーチの吉岡さん、彼は前回の犬乱入騒動の際にも、大捕物に参加している。


「ジローだって。犬とおんなじ名前だ」


 手針は女性への興奮はさておき、ジロさんを見てぷっと吹き出した。


「うるせーな!」


 ムキムキマッチョのジロさんは、畜生と一緒にされて面白くなさそうな表情だ。

 手針たちは、その女性のところへ近づいていった。

 近くで見れば見るほど、それは天女のように美しい女性であった。

 というほどかは分からないが、まあ、間違いなく手針清光の好みであった。


「あ、あ、あのあの、この、このこのこの前も来てましましたけど」


 手針はついに話しかけた。

 つっかえつっかえであったが。

 ろくに話せないくせに、いや、だからであろうか、


 OLEオーレ


 若い女性と話をしたことによる興奮に、頭の中で、スペインのオヤジが牛と戦ってる曲が流れ出していた。

 心臓も、ドキドキドキドキ、ときめきの鼓動を刻んでいる。

 女神、絶対不可侵おれの女神。嗚呼、絶対運命黙示録。


 ダンダラランランダンダラランラン♪

 オーレイ!


 勝手に人を侵すべからず神秘の聖女扱いにして、一人脳内でアドレナリンを分泌して大興奮している手針清光、三十三歳、童貞であった。

 侵すべからずもなにも、この女性を頭に思い浮かべながら、もう三、四回ほどオナニーしているくせに。


「はい。彼がサッカー好きだったんです。よくこのスタジアムに来てたんですよ」


 女性はそういうと、にこりと微笑んだ。


 ダンララダンララ♪ オーレ…ズガッ!


 手針は闘牛の突進をかわし損ね、肥満した全身を角で突き上げられた。

 というのはもちろんイメージであるが、角で貫かれたほどに全身の血がさーっと引いていくのは現実であった。

 顔が青くなっているのか赤くなっているのか、自分でも分からなかった。

 すっかり気が動転してしまっていた。


 この女性には……彼氏がいるのだ。

 でも、

 あたりまえだよな。

 綺麗な人だし、恋人くらいいるに決まっているよな。


 そう必死に思い込もうとするものの、受けたショックを簡単に払拭出来るものではなかった。

 心の中でため息。

 夜な夜な想像の中で、彼女の顔面に精液ぶっかけていたのが、非常にむなしくなってきた。

 それを現実にしているのは、自分などではなく彼氏なのだから。


 仕方ないよな。

 いないわけないもんな、恋人が。

 綺麗だもの。いないわけないよな。

 いや……

 でも、分からんぞ。


「彼って、あの犬ですか?」


 手針はピッチを指差し、頓珍漢な質問をした。


「いえ、ジローは女の子です。彼が変な名前付けちゃって」


 ノリ突っ込みするわけでもなく真顔で答える女性。天然なのか、ひたすら真摯なのか。

 そっか……

 手針は、心の中で、決闘に負けた騎士のようにがっくりと片膝を付いた。現実には超肥満体なので、片膝を付こうとすると後ろにひっくり返ってしまうのだが。


「彼氏さん、サッカー好きだったんですか?」


 なおも尋ねる手針。


「はい。……わたしたちは婚約していたのですが、先月、彼は交通事故で亡くなってしまったんです」


 ここには手針だけでなく、他のサポーターたちもおり話を聞いていたが、予期せぬ重たい話に、誰も口を開くことが出来なくなってしまっていた。

 女性は、はっと我に返ったような表情を浮かべた。見ず知らずの他人を前に、なにを話しているのだろう、とでも思ったのだろうか。

 しかしもう話しを始めてしまっている、彼女はそのまま言葉を続けた。


「以前から、彼とわたしとジローとで、よくこのかもめ公園を散歩してました。ここでサッカーの試合があるときは、わたしが外でジローと遊んでいて、彼はここで試合を見てたんです。ジローもきっと、ここに入って、試合を観てみたかったんでしょうね」


 彼女は俯き寂しげな表情のまま、口を閉ざした。

 みんな、しんみりとしてしまっていた。

 一人を除いては。


 彼氏、婚約者、ってことはもう、ってことはもう……。妄想膨らむその男の名は手針清光、三十三歳、童貞。


 犬のジローは、なおもピッチ内を駆け回り続けていたが、ようやく飽きたのか、こちらへパッカラパッカラと突進してくると、ジャンプして客席へと飛び込んで来た。


「ダメでしょ」


 着地し、ちょこりんと座るジローの頭を、女性は軽く叩いた。


「本当にすみませんでした。もう、絶対に首輪外されないようにしますから」


 ピッチにいるスタッフに、深く頭を下げた。


「この前も、こいつ、ちょうどこの席の前で、応援してましたよ。もしかしたら亡くなった彼氏さん、ここによく座ってて、においが残ってんじゃないですかね」


 とジロさんは、同じ名前の犬にちらりと視線を向けた。


「そうかも知れないですね。わたしサッカーは全然分からないけど、こんなことになるのだったら、ここで三人で観ておけばよかったね」


 女性は、愛犬の背中を優しくなでた。


     6

 「居酒屋こてきゅう」

 JR熱海駅近くにある、雑居ビル一階にある店だ。

 熱海エスターテのコアサポターたちが、なにかにつけて利用している場所だ。

 値段が安いわりに、味はそこそこ美味い。素材の悪さを腕でカバーと店主がいい切っているだけに、逆に安心感がある。

 彼等にとっては、すでに常連になっているため、なにかと融通が利いて居心地がいいというのもある。

 同じ飲み会でも、直近の試合内容によって名目が変わる。敗北の後は、反省会であったり。

 今日は、大学生相手の練習試合とはいえ勝利を収めたということで、祝杯の宴である。

 なお、先ほどの犬連れの彼女のことも誘ってしまっていた。

 誘ったのは長老さん。手針にはそんな勇気はない。

 長老さんが誘ってくれて、有難いような、ツルッパゲのくせに女誘うなんてムカツクような、と、手針は複雑な心境であった。

 絶対もてなさそうな顔しているくせして、もしかしたら童貞じゃねえんじゃねえかこのハゲ。手針は自分がそうであることから、不細工な男はみな童貞に決まっていると思い込んでおり、そんな長老さんへのライバル心というか相憐れむ心というかを根底から揺るがされそうで、びくびくとしていた。

 店内には、秋田犬のジローもちゃっかりと入り込んでいる。もともと店主夫婦の飼い犬がマスコットとして店内をうろうろしているような店なので、もう一匹増えたくらいで常連客は驚かないのだ。

 まあ、この狭い店内でもパッカラパッカラ馬みたいに跳ね回り始めたならばさすがに驚くかも知れないが、これまでのところ、ちょこりんと座って大人しそうにしている。

 手針の身体の一部を連日ホットに反応させてやまない女性は、ぬまあかねという名前であった。


「ええ、でもほんとに、お金は払いますから」


 三沼あかねは、再三、財布を取り出そうとしていたが、その都度長老さんがにこにこ笑いながらそれを制している。


「いいんですよ、ぼくらが無理矢理に連れてきたんですから」


 このスケベハゲが! 一休さんかてめえは!

 手針は、目からバチバチと火花を散らした。しかしそれは長老さんの頭に反射して、天井を焦がすばかりであった。


「そうそう。むしろこんな汚いとこで、すみませんねえ三沼さん」


 手針の必死な花火など知る由もなく、ジロさんが言葉を続けた。


「汚くて悪かったね」


 通りかかった女将さんが、手にしていたお皿でジロさんの頭を殴った。

 ゴッ、と小さな音であったが、ジロさんの顔をみる限り、実に痛そうであった。


「ササ……サックー」


 手針が、唐突に口を開いて上ずった妙な声を出した。


「なんだよサックって」


 頭のタンコブ押さえながら、突っ込むジロさん。


「うるせえな、ジロさんは黙ってろよ! サ、サ、サッカー、全然、知らないんですよね」


 脳内妄想バトルをしているばかりの手針であったが、これでは前に進まないと思ったか、ようやくにして三沼あかねへと口を開いた。表情カチコチだ。


「はい」


 小さく頷く三沼あかね。


「彼氏さん、すすい、すすい、す、好きだったんだですですよね」

「はい」


 手針の宇宙語にも、三沼あかねは丁寧に頷いた。


「どど、どん、どん、どむどむっ」


 すらすら会話をしているみんなに負けじと、必死の思いでようやく口を開いたというのに、結局ろくに言葉が出てこない手針清光、三十三歳、童貞。

 その手針の声に言葉がひらめいたか、長老さんが続ける。すらすらと。


「どんな方だったんですか? あ、いや、思い出して辛いなら、結構です。話して楽になればな、と思ったものですから。その彼氏さんが、エスターテを好きだったということで、なんだか他人に思えないものですから」


 彼氏との思い出を聞き出そうとする長老さん。

 なんだかスムーズな会話になっていることに手針は、このクソハゲが、と心の中で毒づいた。

 そして自分自身も、負けないような甘い言葉を一生懸命に考えた。


 一緒に、僕と一緒、い、一緒に、サ、サック、ササ、サカッ、サッカー、でもっ、みり、観らませんか……くそ、こんなんじゃダメだ、嫌われるかも知れない。

 エスターテなんかより、ボクと日本一周旅行しましょうか。

 これだ!

 いやいや、いかんいかんいかんいかん!

 バカ野郎か、おれたちは!

 童貞卒業旅行とJFL参入目指してときめくエスタと、どっちが大事なんだよ!

 最低だ、お前ら!


「え! す! た! あ! て! ウッ! え! す! た! あ! てっ!」


 手針は、自分の顔面を手のひらでパシパシと殴った。巨漢の割りに異常に非力なのでたいしたダメージではないはずだが、それ以上に肌が軟弱なので結構痛い。


「あの、どうかされたんですか?」


 三沼あかねが、手針に心配そうな視線を向けた。


「ああ、彼いつもこんなですから」


 我孫子夫妻の旦那の方。


「テバちゃん狂ってるもんね」


 我孫子夫妻の奥さんの方が、ミもフタもないが衝撃的な台詞を、ついに、さらりといってしまった。

 さて、その後も、手針の心境を知ってか知らずか、長老さん独壇場で進む「熱海エステーテ祝勝会」であったが、三沼あかねとの会話の途中、


「そうだ!」


 不意にそう叫び、立ち上がった。

 つるつるハゲ頭に照明が反射して、それ自体電球のようにぴかっと光った


     7

 かもめ公園陸上競技場は粛々とした、でも明るい雰囲気に包まれていた。明るいけれども、でも粛々とした雰囲気に包まれていた。

 ゴール裏にはいつものコアサポの面々が顔を並べている。ばりきよみつ、ムキムキマッチョのジロさん、ケーキ屋のシゲさん、つるぴか眼鏡の長老さん、ダーヤマ君、我孫子夫妻、シュリンプ、はたおか君が珍しく彼女を連れて、それといい氏に、熱海エスターテスタッフのたか主務、たけ広報担当。

 ピッチ上には、ユニフォームを着た熱海エスターテの選手たち、そしてよしおかコーチ、みなとアシスタントコーチ、らスタッフの姿。彼らは、純白の服を身につけた一人の女性を取り囲んでいる。

 数名のスポーツカメラマンが、カメラを構えている。

 事の中心となっているのは、ぬまあかねであった。

 彼女は純白の、ウエディングドレスを着ている。

 その足元には、秋田犬のジローがちょこりんと座って、ハッハッと舌を出してなんだか嬉しそうな顔をしている。まぁ、犬が舌を出している時の顔は、何故だか嬉しそうに笑っているように見えるのが当たり前であるが。

 雀の巣のようなチリチリ頭のしゆんが、三沼あかねと向かい合っている。


「……以上、コレデ、アナタとけいいちサンハ、結バレマシタ。オ幸セニ。ヤーメン」


 大昔のドラマの外国人のような、ふざけた喋り方だ。本人の緊張した表情からして、真面目なのではあろうが。

 服装は普段通りのよれよれ一張羅だが、首には十字架をぶらさげており、どうやら神父のつもりのようである。


「いまよ、アーメンじゃなくてヤーメンっていったぜ」

「いってません!」


 しんと静まり返った瞬間に、ジロさんのぼそりとした突っ込みが思い切り聞こえてしまい、最初から恥ずかしくてたまらないといった様子であった木戸は、ごまかすように声を荒らげていい返した。

 彼らがここで、三沼あかねを中心になにをしているのかというと、ウエディングドレスという服装から分かる通り、いま流行のスタジアム婚である。

 新郎は、すぐ横でちょこりんと座っている犬のジローではない。天国にいる、彼氏である。ついでにいうと、ジローは女の子だ。


「小さなクラブだからって、勝手なことばっかりして、本当はいけないんだからね」


 とゴール裏でサポーターに混じった夜竹直子広報は、小さな声で手針たちに注意した。

 でもその目は、ちょっと涙で潤んでいた。


「分かってるよ。……そおりゃっ!」


 手針はバチを振り上げ、太鼓へと振り下ろした。

 太鼓の音頭に、サポーターが叫ぶ。


 ドドンドドンドン あかね オレー!

 ドドンドドンドン あかね オレー!

 ドドンドドンドン あかね オレー!

 ドドンドドンドン あかね オレー!


 ひとしきり繰り返すと、続いてサポーターたちは、てんとう虫のサンバを歌い始めた。

 下手くそな、精一杯の大きな声で。

 ピッチの向こう側では、今日の対戦相手であるいなべ製粉の選手たちが、驚いたような様子でこちらをうかがっている。なにも知らされていないのだから当然だ。

 すべてにちぐはくではあったが、こうして熱海エスターテのファンであった故人男性と三沼あかねとのスタジアム婚は終了した。

 選手たちは三沼あかね、そしてサポーターたちに深く頭を下げると、これからの試合に備えてピッチ中央へと走り戻って行った。

 婚姻の儀式なのだし、おめでとうございますの一言でもいえればよかったのかも知れない。しかし選手も、サポーターも、誰もそのような台詞を口に出す者などいなかった。

 当然だ。

 決してめでたくなどないからだ。

 相手のいない結婚式。生きている者が次に進むための、けじめとすべき儀式であるからだ。

 この、なんともいえない、重いのか軽いのか分からない雰囲気の中、ピッチ上では選手たちがウォーミングアップを続ける。

 やがて選手たちは、奥へと引き上げて行った。

 間もなく、本日の試合が始まるのだ。


 すでにリーグ戦の日程は半分を消化。今日から後半戦のスタートである。

 いなべ製粉とは開幕戦で敵地にて対戦、2-0で勝利している。

 今日はホーム、相手は超格下、そして何よりこのようなイベントを行なった後だし、圧勝は間違いないだろう。

 と信じきっている、サポーターたちの表情。

 選手入場の場内アナウンス。

 審判団を先頭に、ユニフォームを着た選手たちが、改めてピッチへと入場してきた。

 熱海エスターテサポーターたちは、タオルマフラーを高く掲げ、広げた。


 おーれーおおー おーれーおおー あたみー あたみえすたあてー

 おーれーおおー おーれーおおー あたみー あたみえすたあてー


 熱海エスターテのユニフォームは、橙のシャツに緑のパンツ。

 いなべ製粉は、白と黒。アウエイだがファーストユニフォームだ。一見セカンドユニフォームのようであるため、対戦相手とかぶることがまずなく、ほとんどの試合をこれで通しているのだ。なお胸の文字は自社製品の宣伝で「黄金の麦」。手針は見かけたことないが、要するに食パンらしい。

 コイントスを終え、両チームの選手たちが、それぞれのポジションへと散らばった。

 おおおおお~、と両サポーターが声を上げる中、審判の笛の音が響き渡った。

 熱海エスターテボールで、キックオフだ。


 六月二七日 日曜日

 東海社会人一部リーグ 第八節

 熱海エスターテ 対 いなべ製粉

 会場 熱海市かもめ公園陸上競技場


    8

 本日の試合結果 熱海エスターテ 1―4 いなべ製粉



 完膚なきまでに叩きのめされ、前回対戦の復讐をされた熱海エスターテ。

 お情けで貰ったようなPKで一点返した以外、なにも出来ずにただ九十分間が過ぎただけの試合あった。


「勝って彼氏さんを送り出したかったんだけど、申し訳ない。なんかケチついちゃったみたいでさ」


 ジロさんはしゃがんで、犬のジローの頭をなでている。


「いえ、ここまでしていただいて、選手の人たちもとても頑張ってくれて、これで彼も心残りなく天国へ行けると思います。自分も立ち直るまではまだまだ時間がかかると思うけど……死んだ人間にいつまでも縛られるわけにも行かないし。彼が決して喜ばないだろうから。……でも、ここにはたまに来ます。好きだった人が楽しい時を過ごしていた場所だし、みなさんにここまでしていただいたご恩もありますし。あ、完全に縛られちゃってますね」


 三沼あかねはそういうと、無邪気に笑った。

 その笑顔に心臓ドキンと跳ね上がる、手針清光。

 なにか、自分もなにかいわなければ。

 試合には負けたけれど、おれにとって今日という日は無駄じゃなかった、的なカッコつけたことを、なにか……

 しかし脳内で意識がから回りするばかりで、全然言葉が出てこなかった。

 ササ、サック。

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