第四章 バババーババーババ

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 九月四日 土曜日

 東海社会人一部リーグ 第十節

 熱海エスターテ 対 津市水産

 会場 熱海市かもめ公園陸上競技場


 東海社会人一部リーグも、今シーズンついに第十節目。

 八クラブが総当りを二回、つまり年に十四試合しか行われないリーグであるため、もう終盤戦である。

 今期の熱海エスターテは、いまさら振り返るまでもなく、あまりにも星を落とし過ぎた。

 現在、順位は下位の下位。残りを全勝しようと、もう昇格は不可能だ。

 リーグ序盤から指摘されていた欠点が、なに一つとして改善されないまま、ここまで来てしまったのだ。

 こうして来期からの昇格の可能性が完全に潰えた熱海エスターテであるが、しかしサポーターたちの熱い応援は、その勢い衰えを知ることはなかった。

 だってもう、ただただ応援し、神に祈るしかないのだから。

 二部リーグ降格という地獄が一歩一歩近づき、現実味を帯びてきている、この現状に。


 さて、そんな状況で迎える本日の対戦相手は津市水産。三重県にある食品会社の、サッカー部である。

 熱海エスターテの選手にとってもサポーターにとっても、色々と複雑な思いを抱く相手であった。

 社会人リーグの痛烈な洗礼を浴びせてくれた相手だからだ。


 熱海エスターテは去年の成績によりJFLからの降格が決定し、今期は社会人リーグという一つ下のカテゴリで戦うことになった。選手の入れ替えこそあれ去年まではJFLに所属していたのだ、このようなな格下の舞台で、そうそう負けるはずがない。勝って当然。選手はいざ知らず、少なくともサポーターたちはほぼ全員がそのように考えていた。今年は勝って当然の、痛快な一年だ、と。

 実際、第一節のいなべ製粉相手には、快勝した。

 第二節のライナマーレ岡崎戦は負けはしたものの、相手も同じJFLからの降格組であり、悔しいが諦めもついた。

 そして第三節、この津市水産を相手に先制したはいいが、終盤に追いつかれてのまさかのドロー。時が過ぎてみれば、まさかでもなんでもなく実力だったわけであるが、とにもかくにもこの津市水産が、意気揚々としていた熱海エステーテサポーターに対して「自分たち、ひょっとして弱いのでは」と疑心暗鬼にかられるような、冷や水をぶっかけてきた相手なのである。

 だからこそ、この試合にきっちりと勝ち、五試合勝ち無しという状況を打破し、降格圏脱出に繋げなければならないのである。

 前回は敵地に乗り込んで完全アウェーの戦いだったが(津市水産の応援団は皆無に近かったにせよ)、今日は我らが聖地かもめ公園での試合。


 だから必ず、勝つ!


 と、サポーターたちは、いつにも増して声を出し、気合の入った応援をしていた。

 まだ試合開始前で、両チームともピッチ上でウォーミングアップを行っているところだ。

 今日の津市水産は遥かアウェーの地であるため、セカンドユニフォームを着ている。ファーストユニフォームは緑のシャツに赤のパンツだが、セカンドユニフォームは上下とも白である。どちらのゲームであれ変わらないのは、靴下の色と胸の文字だ。右足が緑、左足が赤。胸には毛筆体の二段書きで、「緑のうどん 赤のうどん」

 津市水産側の応援が、非常に元気が良い。十数人ほどではあるが、音頭の太鼓に合わせて、大きな声で選手コールなどをしている。


「なんなんだよあいつら、あっちがホームのときは太鼓叩きが一人で声張り上げているだけだったのに、なんでこっちのホームで人数が思い切り増えてんだよ。くそう、三重なんぞから、こんなとこまでわざわざ来やがって。あいつらから見れば、こっち、ほとんど東京だぞ。単なるカップ麺会社のサッカー部を必死に応援してる赤の他人ってなんなんだ」


 レプリカユニフォームの袖を捲り上げてマッチョな筋肉ピクピクさせながら、ジロさんが苦々しげに毒づいている。

 以前に三重遠征をした際に、ばりきよみつと一緒にゲン担ぎのため「赤いうどん」と「緑のうどん」を食べまくったのだが、追いつかれて引き分けになってしまった。そんな忌々しい記憶が、ますますジロさんをイライラさせるのであろう。


「ジロさん、そういうのが社会人リーグを応援する醍醐味だから。ぼくだってエスタが山岸製作所だった頃からのファンなんだから」


 と、長老さんがたしなめる。

 彼はまだ二十代のくせに、コアサポ集団の中で一番ファン暦が長いのだ。


「でもまあ、もうあんなクソ不味いカップ麺なんか食わなくて済むように、早く昇格しねえとな」


 手針清光が、ジロさんの言葉を継ぐように、吐き捨てた。一人で八杯も食べたくせに。

 いくら手針が祈ろうとも、選手が頑張ろうとも、来期もまたアウェーでカップ麺を食べることになるのは決定的なのであるが。降格しない限りは。


「おい、あのババア、最近よく見るよな」


 手針は背後、肩越しに親指でさした。客席の最前列で、身を乗り出すようにしている古風な和装の老婆を。


「シュージ! 負けんじゃないよ、あたしのシュージ!」


 干からびたような小柄の体型だというのに、その声は凄まじい。

 セミも胴体がガランドウながらも迷惑なくらい大きな声で鳴くし、脂が切れて全身からからに干からびているか否かと大声は関係ないということであろう。


「なんか、ガシューのファンみたいだぜ」


 ガシューとは、しゆうのことである。


「ああ、そういやいつもシュージシュージ絶叫してるよな」


 などと手針とジロさんが話している間に、主審の笛が鳴った。

 キックオフ。

 サポーターは、気を引き締めた。一瞬にして、戦う戦士の顔になった。

 手針はバチを振るい、太鼓を叩いた。

 序盤から、熱海エスターテサポーターの絶叫にも似た応援が始まった。

 負けるわけには、降格するわけにはいかないのだ。

 それにはとにかく先制することだ。

 選手たちもそう思っているのか、熱海エスターテは攻勢に出た。

 単純な個人技という力量であれば、熱海エスターテの方が遥かに上であるはずだ。

 これは間違いようのない事実であり、そうであればこそ、津市水産はまずは様子を見ようということか自陣に閉じこもることを選択した。

 時折、鋭いカウンターにひやりとする場面こそ作られるものの、基本的には熱海エスターテのペースで試合は進んだ。

 相手をサンドバッグにして、どんどんシュートを打ち、一方的に攻め立てている。

 しかし、引いた相手を崩すことが出来ず、両者無得点のまま、前半戦終了。

 選手たちが引き上げていく。


「なんかさ、嫌な予感がしてきた」


 ジロさんが不安そうな声でいった。


「なにがよ」


 手針は尋ねる。


「格下相手に無得点で折り返すと、エスタって絶対我慢できなくて前に出すぎてバランス崩すじゃん。個人個人が勝手に前に行くからな」

「ごちゃんに書き込んどいたから、大丈夫だと思うけど」


 といいつつ、やはりちょっと不安そうな手針の表情。

 なお、ごちゃんとは、ごちゃんねるのこと。インターネットの巨大掲示板である。


 ピッチに選手たちが戻ってきた。

 ハーフタイムは終了し、エンドを入れ替え後半戦開始である。


 開始後の十五分ほどは、前半同様に熱海エスターテが一方的に攻め続けた。

 津市水産が、がっちり閉じこもって、猛攻に耐え続けた。

 十五分を過ぎるあたりから、熱海エスターテの選手たちの足が徐々に鈍くなってきていた。

 それ故に、とにかく先制をもぎとって守り切ろうと考えたのであろうか。

 ジロさんの心配は的中。熱海エスターテの選手たちは、前がかりになってきていた。

 チーム自体の意思ではないものだから、連係連動はちぐはぐ、必然的に守備は穴だらけになり、何度もカウンターでピンチを招くことに。

 そして、熱海エスターテは失点した。やっぱりというべきかなんというべきか。

 一応、どのような失点シーンであったか、説明しておこう。


 早い話が、熱海DFが前への意識が強すぎて集中力を乱し、相手のロングボールに対してオフサイドトラップをかけそこねたのだ。

 津市水産FWたかけんが、大きく飛び出していたGKやまろうをあっさりかわして、ドリブル継続。

 完全に抜け出したが、高田健太はまだ打たない。俊足ではあるがシュート精度が低いことを自覚しているのであろう。

 かくして、ドリブルする相手FWの背中を必死に追いかけるGKという、滅多に見ることの出来ないまさに珍百景が成立し、そして、FWはそのままゴールまでボールを運び込み、得点が生まれたというわけである。


 津市水産サポーターの太鼓が、ドンドンドンドンと激しく鳴り響いた。


「お前ら、ごちゃん見てねえのか! ネット環境あんのか、いまだにISDNなんじゃねえのか!」


 手針は怒鳴った。

 GKの山田太郎は、がっくりと膝をついて、バンバンと地面を叩いて悔しがっている。


「ノリヲかおめえは!」


 ジロさんも怒りに叫んだ。ノリヲとは、記録より記憶に残るプレーを数々と見せ、当事者以外を非常に楽しませてくれた、あの伝説のGKである。


 試合再開。


 失点によって熱海エスターテがさらにバランスを崩したせいで、試合は一方的な津市水産ペースになった。

 せっかく頑張ってボールを奪っても、すぐ囲まれ、奪われ、あっという間に熱海ゴール前まで運ばれてしまう。

 せっかく大きくクリアをしても、そのまま放り返されて大ピンチ。

 何度も何度もCKを与えてしまい、そして何度目かのCKで、すっかり選手全員がボールウォッチャーになっていたところ、折り返しから津市水産の高田健太に頭で合わせられ、また失点した。


 0-2


 こうして、点差が開いた。


 ドンドンドンドンドン!

 たかーだけんた!

 ドンドンドンドンドン!

 たかーだけんた!


 数は少ないが、津市水産のサポーターたちが手を叩き、喝采した。


「いちいち太鼓うるせーぞカップ麺屋が!」


 手針はブチ切れ、怒鳴り声を上げた。

 結局、試合は1-2で負けた。

 熱海も一点返したのではあるが、巻き返しての一点というより、同情した審判に恵んで貰ったとしか思えないような、後半44分のPKによる得点であった。


     2

「Jリーグに上がるつもりないんだから、お前ら別に負けたっていいだろ。もう降格だってないんだからよ。このうどん屋がよ」


 覆面男、手針清光は、津市水産の応援団にいちゃもんをつけている。

 他の熱海サポーターが、津市水産サポーターのフラッグの先端が肩に当たったの当たっていないだのと口論になっているところに、仲裁するどころか割って入ったのだ。


「お前らが弱いから負けただけだろ、なにいってんだ!」


 津市水産サポーターは、一向に引かない。

 全体的には非常に温厚でガラの良い津市水産サポーターであるが、中にはこのような、生まれた時や場所さえ間違えなければ手針と友達になれていたかもしれない、そんな者もいるのである。


「うるせえ。この前食ってやったカップ麺代返せ!」

「バカじゃねえのかこいつ」

「ブチ殺すぞ、モルルラァ!」


 異常に貧弱なくせに覆面の力を借りて威張りまくっている手針が、意味不明の雄叫びを上げて相手に突進し掴みかかろうとした、まさにその時であった。


「やめな、みっともない」


 いつの間にここにいたのか、二人の間に入り込んだ和装の老婆が、手針の腕を掴んでいた。そして、突進しようとしていた手針の勢いを利用してそのまま投げ飛ばしてしまったのである。

 百キロをこえる巨体をだ。

 ムハッチョと呻き声を上げ、手針は激しく地に叩きつけられた。

 砂埃が舞い上がった。

 手針は自重によるダメージに、動くことが出来なかった。

 津市水産のサポーターは、「バーカ、デーブ」と言い残し去っていった。


「ってえ、なにすんだよ、くそババア」


 手針は、なんとかそれだけを言葉に出した。


「なにすんだもなにもないよ、この太っちょ! ひいきのチームを応援する者同士で、バカげた喧嘩してんじゃないよ。あたしの孫のいるサッカー団は、随分みょうちくりんな連中が応援してるんだなと思ってたら、まったく」

「え、ババアの孫って、もしかして志賀修司?」


 ジロさんが、あたしの孫という台詞に食いついた。老婆は先ほどスタジアムで試合を観戦しながら、シュージシュージ叫んで応援していたのだ。


「それがどうかしたかい」


 老婆はジロさんを睨み付けた。


「すげー!」

「元Jリーガーの身内だ!」

「Jリーガーのババアだ!」

「そんな気してた!」

「握手、握手してよJババア!」


 老婆はすっかり、熱海サポーターたちの羨望の視線に取り囲まれてしまっていた。


     3

 「居酒屋こてきゅう」

 熱海駅すぐ近くの雑居ビル一階にある、熱海エスターテサポーターがなにかにつけて集う飲み屋だ。

 お店の看板犬であるヨーコと、秋田犬のジローが遊んでいる。

 ヨーコは見るからに雑種であるが、血統書付きのジローよりも遥かに賢そうに見える。まあ、ダカダカダカダカその場足踏みしながらハッハッと笑っているジローがあまりにバカに見えるだけで、比べればどんな犬でも利口に見えるだろう。

 何故ジローがここにいるのかというと、彼女(ジローは女の子)を散歩させているぬまあかねを見つけた手針が、半ば強引に連れてきてしまったのだ。

 正確にいうならば、長老さんをけしかけて強引に連れてこさせたというべきなのだが。

 とても自分でそうする勇気などない手針清光、三十三歳、童貞であった。

 強引に連れてきたといえばもう一人、


「どうぞ、ヤヨイさん」


 長老さんは、運ばれてきたビールジョッキを老婆に差し出した。


「ありがとね」


 ヤヨイさんと呼ばれた古風な和装の老婆は、ジョッキを受け取った。

 さきほど試合会場前で手針の巨体をブン投げてしまったおばあちゃんだ。

 志賀修司の祖母と聞いて、面白そうとばかりにみんなで連れてきてしまったのである。

 全員にビールジョッキが行き渡った。


「では、ガシューのおばあちゃんに乾杯!」


 手針は立ち上がり、ジョッキを掲げ、叫んだ。投げ飛ばされた恨みなど、もう綺麗さっぱり忘れている。


「乾杯!」


 みんなの声に、手針はジョッキを置いて、太鼓を叩きはじめた。みんながその太鼓に続き、叫ぶ。


 ドドンドドンドン!

 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン!

 熱海エスターテ!


「オレンジと緑のエクスタシー!」

「世界最強リーグ、東海社会人一部!」

「あっ・たっ・みっ!」


 ドドンドドンドン!


「なにが緑色のエクスタシーだ! あんたらまた追い出されたいのかい! お客さんいるときにバカ騒ぎするなっていってるだろ。聞いてんのか太っちょ!」


 手針は、女将さんにお皿でぶん殴られた。お皿の平ではなく、縦に向けて縁の部分で。

 こ、と軽い音しかしなかったが、相当に痛かったようで、手針はぐっと呻いて前のめりに突っ伏した。脳内出血で三十分くらいしたら死ぬかも知れない。


「んでさ、ヤヨイさんよ、なんで最近スタジアム来るようになったの? 孫を応援もなにも、シュージって去年からいたじゃん」


 ジロさんが尋ねる。


「全然知らなかったからね。シュージはね、でっかくなったるって家飛び出したんだよ。もうかれこれ七年も前になるかな。どこでなにしているのかさっぱり連絡もなくて。それがなんと、サッカー選手になってこの近くで試合をしてるっていうじゃないか」


 語るヤヨイさん。


「すげー。ガシュー伝だ」

「でもJリーガーになった時に知れよな」


 ぼそぼそ話し合うコアサポたちであった。


     4

「テバちん、お見合いする気ない?」


 社長の唐突の言葉に、さすがの変態男ばりも思わず面食らってしまった。

 ちょっとだけ黙ったがすぐに口を開く。


「結婚に興味がないわけじゃないですが、こんなオレじゃあ誰も良いと思っちゃくれませんや。デブでオタで不潔ですぜ」


 さらり返した。


「じゃ、風呂だけ入ってさ。デブなのは構わないから。デブで童貞なのはさ」

「なんでおれなんですか? あと最後、なんていいました?」

「別になんも。昔すごく世話になった、仕事で付き合いのある人から、うちの姪が相手を探しているとか、そういう話を出されちゃってさ。聞いた話によると、どうも以前にデブと付き合ってたことがあるって話だから、じゃあお前みたいなのも結構いけるのかもって思って。たで食う虫もなんとやらって奴で」

「お断りします」


 手針は冷たく突っぱねた。

 単に自信がなかったから。嫌われて、こっ酷い振られ方をするに決まっているから。

 でも……

 結婚したら、あんなことやこんなこと、やりたい放題なんだよな。

 あんなことや、こんなこと。

 あんなことも。

 そしてそして、あんなことも。

 さらに、こ、こうして、と。よいしょ。

 などなど妄想に夢躍らせ胸ときめかせる手針清光、三十三歳、童貞。


「いやいやいやいや、おれにはあかねさんがっ!」


 手針は首をぶんぶん振り、二百五十六ある煩悩を振り払った。


「なに、お前付き合ってる人がいるの? まさかな」

「いえ、いまは付き合ってる人はいません」


 過去にもいたことはないが。


「だろな。付き合ったことないどころか、童貞って感じだもんな。そうなんだろ?」

「違う!」


 みくびるんじゃねえ。そんなもん、とっくに卒業している。……夢の中では。


「とにかく、断ります」

「分かった。ま、急な話じゃないから、ゆっくり考えていいよ」

「結婚なんかしませんよ」


 興味なくはなかったものの、いまのやりとりでちょっと意固地になってしまい、去り行く社長の背中にそんな言葉を投げつけた。

 表向きそんな態度を取ったものの、つい色々と考えてしまう手針。

 やはり結婚は、すべきものなのであろうか、と。

 結婚して、立派に子孫を残したりなんかしないと、人類の格のピラミッドというかなんというか、そんなのに入れず、つまはじきもののオタク野郎として認められることはないのであろうか。


 もし結婚すれば、そのピラミッドの、どのあたりの位置づけになるのだろう。

 格のピラミッド。県リーグ、地域リーグ、JFL、J2そしてJ1と、上にいくほど選ばれた者にのみ許されたまばゆい光を放つ世界が待っているのであるが、結婚することにより、その格のピラミッドの、どのくらいのところまで登ることが出来るのであろうか。


 結婚するからには、やはりオタク趣味は捨てないとならないのだろうか。我孫子夫妻みたいな、夫婦でオタクってのはマレだろうし。

 アニメオタクが、カタギの彼女が出来そうってときに、これまで集めてきた美少女フィギュア全部捨てるべきか迷うと聞いたことがあるし。


 熱海エスターテを取るか。

 結婚生活を取るか。

 ……おれは、どうすればいいのだろうか。

 熱海エスターテを取るか!

 結婚生活を取るか! 結婚生活っつーか、あんなことこんなことやりたい放題生活を!


 とおっ! 手針はひらりとジャンプし、空中で身体を丸めてくるんと前転、巨大な天秤の中央の支点部分に着地した。両端の受け皿には、「熱海エスターテ」の文字と「結婚」の文字。現在のところ、バランスは釣り合っている。

 必死に気合を送り、どっちに傾くかで占おうとするのであるが、どっちにも傾く気配がない。


「とと、とりあえずエスタ」


 と、何故か慌てたように、とりあえずビールみたくいうと、「熱海エスターテ」の皿に飛び乗ってみたのであるが、手針の凄まじいまでの巨体を持ってしても天秤はぴくりとも動かなかった。

 続いて「結婚」の皿に乗ってみたが、やはり同様にぴくりともしない。

 手針は天秤の軸の上で腕を組み、考えた。そもそもよ、エスタサポ辞めればその彼女がおれに好意を持ってくれるなんて保証ないよな。つうか顔も知らねえし、と。


「いかん。いかんいかん! こうやって迷うこと自体が、そもそもエスターテへの愛情が欠落している証拠だ!」


 女がなんだっつーのボケミソが。

 おれにとって女は三沼あかねだけだぜ。


「あかねっっさああ~ん!」

「うるせえデブ! 死ね!」


 手針は、隣の席の矢島孝之に、事務椅子で後頭部をブン殴られた。


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 熱海市立かもめ公園陸上競技場。

 天候、晴れ。


 本日、熱海エスターテは、伊東大学サッカー部と練習試合を行っていた。

 伊東大学サッカー部は、東海大学リーグと、静岡県第二部とに所属している。今年は実に調子が良く、大学リーグでは惜しくも初優勝のチャンスを逃したものの、県リーグでは現在首位で、第一部への昇格はほぼ確実といわれている。

 次節の飛騨フォーコーダとの対戦に備え、練習試合として不足のない相手である。

 前回対戦では、開幕から負けなしで勢いのあった飛騨フォーコーダを、調子の一向に上がってこない熱海エスターテが打ち破ってしまうという、世間の下馬評を覆すものだった。

 しかし飛騨フォーコーダはまさかの敗戦にも調子を崩すことなく、現在二位。

 熱海エスターテは、たまたまその試合には勝利しただけで、調子最悪のままで、現在ビリから数えて紙一重の差で二位。

 時の運や相性で予期せぬ結果が訪れることがあろうとも、基本的に良いチームは良く、ダメなチームはダメということである。

 ただ、選手としても、ここまできたらもう監督を信じて、やれることを継続していくしかないだろう。

 まずは、この練習試合を実のあるものにするべく頑張ることである。

 一つ一つ、足りないところを埋め、残りを一試合一試合、しっかりと勝っていくしかないのだから。


 その練習試合であるが、現在、熱海エスターテが全体的に試合を支配している状況であった。

 伊東大学は来期からの静岡県一部リーグ入りがほぼ確実視されている。考えようによっては、地域リーグ二部に落ちかけている熱海エスターテとは1ランクしか実力が違わないともいえる。しかも、相手は大学リーグに力を入れているため、実質の二軍。

 という、情けないような、情けなくないような、押していて当たり前のような、こんな程度で恥ずかしいような、実質低レベルの争いなんじゃねーかと思うような思わないような、なんとも複雑な気分の熱海サポーターである。

 しかしなんであろうと試合は試合。熱海エスターテコアサポの応援は、普段のリーグ戦と変わらない。たぶん伊東大学は、二軍の方が強いのだ。ゴマスリの一軍、力の二軍なのだ。だからそれに押してるエスタは、素晴らしく強いのだ。そう信じてかどうか、とにかく熱い応援を続けた。

 今日は相手のホームではないし、たけさんに小言をいわれることもないし。


 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!


「シュージ!」


 古風な和装の老婆、ヤヨイさんだ。今日も応援に来ている。

 観客席の一番前で、柵に掴って身を乗り出すようにしている。

 しかしここは陸上競技場。選手までの距離は遠く、ヤヨイさんは目をこらし、なんとももどかしそうに孫の姿を探し、応援の声を張り上げている。


 試合終了の笛が鳴った。

 結果は、熱海エスターテの3-1での勝利であった。


 練習試合とはいえ熱い応援を送ってくれているサポーターのところへ、選手たちがやってくる。

 選手たちはゴール裏までやって来て、横一列に並んで手を繋いだ。

 繋いだ手を高く上げ、サポーターとともに勝どきの声をあげた。

 サポーターたちは、歌い出した。


 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪

 おっおー それゆけ熱海♪


「シュージ、シュージがいないじゃないか」


 和装の老婆ヤヨイさんは、すぐ近くに並んでいる選手たちの顔を確かめるように何度も何度も見ながら、そんな不安そうな声を上げ、さらに首をきょろきょろとさせ続けた。


「なにいってんのよヤヨイさん、あれでしょ、十七番のちっこいの」


 手針はしゆうを指差した。


「バカいうもんじゃないよ、この太っちょ! シュージがあんなハンサムな顔してるもんか! シュージは顔は三枚目、身体だって子供の頃っから無駄に大きいくらいなんだ」

「なにい。でもよ、志賀修司なんて名前のサッカー選手そうそういないだろ! 志賀修司なんてよ!」

「シガじゃなくてイイダだよ」

「へ……」


     6

「和歌山県三部の、かいなんかじり虫? すげえ名前だな」


 ばりきよみつは、たけなお広報担当が手にしている彼女が知り合いからファクスで送ってもらったという選手名簿に、顔を近づけた。


「もっと凄いのもあるよ。阿波踊りとアホをかけただけのアフォーレ鳴門なんて自虐的なのとか。それはそうと、あんまり密着してこないでよ、テバさん。刺すよ」


 露骨に迷惑そうな表情で、夜竹は、椅子をぐいと回転させて手針との間を空けた。


「あったあった、海南かじり虫のDFで、いいしゆう。身長百八十八」


 選手名簿にその名前を見つけた夜竹は、赤ペンで線を引いた。


「出身は熱海市で、伊東大付属高卒業だって」

「それだよ、それ!」


 手針の横にちんまりと立ち、心配そうに様子を伺っていたヤヨイさんは、いきなり興奮したように大きな声を上げると、夜竹へと詰め寄った。


「やい、ババア! 最初にしゆうかって聞いたら、そうっていってたじゃねえかよ。まったく人騒がせな」


 手針は文句をいった。実害を被ったわけではないが、Jリーガーのババアだなどと無駄に喜んでしまったではないか。


「耳が遠いんだからしょうがないだろ!」

「耳が遠いんだか天国が近いんだか、知らねえけどさ、自分の孫だと思っていたガシューをあんなに一生懸命になって応援してたんだろ? だったら、会いにいってやったら? 和歌山までさ」

「バカいうんじゃないよ。あんなろくでもない息子。啖呵切って出ていって、少しはやるじゃないかと思って応援してやっていたけど、それはあたしの勘違いで。実際、どんなとこにいるのか知ってみたら大したことないじゃないか、和歌山県の、三部所属だって? でっかくなるなどと大口叩いておきながら」

「県三部のなにが悪い? たいしたことないリーグなんてねえんだよ!」


 手針は怒鳴り、椅子を蹴飛ばした。

 椅子は回転しながら壁にぶつかり、ばきりと音がして背もたれの部分が折れてしまった。


「みんなよ、夢のためにリスク背負って頑張ってんだからよ」


 手針は拳を握り締めた。


「テバさん、椅子弁償してよね」


 夜竹直子は容赦ない。

 などとやっている、その裏で、


「あ、はい、すんませんねしろやまさん。お願いします……あ、はじめまして、飯田君? 東海社会人リーグの熱海エスターテというクラブでコーチをやっている吉岡です。話、城山さんに聞いたね? じゃ、おばあちゃんに代わるから。おばあちゃん、はい、電話お孫さんと繋がってるよ」


 吉岡コーチは、携帯電話をヤヨイさんへと差し出した。


 あとから手針たちが聞いた話によると、和歌山のサッカークラブ海南かじり虫のトレーナーであるしろやまたけしと吉岡さんは、高校のサッカー部の先輩後輩だとのこと。たまに連絡を取り合うような仲であったため、該当の人物の名前が選手名簿の中に見つかったと判明するなり、すぐに城山さんへコンタクトを取ったのである。


 嫌だ出るもんかと最初は渋っていたヤヨイさんであったが、吉岡さんがあまりにしつこいので、諦めたように携帯電話を受け取った。


「もしもし?」


 電話を代わったヤヨイさんは怪訝そうな、確かめるような口調で話し始めた。


「秀治? バカ、元気に決まってるだろ。お前みたいなでっかい荷物が消えちまって、のびのびしてるよ。……ご飯、ちゃんと食べてんのかい?」


 会話の中でヤヨイさんはしきりと、寂しくない、辛くなどない、と強がり続けていたが、しかし、その目にじんわりと滲んだ涙が、すべてを物語っていた。


     7

 九月一二日 日曜日

 東海社会人一部リーグ 第十一節

 熱海エスターテ 対 飛騨フォーコーダ

 会場 飛騨競技場


 試合開始まであと三十分。

 ウォーミングアップのために、両チームの選手ともピッチに姿を現した。

 ドンドンドンドン、と太鼓の音と歓声とで、サポーターたちはそれぞれ、選手の戦意を高め、そして自分たちを盛り上げた。

 今日の試合は、飛騨フォーコーダのホームゲームである。

 飛騨フォーコーダ、選手たちの服装は上下とも黒で、ファーストユニフォームとしては実に珍しい配色である。

 パンツの裾や半袖からは、鎖帷子模様のタイツが見えている。

 飛騨ということで、忍者をイメージしたユニフォームということらしい。

 胸には母体である「飛騨製鉄」の文字。

 ガチガチのイメージの強い企業であるが故の、ユニフォームへの遊び心なのであろうか。

 なお敵地へ乗り込んできた熱海エスターテは、白いシャツに水色のパンツというセカンドユニフォーム。胸にはお馴染み「熱海こづゑ旅館」。


 ドドンドドンドン フォルツァ! 飛騨!

 ドドンドドンドン フォルツァ! 飛騨!


 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン 熱海エスターテ!


 おりゃあ! と叫びながら渾身の力を込め、ドンガドンガと太鼓を打ち鳴らす覆面男、ばりきよみつ


「おい、テバちゃんよ、あれ」


 というムキムキマッチョのジロさんの声に、手針は手を休めずに彼の指さすほうに視線を向けた。

 そこに見えるのは、老婆、飯田ヤヨイさんの姿ではないか。

 これまで見たのは単なる和装の私服姿であったが、なんと今日は、その上から熱海エスターテのレプリカユニフォームを着込んでいる。頭にはハチマキをまいており、そこには「目指せJ」の文字がマジックで書かれている。

 熱海ならば近いし観戦料が無料だし、スタジアムにいても不思議はないが、ここは岐阜県飛騨市、ほとんど富山県だというのに。

 しかも、レプリカユニフォームまで着て。


「どうしたんだよ、ヤヨイさん! こんなとこまで来ちゃって」


 手針は手を休め、柵に身を乗り出すようにして手を振り上げている老婆へと、大声で尋ねた。


「和歌山のチーム応援すんじゃないのかよ!」


 ジロさんが続いて尋ねた。

 彼らの声に、ヤヨイさんは気付き、振り向いた。そして、


「サポーターに移籍はない!」


 そうきっぱりと、いい切ったのである。


「とりあえずのところはさ、縁ってことでガシューを応援するよ」


 そういうと、彼女は楽しげに笑ったのである。ただでさえシワシワの顔を、さらにシワシワにして。


「おお、ニックネームだ!」


 こうしてここにまた一人、熱い魂を持つ熱海エスターテサポーターが誕生したのであった。


 奪取ダッシュ! しが~ 奪取ダッシュ! しが~ 志・賀・修・司!

 奪取ダッシュ! しが~ 奪取ダッシュ! しが~ 志・賀・修・司!


 ヤヨイさんも他のみんなと一緒になって、身振り、手振り、絶叫。

 手針の太鼓の音が、神よ聞けとばかりに飛騨の山奥に響き渡る。

 選手全員のコールも終わり、十三時ジャスト、試合はキックオフの時間を迎えた。

 熱海エスターテサポーターは手を叩き、振り上げ、そして吼えた。

 前期同様に飛騨フォーコーダを叩き、ずっと低迷している調子を今度こそ取り戻す。

 そして絶対に一部残留だ!


     8

 というサポーターの願い、結局のところ、またしてもかなわなかった。

 結果は2-2の引き分けであった。

 二得点をよしとするか、二失点をダメとするか。

 この日、他会場では残留を争うライバルが二チームとも勝利した。勝ち点一しか稼げなかった熱海エスターテは、ついに最下位まで落ちた。


「ガシュー! あたしの修司ちゃん、今度こそ勝っておくれよ!」


 試合後の挨拶にくる選手たち。

 ヤヨイさんの叫びに、志賀修司は拳を握り締め、力強くガッツポーズを作った。

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