第五章 勝利でござる
1
ラ・メール。
熱海駅から海岸沿いに出て、自動車で十五分ほど南へ行ったところにある、高級フランスレストランである。名前は、海という意味のフランス語だ。何故かシェフが全員中国人。
そのレストランの、一番窓から離れた奥のテーブルに、
サーカスで熊が跨っている自転車のごとく、椅子が非常にちんまりとして見え、実際ぎしぎしと軋んでおり、いまにもぺしゃんこに押し潰されそうだ。
窓際にも充分に空席があるというのに、奥へと押し込められているのは、店側が見栄えというか店の品格維持を気にしてのことであろうか。
仮にそうであるとしても、無理もない。
手針清光ほど、このような場が似合わない男も、そうはいないだろうからだ。
プロレスラーなみの巨漢というだけならまだしも、よれよれの服に、無精髭、粗野なオーラ。どんなにしっかり風呂で身体を洗って無臭であるとしても、それでも見る者の鼻腔を突き刺し貫くいわば精神的悪臭。
そもそも本来、手針のような男が一人でおいそれと来られるような安いレストランではないのである。
ただし本日、手針は一人で来ているわけではなかった。
対面には、三十歳くらいの女性。
そして手針の右手には、毛髪寂しい五十男、手針の勤める会社の社長、
社長と女性とそして変態一匹が、果たしてこのようなところでなにをしているのであろうか。
察しの良い方は、もしやと思われているかも知れない。
そう、お見合いである。
手針清光と、この女性との。
年齢的には二人は同年代のようであるが、しかし中田社長とこの女性のお見合いといわれたほうが、よほどしっくりとくるものがあろう。反対に、手針のお見合いということに現実感がなさすぎるだけなのであるが。
しかし中田社長のお見合いだとすると、じゃあこの同席してるデブは何者だ、となってしまうし、誠に信じがたいことではあるが、やはりこれは手針と女性とのお見合いなのであろう。
手針は以前、社長からお見合いの件を持ちかけられて、断ったことがある。しかし先週のこと、また社長に声をかけられ、しかも今度は絶対命令とのことで、とりあえ手持ちのスーツなどを着て、ここへやってきたというわけである。
スーツといっても立派なものではなく実によれよれで、ところどころほつれた糸が見えている。最近さらに太ったのか、ワイシャツが張り裂けそうなくらいにぽっこりとお腹が膨らんでおり、傍目にえらい有様であった。
外国の有名なアニメで、ウンコみたいな色をした熊が人様の蜂蜜を盗み食いしておいて、お腹を叩きながら幸せそうな顔で、ボクもう食べらんな~いなどと抜かしているシーンがあるが、それを彷彿とさせるものがあった。
とはいえ、手針の胃袋は、現在まったく満たされてなどはいなかったが。
まだ一口たりとも、食事に手をつけていないからだ。
こんなところでの作法などまったく知らず、どうしたものか困っているところである。
作法無茶苦茶で嫌われようとも知ったことか、と思っていたので、まったく学んでこなかったのだ。
むしろブチ壊す気満々だったので。
食事の仕方で嫌われようが、服のセンスで嫌われようが、顔や体型で嫌われようが、屁を漏らして嫌われようが、どうでもいいわい、と。
おれの性格や容姿をよく知っている社長が話を持ってきたんだ。どうせ超が六万五千五百三十五回くらい付くような、そんなブスに決まっている、と。
しかし、しかししかしのしかしである。お見合い相手というのが、いざ会ってみると、これがなかなかに綺麗な女性であったのだ。
しかも……
「手針さんは、あの、コンピュータの技師をやってらっしゃるとか」
「え、ええ、似たようなもんです」
「凄いんですね。尊敬しちゃいます」
「大したもんじゃありません」
「いえいえ。見た目もなんだかしっかりと、きりっとされていて
「いや、しゃれっ気もなにもない、こんな、髭面で」
「男性らしくていいじゃないですか。身体だって、ほんとがっしりとしていて」
と、どうやら自分に好意を持っているっぽい様子が会話から伺えてくるではないか。まあ実際は、手針の身体はがっしりなどしてはおらず、筋肉ゼロ脂肪オンリーの、もにょろんもにょろんもいいところなのであるが。
かわいらしくもあり、大人の色気を持つ美人でもある、そんな容姿の女性が、なおかつ性格も良さそうであり、なおかつ自分に好意を抱いているらしい。これはもう、身体の一部がホットホットになって、下からテーブルを突き上げてがたがた揺らしてしまいそうなくらい、手針に夢と興奮を与えるシチュエーションであった。
馴染みのコンビニに、かわいい顔をした若い女性店員がいる。手針の会計だと絶対に手が接触することがないよう化学実験のごとく慎重に釣銭を渡してくるくせに、ハンサムな客には自ら相手の手を両手でぎゅっと握って釣銭を渡すのである。等など常にそんなような目にばかり遭っているので、手針は容姿の良い女性に対しては構えてしまうところがあるのだ。
とはいえ、秋田犬ジロー乱入事件で知り合った
とにかくこのようにして、手針の方こそこの女性、
結婚、
暖かな、幸せな家庭を持ち、
夜にはかかさずホットホット。
そんな人生など無縁と思い、ほとんど想像すらしたことがなかったというのに、手針はとてもリアルにそんな幸せライフを想像して、薄ら気持ちの悪い顔でニヤけていた。
その後も、二人の会話は弾んだ。
女性と話すことなどほぼ皆無で話下手な手針が、会話を弾ませることが出来たのは、伊草美恵子のほうが上手に合わせたり引き出したりしたためであった。付き添った中田社長の出る幕などないくらい、実に巧みに。
すっかり舞い上がってしまっていた手針であったが、サッカーの話題だけは出さないようにと、そこだけはしっかり気を引き締めていた。
オタク野郎だとばれたくなかったからだ。
勿論、最初は嫌われる気満々だったので、自らのオタぶりをとっとと公表してやるつもりであったのだが、しかし会ってみたらあまりに綺麗な女性であったので。
この女性が偶然にもサッカーや熱海エスターテを好きな可能性もあるけども、そうでないかどうかも分からないのだし、ちょっと様子をみてみよう。
ライナマーレ岡崎の野郎が調子いいぜチクショウこのままではJFLに昇格されてしまう、くそ悔しい! など、そんな話はとりあえず封印だ。なにがライナマーレだバカ野郎。
あんな、海もないのにマーレなんか付けやがって、しかもライナーなどと英語なんぞとかけちまった、やっちまったな名前のクラブ、潰れろ。このボケミソが! などと文句をいうのも今日は封印だ。
だから、
「手針さんは、どんなスポーツがお好きなんですか?」
と質問を受けた際、
「はいっ、セパタクローとポートボールです! あとカバディ!」
と答えていた。
彼女に好かれようと。
だがしかしというべきか、そこで手針清光は、彼女から衝撃的な事実を聞かされることになったのであった。
「そうなんですか。わたしは、観るのはなんでも好きですね」
と、笑顔でいったあと、さらりとその衝撃的な言葉を続けたのである。
「サッカー以外は」
ガガガカ ガーン!
ピアノの鍵盤を乱暴に叩きまくったかのような音が、手針の頭の中に響いていた。
響いてはいたけれど、それはそれとして置いといて、
「はい、ぼくもサッカー、大嫌いなんです」
笑顔でそう即答していた。
「よかった、手針さんがサッカーを好きっていったら、どうしようかと思っちゃいました」
彼女は、両手を胸の前でぎゅっと組んで、可愛らしい笑顔を見せた。
「あんな格闘技だかなんだか分からない乱暴なスヤポーツ、好きなわけないですよお、ボクのような草食系紳士が」
嫌われたくないあまり、反射的に即答したはいいが、しかし、やはり、迷っていた。
熱海エスターテか、
それともホットホットか。
2
今日、地球が爆発しなかったこと。
それは、未来永劫二度と起こり得ない奇跡といっても過言ではなかった。
我々はその、自らに生があり、仰ぐ空があり踏み締める大地があるという奇跡に感謝しなければならない。
本来ならば、すべてが吹っ飛んでなくなっていたはずなのだから。あの猿のやたら出てくるクソ古い映画の第二弾のラストシーンのように、木っ端みじんに。
なにごとが起きたのかを説明すると、なんと
しかも場所は遊園地。まるで十代のカップルだ。
これで地球が吹っ飛ばなかったら、いつ吹っ飛ぶのか。地球はかくも頑丈なのか。
相手の女性とは勿論、
先日お見合いをした相手だ。
手こそ繋いではいないものの、歩く二人の肩は非常に近く、なんだか繋ぐのも時間の問題という感じであった。
「手針さんみたいな人、好きですよ」
不意にそんな言葉を投げ掛けられ、手針の頭の中は真っ白になっていた。
これまでどんな会話をしていたのだろうか。
たった数秒前のことなのに、それすら思い出せない。
それほどに、伊草美恵子のその言葉は、手針の脂肪の奥にある心臓をズッキュンモエエとぶち抜いていたのである。
手針は呆けた表情で横を向いて、彼女の顔を見つめていた。
伊草美恵子もまた、顔を向け、見つめ返していた。
どくん、
と、また手針の心臓は大きく高鳴った。
ただ見つめ合うだけの、無言の時間、その濃密さに、一秒が何年ものように、永久の長さに感じられた。
どれくらい長いかというと、去年のJFL第四節、エアーズ和歌山戦で、二人少ない中を耐えきって勝利した時の、あの後半ロスタイムくらい。でもあれ、小川主審のクソ野郎、実際に三分以上はとってたよな。なにが一分だよ。わけ分からんカードの連発でこっちばかり退場させるしよ。小川、氏ね!
いかんいかん、いまはサッカーのことを考えてはダメだ。
エスターテのことを考えるな。
精神統一精神統一!
忍々でござる!
どどんどどんどん熱海エスターテ!
どどんどどんどん熱海エスターテ!
あったっみっ!
ウッ、ハッ、あったっみっ! ウッハッあたみっ!
精神統一しようと必死なのかも知れないが、思考回路矛盾しまくりもいいところな手針清光、三十三歳、童貞卒業候補であった。
「どうかしました?」
伊草美恵子は不思議そうなおかしそうな顔で、卒業候補生の顔をじっと見ていた。
「いえ、別にっ! エスターテのことなんか考えてません! サッカーてーいっ! サッカーてーいっ!」
手針は唐突に、自分の影をだしだしと踏み付け始めた。
行動は意味不明であるが、どうやら必死でサッカー嫌いをアピールしようとしているようである。
まずはこのように自分のサッカー嫌いをアピールしておいて、嫌われないようにしておいて、いずれ、そのうち、少しずつ矯正していけばいいだろう、と。
「おれっ、いやボクッ、おれボクッ、アイスクリームかなんか挿入、じゃなくて購入してきますィッツ!」
手針はそういうと、お腹の脂肪をぶるんぶるん縦横無尽に揺らして、売店へ向けて走り出した。
どてどてもにょもにょと走って走って、伊草美恵子の姿が見えなくなると、そこでおもむろに手針はしゃがみ込み、自分の影をなでなでした。
「エスタ、すまんエスタ」
涙目になって、謝り始めた。
影と熱海エスターテとがどうシンクロしているのかは分からないが、手針の脳内ではなにか関係があるのだろう。
と、その時である。
手針は、自分の全身の脂肪にむちょんむちょんと突き刺さる熱い視線に気付き、素早くその方向へと顔を向けた。
小学校中学年から高学年くらいに見える三人の男の子が、自動販売機の陰に隠れようとしているところであった。
「さっきも見てたよなぁ、お前ら!」
手針は睨みつけ、立ち上がった。
この遊園地に入ってすぐのところで、遠くから見ていた三人だ。
手針が何気なくそちらを見た瞬間に、ぷいっと三人揃って視線をかわしたことから、よく覚えていたのだ。
「やべっ」
「逃げろ!」
かくして三人の子供たちは、間髪入れず、一目散に走って逃げ出したのであった。
さて、カメラはちょっとだけ手針から離れ、この子供たちを追おう。
走る。走る。
子供たちは、ひたすら走る。
植木を乗り越え、こども機関車の柵を越え線路を越え、トランポリン場を抜け、催事場を抜け、メリーゴーランドのところまで辿り着くと、そこでようやくと足を止めた。
「もう、いいかな」
中くらいの背の子。
「デブだし、追っ掛けてこらんねえよ」
お兄ちゃんかな? 一番でっかい子。
「兄ちゃん、なんで、逃げなきゃいけないの?」
一番ちっちゃい子。
三人の男の子たちは、ぜいぜいと苦しげに息を切らせている。
と、その時であった。
「不埒な悪党ども、あっ、いざ神妙にするなりィ~~っ」
先ほどのデブ男の、歌舞伎のような声が聞こえたかと思ったら、突如そのデブがメリーゴーランドの馬に跨り揺られ、三人の前に姿を見せた。
デブ男、手針清光である。
「うわあ」
追っ手の唐突な出現に、子供たちは悲鳴を上げたまま硬直してしまっていた。
しかし、メリーゴーランドの馬は手針を乗せてかっくんと上下に揺れながら、子供たちの前を通り過ぎて行ってしまった。
「おい、くそ、止まれよ馬!」
手針は慌てて馬から降りようとして、足を滑らせてバランスを崩し、頭から落ちた。
首に超肥満生命体の全体重がかかり、ごぎ、と嫌な音が響いた。
かなりの高確率で、即死であろう。
「お客さん、もう、無茶はやめてください! 回ってる最中に降りないでくださいよ!」
係員が、心底迷惑といった表情を隠しもせずに手針に近付いてきて、ごろごろ転がして救出してやった。
ぐったりしている手針の耳に届いていないのをいいことに、この太っちょがなどとぶつぶつ文句をいいながら。
「大丈夫かよ、おっさん」
救出されて寝転がる手針を、三人の男の子が取り囲んでいた。その中の、一番大きな子が話し掛けたのである。
逃げようとしていた三人であるが、手針のこのあまりの惨めさに、さすがに放っておけなかったものと思われる。
「ああ、ボクたちのお父さん? ちゃんとルールを守って遊んでねって、あとで教えてあげてね」
係員はそういうと、立ち上がり、もう関係ないとばかり自分の持ち場へと戻っていった。
「いってえくそ」
手針清光は意識を取り戻し、ゆっくりと上体を起こした。
奇跡的になんともなかったようである。
首の周辺もむにょんむにょんの脂肪に包まれているので、それがクッションとなったのだろうか。
「なんだよ、お前らはよ」
手針は子供たちを睨みつけながら、立ち上がった。
「デブのおっさん、お前、おれたちの母ちゃんと結婚すんのか?」
一番背の高い子供が、睨み返しながら、質問を返した。
「なにいっ?」
手針は思わず飛び上がっていた。往年のギャグ「飛びます飛びます」のような仕草で。
「お前らの、母ちゃんだと?」
「うん。ひょっとして、聞いてなかった?」
「聞いてねえよ、そんな話。……ひょっとして、詐欺かよ」
くそ、せっかく綺麗な女性だと思っていたのに。
「いや、うちではおれたちにも、そういう話をしているから、だからまだデブのおっさんに話してないだけだと思うけど」
「そっか。しかしくそ、子持ちかよ。……養育費目当てかな。なあ、お前らん家って貧乏なのか?」
「デブのおっさんの仕事知らないけど、たぶんおっさんの生涯年収分のお金をギャンブルですっても痛くも痒くもないくらいには、金持ちだと思う」
「お前ん家が金持ちなのか、うちが貧乏なのか分かんねえだろ。まあ、どうせうちは貧乏だよ。男なんてなあ、エスターテの遠征に行かれるくらいの金がありゃあいいんだよ!」
と、手針が貧乏を格好付けていると、
「
女性の、子供を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
伊草美恵子であった。
子供たちはその声に反応し、びくりと身体を震わせ、「やべっ」などと慌てたりしていたが、逃げようとはせずに、むしろその場に立ちすくんでしまった。
3
「熱海エスターテ、解禁でござる!」
うおおおおおおっ
ドンドンドンドンドン!
ぶおおー
ぶおおー
勝どきの叫びとともに、法螺貝の音が鳴り響いた。
解禁といっても、別になんのことはない。仕事を終えて、自分の家に帰宅したというだけの話である。
しかし、サッカー好きというか熱海エスターテ好きがばれないように、社内でも、念のために外でも、それっぽい言動は慎んでいるため、現在の手針にとって家の中だけが自らを解放出来る唯一の空間なのである。
何故、慎む必要があるかというと、それは勿論、
先日、彼女が
子供がいようとも関係ない。ケン、ジョー、ジュン♪ ってまるでガッチャ○ンみたいなのがなんか引っかかるけど。あと二人いるんじゃないだろうな。
とかそんなことどうでもよくて、それよりなにより大事なのは、自分が伊草美恵子とどうなりたいのかである。
つまり自分が、彼女と結婚したいかどうかである。
結婚するということは、つまり童貞卒業どころの騒ぎではなく、毎日やりたい放題ということである。
嗚呼、それはまさに甘美な果実。
と、近々やってくるであろうリオのカーニバルを想像して夜な夜なオナニーをしてしまう手針であったが、それは後回しにして、とりあえずは帰宅したばかりだし、パソコンを起動して熱海エスターテの最新情報をチェックだ。
と、手針はパソコンの電源スイッチを押した。
熱海エスターテサポーターであること。やはり、こればかりは、例え結婚しようとも簡単にやめられるものではなかった。
まだ彼女には話していない。
事実は結婚してから明かすべきか、それとも先に明かすべきか。それともはっきりとは明かさずに、なんとか意識操作をしてこちらに引き寄せる手段を考えるか。例えば比較的ハンサムな
「兄ちゃん電話」
妹の
この女、どう考えても単なる太った豚だよな。体型といい、顔といい。そのくせしやがって、なんと彼氏がいるんだよな。バッファローの大群に踏みつけられたような顔しているくせに。じゃあ、おれが綺麗な女性と結婚してても、別におかしくはないってことだよな。
と、妹の顔をじーっと見ていると、妹の方こそ手針の顔を怪訝そうにじーっと見ていることに気が付いて、兄貴は慌てたように受話器を引ったくった。
「よこせ、このくそデブが!」
「お前ほど太ってない」
恵子はそういうと、足でドアを閉め出て行った。
誰だよ、と受話器を耳に当てると、なんとなんと電話の相手は伊草美恵子からであった。
自宅でほっと一息ついていた手針であったが、一瞬で気を引き締めた。
熱海エスターテ、再び鎖国でござる!
熱海城完全封鎖、秘宝館も無念の閉鎖でござる!
ぶおおー
ぶおおー
ドンドンドンドンドンドン!
さて、その電話の用件であるが、彼女の両親が愛知から来ることになったので、電話でその打ち合わせをしたいとのことであった。
それ自体は別に構わないのだが、指定されたその日時が問題であった。
何故ならばその日はちょうど熱海エスターテの試合の日、そしてちょうど試合と被る時間であったのだ。
しかもしかもさらにさらに、残留のかかった大事な最終節。
なんとかその前日の土曜にするか、または時間だけでもずらせないかと手針は打診したが、もう両親の細かな予定が決まってしまっているので無理とのこと。
Oh……
どうするか……
手針は困り、焦った。
神の与えるこの運命を呪った。
無理なのだろうか。
すべての栄冠をその手に掴むことは。すべてというか二つか。
結婚して、晴れて童貞卒業と、
熱海を応援して、めでたく社会人リーグ卒業と、
その、二つの卒業、双方の栄冠、手に入れるどころか手を差し出すことすらも神様は許さないということなのであろうか。
あ、いや、どのみち社会人リーグは少なくともあと一年は留年が決定しているのだが。
ならば、確実に卒業が出来るのは童貞の方か。
金輪際オナニーをしなくてもいい人生。
これはこれで、実に甘美な、魅力のあるものであった。
ケンジョージュンのコブつきにはなるけれど、差し引きで考えれば屁でもないくらいの。
美人、金持ち、そんな女性がさらに自分に好意を持っているということ自体が奇跡のようなもの。
ならば、それ以上を望むは罪であろうか。
ああ、罪なのであろう。
ならば捨てよう。
捨てようぞ。
さらば熱海エスターテ。
すばらしき日々を、ありがとう。
開門!
開門でござる!
ぶおおー
ぶおおー
4
世界一煮え切らぬ男、
なにが煮え切らないのかというと、熱海エスターテをきっぱり忘れると決意して、お見合い相手である
熱海エスターテと決別して汗と脂肪の染み込んだ太鼓をダーヤマ君に託した手針であったが、やはり心から捨て去ることは出来なかったのだ。
ならばせめて自分の心の中にだけでも、サポーター復帰を堂々と誓えばよいのに、いや、あと一試合だけ、この試合だけ、これが終ったらもう金輪際っ、などと、自分の心の中ですらも見苦しく必死にいいわけをしているのである。
これが煮え切らないといわずして、なにをそういおうか。
この試合だけでもっ、もなにも、どのみち今日が今年最後のリーグ戦なのであるが。
「なんだこらホー! まだ開始十分だぞ!」
手針はジロさんからの速報に、怒鳴り声をなんとか押し殺して、呆れ声を上げていた。それでもどれだけ大きな声が出てしまったいたか、分かったものではないが。
なお「こらホー」という叫びは別に熱海弁ではない。これはよお、といおうとして、店内の乾燥に喉がくっついてそうなってしまっただけである。
そんなことよりも、手針が呆れ叫んだ理由を説明しよう。
今日はリーグ最終節である土岐カンパヌーライレブン戦が、この近く、熱海市内のかもめ公園陸上競技場で行われているのだが、ただいまのジロさんの報告によると序盤、前半十分で先制されたということらしい。それでこらホーなどと叫んでしまったのである。
「くそ、なにやってんだよ。また太郎が前に出すぎていて、やられたんじゃねえだろうな。それかオウンゴールかな。畜生、試合、行きてえな。応援してえな」
手針はぐっと拳を握り締めた。力んだ拍子に思わず屁が漏れた。
しかし、残留争いが、こんな、最終節までもつれこんでしまうとは。
リーグ開幕当初は、この時期にはとっくに昇格を決めて消化試合になっていることを信じて疑っていなかったのに、それがこんなことになっているとは。
「絶対に、勝てよ」
手針はトイレの壁を叩いた。
今日の試合、残留争いの当事者ど真ん中である熱海エスターテとしては、絶対に落とせない戦いであった。
ど真ん中もど真ん中、まさに現在単独最下位なのだから。
本日の試合は最終節であるため、負ければ当然、来期からの地域リーグ二部への降格が決まる。
勝たねばならないのであるが、残留のためにはただ勝利するだけでなく、四点差以上をつけなければならない。
残留争いのライバルは、チーム鳥羽。もうここしか、追い抜ける可能性のある相手がいない。
チーム鳥羽は、前節まではエスターテと勝ち点で並び、得失点差で少しだけ優位に立っていた。昨日の土曜日、一足先に試合を行ったのであるが、そこで三対一で勝ってしまったため、熱海エスターテとしては得失点差が大きく引き離されてしまったのである。
すっきり単純に考えるのならば、とにかく今日の試合で大量得点で圧勝すればいい。それだけで残留決定だ。
しかし、それが出来ないからこの順位にいるわけであり、実際、今日も序盤で先制されてしまっている。
残留への道、黄色信号どころではなかった。死のドラゴンロードである。
チーム鳥羽が落ちるのなら、まだいい。
知名度もないし、降格したことすら、誰の記憶からも忘れられるだろう。
当人たちからすれば、ふざけたこというな、というところであろうが、少なくとも手針はそう思っている。
もともとが社会人リーグの一部と二部を行ったり来たりしているだけの、特にJリーグやJFL入りを目指しているわけでもない、サポーターの数にしても、いないにも等しい程度の数で、要は存在価値なんかねーだろこの野郎。と。
しかしである。
熱海エスターテが降格したとなれば、状況はまるで異なる。
去年までJFLに所属していた、Jリーグ入りを目指すクラブであり、知名度もそれなりにあるからだ。
それがJFL参入を果たせなかったばかりか、社会人一部をサッと忍者のごとく一瞬で通り過ぎて二部へ真っ逆さまなど、恥もいいところで、サポーターも全員が切腹しなければならないような、そんなレベルである。許されても、一生オナ禁といったくらいのものか。
だから、今日は本当に、絶対に、残留して欲しいのだが。オナ禁がどうこうではなく、クラブ愛として真剣に。
それには勝利が、絶対条件なのであるが。
「なのに、なに先制されてんだよ……」
手針はまたどんと壁を叩くと、パソコンなど膝の上に広げた物をこちょこちょとバッグにしまい、トイレを出た。
「おい、おっさん、デブのおっさんデブのおっさんっ!」
通路の曲がり角から男の子が、まるで漫画のように縦に三人顔をならべてこちらを見ていた。
伊草美恵子の息子たちである
ささやくような声で呼び掛けていたのは、一番上、長男の健一であった。
「お前らか。なんだ、お前らも来てたのかよ。全然姿見えなかったけど」
「勝手に来たんだよ。じいちゃんばあちゃんとデブのおっさんが、会うって聞いて。だから、母ちゃんたちはなにも知らない」
三人は、手針のもとに歩み寄ってきた。
「そっか。しかしデブデブうるせえんだよ、お前。ここにおっさん一人しかいねえだろうがよ。デブデブいわなくても分かんだよバーカ、デブデブいわなくてもよ」
「あのさ、デブのおっさん、お前、本当に母ちゃんと結婚するつもりかよ?」
尋ねる健一。その表情は、乱暴な口調と裏腹に、実に真面目なものであった。
それに少し押され、呑まれかけた手針であったが、ぐっとこらえて虚勢を張った。
「バカか。そのために見合いしたんだろが。で、いま親と会ってんだろうが。だったら順調にいきゃあ、そうなるだろ」
「あのな、母ちゃんな、デブのおっさんが本当はサッカー好きなこと、知ってるぞ。最初から」
その一言は、手針の脂肪をすり抜けて心臓を鷲掴みにするものであった。
額から、じょろ、と脂肪のような汗が染み出した。
「おい……ほんとかよ」
手針が好きなのはサッカーというよりは熱海エスターテであるが、他人にはサッカーの文字で一括りであろう。
「本当だよ。それを知った上で色々なことを仕掛けて、いうことを聞く男かどうかを確認していただけだぞ。なんで結婚したがっているかというと、シングルマザーという体裁をじいちゃんばあちゃんが気にしてうるさいということと、母ちゃんは母ちゃんで、どうせなら傀儡になるような、なるべくバカな男が欲しいだけ。それと、義理の父ちゃんとしておれたちの面倒を見させようとしているだけだ。ファッションの仕事で忙しいからな」
「傀儡とかなんとか、難しい言葉知ってやがんな。アニメオタクかお前は」
そういったきり、手針はしばらく言葉が出なかった。
三十秒ほど、無言であっただろうか。
ようやく、ゆっくりと口を開いた。
「……でも、それじゃあ、別にサッカーを嫌いというわけじゃ」
「いや、嫌いというのも本当。もうヘドが出るくらいに嫌い。唯一振られたことある相手が、高校の先輩でサッカー部だったんだって。愛知に住んでた頃、金にものをいわせて近所のサッカー場やサッカークラブを潰したこともある」
「なんだそりゃ」
「だから結婚なんかしたら、二度と観戦なんか出来ないぞ。GPSで監視されたりして。おれたちの本当の父ちゃんは、特にそういう趣味なんかなかったけど、それでも厳重に監視されてて、それが嫌で逃げちゃったんだもん。さすがにそこまでサッカー嫌っているのが結婚前にバレたら、デブのおっさんも拒絶感を示してくるかも知れないし、おいおいとサッカー嫌いにしていけばいい、なんていってたよ」
「そう、なのか……」
じょっ、じょっ、と再び脂肪のような汗が額から噴き出した。極めれば、手針ダイエットとして本が売れるかも知れない。
手針は、ぎゅっと拳を握った。
なんだよそれ、おれの考えてたことと、まったくの反対じゃねえかよ。おいおいと嫌いにしていけばいいなんてよ。
……でもおれも、そんなこと聞かされるまでもなく、自ら進んでエスタから手を引こうかどうか迷ってたよな。つうか、もう太鼓もダーヤマに渡してあるし、今日の試合が終ったら心の中からも綺麗さっぱり忘れるって決めてたよな。
なら、いいんじゃないか。別に。
彼女がサッカーを嫌いでも、おれを好きでいてくれるのなら、いいんじゃないか。
いや、でも、それすらも本当の気持ちなのかどうか、分からないよな。
「……でよ、おれそのもののことは、なんていってた?」
手針は尋ねた。
しかし、健一は答えにくそうに黙っている。
「おい」
「そんなに悪くは、思ってはいないようだった」
かわりに、次男の丈二が、いつものおずおずとした様子のまま、答えた。
「お前バカかよ、丈二。そんなこと正直に話してどうすんだよ? こんなデブと結婚されたらどうすんだよ」
「だって……」
責められた丈二は顔を歪めて、いまにも泣きそうな表情にになっていた。
「なんだよ、結婚されたらどうすんだ、って、どういうことだよ」
「いま説明した通りのそんな親だけど、でもおれたちの母ちゃんだから、大好きだから、だから変なのとくっついて欲しくねえんだよ。お前どう見ても変な奴じゃねえか」
「うるせえな。エスタサポの中でも、おれは格段にまともなほうだよ」
などと手針が嘘八百を述べていると、先ほどから泣きそうな表情であった丈二がついに泣き出してしまった。
「なんだ、なに泣いてんだよお前。バカか」
「デブのおっさんは知らないけど、こいつもさ、実はサッカー好きなんだよ。プロ選手になるのが夢なんだよ。怖くて母ちゃんには黙っているけどよ。先回りしてびくびくしている惨めな気持ちが、いまこんな話してたから、爆発しちゃったんだよ。な」
兄の言葉に、丈二はまぶたを拭い、無言で頷いた。
「くだらねえ。だったら、戦えっつーの。まあ、お前らの気持ちは分かった。考えておいてやるよ、色々とさ」
自分こそ戦う気もないどころか、すっかり舞い上がって、綺麗さっぱりサポーターを辞めると誓っていたくせに。
「決めるのは母ちゃんと、デブのおっさんだけど、これだけ色々と隠してる事があるとフェアじゃないかなと思って、それでいいにきた。それじゃあな」
健一は、去り際に手針のお腹にパンチをくれた。うねるように、脂肪満載のお肉が揺れた。
三人の姿は見えなくなった。
一人、立ち尽くす手針。
しばらくして、小さく口を開いた。
「アホか。考えるまでも、ねえじゃねえか」
そうだ、なにも考える必要などない。
天秤にかける分銅の大小など、見比べるまでもないではないか。
おれがエスタを嫌いになりさえすれば、確実に手に入る富と愛情、そして連夜の快楽。
「童貞卒業証書授与、手針清光君! はいっ!」
手針はビシッと天高く右手を上げた。
女子トイレへ向かうと思われる若い女性客が、いきなり角からぬっと現れた。
怪訝そうな表情全開で、手針の横を足早に通り過ぎた。
手針も逃げるように、その場を退散した。
通路を出て、自分の席に戻った。
「どうもどうも、大学の時の仲間に声かけられて、ちょっと長引いちゃって」
と、嘘の弁解をし、伊草美恵子とその両親に頭を下げた。
両親はどちらも六十歳くらい。とりたてて特徴のない、中肉中背ごくごく平凡な容姿の二人である。
手針が嘘をついたのは、トイレがあまりに長かったのでウンコと勘違いされたかも知れないと思ったからだ。さすがに結婚という現実が近付くと、人様なみの羞恥心に目覚めるものなのであろう。
「手針さんってね、スポーツが好きなんですよ。セパタクローが大好きっておっしゃってたかしら。でもサッカーは嫌いって」
手針たちは、また当たり障りのない会話を始めていたが、そんな中、さっそく伊草美恵子のファイヤージャブがピシピシと炸裂した。先ほどまでまるで気付いていなかった手針であるが、彼女の息子たちから色々と教えられた現在となっては、よく分かる。
「そ、そう、サッカー、嫌いだす。セパタクローとカバディ最高!」
手針は万歳して喜んだ。
ぐぬぬ、と本心では自分を押さえ込みながら。
試されていることなど、分かっているというのに。
そもそも試されるまでもなく、おれ自身がエスタを捨てようとしていたはずなのに。
なら、いいじゃないか。
サッカー嫌い、エスタ嫌いで。
カバディ最高!
猛烈に最高!
手針は、たくさんのインド人たちが手を繋いでカバディガバディと唱えているところを想像し、自分を落ち着かせるべく精神統一を図った。一人増え、二人増え、インド人が四十人くらいになっていた。
「あ、熱海にっ、サッカークラブありますよねっ、最強のっ」
手針は、口元を引き攣らせながら、そんな一言を吐き出していた。
彼女から嫌悪の感情を引き出して、自らもその踏み絵をあえて踏むことで、完全に過去の自分と決別しようと思ったのである。
「ああ、あるらしいですね。名前を覚えるのも汚らわしくて、よく知りませんけど」
伊草美恵子はさらりとそういうと、はっと目を見開いていた。
ちょっと口を滑らせ過ぎてしまったことに気が付いたのであろう。
手針がその熱海のサッカークラブを応援していることを知っていて、少しずつ嫌いにしていこうと思っていたのに、いきなり刺激を与え過ぎてしまった、ということに。
「そ、そうっすよねー。ほんと、汚らわしい」
消え入りそうな、ぷるぷる震える口調の、手針。
手針の頭の中では、文字の書かれたプレートがぶら下がって、くるくるくるくると回っていた。
エスターテ
結婚
エスターテ
結婚
エスターテ
結婚、つうか要するに童貞卒業
エスターテ
童貞卒業
エスターテ
童貞卒業
エスターテ
熱海、うおたみ、わらわら
童貞卒業
エスターテ
童貞卒業
童貞卒業
か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、りっ
「このドブスがああああああ!」
手針は絶叫し、立ち上がっていた。
三人が慌てるのも構わず、テーブルの端をがっしと掴むと、渾身の力を込めてひっくり返してしまった。
巨漢のくせに異常に貧弱な筋力であるというのに、重たいテーブルをいとも簡単に。
人間は普段は三十パーセントの力しか発揮出来ないが、極限状態に身を投じることにより体内に眠っている残り七十パーセントの力を引き出すことが出来るという。まさにそれであろうか。
とにかく手針のぶん投げたテーブルは、宙を舞い、半回転して落ち、乗っていた皿などががしゃんがしゃんと砕け散った。
伊草美恵子やその両親たちが、そして周囲にいる客が悲鳴を上げた。
手針は、隣のテーブルからティーカップを勝手に拝借すると、悪魔払いの聖水のごとく中身を三人にぶちまけた。
「おれの女房は、エスターテだけだぜ!」
手針は奇声を張り上げると、バッグからタオルマフラーを取り出し、ぶんぶんぶんぶんと振り回し始めた。
「手針君、手針君! これはどういうつもりかね?」
伊草美恵子の父が、ようやく気を取り直し、怒鳴り声を上げた。
「手針君!」
わおおおおー、っと手針はなんだか裏声で甲高い奇天烈な叫び声を発しており、まったく聞いていない。
「違うんだ! このデブのおじさんは、ぼくのことを考えてくれてっ。戦わないぼくのことを、心配してくれてっ。もういいんだよ、デブのおじさんっ。ね、デブのおじさんっ、分かったから。分かったからっ!」
いつの間にか伊草美恵子の次男である丈二が、手針の後ろから、彼を懸命に止めようと叫んでいた。抱きつこうとしているものの、肉の質量差に、まるで腕を回すことが出来ず、ただ張り付いているだけであったが、しかし丈二は必死に止めようとしていた。
手針は単に自分の感情のまま動いているだけであったが、丈二は手針のこの態度を勝手に自分への叱咤のメッセージと受け取り、陰で見ていて感激してしまったようであった。
ああ、心優しい少年、伊草丈二。小学五年生。
それに比べて、まるで生きる価値のない脂肪まみれの中年男、手針清光、三十四歳。いっそのこと一生童貞でいて欲しい。
「おい、デブのおっさん! やめろよデブのおっさんっ!」
と、健一と純三が、丈二に加勢した。
しかし、子供三人の力では、完全に熱暴走しているテバンゲリオン初号機を停止させることなど出来ようはずもなかった。
手針はスプーンを持った両手を振り上げると、狂ったように隣のテーブルを叩き始めた。お客さんいるのに。
「ドドンドドンドン 熱海エスターテ!
ドドンドドンドン 熱海エスターテ!」
実際には、スプーンのカチカチとした音が鳴っているだけだが、手針の脳内では、迫力ある重低音ドルビーサラウンド5.1チャンネルで、太鼓のリズムが展開されていた。
「うおおおーっ! エスターテーッ! セイセイセーイッ!」
スプーンを放り投げると、またタオルマフラーを掴んで振り回し始めた。
気が済んだのか、いきなり正座をすると、マフラーなどを目の前のバッグにいそいそとしまい込み、チーーッと丁寧にファスナーを閉め、そして立ち上がった。
「今日は勝つぜ。絶対、残留だ!」
スーツを脱ぎ、床に叩き付けると、バッグを背負い、店内を走り出した。
もにょんもにょんとお腹が揺れる。
自動ドアを開け、店を飛び出すと、店舗脇にあるバイク自転車置き場へ。
ロックを外し、からから引き出すと、一旦後退して自転車から離れ、突如ダッシュ。ジャンプして、真横から自転車のサドルへと飛び乗った。
当たり前だが慣性の法則で、そのまま横へと倒れ転げてしまうが、すぐに立ち上がり自転車を起こすと、今度はそおっと慎重にまたがり、そしてペダルを踏んだ。
だん、だん、だん、だん、だんだん♪
テバンゲリオン初号機、発進!
5
「のろらあっ!」
妙ちくりんな雄叫びを上げ、男は、宙を飛んでいた。
逆光を受けて自転車に乗った巨大な熊のようなシルエットが、その叫びに驚いて見上げた観客たちの視界に飛び込んだ。
そう、ついにあの男が、かもめ公園陸上競技場へと乗り込んできたのである。
あの男、
その無駄に巨大な背中には、秋田犬のジローががっしとしがみついている。応援する仲間は多いほど良い、と道中でたまたま、あかねさんが散歩させているところを見付け、連れ攫ってきたのだ。
天から舞い降り、着地をした瞬間、ぎゃしゃっと金属の軋む嫌な音がしたが、手針は構わず強引にペダルを踏み付けて、漕ぎ、走らせ続けた。
客席最前列の通路を、コアサポたちのいるゴール裏へと向かって疾走する。
ゴール裏の直前で、急ハンドルを切った。
ざりざりざりざり、
と生意気にドリフト走行などやっていると、突然、後輪が破裂した。手針の巨体を毎日支え続けてきたタイヤが、脆くなっていたようだ。
手針の自重により勢いのついた慣性の法則を打ち消すことが出来ず、自転車は、そのまま横転した。
「いてっつ!」
その上から手針の巨体が落ち、自転車はフレームが潰されてひしゃげた。ハンドル部分がもげ、前輪のスポークがぐしゃぐしゃに歪み、外れて跳ね上がった。
大破である。
長年愛用してきた実用自転車が、一瞬にしてスクラップになってしまった。
「テバちゃん、来ると思ってたぜ」
自ら潰した自転車の上で、横転の衝撃で動けなくなっている手針に、ジロさん(人間のほう)が、手を差し延べた。
「当たり前だろ」
手針は、ジロさんの手を掴み、起き上がった。
改めて、二人はがっちりと握手をかわすのであった。
かくして手針清光は、強襲揚陸艦で敵戦艦へと無事に乗り込むことに成功。
ぐるり、先発隊である仲間たちの顔を見回した。
ジロさん、我孫子夫妻、ダーヤマ君、シュリンプ、畑岡君、飯田氏、長老さん、ヤヨイさん、シゲさん、そして犬のジロー。
これまで一緒に戦ってきた、勇士たちの顔を。
ふと気付けば、その中には珍しい人物も混じっていた。熱海エスターテ広報の
「どうした二人とも、一サポーターに転向かよ?」
「今日は、決戦みたいなものだからね」
夜竹直子は笑み、答えた。
二人は熱海エスターテのスタッフという身分であるが、残留のかかったこの試合、どうしてもこの戦友たちと一緒に熱い声援を送りたかったようである。
特に夜竹は、熱海がJ2に参入することを考慮して雇われた身分であり、来年にはここからいなくなる可能性が高い。なおさら、思い残すことなくという気持ちは強いのであろう。
二人とも普段は黒いスーツ姿であるが、今日はその上からレプリカユニフォームを着込んでいる。
手針は二人に向け、にっとごつい笑みを浮かべると、次いでスコアボードに視線を向けた。
その瞬間、思わず脱糞しそうになった。
「バカ野郎、0-3で負けてんじゃねえかよ! もう後半戦だぞ!」
急いでバッグを開け、中から覆面を取り出した手針は、セタップなどと叫びながら格好つけたポーズを取り、頭に被った。
ちくちくと、約四十秒ほどかけて紐をとめると、
「ダーヤマ君、サンキューな」
と、彼の持っていた太鼓とバチを引ったくるように奪い取った。
こうして手針の汗とにおいと脂肪と恥垢の染み込んだ太鼓が、再び彼のもとに戻ってきたのであった。
「よっしゃ、行くぜえっ!」
手針は叫ぶと、両手に持ったバチを振り上げた。
バチが黄金の輝きを発した。
そして、空が真っ白に光った。
ドドンドドンドン!
叩いた。
牛皮に、熱い、魂の脈動を送り込んだ。
ドドンドドンドン!
「熱海エスターテ!」
ドドンドドンドン!
「熱海エスターテ!」
太鼓の音頭に熱海サポーターたちが、手を振り上げ、叫ぶ。
これまでのダーヤマ太鼓の時と、さほど相違ない応援であるはずなのに、なにかが、これまでとはあきらかに違っていた。むしろ太鼓の叩きかたそのものは、手針のほうがよほど下手くそだというのに。
なにが原因であるかは分からないが、自分たちの生み出すその応援の、その心地のよさに、みなぎる自信に、サポーターたちは、より発声に気合い、魂を込め、大きな声を張り上げた。
偶然なのか、必然なのか、それは分からない。分からないが、そのサポーターたちを包み込む空気の変化に合わせるように、選手たちの動きにも変化が生じてきていた。
飛ばし過ぎた相手の足が後半になって少し止まってきたということも手伝ってか、とにかく熱海エスターテの選手たちは、先手先手を取って動き出し、連動し、攻め上がり、厚い攻撃を見せることが出来るようになっていきていた。
十月十日 日曜日
東海社会人一部リーグ 第十四節
熱海エスターテ 対 土岐カンパヌーライレブン
会場 熱海市かもめ公園陸上競技場
ついに迎えた、最終節である。
六月十九日に土岐ブルースタジアムで試合をした際には、0-0のスコアレスドローだった。
しかし後半戦の現在、スコアは0-3。
熱海エスターテがリードを許している状態。
相手が強くなったというよりは、熱海が勝てないことによるチームの試行錯誤から抜け出せないまま、自らどんどん内容を悪くしてしまったのである。
チームそのものは、オフを利用して作り直すしかないだろう。
しかし今日は、どんなに内容が悪くとも勝利しなければならない。
個人の頑張りにて、打開するしかなかった。
そんな中、すこんすこんと前半三失点してしまい、もうどうしようもない大混乱の熱海であったが、しかし前述したように、いま選手たちは調子を取り戻しつつあった。
自信は自信を高め、いつしか内容において盛り返し、相手を完全に飲み込んでいた。
効果の認識が先か意識の実感が先か、そんなことはいま論ずる必要はないだろう。選手たちが、恐れることなくどんどんと攻めたてているという、現実があるだけであった。
時間が経過するほどに、前への意識を強めていく熱海エスターテ。
相手が押されどんどんと引き気味になっていったことや、熱海としても刻々と迫る残り時間に攻めるしかないということがであろう。
「いけえ!」
ジロさんが叫んだ。
その声に反応するように、ミネミネこと
GKが横っ跳びでかろうじて弾き、落ちたボールをDFが大きくクリアした。
惜しくも得点ならず。
だが、これこそがまさに、熱海エスターテの上げた反撃の狼煙だったのである。
ドンドンドドドン
「みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! お~お~ おれたちのファンタジスタ。お~お~ 今日も見~せ~てえくれ~ 峰崎光孝っ!」
サポーターたちの絶叫が熱海市内に轟いた。
新参サポーターである和装の老婆ヤヨイさんも、すっかり
先ほどの峰崎光孝の惜しいシュートで、行けると確信したか、熱海エスターテの攻勢はさらに激しさを増した。
そしてついに、相手に一矢と二矢を一発で同時に突き立てることに成功したのである。
土岐DFがPA内でファールを犯して一発退場、熱海にPKが与えられることになったのだ。
相手選手に対し同情する者がいてもおかしくない、「これでファールを取るか?」というなんということのない普通の守備であったのが、熱海サポーターの作り出すこの空気が主審を判断を惑わせたのかも知れない。そこも含めてサッカーという競技である。
キッカーは峰崎光孝。ボールをそっとセットした。
GKは両手を広げ、峰崎を睨んだ。
緊張の一瞬。
プレッシャーの中、峰崎はボールへとゆっくり近づき、そして右足を振りぬいた。
枠を捉え、右隅にずどんと突き刺さった。
後半十五分、熱海エスターテは、ついに一点を返した。
これで1-3だ。
ドンドンドンドン!
ドンドンドンドン!
「みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! みっ! ねっ! ざっ! きっ! ミネミネ~! お~お~ おれたちのファンタジスタ。お~お~ 今日も見~せ~てえくれ~ 峰崎光孝っ!」
ドンドンドンドン!
「おれのミネミネ!」
「最高!」
爆発する、サポーターたちの絶叫。
この後、試合は大きく動き出すことになった。
一点を返されたことで少し焦りが出たのか、主審の不安定なジャッジに対して土岐カンパヌーライレブンの選手たちはイライラし始めたのである。
そして、先ほどの選手退場に加え、今度はGKが遅延行為で前半の一枚と合わせてレッドカード、退場になってしまったのである。
さらにそれは、既に三人の交代枠を使った後のことであった。
当然控えのGKを出場させることは出来ず、ピッチに立つ長身FPの中から一人が、GKユニフォームを着てゴールを守ることになった。
かくして、土岐カンパヌーライレブンは土岐カンパヌーラナインという状態で戦うことを余儀なくされたのである。かてて加えてGK素人。土岐にとって、二点差をリードしているとはいえ、絶対的に不利な状況であった。
一方の絶対的不利は、一方の絶対的有利。
熱海エスターテは猛攻に次ぐ猛攻を見せ、その後の五分間で二ゴール。ついに試合を振り出しに戻したのであった。
「おお、神風吹いているぜ!」
「
「奇跡、起こるかも知れねえ!」
サポーターたちは興奮したように、口々に叫んだ。
「もっともっと攻めろ!」
「シュージーーッ!」
「あと四ゴールだ、頑張れ!」
そう、この試合、四点差以上で勝利することにより、昨日の昼に試合が行われたチーム鳥羽に勝ち点でならぶだけでなく得失点で上回ることになる。それはつまり熱海の残留が決まるということである。
三点差では、総得点数の圧倒的な違いにより、順位は変わらず。
とにかく四点差以上の勝利が、熱海残留の絶対条件なのであった。
だが、その奇跡、起こるかも知れない。
いや、奇跡とは、起きるから奇跡なのである!
そしていま、その奇跡に、彼らはさらに一歩近付いた。
「おおおおーーっ!」
ドンドンドンドンドンドン!
サポーターの絶叫、そして手針の太鼓の音が響いた。
左サイド
「ナイスシューッ、チョウさーん!」
それから一分後、もたつく相手のボールを掻っ攫ったボランチの志賀修司が、ぽっかり空いたど真ん中を走り抜けてシュート。GKの手を弾いて、ゴールネットの上に突き刺さった。
「おおおおーーっ!」
「まだあと十分ある、いける、これいけるぜ!」
「シュージ! あたしのシュージーーー!」
「あと二点で残留だ!」
「どんどん打て! キーパー素人だぞ!」
「ファンブルしろや、てめえ!」
最後の罵声はジロさん。そんな彼の願いが神に届いたのか、またGK絡みのミスから得点が生まれた。
なんのことはないミドルシュートをGKがぽろり、そこを見逃さず詰め寄った狩屋洋介が蹴り込んだのだ。
揺れるゴールネットにサポーター大爆発、これで地球滅亡回避まであと一点だ!
しかし、世の中いいことばかりは続かないもので、熱海の右サイドである
しかし熱海の猛攻は、そんな程度で衰えなどはしなかった。
それは当然であろう。このまま点を取らないことには降格してしまうのだから。それに、退場者が出たとはいえ、それでもこちらのほうが一人多いのだから。
攻めに攻めに攻め続け、そして、ついに、時は訪れたのである。
峰崎光孝の意表を突いたオーバーヘッドキックが、惜しくもポストに当たって跳ね返ったのであるが、それが相手DFの尻に当たって再度跳ね返ってゴールインしたのだ。
後半三十八分。
土岐DFのオウンゴールによって、スコア7-3になった。
ついに、熱海エスターテは逆境を跳ね返し、過酷な残留ノルマを達成したのであった。
「残留だ!」
「ミネミネ、ミラクル!」
「すげーーーーー」
「やったあ!」
「オウンで残留アシスト、サンキュー!」
「うしゃああああああ!」
サポーターは爆発した。
熱海の選手たちも抱き合い、喜んでいる。
だがすぐに、サポーター、選手、どちらも気を引き締め直し、厳しい表情になった。
まだ、戦いは終わっていないのだから。
残留のためには、あと七分、この点差以上を維持しなければならないのだから。
だがこちらのほうが人数も多いし、なんとかなるだろう。
選手たちはどうか分からないが、少なくともサポーターたちからは、そのような雰囲気が感じられた。
これまでの選手たちの、七点も取ったもの凄い頑張り、爆発を見ていたし、それにサッカーというものは、点を取られぬよう守備的になれば、そう簡単に得点など生まれない競技であるからだ。
従って、人数も多いことだし残り数分を守りきることくらい容易、と思ってしまったとしても、それは無理のないことだろう。
しかし、運命の女神はそう簡単には振り向き笑ってなどはくれないものである。
熱海エスターテのGK山田太郎が遅延行為で警告を受け、前半の警告と合わせてレッドカード、退場してしまったのであった。
「なにやってんだよ!」
「審判うんこ!」
「帳尻キター!」
「そもそもなに前半で貰ってんだよ山田!」
「ジョーダンジャナイヨ!」
「太郎、氏ねえ!」
「ボケミソがあ!」
サポーターたちの悲痛な叫び。というか単なる罵声。
確かに厳しいジャッジであったかも知れない。
どうも優位な側の遅延行為に対しては、脊髄反射的に警告を出す審判のようであった。
相手と同様に熱海エスターテも既に交代枠を使い切っており、FWである
かくして状況の有利も今は昔、人数にしても、GKが素人という点にしても、お互いまったく同じ条件になってしまったのであった。
「守れ! 守備かためろ!」
「引け引け」
「残り時間ないんだ、崩されないようがっちり引いて守れ!」
「死ぬ気で守れ!」
「頼むぞ!」
「得点なんかしなくていい。とにかく守れ!」
青ざめた必死の形相で絶叫する、熱海エスターテサポーターたち。
退場によりお互いの条件がまったく同じになったとはいえ、生き生きと動いているのは土岐の選手たちであった。
それも当然だろう。絶対的圧倒的に不利な立場であったはずが、相手のほうが自分たちに合わせるように落ちてきてくれたのだから。点差としては熱海に四点もリードされており、もう時間も終盤で、ひっくり返すことは無理であろうが。
かくして、熱海は押されに押され防戦一方になったのであった。
この点差を守り切れば良いだけなので無理に攻める必要もないのではあるが、そうした思惑とは関係なく、土岐カンパヌーライレブンの攻勢が激しくなって前へ出ようにも出られなかったのである。
必死に攻撃を防ぎ続ける熱海エスターテの選手たち。
女神は、その頑張りに対し、振り向くどころか完全に後ろを向いた。そして、ボリボリとケツをかいて屁をこいたのである。
それはつまり、相手の放ったミドルシュートが、代役GKの生麦由紀矢がおろおろしている間にゴールネットに突き刺さった、と、そういうことであった。
ドンドンドンドン!
「ワーーーッ!」
対岸ゴール裏で、相手サポーターの大歓声。
「ドンドンじゃねえよ、ワーーッじゃねえよ、こっち降格しちまうだろ! バカかお前ら!」
手針は、相手サポーターの非常識に激怒し、怒鳴った。
「攻めろ! 点を取れ!」
「行けぇ!」
「引くな!」
「一歩も引くな!」
「ムギも上がっちまえ!」
「絶対に点を取れええええ!」
同情すべき点がなくはないとはいえ、まあ、いうことのころころと変わる熱海サポーターたちであった。
彼らにいわれるまでもなく、選手たちは各自の意思で動いていた。前へ。前へ。ひたすら前へ。
残留のために。
未来のために。
だが、がっちりとフタをするように引きこもり始めた土岐カンパヌーライレブンの守備は、そう簡単にこじあけられるものではなかった。イレブンなどではなく、野球チームと同じ人数になっているというのに。
土岐の選手たちはとっくに残留を決めているので、焦る必要もなく、慌てることもなく、冷静にボールを跳ね返し続けた。
でも土岐としては現在、三点差で負けているわけで、なにを悠長に引きこもってなどいるのだという疑問がどちらのサポーターとしても生じて不思議はなかったが、まあ、目の前で残留を決められ喜ばれるのも悔しい、というよりも、目の前で相手が降格するのが楽しいのであろう。
ガンガン攻める熱海に、跳ね返す土岐、というパワー構図のまま、時は流れ、ついに試合は、後半ロスタイムを迎えようとしていた。
ここで、熱海エスターテをさらなる悪夢が襲った。
CBの
「なんなんだ、この審判!」
「
「氏ねっ」
「うんこ審判!」
「夜道背中に気をつけろ、てめえ!」
「研修受けろや」
「ゲロブサイク野郎!」
罵詈雑言を飛ばしまくるサポーターたちであったが、しかしそれでPK判定が覆るものではなかった。
代理GKの生麦由紀矢は、おとなしくゴール前に立った。
自分が止めればいいのだ。そうすれば、味方が絶対に一点取ってくれる。
そう未来を信じているかのような爽やかな表情に、狼狽と怒号の渦の中にいたサポーターたちは、救われ、落ち着きを取り戻していた。
おれたちが信じないで、誰が選手を信じるんだ。
そうだ。
おれたちゃ裸がユニフォーム。
最後の最後まで、選手を信じて、応援するぜ。
と思っているかどうかは分からないが、とにかくそんな、少しすっきりしたような表情で。
ドンドンドドドン
「がんばれ なまむぎゆっきっや、しってんしないでよ~♪」
正GK山田太郎の応援メロディを、サポーターたちは咄嗟に生麦由紀矢のものに変え、歌った。有名な野球アニメ主題歌が原曲の応援歌だ。
歌い、そして、口を閉ざした。
どん どん どん どん
という、手針のゆっくり叩く太鼓の音のみが、場内に響いている。
風が吹いた。
キッカーである土岐カンパヌーライレブンのエース
生麦由紀矢はキッカーを睨みつけ、両腕を広げた。
若生真一は蹴った。
その瞬間、生麦由紀矢は派手に横っ飛びしていた。そして身体を丸めて、ごろんと前転した。
しかしボールは、まったくの正反対。
「ギャーーー!」
「アホーッ!」
サポーターたちの絶叫。
終った。
なにもかも。
……いや、ボールはポストに当たって跳ね返った。
そこを目掛け、すべてのFPが突っ込んでいった。
片や、守るために、
片や、決めるために。
ゴール前が、一瞬にして大混戦になった。
その中から、ぽーんとボールが飛び上がった。
先ほどみっともない姿を見せてしまった代理GK生麦由紀矢が、今度はジャンプして、しっかりと両手でキャッチした。
だがもう、時間がない。
そして、現在熱海エスターテの方が一人人数が少ない状態。
だというのに、一点を取らなければ熱海は降格する。
世の無常。奇跡が起きない限り、熱海エスターテの残留は難しいであろう。
だがしかし、
奇跡とは、
起こるから奇跡なのである。
「うっしゃああああ、奇跡起こすぜえええーーっ!」
手針清光は絶叫すると、太鼓をドンドンドンドンと激しい勢いで叩き始めた。
そして、あらためてバチを振り上げると、すーっと深呼吸、そして音頭の声を張り上げた。
「オレンジと緑のおっ」
カ、カ、カ、カ、ドンガッドンガッドンガッドンガッ!
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「あっ! たっ! みっ!」
「オイオイオイオイ!」
「あっ! たっ! みっ!」
「オイオイオイオイ!」
「さっ! いっ! きょっ! ウッ! えっ! すっ! たっ! あぁ! てっ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「さっ! いっ! きょっ! ウッ! えっ! すっ! たっ! あぁ! てっ!」
手針の太鼓のドンガラドンガラ叩く音と、エクスタシーの叫びに合わせて、サポーターが喉も潰れろとばかりの大絶叫。
いま、手針たち熱海サポーターは、地球と一つになっていた。
そう、この地球、そして銀河が、熱海エスターテを応援しているのだ。
オレンジと緑のエクスタシー。
そんな大袈裟な、幻想だ、といわれるのなら、それでもいい。
それでも己を信じて応援するのがサポーターだ。
ただただ、いつも死ぬ気で全力投球、
ただただ、選手を信じて応援するだけ。
ドーパミンやベータエンドロフィンをどくどくと分泌させ、選手を信じ、泣き、笑う。
理屈などくそくらえ。
それが、サポーターだ。
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
「エクスタシー!」
「ソイヤッ! ソイヤッ!」
そしてついに、サポーターや選手たちの、銀河規模のエネルギーは、この地球上に一つの奇跡を起こしたのである。
とうとう女神が振り向き、笑ったのである。さっきまでそっぽむいてケツかいて屁をこいていたくせに。
土岐PA内で、攻め入った峰崎光孝は仕掛けていた。
相手の足に引っ掛かり、転びかけたが、なんとか踏ん張って、抜け出した。一試合で二度も同じチームの側にPKが与えられることもそうそうないであろうし、転んでいたら、逆にシミュレーションの反則を取られていたかも知れない。
GKが、飛び込んできた。素人なりに、横に倒れながらシュートコースを塞ぎに掛かったが、ここで峰崎は実に冷静だった。まるで神が降りて、周囲すべてが見えていたかのように。
左足のアウトサイドで、ちょこんと横パスを出した。
雄叫びを上げて走り込んでいた
ゴールネットが揺れた。
そして、試合終了の笛。
熱海エスターテは、ぎりぎりのぎりぎりで、ついに四点差勝利という奇跡を現実のものとしたのであった。
選手たち、そしてサポーターたちは爆発した。
「残留決定だ!」
「来年も社会人一部だあ!」
「嬉しいよおおお!」
「あたしのシュージーーっ!」
「泣けてきたあ!」
「ありがとー、ありがとー!」
抱き合い、喜ぶサポーターたち。
抱き合い、喜ぶ選手たち。
こうして熱海エスターテは奇跡的な、しかも今期初の逆転勝利で、残留という甘美な果実を手に入れたのであった。
「やったぜくそお!」
手針はまぶたを袖でごしごし拭うと、バチを持った両手を振り上げ叫んだ。
素晴らしい仲間たちと、勝どきの声を上げた。
手針軍、勝利でござる!
おおおおーーーっ!
熱海城、落城阻止でござる!
おおおおーーーっ!
忍々でござる!
ぶおお~っ
ぶおお~っ
6
スタジアムのゲートから外へ出て、のどかな眺めの広がっているかもめ公園を、一人歩く
秋の、さわやかな風が吹いている。
鳥のさえずり。
ほんのり鼻腔をくすぐる、かすかな潮のにおい。
素敵なことが起きたから、すべてが素敵に見えるのかも知れない。
あの、お荷物だ穴だといわれ続けていた
生きていれば、神様はこんな素敵なプレゼントをくれることもある。
人生八十年、これからもたくさんの、素敵なことが待っているのだろう。
「サッカー、本当に大好きなんですね」
女性の声。
手針は足を止め、声のほうに顔を向けた。
それは、
彼女は、にこやかな笑みを浮かべている。
「おれ……」
手針は、小さく口を開いた。
そうだ。さっきまで料亭で彼女の両親と会っていた。それを抜け出して、エスターテの応援に来ていたのだ。
手針は、伊草美恵子へと、ゆっくりと近付いていった。
一メートルほどのところで、足を止めた。
二人は、しばらく無言のまま、見つめ合った。
先に口を開いたのは、手針であった。
「おれ……いや、おれボクッ、ボクボクッ」
なにをいいたいのかよく分からない手針であったが、その表情から、罪悪感に申し訳なさそうにしていることは間違いないようであった。
「そんな、気になさらないでいいんですよ」
笑みを浮かべていた彼女であったが、そういうと、その笑みをより強くした。
その柔らかな笑みに、手針の胸の中で、なにかが花開いていた。
エスタを好きなおれの気持ちを、分かってくれたということなのか……
そうに違いない。
あんな大暴れして逃げてしまったのに、なんて寛大な女性なんだ。
健一どもが適当なこというから、すっかり騙されていた。
おれ、この人と、やっていけるかも知れない。
いや、むしろ彼女こそ、おれにとっての女神様なのかも知れない。
手針の中で、様々な感情が渦巻いて、中から膨れ上がって爆発してしまいそうだった。
その感情がどういった種類のものであるのか、自分でもよく分からない。かつて感じたこともないのだから、言葉にも出来ない。
分かっているのは、肯定的な、心地よさ。
否か応かでいえば応。
光と闇でいえば光。
コスモとカオスでいえばコスモ。
ジキルとハイドでいえばジキル。
女神。
結婚。
そして、卒業(童貞を)……
サイモン&ガーファンクル!
おれボクッ!
と、手針が一歩踏み出したその瞬間であった。
突然、世界が真っ白に包まれ、爆発した。
手針は殴られていた。
ドドドドドドドドドドドドドドド! と削岩機のように凄まじい、背中まで突き抜けるような強烈な突きを、一秒百八発、九秒で九百七十二発を食らい、ぶわわわわと宙へと浮き上がったところへ空中コンボが発動、小パンチ大パンチキャンセル後ろ回し蹴り。
手針の脂肪まみれの巨体は、重力も空気抵抗もなきがごとく吹っ飛んでいた。
地球を一秒七周半。手針清光は、一瞬にしてゴミくず以下の存在と化したのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます