エピローグ

 風が吹いている。

 肌に穏やかな秋の風、そして心にすきま風。

 ばりきよみつは先日、勤めていた会社を解雇された。

 面子を潰された格好になった伊草家からの、いずれ確実に会社にかかってくるであろう圧力を恐れた、中田社長の一存で。

 手針清光、三十四歳、無職、童貞であった。

 社長からは、落ち着いたら、どっか紹介してやるから面接受けろ、などといわれているが、手針はその業界に戻るつもりも、不当解雇を訴えるつもりもない。

 熱海こずゑ旅館の面接でも受けてみようかな、などと漠然と考えている。

 いま手針は、かもめ公園陸上競技場のバックスタンド、一番前の柵に肘をついてもたれ、風に吹かれながら、ぼんやりとピッチを見つめている。

 さきほど、熱海エスターテの大学生相手の練習試合が終ったばかりである。

 手針の横には、文字通りコブのように、三人の子供が並んでいる。手針から、階段のように横へいくほど小さくなっている。

 ぐさの子供たち、けんいちじゆんじゆんぞうの三兄弟である。


「結婚しないでくれて、ありがとうな。デブのおっさん」

「おう」


 健一の言葉に、手針は頬杖ついた仏頂面のまま応えた。


「無職にしちまって、ごめんな、デブのおっさん」

「そんなこと気にすんじゃねえよ、ガキのくせに。贅沢いわなきゃ仕事なんざいくらでもあるんだよ」


 相変わらず仏頂面。でも別に、機嫌が悪いというわけではないようである。


「まぁ、おれたちもさ、母ちゃんの目を盗んで、ここにちょいちょい試合を見に来てやるからよ」

「それで充分」


 手針はそういうと、健一の隣にいる丈二の顔を見た。


「お前さ、サッカー、やれよ。親がなんといおうが、関係ねえだろ。お前の人生なんだからよ。おれはおれの人生をおれの考えでちゃんと決めたぞ」


 そしてお見合い相手の両親にお茶をぶっかけ、テーブルひっくり返し、奇声を上げてタオルマフラーを振り回し、応援するサッカークラブの危機を救い、地球の果てまで吹っ飛ばされ、職を失った。


「うん。ここで来期から新設されるジュニアユースの入団テスト、受けてみるつもりだから。隠れてはやりたくないから、お母さんのこと、説得出来たらだけど」


 丈二は、小さな声で答えた。

 今年、なんとか残留を果たした熱海エスターテであるが、JFL再昇格そしてJ2参入にあらためて本腰を入れることになり、まずは下部組織の拡充ということで来期よりユース、ジュニアユース、そしてレディースチームが新設されることになったのだ。


「やるじゃんかよ、説得する気だなんてよ。いいね。頑張ってエスタをJリーグに上げてやってくれよな。って、バカ野郎、お前が大きくなる頃にはもうとっくに上がってるっつーの!」


 手針は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「自分でいっといて、バカじゃねーの、デブ。あ、そうだ丈二、未来のJリーガーとして、いまのうちにサイン書いてあげたら? デブのおっさんに」

「デブデブうるっせーぞ。それにおれは選手のサインはもらわねえんだよ。だっておれ自身が選手だもん。十二番目の」

「そんなデブのサッカー選手がいるかよ」


 健一は腹を抱えて笑った。


「生皮べりべり剥いであぶったろかクソガキが! 傷心してる無職をいたわれよ、てめえ」

「やっぱり気にしてんじゃねえか」

「気にしてねえよ」


 あくまで意地を張る手針。

 その時である。

 吹き付けてくる冷たい風の、においがわずかに変わったことに手針は気が付き、風の流れてくる方へと顔を向けた。

 そこにいるのは、秋田犬のジローであった。

 客席最上段の通路に、四足仁王立ちで、びしっと立っている。

 黙っていると賢そうだが、動いているとおバカこの上ない、あの秋田犬のジローであった。

 奴がきているということは、

 ということは、

 ということは……


 ……ドンドン

 ……ドドンドン

 ドドンドドンドン熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン熱海エスターテ!

 ドドンドドンドン熱海エスターテ!

 ………イエッ

 ……バイエッ

 あたみっボンバイエッ!

 あたみっボンバイエッ!


 手針の脳から、脂肪とともにベータエンドルフィンがどるどるっと吹き出していた。

 無職がなんだっ!

 社会人第一部がなんだっ!


「あっかねさーん!」


 叫び、走り出していた。

 子持ち年増じゃない、本当の女神の元へと。

 夕日に向かって大きくジャンプした。

 手針清光、三十四歳、無職、童貞。

 我がサポーター人生に一片の悔いなし。

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