第6話 エピローグ

 目を閉じた美緒はいつまで経っても殴られないことに気が付いた。薄っすらと目を開けると、目の前に黒パーカーは立っていなかった。代わりに、長く伸びた脚が目に入った。美緒の右手から伸びたその脚を辿ると、全身同じく全身黒づくめの男が片足で立っていた。よく見ると、左足に重心を載せて右脚で上段蹴りをした後の姿勢だった。

美緒は尻餅をついたまま後ずる。新しく出てきた男も全身黒の作務衣、足には雪駄で頭にラーメン屋のように黒いタオルを巻いている。

「あっぶねー間に合った」作務衣が脚を降ろして言った。

先程まで美緒にバットを振りかざそうとしていた黒パーカーは左手に吹き飛ばされていた。黒パーカーの息遣いが聞こえてきた。余程不意を突かれたようだ。

「えっと、そこにいても良いけど、良いことはないと思うよ」作務衣が美緒を見ずに行った。

美緒は何を言われているのかわからなかった。逃げようと思っているのに身体が動かない。尻餅の体勢のまま、後ろに少し移動することが精一杯だった。それほど、短時間に美緒の身に起こったことが頭で理解することを拒否していた。

作務衣がゆっくりと黒パーカーに近づいて行った。

黒パーカーはバットを杖のようにしてゆるゆると立ち上がった。飛ばされたときにパーカーのフードが外れたのか、立ち上がりながらフードを被り直していた。

黒パーカーとの距離が二メートルほどのところで作務衣が立ち止まった。

黒パーカーはバットを両手で持ち、自分の右側にバットの先端が下斜めになるように持った。

「ああ、まだやる?もう諦めたら?」作務衣が左手を揉むようにして言った。

黒パーカーは興奮しているように上半身を大きく上下に動かしている。

「まぁ良いけれどね」

作務衣は右手を顔の前に、左手を下腹部の前あたりに構え、足を開いて腰を落とした。

黒パーカーと作務衣は向かい合っている。二人とも一切動かない。

二人の間に流れる空気だけが、一切の鮮度を失っていた。ただ揺らぎ、滞留し粘度を増していく。

その中、二人は同時に動き出した。

黒パーカーは左足を大きく踏み込んで、バットを右下から左上へ振り上げた。

作務衣はしゃがんで避ける。同時に、右足で黒パーカーが踏み込んだ左足を薙ぐ様に蹴る。

黒パーカーは体勢を崩して倒れるが、すぐに立ち上がる。そしてバットを上から大きく振りかぶり、作務衣に振り下ろした。

作務衣はそのバットも躱しつつ、バットを握っている両手を右足で踏みつけるようにして、地面に黒パーカーの肘から先を叩きつけた。そのまま右足を軸に回転して、黒パーカーの頭に蹴りを入れた。

黒パーカーはすぐに立ち上がり、バットを左側に帯刀するように持ち替えて、まだ体勢を立て直していない作務衣の右脚を狙った。作務衣は左脚を上げたまま、正面蹴りで黒パーカーの頭を蹴った。黒パーカーは仰け反って倒れた。

作務衣はその反動で黒パーカーに背を向ける形に着地した。

黒パーカーは作務衣の後ろから左側面をバットで殴るが、作務衣はすぐに身体を後ろへずらしバットを持った手を左の脇に挟んだ。

作務衣はそのまま右手を引いて肘を黒パーカーの右わき腹へ打込んだ。そして、脇に挟んだ手を放し、体を時計回りに回転させて、黒パーカーの後ろに回り込んだ。すぐさま、黒パーカーの肩を掴み、右脚の膝裏を蹴り、黒パーカーが右膝を地面につけさせた。しかし、黒パーカーも時計回りに回転しながら立ち上がり、バットで作務衣の頭を狙う。

作務衣は黒パーカーの手を抑えることでバットの直撃を避けた。そのままバットを掴む黒パーカーの手を持って、バットを黒パーカーの頭に叩き込んだ。黒パーカーはまたも後ろに仰け反って倒れた。

「ふう、痛かったでしょ?まだやる?」

黒パーカーはゆっくりと立ち上がった。

薄っすら見える口元から血が出ており、歯を食いしばっている様子が見て取れる。

黒パーカーは喚くような声を発して、バットを振り回しながら作務衣に向かっていった。

作務衣はそれを避けながら後ろに下がっていく。作務衣と黒パーカーの距離が縮まったところで、黒パーカーはバットを振りかぶって叩き落すが、それすらも作務衣は避けた。

今度は、普通のバットの振り方と同じように横から殴るが、作務衣はまたも避け、後ろに置かれていたジャングルジムにバットが当たった。金属同士がぶつかって聞こえる金属音が二人を包む。

作務衣が打撃を入れようと近づいたタイミングと黒パーカーが後ろに回転しながら反撃しようとしたタイミングが一致したために、黒パーカーの打撃が作務衣を直撃した。バットのグリップエンドが作務衣の頭を直撃したのだ。

作務衣は体勢を崩して仰け反るように後退する。そこを黒パーカーはバットを振りかぶって頭を狙うが、ダメージが少なかったのか作務衣はすぐに横に避ける。

黒パーカーは同じくバットを横に振るが近かったため、作務衣は黒パーカーの腕を抑えて直撃を防いだ。黒パーカーはバットを回転させてヘッド部分で作務衣を突く。作務衣が仰け反ったところで、バットをまた持ち替えて横に振りぬく。作務衣はしゃがんで避ける。立ち上がったところをまた横に振るが、作務衣はバットと黒パーカーの手を脇に抑え込んで、黒パーカーに頭突きを打ち込む。

作務衣は黒パーカーを後方に投げた。

二人の距離がまた開いた。

「痛ってぇ。やるじゃん。身体温まってきたか?」

作務衣は口の端から出ている血を拭った。

黒パーカーは気合を入れるかのように叫ぶと、走って作務衣に向かってきた。作務衣も迎撃する準備をする。

黒パーカーはバットを振りかぶって作務衣に向かう。作務衣がバットに注意を向けたが、フェイントで前蹴りを入れた。作務衣が吹き飛んで倒れる。そこにバットを叩き込むが、作務衣は横に身体を回転させ避ける。

避けた作務衣に黒パーカーはバットを横から打込み、再度上から叩き込もうとする黒パーカーを作務衣は寝たまま半身になって避け、左手で背中の方にあるバットを持つ手を抑え、同時に左脚で黒パーカーの後頭部を引っ掛けて、頭を地面に何度も叩きつけた。最後に左脚を外し、右脚を黒パーカーの腹に当て身体を後方に起こすようにして地面に叩きつけ、首に左脚を振り下ろした。

二人の動きが止まった。作務衣の息遣いだけが聞こえてくる。黒パーカーは動いていない。美緒はゆっくりと立ち上がった。左脚が痛かった。折れているかもしれないと思った。

作務衣は上半身を起こし、黒パーカーを確認して立ち上がった。作務衣の体の下にあったバットを蹴って転がして、黒パーカーから遠ざけた。

あれほどの動きで一切乱れていない作務衣についている砂を叩いて落とし、頭のタオルを外して、同じように叩くと同じように頭に巻いた。

一連の動作が終わると、ゆっくりと美緒に向かってきた。

「大丈夫?ケガは?」

「あ、はい、左足が」美緒はほとんど声が出ていないが答えた。

「そうか、遅くなっちゃったからね。ごめん、僕医者じゃないからさ、何もできないんだ。さっさと帰った方が良いよ」作務衣は笑いながら言った。

「あの、この人は何ですか?」

「ああ、ほら最近話題の通り魔だよ」

「ええ?あの人が?」

「そう、今は伸びているけどね」

「あ、そういえば、助けていただいてありがとうございました」美緒は頭を下げて言った。

「ああ、いいの。こっちも君を囮にしていたから」

「え?」

「まぁカタイこと言わないで。助かったから良いでしょう?」作務衣は美緒の肩を持って、回れ右をさせる。美緒は、痛い痛いと言いながら向きを変える。

「送って行ってあげられないけれど帰れるよね?もう、あんな奴は出てこないだろうけれど帰れるよね?」作務衣は美緒の耳元で言う。

美緒は怖くなって左足を引きずるように帰って行った。

「よし」作務衣は美緒を見送った。

次の瞬間作務衣は身体を半身にした。

後方から血まみれの黒パーカーが先端の尖った鉄棒を作務衣に突き刺そうと手を伸ばしているところだった。作務衣は伸びている手を蹴り上げた。鉄棒が音を立てて落ちる。

「いやー喫茶店で粘っていたからね。どうやって突き刺したかはわかっているんだよ」

作務衣はその棒を手に取った。

「覚悟、出来ているよね?」



寿と笹倉は可士和市内の公園に来ていた。麻見も現場にいた。

公園で遺体が見つかったという報せが警察に入ったため、警官が現場に向かったところ、痛いから杭が出ていたのだ。C県警の捜査員が現場に到着すると、鉄杭が刺されている遺体は、これまで被害に遭った女性ではなく、男性のものであった。捜査員から動揺が走ったのは、近くの遺体のものと思われる車の中には、何本もの鉄杭が見つかったことである。また遺体の横には殺害時に使ったと思われるバットもあったが、痕跡が綺麗に拭き取られていた。この遺体は通り魔殺人事件の犯人であり、何者かに同じ方法で殺害されたと思われた。

「なあ寿?」笹倉が遺体の顔を見て言った。

「はい」寿も笹倉の隣にいる。

「こいつってさ」

「そうですね。セミナーハウスにいた警備員の深津ですね。詳しくはこれから捜査していけば良いですよ」寿の目は据わっていた。

寿は立ち上がって、遺体を見下ろした。

「ふざけやがって」寿は小声で言った。

「ん?何か言ったか?」笹倉が寿の方を向く

「何も言っていないですよ」

「いや、聞こえたのだけどな」笹倉は首を傾げる。

「夏の幻聴じゃないですか?」

「そんなことってあるのか?」

「今作りました」

寿はブルーシートで囲まれた空間から外にでる。

公園の周囲は野次馬で賑わっていた。

寿はその中の一人と目があった。

頭に黒いタオルを巻いて、黒い作務衣の男だった。

他の野次馬と異なり、その男はじっと寿を見ていた。

その眼を見た寿は、夏なのに背筋が寒くなった。

寿は体勢を変えその男の正面に向く形になった。

寿と対峙したその男は、ニヤリと笑った。



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鎖と折れ線~Chain and Traverse~ 八家民人 @hack_mint

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