悪魔なボスと少女の足跡

十帖

悪魔なボスと少女の足跡

 我らがボスを悪魔のような男だと評した彼女に、拍手を送りたい。



 マフィアなんかやっていれば、死神に手招きされる確率は高いわけで。二十五歳になったばかりの十年前、抗争中にこめかみを銃弾がかすめていった時、一日一日をしっかり生きようと心に決め、生きた足跡としてこのSNS時代にあえて紙の日記をつけることにした。


 トスカーナで買った万年筆を最初に滑らせたのは、抗争があった日の夜のことだ。


 イタリアの市街地で敵対するファミリーから銃撃を受けたこと、それから、その銃撃戦に日本人親子が巻きこまれ、七歳の娘だけが生き残ったこと。


 そしてその――ユリが、就任したばかりだったボス、ジーノ様へ言った台詞。それらをすべて書き記した。



 あの日、断続的な発砲音のあとに悲鳴と土煙が上がり、美しい景色がまたたく間に阿鼻叫喚の図へかわった。カフェテラスのテーブルには蜂の巣のような風穴があき、鮮血が石畳の隙間を縫うように流れていった。


 そんな地獄絵図の中に、ユリはいた。


 彼女の両親が身を挺してかばったのだろう。両親の骸の下から這い出てきたユリは、かすり傷一つなく佇んでいたボスに尋ねた。


「貴方は悪魔?」と。


 当時十九にして、ボスは他を圧倒する存在感を放っていた。

 鉛色の鋭い瞳は、相手を射竦めるほどの眼光を放っている。そんな黒いスーツをまとった黒髪で長身の男に見下ろされれば、そりゃ悪魔と思っても無理はないかもしれない。


 ふらつきながら立ちあがったユリは、ボスの袖をつかんだ。とっさにボスの右腕である俺や部下たちは銃をかまえた。


「あのね……」


 意外にも、話しだしたユリの声はしっかりとしていた。


「美術館で悪魔の絵画を見たの。あなた、その時見た絵にそっくりだわ。……どうして悪魔が好まれるのか分からなかったけど……」


 ユリは薄い眉毛を八の字にしてううんと唸った。


「美しいから惹かれるのね」


 冷たい表情でユリを見下ろしていたボスは、薄い唇をゆがめて、初めてふっと笑った。面白い、と言わんばかりに。


「おい、ベルナルド。こいつ連れて帰るぞ」


 ボスはたくましい片腕でユリを抱きあげると、重厚感溢れるテノールで、捨て犬を飼うと報告するかのように俺へ言った。


 ボスからすれば、捨て犬も東洋人の小娘を養うのも、大して変わりはなかったのだろう。ユリに向かって「ジーノだ、そう呼べ」と言ったボスは、飼い犬に名前を教える主人そのものだった。


 てっきり嫌がるかと思ったが、これまた意外にもユリは流暢なイタリア語で「私はユリって言うの」と自分の名を呟き、ボスの腕の中に大人しく収まっていた。


 賢い選択だ。もしボスの手を振り払っても、異国の地で身寄りのない小娘が生き延びられるとは到底思えない。運よく生き延びても、死ぬよりも辛い思いを強いられるに決まっている。


 肝が据わっているというか――――そう、ユリは小さい頃から聡明だった。


 けれど、まだ子供だった。



 シチリア海を臨む崖の上に我らのアジトはある。

 外観は観光客が喜びそうなバロック建築の古城だ。そこへ連れられたユリは、ダイヤモンドを集めて作ったようなシャンデリアが輝く食堂で、口の中でとろけるような肉を頬張っている最中に、ぽろぽろと泣きだした。


 どうやら時間が経ってやっと、両親が死んだことを実感したらしい。


 部下たちと壁際に並んでいた俺は、ぎょっとした。ユリから五メートルほど離れた席でワインを呷っていたボスを、慌てて盗み見る。


 ユリがつまみだされるくらいならいい。だが、下手したらボスはユリを「うるさい」の一言で切り捨て、撃ち殺してしまうんじゃないかと思った。


 ボスはおもむろに立ちあがり、長いテーブルの周りを回ってユリの前に立つ。その間に身じろぎする者は一人もいなかった。


「お前の両親が死んだのは俺のせいでもある」


 感情のない声でボスは言った。


「お前は俺を見るたびに恨むようになるかもな。……俺の前から消えるか?」


 ユリは顔を上げ、なめらかな漆黒の長髪をふり乱しながら首をふった。大きな黒真珠の瞳が涙で濡れている。


「ジーノのせいじゃないわ。だって、パパとママの魂を連れてっちゃったのは、死神なの。ジーノは綺麗な綺麗な悪魔だもん。だから違うわ……」


 そう言って、すがるようにボスへと手を伸ばす。ボスは一拍置いてから


「……そうか。なら、此処にいろ」


 と言って、ユリの小さな頭を撫でた。


 俺や部下たちにとってそれは、驚くべき光景だった。冷酷無情を体現したようなボスが、幼子に慈しむような仕草を見せるなんて。


 そう。右腕の俺が言うのははばかられるが――……ボスはひどい男なんだ。


 ユリがボスを『悪魔』と称した時に、ぱっと浮かんだのが『七つの大罪』だった。傲慢のルシファー、貪欲のマモンという風に、七つの大罪にはそれに比肩する悪魔がいる。


 何を隠そう、その七つの大罪である『傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・暴食・色欲・怠惰』が、我らがボスには人より顕著に備わっているのだ。


 だからそんなボスを『悪魔』と呼んだユリに感心したのだが、あいにくユリはボスの彫刻のような肢体や危険を孕んだ色気、そして鼻筋の通った美しい顔に悪魔的な美を見出しただけらしい。


「ジーノ、ジーノ」


「何だ」


「ジーノは優しいね。それに、ジーノの瞳はとっても綺麗」


「……ふん」


 ボスは鼻で笑ったが、その横顔は心なしか優しかった。俺はボスの双眸が、ボスが慕っていた亡き母上の瞳とそっくりであることを思い出した。




 ボスがユリを可愛がっているのは火を見るよりも明らかだった。アジトへ戻るたびにミラノで買った帽子やワンピース、ローマの職人に作らせたオルゴール、それからぬいぐるみを与え、ユリの部屋を埋めつくした。


 ユリがボスにとって特別な存在だとファミリー全体に浸透する頃には、ユリは俺を含む部下たちから『お嬢』と呼ばれ愛されていた。


「ジーノ、お酒ばっかり。ちゃんと野菜も食べて!」


「ああん? この俺に命令するたぁ、偉くなったもんだなクソガキ」


 ウィスキーで喉を潤すボスに、果敢にもユリは説教する。ボスの膝の上で。


「暴飲暴食はいけないんだよ!」


「ほう? いつの間にそんな大層な言葉覚えやがった?」


「ベルナルドが言ってたの。七つの大罪がなんとかって……」


 ボスから椅子二つ分離れた席で飲んでいた俺は、ブッと酒を噴きだす。ついでに冷や汗も噴きだした。

 俺の横顔に、ボスから絶対零度の視線が突き刺さった。


「よお、ベルナルド。俺は暴食か? ああ?」


「いや、あの……」


 褐色の肌にスキンヘッド、そして大柄な厳めしい見た目をしていながら、情けないことに俺は口ごもる。ボスの冷眼が、嗜虐的な色をたたえて細められた。


「たしか七つの大罪には『傲慢』もあったよなぁ……」


 そう言うや否や、ボスは手近にあった金の燭台を俺へと投げつける。それは俺の額にクリーンヒットし、俺は椅子から転げ落ちて悶絶した。


「傲慢なボスにつき従ってくれて、感謝してもし足りねえなぁ」


 邪悪な笑みでそう言われた俺は、もう二度とユリに入らぬ知識を与えまいと心に誓った。




 ユリは不思議な子だった。天真爛漫で人を惹きつける。ファミリーの皆は彼女の愛らしさに夢中になり、感化されていった。特にボスはそうだ。


「ベルナルド、クソガキを呼べ」


「お嬢なら、ボスの執務が終わるまで部屋で勉強してるそうですよ」


 普段は頼もしいボスだが、基本的に怠惰だ。ものすごく。

 書類仕事が大嫌いなボスは、いつも書類を放り投げ、娼婦を呼んで色事に溺れたりする。


「この俺が呼べって言ってんだ。今すぐあいつを呼べ」


「いいんですか? 『添い寝してほしいから、早く仕事終わらせてね』って、お嬢から伝言を預かってますが……」


「――――っち」


 盛大に舌を打ったボスは、渋々仕事にとりかかる。怠惰なボスがユリのおねだりで仕事をするようになるなんて、彼女の影響力は計り知れないと思った。


 休暇でも、酒を飲む以外はだらだら過ごしていたのに、最近のボスは庭園のベンチでユリの話に耳を傾けていたり、書斎で読み書きを教えたりしている。それを見てファミリーの人間は和んだ。


 ……しかし、ボスはイタリアンマフィアのボスだ。マシュマロのようにふわふわした世界にいるわけじゃない。もっと血に塗れた、凄惨な世界に生きているんだ。


 あれは確か、ユリが十、ボスが二十二の時だっただろうか。


 取引の情報漏洩が発覚し、ファミリーに潜りこんでいたスパイへ、ボスが直々に手を下した。


 草木も眠る時間に、ボスと俺はアジトへ帰ってきた。羽目殺しのガラス窓から差しこむ月明かりが、白いシャツにべったりと返り血をつけたボスを、青白く照らしていた。


 早く裏切り者の血の匂いを落としたかった俺は、前を歩くボスの革靴の音が止まったことに遅れて気付いた。


 立ち止まったボスの前には、大きなうさぎのぬいぐるみを抱えたユリがいた。眠らずにボスの帰りを待っていたんだろう。俺がしまったと思った時にはもう遅く、ユリはボスの服についた血を見て目を見開いていた。


「ジーノ……!」


「機嫌が悪い。近寄んじゃねえ」


 人を殺して気が高ぶっているのだろう。ボスは地を這うような声で言った。しかしユリは、あろうことか「やだ」と反抗した。


「殺すぞ」


「やだ!」


「なら部屋に戻れ」


「だって血が……!」


「俺の血じゃねえ」


 ひゅっとユリが息を呑んだ。聡い娘は理解したのだろう。ボスが人を殺めてきたから気が立っているのだと。


 固まるユリを無視し、ボスは通り過ぎようとした。しかし、ボスの腕をユリが掴んだ。


「やだよ……。だってジーノ、痛そうな顔してるもの。心が痛そうな顔してるから、一人にしたくない」


 気がくじけそうな自分を叱咤するように、ユリはボスの腕を掴む手に力を込めた。どうやらこの子は、恐怖よりもボスをこれ以上孤独にさせたくないという気持ちの方が強いらしい。頑として引こうとしなかった。


「傍にいて、お前に何が出来る?」


「何も出来ない……。でも傍にいる。いたいの」


 そう言って、ユリはボスの胸に顔を埋めた。返り血がつくのも厭わないユリを見て、ボスは少し黙ったあとで口を開いた。


「……なら、約束しろ。傍にいて、俺を裏切るな」


「……? うん。当たり前じゃない。変なジーノ」


「当たり前、か」


 ユリの言葉を聞いて、ボスの纏っていた空気が少し和らいだ。それからボスは「風呂に入るぞ」といつもの調子に戻り、ユリを抱きあげて部屋に連れていった。


 それ以来、ユリは少しずつこちらの世界を――犯罪の匂いに満ちた世界を知ろうとしていった。ボスの知らないところで、無垢で高潔な少女は少しずつ闇の住人として生きていく覚悟を固めていったようだった。



 それでも、ユリが耐えられなかったことがある。ボスの『色欲』だ。


 思春期真っただ中の十四になる頃には、ユリはボスと一緒のベッドで寝ることはなくなっていた。自分の環境を理解した彼女は、以前のようにボスを気安く呼び捨てる回数も減った。


 ボスはというと、男盛りだ。イタリアでも有数のマフィアのドンであり、見目も麗しい。娼婦からマフィアの令嬢まで、ボスに抱かれたいという女は山ほどいた。


 ボスもボスで、性欲を我慢するような人じゃなかった。当然だ、ありとあらゆる権力を手にしているボスなのだから。寄ってきた女を拒むこともなく抱いていた。


 だから、ボスと他の女との色事をユリが目撃してしまうのは、いずれ訪れる必然のことだった。



 夜中に俺の部屋の扉が乱暴にノックされ、悲鳴のような声で名前を呼ばれる。ドアを開けると、そこには目を真っ赤にして泣いているユリの姿があった。


「お嬢……?」


「やだ……見ちゃった……やだ……!」


 部屋へ招き入れ、要領を得ないユリから話を聞きだす。


 好物のミルクティーにも手をつけず、ユリはボスの部屋で、ボスと豊満な女が絡み合っている姿を見たと泣きながら報告した。


「私……ジーノが好きなんだわ……」


 ユリは両手に顔を埋めながら、たった今気付いた事実を悲劇的な声で言った。


「思えば出会った時から、ジーノは特別だったもの……でも、こんなに辛いなら好きなんて気づきたくなかった……!」


「お嬢……」


「ねえ、今夜は此処にいてもいい……? ジーノと隣の自室にはいたくないの……」


 ユリは涙を拭いながら懇願する。


 その時、扉が轟音と共に蹴破られた。


 カランと床に落ちる蝶番ちょうつがい。俺とユリが呆然としていると、扉が吹っ飛んだ入り口から、怒気を孕んだボスが姿を現した。


 ユリがぎゅっと俺の袖を掴む。


「人の情事を覗いた上に、こんな時間に男の部屋にいるとは感心しねぇなぁ、クソガキ」


 嘲笑交じりにボスは言う。しかし、曇り空を映したような瞳は少しも笑っていなかった。


「躾が必要か? なんなら夜更けに男の部屋に行くとどうなるか教えてやろうか。こっちに来い」


「……や、やだ」


 ボスから発せられる、触れれば切れそうな怒気に気圧され、ユリは消え入りそうな声で言った。ボスの眉が吊りあがる。


「逆らう気か?」


「ジ、ジーノ怒ってるからやだ。今日はベルナルドと一緒にいる」


 俺の袖を掴むユリの力が強くなる。気の毒になり、俺は助け舟を出そうとした。


「ボス……お嬢もこう言っていることですし、今日は……」


「いいからさっさとそいつを渡せ」


 今まで聞いたことがないような低い声でボスが唸った。有無を言わせぬ口調だった。


「聞こえねえのかベルナルド、命令だ」


 一瞬、ほんの一瞬、敬愛するボスに殺されるんじゃないかと思った。そしてその理由はきっと、俺がユリを庇ったからじゃない。


 ボスの烈火のごとき視線が、ユリに掴まれた俺の袖へと向く。視線だけで腕を焼き切られるんじゃないかと本気で思った。


 そう――――ボスは『嫉妬』しているのだ。ユリが俺を頼ってきたことに対して。

 そしてそれは、自分のお気に入りの玩具を取られたからじゃない。男として嫉妬している。


 いつの間にか、ボスはユリを女として見るようになっていた。


「いいから来い」


「きゃ……っ」


 ボスは俺から乱暴にユリをひき剥がす。そして俵のようにユリを担いだ。


「やだ! 離して! 離してよ! ベル……」


 部屋から連れ去られていく途中、ユリは縋るように俺を呼んだ。しかし、嫉妬の色を燃やしたボスの視線とかち合った俺は、申し訳なく思いながらもユリの呼びかけに応えなかった。


「離して!」


「うるさい、俺を煩わせるな」


「――――……ジーノ、怖い」


 ユリからの拒絶にボスは顔を強張らせた。自らの失言に気付いたユリは口ごもる。


「……ごめんなさい、怒らないで……ジーノも男の人だもんね、だから……女の人といるの邪魔したりしないから……」


 怒らないで、とユリは俯く。


 そうじゃないよユリ、きっとそうじゃないんだ、と俺は心中でボスに同情した。ボスが怒ってるのは、ユリにやましい現場を見られたからじゃない。ただの嫉妬なんだ。


 だけどユリがそれに気付くはずもない。


 ボスは歯がゆそうな顔をしたが、ユリを下ろし「とにかく部屋に戻れ」と言った。


 それから、ユリとボスの距離は前よりも遠くなった。一緒の館にいても別々のことをしている二人を見て、部下たちは「なんか、寂しいっすね」とぼやいていた。



 ユリはその名の通り白百合のように美しく成長した。長い睫毛を伏せた横顔は、時折ドキッとするほど儚げに見える。


 ボスは相変わらず女遊びをやめなかった。けれどそれは、まだ子供のユリに手を出さないように自制するため、代わりの女で発散しているように俺には感じられた。


 けれど、ユリはボスが女を連れている姿を見かけるたびに俺のところへ来て泣く。


 ユリの恋心を知っているのは俺だけだ。だからユリが泣きついてくるのは仕方のないことなのだが、彼女が俺を頼ってくるたびボスは荒み、ますます女遊びがひどくなる。


 悪循環だ。


 互いに思い合っているのははたから見て明らかなのに、本人たちは空回り、すれ違う。それが見ていてもどかしかった。




そして、ユリの十六歳の誕生パーティーの後、事件は起こった。ユリの発言はその場の空気を一瞬で凍らせた。


「ボス」


 そう言ったのだ。今の今まで一度もそう呼んだことはなかったというのに。


「お、お嬢……?」


「お嬢、酔っぱらってるんですかい?」


 部下たちが口元を引きつらせながら口々に茶化そうとする。しかしユリの視線は、談話室の豪奢なソファに掛けたボスから動かなかった。


「……何て言った?」


 眉間に皺を寄せてボスが問う。ユリは怯みそうになるのを堪え、声を大きくして言った。


「これからは私を部下として扱ってくださいと言いました……ボス」


 そう言った瞬間、ボスは横にあったテーブルをドンッと拳で叩く。その凄まじさと言ったら目に見えるようで、新米が一人、ボスの気にやられて引きつけを起こした。


 ゆらりと立ちあがるボス。室内にいた者は『憤怒』の形相を浮かべるボスから一歩引いた。ユリ以外は。


「俺はお前を部下にするために養ってきたわけじゃねえ」


 ボスは吐き捨てるように言った。激昂している。


 ボスの怒る理由は分かる気がした。籠の中で大切に育ててきた女が、自分との距離を置き、自ら危険な道を選ぼうとしているのだから。ボスは裏切られた気分になっているかもしれない。


「分かってる。でも、私はもう十六です。もう何も知らずに囲われているわけにはいきません。此処にいるには理由を作らなくちゃいけないし、ジー……」


 ジーノと言いかけて、ユリは苦い表情を浮かべる。


「ボスは私なんかが気軽に接していい存在じゃないって、成長して分かったから」


「関係ねぇ。傍にいろと言ったはずだ」


「傍にいます、部下として」


「そうか……なら……」


 ボスの瞳が凶暴な色を湛えた。


「部下として付き従うなら、俺の横暴にも耐えるんだろうなぁ……」


「ボス……?」


 俺が止めに入ろうとした時には遅かった。


 ボスは素早く懐から銃を抜くと、セーフティを外し、ユリめがけて迷わず一発放った。


 水を打ったように静まる室内。弾はユリの左耳の下を通りすぎ、腰辺りまで伸びていた黒髪を撃ち落とした。


「……こんな横暴にも、もちろん耐えるんだろう?」


 ボスはこの脅しでユリが意見を変えるのを望んでいるように見えた。


 しかし、放心状態だったユリは、ややあってから泣き顔を隠すように小さく頷いた。

 ボスの顔に失望が浮かんだ。


「……なら、好きにしろ。俺は今機嫌が悪い。その顔を見せるな」


「……っはい」


 ユリはひどく傷ついた表情を浮かべ、談話室から走り去った。



 数時間後、俺が様子をうかがいにユリの部屋を訪ねると、ユリは泣き腫らした顔で迎え入れた。


「女の人を沢山連れてるジーノを見て思ったの。彼はいつか結婚する。そしたら、私、もういらなくなっちゃうでしょ? だから、傍にいられる方法を探したらこうなったの。隣にいられなくても、部下として見守れるなら、それでいいって」


 ユリはそう言って気丈に笑う。

 その台詞をボスに直接言えばいいのに。そしたらすれ違ったりしないのに。どうしてこうも上手くいかないのだろうと、部外者の俺は唇を噛むしかなかった。




 それから一年。ユリは十七、ボスは二十九になり、二人が出会って十年が立った。


 ボスは勢力拡大を目的に同盟を組み、相手ファミリーのボスの令嬢との結婚を決めた。まるで、ユリのことを頭の隅に追いやろうとしているかのようだった。


 今日はその婚約パーティーだ。俺は十冊目に突入した日記にそう記してから、憂鬱な気持ちでパーティー会場へと向かった。


 会場となった洋館からはシャンデリアの煌々とした明かりが漏れ、テラスからオーケストラの演奏が庭園へと流れ出ていた。壁際にいくつも並んだ丸テーブルには沢山の料理が載っている。

煌びやかな衣装を纏ったマフィア関係者があちこちで談笑を楽しんでいる中、俺は俯いているユリを見つけた。


 前下がりのボブになった髪には百合が飾られている。身体のラインに沿ったシャンパン色のドレスが白い肌に映えていた。


 時折顔を上げては、ある一点を見つめている。その視線の先には、チョークストライプのスーツを着こなした色気溢れるボスと、ボスの腕に絡まる金髪の婚約者がいた。


 大胆なスリットの入った赤いドレスを着たボスの婚約者は、ガマガエルのような唇をにんまりとさせ、会場中の女たちにボスを見せびらかしているように見えた。


「……お似合いだね」


 自分とボスの婚約者を見比べながら、ユリは沈んだ声で言う。今にも泣きだしそうだ。

 俺はお前の方が数倍綺麗だと断言してやりたかった。


「……気分乗らないや。ごめん、私ちょっと抜けるね……」


 ユリはこれ以上ボスたちを見ないで済むよう、テラスへ逃げようとした。

 しかし、ユリ目当ての男たちが彼女をダンスに誘うため一斉に群がる。困惑するユリ。俺が助けようとすると、ふと苛烈な視線を感じた。


 ――――ボスがユリを見ていた。あの嫉妬に燃えるような瞳で。


 なんだかひと波乱ありそうだと俺は身構えてしまう。ボスは何かするつもりなのか……? 


 俺がそう思っている間に、ボスの薄い唇がゆっくりと開く。そして――――……。


「やめだ」


 会場に一際大きいボスの声が響いた。


「婚約は取りやめる」


 場内が一気にざわついた。ボスの婚約者が何事かわめいたが、ボスはにべもなく女の手を振り払った。そしてユリの元へと歩いていく。


「この俺としたことが、惚れたじゃじゃ馬への当てつけに婚約なんざ、くだらねえ失態だ」


 ボスは威圧感だけで、ユリの傍にいた男たちを蹴散らした。


「おかげで欲しい物は何が何でも手に入れる主義だってことを忘れるところだった」


 ユリの前に立つボス。混乱状態のユリに構わず、ボスは上から囁いた。


「俺の女になれ」


 ユリは大きな目を見開いた。状況を飲み込めずに、まばたきを繰り返している。


「聞こえなかったのか?」


「え……? あ、え……ほ、本気で言ってるの?」


「当然だ。何度も言わせるな」


「なん……え、でも、私はジー……ボ、ボスの部下で……」


「その選択肢はねえ。だが……そうだな……」


 ボスは懐をまさぐり、あるモノを取りだした。


「この俺のプロポーズを断る権利なんてやらねえが、代わりにこれをくれてやる」


 俺はボスの懐から、高い指輪が出てきたと思った。


 だが、ユリの手に乗せられたモノは――――……。


「ジーノ……これが拳銃に見えるのは私だけかな……?」


 そう、ボスの愛用している拳銃だった。


「断る権利はやらねえが、選択肢は与えてやる。俺の妻になるか、それともその拳銃で自分の頭ぶち抜いて死ぬか」


「なにそのラブ・オア・デッド!」


 ユリはときめく間もなく突っ込む。恐らく会場中の誰もがそう思ったに違いないが、ボスは至極真面目な顔をして言った。


「当然だろう」と。


 ああ、そうだ……。


 俺は顔を覆った。忘れていた――――七つの大罪の最後の一つを。


「俺は『強欲』なんでなぁ。欲しいものが自分の手に入らないと分かったら、まして他人のものになると分かったら、嫉妬で気が狂う。それならいっそ、壊してしまいたいんだよ」


 囁かれた台詞にユリは絶句する。対して、ボスは不敵な笑みを浮かべた。


「さあ、ユリ」


 ボスは「死にたくなかったら俺の手を取れ」と、ユリへ手を差しだした。


 もはや脅しだ。


 しかし、出会った時から魅せられている美しい悪魔の手を取るか、それともおぞましい死神の手を取るか――――ユリの中で答えは固まっているのだろう。


 ふむ。めでたいが、祝うためにもまずは今夜生き残ることが大事だな。


 そう胸の内で零し、数分後に婚約を破棄された相手ファミリーとの間で起こるだろう戦闘に備えて、俺はにやけたまま懐の銃へ手を伸ばした。

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悪魔なボスと少女の足跡 十帖 @mytamm10

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