第16話 七里ガ浜

あの日と同じ鎌倉の海。



今日はやたらと天気が良くて、眩しくて目を開けていられない。

日本人にしては色素の薄い僕の瞳は強い日差しが苦手だ。


鎌倉に、また桜の季節が来ようとしていた。

これくらいの時期が一年で一番紫外線が強いらしい。

まだ冷たい海の水に半分浸かりながら、日焼け止めクリームを持って追いかけてきた幼なじみを思い出していた。


そこへ大きな波が来た。

沖へ向かってパドリングをしながらタイミングを測る。


今だ!!


サーフボードの上に立ち上がると、全身で波を感じた。

板の下から大きくうねるように僕の体を押し上げる波に、鳥肌が立つ。


乗れた!!


そう思ったのはほんの数十秒。

あっという間に足を滑らせて、波間に放り出される。

上も下もわからない水の中。

海面から顔を出すと慣れた手付きで右足から伸びるコードに手を伸ばし、その先に繋がっているボードを引き寄せた。


そしてまた漕ぎ出す。次の波に向かって。



永遠に続けられそうだったけど、今日はこれぐらいにしよう。


岸に向かって力いっぱい漕ぎはじめる。

足が着く場所まで来ると急に重く感じる体と、僕の背より少し長いサーフボードを持ち上げ、よいしょっと砂の上に立たせた。

真っ白のボードの先端に、七色の虹。

水の滴る前髪をかき上げて、砂浜の方を眺めた。


砂浜にいるはずの人影を探す。


いた!


季節外れの海岸にひとりポツンと座る白い帽子に向かって、思いっきり手を振って見せた。

僕に向かって相手も手を振り返している。

僕はボードを抱えて、真っ直ぐに走り出した。


「碧樹―!!」


僕を呼ぶ声が聞こえた。ずっとずっと聞いていたあの声。

僕の魂に擦りこまれている、僕を呼ぶ唯一の声。

嬉しくなって、僕も呼び返した。


「ハルーー!!」


なんだか青春映画みたいだ。



ハルは砂浜に敷いたシートの半分を空けて座っていたから、空いていた場所に腰を下ろした。


「ごめん、濡れちゃうな」


「ぜーんぜん、大丈夫!」


ハルはそう言うとタオルを渡してくれた。


「おっサンキュ」


受取って顔を拭くと


「あと、これもね」


そう言って日焼け止めクリームを差し出した。思わず笑って


「やっぱりこれか」


と言いながら受け取ると


「今の時期が一番紫外線が強いんだから」


と、さっき脳内で再生されたまんまの声で言った。


久しぶりに外で見たハルの顔は、僕が知っているどのハルよりも白い。


「あれ?これハルの方が必要なんじゃないか?」


「私は綺麗に焼けるから大丈夫。ほら、鼻の頭皮がむけちゃってるよ」


そういえば顔がヒリヒリする。プールの水と違って、乾くと塩をふいたみたいに白い粉が付いた。あ、塩をふくってそういうことか。


「髪の毛も、潮水で痛むからちゃんとトリートメントしてね。ずいぶん色が抜けてるよ」


「いいよ、元々こんな色だし。それよりどう?びっくりした?」


僕はハルに向かって、少し得意げに言った。


「うん。碧樹が海に入っている所見たのなんて十年ぶりだよね。サーフィンやってるってどうして教えてくれなかったの?」


「上手くなってから見せたかったんだ。ハルのボードを使いこなせるようになってからね。

それにほら、これ」


僕は右足に巻きつけていたリーシュコードを外してハルに見せた。


「それ、私のリーシュコード?」


「うん、俺のお守り」


「どうしてそれがお守りなの?」


「これはハルをこの世に繋ぎとめてくれた命綱だから」


あの時、ハルを探して灰色に渦巻く波の間を必死に泳いでいた。

ふいに視界に現れた白いサーフボードにたどり着き、このコードを手繰り寄せた時。

その先にやっと見つけたハルの姿を、その光景を。

僕は一生忘れないだろう。


そして今、座っているハルの後ろにポツンと置かれた車椅子に目をやると、その視線に気づいたハルが言った。


「あの台風の日に、碧樹が助けてくれたって聞いてね」


「うん」


「ちょっと信じられなかった」


「なんでだよ」


「だって…まず碧樹が海に入ったの?」


「入ったよ」


「入ったとしてね、あの大荒れの海を泳いだの?」


「泳いだんだよ。ってか忘れた?俺も元水泳部!毎日どんだけ泳いでいたと思ってんの」


「そうだけど、プールじゃないんだよ。あの海だよ」


そう言って目を細めてハルは海を見つめた。

今ハルの目に映っているのは、きっとあの日の海だ。


「台風が行った後の海でサーフィンをしてみたかった」


ハルは遠くを見つめたまま話し始めた。


「湘南の波はいつも穏やかすぎて、少し物足りなくなっていたの。見たことも無い高い波にわくわくして、喜々として海に乗り出したんだけど、私が思っていたような波とは全然違っていた。

風も強くてうねりがあって。飲み込まれそうな大波に怖くなった。

仲間がどんどん引き上げて行くのを見て、近くにいた理恵が戻るよって合図をくれて。

一緒に戻ろうとした瞬間に後ろから大きな波が来て、何も見えなくなった。

必死に海面に出て、ボードに乗ってしがみついてるうちにどんどん流されて。

これ以上沖に出たら戻れないと思って必死にパドリングしたんだけど、全く進まなくて。

どうしよう、どうしようって焦っているうちに高波にひっくり返されて。

とうとう溺れちゃった。自分が溺れるなんて、思ったことも無かったのに。ほんと、バカだよね」


「あの時さ、寝てたんだ俺。

電話が鳴って、ハルだと思って出たら宮内でさ、『春陽が戻ってこない!どうしよう』って」


「うん」


「で、焦ってそのまんま家を飛び出して、チャリで五分でここに着いた。どこをどう走ったのか思い出せないんだけど、俺史上最高速度だよ」


「確かに」


あとで昂太に話したら「瞬間移動したんじゃね?」と真顔で言われたんだよな。


「砂浜に立ってた宮内に、どのへん?って聞いて指差された方に泳いで行ったんだ。なんも見えなかったけど」


「無茶だね」


「うるせぇ」


「寝ぼけてたんでしょ」


「んなわけあるか」


「だって、自分だって死んじゃったかもしれないんだよ」


「いいんだよ、助かったんだから」


「レスキュー待とうとか思わなかったわけ?」


「全く。てか、俺がハルを助けたかったんだ」


「だけどそんなことして、碧樹が死んじゃったらおじさんとおばあちゃんに申し訳なさすぎるよ」


「ハルだけ死ぬよりよっぽどいいよ。それにあの時さ…」


僕はこの話をハルにしようかずっと迷っていた。

他の誰にも話したことは無かったし、ハルは現実的な考えの持ち主なので笑われる可能性を捨てきれない。

あの時の自分はどうかしていたかもしれないから、笑われてもいいかという気持ちになって、感じたままに話すことにした。


「信じないかもしれないけど」


「うん?」


「後ろから波が助けてくれたんだ」


「え?」


「ボードにハルを乗せて押しながら泳ぐ俺を、後ろから波が押し戻してくれてさ。急に体が軽くなって、あの時、すぐ近くに母さんがいたような気が…した」


自信なさげに言う僕を笑い飛ばすかと思ったけど、ハルは大きく頷きながらパンっと手を叩いた。そしてそのまま両手を握りしめて言った。


「碧樹!きっとそうだよ。碧樹のお母さんが助けてくれたんだよ」


「やっぱりそうかな」


「うん、絶対そう。そうかぁ。私が助かったのは、碧樹と碧樹のお母さんの合わせ技だったんだね」


「うん…そうかもね」


ハルは海に向かって手を合わせると


「碧樹のお母さん!ありがとうございました」


そう言って目を閉じた。


「俺には?」


「ん?」


「俺にありがとうは?まだ言ってもらってないんだけど」


「さぁて、そろそろお弁当にしようかなぁ」


「おーい」


どうやら僕にお礼を言う気はないらしいので、素直にお弁当の時間を始めることにした。

大き目のトートバッグから登場したのは、二段のお重になったお弁当箱だった。


「はいっ」


と玉手箱を開けるような手つきでふたを開けると、懐かしいハルのお弁当の匂いがした。

唐揚げにエビフライにおいなりさん。僕の好物でびっしり埋め尽くされていた。


「すげぇ豪華!」


「うん、頑張っちゃった。ずいぶん久しぶりに作ったけど、腕は落ちてないよ。はい、ウェットティッシュ」


と出されたティッシュで素早く両手を拭くと同時に「いただきまーす」と手を出したのは、黄色い玉子焼きだった。


「えっ!」


驚くハルに構わず、指先でつまんだ玉子焼きをまるまる一個口に入れる。

それは見た目通りの完璧な、甘くておいしい玉子焼きだった。


「甘い!あー、これ俺の大好きな味だぁ」


僕が初めて食べたハルの玉子焼きの感想を言うのを、何も言わず口を開けて見ているハル。


「もう一個食べたい」


二個目もばくっと食べて、「んーうまーい」と大満足の笑顔になり


「こんなに美味い玉子焼きを今まで食べなかった俺は馬鹿だな」


とハルの顔を見てつぶやく僕に


「…びっくりしたぁ」


やっと呪縛から解き放たれたようにハルは言った。


「まさか食べると思わなかったから、自分用の味付けにしたんだよ。甘すぎるでしょ」


「いや、ぜんぜん?俺甘いのが好き」


「そうなんだ。知らなかったよ」


「ごめん」


「なにが?」


「今まで。毎日作ってくれていたのに食べなくて」


「いいよ、私もムキになって入れてたとこあったし。碧樹はお母さんの玉子焼きが好きだったんでしょ?」


「うん、なんかさ。ハルの玉子焼きを食べたら、母さんの玉子焼きの味を忘れちゃいそうな気がしたんだ」


「え?」


「俺、母さんの料理の中で玉子焼きが一番好きで、あの味をずっと覚えていたかったんだ。でも、まどか…先生のお弁当を食べた時、単純に食べ残したら悪いと思って玉子焼きも食べたんだけど、全然違った。もちろんこっちも美味しいんだけど、母さんの味とは全然違ったんだ。で、その時わかったんだよ。違うってわかったってことは、俺は母さんの味をちゃんとおぼえていたんだって」


「そうだったんだ。もっと早く言ってくれればよかったのに」


「うん…なんか言えなかった。恥ずかしかったんだな、きっと」


「私、バカみたいに毎日研究したんだから。おばあちゃんに碧樹の好きな味を聞いたり、調味料工夫したり、のり巻いたり、ウィンナー入れたり、思いつく限りのことをやったんだよ」


「うん、知ってる」


「え?知ってるって、なんで?」


「ナツに聞いたよ。いっぱい試食させられたって」


「ええっ!碧樹ナツと話したの?」


「ははっ話したどころか、毎日一緒にいたんだよ。あんなの子供の時以来だな」


僕はハルの妹の夏菜と一緒にいた、ハルの病室での日々を思い出していた。


あの日、砂浜に駆け付けたレスキューの救急隊員により、救命処置をされて病院へ運ばれたハル。

自発呼吸はあるものの、意識が戻らない状態が続いていた。

毎日病室へ通う僕は、そこでナツとよく顔を合わせた。


ナツは僕たちの二歳下で、今は中学三年。

子供の頃から習っていたピアノに才能があり、音楽コースのある私立の中高一貫の学校へ通っている。小さい頃はよく一緒に遊んだけど、僕とハルが中学に進学した頃からあまり僕とは会わなくなっていた。ハルに比べると大人しい性格で、活動的なハルとは対照的な姉妹だった。


そのナツが、ある時ハルのスマホを手に持って、こんなことを言ってきた。


「ねぇあおくん、お姉ちゃんのスマホの画像見たことある?」


「ないよ。見せてもらったことはあるけど」


「だよねー。ちょっと見てみない?」


「だめだよ。第一パスワードかかってるだろ」


「大丈夫、大丈夫。そんなの簡単だよ。お姉ちゃんの暗証番号は…0617。ほら開いた」


「え。その番号って」


「うん、あおくんの誕生日だね。お姉ちゃんは最初の携帯から全部これだから」


「まじかー」


おい、ナツに全部ばれてるぞー

ハルにそう言ってやりたかった。


「見て見て、しかも待ち受けがこれだよ」


見せられた待ち受け画面は、四月に桜の下でハルと写した僕とのツーショットだった。

なんかもう色々恥ずかしすぎる。


「お姉ちゃん、どんだけなの」


とナツもドン引きだ。


「でね、見せたかったのは、このフォルダー」


そう言ってナツが開けたのは『お弁当』とタグが付いたフォルダーだった。


「お弁当?」


思わず覗き込むと、そこには毎日のお弁当を映した写真が何百枚も入っていた。

どれも見覚えがある。僕が毎日食べていたハルのお弁当だ。


「何で写真なんて」


「なるべくおかずがかぶらないようにでしょ。例えば月曜日。先週が唐揚げだったから、今週はトンカツとかね。付け合せも同じような味付けにならないように気をつけたり」


「ええっ」


「あ、引いちゃってる?お姉ちゃん徹底してるからね。絶対に冷凍食品使わないし」


「この日付の次に書いてある数字は何だろ」


「ああ、これ?カロリーだよ」


「カロリー?!」


「そう。碧樹は朝食が少ないから、お弁当でしっかり栄養を取れるようにってハルヒは独自にカロリー計算能力を取得したのだ。知らなかった?」


「知らない、初めて聞いた」


「やっぱりなぁ」


「なんでそういうこと黙ってるんだろ」


「あおくんに知られたら引かれるって分かってるからじゃない?」


「うん、そこまで分かられてることも怖いよ」


僕は苦笑いをして見せた。


「それより玉子焼きだよー。あおくん嫌いなんでしょ?」


「あー、玉子焼きな。嫌いってほどじゃないんだけど」


「子供の頃は食べてたし、栄養あるし美味しいのに、何で食べてくれないんだろうってずっと悩んでたよ」


「うん、そっか」


「厚焼き卵の研究から始まって、海苔巻いたり、パセリ混ぜたり、スクランブルにしたりいり卵にしたり。死ぬほど試食させられたんだからね」


「まじかー。なんかごめん」


「ほんとにさぁ。お姉ちゃん、目覚まし時計三個もセットしてたんだよ。毎朝五時に叩き起こされて、キッチン占領されて。だけど困ったことに本人は本当に楽しそうだったから、私もママも何も言えなかった」


「え…」


「お姉ちゃんは毎日あおくんのことばっかりだった。実の妹の私より、いつもあおくんだった」


「ナツ…」


そのことは、僕もずっと不思議に思っていた。

ハルはどうして僕にそこまでしてくれるんだろう。

何の見返りも求めず、こんなに尽くしてくれるんだろう。


だけど僕はやっと思い出したんだ。


海でハルを捕まえて砂浜に倒れ込んだ後、気を失っている間に見た長い長い夢。

それは自分が声を取り戻した瞬間のことと。

ハルが「碧樹のママになる」と宣言した時のことをを思い出させてくれた。

その約束をハルはずっと頑なに守ってくれていたんだ。


始めは罪悪感だったのかもしれない。

母親を亡くした幼馴染への同情だったのかもしれない。


そうだとしても、それだけで十年も続けられるだろうか。

見返りも感謝の言葉も求めずに、ただ僕が毎日元気に過ごせるようにと尽くしてくれた。

そして、そのことを僕が負担に感じないように、あえてあの夜を思い出させることもしなかったんだろう。


今更ながらハルの想いの深さに気付かされて、自分の幼さに飽きれてしまう。

なんて子供で、自分の事しか考えていなかったんだろう。

ハルの気持ちなんて全く考えずに、鬱陶しいとまで思っていたなんて。




「だから、突然お弁当いらないって言われた時、抜け殻だったよ。癖で早起きしちゃうからって早朝のバイト始めたり、突然サーフィン始めたり。何迷走してんのって思ったけど、お姉ちゃんは自分のやりたいことを探しているんだよってママに言われて」


「……」


「ナツにはピアノがあっていいなぁって、お姉ちゃんに初めて言われた。知らない男の子と遊び始めた時はどうしようと思ったけどね。もぅあおくん何やってんのって怒鳴り込んでやりたかったんだから」


「あー、あいつのことは殴っといた。もう大丈夫だろ」


同じぐらい殴り返されたことは言わないでおく。


「へぇそうなんだ。やっぱり頼りになるんだなぁ。今回もお姉ちゃんを助けてくれたのはあおくんだったし…ねぇ、あおくん…」


そう言うとナツは急に涙ぐんだ。


「お姉ちゃん、大丈夫だよね?意識戻るよね?せっかくあおくんが助けてくれたのに。もお何やってんのかな」


ナツは並んで座っていたベンチから立ち上がると、ハルの枕元で顔を覗き込み、頬を撫でながら言った。


「お姉ちゃん、ここにあおくんがいるんだよ。早く目を覚ましてよ」


なんだか僕はたまらない気持ちになって、ナツに言った。


「ナツ、ハルは絶対に目を覚ますよ。ハルが起きたら、俺今度こそ食べるから。ハルの玉子焼き」


「…うん!」


それからも病室で顔を合わせる度に、二人でハルの話をした。

子供の頃の事や僕が知らなかったことも色々教えられて、ずっと幼い子供だと思っていたナツの成長に驚かされたのだった。



「ナツに言われるまで知らなかったよ。ハルがそんなに玉子焼きにこだわっていたこと」


「うん…。どうしたら碧樹のお母さんの味に近づけるのか、ずっと悩んでたけど碧樹が求めているのはそういうことじゃなかったんだね」


そう言ったハルの顔は、どこか晴れやかだった。

結局、今日ハルが作って来た玉子焼きは、僕が全部たいらげてしまった。


「今思うと、あれは最後の抵抗だったのかもな」


と僕がつぶやくと「え?何が?」とハルが不思議そうに言った。


「何でもない!エビフライいただきまーす!」


以前よりもありがたみが増したハルのお弁当を、僕は堪能した。


「ごちそうさま!」


「はい、温かいコーヒー」


水色のポットからカップに注がれたコーヒーは、湯気が出るほど温かくて、その甘さとミルクの配合が僕にちょうど良かった。


本当に、どうして僕は気付かなかったんだろう。


今までハルが僕にしてくれたあらゆることを、全て当たり前に思ってきたけどそうじゃなかった。

ハルは僕の為にずっと頑張ってきてくれたんだ。

十七年生きてきたうちの十年近くをハルが支えてくれていた。


もしもあのままハルを失ってしまったら、僕の体を形成している成分の半分以上を失っていたような気がする。

そして心のダメージは、多分それ以上。


「ねぇ、ハル」


「ん?」


「ハルが病院にいる間、俺毎日何してたと思う?」


「サーフィンじゃないの?」


「それは冬場以外ね。いくら湘南といえども真冬の海は初心者にはきついわ」


「あ!わかった!八幡様でしょ。目が覚めたら枕元にお守りがたーくさんぶら下がっていてびっくりしたんだから」


「当ったりー。八幡様だけじゃなくて、鎌倉中の神社仏閣にお参りしたんだ。俺だけじゃないよ、宮内や昂太や長谷川、齋藤にナツも」


「そうだったんだ。おみくじまでベッドの柵に結わいてあって、看護師さんも笑ってたよ」


「大吉だけな。病の所赤線引いてあったろ?」


「大病必ず治る、とかね」



「昔さ、よく神社に遊びに行って、掛けてある絵馬に落書きしたりしたじゃん」


突然の昔話にハルは大慌てで否定した。


「えっ私はしてないよ。碧樹でしょ?」


「俺だって悪いことは書いてないよ。その人の願いがかなうように、かぶせてお願い!って書いたりニコちゃんマーク描いたり」


「そうだった、そうだった」


「だけどやっぱりあれは悪いことだったかなって思って気になっちゃって。今更だけどあの時はごめんなさいって謝ったり」


「あははー今更だな本当に」


「あと、おんめ様にも行った」


「えっ!おんめ様は安産祈願のお寺じゃん」


「知ってる。子供の頃さ、ハルのお母さんが言ってたんだよ。ハルが生まれる前におんめ様にお参りして、性別占いしたんだって」


「その話、知ってるー。封筒に入ってる紙の色で性別を占うやつでしょ?確か白だと男の子で、赤だと女の子」


「それ。聞いたらうちの母さんもやっててさ。俺の時には白い兜が出て男の子だ!ってなって男の子の名前を考えたって。だけど」


「そうだよ!私の時も白の兜だったんだよ。だけどお母さんはどうしても女の子が欲しくて、でも男の子かもしれないからどっちでもいいようにハルヒって名前にしたって話でしょ?」


「うん、それそれ。八幡様に行った帰りにそのスバラシイエピソードを思い出してさ。これは絶対御利益あると思って」


「何でよ」


「だってさ、ハルが生まれる前に安産祈願したお寺なんだよ。生まれた後もきっと責任を持ってハルを守ってくれてるよ」


「なるほどね。そうなると私は相当いろんな方面から守られていたんだね」


「そうだよ。うちの仏壇にも毎日手を合わせてくれたし、いっぱいお参りしといて良かったな。今度一緒にお礼参りに行こう」


「うん。絶対行こう」


「それとね、他にもやっていたことがある」


「わかってる。あの楽しい動画でしょ?毎日送ってくるやつ」


「あれ?なんかちょっと迷惑そうじゃない?」


「別に迷惑ってほどじゃないけど、ユーチューバーになるのが夢だったら諦めた方がいいよ」


「ひでーな。ハルだって爆笑してたじゃん」


「あー、あのバケツチャレンジは面白かったよ」


バケツチャレンジというのは、バケツに入った水を頭からかぶると言う少し前に流行ったシンプルなゲームで、何人かで順番にかぶっていくんだけど、一人だけ氷水をかぶっていて、それが誰なのかをハルに当ててもらうというハル参加型のゲームだ。


驚いたのは、最初は男だけで撮影を始めたのに、宮内がどうしてもやりたいと言って、しかも自ら氷水をかぶったことだ。

あのクールビューティーが頭から氷水をかぶって、なんでもないように笑う姿に触発されて、次々に参加者が現れ、とうとう文化祭のイベントにまで採用されてしまった。


他にもたこ焼きにタバスコ入りを一個だけ作ったロシアンルーレットや、わさびたっぷりの回転ずしなど、罰ゲームのような動画を毎日送りつけて、ハルに当てさせた。


「最後にちゃんと『スタッフがおいしくいただきました』ってテロップを出すあたりがあざといよね」


「あれ、一番本気出してるのは宮内だから。俺がやらせたわけじゃないからな」


「わかってる。理恵は本当に男前だよ」


宮内は、ハルの事故の責任を感じていた。

それはもう、誰が見ても痛々しいほどに。


ハルの家族にも深々と頭を下げて謝り、ハルの意識が戻るまで毎日病院へ来ていた。

ハルが目覚めた時にはすがりついて泣いて謝って、傍で見ていた俺たちもつられて泣いてしまったほどだった。

それからは進んで動画に参加したり、授業のノートを届けたり、本当にハルのために一生懸命だった。


それに、先生も。何度も何度もハルの病院へ足を運んでくれた。

意識が戻るまでは声を掛けて、腕や足をマッサージして。

退院した今ではすっかり頼りになる保健室の先生として、ハルを支えてくれている。



「入院中、理恵は毎日顔を見せてくれたのに、碧樹はあんまり来てくれなかったじゃん。お母さんに聞いたら、意識が戻るまではあおくん毎日来てくれたのよーなんて言うし」


「漫画持って行ってやったじゃん」


「そうだけどすぐ帰っちゃったじゃん」


ハルはそう言って不満そうに口をとがらせた。


確かにハルの意識が戻ってから、僕はあまり病院へ行かなくしていた。

その代り毎日ラインを送ったし、学校でバカみたいな動画を撮って送りつけた。



あの事故の後、ハルには後遺症が残った。


意識が戻ってもいくつかの後遺症が残る可能性は、事前に説明されていた。

リハビリ後に社会復帰しても、電話の取次ぎが上手くできない、物忘れしやすい、二つ以上の事を考えられないなどの機能障害。

四肢に力が入らなかったり、下肢に麻痺が残る場合。

長時間脳に酸素がいかなかったことで起こる脳の機能障害らしい。


幸い話したり記憶したりの部分に後遺症は見られないが、ハルは下肢に麻痺が残ってしまった。

ハルの家族と僕にとって、命が助かったありがたさに比べれば、それは小さなことだった。


けれどハルにとっては。


僕が知っている他の誰よりも元気で、健康で、走るのも泳ぐのも中学生になるまでは勝ったことがなかったハルの足。

リハビリをして、自力で歩けるようになったとしても、過去の自分と同じ速さで走ることはできない。


ハルがその現実と向き合う時、僕の存在は邪魔だと思った。


僕が傍にいたら、ハルは「大丈夫!」と笑って見せるだろう。

いつもの笑顔で「心配しないで」とピースサインをして見せるだろう。

そんなことはさせたくなかった。

ハルが自分の中で折り合いをつけるまで、必要なだけ泣いて欲しかった。


もしも僕に縋り付いて泣いてくれるなら、いつでも傍に行くつもりだった。

だけどやっぱりそんなことにはならなかった。

ハルは時間と共に全てを受け入れ、自由に動けない自分のままで生きていく努力を始めた。


それからずっとリハビリを続けて、最初の頃よりは動けるようになったけど、まだ一人で歩くことは難しくて、車椅子を使っている。



「俺ね、今勉強してるんだ」


唐突に僕が言うと、ハルは心底驚いたという顔を見せて


「勉強?!碧樹が勉強?!あ、受験勉強か」


と言った。


「うん。来年歯科大受けようと思ってる」


「歯科大?!碧樹歯医者になるの?」


「そう。ハルのおじさんにスカウトされたから」


「えっ!うちの歯医者を継ぐつもり?!」


「うん。ダメ?」


「ダメ?ってダメ…ではないけど、でもなんで急に?」


「俺、ほんとにやりたいことがなくてさ。このまま普通に大学行って、ただのサラリーマンになるんだって思ってたんだ。でもハルが入院している間、お医者さんとか看護師さん以外にもリハビリの先生やレントゲン技師さんやたくさんの人が医療に関わっていて、患者さんみんなに感謝されていて、こういう仕事っていいなって思ったんだ。

でも今から医学部はキツイだろ。歯科大でも浪人するかもしれないけどさ。でも頑張って歯医者になるよ。それでうちの向かいの歯医者に永久就職する」


「永久就職って…そりゃうちのお父さんは大喜びだけど。でも本当にいいの?」


「うん。だからさ、ハルはそこの受付で笑ってればいいんじゃないの?」


「え?」


「怖がって泣いてる子をあやしたり、小学生に歯磨きを教えたりしながらさ」


「それって…私にできることを考えてくれてるんだね」


「いや、ハルはなんだってできるよ。だからこれは一つの提案ね。つまりプランA」


「A?AってことはBもあるの?」


「あるよ。Bはすごいよ、聞きたい?」


「聞きたい!」


「うちの離れと庭を改装してさ、古民家カフェを開くのはどう?」


「えっ!碧樹んちで?」


「そう。ハルが得意の卵料理とかパンケーキとか、俺が好きなフレンチトーストとか出してさ。夏はパフェとかき氷ね。あ、カロリー計算したヘルシーメニューでもいいな」


「カロリー計算…ってなんで知ってるの?」


「いや、何にも知らないけど?」


「…ナツだな。あいつめ。でもそれいいね、やりたい!碧樹んちで古民家カフェ」


「だろ?歯医者からお客さんが流れる仕組みだよ」


「サイコーだね。また虫歯になっちゃう」


「そ。無限ループ」


二人で笑い転げる。


「そして、プランC」


「まだあるの?」


「あるよ。海辺で、サーフショップを開く」


「えーーー!すごーい」


「俺は、インストラクターの資格と、ライフガードのライセンスを取って、鎌倉の海の安全を守る」


右腕を突き出し、左手の拳を心臓の上に当てたポーズで、わざとヒーローっぽく言うとハルは笑って言った。



「それいい!うわー、全部いいんだけど。どうしよ…はいっプランD!!」


「お!」


「今碧樹が言ったやつ、全部やりたい。何年かかってもいいから、全部叶えたい」


そう言ったハルの笑顔にほっとして、僕は答えた。


「うん。全部叶えようよ、一緒に」



「一緒に…」


そこで急に我に返ったようにハルが黙った。


俺の気持ち、伝わったかな。

…ちょっと待ってみる。


「ねぇ、碧樹」


「ん?」


「さっきのプランだと私たち、これから先ずっと一緒にいるってことだよね?」


「…そうだね」


「確認なんだけど」


「うん」


「私、碧樹の事好きって言ったことあったっけ?」


「え?!」


僕は慌てて過去の記憶を高速でたどって行く。


だって、ハルのスマホの暗証番号は僕の誕生日だし。

待ち受け画面は僕とのツーショットだよな?

だけどそれはハルに内緒で見た情報だし。


好きって言われたこと?

無い…かな。無い…な。うん、無かった…な。


「え?あれ?無い…かな」


「だよねっ!!あー、びっくりした」


心底ほっとしたように、晴れやかに言うハルに僕は焦りを隠せない。


「え、なんだよそれ。ちょっと待って、あれ?…あー!!わかった、おまえあれだろ」


「なに?」


「あのリハビリの先生だろ。超イケメンの。ナツが言ってたよ。あれ、お姉ちゃんのドストライクだって。まじかよー、あいつかよー」


「碧樹、何言ってんの?」


「あーやられた。まじないわー。こんなことなら毎日病院行って見張ってればよかったよ」


「またもぉ、適当なこと言って」


けらけらとハルが笑った。よし、取りあえず乗り切った。

ほっとして次の言葉を探した。


「いやでも真面目な話、さ」


「うん」


「俺たちはまだまだ若くて、やろうと思えばなんだって出来ると思うんだよ」


「うん!」


「ハルは今までもずっと全力で頑張ってきた。俺は本当にハルに助けてもらった。今の俺がいるのはハルのお蔭だと思ってる」


「碧樹…」


「だからさ、これからはもっと俺を頼って欲しい。なんでもするから傍に居させてほしい。俺がハルの足になるから」


「……」




何も言わないハルに不安になって、顔を覗き込んだ。


「ハル?もしかして…泣いた?」


ハルはバッと顔を上げると、叫ぶように言った。


「泣いてない!」


ハルは強い。何度でも僕の予想を裏切るほどに。


「なんかね。私今すごくじっとしていられない気分なの」


「へ?」


「砂浜を歩きたい。碧樹、おんぶして」


「お、おお」


いきなりの申し出に驚いたけど、僕がハルの足になるって言ったんだ。

恥ずかしがっている場合じゃない。


僕は立ち上がった。

ハルの白いワンピースが濡れないように、ウエットスーツの上からバスタオルを羽織ってハルを背負った。


「よいしょっ」


そすがに照れくさくて掛け声を掛けて立ち上がったけど、びっくりするぐらいハルは軽かった。


「歩くよ」


「うん」


僕はハルをおぶって砂浜を歩き出す。

子供の頃ふざけ合って同じことをしたのを思い出した。


「こんなの何年ぶりかな」


ハルも覚えていた。



「昔はハルの方が大きかったから、よく俺がおぶってもらったよな」


「そうそう、碧樹は小さくて細くてひょろひょろで」


「あー馬鹿にした」


「ふふっ、でもとっても温かかった。小さくて白くて可愛くて」


「猫かよ」


「そうだよ。可愛い白猫みたいで。私が守るっていつも思っていたよ」


「ふっ形勢逆転だな」


「ほんと、いつの間にこんなに大きくなったのー。こんなに高い目線でいつも見ているんだね。ねぇ重くない?」


「ん?ちょうどいいよ」


「何それ。重いって言ってもいいよ」


「重くはない。でもこれ以上軽いと心配になる。だからちょうどいい」


「上手いこと言うなぁ。でもね、私これからどんどん重くなるから」


「え?それ何の宣言?」


「だってあんまり動けないのにいーっぱい食べるから、ぶくぶく太ってすごく重くなるよ」


「あはは。じゃあ俺はもっと体鍛えてムキムキになるよ」


「馬鹿だな、そんなことしなくていいんだよ」


「え?」


「碧樹は、私の事重いと思ったら、いつでもその場で下していいんだよ。ずっと背負って歩く必要なんてないんだからね。少しでも重いと思ったらすぐに下すって約束して」


そんなセリフを聞いて、僕は速攻で言い返してやった。


「馬鹿はハルの方だろ。誰が簡単に下すかよ。どんだけ苦労して捕まえたと思ってんだ。もう絶対離さないって決めたんだから。大人しく俺に背負われててくれ」


僕の首にまわっているハルの腕が、小刻みに震えている。

そして、きゅっとしがみついてきた。


今度こそ泣いた…か?


「碧樹っ!」


「うわっ」


耳元で突然大きな声で呼ばれてびっくりした。



「走って!!」


「は?何をいきなり」


「いいから、走って!今砂浜を激走したい気分なの。はやくっ」


「わかったよ!捕まってろよ。いくぞ!」


僕は走り出した。

ハルを背負ったまま、この七里ヶ浜を。


「もっと、もっと速く!!遅いよ碧樹。ほら、江ノ島に向かってはしれー!」


ハルが僕の背中でぶんぶん手を振り回して叫んでいる。


「おまえまじかよー、下砂浜だぞ」


「まだまだ!私の足になるんでしょ?」


「!!」


「私の足はこんなもんなの?もっともっと早く走れるよ!」


そう言われて本気を出した。もうこうなったら全速力だ。


「よし、行くぞー!!」


「いけー!!」


「うおー!!!」


声を出してみたものの、加速したくても足がもつれてきた。


やばいもう、このままだとハルごとつぶれると思った僕は、走るのを止めてその場をぐるぐると回りだした。


「きゃー!!落ちるっ落ちるぅ」


「ほら、ちゃんとつかまってろって」


言いながらわざと波打ち際に近付いて行く。

ばしゃばしゃと足で水を跳ねさせて、ハルに掛けてやる。


「きゃー!冷たいぃ」


ハルが笑っている。


「もう酔うっ酔うからぁ」


「俺も目ぇ回ってきた」


「もう信じらんない、碧樹のばかぁ」


そう言いながら楽しそうに。



笑って、ハル。

もっと、もっと笑って。


これから先、何があっても僕がハルを守るよ。

世界で一番大切な幼なじみで、大好きな人。



口に出して言うのは簡単だけど、今それを言ってもハルは喜ばないだろう。

僕はこれからの毎日をずっと一緒にいることで、それを証明するんだ。

ハルが僕にしてくれたように。



僕らの未来はまだほんのちょっと先にある。

届きそうで届かない、それに手を伸ばしていこう。

そしていつか掴もうよ。



その日まで、僕らはいつも一緒だ。




了 ~『鎌倉HOLIC』~

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鎌倉HOLIC 碧石薫 @jasper503

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