第15話 腰越

頭の横で、振動音が鳴っている。


習慣で体が動いた。目を開ける前にスマホを掴んでいた。

アラームを掛けていないはずなのに鳴りやまない振動に目を開けると、通話の着信だった。

ハルからだ。時間を確認すると五時半だった。こんな時間にどうした?


「…ハル?」


「市原?!」


ハルからの着信のはずなのに、違う女性の声だった。


「え、だれ?」


「私、宮内!春陽の友達の」


「あぁ、宮内?え?どうした?」


「どうしよう、春陽が戻ってこないの!」


「ハルが?戻ってこないって…どこから」


はっ!と思い出した。昨日、ハルはどこへ行くって言ってた?

台風が行ったら海へ行くって。

朝になったらサーフィンをやるんだって。

気を付けろよって手を振って、ハルのうちの前で別れたじゃないか。


一気に脳が覚醒して、僕はガバッとベッドから起き上がった。


「戻ってこないって、海?!」


「うん!サーフィンしてて、一緒に引き上げたはずなのに、帰ってこないの!どうしよう」


今にも泣きそうな宮内の声に、スマホに向かって叫んでいた。


「すぐ行く!!」


パジャマ代わりのTシャツと短パン姿のままで、スマホだけ手につかんで部屋を飛び出した。

自転車に飛び乗るといきなり立ちこぎでフルスピードを出す。

頭の中で次々に現れる嫌な想像を消し去るように、思いっきりペダルを漕いだ。

早朝の道路はほとんど車も走っていなくて、海岸線を直進した。ハルのサーフィンポイントまで五分もかからずに到着した。


砂浜には結構な人数のサーファーが集まっていた。

見える範囲でサーフィンをしている人は一人もいなかった。

みんな海に向かって目を凝らしている。


その中に宮内の姿を見つけた。


「宮内!!」


「あ、市原ここだよ!」


「どのへん?」


僕が海の方を見ながら聞くと、宮内はある一点を指差した。


「向こうの方!さっきまでボードに掴まってる姿が見えてたんだけど、見えなくなっちゃったの。急に潮の流れが変わって…沖に流されちゃったのかも」


「レスキュー呼んで!」


泣きそうな顔の宮内にそう言って、短パンのポケットからスマホを出して宮内に渡した。


「これ持ってて」


Tシャツとサンダルを脱ぎ捨てて、迷わず海に走った。


「あ!市原っダメだよ、危ない!!」


その声を聞きながら、さっき宮内が指差した方角へ泳ぎ始めた。


海に入ったのは子供の時以来だった。

それも台風の後の、荒れ狂った海に入るなんて初めてだ。

嫌でもあの日の事を思い出してしまう。

だからこそハルを見つけなければ、永遠に失ってしまうという焦燥が僕を突き動かしていた。


次々に押し寄せる波が視界を遮り、真っ直ぐに泳ぐことができない。

夏の終わりの海水は早朝と言うこともあって冷たく、僕の体温を奪っていく。

プールの水と違って体は浮くけれど、海水は目に染みて開けているのが大変だった。


泳ぐこと自体久しぶりだったけど、不思議と怖くはなかった。

僕の体は効率の良い体の使い方をちゃんと覚えていた。


どのくらい沖まで来たんだろう?

とっくに足は着かなくなっていたけれど、岸の方は見なかった。


とにかくハルを探すんだ。

どこかにいる。絶対に生きてる。

僕が見つけるんだ。この手で助けるんだ。

どこだ、どこだ、どこだ…ハル!!

それ以外は考えずに、ひたすら波を掻いた。



唐突に、波間に白いものが見えた。

三十メートルぐらい先の海面にぽかりと浮かび上がってきて、半分ほど姿を現している。


ハルのサーフボードだ!!


冷え切って疲れた体に一瞬で力が湧いた感じがして、白いボードに向かって必死に水を掻いた。

心臓がバクバクしていた。

海上に人の姿は見えない。

頼む、ハル。そこにいてくれ。


その一心でボードにたどり着くと、海に潜って目を凝らした。

灰色に濁った海水は、ほんの少し先も見通すことができない。

ボードからコードが伸びていた。これは!

僕はコードを掴んで手繰り寄せた。

すぐにピンと張ったコードの先に人の足が見えた。


ハル!!


そこにハルがいた。ぐにゃりとした体を海中に漂わせて。

僕は潜ってハルの体を抱きかかえると海面に引き上げた。

そして渾身の力でサーフボードにハルを乗せ上げた。


「ハル!!大丈夫か!ハル!!」


頬を手でピシャピシャ叩いても反応が無かった。


その顔も手も冷え切ってしまっている。

完全に意識を失い、その体に力はない。

脈やら心音やらを確かめる余裕は無かった。

とにかく一刻も早く岸まで運ばなければ。


岸まではどのくらいの距離だろうか。

方向を見定めると、ハルを落とさないように気を付けながらボードを押して泳いだ。


「ハル!死ぬな、ハル!!」


呼びかけながら、心では違うことを考えていた。


母さん。

連れて行かないで。

ハルを返して。頼むよ。

もうこの海で誰かを。

失いたくないんだ。大切な人を。


目から涙が溢れて僕の邪魔をした。

そんな場合じゃないんだ、泣きたくなんてない。

今涙なんていらない。


ハルを死なせたくない。

絶対に死なせたくない。

お願いだ、母さん…母さん…。


そう心で繰り返していると、ふと体が軽くなったような気がした。

さっきまで荒れ狂っていた波が、今は後ろから僕たちを押し戻しているような、強い力を感じた。


あぁ、母さん。

助けてくれるんだね。

ハルを…。

僕を…。


僕の意識ももうギリギリのところに来ていた。

ハルを助けたいと言う気力だけで泳ぎ続けた。


海岸では僕らを見つけた人々が集まり、駆け寄ってくるのが見えた。

砂に足が着いた瞬間に、迎えに来た人たちがボードごとハルを受け取った。


「よく頑張ったな」


声を掛けてくれた二人の男の人に支えられながら砂浜へと歩いた。

急に重力を感じて、鉛のように重い体は自分の意志で動かすことができないほどだった。


「春陽!!春陽―!!!」


絶叫しながら駆け寄ってきた宮内に向かって


「ハルを、助けて」


なんとか言葉を振り絞った所で、僕の意識はどこかへ吹っ飛んでしまった。

とっくに限界を超えていた。

砂浜に倒れ込みながら最後に見えたのは、担架を持って駆け寄ってきたレスキュー隊の姿だった。



ここは、どこだろう?

暗くて寒くて何も見えないし、何も聞こえない。

僕は固い地面の上で膝を抱えて座っていた。


どのくらいそうしていただろう。

ふと、暗くて何も聞こえないのは、自分がぎゅっと目を瞑って耳をふさいでいるせいだと気が付いた。

目を開けるのは怖いから、耳だけふさぐのを止めた。


すると近くで人の話し声が聞こえてきた。

僕は眠っていたのかもしれない。


ゆっくり目を開けると暗い夜の底のような場所で、目の前に大きな池があった。

ここは、よく母さんと来た場所だった。

大きな亀がいて、たくさんの鳩がいる。

春は綺麗な桜に囲まれて、いつも観光客でにぎやかな場所だ。


今は夜。季節は秋。

僕の周りには数人のグループが歩いているぐらいだ。


僕は一人だった。

家を抜け出してここに来たから。



その日は母さんの納骨式だった。


一日のうちのほとんどの時間を布団の上で過ごしていた僕を、お寺へ連れて行くのは無理だということになって、家に残された。

一人にしていくわけにはいかないので、ハルのお母さんが一緒にいてくれることになった。


僕の枕元にお昼ご飯を運んできてくれたハルのお母さんに


「ごめんねあおくん、今日はハルも熱を出してて。ちょっとだけ様子を見に行ってくるから、ご飯食べて待っていてくれる?」


申し訳なさそうに優しい声で頼まれて、こくんとうなずいた。


「本当にごめんね。すぐに戻ってくるからね」


そう言ってお盆に乗せたうどんを置いて、ハルのお母さんは出て行った。

とたんに、どうしようもなく寂しくなって僕は布団の中で丸くなった。

母さんが死んでから、一人になるのは初めてだった。


僕はどうしてここにいるんだろう?

母さんの所に行きたい。

母さんはどこにいるんだろう?


今日は母さんのお骨をお寺に収める日だと聞いていた。

母さんにお別れしなくちゃいけないのに、なんで僕は家にいるんだろう。

そう考えたらじっとしていられなくなって、僕は一人で着替えると家を抜け出した。


母さんのお墓があるお寺はどこだろう。

そこに行きたくても場所を知らなかった。



そうだ、八幡様に行こう。


あの亀がいる御池に行こう。

いつも母さんが病院の帰りに連れて行ってくれた。あの場所なら一人でも行ける。

僕は一人で江ノ電に乗った。


鎌倉の駅から八幡様へは小町通りを抜ければいい。

横断歩道を渡れば、すぐに源氏池が見えてくる。

僕は真っ直ぐ池に向かうと、一番奥の目立たない場所に腰を下ろした。

そして膝を抱えて母さんとここへ来た時のことを思い出した。


鳩を追いかけた小さかった頃。

桜を見上げた春の日。

一緒に食べたぶどう飴。

いつもにこにこと笑っていた白い面影。


涙がこぼれてくるのを隠そうとして、自分の膝に顔をうずめた。

秋の夕方の気温は日中に比べて急激に下がり、僕は両腕で耳をふさいで膝を抱えた。

久しぶりに外へ出て、結構な距離を歩いた僕は疲れていた。

そのまま眠ってしまったらしく、気が付くと夜になっていた。


帰らなきゃ。

みんな心配しているだろう。

そうわかっていても体が動かない。

このままここにいたら母さんに会えるかな。僕に会いに来てくれるかな。

そんな気持ちがわいてきて、僕はただ夜の池を見ていた。


「碧樹!!」


突然呼ばれて顔を上げると、そこにハルがいた。


「碧樹、やっぱりここにいたんだね!」


僕に向かって駆け寄ってくるハルをぼんやり見つめた。

ハルに会ったのはずいぶん久しぶりだった。


というより、あの日、あの台風の日に家の前で別れてから一度も会っていなかった。

そのことに突然気付いて驚いた。

そんなに長い間会わなかったのは初めてなのに、僕はそのことさえ忘れていたんだ。

それなのにハルがどうしてここに?


「よかった、心配したよ。大丈夫?怪我してない?」


答えようとして、僕は口を開けた。でも声は出なかった。


「碧樹、そうだったね、今…声が出ないんだよね」


そう言ってハルがぽろぽろと泣いた。

ハルが泣くなんて…僕は驚いて顔を見上げた。

するとハルは長袖のTシャツの袖でぐいっと涙を拭いて、笑顔を作った。


「碧樹、もう大丈夫だよ。碧樹のパパが迎えにきてくれるからね」


そう言うと自分の首に掛けていたストラップを引っ張って、小さなキッズ携帯を手に取った。

放課後一人で出かけることが多い歯科医の長女は、小学校入学とともに子供用の携帯電話を持たされていて、僕はそれが羨ましかった。


「あ、ママ?碧樹見つけたよ!うん。源氏池。そう。信号の所で待ってて。大丈夫だから」


ハルは通話を終えると僕の手を引いて、僕を立ち上がらせた。


「碧樹はきっとここにいるって思ったの。よくママとカメックスを見に来たって教えてくれたから。碧樹のパパとうちのママは違う場所を探してたんだけど、合流するからね」


そう言って僕の手を掴むハルの手が、やけに熱かった。

そうだ、僕はハルのお母さんがちょっと家に戻っている間にうちを抜け出したんだ。

ハルのお母さんは、何で家へ戻ったんだった?

ハルが、熱を出したから。


一緒に若宮通りに向かって歩いている途中で、急に僕の右腕が重くなった。

何だ?と思っている間に右側を歩いていたハルが僕の方へ倒れてきた。

慌てて支えようとしたけれど、ハルの方が体が大きくて、僕は支えきれず一緒に倒れてしまった。


ハル!!


叫びたくても声が出ない。

ハルは相当無理をしていたんだろう、額に汗をかいて熱い息をしていた。

子供が二人で転んでいる状態なのに、暗い場所のせいか誰も助けてくれない。

どうしよう、どうすればいい?


助けを呼ばなくちゃ!声を出さなくちゃ!助けて!助けて!!


「…て…た…けて」


僕は必死に声を絞り出した。

周囲には全く聞こえない、自分の耳にさえ届かないような小さな声だ。

それでも誰かに届くようにと必死で喉を開いた。


「あ…あ!」


すると、遠くの方から声が聞こえた。


「…碧樹?碧樹か?!」


父さんの声だ!!

僕は必死で声を出しそうとした。ここだよ、助けて。


「碧樹、どうした…ハルちゃん?!」


やっと近くまで来た父さんに


「たす…て。ハ…ル」


「碧樹!お前、声っ」


「ハ…ル、お…がい」


父さんはすぐに僕を立たせると、ハルを抱き上げた。


「もう大丈夫だ。碧樹、車に行くぞ」


すぐ近くに止めていた車にハルを運んだ。

父さんの車の助手席には、ハルのお母さんが乗っていた。

僕の顔を見ると「あおくん、良かった」と言って顔を覆った。

申し訳ない気持ちで一杯になったことと、ハルのことが心配で僕は泣いた。


「あおくん、一人にしてごめんね。心細かったよね」


ハルのお母さんにそう言われて、僕はぶんぶん首を振った。

謝らなきゃいけないのは僕の方だ。勝手に家を抜け出して、みんなに心配かけて。


ハルのお母さんはハルの額に手を当てて言った。


「熱が高いから家にいなさいって言ったのに、どうしてもあおくんを探すって言って聞かなかったの。でも本当に見つけたのね。ハルもあおくんも、よく頑張った」


そう言って涙ぐみながら僕の頭を撫でてくれた。


「このまま病院へ行こう」


父さんが車を出して、救急病院へ向かった。

僕はハルの隣でハルの手をずっと握りしめていた。



病院のベッドで、ハルは点滴を受けている。

僕はハルの傍から離れず、ずっと手を握り続けた。

昼も夜も食べていない僕を心配して大人たちは引き離そうとしたけれど、僕は泣いて抵抗した。


今この手を離したら、ハルもどこかへ行ってしまう。

二度と会えない遠くへ、僕を置いて行ってしまう。

もう絶対にこの手を、離してはいけないと思った。


「これを食べないとお前も点滴だぞ」と父さんに言われて、持たされたおにぎりを僕は一生懸命に飲み込んだ。

それは僕の好きな昆布のおにぎり。おばあちゃんの味だった。


そして眠るハルのベッドの横で椅子に座りながらうとうとして、気が付くと朝になっていた。

繋いでいた手をぎゅっと握られて、僕は目を開いた。


「碧樹」


顔を上げると、ハルが僕を見ていた。その目は熱のせいか赤く潤んでいた。


「ハ…ル」


かすれて、ささやくような僕の細い声を聞いて、ハルは目を見開いた。


「声!出せるようになったんだね」


頷くと、ハルは顔を歪めて泣き出した。


「碧樹、ごめんね…ごめんなさい」


何を謝られているのか分からなくて「え?」という顔になった僕に、ハルは言った。


「あの時…ハルが海に行こうなんて言ったから。面白いよなんて誘ったから。碧樹のママがあんなことに…」


僕は心底驚いた。ハルのせいだなんて、一瞬も思ったことが無かったから。

あれは全部僕のせいで。

約束を守らなかった自分のせいで。


「ずっと、謝りたかった、の。碧樹にも、碧樹のママにも」


しゃくりあげながらそう言うと、声をあげて泣いてしまった。

ごめんなさい、ごめんなさいと言いながら。


必死に首を振る僕の目からも涙があふれた。

もうずっと泣き続けているのに、枯れることのない涙が。


事故以来、ハルに会わなかったわけが今わかった。

ハルもこんなにも苦しんでいた。


あんなに元気な子が、僕と同じように熱を出したり、寝込んだりして苦しんでいたんだ。

僕は何度も頭を振って、ハルに伝えようとした。

そんなことない、ハルのせいじゃない。

それよりも、ハルを失うことの方がどんなに怖いか。


「ハ…ル…かないで」


「え?」


「ハル…行、か…ないで」


「碧樹?」


「ハル、は…し、なな、いで…お、いて…行か…ないで」


なんとか言葉を紡ぎながら、涙が出てきて止まらなかった。

僕の言葉を理解したハルは、またぐいっと涙を拭いて言った。


「わかった。ハルは死なない。どこにも行かないよ」


ハルははっきりとした声で僕に言った。


「これからはハルが碧樹のママになる。ママになって、ずーっと碧樹の傍にいる」


そう言いながら自分の袖口で僕の涙も拭いてくれる。


「ハルが碧樹を守るから。碧樹のママになってあげるからね」


大人みたいに僕の頭をなでるハル。

それで僕はやっと安心して、また瞼を閉じた。


この暗い果てない闇の中で、僕に見える唯一の光を見つけたような気がして。

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