第14話 行合橋
鎌倉に台風が近づいていた。
西から徐々に勢力を強めて日本列島を北上するのがお決まりのコースだが、今回の台風は太平洋側を列島に沿って上がってきて、本州に上陸するのかしないのか微妙な感じだった。
ピークは今夜。
多分未明には湘南を通過するだろうという予報だった。
ハルから電話がかかって来たのは、そんな土曜日の昼頃だった。
その時僕は昂太たちと、学校の近くのカラオケボックスにいた。
前回僕が途中で帰ってしまったから、今日は四人でリベンジだ。
張り切り過ぎた長谷川の調子っぱずれなエグザイルを聞きながら、齋藤に話しかけた。
「なぁ、齋藤、この間の話なんだけどさ…」
「ん?」
「ほら、あの…」
先生が前にいた学校で、恋人だって噂になった男の連絡先わかんないかな。
そう言おうとしていた、まさにその時。
僕のスマホの着信音が鳴った。
「あ、ハルだ」
何の気なしにそう言うと、昂太が驚いて言った。
「え!お前、杉山の着拒解けたのか?」
「あ、そう言えば…もしもし?ハル?」
「そう言えばじゃねーよっ。さんざん心配させやがって」
「まぁまぁ。無事元さやで良かったんじゃね?」
「そうだけどよー」
ごちゃごちゃと大声で話す昂太と齋藤に
「もう、みんなちゃんと俺の歌聞いてる?!」
とマイクを通して長谷川が文句を言った。
僕はスマホを持ったまま、カラオケルームから廊下へ出た。
土曜日、ハルは早朝にサーフィンをやってからバイトをしていると言っていた。
どう考えても今はバイト中のはずだ。僕が電話に出るなり、ハルが叫ぶように言った。
「あの人が来たよ!」
先生の元恋人のことだろうと、すぐにピンときた。
「えっハルのバイト先に?」
「うん。レジで話しかけられてびっくりしちゃった」
「なんて?」
「この学校知ってますかって、うちの学校の保健室便りを見せられたの」
保健室便り!それって多分…
「四月号だろ。先生の紹介文が載ってるやつ」
「そうそう。なんでわかったの?」
「それしかないだろ。先生を探しているってことだな」
「多分ね。学校の場所を聞かれたから、私そこの生徒ですーって言って教えた」
「じゃあ学校に向かったんだな」
「ついさっきね」
「わかった!ありがと」
「あ!あお…」
何か言いかけたハルの声を最後まで聞かずに、僕は通話を切った。
カラオケルームに戻ると、みんなに言った。
「わり!急用できた」
「ええーっ今日はリベンジじゃなかったの?」
不満そうな声を上げる長谷川に
「またそのうち頼むわ。リベンジのリベンジ!」
そう言ってカラオケボックスを飛び出した。
空は、もういつ雨が降り出してもおかしくないような濃いグレイの雲で覆われていて、湿気を含んだ風が強くなってきた。
その人を捕まえたのは、学校へ向かう坂の途中だった。
一人で歩く私服姿の男性を見つけて、後ろから呼び止める。
「あのっすみません!」
ゆっくり振り返ったその人は、僕より少しだけ背が高い。
んん?靴底の厚さの分か?きっとそうだ。裸足なら同じぐらいの身長だろう。
と、変な所で対抗意識をくすぶらせながら、僕は言った。
「まどかの…恋人ですか」
その人は僕の言葉に目を丸くした。
ブルー系のグラディーションのTシャツにブラックデニム。
地毛かどうかわからないけど少し茶色の髪はサラサラで艶々。
うん、確かにイケメンだ。
近くのファミレスで、その人と向かい合って座っている。
名前は、辛島涼さん。
僕は簡単に自己紹介をして、まどかのことで話がしたいと言ってここに来てもらった。
「あの、それで君…市原君だっけ?まどかとはどういう?」
「…いち生徒です」
「えっ、でも、まどかって呼び捨てしてるよね」
「そうですね。実は先週フラれました」
「…それは告白して?それとも付き合って?」
「付き合ってた…つもりだったんですけどね。それより俺、あなたのこと知ってます。まどかが前にいた学校の卒業生ですよね。そして、元恋人」
「…そうだけど」
元と言われて、ちょっと不満そうな涼さん。
素直な性格なんだな。
「幼馴染の彼女がいるんじゃないんですか」
「幼馴染はいるけど、彼女じゃないよ」
「失礼だったらごめんなさい。その幼馴染との間にあったことで、まどかと別れたって聞きました。間違ってますか?」
「…いや、でもなんで。まどかが話したの?」
「そうですね。大体のところは。一年前に別れたのに、会いに来たのは何故ですか」
「それ…君に関係ある?」
「あります。話次第では俺はあなたに協力できます」
「協力?」
「はい。まどかに会ってどうするつもりですか?」
「どうっていうか…会いに来たんだ。話がしたくて」
「状況が変わったってことですか?」
「うん」
「収まったんですか?彼女の…その、自傷行為が」
涼さんは驚いた顔をして言った。
「そうだよ。そこまで知ってるんだね」
「はい。でもあなたがまたまどかと会い始めたら、彼女は戻りませんか」
「もう大丈夫なんだ。繭は…幼馴染の名前だよ。繭には同級生の彼氏ができた」
「えっ!!」
僕は心底驚いて。
「ど、どうしてそうなったの?」
思わず敬語を忘れて聞いてしまった。
狼狽えた僕の顔がよほどおかしかったのか、涼さんは一瞬だけ綺麗に笑った。
名前の通り涼しげな二重の眼元が柔らかくなる。
くっそ、イケメンめ。
「まどかがうちの高校を辞めてから、俺は繭に付きっ切りだった。大学は推薦で決まってたし、自分の時間のほとんどをあいつの為に使ったんだ。繭は少しずつ落ち着きを取り戻して、前のように普通に通学できるようになった。でも俺が高校を卒業して、大学へ行くとほとんど会う時間がなくなってしまった。毎日ラインはしてたし、出来るだけ時間を作ろうとしたんだけど、通学に時間が取られるし、バイトもしなきゃいけないしで、物理的に会えなくなってしまって。
最初のうちは不満やいつもの我儘が炸裂して、また逆戻りしちゃうんじゃないかと気が気じゃなかったんだよ。でもそのうち向こうからの電話やラインが減ってきて」
そこで思い出したように、ふっと笑った。
「夏休みの直前にさ、いきなり『彼氏ができました!』ってラインだよ。は?ってなったよね」
「それが同級生の?」
「うん。二年に上がって新しいクラスになってさ。真面目な学級委員の男子が優しくしてくれたんだって。やっぱり傍にいてくれる人がいいって言われてさ。俺フラれたんだって可笑しくって」
そこで笑えるのか、あなたは。
自分の恋をあきらめたのに?
「あぁ、ごめん。あんなに周りを巻き込んで、大騒ぎして結末がこれかよって思うよね?でも俺はさ、もうずーっと何年も繭に振り回されてるから。そう簡単にはいかないだろうって、夏休みいっぱい様子を見てたんだ。でも会うたびに彼氏の話を聞かされて。俺には見せつけていた体の傷を一生懸命隠そうとするんだよ。どうしてこんなことしたのか自分がわからないって」
「彼氏は知らないんですか?」
「知ってるよ。もう学校中が知ってることだし。それでも必死に隠そうとするんだから、これは本当に好きになったんだなって思ってさ」
「嬉しいんですか」
「嬉しいよ。俺にとっては妹みたいなもんなんだ。ちょっと複雑な家庭で育って、家族の愛情を知らないから人と上手く付き合えなくて。だけど良い所もたくさんある。俺が甘やかしてきたからって負い目もあるけど、俺自身も一緒にいて助けられたこともあるんだよ。そんなもんだろ、幼馴染なんて」
「そうですね…俺にもいます、幼馴染。さっき涼さんがコンビニで会った奴です」
「あ!あのレジやってた可愛い子?でっかい目で小麦色の」
「あははっ小麦色っていうより焦げてますけどね、今」
「もしかして、その子が俺を知ってて市原君に連絡したとか?」
「そうです。先週の日曜日、小町通りでまどかに会いました?その場面に出くわしたみたいで」
「あぁ…そうなんだ。コンビニで話しかけた時、俺の顔見てびっくりした顔してたから、あれ知り合いだったかなってちょっと思ったんだよね」
地黒のびっくり顔…
ハルが自分で言ってた自虐を思い出して吹き出しそうになった。
「友達の弟がさ、君らの高校の一年生で、保健室便りにまどかが載ってたって教えてくれたんだ。
勢いでバイクで鎌倉まで来たんだけど、日曜だったし、学校へ行ってもしょうがないと思って。なんとなく小町通りをぶらぶらしてたら、本当に偶然ばったりまどかに会って」
「話はしなかったんですか」
「うん…俺の顔を見たとたん、走って逃げちゃった。追いかけたんだけどすごい人混みで見失っちゃって。それで今日、今度は学校で捕まえようと思ってさ」
「まどかに会って、また付き合うつもりで?」
「…もしまどかがまだ俺を好きでいてくれたら、今度はあきらめない。そう伝えに来た」
涼さんは真っ直ぐ俺の目を見てそう言った。
「わかりました。俺に協力させてください」
僕はそう言うと、スマホを出してハルにラインを送りながら涼さんに確認した。
「今日もバイクで来たんですか?」
「うん。学校の前まで行くのはまずいと思って、坂の下に止めてある」
「わかりました。俺に作戦があります」
「作戦?」
雨が降り始めた。
海沿いの国道は強風が吹き荒れて、あちこちから吹き付ける雨が痛い。
涼さんが乗って来たバイクの後ろに乗せてもらって、僕たちは移動した。
向かったのは、ハルの家。
それも自宅ではなく、歯医者の方の入り口だった。
土曜日の診察は午前中だけで、今は閉められている自動扉。
僕たちが到着すると、ハルが中から開けてくれた。
「おじさんとおばさんは?」
「今日は午後から旅行だって。台風で電車が止まるかもしれないからって、早目にでかけたの」
ナイスタイミング!
涼さんのバイクは内側の屋根の下に置かせてもらって、びしょ濡れのまま中に入った。
入ってすぐの広いスペースが患者さんの待合室、その奥正面が受付になっている。
右側にある白い扉が診察室。
もちろん今は誰もいない。
ハルが用意してくれたタオルを受け取って、濡れた体を簡単に拭いた。
「あ、さっきはありがとう」
涼さんがハルに声を掛けた。
「いえいえ、杉山春陽です」
「辛島涼です。なんか言われるままに来ちゃったんだけど、本当にいいのかな」
「はい!任せてください」
二人のやり取りを横目で見ながら、僕は診察室の扉を開けた。
子供のころから出入りしているので、自分の家のように把握している。
ちなみに待合室に置いてある絵本と図鑑はすべて読破した。
「ここがいいかな。ハル、ここにあれ運んでいい?」
「俺がやるよ」
「じゃあ一緒に。ハル、あと、なんかでっかい布ない?使ってないカーテンとかシーツとか」
「わかった、探してくる」
三人でキビキビと準備を進めた。
一時間後。
「先生?杉山です!あの、今どこですか?家?家ですね?ちょっと今大変なことになっていて…辛島さん、知っていますか?はい、辛島涼さんです。さっき、雨の中バイクで転んで。うちの病院に運び込まれて来て。はい、そうです。家族を呼ぶって言ったら、相沢まどか先生を呼んでくれって。いや、怪我はそんなにしてないんですけど、頭を強く打ったみたいで、朦朧としていて…たまたま私がいたので、碧樹から先生の番号聞きました。そうです、はい」
話しながら、ちらっと僕の顔を見る。
不安そうな顔に、うんうんと頷いて見せた。
「いえ、駅からだと歩くし、外台風なのでタクシーで迎えに行きます!大丈夫です。場所は碧樹に聞きました。私が迎えに行くので、10分後にマンションの下で。はい!」
ハルがスマホの通話を切ると、「はーっ」と大きくため息を吐いた。
「上手い上手い」
とパチパチ拍手をする。
「まどか、どうだった?」
心配そうに聞く涼さんに
「めちゃくちゃ心配してましたよ。そうじゃなきゃ困るし。あ、タクシー来た!じゃあ行って来ますね」
「おぅ。気を付けてな」
「あ、外の看板どうする?ついてた方がリアル?」
「いや、ダメだろ。デンタルクリニックの看板はまずい」
「あ、そっか。わかった。あー緊張する!」
そう言いながら出て行ったハルを乗せたタクシーが、ドアを閉めて出発した音が聞こえた。
残された僕と涼さんは、ちょっと気まずい時間を過ごす。
「彼女、いい子だね。ハルちゃん」
「まぁそうですね」
「君らは上手くいってるんだね、幼馴染のままで」
「全然ですよ、問題だらけ」
「えーそんな風には見えないけどな」
「詳しくはまどかに聞いてください」
「ふーん…そうなんだ。やっぱり難しいんだな。なぁ俺ずっと思ってることがあるんだけどさ」
「はい?」
「昔は良かったなぁって。なんでずっと子供のままでいられないのかなって」
何気ない涼さんの言葉が、僕の胸に染み込んだ。
「…子供のままかぁ。わかります。昔は毎日ただ一緒に遊んで、喧嘩してもすぐに忘れて、なんの悩みもなかったなぁ」
「ほんとそれ。あの頃は繭の我儘をいくつ叶えられるかが俺の勲章みたいなもんだった」
「それはすごい」
「そう?年が二こ下だからね。体格から何からまるで違うし、あいつは本当に可愛くて可哀想で、どうしようもないお姫様だったんだ。それがいつの間にか小悪魔に成長してさ」
「小悪魔かぁ。ちょっと見て見たいけど俺には無理ですね。俺とハルは同級生で、面倒見てもらってたのは俺の方だし」
「そうなんだ。しっかりしてそうだもんね、ハルちゃん」
そこでハルからラインが来た。
「まどかのマンションに着いたって」
「お!」
「よしっ。じゃあ涼さんはここに寝て、シーツ掛けます。奥の電気は消そう。まどかが来たら俺とハルは気配を消すので、あとはよろしく」
「あ、待って。本当にここまでするの?今更だけど、まどかを騙すのは胸が痛いよ」
「涼さんが何度会いに行っても、まどかは会ってくれないと思うよ。ああ見えてめちゃくちゃ頑固だからね」
「知ってる。一度決めたら変えてくれないんだよね。別れる時もそうだった」
「俺も…です。だから、まどかの方から会いに来るような状況を作れば話を聞いてくれると思って」
「うん…だけど市原君はなんでそこまでしてくれるの?まどかのこと、好きなんでしょ」
「それは、もう…好きなんて言葉じゃ足りないくらいに」
「だったら」
「フラれたんです、俺は。まどかの中にある涼さんの面影に勝てなかった。まどかの過去を知ってますか」
「あぁ。家族のこと?」
「そうです。あの孤独を埋めてあげられるのが涼さんだけなら、俺はまどかには必要ない。その代り、もう絶対に泣かさないって約束してください」
「わかった。絶対にまどかを泣かさない。もう一人にしないよ」
それで十分だった。
涼さんは優しくて誠実な人だ。
こんなにイケメンでモテモテだろうに、一年たっても先生を想い続けていた。
タクシーが止まって、ドアが閉まる音が聞こえた。
僕は診察室のドアの裏側の物陰に体を隠した。
自動扉が開く音がして、バタバタと足音が聞こえてきた。
パタン!と診察室のドアが開かれた。
ハルの後ろから入ってきた先生が、簡易ベッドに寝ている涼さんを見つけた。
「涼!!」
その声に僕の心臓がギュッと縮まった。
こんなふうに涼さんのことを呼ぶのか…
先生の中に隠されていた涼さんへの想いが、溢れ出た瞬間を見たような気がした。
先生はベッドの横に膝を着くと、涼さんの顔を覗き込んだ。
涼さんはゆっくりと目を開けると、先生に手を差し出した。
「まどか…」
先生はその手を両手で握りしめた。
「怪我は?大丈夫なの?頭を打ったって」
先生は涼さんの髪に手をやりながら、打っていそうな場所を探しているようだった。
やばい、さすが保健の先生だ。僕は自分のたんこぶ事件の事を思い出して、思わず自分の頭に手をやった。とっくにたんこぶは無くなっているけど。
「うん…ちょっと派手に転んじゃって。ごめん、迷惑かけて」
「迷惑なんて…でもどうしてこんな日にバイクなんて乗って来たの」
「うん。どうしてもまどかに会いたくてさ」
「涼…私たちはもう会わないって決めたんだよ?」
「うん、わかってる。でもまどか、俺の話を聞いてくれる?」
「ん…でも…繭ちゃんは?このことを知ってるの?」
「繭のことはもういいんだ」
「え?繭ちゃんに何かあったの?」
「うん。繭にね、彼氏ができたんだよ」
「……」
「まどか、聞こえた?」
「…うそ」
「ふふっ本当。俺、フラれたらしいよ」
「ええーっ!」
「驚くよね、俺も驚いたし」
「…それ、何かの間違いじゃないの?繭ちゃんが涼以外の人と?繭ちゃん…何か我慢してるとか無理してるとか…」
「くくくっほんとに信じられないんだな。大丈夫だよ、俺も夏休みいっぱい様子見てたけど、幸せいっぱいって感じだから」
「だから?だから私に会いに来たの?」
「そうだよ。まどかが携帯の番号もラインも全部捨てて行ったから、探すの大変だったんだよ。タケル、覚えてる?俺の友達の」
「うん、美作くんね」
「うん、あいつの弟が今のまどかの学校の一年でさ、保健室便りにまどかが載ってたって教えてくれて」
「えっ一年三組の美作マモルくん?タケルくんの弟だったの?」
「そうだよ。それがなかったら俺、神奈川県立の高校全部、しらみつぶしに電話かけるところだったよ」
「え、えぇ?」
ちょっと引き気味の先生に、涼さんはイケボで畳み掛けるように話す。
「ねぇまどか、俺もう高校卒業したよ」
「うん、そうだね。大学生になったんだね。ちょっと大人っぽくなった」
「本当に?嬉しいな。俺はもうまどかの生徒じゃない。去年まどかがうちの高校を辞めた時から、もう先生じゃないけどね」
「う、うん…涼?わっ」
そこで涼さんはがばっと体を起こして、先生と向き合った。
「あ、あれ?怪我は?」
「まどか!」
「はい?」
「俺と付き合ってください」
「…涼」
「離れて一年たったけど、俺の中でまどかは全く薄まらなかったんだよ。むしろどんどん色付いて、会いたいばっかりで。今も俺はまどかのことが好きだよ。
まどかの気持ちは?聞かせてほしいんだ」
「涼…私は」
そのあたりで、僕は隣にいたハルの手を引っ張った。
出口を指差して、二人で診察室から外へ出た。
そうっとドアを閉めると、思わず大きな息を吐いた。
「まったく、世話が焼けるぜ」
「まどかちゃん、いつ気が付くかな」
「何に?」
「うちが本当は歯医者だってことに」
「ぶはっ!」
ハルが一番気になっていたのはそれなのか。
灯りを点ければすぐに気が付くだろう。
診察室に無理やり入れた、待合室の長椅子に涼さんが寝かされていたことに。
そのすぐ脇には白い布で覆った歯医者ならではの診察椅子があるのだから。
「そろそろ帰るわ」
「うん」
音を立てないように二人で玄関口に向かった。
「まどかたちにタクシー呼んでやってな」
「わかってる。ねぇ、碧樹は本当にこれで良かったの?」
ハルに聞かれて、僕は即答した。
「もちろん。まどかには…幸せになって欲しいから」
「涼さんの事、一発殴るって言ってたよね?」
「あー、でもこの場合、殴られるのは俺の方かもな」
「なんで碧樹が…あ!まどかちゃんにキ」
「おいっ!」
ハルは自分の口をふさいで、診察室の方をちらっと見た。
「ごめん。だけど、涼さんは碧樹を殴らないと思うよ」
「俺と違って優しいから?」
「ううん。まどかちゃんの気持ち、その時はきっと碧樹にあったと思うから」
「……」
不意打ちだ。
抑え込んでいた熱いものが喉元にせり上がってきて、僕は慌てて顔を逸らした。
一瞬で僕の記憶が呼び起こされた。
あの朝、先生の部屋でハグをして。
先生が「私にもまどかって呼んでくれる人が必要だったみたい」と言ってくれて。
嬉しくてありがたくて…先生を好きという気持ちを止められなくて。
生まれて初めての告白をして、触れるだけのキスをした。
あの瞬間に感じた幸福感は嘘ではなかった。
あの時確かに僕と先生の気持ちは同じだったはずだ。
「碧樹はすごいよ。ちゃんと言ってた通り、涼さんにまどかちゃんを渡した。かっこよかったよ」
もう止めてくれ。
少しでも声を出したら決壊してしまいそうだった。
その時、ハルのポケットの中でスマホが震えた。
「ちょっとごめん。もしもし?」
ハルが電話に出た。
「理恵?うん。えっほんとに?!行く行く!うん、支度して待ってる!じゃ」
そしてめちゃくちゃ嬉しそうに電話を切った。え?
「おい?行くって今からどこへ行くんだよ」
「海!台風が行ったらサーフィンするんだ」
「今から?真っ暗だろ」
「まさかぁ。今から支度して、理恵のうちに泊まるの。彼氏の車で迎えに来てくれるって。サーフィンするのは明日の朝」
「でも、海はまだ荒れてるだろ」
「だからいいんじゃん。ビッグウェイブ期待できるから!」
「気をつけろよ。俺は帰って寝るわ」
「うん!じゃあね」
自動ドアを開けると、雨が激しくなっていた。
僕は貸してもらったビニール傘を開いて、雨の中に飛び出した。
そして言い忘れたことを思い出して振り返った。
「あ!ハル!!」
「なーにー?」
「今日はありがとな」
「うん!!」
ハルは満面の笑顔で返事をすると、中に入って行った。
僕はそのまま道を渡って自分の家に帰った。
大きな仕事をやり終えたような達成感があった。
自分は失恋したわけなので複雑ではあるけれど、悲しい思いばかりだった先生には幸せになって欲しい。
心から願っている。
本当は僕が幸せにしたかったんだけど。
その幸せは、あともう少しでつかめそうだったけれど。
いつか、好きになって良かったって思える日がくるのだろうか。
今は考えるのを止めよう。辛くなるだけだから。
久しぶりにお風呂でゆっくり湯船につかると、急に眠気に襲われる。
そういえば、いろんなことがありすぎて何日かまともに眠っていなかった。
深夜になって、ますます雨風が強くなっていた。
こんな夜は今までに何度もあった。
あの八幡様の隠れ大銀杏が倒されたのも、こんな強風の日だった気がする。
ガタガタと鳴る窓枠や、庭の木が揺すられてザワザワと騒がしい音。
予報では今がピークのようなので、きっと寝ている間に通り過ぎて行くだろう。
自分のベッドで思い切り体を伸ばすと、アラームをかけずに目を瞑った。
こんなに疲れているんだ。
どんなに外が煩くても、次に目が覚めたら昼か、下手したら夕方かもな。
明日が日曜日で良かった。
そんなことを考えながら眠りに落ちた。
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