第13話 稲村ケ崎

毎年、真夏の鎌倉の海はたくさんの人で溢れ返る。


鎌倉の、メインビーチであるところの由比ヶ浜は、海の家がたくさん立ち並んで、海水浴客が大勢遊びに来る。

その少し沖の方ではウィンドサーフィンを楽しむ人が多く、たくさんのカラフルなセイルが波の上を走って行く様子が遠くからも見える。

由比ヶ浜より西の稲村ケ崎から七里ヶ浜あたりに行くと、サーフボードを使ういわゆるサーファーが増えてくる。


鎌倉で生まれ育ったからといって、サーファーになる人は実はそんなにいない。

海はそこにあるのが当たり前で、あまりに近いと行く気にならないものだ。

だからハルがサーフィンをやっていると聞いても僕には全く想像できなかった。


なので、見に行ってみることにした。

この僕が、海へ向かって歩いているのだから、人生は何が起こるかわからない。

夏休みが終わって海水浴客がいなくなっても、砂浜にはまだたくさんの人がいた。


ハルがいるのはこの辺りだと聞いていた。

バイトしているコンビニから歩いてすぐの海岸だ。

真夏は常に渋滞している国道134号線を横切って、砂浜に下りてきた。



眩しい。


子供の頃から真夏の日差しが苦手で、写真に写る顔は全て目が細められている。

横断歩道の白いラインが眩しくて目を開けられず、ハルに手を引いてもらって渡ったことは一回や二回ではない。


なぜ自分だけそうなのかずっと不思議に思っていたけれど、それが瞳の色が薄いせいだと知ったのは最近の事だ。

僕は用意していたサングラスをシャツの胸ポケットから取り出した。


僕が掛けると何故か「チャラい」とからかわれるサングラスも、今日は日差しと昨夜の名誉の負傷を隠してくれる優秀なアイテムだ。

学校にもしていきたいくらいだ。


今日は学校で僕の顔を見た奴らが一様に見せる表情を、存分に楽しませてもらった。

殴られた傷と生々しい痣に加えて、寝不足のクマまで付いて僕の顔は別人のように腫れぼったかった。以前のハルが見たら大騒ぎして、保冷剤を持って追いかけて来ただろうな。


顔を見るなり「保健室に行くか?!」と言った昂太をなだめるのが大変だった。

ごめんな、そこは今一番近寄っちゃいけない場所なんだよ。

理由は言えないけど。



午後四時。

そろそろ夕方と言ってもいい時刻だけど、西日の強さでじわじわ汗が出てくる。


そもそも母さんが死んで以来、ほとんど海に来ることは無かった。

海沿いの国道までは来ることはあっても、砂浜を歩くのは何年ぶりだろう。

踏みしめる砂の感触に懐かしさを覚えて、ちょっと困った。

昔の癖で、綺麗な貝殻を見ると拾いたくなってしまう。


海ではたくさんのサーファーが、波間にぷかぷか浮かんでいた。

波を待っているんだろう。でも今日はあまり高い波が無いようだ。


にぎやかに笑いながら引き揚げてくる集団の中に、ハルがいた。

一人で砂浜に座っている僕を見つけると、驚いた顔をして小さく手を振った。

僕が手を振り返すと、一緒にいた仲間たちと別れて一人で僕の方へ歩いてきた。

半袖と短い丈の上下の黒いウェットスーツを着て、小脇に長いサーフボードを抱えたハルは立派なサーファーに見えた。


「何よ、見に来たの?帽子もかぶらないで大丈夫?日焼け止めちゃんと塗ってきた?」


うん、やっぱりハルだった。


「怪我の具合はどう?ちょっと顔見せて」


立ったまま顔を覗き込むようにして、僕のサングラスを外そうとするハルの手を遮った。

目の下のクマまで突っ込まれたら僕のメンタルがもたない。


「いいって。全身痛くて朝起きるのがつらかったけど、ちゃんと学校は行ったよ」


そう言って頬に貼った絆創膏を触るとハルが笑い出した。


「喧嘩なんかしたことないくせに、無茶するからだよ」


「うるせー。それより本当にやってるんだな」


「まぁね」


僕の隣にどさっとボードを立てて、髪を片側に寄せて水気を絞るハルの顔は小麦色を通り越している。見たことが無いハルの姿が、なんだか落ち着かなかった。

まるで知らない人みたいだ。


「その装備、どうなってんの?」


「装備って、ゲームじゃないんだから。ウェットスーツとサーフボードのこと?バイトして買ったんだよー、お給料三か月分だよ、長かったぁ。ほら見て、ボードの先に虹の絵が付いてるの。綺麗でしょ?」


「うん。その黒いコードは何?」


僕はハルの右足から伸びている長い紐のようなものを指差して言った。

ハルはそのコードを足から外しながら教えてくれた。


「これはね、リーシュコードって言ってボードから落ちた時離れて行かないように、ボードと足を繋いでおくの。別名命綱だよ」


「ふーん。ハルが俺以外の事にハマるのって初めて見たな」


「うわー自分で言う?それ」


「だってそうだろ。いいな、楽しそうで」


「楽しいよ!初めてパドリングで海に出た時は、あまりに地味で泣きそうになったけど、ボードに立てた時は最高に気持ちいいの」


そう言って笑ったハルの顔に、不思議な気持ちになる。


「へぇ。俺以外のことでそんな顔をするのも、初めて見た」


「…だからぁ」


照れくさそうに笑ったハルは多分真っ赤になっていたんだろうけど、その日焼けした顔からは読み取ることができなかった。


ハルは僕の隣に腰を下ろすと、海を見ながら言った。


「こんなふうに話すの、久しぶりだね」


「うん…つーか、ハル、ひそかに俺の事ブロックしてるだろ」


ハルは一瞬目を見開いて僕を見てから、くしゃっと笑うと


「うんっ」


と明るく認めた。


「着信拒否だろそれって」


「あはは!だって…だってさ。ずっと待っちゃうから私」


「え」


「碧樹のライン、何日も待ち続けてさ。動けなくなっちゃったんだー」


そう言ったハルは笑っていたけど、本当は寂しくて悲しかったと言っているみたいだった。

僕はあの時自分の事しか考えていなくて、ブロックされる覚えなんてないと怒ったけど、僕をブロックしないではいられなかったハルの気持ちなんかこれっぽっちも考えていなかったことを、たった今思い知らされた。


「ハル…俺」


何か言おうとする僕を遮るように


「そっか、気付いてたか。碧樹は私がブロックしてることも気が付いてないと思ってたよ」


そう言って笑おうとする。

僕はなんだかたまらない気持ちになった。


「あのさ、俺は俺たちの関係って変わってないと思ってるよ。今もハルは俺にとって大事な…幼なじみだよ」


「うん、そっか。ありがとう…ふふっ。海にいるせいかな、何だか素直に話せるね」


「うん。そうだな」


素直になったついでに、昨日からずっと聞きたかったことを聞くことにした。


「なぁ、何でサーフィンだったの?」


「理恵に勧められたの。碧樹が急に反抗期になって、モニコもお弁当も日焼け止めクリームも拒否られて、もうどうしていいかわかんない!って相談した時」


「反抗期じゃねぇ」


「ふふっ。でもね、私からしたらそうだった。突然すぎて、反抗期だって思わないと説明がつかなかったの。でね、めちゃめちゃ落ち込んでる私に理恵が言ったの。

春陽は『アオキホリック』だって」


「ホリック?中毒ってこと?」


「そ。一日中、寝てる間も碧樹のことばっかり考えてる。春陽の精神はどこにあるの?って。今の春陽は見てて痛い。高校生になってもママが学校まで付いてきて、一日中世話を焼かれたらどんな気持ちになる?春陽が碧樹にやっているのはそういうことだよって」


「へぇ。そんな風に見えてたのか」


「でしょ!私も理恵に言われてやっと気が付いたの。確かにママが高校まで付いてくるなんて、ありえないよね。私相当うざかったよねって。碧樹に嫌われても仕方ないんだなって」


「嫌ってないよ。ってか多分俺も麻痺してたんだと思う。ハルがなんでもしてくれるのが当たり前になってて、甘えまくってた」


「でもそれに先に気が付いたのは碧樹だったんだよね。急に距離を置こうと言われて、私は一人でパニックになった。私の生活から碧樹がいなくなったら何をしていいかわからないの。完全に迷子だよ。そしたらまた理恵が言ってくれたの。もう子離れしなさいって」


「子離れかぁ」


「うん。今まで一番やりそうもなかったことやってみなよって。海に行こうって誘ってくれて」


「それでサーフィンか。そういえば宮内はサーファーだったな」


「うん。でも海は…私には怖い場所だった。あの事故があってから私も碧樹も海には近づかなかったよね。だけど私が生まれ変わるには、海に向き合わなきゃいけないって思ったの。子供の頃みたいに海と仲良くなりたいって。それで碧樹のこと以外で夢中になれるもの、探したかったの」


夢中になれるもの、か。


「で、ハルは見つけたんだな」


「うん。もっとサーフィンが上手くなりたい。バイトして自分の好きなもの買ったり遊びに行ったり、毎日楽しく過ごしたい。今自分の為に生きてるって気がしてる」


「良かった。ハルいい顔してるよ」


「そうかな。真っ黒だけどね?」


あははっと笑ったハルの顔は、子供の頃のまんまの無邪気そのものだった。


気が付くと青く澄んでいた空が、少しずつ茜色に変わっていた。

こんなふうにゆっくり変わる空の色を眺めたのは久しぶりだった。


「綺麗な夕日だね」


ハルはそう言うと、真剣な顔で僕を見た。


「私、どうしても碧樹に聞きたいことがあるんだけど」


「なに?」


「あのね、まどかちゃんと…」


「え」


「まどかちゃんと、キス、した?」


その質問に驚いてハルを見ると、ハルは真っ直ぐ僕の目を見た。

そんな真剣に聞かれたらはぐらかすことなんてできない。

僕も真っ直ぐハルの目を見て答えた。


「うん」


言ってからさすがに照れて笑うと、その顔を見たハルが両手で自分の顔を覆って


「やーなんか照れるっ」


と言うので


「じゃあ聞くなよ」


と言い返した。


「そこは聞くよ。聞きたいよ…ねぇどんな感じだった?」


「どんなって。幸せだったよ、すごく。こうなるために出会ったんだって…わかった」


「そう。いいね、それ」


「そう?」


「うん!いつか私にも…そんな出会いがあるかな」


「必ず」


「絶対?」


「絶対」


「…うん!」


満足そうに笑うハルに、近い将来他の誰かとこんなふうに一緒にいる姿を想像して、ちょっと寂しくなる。

これってあれだよな?娘を嫁に出す父親的な?

それとも妹に彼氏ができた時の兄の感情かな?


それとも…これは…?



「それで今日は?これから会うの?」


「いや」


「なんだ、デートじゃないからここに来たのか」


「もう会わないんだ」


僕の宣言に、ハルはびっくりして叫んだ。


「何で?!まさかもうフラれたとか?」


「……」


「うそっまじっ?!」


「……まじっす」


喉が渇いたと言うハルの提案で、僕らは移動することにした。

国道沿いの駐車場にある自動販売機で、コーラを二本買って一本をハルに渡した。


「サンキュ!」


コーラを飲みながら、昨日のまどかとのやりとりを簡単に話した。


一通り聞くとハルが


「それって私のせいかなぁ」


と言った。


「なんで」


「ちょっと余計なこと言っちゃったかも」


「それって母さんの事?」


「うん。ごめん。でもね、それ知らなかったらフェアじゃない気がして」


「何に対して?誰に対してフェアじゃないの?」


「碧樹のお母さんかな…それともお母さんになれなかった私かな」


「わかんねーよ」


「私ね、まどかちゃんがうらやましかった。碧樹のお母さんにそっくりな顔で。にっこり笑っただけで、その一瞬で碧樹の心を持って行っちゃった。私の十年は何だったのって悔しかったよ。鏡を見て、どうして私はまどかちゃんみたいな顔じゃないんだろうって思った。なんでこんな地黒でびっくり顔なんだろうって」


「ぶぶっ」


「笑うとこじゃないから。それでね、つい言っちゃったのよ」


少しの後悔を滲ませてハルは言った。

でもそれだけが理由ではないと僕は分かっていた。


「それだけ?他にももっと理由があったんじゃないの?ハルがそれを言い出すきっかけになるようなことがさ」


「……」


「言ってよ。俺今どん底なんだ。これ以上へこみようがないから大丈夫だよ」


「…小町通りでね。偶然会ったみたいだった。『まどか!』って呼びとめられて、その人の顔を見たらボロボロ涙こぼしたの。まどかちゃんの昔の恋人かなって」


「いつ?!」


「えーっと、先週の日曜日。で、次の日学校で聞いたの。碧樹とはどういうつもりで付き合ってるのって。そしたらその人とはもう終わってる、もう二度と会わないって言ってた。だから碧樹と上手くいってるのかと思っていたのに」


「…俺じゃだめなんだ」


「え?」


「俺じゃまどかを支えてやれない」


「どうして」


「まどかの心の中にいるのは、俺じゃないから」


「どういうこと?」


「俺を通して、その恋人を見ていたんだって」


それを聞いて、ハルはハッとした顔をした。


「それでまどかちゃん、あんな顔したんだ」


「あんな顔って?」


「私が、まどかちゃんの顔が碧樹のお母さんにそっくりなんだって言った時ね、もっとショック受けるかと思ったの。でもなんかこう、納得したというか、腑に落ちたというか。そんな顔だったからあれ?って思ったんだよね」


「ふーん、ショック受けるって思いながら言ったんだ」


「だから、ごめんてば。でも、もう会わないって言ってたよ」


「そっか。なぁ、その人の顔見た?」


「うん、遠くからだけど。すごいイケメンだった!」


「俺に似てた?」


「えー、イケメンって聞いてからそれ聞く?」


「はいはいすいませんでしたー」


「ふふっ。そういえば雰囲気似てるかも。身長は碧樹と同じくらいかな」


「ふーん。その人と会えないかな」


「何で?会いたいの?」


「何で今更まどかに会いに来たのか気になる」


「そう。大学生みたいだったけど」


「うん。前の学校の卒業生だから。あ、齋藤に聞けば身元わかるかも」


「齋藤君?なんで?」


「齋藤の彼女がその学校に通ってるんだ」


「へぇ…でも碧樹が会って、その後どうするの?」


「まず一発殴って…」


「はぁ?」


「それから、まどかを渡すよ」

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