第12話 月影

これ、なんていう名前の葉っぱだったかな。


生成り色にシダのような葉の模様が一面に描かれたカーテンの柄を見て、ふと思った。


「カーテンを開けてくれる?」と言われて、横長のリビングの長いカーテンを思いきりよく開けると、眩しい日差しに目がくらんだ。

そして窓の外を見ると想像していたより近くに海が見えた。

真夏の日差しを受けて、水面がキラキラと光っている。


「めちゃくちゃ海きれい!」


思わず小学生みたいな感想を言うと、先生はキッチンでフライパンを持ちながら笑った。


「そうでしょ。その景色で決めた部屋だから」


「駅からは少し遠いから家賃は安いとか?」


「ところが!この辺は景観重視だから海に近いほど高いんだって」


「そうなんだ。いい部屋だね」


先生に返事をしながら、朝方少しだけ横になったソファーのクッションを叩いて整えるとキッチンへ向かった。


「何かできることある?」


「じゃあお湯がわいたらコーヒーと紅茶を入れてくれる?」


「おっけー」


マグカップと紅茶のカップを用意しながら、ここで一晩過ごしてしまったんだなぁと不思議な気持ちになった。

この一週間、連絡さえ取れなかった先生の部屋で。



夕べ、僕は先生の過去の話を聞き、自分のことを話した。


先生は僕の話を聞くと、目にいっぱい涙を浮かべて「あなたのせいじゃない」と言った。

そして僕を抱きしめて「碧樹」と呼んでくれた。

初めて、僕の名前を。


いろんな感情があふれてきて泣き続ける僕を、そのまま抱きながら背中を摩って慰めてくれた。

そして僕が落ち着くのを待って「もっと話を聞かせてくれる?」と言った。


「え?どんな話?」


「その後の話よ。君もなったんだよね?」


「なったって何?」


「失声症。声が出なくなったんじゃない?」


その言葉に、僕は心底驚いた。

一度も話したことはないはずだから。


「え?!なんでそれを?」


「究極の個人情報。健康調査票」


「…そうだった」


高校入学の時に提出する、過去の病歴や疾患を書いた書類のことだ。

僕の書類は父さんが書いていたので、僕はちゃんと見ていない。

小児喘息やアレルギー性鼻炎と一緒に、「失声症、心療内科受診記録」は重要な項目なのだろうと想像はついた。


「声を出せなくなった時期は確かにあったけど、どのくらいの期間だったのか、何がきっかけで治ったのかは全く思い出せないんだ」



ショックで高熱を出して何日も寝込んだ後、僕はきっと悪い夢を見たんだと思って母さんを探した。僕が母さんを呼びながら家じゅうを探して、離れや納戸や庭を走り回るのを父さんとおばあちゃんは哀しい顔で見守っていた。

そして最後に仏間の襖を開けて、見慣れない祭壇の前で座り込んだとき、後ろから父さんに抱きしめられた。


僕が寝ている間に葬儀も終わっていて、母さんはそこにいた。


銀のフレームの中で笑っていたのは、父さんが撮った一番のお気に入りの写真だった。

そして、白い布に包まれた四角い箱。

それが母さんだと言われて、僕は初めて泣いた。

夢じゃなかった。

母さんは本当に死んでしまった。

僕が死なせてしまったんだと。


畳に座り込んで僕は泣いたけど、声は出なかった。

苦しくて苦しくて、何も言わない父さんの腕の中で、また気を失うように意識を手放した。


ほとんど食事もできなくなって、僕は学校を休み続けた。

心配した父さんが病院へ連れて行ってくれたけれど、精神的なものだと言われて心療内科を紹介された。

家からも出られなくて、ただ泣いて、泣き疲れると眠って、また泣いて。


時々カウンセリングのようなものを受けた記憶はあるけど、声を出せないから話を聞くだけだったし、ほとんど効果は無かったと思う。


「じゃあ声が出るようになったきっかけは覚えていないのね」


「学校の先生やハルが家に来るようになって、少しずつ家から出られるようになった気がするけど、会話ができるようになったのはもっとずっと後だったと思う」


「その頃から杉山さんが?」


「元々一緒に登校していたんだけど、俺が行けなくなってからも毎朝迎えに来てくれて、帰りもうちに寄って勉強を教えてくれたり。学校での話を聞かせてくれたり」


「すごいね。どんなカウンセリングより効果があったってことだね」


「…そうなのかな。結局は時間が解決してくれたのかもしれないし、日常を追いかけることで苦しみから逃げたのかもしれない」


「それでもずっと一緒にいてくれた人の存在は大きいよ」


「まどかにはいなかったの?そういう人」


「そうだね。私を助けてくれたのは保健室の先生だった。精神的に弱くて、何かあるとすぐに体調を崩したから小学校も中学校も保健室に入り浸っていたの。高校から寮に入ったんだけど、家を離れてほっとした反面、友達作るのも下手で孤立しかけて逃げ場が無くなっちゃって。その時の保健の先生がね、底抜けに明るい人で辛かったらずっとここにいなさいって言ってくれて。保健室で勉強してお弁当食べて昼寝してって、ほんと甘やかしてくれたの。辛い時は誰かに甘えていいんだって教えてくれた」


「それで保健室の先生になったの?」


「うん。十代で健全な家庭に守られて心身ともに健康な子は、高校の保健室になんて来ないでしょ。何か抱えて逃げ場を求めてくる子に手を伸ばしてあげたかったの。私がそうしてもらったように」


「だから俺にお弁当を作ってくれたんだ」


「それは杉山さんの代わりにね。私にとって憧れの存在なの、幼なじみって。一緒に育って何もかも知っていてお互い何も言わなくても分かり合える。今から欲しいと思っても絶対に手に入らない宝物なんだよ」


「俺にとってハルはいて当たり前の存在だし、正直息苦しく思った時もあったけどね」


「だからこそ、お互いに依存し合うんじゃなくて、個人として尊重し合えるような関係になって欲しいの。もちろん困った時には助け合ったり、寂しい時は慰め合ったりしていいんだよ。自分を殺して相手の為だけに生きるような歪んだ関係になって欲しくないの」


先生の言う事もわかる。確かにハルの今までの行動は行き過ぎていたと思うし。


「俺もハルにはハルの人生を生きて欲しいし、幸せになって欲しいと思ってるよ」


「うん、そうだね。杉山さんも、君も」


「碧樹」


「…碧樹も。幸せになって欲しいよ」


僕にとっての幸せ。

それは直近でいえばこの状態なんだけどな。

将来のことなんてまだ考えられなくて。

一番好きな人と一緒にいられたら、それが一番の幸せだと思う。


そんな話をしているうちに、朝になってしまった。


先生に言われて、おばあちゃんにはメールをした。

『友達の家に泊まります』

夏休みだし、別に大丈夫だろう。


「ベーコンはカリカリ派?」


「もちろん」


「私も!おいしいよね」


どうなのこれ?

一晩一緒にいて、しかもありえないくらい深い話をして、一緒に朝を迎えたんだよ。

キスもしてないけど。会話は新婚夫婦みたいなのにな。


カリカリベーコンと目玉焼き、チーズトーストの朝食を食べ終えて僕は言った。


「また来てもいい?」


「ここに?」


「うん。だって夏休みだし、カウンセリングしてくれるんでしょ」


カウンセリングなんて嫌だってあんなに反発してたくせに、先生と一緒にいる理由になるならなんでもいいやと思えてきて。我ながら現金だと思うけど。


「そう来たかぁ。うーん、じゃあ碧樹が入っていいのはここまでね」


先生は立ち上がると、ダイニングテーブルの端っこで両手を広げた。


「ええー!せめてここまで」


僕はリビングのソファーの所まで行くと、両手を広げた。


「ここまで来ないとテレビ観れないし。一緒に映画とか観たいよ」


「しょうがないなぁ」


先生は渋い顔を作って見せると


「でも接触はハグまでだからね」


と言って僕を歓喜させた。


「接触ってエロいな」


「こら!」


「逆にハグはいいんだ?」


「いや、ちょっとわかんないけど…ゆうべ自分からしちゃった…し」


恥ずかしそうに言う先生の語尾が消えそうに小さくて、僕は一歩近づいた。


「確かに!じゃあハグはオッケーってことで」


そう言いながら両手を広げて先生にハグをした。


「いやいや、ちょっとやめて、朝から」


「夜ならいいの」


「ちがっ、そうじゃなくてね」


「いつまで待てばいいの?ハグから先」


「う…それはやっぱり、卒業?」


「やっぱりか。たった一年半だね。余裕で待てるし」


「卒業しても、気持ちが変わらなかったらだよ」


「変わらないよ。まどかの気持ちは?教えてくれないの」


「…今言えるのは、この時間が私にも大切だってこと」


「本当に?」


「うん。私にも必要だったみたい。まどかって呼んでくれる人」


「…まどか」


そんなことを言われて、もう我慢できるわけがなかった。


「まどか、好きだよ」


僕は先生の頬を手のひらで包むと顔を上向かせた。


唇を重ねた時、先生の手が一瞬だけ僕の胸を押したのがわかったけど、僕は先生を離さなかった。


キスが終わってもハグをやめない僕に、先生は小さな声で抗議した。


「約束やぶり」


「ごめん。可愛すぎて無理だった。もうしないから出入り禁止にしないで」


「ほんとかな」


「うん。まどかもあんまり可愛いこと言ったりしたりしないように気をつけて」


「何それ、私のせいなの?」


「そうだよ。俺幸せすぎて頭おかしくなりそう」


そう言いながら、さらにぎゅっと力を入れて抱きしめると


「もう。ずるいな…名前を呼びあうのもここでだけだからね」


浮かれる僕にしっかり釘を刺さした。


「それも卒業までだね」


と、なんでもないような顔で返す僕に、先生は少し困ったように小さく顔を傾げて微笑んだ。

今はそれで十分だった。


やっと、先生が僕を受け入れてくれた。

僕はその時、本当にそう思ったんだ。




先生の部屋で過ごす時間は、僕にとって至福の時だった。


テーブル越しとはいえ、至近距離に先生の顔があって。

お互いにお気に入りの飲み物をのみながら、時間を忘れておしゃべりをした。

まさに至福の時だ。あくまでも僕にとっては。


先生にとってはガチのカウンセリングだったのかもしれない。

それはいつも僕の思い出話を聞きたいだけのような、巧みな話術で引き出された。


「そう、それじゃ鎌倉に引っ越してきたのは五歳の時なのね」


「お父さん同士も同級生で幼なじみだったの?それはもう、運命だね」


「その時杉山さんは何て言ったの?」


先生の部屋で何度か会ううちに、僕の過去は洗いざらいしゃべらされてしまった。


それでも先生の質問は続く。

どうやらハルと僕が共依存という関係になったポイントを探し出したいみたいだった。

聞かれるままに答えはするけど、僕はもうすでに話した以上のネタを持ち合わせていない。


だから僕は逆に質問することにした。


「どうしてそんなにそこにこだわるの」


「原因がわかれば、杉山さんの気持ちもわかるでしょ。今辛いと思うの」


「ハルのことが心配?」


「心配だよ。最近はちゃんと話してる?」


そう聞かれてハルとの最後の会話を思い出した。

あれだ、あの「誰と付き合えば満足なの?あぁ、例えば学校の先生とか?」ってやつだ。

あの朝からハルとは会っていなかった。


「うーん、ちょっと危ない奴と付き合っている、かも」


「えっ本当に?」


「いや、ただのバイク乗りで、実は気がいいやつかもしれないけど」


「でも、碧樹は危ない奴って思ったんでしょ?」


「…まぁ」


まどかは少し考え込んでしまった。


「彼女は元々真面目な子よね?」


「馬鹿がつくくらい」


「今度話してみようかな」


「ハルと?」


頷く先生に僕は首を傾げて「どうかなー」と言った。


「私とは話してくれないと思う?」


「うーん、でもそれはまどかのせいじゃなくて、俺のせいだけどね」


「ううん、私ね、いつもそうなの」


「いつもって?」


「助けたいのは女の子の方なのに、なぜか嫌われちゃうのよね」


「えっ過去にもそういうことがあったの?」


「あー、うん。何度か」


「それって俺たちみたいな共依存の関係?」


「…うん。それもある」


「聞きたい。聞かせて」


「…でも、前の学校の生徒の話だし」


きっとやたらに話してはいけない決まりなんだろうと思った。


「前の学校の話なら誰のことだか俺にはわからないし、名前を聞かなきゃ守秘義務違反にはならなくない?自分たちの参考になるかもしれないし」


「…そうだね」


少し考えて、先生は前の学校であった出来事を話してくれた。


「その二人もね、碧樹たちみたいな幼なじみだったの。家が隣同士で、幼稚園から一緒だったんですって。私が出会った時、女の子が高校一年生で、男の子は三年生だった。女の子の方が体が弱くてね、よく保健室に来ていたの」


先生は当時の事を思い出すように、少し遠くを見た。


「女の子の家は両親が共働きで、ほとんど家にいなかったから彼女はお手伝いさんに育てられたのね。家庭も複雑で、家族の関わりがあまりない家で、一人っ子だったの。

体が弱くて小学校は休みがちだったみたい。隣の家の男の子が見かねて毎日迎えにきてくれるようになって、だんだん学校に行けるようになったの」


「えー、なんかどっかで聞いた話だ」


「そうでしょ?でも彼女が二つ年下で、彼に頼り切っていた所が逆だね」


「ん?別に俺が頼り切っていたわけじゃないけど、反論はあとでするよ」


「そうしてね。あともう一つ違うのは、彼女は少しわがままな所があって、当然のように彼に毎日送り迎えをさせていたの。他にもかばんを持たせたり、忘れ物を取りに行かせたり、好きな食べ物を買いに行かせたり」


「それはひどいな。彼の方も言う事聞きすぎでしょ」


「そう思うよね?でもそれは彼女にとっては必死のアピールなの」


「アピール?」


「彼がどこまで自分を受け入れてくれるかを試しているのね。言う事を聞いてくれる人がいるということで、自分の存在価値を測っている。だから決して命令しているわけじゃないんだよ?ただ、迎えに来てくれる?取りに行ってくれる?ってちゃんとお願いするし、彼がしてくれたら大げさなくらいお礼を言って、必ずありがとう大好きって言うの」


「いうことを聞く人間がいることが、その子の存在価値なの?」


「彼女にとってはね。見た目も華奢ですごく可愛いの。でもそんなだから友達もいないし、彼女の世界では彼が唯一の理解者で、最愛の人だった」


「彼にとってはどうなの?」


「ずっと彼女を受け入れていた。彼にとっては庇護欲を満たす存在だったんだと思う。すごく優しい性格で、自分にできることは何でもしてあげたいと思っていたから、彼女のわがままは可愛い妹の世話をしている感覚だったのね。自分が甘やかし続けたことで彼女がこうなってしまったってことに気が付いていなかった」


「妹…」


「そう、妹。彼にはお兄さんがいるんだけど、自分をお兄ちゃんのように慕ってくれる存在が欲しかったの」


「でもそれならお互いの利害が一致してる」


「そう。それまではね」


「何か起こったんだね?」


「うん…彼にね、好きな人が出来た」


好きな人。そんなところまで一緒なんだな。

結局、男女の幼馴染は恋愛感情なしには成立しないということなのか。


「好きな人が出来て、彼が変わったの?」


「彼は変わらず彼女を大事にしているつもりだった。だけど、彼女は気が付いてしまったの。彼の優先順位が変わってしまったことに」


「優先順位か。でもそれは仕方ないよ」


「彼女はそうは思わなかった。彼を取り戻そうと必死になった」


「何をしたの?」


「最初は独占。とにかく一緒にいたがって、四六時中監視してた。彼はだんだんそんな彼女を重く感じ始めた」


「それって逆効果だよね」


「うん。でも彼女は必死だから気が付かないの。夜も寝ないし、ご飯も食べなくなって…心も体もボロボロになることで彼を繋ぎとめようとした。彼は彼で病気の彼女を突き放すことはできないから、また世話を焼いて」


「病気が治るまで?」


「そうだね。登校できるようになると、少しずつ距離を置こうとした。何かをやってと頼まれると、自分でできるよね?俺が卒業したらどうするの?頼ってばかりじゃお前の為にならないんだよ。そんなふうに言って」


「正論だよね?多分俺でもそうする」


「うん。私もそれが一番、というかそれしかないと思っていた。だけど彼女の心は…」


「どうなったの?」


「自分で自分を傷付けるようになってしまったの」


「えっ自傷行為ってこと?」


「そう。彼を取り戻すために、腕や足に傷をつけたの。どうしてそんなことをするんだって怒ると、誰にも大事にされない自分には生きる意味がない、こんな体いらないって」


「うわー、それはもう心の病だよ」


「そうだね。だからそうなる前にどうにかして助けたかったんだけど」


「まどかに心を開いてくれなかった?」


「…うん。そういうことだと思う。彼女には彼が全てで、彼以外は必要なかったの」


「それでどうなったの?」


「彼は彼女の元に戻ったよ。初めての恋人と別れて」


「別れたの?恋人は納得したの?」


「うん。だってそうするしかなかったから」


「それって、誰も幸せになっていないよね」


「どうかな。彼女にとっては一番良い結末だったんじゃないかな」


「一時的にはそうかもしれないけど、彼が彼女を好きになることはないと思う」


「それはわからないよ。人の心って変わっていくものでしょ。彼を取り戻したことで彼女の精神が安定して、心も成長すれば…」


「彼女を好きになるかもしれない?」


「うん。いつか二人が幸せになれるって信じてる」


信じてる。先生はそう言った。

それって、そうなって欲しいと言う願望だよね?


「まどかは、ハルもそんな風になると思ってるの?}


「そこまでは思ってないよ。杉山さんには家族も友達もいるから。でもね、自己嫌悪になったり、自暴自棄になったりってことはあり得るから」


「そうか…」


「何か起こる前に、私に出来ることはしておきたいの。やっぱり一度話せないかな」


「うーん、実は俺今ハルにブロックされてて」


「ええっ!いつから?!」


「わかんないけど、気が付いたのは俺の誕生日。うちにケーキを持ってきてくれて、お礼のメッセージを送ろうとして送れなかったっていう…」


「そんなに前?」


「うん。だって会おうと思えばいつでも会えるし、実際その後話もしてる」


「でもそれは…かなり重大なサインかもしれないよ」


「えっそうなの?」


「だって普通の友達じゃないじゃない。杉山さんにとって碧樹は」


そう言われて、急に怖くなってきた。

やっぱりこのままにしておいちゃいけないのかな。


「ハル、今バイトしてるんだ。コンビニで」


僕は先生にハルのバイト先を教えた。



それから数日後、先生はハルのバイトが終わる時間を狙ってコンビニへ行くと言った。

どんな話をしたのか僕にはわからない。

だけど次に会った時、先生の様子は明らかにおかしかった。


お昼ご飯に作ってくれたカルボナーラを食べながら、何度話しかけても上の空で。


「おいしいね」


「…うん」


「まどかの得意料理?」


「…うん」


「このペスカトーレ」


「…うん」


「カルボナーラだろっ」


「…うん」


えっツッコミもスルー?

僕は先生とハルが何を話したのか、聞き出すのが怖い気がしたけど、やっぱり気になるから聞くことにした。


食後のコーヒーを用意しながら話し始めた。

自分用に牛乳を買ってきたので、僕の分のカフェオレも作る。


「ハルに会ったんだよね?」


「うん」


「なんか言われちゃった?」


「え?なんで」


「いや、あきらかに様子が変でしょ」


「そう?」


「うん。あいつ強いからね。俺もいつも言い負かされるし」


「そうなんだ」


「うん…大丈夫?」


「いきなりね、言われちゃったの。碧樹と付き合ってるんですかって」


「あぁー、まぁ聞くだろうね」


ハルなら。

相手が誰だろうと、正しいと思ったことはびしっと言ってしまうんだ。


「そっか。私想定してなくて、びっくりしちゃって。こっちが色々聞くつもりで行ったのに、質問攻めにあっちゃって」


「で、なんて答えたの?」


「付き合って、ないよって」


「え!付き合って、ないの?」


「ないでしょ。え?付き合ってるって言った方が良かった?」


いやいや違うけど。

なんとなくわかってるけど。

そんなにはっきりきっぱり否定されるとさすがにへこむと言うか。


「…いろいろ言いたいけど、今はそっちが正解かも」


「ううん、不正解だった」


先生は力なく首を振った。


「えっそうなの?」


「うん。本気じゃないなら止めてくださいって言われた」


「……」


「碧樹は本気だから。碧樹を傷付けたら許さないって」


それはいかにもハルが言いそうなことだった。

僕は小さくため息を吐いて言った。


「そんなこと…だって、俺が勝手に好きになったのに。まどかは悪くない」


「なんて言うか…私の考えが甘かったみたい。杉山さんの中ではずっと碧樹が一番なんだよ。それは何を言ってもやっても変わらない、揺るがないんだと思う」


「最後に話した時はケンカ別れみたいになったのにな」


「市原君が心配してるよって言ったら『碧樹が心配してるようなことにはならないから大丈夫だと伝えてください』って」


「ふーん。話したのはそれだけ?」


「あ、急に全然違う事聞かれたよ」


「なんて?」


「『碧樹にお弁当作ってますよね?』って。『たまにね』って答えたら、『玉子焼き、食べますか?』って」


ええっそこでまさかの玉子焼き?僕は黙って話の行方を探った。


「『食べるよ』って答えたら『そうですか…』って。そこで話が終わっちゃって」


「そうなんだ…なんだろうね?」


相槌を打ちながら、咄嗟に自分も意味がわからないフリをしてしまった。

僕は思った。ハルが一番聞きたかったのってそれだったのかもしれないと。


「だからハルと話すのは難しいかなって思ったんだよ。でもなんでまどかがそんなに落ち込んでるの?」


「…落ち込んでいるように見える?」


「見える」


僕がはっきり言うと、先生は小さく肩をすくめた。


「なんか、ちょっとね。自信をなくしたというか」


「自信?」


「やっぱり、幼なじみの二人には他人が入り込めない世界があるんだなぁって。碧樹のことを誰よりもわかっているのは杉山さんなんだよね。私がなんとかしてあげたいって思うのはお門違いなのかなぁって思っちゃった」


「そんなことないでしょ。確かにお互い長く一緒にいた分、言わなくてもわかるって部分はあるかもしれないけどね。でもまどかがいたから、自分たちではわからなかった問題点に気が付いたわけだし。まどかに出会わなかったら、俺たちはいまだにどっぷりがっつり共依存関係だったんだよ」


「そう…そうだよね」


「うん。だけどハルはまだ理解できていないんだよ。一方的に俺に距離を置こうと言われて、意味もわかんなくて、それを誰かのせいにしたいんだと思う」


「そうね。私のせいであることは間違いないし」


「でもそれは俺たちのことを思ってなわけじゃん。時間はかかるかもしれないけど、いつかわかってくれると思う」


「うん」


「だからさ、まどかはそんなに考え込まないで。ハルには俺から話そうか?」


「ううん、もう少し頑張ってみる」


「うん。わかったよ」


僕は立ち上がってダイニングの椅子に座る先生の後ろに立った。


「だけど無理はしないで。俺たちの事で悩んでほしくないんだ」


先生の細い肩に腕を回して、そっと抱きしめた。

先生は驚いたように体を跳ねさせると「碧樹っ」と言って、僕の腕を外そうとする。


「これはハグだよ。励ましのハグ」


構わずそう言うと、先生は肩の力を抜いて少しだけ僕に体を預けてくれた。

それで僕は安心して先生の髪にこっそりキスをした。

こんなふうにずっと寄り添っていたい。

僕の望みは、ただそれだけなんだ。


先生の部屋からの帰り道、歩きながら僕はずっと考えていた。


先生と僕は本当に「付き合っていない」のか…。


確かに「付き合ってください」とは言っていない。

でも告白はした。

先生の部屋で朝まで過ごした日、ハグをしながら「好きだよ」と言って、キスをした。

先生は受け入れてくれた。

ちょっとだけ抵抗したけれど、最後は受け入れてくれたんだ。

そしてその後は何度も一人で先生の部屋へ行っている。


これって、告ってオッケーもらったってことなんじゃないの?

僕が生徒のうちはおおっびらに付き合えない。それはわかる。

でもこの状態を付き合ってないと言われたら、先生は今フリーってことになる。

それは嫌だ。

先生ははっきり言ってくれないし、僕も否定されるのが怖くて確認できないんだけど。


僕たちは…両想いだよね?


嫌われていない自信はある。

でも今は好きと言えない先生の気持ち…というより立場…は理解できる。


だけど二人でいる時はもっと恋人っぽくしてもいいよね?とは思う。

あ、僕が暴走しちゃうから?

それは…否定できないけど。暴走する自信しかないけど。

それはまずい。でも一緒にいたい。

だからなるべく距離を置いて、先生を不安にさせないように、冷静にって…

全然できてないけど。

うーん。


ぐちゃぐちゃ考えながら歩いていると、御霊神社まで来ていた。

先生の部屋へ通う時、行きも帰りも必ず通り抜けている。


ふと、夫婦銀杏の木を見上げた。

何も遮るものが無い真夏の空を背景に、まっすぐ伸びた二本の木。

この木の下で先生を待っていた時、僕は不安に押しつぶされそうだった。

このまま二度と会ってくれなかったらどうしよう。

怖くて、でもここから離れられなくて、やがて雨が降ってきて。


あの時、雨が降ってくれたから先生は傘を持って僕を迎えに来てくれた。

あれがなかったら、僕は失恋していたかもしれないんだ。


あの時は、こんな幸せな夏休みを過ごせるなんて思ってもみなかった。


先生に出会う前は、自分がこんなに誰かを好きになるなんて、思ってもみなかった。


誰かのことで自分の中がいっぱいになって、もうそのこと以外考えられなくなる日がくるなんて、思ってもみなかった。


そう思えば、今の悩みはとてつもなく贅沢なものだ。

たった一か月前の自分に言ったら殴り飛ばされる。

今は一緒に居られるだけで十分なんだ。


僕は神社の賽銭箱に十五円を投げて、手を合わせた。


あの時、雨を降らせてくれてありがとうございました。

どうかこれからも、僕を見守っていてください…。

願わくば…ずっと先生と一緒にいられますように。



高校二年の夏休みが、もうすぐ終わろうとしていたーーー。




昔は八月の最後の日までが夏休みで、二学期は九月一日からって決まっていたらしい。


今は学校によって違うけど、うちの高校は八月二十七日が始業式だ。

五日も損をしている。

今は二学期制をとる学校も多いけど、うちは三学期制なので、この日から二学期が始まる。


「もうゆとりはおわった」とよく言われるけれど、学校へ行く時間が増えれば学力が上がるのかといえば、違う気がする。

勉強をするのとは全く違う目的で学校へ通う生徒もいるわけだし。


二学期は体育祭や文化祭、修学旅行なんかもあって意外と忙しい。

体育祭は九月の中ごろにあり、十月中ごろに文化祭、十一月に修学旅行だ。


修学旅行の行先は沖縄。

なので夏休みの宿題は、沖縄についてのレポート提出だった。

中学時代に比べれば、高校の夏休みの宿題は大したことが無い。

ほとんど机に向かうことなく、この夏休みは終わってしまった。


しかし、このたった一つの宿題さえやって来ない強者がいた。


「碧樹、沖縄のレポート見せて」


「は?なんで、やだよ」


長谷川に言われて、即座に断った。


「いいじゃん、ケチ。昂太も見せて。齋藤も」


「おまえ、ばかだろ」


「ふざけんな」


全員に断られて、長谷川が逆ギレする。


「いいじゃん、減るもんじゃなし」


「減るわ!お前どうせ俺らの文章を適当に繋ぎ合わせて書く気だろ」


「うん。ばれないように上手くやるから大丈夫だよ」


「ばれない訳ねーだろ。自分だけ楽しようと思うなよ。俺がどんだけ苦労したと思ってんだ」


偉そうに説教をする昂太に、僕は言った。


「それも半分俺が手伝ったんだけどな」


それを聞いた長谷川は目を輝かせて


「昂太もズルしてんじゃん!俺と一緒だろ!」


「一緒じゃねぇ。俺はやる気はあるけど哀しいくらい才能がないだけだ」


確かに。最初は自分で文章を書いていた昂太だったが、その日本語のあまりの奇天烈さに、見て見ぬ振りができなくなった僕が口を出したというのが正解だった。


子供の頃から少女漫画を読んでいたという昂太が、なんでそんなに国語が出来ないのか不思議だった。

以前現国の先生が、現国の文章題を解くには少女漫画を読むのが有効だと話していたからだ。人の心理がわかるようになるらしい。

そのことを昂太に話すと、「心理はわかる。そこは得意。でも文章は書けないよ、漫画はほとんど絵とセリフだから」と言っていた。

本当にそうか?なんかもったいない気がするのは僕だけか?


「大体提出は今日中だろ」


齋藤に言われて、長谷川は涙声になる。


「うぇーまじか。今から原稿用紙五枚も埋められる気がしねぇ」


「お前はカラオケ諦めろ」


「そんなぁ」


齋藤に言い渡されて、長谷川は一人で教室に残った。


「終わったら絶対行くからっ!待っててよー」


未練がましく言う長谷川に「頑張れよー」と手を振って、昂太と齋藤と僕の三人はカラオケに向かった。


ドリンクバーで好きな飲み物を選んで、小さなボックスルームに収まると、昂太がおなじみのアニメソングを選曲した。

子供の頃から見ていたアニメの主題歌に、僕たちは条件反射で歌い始める。

「はい、次はこれ!次はこれ」と思いつくままに次々と入れていく歌を、三人で歌いまくった。


それぞれ注文したフードが運ばれて、三杯目のドリンクを飲み始めた頃、やっと落ち着いて話し始める。


「長谷川終わったかな」


と僕が言うと


「まだだろ。そんなに甘くないぞ、あの量は」


「だよな」


と二人が否定した。スマホにも通知はない。今日は三人のカラオケになりそうだ。


「そういえばさ、碧樹」


「ん?」


「杉山に男ができた?」


「えっ」


齋藤に言われて、思わず昂太と顔を見合わせた。


「そんな噂が広まってんのか?」


「いや、そういうわけじゃないけど。夏休みに見かけたからさ、映画館で」


「ほぉ」


反応したのは昂太だった。


「映画館ってことは、お前もデートだな」


「まぁな」


あっさり答えられて、ちっと舌打ちをした昂太を無視して、齋藤は僕に聞いてきた。


「なんか杉山の彼氏っていうイメージとは違う男だったけど」


「あー、お前もそう思う?」


「碧樹、会ったことあんのか」


「ううん。花火大会の日に、バイクでハルを送ってきた所を見ただけ」


「バイクね!そんな感じしたわ。浅黒くてワイルドな感じ」


「つまり碧樹と正反対のタイプね」


「うるせー」


昂太に言われて不機嫌になる。どうせ色白のやさ男ですよ。


「だからか。違和感あったの」


納得する齋藤に、昂太は言った。


「二人で映画観に行くってことは、やっぱり付き合ってんのかな」


「手を繋いだり、いちゃいちゃしてたわけじゃないからわかんないけど、普通に考えてデートだろうな」


ハルが。

あの男とデート。

ズズズズズズズズ……

僕はとっくに中身の無くなったジンジャーエールが入っていたグラスを持ったまま、ストローを吸い続けた。


「本当にデートかな」


「は?」


「だって俺もよくハルと映画観に行ったし。あれはデートじゃないし」


「碧樹、否定したい気持ちはわかるけど、それは違うぞ。その男と杉山は幼なじみじゃないからな」


「否定ってなんだよ。別に俺は何とも思ってないから」


それにハルがまどかに言ったんだ。碧樹が心配するようなことにはならないって。

どこまで信じていいかはわからないけどね。

ハルはくそ真面目だから、雰囲気に流されるようなことはないだろう。


「まぁこいつは放っておこう。それって他にも知ってる奴いるのかな」


「さぁ?今日が夏休み明けだから俺は誰にも言ってないけど。俺の彼女は他校だし…あ!」


急に大きな声を出した齋藤に驚いて、


「どーしたどーした」


と聞くと、齋藤は言った。


「俺、もっとすごい情報あったわ」


「何だよ?」


「俺の彼女の高校、川崎なんだけどさ…」


と言いかけて、ちょっとためらった齋藤に首をひねった。


齋藤は横浜市民だ。

神奈川県には高校受験の学区がないので、どこの高校でも受験できる。

東京の私立高校を受検する人も珍しくない。

横浜は鉄道などのアクセスもいいので、色んな場所にバラけるらしい。

鎌倉の高校に来た齋藤と同じ中学出身の彼女が、川崎の高校へ進学したのも自然なことだ。


「それで?」


「まどかちゃんが前にいた学校らしい」


「え?!」


突然齋藤の口から先生の名前が出て、今度こそ思いっきり動揺してしまった。


「へー。まどかちゃん、川崎の高校にいたんだ。碧樹、知ってた?」


昂太に聞かれて、頷いた。

すると齋藤は少しためらいがちに言った。


「…じゃあ、その高校であった噂も知ってる?」


「噂って、どんな?」


「その高校の、俺らと同じ学年に有名な女子がいるんだって」


「有名って、可愛いの?」


すかさず昂太が聞いた。


「うん、見た目は超可愛いらしいんだけど、問題児なんだって」


「へー、どんな?」


「いわゆる、ヤンデレ?とかメンヘラ?とかいう系のさ、ちょっとめんどくさいタイプ」


それで僕はわかってしまった。

その女子は先生が言っていた、共依存の彼女の方のことだろう。

けど、なんにも知らない昂太が、ここで解説を始めた。


「お前ね、ヤンデレとメンヘラは全然違うんだぞ。わかってる?」


「えっそうなの?ヤンデレが重症化したのがメンヘラだと思ってた」


「違うんだな。ヤンデレは好きな人を盲目的に信じて、そいつのいいなりに行動する奴のことだよ。対してメンヘラは自己主張が強くて、感情のコントロールができなくて、友人や恋人を支配したがる奴」


「え、昂太なんでそんなに詳しいの」


「こいつの愛読書、少女漫画だから」


僕が口を挟むと、昂太はちょっとだけムキになった。


「あー、バカにしてんだろ。安心しろ、少年漫画もちゃんと読んでるから」


「エバって言うな」


「少女漫画って意外と面白いよな」


齋藤の発言に驚く昂太と僕。


「おまえもかよっ」


「心の友よー!」


「ジャイアンか」


僕のツッコミをスルーして、齋藤はにこやかに言った。


「へへったまに彼女の部屋で読んでる」


「出た!また自慢だよ、ちくしょう」


「え?昂太は誰のを読んでるんだ?」


「ねーちゃんのだよっ」


ふてくされて叫ぶ昂太に爆笑してると、齋藤が話を戻してくれた。


「それで、ヤンデレとメンヘラはどっちがより重症?」


「そりゃ、メンヘラだろ。もう心の病だからな。それでどっちのタイプなの、その女子は」


メンヘラだな、間違いない。

そんな僕の心の声に気付かない二人の会話は進んでいく。


「ま、それはどっちでもいいんだけどさ、その子には超イケメンの幼馴染がいたんだ」


超イケメン?!それは聞いてないぞ。


「へー、美男美女の幼馴染ね。どっかで聞いたような」


「……」


僕の方を見る二人に無言を貫く。


「男の方は三年だったから、もう卒業したんだけど。その二人のゴタゴタにまどかちゃんが巻き込まれたらしい」


「ゴタゴタって?」


昂太が聞いた。


「彼女の方は幼馴染の男を追いかけて入学してきたんだけど、体が弱くて保健室の常連だったんだって。最初の頃は同じクラスの女子が付き添ったり面倒見ていたんだけど、とにかくわがままで手に負えなかったらしい。結局幼馴染の男が迎えに来たり、荷物持ったりして世話をしたんだけど、その男は校内と校外にファンクラブがあるほどのイケメンだったから、その女子はすぐにファンの子達にターゲットにされて、さらに浮いてしまったんだと」


「うわー、なにそのイケメン。顔だけじゃなくて性格もいいのか」


…性格がいいっていうか、そいつはそいつで何だっけ?庇護欲?っていうのを満たしてたんだよな。齋藤の話を聞きながら、僕は思った。


「それで友達がいなくなって教室に居場所がなくなった彼女は、ほぼ毎日保健室登校をするようになって、幼馴染のイケメン君がそこに入り浸るようになった」


「ふんふん」


「ところがそのうち、イケメン君も彼女の相手をしきれなくなってきた」


「そりゃそうだろ。我儘娘に付き合いきれなくなったんじゃね?」


「だけど彼女は子供の頃から世話を焼いてもらうのが当たり前だったのに、急に冷たくされて慌てたんだろうな。今度は彼女の方がイケメン君を追い回すようになった」


「追い回すって?」


「帰りに三年の教室へ迎えに行ったり、昼休みに一緒にお弁当食べようって押しかけたり。ところが今までなら彼女の言いなりになっていたイケメン君が、それを断り始めたことで、二人は破局したという噂が一気に広まった」


「破局って、最初から付き合っていたわけじゃないんでしょ」


「彼の方はね。でも彼女はどうだろう?急に態度が変わった彼に困惑して、それが怒りに変わって、さらに執着していく。そのうち彼には別に恋人ができたっという噂が立った」


噂?実際に好きな人ができたっていう話だったけど。


「それで彼女は彼を取り戻そうとやっきになって、とうとう自傷行為をするようになってしまった」


「自傷行為ぃ?まさにメンヘラじゃん」


「腕や足に絆創膏や包帯を巻いて来て、それがどんどん増えていったんだって」


「こえー」


昂太は頬に両手を当てて言った。


「それで大変な思いをしたのはきっと、彼よりもまどかちゃんだよな」


「その通り。毎日病院へ自宅へと付き添って、まどかちゃんの方が病気になりそうだったって」


「で、どうなったの」


「とうとう彼が根負けして、彼女の元に戻った」


「取り戻したんだ。命がけだな」


「ところがそれで話は終わらなかった。その彼に出来た恋人っていうのが、まどかちゃんだったんじゃないかって噂がたった」


「えっ!!」


そこで僕は初めて驚きの声を漏らした。そんな事は先生から聞いていなかった。


「なんでそんな噂が?」


昂太が冷静に聞き返した。


「彼女が休んでたりして、保健室に行かない日でも彼は一人で通っていたり、学校の外でも二人でいる所を目撃されたりしたらしい」


「そんなの。先生に相談してただけかもしれないじゃん」


「それでも彼女の自傷行為は学校でも問題になっていたし、そんな噂が立てば学校に居ずらくなるだろうな」


「それが原因で学校を辞めたってこと?」


「まぁ実際はわかんないけどな。まどかちゃんが辞めたことで、やっぱり噂は本当だったんだってみんな思ってるって話だよ」


「ひでーな、それ。先生は何も悪くないだろ」


「まぁ実際にその生徒と何もないならな」


「昂太!」


「落ち着けよ、碧樹。あくまで推測の話だろ」


「…そうだけど」


先生はきっとその二人の為に、一生懸命だったはずだ。

それは仕事だからかもしれないけど、自分の時間を全て使ってでも二人の関係を良くしていこうと頑張ったんだろう。

その結果がこれなんて、可哀想すぎるじゃないか。


「なぁ碧樹」


齋藤が真面目な顔になった。


「ん?」


「おまえ、まじなのか。まどかちゃんのこと」


その時、陽気なメロディーが鳴り響いた。テーブルの上に置いてあった齋藤のスマホの着信音だ。齋藤がすぐに手に取ると「長谷川だ」と言ってからタップした。


「おう、お疲れ。終わったのか?うん、わかった」


それだけ言って通話を終えると、「今から来るって」と言った。


「俺、帰るわ」


もうカラオケどころの気分じゃなくなった僕は、リュックを持って立ち上がった。


「碧樹」


何か言いたそうな昂太の顔も見ずに


「わり。長谷川によろしく言っといて」


と言って千円札を二枚出してテーブルに載せると、カワオケルームを飛び出した。





九月に入った最初の火曜日、久しぶりに先生のお弁当を食べている。

今日のメインは鶏の照り焼きだった。唐揚げも好きだけど、照り焼きも大好きだ。


狭いカウンセリングルームはなんとかエアコンが効いているけれど、二階の窓から見える青空と入道雲はまだ終わらない夏を物語っている。

先生は花火の日に持っていた、金魚の扇子を取り出すとけだるそうに扇いだ。



「まだまだあっついねー」


「うん。今日体育祭の種目決めるんだって」


「おおー。体育祭ね!碧…市原君は足速いの?」


今、碧樹って呼びそうになったよね?

思わず僕はにやけてしまった。それって先生の中で名前で呼ぶ方が自然になっているってことだよね?


「普通。水の中なら負けないんだけどな。まどか…先生は?」


「ぷ…私は全然ダメ。足も遅いしダンスも下手くそだから、あんまり好きじゃなかったな」


先生は僕のわざとらしい言い間違いに噴き出して、体育祭を全否定した。

ここには二人しかいないんだから名前で呼び合ったっていいじゃないかって言おうかと思ったけど、これはこれでちょっと楽しいからこのままでいくことにする。


「お弁当が一番楽しみだったんじゃない?」


「ううん、お弁当の時間が一番苦痛だった」


「あ…そうか、ごめん」


先生は十歳の時にお母さんが家出して、お父さんは仕事人間で…

きっと運動会の賑やかな重箱のお弁当なんてほとんど経験していないんだ。


「やだぁ、気にしないで。確かに小学校はキツかったけどね、中学は全員親子別々で教室で食べたし。それより高校だよ。みんな輪になってお弁当食べてるのに、私は一人さびしく学食だったり、購買で買ったお弁当やパンを保健室で食べたり。ろくな思い出がないの。本当に友達って大事だよ。市原くんも、友達大事にしてね」


「うん、そうだね」


僕は一人でお弁当を食べている、高校生の先生を思い浮かべて切なくなった。

僕が傍にいたら、絶対一緒に食べるのにな。今みたいに。


そして、この前のカラオケのことを思い出した。

僕が一人で先に帰ったことを、後で長谷川から文句を言われた。

「お前が課題やってなくて遅くなったせいだろ?」って言い返しちゃったけど、あいつはみんなとわいわいやりたかっただけなんだよな。

多分あの後僕のせいで空気悪くなったと思うし。

今度また一緒にカラオケ行こうって言ってやろう。


「杉山さんは、運動できそうだよね」


「うん。ハルが一番好きな教科はずっと体育だからね」


「そうなんだ。足も速いの?」


「女子ではダントツじゃない?体育祭の後でいつも陸上部からスカウトがかかるんだ。騎馬戦や棒倒し、どの競技でも全力投球だよ」


「すごいね!今年も大活躍ね、きっと」


「たぶんね」


そう先生に答えながら、僕は去年の体育祭の時のことを思い出していた。


去年、一年の時ハルと僕は同じクラスだった。昂太や宮内もいた。

運動部の奴も多くて、体育祭は年に一度の祭りだ!ってくらいに盛り上がっていた。

さすがに球技大会の時のような朝練までやるやつはいなかったけど。


団体戦はムカデ競争。

お揃いのクラスTシャツを着た僕たちのチームを引っ張ってくれたのはハルだった。

ハルが大きな声で「いち!にい!いち!にい!」とリズムを取りながら進むと、誰ひとり乱れることなく一定のスピードを保ち、見事一位を獲得。


そして、最後のカラー別混合リレーは圧巻だった。

一年女子で最初の登場だったハルは、スタートと同時にぐんぐん他の選手を引き離して、あっという間に先頭に立った。バトンを渡した後もその差は縮まらず、僕たちのカラーはそのまま一位でゴールテープを切ったのだ。


「あの子は誰だ?」と一気に注目を浴びて、ハルの知名度が上がった。

ほんと、運動部に入れば大活躍できただろうに。


「杉山さんは、どうして運動部に入らなかったのかな」


僕と同じことを考えていた先生に


「中学までは水泳部で、かなり良いところまでいってたんだよ。でも高校では部活はやらないって。俺のお弁当を作りたいから」


と答えると、先生は目を丸くして言った。


「えっ!お弁当のために?」


「うん、俺にはそう言ってたけど…おかしい?」


「うーん、おかしいと言うか。それでこそって感じかな」


それでこそ…共依存か。


今思うと、ハルの行動で「あれ?」と思うことは何度もあった。

毎朝起こしに来ることやお弁当は言うに及ばず。

俺の持ち物をチェックしたり、時間割を調べ上げていたり。

でもずっとそうされているのが当たり前になっていて、僕はすっかり慣らされていた。


普通の幼馴染ってここまでしないのかな。

普通の親子ならどうだろう?

どちらにしろ、他のケースを知りえない僕には比べようもないし。

先生と出会わなかったら、さほど疑問に思うことも無く過ごしていたんだと思う。


十年近くの歳月をそうして過ごした来た僕らなんだから、今急に関係を変えようとしても難しい。

だからこんなにぎくしゃくしてる。

自分の立ち位置がわからなくなって、お互いを見失いそうになっている。


新学期が始まってからも、ハルとは一度も顔を合わせていなかった。



そして一週間後の火曜日の夜。

久しぶりに、先生からメールが来た。


『明日、うちに来れない?』


先生の部屋へ行くのは夏休みが終わってから初めてだった。


『もちろん行きます!!』


と、即行で返事を送る。


昼休みに学校で会えるから、もう部屋に行く口実はなくなってしまったと思っていた。

なので先生からのメールはとても嬉しかった。

でも今日も昼休みに一緒にお弁当を食べたのに、その時は何も言っていなかった。

いつもより元気がないような気がして、「何かあった?」と聞いたら「夏バテかな?」と笑っていた。


もしかして学校では話せないような話でもあるのかな?と少し怖い気がした。


翌日、先生の部屋に行ったのは夜の七時だった。

一緒に夕食を食べようと言われて、カレーをご馳走になった。

先生は普段と変わらず、明るく話していたけれど、僕が買って行ったお土産のプリンを二人で食べ始めると急に無口になった。


「まどか、大丈夫?」


「えっ何が?」


驚いたように僕を見る先生。


「プリンだよ。ちょっとミルクが強かった?」


「あ。これね」


先生はもう半分以上食べているプリンを改めて一口食べると「うーん、ぎりぎりかな」と言って苦笑いした。

先生は牛乳嫌いなので、アイスやヨーグルトも生乳タイプが苦手だ。

このプリンは初めて買ったから心配だったけど、僕が食べた感じでは先生の苦手な味だったかもと思って、ずっと先生を観察していた。


「ごめん、残していいよ。俺が食べる」


「いいの、大丈夫だから。おいしいよ」


「無理しなくていいのに。急に無口になったからさ」


「あー…ううん、そうじゃないの。ちょっと…考え事してて」


「考え事?…それって、今日俺を呼んだ理由?」


「…うん、そう」


言いながら、先生はまだ迷っているようだった。

なに?そんなに言いにくいこと?

僕は胸が少し苦しくなってきて、とっくに食べ終わっているプリンの容器の底を無意識にスプーンで擦った。


先生はスプーンを置いて、両手をテーブルの上で重ねた。



「昨日ね、杉山さんに会ったの」


「ハルに?またコンビニに行ったの?」


「ううん、保健室に来たの。話があるって」


「話って、まどかに?」


「うん。それで…いろいろ聞いてね」


「え?いろいろって、俺の事?」


「碧樹の…お母さんの事」


「俺の…母さんの?」


「うん…碧樹のお母さん、顔が私とそっくりなんだってね」


「っ!」


僕は声も出ないほど驚いて、先生の顔を見た。


先生は下から覗き込むように僕の目を見た。

見つめ合ったまま、ひどく長い時間がたったような気がした。

先生は何も言わない。僕が何かを言うのを待っているんだ。

でも…何を言えばいいんだろう。

心臓が痛いくらい強く脈打ち出して、僕はやっとのことで言葉を絞り出した。


「…ハルが…そう言ったの?」


「うん。だから碧樹は私より先生を選んだって…言われた」


先生が言ったことが信じられなかった。

何故?何故今になってハルはそんなことを?


「違う!そんなんじゃないよ。確かに初めて会った時は驚いたけど、それだけじゃないんだ。母さんに似ていなくても、俺はまどかを好きになったよ!」


語気を強めた僕に、先生はなだめるように優しく言った。


「いいの、碧樹。違うの。あなたを責めてるわけじゃないの」


「まどか、聞いて」


「聞くよ。でもその前に私の話を聞いてくれる?」


「え?」


「私もあなたに言わなきゃいけないことがある」


「……」


「私もね、碧樹と同じなの。私もあなたを別の人と重ねて見てた」


「!!」


何を…言い出すの。

先生は何の事を話そうとしているんだろう。


「前の学校でね、生徒のことを好きになったの」


僕は全身の血が下がって行くような気がして、思わずテーブルに両手をついた。

あぁウソだろ?そんな話は…


「…聞きたくない!」


「聞いて。お願いだから。こっちを向いて」


「……」


「共依存の、二人の話をしたよね」


共依存の二人…それは先生が前にいた学校であった生徒の話だった。

二歳違いの、幼なじみの二人だ。彼の方に好きな人が出来て、彼女が自傷行為をするようになってしまった為に、彼は恋人と別れて彼女の元に戻ったという話で。


齋藤から聞いた、その学校の噂ではその彼の恋人は…

考えたくなかった。認めたくなかった。

でも僕は気付いてしまったんだ。


「…その人の恋人が、まどか?」


「うん。彼の恋人だったのは、私なの」


突然、僕の胸の奥に重くて大きな石のかたまりができたように、ずしんと響いた。

思わず漏れそうになるうめき声を押し殺す僕に気付かずに、先生は彼との始まりを話し始めた。


「保健室に通ってくる彼女をいつも迎えに来ていて、相談を受けているうちに親しくなったの。最初は彼女のことをどうしていくべきか、毎日二人で考えて。このままじゃいけないって彼もわかっていて、でも今更手を離すこともできなくて。私も彼女を助けたかった」


「……」


「二人が育った環境や、二人の性格を知りたくてたくさん話をしたの。もちろん彼女とも話したけど、私の話を全く聞こうとしてくれなくて。彼女にとっては彼が全てで、彼以外は受け付けなかった。そのくせ彼を支配して独占しようとする。そのことに彼は疲れてきていたのね。彼とは、少しずつ彼女から手を離して、自立できるようにしていこうって話し合って、彼はそれを実行したの」


「彼が距離を取ろうとした分を補うように、私が彼女に付き添って話をしたり、家まで送ったりしたんだけど、彼女はだんだん保健室に来なくなってしまったの。だけど彼の方が逆に何にもなくても保健室に来るようになって。そのうち学校の外でもよく会うようになって…いつも行くコンビニや図書館で何度も。さすがに本当にこれは偶然なの?って聞いたら、恥ずかしそうに『会いたかった』って。『先生と彼女以外の話をしたかった』って言われて。それまでずっと一人でいて、そんな風に誰かに一生懸命になってもらったのは初めてだった。いつの間にか私も彼を目で探すようになって。まさか生徒を好きになるなんて思ってもみなかったから、自分でもどうしていいかわからなくて。はっきり付き合っていたわけでもないの。ただお互いの気持ちを確かめ合っただけ」


先生はその時の気持ちを思い出したように、一瞬目を閉じた。


「だけど彼に好きな人ができたことに彼女が気付いてしまって。彼が必死で隠したから、相手が私だとはわからなかったみたいだけど、それももう時間の問題だと思った。

それから彼女は彼の行動を管理したがった。携帯も全部見せろと言って、言うとおりにしなかったら学校の三階の窓から彼のスマホを投げて壊したの。さすがに彼が怒ると今度は泣いて縋ってきて。そのうち自傷行為が始まって…もう誰も彼女を止められなかった」


握り合わせた先生の手が白くなっていくのを、僕はただ見ていた。

先生の声が震えていた。


「このままだとみんなダメになる。彼が彼女の元に戻らない限り彼女は自傷行為を止めないだろうと思って…私は彼に別れを告げて学校を移ったの」


「彼は納得したの」


「…そうだね。納得…できなかったかもしれないけど、最後はわかってくれた。彼女をあんな風にしてしまったのは自分だから、その責任がある。彼女が立ち直るまでは傍にいるって。それにもう、私にできることは何もなかったから」


そう言って、先生は小さくため息を吐いた。


「私がいなくなれば、二人の関係は良くなると思ったの。彼を取り戻すことで彼女が精神的に安定して、心も成長すればきっと変わってくれる。まだ十五歳だったんだもの。彼女が大人になるまで傍にいてあげてって、私にできるのは彼の前から姿を消すことだけだと思った。私も彼から離れれば、きっとすぐに忘れられるって…ちょうど去年の今頃、その学校を辞めたの」


「…そしてこの春から欠員が出た今の学校に採用されて、そこで碧樹に出会った」


先生は真っ直ぐ僕の顔を見た。


「初めて会った時はどことなく彼に似てるなって思っただけだったの。そのうちお母さんの事や杉山さんとのことがわかってきて、今度こそなんとかしてあげなくちゃって。杉山さんとの距離を引き離した分だけ、傍にいようと思ったの。杉山さん以外の人にも甘えたり、頼ったりしていいんだよって気付いて欲しくて。でも思いの外、私が碧樹と一緒にいるのが楽しくなってしまったの。お弁当のメニューを考えたり、次の遠足のことを考えるのが楽しみになってしまって…」


それなら先生と僕は同じだ。

同じ気持ちで毎日を過ごしていたという事だろう。


「だけど、真っ直ぐ気持ちを向けてくるあなたに、私は…私は、また同じ過ちをしてしまった。…ずっと一人でいればこんなに寂しくなかったのに。初めて好きになった人と、好きなまま別れたことが苦しくて、あなたの好意で自分の寂しさを埋めようとした」


そこで先生は目を伏せると「最低だよね」とつぶやいた。


「碧樹と一緒にいたら、彼の事を忘れられるんじゃないかと思ったの。でもいざあなたと向き合おうとしたら、今度は杉山さんの強さが怖くなった。あなたたちの間には誰も入り込めない。彼女の想いに敵うわけないって思ったの。このまま一緒にいたら、杉山さんが言うとおり私があなたを傷付けてしまう」


「俺の気持ちは?俺が好きなのは…一緒にいたいのはまどかなのに」


「…ごめんなさい。私、杉山さんに言われるまで気付いていなかった。

碧樹が私の中にお母さんの面影を見ているんだって言われて、自分もそうだってわかったの。休みの日に一緒に出掛けたり、お弁当を作ってあげたり、それは私が彼にしてあげたかったことだった。自分でも気付かないうちに…最初からずっと彼を見てた。碧樹を通して、ずっと彼を見ていたの」


「どこが似てるの?…俺と」


先生は僕を見ながら顔を傾げると、少しだけ笑った。


「初めは背の高さ…隣に立った時に見上げる感じが似てるなって。それにさりげない気遣いや、優しい声…シャイな癖に強引な所も」


そう話す先生の目は、もう僕を見ていなかった。

僕を通して誰かの面影を見ているんだ。


「まだ…その人のことを?」


「……」


「俺じゃだめなの?その人の代わりでもいいから」


「碧樹…」


「理由なんてなんだっていい。まどかの傍に居たいんだ」


「だめだよ。そんなのだめ。彼も碧樹もこの世にたった一人しかいないの。誰も代わりになんてなれないし、しちゃいけない」


「じゃあどうして。卒業したらなんて言ったんだよ。俺…待つつもりでいたのに」


「ごめん…ごめんね。そのぐらい時間が経てば、彼を忘れられるかと思ったの。だけど…」


「…忘れられそうもない?」


先生は小さく頷いた。


「俺じゃだめなんだね」


先生は答えなかった。


僕は立ち上がると、ゆっくりと玄関に向かった。

玄関の扉が閉まる音がやけに大きく響いたけど、僕は振り返らなかった。


マンションを出ると、外は真っ暗だった。

もう何も考えられずに、僕はただやみくもに走った。


どうしてこんなことになってしまったんだろう。

先生から来たメールに有頂天になって、お土産のプリンなんて選んでいた自分に腹が立った。


確かに先生を好きになったきっかけは、母さんに顔が似ていたからだ。

だけどそんなことを忘れるくらい、僕は先生に夢中になった。

好きで、好きで…ただ一緒にいられれば良かった。


卒業したら、堂々と付き合える。

恋人同士になれるって信じてた。

それまで気持ちは変わらないって、ちゃんと伝えたんだ。

こんなふうに終わりが来るなんて、考えもせずに。


無我夢中でただ走り回りながら、頭に浮かぶのは先生と一緒に過ごした日々。


初めて会った八幡様の境内で僕を引きつけて離さなかった横顔。

球技大会で怪我をした僕の世話をしてくれた保健室。

二人でお弁当を食べたカウンセリングルーム。

ちょっと焦げたクリームコロッケ。

クラゲを見た水族館。十七歳の誕生日。

打ち上げ花火…初めてのキス。


図書室の窓から見た白衣の先生。

紫陽花に囲まれた先生の笑顔。

雨の中御霊神社に迎えに来てくれた時の、ちょっと怒った顔。


あの夜、初めて先生の部屋に行った。

お互いの過去を話して涙を流した。

あの涙は何だったの。

あの時僕たちはお互いに一番近い所にいたじゃないか。

心も体も、寄り添って溶け合うほど、お互いを理解していたはずだ。


あの時、やっと先生を捕まえた。

先生が僕を受け入れてくれた…確かにそう思ったのに。



どうして。

どうして出会ってしまったんだろう。

最初から先生の心には僕が入り込む隙間なんてなかったのに。

両思いだなんてうぬぼれて、馬鹿みたいに浮かれてた。


「ぁ…ふっ」


こんなに胸が苦しいのは、先生の事を好きな気持ちが溢れだして止まらないからだ。

でもその想いにもう行き場がないことを知ってしまった。

だからこんなに苦しくて、痛くて、悲しくて。


出会ってからまだ半年もたっていないのに。

先生への想いが毎日少しずつ降り積もって、からっぽだった僕の心をいっぱいにしてしまった。

先生の笑顔も怒った顔も涙も孤独も寂しさも。

僕が全部受け止めて、まるごと抱えていたかったよ。




先生の家を出てから、どのくらいの時間がたったのだろう。

いつもは江ノ電で移動する距離を、走って走って…歩き回って…また走って。




気が付くと、見慣れた帰路を歩いていた。

今まで感じたことのないくらいの重い足取りで家に向かうと。


ハルの家の前にあのバイクが止まっているのが見えた。

近付くと男の声が聞こえた。



「もう少しいいだろう?どこか行こうよ」


「明日バイトだから」


答えているのはハルの声だ。


「そんなのさぼっちゃえよ」


「さぼらないよ、迷惑かけるし」


「じゃあ十一時まで。今日中にちゃんと送るからさ」


そう言って男が強引にハルの手を引いたのが見えた。


「やめてよ!」

「やめろよ!!」


ハルのセリフとほぼ同時に、僕は二人の間に飛び出していた。


「碧樹?!」


「なんだお前」


男が掴んだハルの手を引き離して怒鳴った。


「やめろっつってんだよ!」


「関係ねぇだろ?どけよっ」


なおも強引にハルの手を掴もうとするので、完全に頭に血が上った。



「ハルに触るな!!」


叫びながら男に殴りかかった。

頭の片隅で、半分八つ当たりだと自覚していた。

殴りかかれるものが欲しかっただけだと。

とにかく無性に腹が立って、僕は目の前の男を押し倒して、所構わず殴りつけた。


ケンカなんてしたことないし、相手は手慣れていた。

すぐに押し返されて膝で蹴りを入れてくる。

そうか、蹴ってもいいんだ。ケンカなんだから、決まりなんかない。

すぐに男の腹に蹴りを入れて、両手を振り回してめちゃくちゃに殴った。

そして同じくらい殴り返された。


「やめてっ!やめてよ」


「ハルはどいてろ!」


「ヒロト!!もうやめて」


僕を庇うように間に入ってきたハルを殴りそうになって、そいつはやっと止まった。

そして盛大な舌打ちをするとバイクにまたがって去って行った。




「いてっ」


ハルが右頬の傷に消毒薬を吹きかけた。

あいつが僕を殴った時に、奴がしていたゴツイ指輪で抉った傷だ。

人生初の取っ組み合いのケンカで負った名誉の負傷を、ハルが手当してくれている。

数か月ぶりに僕の部屋にハルがいる。


「まったくもぉ何やってんのよ。やだどうしようここ、傷残るかも。碧樹の肌白いから」


「別にいいよ、残っても。お前もさ、付き合う気がないんならはっきり断れよ」


「最初に断ったんだよ。でも…理恵の彼氏の友達だし無視はできなくて」


「ったく、俺には必要以上にはっきりしてるくせに、こういう時は優柔なんだな」


僕が強めに言うと、ハルは大きなため息をついた。


「ねぇ、どうして男と女って友達でいられないの」


「友達?」


「友達からでいいって言ったから時々遊びに行ったりしてたの。だけどちょっと気を許すとすぐに二人きりになろうとする。すぐどこかに連れ込もうとする」


「なんかされたのか?!あいつにっ」


「ううん、碧樹が殴ったから未遂」


それを聞いて僕はほっとした。

でもその顔を見せないように、わざとぶっきらぼうに言った。


「ったく、大体友達からって言われてんだろ。からってことは当然その先も期待してんだよ。嫌なら最初から付いて行くな」


「そっかぁ。いろいろ不慣れなもんで。それより碧樹、なんかあった?」


「え」


「だって碧樹があんな風に人に殴りかかる所、初めて見たもん」


「別に。あいつがハルが嫌がってんのに無理やり引っ張って行こうとしたからだろ」


「そうだけど。最初から怒ってるみたいだったから。はいっおしまい!」


くっそ、相変わらず鋭いなぁ。

応急処置が終わって救急箱を片づけるハルに目を向けると。


「ん?ハル?」


久しぶりに正面からしっかり見たハルの顔に、ものすごく驚いてまじまじと見てしまった。


「なに?」


「お前って…ここまで色黒だったっけ?」


元々色白とは言えない健康的な肌色の顔は、夏になると綺麗な小麦色になる。

ただ赤くなるだけの僕と違って綺麗に焼けるのが羨ましいほどだったが、今のハルは黒過ぎだ。おでこや鼻の頭はぴかぴかと黒光りしているみたいだ。


「えっ今気がついたの?」


「だって外暗かったからさ。なんだよそれ、焼きすぎだろ?シミになるぞ」


「それは碧樹でしょ。私は綺麗に焼けるから大丈夫」


「それにしたって、それはないわー。多分俺の知ってるハルの中で一番黒い」


「黒い黒いってうるさいなぁ。何度も言わなくても知ってるから」


一体何をしてたらそこまで焼けるんだ?

宮内とビーチバレーでも始めたのか?

まさかコンビニのバイトでじゃないだろ?

そんなことを考えながら、ハルに聞いてみた。


「そういえば何やってんの?最近」


「何って、サーフィン」


僕の予想の斜め上をいったハルのセリフに僕は心底驚いて、カクンと口が開いた。


「サーフィン?!サーフィンってあの、サーフィン?」


「そんなに驚く?他にどんなサーフィンがあるの、あ、ウィンドではないよ。普通にサーフボードで波乗りするやつだから。毎日海に行ってるの。楽しいよ、サーフィン」


そう言って笑うハルの顔は、黒い顔との対比で異常に白く光る歯がやけに綺麗に見えた。

それはここのところ俺に見せてくれなかった、最大級のハルの笑顔だった。

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