第11話 小動(こゆるぎ)

花火大会の翌朝。


僕は五時に起きた。いや、起きたというより眠れなかった。

考えることが多すぎて、ベッドの中にいたけどまったく眠気が来てくれなかった。


結局、先生からの返信はなかった。何度も何度も確認した。

朝になっても震えてはくれないスマホに失望し、完全にやらかしてしまった自分に落ち込んだ。


昨日の僕はどうかしていたんだろうか。

先生との距離を詰めたいとか、関係を一歩進めたいとか。

そんなことを考えて作戦を練り、自信たっぷりに実行してしまった。

その結果がこれだ。


先生に無視されてる、よな。

まさか、もうこれっきり?


昨日の僕とは違う方向へ心臓がきりきりと巻き絞られ、それは実際に痛みを感じるほどだった。これ、今日中に止まっちゃうんじゃないかな。あぁもうつらい。


そこでもう一つの懸案事項を思い出した。

ハルだ。ハルと話さなくては。

僕は急いで身支度をして、家の前で待ち構えることにした。



五時三十分

ハルが家から出てきた。


僕の顔を見て、一瞬立ち止まる。


「碧樹?どうしたの?こんなに早く」


「おはよ。ハルを待ってた」


「なんで?私バイトだよ?」


「知ってる。だからこの時間に来たんだ。話がある」


「ふーん、じゃあ歩きながらね」


「いいよ」


早足で歩くハルの横に張り付いて、どう話そうか考える。

なるべく冷静に。そう自分に言い聞かせながら口火を切った。


「なぁ、昨日どこ行ってた?」


「昨日?そりゃ花火でしょ」


「誰と?」


「え、なんで?友達だよ。理恵と、あと何人か」


「ふーん、何人かね」


「何よ、何が聞きたいの」


「ゆうべさ、見たよ。バイクで帰って来ただろ」


「あぁ、うん」


「誰、あれ」


「別に誰でもいいじゃん」


「よくないだろ。教えろよ」


「碧樹に関係ないでしょ」


関係ない?ハルにそんなことを言われたのは初めてだった。

もう冷静でなんていられない。


「なんだよそれ。心配してんだろ」


「いいよ、心配してくれなくても。大丈夫だから」


「大丈夫に見えないから言ってんじゃん。何らしくないことしてんだよ」


「何よそれ。じゃあ私らしいって、なに?」


「ハルはわかってるはずだ。親に心配かけるようなことするなよ」


そこでハルの顔色が変わった。


「は?何言ってんの?私がいつ親に心配かけたのよ。碧樹が勝手に言ってるだけでしょ?」


「付き合う相手を選べってことだよ」


「私が誰と付き合おうが関係ないでしょ?!」


「ハル、まさかそんなわかりやすくグレるつもりじゃないよな?」


「…碧樹、もういい加減にしてよ」


「いい加減にしてほしいのはこっちだから。急にバイト始めたり、バイクの男と遊んだりさ。心配するなって方がどうかしてるだろ」


「じゃあ私がどんな相手と付き合えば満足なの?あぁ!例えば学校の先生とか?」


「っハル!」


「どうかしてるのは碧樹の方でしょ?!もう私に構わないで!!」


ハルはそう叫ぶと一直線に走って行ってしまった。

僕は呆然とそれを見送るしかなかった。

熱くなった頭の反対側で、相変わらず足が速いなぁなどと感心しながら。



寝不足の体に疲労感が襲ってきて、重い足を引きずるように家に帰った。

帰り道、ハルが最後に言った言葉が頭の中で何度もリフレインしていた。


『誰なら満足なの?あぁ!例えば学校の先生とか?』


まさかハルがそんな風に思っていたなんて―――。


自分の部屋に着くなり服のままベッドにダイブすると、肺の中に蓄えた二酸化炭素を全て排出したかのような深くて長いため息をついた。


なんだかおかしいな。

自分のやることなすこと、全てが裏目に出るみたいだ。

こういう時はじっとしているのがいいんだっけ?


しばらく話さないうちにハルとの間に深い溝が出来てしまったみたいだ。

いくら思い返しても、ハルとこんなひどい言い合いをしたのはこれが初めてだった。

一体どうやって仲直りすればいいんだろ?


前みたいに「ごめん」と送ろうかとスマホを開いて、ブロックされているんだったと思い出した。


もうわからないことだらけで、相談相手は一人しか思い浮かばないのだが。


あいつならそろそろ起きているだろう。

簡単にメッセージを送って、僕は少し眠ることにした。



「どう考えても経験値が足りねぇ」


部活帰りの昂太を拉致った。

夏休みの部活は朝七時から十一時までらしい。熱中症にならないように。


たまには付き合えと言って、男二人でカフェにやって来たのだ。

日替わりランチを食べたあと、僕にとってのメインであるデザートタイムに突入している。

パンケーキもいいけど、夏はやっぱりパフェだろ。

昂太は大盛りのかき氷の山を真面目な顔で崩している。


「やっぱりか」


昂太は人の気持ちがわかる優しい男だし、姉ちゃんが二人もいるから女心がわかるらしい。

それにこれが一番大事なことだけど、口が堅い。

長谷川あたりだと今一つ不安な要素がそこだった。悪い奴じゃないんだけど、ちょっと口が軽いんだよな。


昂太には昨日の話をした。もちろん、ハルのことだ。そして今朝のケンカのことも。

先生とのことは言えない。最大の悩みだけど、誰にも話せない。


「うーん、碧樹の気持ちもわかるけどさ。バイク乗る奴=不良って考えは古いだろ」


「そうかな。だけど普通のエンジン音じゃないんだぜ?それにあのハルがさ。知らない男の後ろに乗ってんだぞ」


「言い方がエロいな。結局やきもちか」


「は?なんでそうなるんだよ。ちげーし」


「碧樹の知らない男ってことだろ。杉山にとってはただの男友達かもしんないじゃん」


「ただの男友達って、本気で言ってる?お前がバイク乗りだったとしてさ、別に興味のないただの女友達を後ろに乗せるか?」


「うーん、だからそこが経験値が足りない。もし彼女がいたら女友達は乗せないだろうけどな」


「だろ?やっぱ下心があるんじゃん。ってか、もう付き合ってる可能性大じゃね?」


「じゃあ付き合ってるとして、何が問題なの?」


「大問題だろ。十七歳の夏にバイクの男に遊ばれてる」


「いやいや、そこは仮定の話だしな?仮にそうでも、それこそ青春なんじゃねーの?俺は羨ましいけどな」


「どこが?」


「十七歳の夏に大恋愛することがだよ。泣いたって傷ついたってさ。何にもないよりは絶対いいと思う。いい大人になって振り返った時にさ、あの夏が自分の青春だったなぁって思い出があった方が楽しいに決まってるよ」


「それが…辛くて悲しいだけのものでも?」


「誰かを好きになる気持ちってさ、辛くて悲しいだけじゃないだろ?片思いでも失恋しても、それが経験値じゃん。何も知らないやつよりずっと強くたくましく成長するはずだよ」


「好きになって、それがむくわれなくても?」


「もちろん。全てが上手くいくはずないだろう?だけど人生は続くんだからさ。それを次の恋愛に生かせばいいじゃん。人間てさ、泣いた数だけ人に優しくできるんだって。だからいつか絶対幸せになれるよ」


「おまえ…すげーな」


「おう。ねーちゃんの少女漫画読んでっからな」


「少女漫画?!」


「うん。あれはすげーぞ。けっこう泣けるのあるから」


「へぇーーー」


心からの感嘆の声だった。

相談したのはハルのことだったけど、僕の悩みもさらっと解決してくれたような。


そうか。片思いも失恋も経験値か。

今日の悩みは未来の幸せにつながっているのか。


「とはいえ、さ」


「ん?」


「俺も泣き顔が見たいわけじゃないからな。杉山も、お前も、な」


「え、俺?」


「何にも言わなくてもいいけどさ。いつでも付き合うから。スイーツでもカラオケでも」


「な、なんだよ。失恋前提かよ」


「あははっ」


そこは笑って流すのか。


「俺もハルのことは心配だけど…もしも泣きついて来たら精一杯励ましてやることにするよ。もちろん相手の男はフルボッコだけどな」


「うん。だけど杉山は心配ないと思うぞ。お前よりよっぽどしっかりしてるだろ」


「まぁね」


「それより俺のことを心配してくれ」


「何かあったのか?」


「何もないのが悩みなんだよ」


「あははっ」


今度は僕が笑う番だった。


昂太のお蔭で少しだけ元気になれた。やっぱり僕のお助けキャラだ。

あいつに相談して良かったな。


帰宅後も何度も確認してるけど、先生からの返信はない。

昨日は外出中にバッテリー切れのパターンかな?とか考えることもできたけど、今日はそれもないだろう。


「やっぱりここは、当たってくだけろだよな」


怖くてもこのままでいるわけなはいかない。僕が始めたことなんだから。

僕は先生にメールを送り続けることにした。


『今日も暑いですね。会って話がしたいです』


『都合の良い時間を教えてください。どこにでも会いに行きます』


『明日はお時間ありますか?返信待っています』



こんな内容を一日三回ぐらい送ってみてるけど、全く返信は無くて。


先生の夏休みが生徒と同じだけあるわけではないことは知っている。

学校へ行かない日でも研修や勉強会なんかもあるみたいだし。

忙しくて会えないなら、そう返事をして欲しかった。


毎日三回来るメールはうざいだろうか。

ラインのような既読サインが付かないのは良いと思っていたけど、今はもどかしい。

先生が僕のメールを読んでいるのかいないのか、今すぐ教えてほしいのに。


これでは当たってくだけろどころか、当たっているのかどうかもわからないよ。



先生と連絡が取れなくなって、一週間―――。


あの花火の夜の事を考えて考えて、やっぱり答えなんて出なくて、今まで先生と交わしたメールや、先生と出かけた時に撮った写真を見返した。


一番多かったのは、あじさいデートの時の写真。明月院であじさいをバックに笑っている先生。長谷寺で撮った可愛いお地蔵さんや、御霊神社で撮った江ノ電の写真。

楽しかったあの日の事が、まるで夢の中の出来事のように遠く感じる。


僕は一枚の写真を開いた。

それは先生が撮って送ってくれた、僕の写真だった。

御霊神社の夫婦銀杏の前に立っている、僕の後姿。

青空に向かって真っすぐに伸びた二本の木…。

そこには何の迷いも憂いも無く、銀杏の木を見上げるあの日の僕がいた。


そうだ。あのご神木に助けてもらおう!

それは何かの啓示のように下りてきて、現状を突破するにはもうそれしかないように思えた。

僕は身支度をすると、すぐに部屋を飛び出した。



それから三十分後。


僕は御霊神社の夫婦銀杏の前に立っていた。

そこから先生にメールを送った。


『どうしても話がしたいです。御霊神社の夫婦銀杏の前で待っています』


午後四時を過ぎた所だった。


まだまだ暑いけれど、日陰を見つければ耐えられる。

相手の都合も聞かない一方的な約束だから、何時間だって待つつもりだ。

駅前の自販機で買ったポカリを飲みながらブロック塀に浅く腰掛けた。


この小さな神社はドラマで使われたロケーションもあって、とても人気が高い。

踏切を抜けて海へ向かう道でもあるので、通り抜けに使う人もたくさんいて、ただ立っていても飽きることはなかった。

先生も通り抜けに使っていると言っていた。

ここなら必ず会える。そう信じて待ち続けた。


スマホを確認しても返信は来ない。

六時を過ぎると急に雲が出てきて、風が湿気を帯びるのがわかった。


お天気アプリで確認すると、神奈川に雨雲が流れて来ていた。


「まじか」


もちろん傘なんて持っていない。

昼間はあんなに晴れていたのに、夕立ってやつかな。

だけど先生はいつ来るかわからないし、僕はここを動くつもりはなかった。


ポツ…ポツ…と降り出した雨は、すぐに本降りになった。


髪や頬を濡らす雨を避けるすべもなく、僕はただその場に立ち続けた。


突然の雨に戸惑い、走り去る人々を他人事のように眺めながら、僕は自分を濡らし続ける雨を眺めた。


最悪な状況のはずなのに、僕の心は落ち着いていた。

髪や体が濡れることにそれほど嫌悪感を抱かないのは、水泳をやっていたからかな?などと考えてみる。

少し下がった気温と、サーサーと音を立てて降る雨は気持ちが良いくらいで、ここ何日かの僕の気鬱を洗い流してくれるんじゃないかと思ったくらいだ。


辺りは急激に暗くなり、雨のカーテンの向こうに街灯の明かりがポツポツと燈り始めた。


もう何度目かわからない、通り過ぎる江ノ電を目で見送った後、踏切を渡ってくる人の中に見たことがある傘を見つけた。


顔は隠れて見えないけれど、真っ直ぐ僕に近付いて来る。


僕の前で立ち止まったその人は、傘を後ろに傾けると、僕の目を見つめて言った。


「ばかね」


ちょっと怒ったような、僕が初めて見る表情だった。

そして左腕に掛けていたビニール傘を広げて、僕に手渡した。


「来てくれるって信じてました」


そう言って受け取った僕の髪からぽたぽたと滴が落ちてきて、傘を差すのも今更なんだけどなぁと苦笑いが出た。

先生は少し俯くと、ため息交じりに言った。


「雨が降ったから…」


仕方なく?そんな言葉を飲み込んでくれた先生に嬉しくなった僕は言った。


「あはっそれならこの雨は奇跡の雨ですね。ご神木に感謝します」


先生は僕の言葉に少し笑うと、何も言わずに歩き始めた。

駅とは反対方向へ。

僕はだまって後ろを付いて行った。



着いたのは白いタイル張りの小さめのマンションだった。

エントランスを入ると正面にエレベーターがある。

先生が先に乗り込み、僕が後から乗ると五階のボタンを押した。

五人も乗ったらいっぱいになりそうな小さな箱で、僕は何も言わない先生の横顔を見つめた。


先生はエレベーターを降りると右側に曲がり、一番奥の部屋の鍵を開けた。


「傘、ここにかけてね」


玄関扉の外側あるフックに傘を立てかけて、玄関に入った。


「ちょっと待ってて。タオル持って来るから」


先生は先に上がると大きいタオルと小さいタオルを二つ持って来てくれた。


大きいタオルを僕の頭の上からぱさっと掛けて、小さいタオルで足を拭いてと言った。

僕はスポーツサンダルを履いていたので、雨と泥汚れでぐちゃぐちゃだった。


「あの、タオル汚れちゃうんで出来れば足を洗いたいんですけど」


ずうずうしいのは承知で言うと、バケツに水を汲んで持ってきてくれた。

サンダルを脱いで片足ずつ足を洗い、タオルで拭いた。


「大丈夫?つかまる?」と肩を貸してくれようとする先生はやけに手慣れていて、そうだこの人は保健室の先生だったと思い出した。


先生はバケツを片づけるついでに、ちゃちゃっとサンダルも洗ってくれて、お風呂場に干しておくねと言った。


「すみません。おじゃましまーす」


と言いながら恐る恐る廊下を進むと、すぐにリビングに出た。

左側に対面式のキッチンがあり、二人掛けのダイニングテーブル。テレビの向かい側にある小さめのソファーは白とブルーのチェック柄。書棚やテーブル、椅子は白木で統一されて、壁には貝殻や海星のオブジェが掛けられている。

リビングの右奥に白いすりガラスの仕切りがあり、その向こうが寝室になっているようだ。


先生の部屋だ…


あんまりキョロキョロしたら失礼だよなと思いつつも、初めて見るひとり暮らしの女性の部屋にどきまぎしてしまって、僕はリビングの真ん中に立ち尽くしていた。


「何飲む?」


と聞かれて


「なんでも!」


と答えたら


「んー、ジュースとかないのよね。コーヒーは牛乳ないとダメでしょ?紅茶でもいい?」


「はい!」


先生はキッチンでお湯を沸かしてお茶の支度を始めた。

リビングのカーテンは閉められていて外は見えない。もう夜だから当然か。

書棚にびっしり入っている本を見ることにした。


小説の背表紙を見るとほとんどが文庫本で、時代小説が好きだと言っていただけあって永井路子や司馬遼太郎など、うちの親の本棚にあるのと同じ本が何冊かある。

中段に並んでいるのは新書で、「心理学」「心理分析」や「カウンセリング」などの文字。

やっぱり保健の先生だから?

先生はカウンセラーになりたかったのかな。



「どうぞ」


声を掛けられて、慌ててテーブルに向かった。


「あの、服も濡れてるので、椅子にタオル敷いていいですか」


ドライ素材のTシャツはすぐに乾きそうだったけど、膝下丈のカーゴパンツはまだ湿っている。


僕は頭と顔を拭いたタオルを畳んで椅子に敷いて、その上に座った。

布の椅子じゃなくて良かったと思った。


「ごめんね、着替えがなくて。髪ドライヤーする?」


「大丈夫です。すぐ乾きますよ」


そう言いながら僕は紅茶を頂いた。

先生はブラックコーヒーだ。


先生に会ったのは一週間ぶりだったけど、もっとずっと長い間会えなかったような気がしていた。


「やっと、会えた」


自然に出たその一言が、自分自身を驚かせた。

語尾がかすれて、かすかに震えていた。

僕は本当にこの人に会いたかったんだとわかった。


「…そうだね」


「メール見てくれてたんでしょ?」


「うん」


「返事をくれなかったのは、花火の日の事を怒っているから?」


「うん、怒ってるよ?」


先生はマグカップを置くと、両手を組み合わせた。


「…ごめんなさい」


「何に対して、ごめんなさい?」


「まどかが、怒っていることに対して」


「市原くんっ」


「それでも!俺はまどかって呼びたい。俺は…まどかにとって何?」


「…」


「ただの、生徒?」


僕が一番聞きたくて、一番聞きたくなかったこと。

今すぐ聞きたくて、一生聞きたくなかったことだ。


僕は意識してそうしたわけじゃなかったけど、先生に対して敬語を使うのをやめていた。

そしてもう今までの話し方に戻すことはできなかった。


先生はテーブルの上で組んだ両手を強く握ったまま、絞り出すように言った。


「きっと私はあなたに近付きすぎたのね」


「どういう意味?」


「近くに居すぎて、勘違いさせてしまったの」


「違うよ。そうじゃない。勘違いなんかじゃ…え?」


僕は先生の言葉の中に少しだけ違和感を感じた。近付きすぎた…と言った時にわずかに後悔のようなものが滲んでいたのを感じてしまった。


「近付きすぎたって…まどかはわざと俺に近付いたの?」


「……」


「そうなの?え?なんで?」


先生はやっと僕の顔を見ると、ゆっくり話し始めた。


「あなたの…お母さんの話を聞いたからよ」


「母さんの?」


「そう、それと幼なじみの杉山さんとの関係も」


「どういうこと?ハルが何?」


「心理学で言うとね、あなたたちは共依存の関係だと思うの」


「共依存?」


先生は一体何を言い始めたんだ?

僕が聞きたかったことと全然違う方向に流れ始めた話に、ただただ驚くしかなかった。


「共依存ていうのはね、自分のことをおろそかにして他人のことで頭をいっぱいにして、その人間関係にしがみつくことなの。頼まれてもいないのに面倒を見て『この人は私がいないとダメになる』とか、逆に『この人に見捨てられたら私がダメになる』って考えて他人のために行動すること」


なんだそれ?

心当たりがありすぎて…それはまるで、ほんの少し前までの―――


「ハルと、俺のこと?」


「市原君が怪我をして保健室にいた時、駆け付けた杉山さんの様子を見て気になったの。彼女の行動は全てあなたが中心になっているって」


「それは…」


確かにそうだ。ハルはいつだって僕の事を第一に考えていた。

でもそれが…共依存?そんな名前がついているものなの?


ってそもそも病気なのか?


「そしてそれを当たり前に受け入れているあなたも。小さい頃にお母さんを亡くして、杉山さんが母親代わりだって言ったよね?」


「そ、そんなこと言っていない。ハルが母親のつもりでいるって言ったんだ。俺はそんなこと思っては」


「でも受け入れてきた。毎日のお弁当も、朝起こしてもらうのも、持ち物検査まで」


「う」


持ち物検査って…そんなことまで言ったっけ?


「あなたたちは幼なじみで長い年月をそうして過ごしてきた。だけど何かそうなるきっかけがあったはずなの」


「きっかけ?」


「そう、きっかけ。ねぇ聞いてもいい?

…市原君のお母さんが亡くなったのって、いくつの時?」


「なんで、そんなこと?今そんな話はしたくない」


「教えてほしいの。どうして亡くなったの?御病気で?それとも」


「…何これ?カウンセリングかなんか?」


「ちがうよ。カウンセリングなんかじゃない」


「じゃあ、もうやめようよ。こんな話をしたかったんじゃない」


「そう、わかった」


先生は悲しそうに言うと、また急に話題を変えた。


「じゃあ、私の話をしようかな。聞いてくれる?」


先生の話?

僕が黙って頷くと、先生はマグカップを両手で持ち、一口コーヒーを飲んで話し始めた。


「私はね、十歳の時だった。母が出て行ったの…十歳だった」


「え?」


僕はその言葉に驚き、これから始まる話をどう受け止めるかと考えた。

先生が自分の過去を打ち明けようとしてくれている。僕に。

これはきっと生半可な気持ちで聞いていい話じゃない。

僕はわけもわからないまま、椅子に座り直して先生の言葉を待った。



「母はね、若くて、娘の私から見ても綺麗な人だったの。子供の頃に父親を亡くして、母親が女手一つで育ててくれてその苦労を見ていたから、大学には進学せずに商業高校を出てすぐ銀行に就職して。そこで出会ったのが私の父だった。一回りも年が上だったけど父親がいなかったから大人の男の人に憧れていたのね。入社して一年もしないうちに結婚して二十歳で私を生んだの」


二十歳って、今の先生よりも若い時だ。きっと綺麗なお母さんだったんだろうな。


「銀行マンに転勤はつきものだから、引っ越しばかりの結婚生活でね。大体三年ぐらいで転勤の辞令が下りるの。私が生まれて最初の辞令が鎌倉支店で。三歳から五歳まで暮らしたよ。覚えているのは八幡様の隠れ大銀杏と、源氏池の亀、春の桜と夏の花火」


亀!先生もカメックスを知っているのか。

隠れ大銀杏に源氏池。初めて会った時の先生の寂しそうな横顔を思い出した。


「あれが一番楽しかった思い出。あとは幼稚園で二回、小学校は三回。転校ばかりで友達もできないし、私もつらかった。でも母は私以上につらかったみたいなの。

引っ越しばかりで、やっと慣れた頃に違う土地へ行かなきゃならない。話し相手もできなくてね、父は仕事人間だったから毎日深夜帰りで週末は接待ゴルフ。ほとんど家にいない状態で。寂しかったんだと思う。

私が四年生の時にね、男の人作って出て行ったの」


そこで先生はため息をついて、コーヒーを飲んだ。


「ある日、学校から帰ったら家の中がやけに片付いてるの。母がどこにもいなくて、身の回りのものがなくなっていて。そんなこと一度もなかったから不安になった。

自分の部屋に行ったら、机の上に手紙が置いてあったの。真っ白い紙に『まどか、まどか、まどか、まどか、まどか、まどか』って…私の名前だけ。何回も何回も書いてあった」


思わず息を飲む僕に少しだけ笑いかけて、先生は続けた。


「何なのこれ?って思ったよ。手紙を残すならもっと意味のあることを書きなさいよって。私は母を許せなくて、その手紙を破り捨てた。でもね、今ならわかる。きっと書きたいこといっぱいあったんだろうなって。でも書けなかったのね。何か書いたら私を置いていけなくなるって思ったんじゃないかな。母はどこか幼くて、私に頼っているところがあったから」


「…お父さんは?」


「最初は探したみたいだったけど。私が話さなくなったから、どうにかしないとって思ったみたいで」


「話さなくなった?」


「あー、うん。話さなくなったというより、声が出なくなったのね」


それを聞いた瞬間、僕の中でどくんっと大きく音が鳴った。

声が出なくなる…出したくても叫びたくても。

僕はその感覚を知っている。

胸が苦しくて喉がつかえて、首元までせり上がっている言葉があるのに、どうしても音に出来ない苦しさを。


いつも見る夢を思い出しそうになって、小さくぶるっと頭を振った。

やめろ、今は先生の話を聞くんだ。


「失声症って言うんだけどね。心因性のストレス障害の一種。母がいなくなったことが自分のせいだと思ってしまって」


「どうしてまどかのせい?」


「転校したばかりの学校で、友達を作るのに必死だったの。母を一人にしてしまったのね。もっと母と一緒にいる時間を作って、たくさんおしゃべりしていたらこんなことにならなかったかもって。せめて私を置いて行かずに、一緒に連れて行ってくれたんじゃないかって。知らない男の人じゃなくて、娘の私を選んでくれたんじゃないかって。家庭を壊したのは私なんじゃないかって」


「でも、それはきっと」


「そうだよね、今なら私もわかる。母に必要だったのは甘えて頼れる男の人だったってこと。でも十歳の私はそう思ってしまったの」


自分のせいだって。

それは僕には分かりすぎるほど分かることだった。


「そのあと、父はすぐに再婚したの。今度は年の近い明るい人。打って変わってマイホームパパになってね、すぐに妹が出来てそれは可愛がって。

…新しい母と上手くいかなかったわけじゃないの。本当の子供の様に接してもらったと思っているし、感謝もしてる。精神的に安定して、声も出せるようになったしね。

でも、でもね。私は父を許せないの。今それができるなら、どうしてもっと早く気付いて、家庭を大切にしてくれなかったの?って。そうすれば母は出て行かなかった。今でも私の傍にいてくれたのにって。

私は高校から全寮制の学校に入って、大学もそのまま上がって、それから一度も家に帰っていないのよ」


「……」


一言も言葉を発せない僕に、先生は言った。


「市原君、私たちは似てるのね」


「え?」


「初めて会った時から気になって仕方なかったの。それは私たちが似ているからだと思う。一番必要な時にお母さんにそばにいてもらえなかった。違うかな」


似てる?僕と先生が?それは、違う。

僕と先生は違う。


「似てないよ。全然違う」


否定されると思わなかったんだろう、先生がびっくりして顔を上げる。


「まどかのお母さんが出て行ったのはまどかのせいじゃないし、まどかが責任を感じることなんて一つもないよ。でも、俺は違う」


「市原君?」


「俺の母さんが死んだのは、病気のせいなんかじゃない。体は弱かったけど、違うんだ。

母さんが死んだのは俺のせい…」


一瞬、ためらった。

このことは誰にも話したことが無い。言葉にしたことが無い。

ずっと自分の中の奥深くに閉じ込めてふたをして見ないようにしてきたことだ。

ふたを外してしまったらきっと…きっと生きてはいけないから。


急に黙った僕に、先生は何も言わずに首を傾げた。

何も言わなくても、その目が聞いてくる。


どうしたの?話してみて?と。

僕が抗えない、その強い瞳で。


「聞いても…重くなるだけだよ」


「いいよ。一緒に持ってあげるから」


「そんなこと簡単に言わないでよ。

きっと聞いたら後悔する。俺の事嫌いになるよ。まどかに嫌われたく…ない」


「何も心配しないで。私はどこにも行かないから」



どこにも行かない。その言葉がかたくなな心を溶かしていく。


僕は目を閉じて記憶を呼び戻した。

九年前の、あの台風の日の記憶を。





あれは、小二の夏の終わりだった。



大きな台風が鎌倉の海をかすめるように通り過ぎた日。

もう雨は止んでいたけど、まだ強い風が残っていた。

午後からは台風一過の青空が残暑の蒸し暑さを連れ戻そうとしていた。


その頃の僕は学校から帰るとバスに乗ってスイミングスクールへ行くか、ハルと近所で遊んで過ごしていた。

その日はスイミングスクールが休みの日で、ハルが海に行こうって言ったんだ。

台風の後の砂浜は、いろんな物が流れ着いていて面白いよって。


いくら暑くても、お盆を過ぎればクラゲが出るから海では泳がない。

浜辺で遊ぶだけなんだけど、子供だけでは危ないからといつもは母さんかおばあちゃんが付いてきてくれた。


でも台風の低気圧のせいで前日に喘息の発作を起こしていた母さんは、一緒に行けないから今日はダメだと言った。

おばあちゃんはその日出かけていていなかった。

あきらめきれない僕は、海辺には近づかない、砂浜だけ歩いてすぐに帰ってくるからって約束して、仕方なく母さんは許してくれた。

日差しが強いからと、帽子をかぶせて僕を送り出してくれた。


海に行くと、見たことも無い大きな貝殻や流木以外にも、夏の名残のボールやゴーグルなどが流れ着いていて、砂浜を走り回った。

僕とハルは、まるで宝物を見つけるゲームみたいにはしゃいでいた。

けれど夢中で遊んでいるうちに、色んな方向から吹く強い風に、僕はかぶっていた帽子を飛ばされてしまったんだ。


慌てて追いかけたけど波打ち際に落ちて、あっという間に波に持っていかれてしまった。

空は晴れているのに、海は灰色で飲み込まれそうな高い波がうねっていた。


でも僕の帽子は見える所にあって、膝ぐらい入れば届きそうだった。

海に入ろうとする僕に、ハルが危ないからあきらめようって言って、手を引っ張った。

母さんとの約束を思い出して、僕は帽子を追いかけるのを止めた。


砂浜を歩いていると、国道沿いの駐車場にかき氷の屋台が出ているのを見つけた。

とにかく暑かったから、強風にはためく『氷』の旗を指差して「食べようよ!」とハルに言った。

二人で百円ずつ出し合って氷イチゴを一つ買い、一緒に食べた。


強風の中砂浜を歩くのに疲れてしまった僕たちは、遠回りだけどそのまま国道沿いを歩いて家に帰ることにした。


家の前でハルと別れて帰ると、母さんがいなかった。

外出から帰ってきていたおばあちゃんに聞いたら、碧樹を迎えに行ったと言われて。

嫌な予感がして、僕は走って海に戻った。

砂浜を半分ぐらい歩いた所で人が集まっている場所があった。

そして、波打ち際に倒れている人が見えた―――。


「ママ!!」


その人は間違いなく僕の母さんだった。

僕が走って行くと、手前で知らない女の人に抱きとめられた。


「坊やのママなのね?見ない方がいい」


そんなことを言われても僕は行かなきゃならない。

だって母さんは僕を迎えに来たんだから。


僕はその人を振り切って、母さんの所へ走った。

波打ち際で砂にまみれて、うつぶせに倒れている母さん。

乱れた長い髪も、着ている服も全て潮水に浸かっていた。



そしてその右手には、風に飛ばされた僕の帽子が握られていた。




「…すぐに救急車が来て、病院へ行ったんだけどすでに心肺停止状態だった」


「市原君」


「わかったでしょ?俺が馬鹿だったせいで、母さんは死んだんだ。帰りが遅い俺を心配して、無理して迎えに来て。飛ばされた帽子を見つけて、俺が波に流されたんだと思って、助けようとして…海に」


あの日の事を忘れたいと思っていた。

自分の中に押し込めて記憶の瓶にふたをした。

そうしなければ、僕は息が出来なかった。

家から一歩も出られず、学校へも行けなかった。


でもその透明な瓶は外からでも中身が見えていて、ちょっと油断すると渦巻く高波や強烈な潮風の匂いを僕に見せつけた。

お前の罪はここにあるんだと、夢の中で僕を攻め続けた。

だから、忘れることはできない。

ふたを外せばこんなにはっきりと思い出してしまう。

自分の罪を。どうしようもない後悔を。


先生が僕の手を握った。

そして、僕の目を見て言った。



「あなたのせいじゃない」



先生の言葉に僕は息を飲んだ。

同時に堪えていたものが喉の奥からせり上がってくる。


「やめてよ。そんなこと言って欲しいわけじゃない」


「それでも、あなたのせいじゃないの。お母さんはね、あなたを愛していたんだよ」


「やめて。聞きたくない」


「ううん、お母さんは今でもあなたを愛してる。あなたが生きている限り、ずっと変わらずにあなたを愛しているんだよ」


「いやだ。やめて」


溢れてくる涙をどうすることもできずに、僕は首を振り続けた。


「その顔で…その声で…俺を許さないでよ」


「碧樹」


唐突に名前を呼ばれて、思わず先生の顔を見た。

先生の両目からも涙があふれていた。


「なんで…なんでまどかが泣いてるの?…なんで今、名前呼ぶんだよ、なんで」


座ったまま顔を覆った僕に、ふわっと何かがおおいかぶさった。

いつの間にか立ち上がった先生が、僕を上から抱きしめていた。


「碧樹」


「っ…くっ」


開けてしまったふたは、もう二度と閉められない。

溢れて来るのはどうしようもない後悔と、真っ黒な絶望と。


ほんのわずかな光かもしれなかった。



窓の外に降り続く雨の音が僕たちに降り注いでいる。


なぐさめるように。

温めるように。


こんなにも優しい雨の音を、僕は知らなかった。





その日、僕は家に帰らなかった。

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