雛牡丹を摘む

夢見里 龍

雛牡丹を摘む

 それは、病というには美しすぎた。

 紅絹の長襦袢の裾から差しだされた素脚は雪を欺くほどに白い。あしうらにてのひらを添え、踵を取って、壊れ物を扱うようにそっと僕の膝に乗せる。きゅっとわずかにちからのこめられた指を飾るのは桜の貝殻だ。指の股まで、ひとつひとつなぜて確かめたいほどに可愛らしかった。

 張りつめた腱のとおる足括あしくびは息を飲むほどに華奢だ。

 その細さを際だたせるように、ひき締まった括れにはあるものが絡みついていた。

 蛇――いいや、これは枝だ。

 なだらかな足の表の、絹のような肌をつき破って、冬枯れの枝が延びていた。師馳の神戸は例年よりも寒く、雪が積もりはじめているというのに、枝のあちらこちらにはまるまると膨らんだ梅のようなつぼみがついている。

「なにしてはるん、はようしいや」

 頭上から鈴が降る。

 その言葉にうながされるように、僕は準備していた糸切はさみを取る。

 いまにもこうがはじけださんばかりに膨れた莟と枝のあいだにはさみを挿しこみ、おそるおそる、ちからをこめていく。ぱちんと軽い音があがり、紅梅の莟は咲綻ぶときを迎えることなく、無慚むざんにも緑の畳に転がった。

 ひとつ、またひとつ。季節はずれの梅の首が、落とされていく。

 その度になにかを堪えるようにきゅうとつまさきがまるまった。

 娘の足に結んだ莟をすべて摘み終わり、僕はずっと呼吸をとめていたことに気がついた。慌てて息をすれば、からかうように藤椅子の上から声が掛けられる。

「そないに緊張せんでもええよって、うつるものでもないさかい。すくなくともこれは、あんたさんみたいな、なんも能のないおひとにはうつらへんよ」

 あまやかな蜂蜜を垂らすように彼女は毒をしのばせる。

「へい、わきまえとります」

「それやったらなんで、震えてはるん」

 つまさきがたわむれるように僕の胸を蹴った。

 息をつめて、なんとか堪えていたものの、呼吸をはじめるとからだはまた、みっともなく震えだしていた。

 緊張もあった。邸の下働きをしていた僕がまさか、良家のひとり娘の花を摘むことになろうとは――だが、震えているのはそれだけではなく。

 ああ、けれどもこれでは、もうひとつの脚の梅を摘むことができない。僕はひたすらに頭を低くする。

「えらいすみません、すぐにとめますさかい」

「うちは、謝れゆうたやろか」

 ぞくりとする。猫のような声の調子はかわらないが、彼女はいらだっている。

「あ、……その」

 なぜ、震えているのかと尋ねられたはずだ。

 頭を低くしたままで視線を持ちあげる。

 白磁のような足が、所在なげに漂っていた。赤い襦袢に縁どられた純白の。指の股にもぐりこんだ鼻緒のような梅の枝。肌を破り、血潮を吸いあげて咲き結ぼうとする紅の莟をみて、想わず、言葉が転びでる。

「ああ、綺麗やなあと……」

 不敬なことを言い掛けていると我にかえる。

「ほお、うちのやまいは、あんたさんにとりて、綺麗なんか」

 かあと頬に熱がのぼった。失敗した。そんなことをいうつもりはなかった。この病が如何に彼女をさいなめているのかを知りながら。

「か、ご堪忍を。どうか、許しておくれやす」

 額を梅の散る硬い畳にこすりつければ、凍えるようなつまさきが僕の頭をつついた。驚いて、わずかだが、頭をあげる。その隙をついて、するりとつまさきはもぐりこみ、顎をすくいあげた。

「ご堪忍を……」

 親指が喉に触れ、ぐっと、僕は顔をのけぞらせる。

 座敷にきたときからずっと地にふせて、意識して逸らし続けていた視線が、いっきに絡め取られた。

「決めた」

 瞳のなかに娘が、満ちる。

 幼い頃から憧れ続けてきた姿が。

「あんたさんはいまから、うちの側務めや」

 驕慢な微笑の映える、牡丹のような美貌だった。

 猫のかたちをした瞳には星を散りばめた宵の帳がある。瞳の際に差された紅はあまりにも艶めかしく、娼婦のようだというのに、縁どる睫毛は淑女の憂いを湛えていた。頬にはまだ幼けなさを漂わせているが、頬から顎にかけての曲線はおとなびている。美しい、どんな花にも勝るほどに。

「よう励み」

 梅の枝の絡まったつまさきを跳ねあげ、娘が嫣然といった。

 緩やかにもちあげられた唇の紅さに僕は一瞬だけ、ぼうとなり、けれどもすぐにその言葉に意味を理解し、はいつくばるように頭をさげる。

「有難き幸せに存じます。不肖ながら、この椿つばき。誠心誠意、おつかえさせていただきます……雛牡丹ひなぼたん様」

 椿、齢十五。雛牡丹、齢十一の、凍てつくような真冬のことであった。

 雛牡丹の情けを、椿は生涯忘れはしないだろう。そのしなやかな脚を侵す花の病の、美しきもまた。



 ………………



 雛牡丹は天賦の才に恵まれた娘だった。齢二歳にして舞を嗜み、五歳になる頃には祇園の舞妓にも勝るとも劣らない凄みのある舞を披露して、すわ若柳壽童の生まれかわりか、いやいや神話にある宮比神かとひとびとを震撼させた。彼女に舞を教授していた師は雛牡丹のあまりの上達ぶりに矜持を砕かれ、逃げるように引退したという。

 その美称は大阪のみならず、京都から東京、果ては鹿児島、青森にまで拡がり、齢十にして宮廷の祭祀に任ずられるほどであった。

 されども、雛牡丹は非業の運命をたどる。

 

 才咲きという病があった。

 どのような経緯で罹患するのか、何故このような症状が現れるのか。あらゆることが謎につつまれており、わかることはたったふたつ。

 すぐれた才能をもったものだけが病に罹患する。才能を発揮するからだの部位に植物が繁り、花を咲かせる。それは桜や梅であったり、芭蕉であったりする。だが花が咲けば咲くほどに患者は衰えていき、やがては命を落とす。

 故に患者は、その花が咲かぬうちに莟を摘まねばならない。

 それだけが現在、この病にたいする治療であった。だがそれも延命処置にすぎず、平癒することはない。

 

 天の寵愛を享け、生を授かったはずの雛牡丹がこの才咲きに罹患したのだ。

 はじめはそげでも刺したのかとおもっていたそうだ。脚がぴりぴりと痺れるように痛み、翌朝には足の甲から枝とも根ともつかないものが延びてきたのである。それはたちまちに娘から、立ちあがるちからを奪い、日舞どころか助けがなければ邸のなかを移動することもできなくなってしまった。

 もとが良家の娘だ。父親は金に糸目をつけずに古今東西の医者を呼び寄せ、娘を診せたが、誰も彼もが匙を投げた。


 斯くして、舞踊の華は枯れたのである。


 されども雛牡丹は齢十二にして新たなる才覚を表す。

 脚が動かぬのならばと琴を習いはじめた雛牡丹が、僅か三年の後に熟練した琴奏者を凌いだ。

 舞踊の華をわすれかけていた巷が、ふたたびに騒ぎだした。まさしく百華の長であると、衆人は揃って彼女を褒めたたえる。彼女はみずからの腕をもって、栄華を取りもどしたのである。


 そうしていま、雛牡丹は晴れやかな振袖を纏い、籐椅子にもたれていた。

 僕はその脚を取り、数えきれないほどに結んだ梅の莟を落としていく。莟を枝からきり離すときには、かならず、ふ、と果敢ない息があがった。きつくひき結ばれた丹唇を戦慄かせ、ごくりとつばきを飲みくだす。飲みこんだのは唾だけなのか。激痛か、悔恨か、そうしたものが綯いまぜになって溢れ、彼女の口の端を濡らしているのではないだろうか。

 ぽつぽつと紅の珠が畳の表に散らばるさまは、血潮の雫が滴っているようにもみえて、背筋が凍りつくような心地になる。

 枝は日毎に侵食を続け、いまは膝にまで差し掛かっていた。膝がまがらなくなるのも、あるいはまがったままに縛りつけられるのも、そう遠い話ではないとか。

 黙々と梅を摘んでいると、はらりと言の葉が落ちてきた。

「才能のない、おひとはええなあ」

 どきりと脈がみだれ、はさみを動かす指がすべりそうになった。そんなことがあってはならないのに。

「牡丹が咲き誇るのんだけをみて、羨んだり、褒めたり、妬んだり、嫌ったり、惚れたり……憐れんだりしてればええんやものねえ」

 睫毛をかたむけて、雛牡丹は頬に影を落とす。

 窓から差す斜陽が影を濃くする。

 僕が側務めに択ばれたときから五年の歳月が経ち、雛牡丹はまた一段と美しくなった。雛牡丹はわがままなのでこれまでの側務めはひと月ともたなかったと女中達が喋っていたが、僕からいわせれば、彼女はちょっとばかり激しい気質をしているだけで、決して理不尽ではない。前の晩まで紫といっていたのが朝には黄になる、というようなこともなく、彼女がなにをして欲しいのかをさきまわりして汲みとれば、怒られることはないのだった。

 夕焼けに染まる部屋の端には埃をかぶりかけた琴が立て掛けられている。勝手に埃を掃おうとすると雛牡丹が怒るので、しのびなくはあるのだが、ほったらかしになっていた。

 脚が終わると、彼女は続けて、腕を差しだしてきた。

「ん」

 赤い振袖から延びているものは、琴を奏でる娘の腕ではなく。

 永遠の春に歓ぶ、桜の枝だった。

「……っ……」

 僕は桜に魅いられたように息を飲んだ。

 動けずにいたのは二秒にも満たなかったが、雛牡丹はまなじりをとがらせ、うながしてきた。

「はよう摘み」

 枝振りから指のかたちなどが薄っすらと想像できるものの、挿し枝のようにじわりじわりと梅に蝕まれた脚とは違って、もとからそうであったようにひじからさきが、樹枝になっていた。

 真珠かと紛うほどにしらじらと潤んだ莟が、葉のない枝についている。重なりあうはなびらがほどければ、それはそれは風雅なる大島桜が咲くであろう。

 病はかわらず美しく、それゆえにむごたらしかった。

 はさみをあてがい、ぱつんと、桜の莟を摘む。

 病が転移したのは秋の暮れだった。

 琴奏者として数々の華々しい舞台にあがり、躍進するなか、雛牡丹は前触れもなく熱に倒れた。腕が焼けつくようだと三日三晩うなされた雛牡丹が、ようやっと意識を取りもどしたとき、琴を奏でるふたつの腕は桜の枝になりはてていた。

 その心境や、僕には想像を絶する。

 その晩、寝ずに廊下についていた僕は、彼女の寝所からあがった、ことんという微かな音を耳にとめて襖を滑らせた。座敷のなかに踏みこんだ僕がみたのはふとんから延びた桜の枝と、茫然とする雛牡丹のかお。紅もない彼女の貌は、逢ったときよりも幼くみえた。彼女はみずからの腕を掲げ、握ることもひらくこともできない細枝の指を確かめ、ほうと息をついた。

 泣き崩れたのは僕のほうだった。

 畳にうずくまり、背を震わせて泣き続けた。気を弛めたら、みっともなく、声をあげそうだった。

 雛牡丹がどれほどの想いをもって、ふたたびに芸能に舞い戻ったか。知らぬはずがなかった。眠る暇も惜しみ、琴の稽古に努める雛牡丹の姿は、才能という語では到底語れぬものであったのだ。僕はそれを側につき、見続けてきた。それゆえの、絶望であった。

 いっそ、才能などなければ。

 僕は悔やんだ。

 されども、とうの彼女は動かぬ腕をみて、あろうことか、笑ったのである。

 それは、怒りに燃えるような、凄みのある微笑であった。

 僕は雛牡丹の意がはじめてに推し測れず。されども彼女が泣かぬのに、側務めである僕が泣くわけにはいかないと、溢れる涙をとめるのに躍起になるばかりであった。……

 それから数カ月が経ち、ほんとうならば今晩、雛牡丹は宮廷にて琴を奏でるはずであった。されども桜の枝では琴の演奏はできぬ。

 この日のためにあつらえさせた紅緋の振袖を着つけ、雛牡丹はなにを考えるのか。

「今朝摘んだゆうのに、晩には咲かんばかりや……段々はようなりよるからに、うちは、はたちにはなれんやろうね」

 雛牡丹の言葉に堪らなくなって、僕は顔をあげた。

「そないなことはありませんよって……」

 言い掛けたがさきか、振袖のすそが跳ねあがり、額につまさきがつきつけられた。痺れる脚を持ちあげるのもつらいだろうに、彼女は傲慢な態度を崩さない。

「椿の癖に、うちのいうたことに口ごたえするんか」

「い、いえ、そないなつもりはありません……ただ」

 胸のなかに湧きあがる憐みのにおいを嗅ぎとったのか、雛牡丹は柳眉の端をつりあげる。

「花の壽命いのちは短いもんや」

 雛牡丹は静かにいった。

「散るときは潔う散る、うちかて華や。誇りたかき牡丹やで」

 僕の額をつまさきで弾き、雛牡丹はうっそうと微笑んだ。薔薇の棘が刺さるような、凄みのある微笑だ。

 ああ、僕は、彼女の凄みに惚れたのだと。

 想いだす。

 幼い時分に一度だけ見掛けた彼女の舞は、美しかった。凄絶なまでに。

 脚さばきは早瀬のように流麗で、手振りは緩やかにして鋭敏。ふわりふわりと漂うときと、はたとひるがえす一瞬のその差が、観衆の視線を集め、魂までも奪い取るようであった。息づかいひとつにまで神経を張り巡らせた舞踊は山里が華やいで咲き誇るような、それでいて、春の散りゆくような。

 言葉には到底つくせぬものであった。

 席も取らず遠くから盗み見ているようなものだったので、舞台までの距離は遠く、僕の背丈でははっきりとはみえなかったけれども、彼女の舞姿はこころに焼きついている。故に雛牡丹の邸の下働きになれたときには嬉しかったし、彼女が病に侵され舞が踊れぬようになったと知ったときには、胸が張り裂けんばかりだった。

 されども、脚も腕もなくして、なお。

 雛牡丹はその黒々とした瞳を濁らせることもなく、魂は誇らかに春のさかりを舞い踊っている。

 それが、その凄絶なまでの強かさが。

 僕の愛した、あるじであった。僕の焦がれた、華だったのだ。

「はい、あなたこそが、華です」

 僕が声をあげると、彼女は充ちたるようにきゅっと頬をもちあげた。

 彼女は華だ。華として産まれ、華として興じ。

 斯くて華として散りゆくのだ。



 ………………



 火葬の煙は青かった。

 煙突を振り仰ぎながら、僕は喪服に身をつつみ、茫然とたたずんでいた。あの麗しき雛牡丹がよもや青い煙になって散ったのだとは到底信じ難く、されども花は散ると語った彼女を想えば、受けいれざるをえなかった。

 葬儀から火葬までつき添ってくれた雛牡丹の日舞の師匠は、弥生の空にたなびいた青煙を眺め、傲慢な娘でしたでしょうと、皺のある相好を崩して喋りかけてきた。

 品のいい老婆だった。日舞の動きが、普段の振る舞いにも顕著に表れていた。だが胸の裡はそうではないらしい。

「あのはね、才能のないものを絶えず、見くだしていたのですよ。まわりのものなど、あの娘からすれば、雑草やった。彼女はそれを踏みにじって、舞い続けていたのです。悪い噂が絶えなかったことは、あなたも知ったはりますやろ」

「なにを仰りたいのですか」

 雛牡丹の側務めにする話ではない。ましてや、葬儀が終わったばかりだというのに。

「雛牡丹にばちがあたったんやと、そう、仰りたいので」

 それならば、いまさらだ。そのような誹りは、脚をうしなったときから絶えず、彼女の背に投げつけられてきた。

「そないなことはおもいません。ただ、ひとの身にあまるほどの才能があっても、あないな最期を迎えることになるんやったら」

 霜のおりた眉をわざとらしく垂らしながら、唇の端に浮かんだ蔑みだけは隠せない。

「憐れなもんやなあと」

 それは、侮蔑だ。雛牡丹の生き様、死に様にたいする。

 僕は喪服の袖のなかで震えるこぶしを握り締めた。彼女が雛牡丹の師匠でなければ、つかみかかっていただろう。

「お言葉ですが」

 殴れないかわりに声を張る。

「雛牡丹様は憐れではございません。雛牡丹様は今わの際まで、華であらせられました。華と咲き、華と散られましてからに、御情けは不要にてございます」

 ひとつ、頭をさげ、僕はきびすをかえす。

 火葬場からくだる坂には桜がならび、弥生のなかばだというのに、はやくもさかりを迎えていた。

 ざあああと強い風が吹きあがる。吹雪のようにはなびらが舞いあがり、あまやかなかおりがあたりに漂った。毒のような、頭を痺れさせる馨りだ。

 繚乱と散りゆく桜吹雪に、僕は彼女の最期を想いださずにはいられなかった。


 ……………… 


「椿、おき」

 声を掛けられ、意識が浮かびあがる。

 障子には夕焼け。暫し眠ってしまっていたようだ。慌ててはさみを握りなおして、雛牡丹の袖を取る。

 紅緋の袂から差しだされた桜は、綻びかけていた。

 先刻摘んだばかりだ。転寝してしまったとはいえども、せいぜい一時間ほどしか経っていないのに。

 いつからか、摘んでも摘んでも、莟が湧き続けるようになった。

 僕はかたときも雛牡丹の側を離れずに、彼女の花を摘み続けていたが、それでも間にあわない。視線を落とせば梅がひとつ、咲きこぼれていた。 

「申し訳のしようもありません……」

「もう、ええ」

 どきりと、する。

 雛牡丹は怒りが心頭に達したときに「もうええ」とすべてを拒絶する癖があった。

 思わず、視線をあげ、雛牡丹の貌をみた。

 彼女は頬紅を施しても隠せないほどに青ざめていた。眠れていないのだ。下睫毛のあたりに薄く隈が浮かんでいる。だが、悲しむべきか、彼女の凄みのある美貌は衰えることを知らなかった。

「ええんや」

 穏やかに雛牡丹は繰りかえす。

 ああと喉から呼気が洩れる。怒っているのではない、これは。

 はさみがするりと指からすべり落ちた。

「左様です、か」

 雛牡丹がいいといえば、いいのだ。諦めではなく、理解が、ぽつりと落ち椿のように降ってきた。

 はたとすれば、まろやかに膨らんだ紅梅と桜の莟が、日に焼けた畳を埋めつくしていた。数百、数千か。普段は摘んだ莟はすぐにまとめて棄てにいくのだが、ここ、数日はその暇も惜しかった。

 桜とも梅ともつかない馨りが、座敷のなかに満ちている。意識すれば、肺がずしんと重くなった。

 それらを吸いこみ、雛牡丹は呼吸をする。

「うちは、音曲の才能があった」

「はい」

 散らばり、積みあがる莟が、その証だ。

「うちは音曲が、好きやった」

 ため息のようだった。それは、産まれてはじめて、彼女が溢した泣き言だったのかもしれない。

 神に愛されたなど、偽りだ。恵まれた才能ゆえに、彼女は好きなことも好きにできない。才能に縛られ、才能に蝕まれている。

 それでもなお、雛牡丹は誇らかだった。

 綻ぶように、それでいて諍うように微笑んで。

 彼女はなにを想ったのか、すうと細く息を吸いこみ、歌いはじめた。

 聴いたこともない言葉の、歌だった。戦争の頃ならば取り締まられたであろう異境の響き。意味もわからぬ言語を舌に乗せ、転がして、雛牡丹はなめらかに歌いあげる。

 綺麗だった。

 鈴が、さらさらと崩れていくような。金銀砂子の降るような。

 茫然と聴きいっていると、彼女の歌がわずかにぶれた。驚いて、みればその唇の端から紅の経糸が垂れていた。血だ。僕が想わず歌うことをやめさせようとすると、彼女は緩やかに頭を横に振った。

 窓から差す夕焼けよりも赤い、紅蓮地獄の如き振袖をはためかせて、彼女は籐椅子のなかで舞い踊る。

 それは、篭に挿された花の舞だった。

 風もなく、季節を知るすべもなく。

 されども花は、咲く。華であるかぎり。

 ぽ、ぽ、とつまさきから紅梅が弾けた。まるい珠がほどけ、黄のおしべがそよいだ。梅前線は足括に差し掛かる。

 雛牡丹は脚をはねあげ、着物と襦袢のすそを割った。

 ふとももまであらわになる。硬い枝は脚のつけ根まで食いこみ、おんなのおんなたる柔らかさを、なまめかしいまでに際だたせていた。張りのある肌に絡みついた枝がいっせいに花を開く。脚を飾る梅は歓びにあまくかおった。

 明媚なる梅の宴に誘われ、続けて腕の桜が咲き誇る。

 枝が勢いよく延び、袂から畳に枝垂れた。桜の渦が雛牡丹のすわる籐椅子を中心に拡がる。爛漫の桜が映る水鏡のようだ。

 いまにも咲き誇らんばかりの病巣を摘みながら、想像したことはあった。確かにあったのだ。

 これらがいっせいに咲き誇れば、どれほどに美しいのだろうかと。

 その想像がいま、現実のものとなっていた。

 春だ。

 女の素肌から、春が溢れていた。

 雛牡丹は病に侵されながらも、歌い続ける。

 濡れた唇からはたはたと、花がこぼれた。躑躅つつじに菖蒲に矢車草。芭蕉に菊に八重椿。萩がわらえば、紫陽花が囁く。ありとあらゆる美しいものが、玲瓏たる調べをともなって、彼女の喉から溢れだす。

 花を吐き続け、くるしいのか、嬉しいのか、透きとおった雫がそのまなじりから吹きこぼれた。

「雛牡丹様」

 白皙の頬を濡らす涙に、僕は想わず触れる。だがそれは触れたさきから、はなびらになって舞いあがった。

 悲しみひとつ、歓びひとつ、いのちの終わりまでもが、華になる。

 それが彼女の病であり、雛牡丹という娘の才能だった。

「雛牡丹様……雛牡丹様」

 たまらなかった。あるじを呼びたてる声が喉をついて、とまらなかった。

「お慕いしています、雛牡丹様」


 雛牡丹は、咲いた。くるおしいまでに。


 有終の美。

 舞踊の華にして、琴の華。その極地とも称するにふさわしき、散華。それを瞳に焼きつけ、胸に刻み、憶えるのが、幾千幾万の観衆でなく。美の神髄を究めた師でもなく。この僕ひとりだということが、些か惜しくもあり。

 誉れだった。

 この華を胸に擁いて、僕は余生を過ごすのだとおもった。余生。二十にして余生か。されども他に言葉がない。彼女という華を憶えてしまえば、他になにも美しいとは想わぬだろう。吉野の桜にこころをみだされず、大宰府の梅に感嘆せず。満天の星に思いを馳せることもなく。

 これからさき、すべてに失望するであろう運命を、僕は喜んで享けいれた。

「雛牡丹様」

 はさみで裁ったように歌がやみ、しんと静まりかえった。静寂のなかに僕の声だけが響き、花に満ちた青畳を転がる。

 僕はそっと壊れ物を扱うように彼女の頬をつつみ、果敢なく重ねられた目蓋に唇を寄せた。とめどなく溢れ続ける僕の涙が、彼女に潤いをそそいでも、その瞳がふたたびに僕を映すことはない。

 あれほど盛んに咲き誇っていた花が、いっせいに散る。

 巻きあがる花吹雪のなかで僕は睫毛に触れるだけの接吻を繰りかえした。

「雛牡丹」

 彼女こそが、華だった。 

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