たわぶれの森の、銀の髪

灰崎千尋

銀の髪

 “ 黒獅子城”を背にして城下町を東に抜け、雄鶏坂おんどりざかの石畳が途切れたら“ 青の街道”に出る。それを道なりにしばらく行くと四つ辻があるが、案内板も道もない北西の方角へ外れて進む。次第に茂みが濃くなり、空は枝葉に覆われて昼と夜の判別も難しくなってくる。大抵の者はここいらで引き返すが、構わず進んで行くと獣道がぼんやり浮かんでくる。そこまで行けばもう目的地は近い。ひづめの跡を辿るように更に歩けば、突如現れるのが霧の壁だ。許しのない者はどうやってもこの霧の先へ行くことはできない。ただしあらかじめ「鈴」を受け取っていれば、それを鳴らすことで霧を消し去ることができる。

 そうしてようやく辿り着くのが、魔女の家だ。




 ハンツはいつも通り、首から下げた鈴を肌着の下へそっとしまい込んでから、大樹のにはめ込まれた扉の前で名乗った。

「師匠の使いで来ました、ハンツです」

「おはいり」

 しわがれた声が応えると共に扉がひとりでに開いて、ハンツは魔女の家に足を踏み入れた。

 魔女の家には不思議なものがたくさんある。

 見たことのない植物の鉢植えや、動物のむくろ、知らない文字の並ぶ背表紙。草の汁の匂いと、すす、かぐわしい香油。それらが奇妙に調和していて、この家は不思議と居心地が良かった。

 それでいて何度来ても見飽きない。ハンツはもう少なくない回数、こうして魔女の家に来ているが、いつも子供のようにきょろきょろ見回してしまう。いや、歳は十五なのでまだ子供には違いないのだが。

「あのじじい、また締め切り前にヒィヒィ言ってるのかい?」

 魔女は作業台に座り、何かの実を乳鉢でごりごりと潰しながらそう言った。

「建国祭でやる脚本がなかなかできないらしくて。もう既に一回目の締め切りを破りました」

 ハンツは答えながら、棚から乳鉢をもう一つ取ってきて、魔女の隣に置いた。魔女はハンツの顔をちら、と見ると、小さくうなずいて、さじ一杯分の実をその乳鉢に入れた。これはハンツがやっても良い作業ということだ。ハンツはこんな風にときどき魔女を手伝うのが好きだった。危険なものは断られてしまうが、潰したり茹でたり、単純なものはやらせてくれる。

 師匠のことは尊敬しているが、こうして手伝えることはあまりないので、ひどくもどかしく思うこともあった。

「祭か……ああ、もうそんな時期だったかね」

 魔女がそう言ったきり、二人はしばらく黙々と実を潰す作業をしていた。




 ハンツの師匠は、劇作家だ。

 偏屈だが腕は確かで、「山羊の尻尾座」という自分の劇団も持っている。(取るに足らないもの、という意味で「山羊のケツ座」にしようとしたのを、劇団員が必死に抵抗したらしい)

 歴史劇、喜劇、悲恋もの……なんでも書くが、最も得意なのは風刺劇。実際に国内であった事件や騒動を取り込んで手を加え、鋭く風刺するが絶妙に説教臭くなく、文字の読めない者にとっては新聞代わりにもなった。

 その師匠の元で、ハンツは住み込みの見習いをしている。

 孤児院育ちだったハンツは、あるとき「山羊の尻尾座」の慈善興行に招待され、演劇というものにすっかり魅了されてしまったのだ。ほとんど独学で読み書きを覚え、孤児院の少ない蔵書を読み漁る本好きだったこともあり、役者ではなく脚本に惹かれた。当時十二を過ぎた頃で、貰い手のあてもなく、そろそろどこかの店の奉公に出されるという話も出ていたのを、こっそり孤児院を抜け出して彼に直談判したのだった。

 最初のうちは全く相手にされなかったものの、夜毎現れては勝手に身の回りの世話をしたり、書き散らしや台本の整理をしたり、挙げ句自作の寸劇の台本を置いていくなどした結果、師匠は根負けした。ハンツは、歳のわりに随分と目端の利く子供だった。そして作家としても、全くの無能ではないと彼は判断した。それから間もなく、師匠は正式にハンツを孤児院から引き取ったのだ。このとき師匠は既によわい六十を超えていた。


 師匠の手伝いは面白いが、雑用がほとんどだ。書くことは作家本人にしかできない。いずれ自分もこの孤独な戦いに身を置くのだろうかと、ハンツは師匠の丸まった背中を見ながら思う。そうして今ハンツにできるこまごました仕事をあらかた済ませてしまうと、部屋の隅で自分も習作してみたりしていたが、あるとき師匠に地図と「鈴」を託されたのだった。

 それは魔女に薬をもらってこい、という話だった。ハンツは締め切りに追われるあまり師匠の気が違ってしまったのかと心配したが、古い付き合いの魔女が本当にいるのだという。占いやおまじないの類ならまだしも、魔法みたいなものが実在するとは、ハンツはまだ信じられなかった。

「お前は賢い子だ、だから行けば全てわかるだろう。

 他の者には、今日はお前に暇を出したことにする。この鈴は決して人に見せてはいけないし、道はなるべく一度で覚えて、地図は燃やしてしまえ。

 くれぐれも、人に知られるな」

 そう言い聞かせる師匠の顔があまりに真剣だったので、ハンツはこくりとうなずいて、魔女の家へ走った。


 地図はどうやら師匠の手書きで、その走り書きの通りに明るい街道を外れ、森の奥深くへ入っていった。ハンツはまだ見たこともない魔法よりも、闇に潜む獣の方がよほど恐ろしかったが、不思議と森は静かだった。やがてどこまでも続く霧を前にして、いよいよこれは本当のことらしいと覚悟を決めて、「鈴」を鳴らした。

 「鈴」は高くまろく、この世とは思えない響きをしていた。誰もいない舞台の上でパァンと手を打ち鳴らしたときに似て、天に地にその震えが伝わるような。手のひらにころりと転がる鈴の音とはにわかに信じられないくらいの。

 その響きに酔ってしまったように呆然としていると、いつの間にか晴れた霧の先に、一人の老婆が立っていた。

「いつまでそこに突っ立っているつもりだい」

 老婆は言葉の割に優しい声音でそう言った。老婆は、森の緑に夜の群青をひとすじ混ぜたような深い色のローブを纏っていた。髪は白く、灰色がかった青い瞳がハンツを試すように見つめている。

「さぁ、まずは中へおはいり。初めてで色々びっくりしたろう」

 ハンツはそっと背中を押す老婆の手の温かさに、少し安心したのだった。


 促されるまま、老婆の向かいに座って温かいお茶を飲むうちに、ぼんやりしていたハンツの頭もはっきりしてきた。小さなカップに入ったお茶は甘く、鼻に抜ける香りが爽やかだった。ハンツがつい何度もお茶の香りを嗅いでいると、

「少し気付きつけになるハーブを使っているだけの、ただのお茶さ。お前をおかしくするようなものは入っていないから安心おし」

と老婆に笑われた。

「あ、疑っているわけじゃなく……おいしくて」

「そりゃよかった」

 老婆はそう言うと、興味深そうにハンツを上から下まで見回した。

「話には聞いていたが、本当に小さな弟子をとったんだねぇ、あのじじい」

 ハンツはそれを聞いてようやく自分の用向きを思い出し、慌てて背筋を伸ばすと丁寧に名乗った。

「申し遅れました、ハンツと申します。いつもの薬をまた分けていただけないかと、あ、私の師匠は─」

「いやいやそんなにかしこまらないでおくれ。ハンツと言ったね。私のことは魔女でもばあさんでも何とでも呼ぶといい。偏屈じじいの薬ならそろそろ来る頃だと思って用意しておいたよ。ちょっと待っておいで」

 魔女は奥の部屋に引っ込んでごそごそとやり、やがて薬瓶を手にして戻ってきた。

「塗るのは一日三回までだ、それ以上は逆に腫れ上がっちまうからね。全体に塗ってから薄布でぐるぐる巻いておやり。それで少しはマシになるだろう」

「あの……これはいったい何の薬なんです?」

 薬効を説明する魔女におずおずとハンツが尋ねると、皺の刻まれた顔の中のつぶらな瞳をぱちくりとさせ、

「なんだいあのじじい、何の薬かも教えずにおつかいさせてるのかい。呆れたやつだね」

と、たいそう憤慨した。ハンツは自分の師匠がこんなにも「じじい」と連呼されるのを聞いたのは初めてのことで、心の臓が縮まる思いだった。

 魔女は気に食わなさそうにフン、と鼻を鳴らした。

「これはね、腰の痛みを和らげる湿布薬だよ。湿布なら町医者でもくれるだろうがね、“ お隣さん”から分けてもらう薬草を混ぜてるから効きが違うのさ。あのじじい、私ほどじゃないが老いぼれてきて腰を悪くしてるだろう。ここまで自力で来るのは骨だし、最近はカササギに送らせていたけど、あの子は少しずつしか運べないからね、お前を寄越すことにしたんだろうよ」

「……“ お隣さん”?」

「この大樹の奥の森に棲む、妖精や精霊のことさ。私からしたら彼らは“ お隣さん”なんだよ」

 魔女はそう言うと、出会ったときのような目でハンツを見つめた。ハンツはそれをじっと見つめ返した。しばらくして、魔女はほうっと息を吐いた。

「あのじじいの、人を見る目は私も信用してるんだ。だから私も、お前を信じるよ、ハンツ」


「魔女というのはね、呪文を唱えれば何でもできるというわけではないんだ。妖精や精霊の言葉を理解し、彼らの力を少し借りることができるというだけ。それだけだが、それができる人間はそう多くない。

 私はその力を多少持っていたから、彼らに導かれてここに辿り着き、先代の魔女から学んで、ここの魔女になった。他のところは知らないが、ここの魔女はこの大樹の奥にある“ たわぶれの森”と彼らが呼んでいる領域を、何も知らない人間から守る番人でもあるのさ。

 “ たわぶれの森”は、人間と彼らの世界が交わるあわい。彼らの出入り口の一つ、仮の庵。並の人間では彼らの気配の濃さに酔い、惑い、狂わされる。遠い昔の約束で、無用な争いを避けるためにも、この森が人に侵されることがあってはならない。

 とはいえ魔女も種族としては人間だ、この森に一人きりでは生きられない。信用に足る人物にだけ『鈴』をわたして、薬やまじないを生活に使うものと交換したりして、僅かな交流をしながら暮らしているんだよ」

 昔話を語るようにそこまで話すと、魔女はお茶を一口啜った。

 ハンツはその話を咀嚼するように少しの間うつむいて考え込んでいたが、やがて顔を上げて言った。

「俺のことを信じてくれて、ありがとうございます。俺は、秘密を守ります」

 それを聞いて、魔女は嬉しそうに破顔した。

「頭の良い子は好きだよ。ようこそ、“ 森の魔女”の家へ」


 それからというもの、ハンツは師匠の使いで定期的に魔女の家を訪れることになった。そのうちに、姿を見たり声が聞こえるわけではないものの、“ お隣さん”の存在を否応なく思い知ることが何度もあった。お茶のカップに綺麗な花びらを入れられたり、右足と左足の靴紐を結ばれてこけそうになったり、ボタンを一つ盗られたり。森の魔女は、「ずいぶん気に入られたもんだね」と笑った。




 あれからもう三年になる。

 ハンツが初めてこの家を訪れたのも、師匠が建国祭でやる芝居の脚本を書いている最中だった。この国の始まりを描く芝居なので筋は毎年同じなのだが、師匠がその脚本家に任命されてからは「全く同じでは芸がない」と少しずつ手を加え、演出や見せ方も変えているのだった。

「あのじじいの偏屈にも困ったもんだね」

「みんなも楽しみにしていることですから」

 森の魔女は作業を終えた乳鉢を井戸水で洗い終えると、いつもの湿布薬をハンツに手渡し、それからふぅと一つ息を吐いた。

「お前に、会わせたい子がいるんだ」

 そう言うと、魔女はハンツを奥の物置部屋へ連れて行った。そこは危険なものもあるからと、普段は入れてもらえない部屋だった。籠や樽、麻袋などが床にならんでいるばかりで、人の気配があるようには思えない。

 ハンツが不思議に思っていると、魔女は彼には聞き取れない言葉で何事か呟いた。すると壁の一部が砂のように崩れ、小さな扉が現れた。ハンツはぎょっとして魔女を見たが、魔女の方は彼を気にする余裕も無いようで、ただ黙ってその扉を開けた。

 扉の奥は、魔女の守ってきた“ たわぶれの森”だった。

 魔女のような力のないハンツでも、葉の擦れるような笑い声が聞こえ、何者かの気配に肌が粟立ち、息をするのが難しく、魔女の後をついていくのがやっとだった。それでも魔女は振り向きもせず、歩みを止めない。ハンツは戸惑いながらも歩き続けていたが、突然まぶしさに目が眩んだ。


 そこは広い泉だった。

 それまで枝葉に遮られていた陽の光が水面に降り注ぎ、揺れる度に反射している。しかしまばゆいのはそれだけではない。ばしゃりと水音がして起き上がる人影がある。

 一糸纏わぬ肌は透き通るように白く、うっすらと薔薇色に染まった頬には長い睫毛が影を落としている。通った鼻筋の下には雫のしたたるあどけない唇。そしてあらわになった額を丸く縁取り、ほっそりとのびる首筋、まだ少し水を溜めた鎖骨、膨らみのない胸から腰にまとわりつくようにうねるのが、月の光も羨むような美しい銀の髪だった。

 それは少年、のように見えたが、その下腹部にはあるはずのものがない。


 はっとハンツが息を呑んだのとほとんど同時に、彼は魔女とハンツに気が付いて、無邪気に緋色の瞳を瞬かせた。

「おばあさま、それはだあれ?」

 その声は甘く幼い。ハンツは霧の前で鳴らすあの「鈴」に似た響きだと思った。一言聞いただけで頭がふわふわとしてくる。そんなハンツの背を魔女の指がすっとなぞると、途端に呼吸が楽になり、意識もはっきりとしてきた。

「慣らしていたとはいえ無防備な体ではまだ難しかったか、すまなかったね」

 魔女はハンツに耳打ちで謝罪し、それから泉の中に佇む彼に向き直った。

「お前の友達になる子だよ、ハンツという」

「おともだち?」

「そうさ」

「ハンツもようせいなの?」

「ちがうよ、人間さ」

「じゃあまじょ?」

「いいや、魔女ではないが人間だよ」

「わあ!」

 ハンツは自分を置いてけぼりで進む会話に混乱するばかりだったが、彼は嬉しそうに水面ではしゃいだ。それがあんまり美しいので、ハンツは妖精が見えたらこんな感じなのだろうかとぼんやり思った。その姿がだんだん大きくなる。駆け寄ってきているのだと気づいたときには、もう目の前にいた。

「まじょじゃないにんげん、ぼく、はじめて!」

 ぎゅっと彼の手がハンツの手を包んだ。

 それは魔女よりも少しひんやりしていたが、たしかに血の通う者の温もりだった。それを感じたのを最後に、ハンツは意識を失った。


「何から謝って、何から説明しようかね」

 森の魔女がこんなに申し訳無さそうな顔をするのを、ハンツは初めて見た。今日は初めてのことがたくさんありすぎる。これ以上は勘弁してほしいなと、ハンツはお茶を啜りながら思った。

「まず何の策もせずにあの子に会わせたのを謝るよ。悪かった。でもお前はこの家に来るようになってもう三年になるから、“ お隣さん”にも体が慣れてきているだろうし、素の状態であの子に会わせてどれくらいもつか見ておきたかったんだ。しかしいきなり触れてくるとは……」

 魔女は寝台から上体だけ起こしたハンツの頭を撫でながら、「お前はつくづく、 彼らに気に入られやすいんだねぇ」と呟いた。ハンツはとりあえず、一番気になっていることを尋ねることにした。

「……彼は、何者なんです?」

 森の魔女は自嘲するように笑ってから、ため息をついた。

「これが私にも、よくわからないんだ。色々調べたがはっきりとしたことはわからない。けれど極稀に生まれるらしい、“ あちら”とも“ こちら”ともつかない者がね。

 妊婦がうっかり精霊王のガウンの裾を踏んづけたのかもしれない。妖精の取り替え子チェンジリングに失敗した子供なのかもしれない。神性の気まぐれな祝福かもしれない。しかしとにかくあの子は混ざって生まれて、ここに辿り着いた」

 魔女は赤ん坊を寝かしつけるときのように、ハンツの肩をぽん、ぽん、と一定の感覚で優しく叩いた。ハンツはその扱いを不満に思ったが、魔女の顔がやけに寂しそうに見えたので、黙って受け入れることにした。

「あの子はどちらでもあって、どちらでもない。“ お隣さん”に尋ねても、そう答えられてしまったよ。人間と彼ら。男と女。陰と陽。違うから補い合えるものを、あの子はどちらも持ってしまっているから、一人ぼっちなのさ……人里ではあの子の人間ではない力が良くないものを撒き、彼らの世界にいけば人間としてのあの子が蝕まれる。だからあの子は、あわいであるこの森でしか生きられない」

 それにね、と魔女は手を止めて、ポットからもう湯気の出ないお茶を自分のカップに注いで、少し口にした。

「私が“ 彼ら”に導かれてここへ来て、先代を継いで魔女になったって話を覚えているかい?」

 ハンツは黙ってうなずいた。

「この森の魔女の交代はそろそろのはずなんだ。色々誤魔化して伸ばしてきた命だけれどね、正直もういつ尽きてもおかしくない。だから私のように導かれてくる者を待っていた。しかし来たのはあの子だったってわけさ。

 あの子は魔女には、番人にはなれない。あの森はもうおしまいかもしれない。けれどあの子が少しでも長く生きられるように、ハンツ、お前にここを守って欲しいんだ」

「俺には力がないのに?」

「そっちは出来得る限り私が教えておくよ。だが人間としてのあの子には、お前のような賢い、そして善き人間が必要だ」

 ハンツは自分にかけられた期待と信頼に押しつぶされそうだった。しかし魔女の言う通り、彼は賢く善良だったので、そして少なからず彼にまた会いたいと思っていたので、「わかりました」と魔女の目をしっかり見て答えた。


「ところで彼の名前は何ていうんです?」

「“ 銀の髪”だよ。ここへ来るまでに“ 彼ら”にそう名付けられたんだとさ。まったく物事が全部それくらい単純だったら良かったんだがね」




 家に戻ったハンツをひと目見た師匠は、眉間に刻まれた皺を更に深くした。

「お前、魔女に何か面倒事を頼まれたな」

 師匠は何でもお見通しだった。しかし“ 銀の髪”のことは師匠にも秘密だと、ハンツは魔女にきつく言われていた。

「わしにも言えぬことか」

 黙ったままのハンツへのその声音は、怒りよりも諦めが強い。

「すみません。師匠には迷惑のかからないようにしますから」

「当然だ」

「ただその、少し、森へ行くことが多くなってしまうのをお許しいただければ、と……」

 ハンツは魔女から預かったいつもの薬瓶と、一冊の本を差し出した。師匠はその本を開いて、最初のうちはぺらり、ぺらりと適当にページをめくっていたが、あるところからにわかにその目はぎらつき始め、一心に読み耽りだした。嗚呼これは良いネタを見つけたときの顔だと、ハンツは胸をなでおろした。

 切りの良いところまで読み進めたのか、師匠は本から顔を上げると心底悔しそうな顔で「まったく食えん魔女だ」とぶつくさ言いながら、書き物机に向かっていってしまった。一応これは、渋々の了承と見て良いだろう。


 それから何度か、ハンツは“ 銀の髪”に会いに行った。

 また失神するのは面倒なので、森の魔女も色々と準備をしていた。“ お隣さん”たちの影響を受けにくい護符を持たせられ、ハンツの「鈴」でも森への入り口が開くようにし、ハンツには見えないがお目付け役の獣も側に控えているらしい。“ 銀の髪”には見えるようで、彼はときどきその獣を撫でるような仕草をした。ハンツはいったいどんな獣なのかと尋ねたこともあったが、「白くて、もふもふで、とっても口がおっきい」と聞いてそれ以上知るのをやめた。

 “ 銀の髪”の心は幼かったが、阿呆ではなかった。水を吸う海綿のように、教えたことはするすると覚え、この国の文字を読み書きできるようになるのにひと月とかからなかった。

「“ 銀の髪”はすごいな。今に俺なんかよりずっと賢くなるよ」

 ハンツがこっそりと師匠の本棚から持ち出してきた戯曲や資料の本を、“ 銀の髪”は草で編んだ寝床に寝転びながら読んでいた。ハンツがその銀糸よりも美しい髪を手で梳いてやると、“ 銀の髪”は甘えてくる猫のようにその手に頭を擦り付けてくる。見た目の歳は自分と同じくらいのはずなのに、ハンツにはそれがやけに艶かしく見えた。

「あんまり賢くなると遊べなくなっちゃうって、泉の友達が心配してるの。ハンツとも遊べなくなる?」

「遊べるよ、大丈夫。少なくとも大人になるまではね」

「大人ってもうすぐ?」

「どうかな、“ 銀の髪”と俺の時間が同じなのかわからない」

「いや。遊べなくなるんなら、僕もハンツも大人にならない」

 ぎゅう、と“ 銀の髪”はハンツの首に抱きついた。優しく抱き返してやると、花の蜜と乳の混ざったような香りが、彼の首筋から匂い立つ。

「この国では十七歳で成人だから、俺はあと二年で大人だ。大人になったら遊べないけど、ちゃんと会いに来るよ」

「だめ。おばあさまにお願いするもん、ハンツが大人にならないように」

「森の魔女は、そんなお願いきいちゃくれないよ」

「……僕はまだ名前をもらって五ヶ月しか経ってないのに」

 “ 銀の髪”の話では、彼の最初の記憶は名付け親の精霊らしい。長い髭のそれは、彼にあまりにも率直な、しかしそれ以上はないとも思える名前を付けると、すぐさま森の魔女の元へ運んだのだという。そのときにはもう今と同じような姿で、どこでどう生まれたのか誰も知らない。それが今から五ヶ月前、ハンツと出会うわずか一ヶ月ほど前なのだそうだ。

「そうだな。たった五ヶ月でも、お前はもうこんなに賢くなった」

「ハンツ、誤魔化しちゃいや」

 “ 銀の髪”の声が涙を含みだした。ハンツは苦笑して、その額に唇を落とした。

「俺は大人になりたいんだ、“ 銀の髪”。大人になって、俺の師匠みたいな劇作家になる」

「劇作家って?」

「これみたいな、お芝居の本を書くんだよ。他の本と少し違うだろう」

 ハンツは積まれた本の中から戯曲本を取り出し、開いてみせた。

「これが役名とその台詞、こっちがト書き。役者が割り当てられた役になりきって、物語を表現するんだ。音楽が付いたり、劇場や屋外でもやったりする」

「ごっこ遊びってこと?」

「近いけど、それを遊びじゃなく、本気で演じるんだ。芝居って凄いんだよ。上手くやれば何にでもなれるし、どこへでも行けるんだ。観ているお客もそこへ連れていける。お前にも、うちの劇団の芝居を観せてやれたらなぁ……」

 ハンツがもっと無邪気で愚かであったなら、“ 銀の髪”をこっそり森から連れ出して劇場へ忍び込んでいただろう。しかしそうであるなら森の魔女は“ 銀の髪”をハンツに託しはしなかったし、彼は今日に至るまでに“ 銀の髪”を本当に大事に思うようになっていたのだ。

 “ 銀の髪”はすっかり拗ねてしまって、膨らんだ頬はすもものようだった。困ったハンツは、ううむと唸ると、おもむろに先程の戯曲本を手に取り立ち上がった。それから一つ深呼吸をして、腹にぐっと力を入れ、その台詞を読み上げはじめた。



『おお、あれは何という花だ?

 薔薇よりもかぐわしく、百合よりもたおやかな、

 そのからだにいったいどんな蜜を隠しているのだ


 水面よ、あの美しい姿をその身に映しておきながら、

 とどめておかない理由がどこにある

 それをただ眺めながら我が身朽ち果てようとも、後悔はないというのに


 月の女神も恥じ入るあの乙女の名を!

 誰ぞ名を知る者はいないのか! 』



「……俺は、役者志望じゃないからな、本当は、もっと良いんだよ」

 頭をぽりぽり掻きながらハンツがそう言っても、“ 銀の髪”は目を見開いたまま、ぽかんとしていた。だがやがて、その瞳を赤く赤く輝かせて叫んだ。

「すごい! ハンツ、ハンツじゃないみたいだった! そっか、お芝居ってすごいんだね!」

「いや、その、ありがとう。でも本当に、俺の演技は大して……ごめん、もうちょっと上手くやれたら良かったんだけど」

「ううん。ハンツ、素敵だったよ」

「練習したら、きっとお前の方が上手になるよ、“ 銀の髪”。何になりたい? 何処へ行きたい?」

「僕? 僕はね……」

 そこまで言って、“ 銀の髪”は口をつぐんでしまった。ハンツが不思議に思っていると、“ 銀の髪”は眉を下げて少し微笑んだ。

「僕は、僕が誰だかわからないから、何になりたいかもわからないな」

 嗚呼自分はいま、彼に余計なことを気づかせてしまったかもしれないと、ハンツは後悔した。いずれわかることだとしても、こんなに早く知るべきではなかったのではないか。

 “ 銀の髪”は、ハンツには見えない者たちと戯れるようにくるくると踊りながら、彼に言った。

「ねぇハンツ。いつか僕の役を書いてくれない? 僕はたぶん、そういうのを見つけるのは下手っぴだから」

「書くよ、“ 銀の髪”。いつになるかわからないけど、必ず」

「きっと、きっとだよ」






 それから後、魔女の魂が森へ還り、ハンツの師匠が息を引き取ってからもいくつも月日を重ねた頃。ハンツが“ 銀の髪”に役を与え、国を揺るがす大芝居を打つことになるのだが、それはまた別のおはなし。

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