泡のように溢れる幸せを歌いましょう

 がらんとした教室の自分の席で、佐上はぼんやりと手の中にある物を眺めていた。使い込んだ携帯電話に付けている、紫貝のストラップ。それはあの夏休みの夜に、初めて会った水波から貰ったものだった。

 紫貝を指先で弄りながら、この選択は果たして正しかったんだろうか、と自問する。先ほどの、泣きそうになりながらそれでも微笑んで有り難うと言った西村の顔が頭から離れない。きっと、今頃泣いているのだろう。

 ……とにかく帰ろうと、罪悪感を振り払って佐上は立ち上がった。鞄を持ち上げ、教室をゆっくりとした足取りで出る。

 そんなことを今更考えても過ぎてしまったことなのだ。自分はあの時確かに考えて、自分自身で判断した。後悔はない。……西村のことは、少しばかり気になるけど。

 明日から彼女とどう接していくのか、それは後で考えようと佐上は思った。今はあまり考える気にはなれなかった。

 廊下を歩き、階段を降りながら水波は、と考えを巡らせる。水波は、おそらく西村の心情を知っていたのだ。それで、西村に相談されたか一人で判断したかで自分から距離を置こうと思った。そんなところだろう。

 取り敢えず、明日からは水波には自分から話に行こうと思った。秋山に冷やかされたっていい、また彼女に上手くかわされたっていい。拒まれたって……いや、それはさすがにへこむだろうが。……とりあえず、文化祭前のように話せれば、と佐上は思った。




 玄関から外に出る。――その時、佐上の耳に音が届いた。

「――!」

 聞き覚えのある旋律。忘れることのない歌声。思い出す、夜の海。……誰なのか、などと考える必要は無かった。視線を移すと、ピロティの隅の階段に、小さな影が一つ。薄闇に溶けてしまいそうなシルエット。耳を掠める彼女の声に、ぞくりと背が震える。この歌を前に聴いた時はどこか哀しげな、けれど幸せを含んだ雰囲気だったのに、今の彼女の歌声は、あの時と違って酷く哀しげに聴こえた。

 歌の終わりに近付くのに気付いて、佐上は足音を立てないように気をつけながら彼女に近付く。背を向けた彼女の背後で立ち止まり、彼女が歌い終わるのを待った。

 水波が最後の一音を紡ぎ終えて少しした後、佐上はなるべく平静を装って声をかけた。

「――何、やってんだ? こんな寒いところで」

「……考え事を、ね」

 一拍置いて返って来た声は、やはり少し掠れていた。

 水波が振り返る。いつものあのあまり感情が読み取り難い顔。だが、その瞳はどこか揺れているように思えた。

 彼女はちらりと佐上の背後に視線を移し、一瞬意外そうに目を瞬かせる。

「……一人、なんだ?」

 ぽつり、と落とされた小さな呟きが耳に入り、佐上はどきりとした。動揺を抑えられないまま水波の顔をまじまじと見てしまう。

「っ、見たのか?」

「――何を?」

 佐上の問いに彼女は少し口角を上げて小首を傾げてみせた。質問に質問を重ねられ、佐上は言葉に詰まる。先ほどの告白現場を見られていたのかどうか気にはなったが、自分の口から説明するのははばかられた。

 なんでもない、とごまかして、佐上は話題を変える。

「水波は誰か待ち?」

「いや特には。ただ、ぼーっとしてただけだから」

 そろそろ帰ろうかな、と水波は立ち上がる。一人で歩き出すその背を追って、佐上はさりげなく彼女の横に並んだ。離れられるかと危惧していたが、彼女が歩みを速めることは無かったので心の中で安堵した。

 昇降口前から校門を出てもしばらく無言で歩いていた二人だったが、先に沈黙を破ったのは水波だった。

「悩み事でもあるの?」

「え?」

「難しそうな顔してるから」

「あー、あぁ。だいぶ解決したけどな」

 いまいち整理がつかないとこぼした佐上に、そう、と水波は掘り下げるわけでもなくただ相槌を打つ。

 だからだろうか。気がつけば、佐上は考えていた事を口に出して自ら話題を続けていた。

「なぁ、もしも。友人だって思ってた人に告白されて、断ったなら。その後また前みたいに話せると思うか?」

「!」

 佐上の回りくどい質問に、水波は何かを察したのか驚いて顔ごと視線を彼に向ける。そして、彼女にしては珍しく感情が入り混じったようななんとも言えない表情を一瞬見せて、俯いた。彼女の横顔が髪に隠れて、その表情は佐上から見えなくなる。

「……そうだね。前みたいに、とはいかないんじゃないかな」

「……」

「でも、そうだね、私なら。私だったら、前みたいに話せるように努力はすると思うよ。……まぁ。告白する前に大抵諦めてるけど」

 水波の意外にも弱気な意見に、今度は佐上は驚いた。彼女は佐上が口を開くよりも早く顔を上げ、茶化すようににやりと笑った。

「告白されたんだ?」

「……」

「断ったの? 付き合っちゃえばよかったのに」

「……好きでもないのに付き合うのも何か悪いだろ。それに」

「それに?」

 言い掛けて、佐上は口を噤んだ。水波に続きを促されたが、何でもないと目を逸らす。その様子を見て、彼女はゆっくりと一度瞬きし、呟くように言った。

「――好きな人、いるんだ」

「……」

 無言は肯定と同義だった。佐上の沈黙にそっか、と彼女は笑うと、不意に大きく一歩前に踏み出した。

「私もいるよ、好きな人」

「――え」

 突然の告白にどくり、と心臓が嫌な音を立てる。彼女がそんな話をするとは思わなかったからだ。

「……前の学校の奴?」

「ううん、今の学校の人。……優しい人だと思うよ」

 彼女の、好きな人。誰だろうと思考を巡らせる。秋山かもしれないし、クラスの誰かかもしれない。それとも、他クラスか。

「叶うと、いいな」

 口から出たのは、思っているような、全く思っていないような、中途半端な言葉だった。佐上は言葉足らずな自分が嫌になった。

「……そうだね。叶うと、いいね」

 どこか他人事のような水波の相槌で、会話は途切れた。再び訪れた沈黙は、通学路の途中にある踏切の近くまで続いた。

 踏切の手前に来たところでタイミング良くカンカンと音が鳴り始め、警報機の赤いランプが交互に点滅し出した。遮断機が下りたので当然、二人は立ち止まる。

「ねぇ、佐上君」

 規則的に鳴り響く踏切警報機に電車が迫る音が重なり、少しずつ大きくなっていく。その雑音に掻き消されてしまいそうな小さな声で不意に呼ばれ、佐上は水波に目を向けた。

「何……」

 佐上の半歩前で立ち止まっていた水波は、一度ゆっくりと肩を上下させると振り返って柔らかく微笑んだ。

「あのね、――」

 水波の唇が動くのと同時に電車が通り過ぎた。音に掻き消されたせいで、佐上には彼女の声は聞き取ることができなかった。しかし――

「……今、なんて」

 少しの沈黙の後、佐上はやっとのことでそれだけ問うた。浅い呼吸を繰り返してようやく出た声は、酷く掠れていた。動揺を滲ませる佐上を知ってか知らずか、水波はただ微苦笑を浮かべてみせただけだった。そして、立ちつくす彼を置いて軽やかに歩き出す。

「さぁ、何て言ったんだろうね。……わからないなら、そのままでいいよ」

 どこか楽し気に、けれど少し悲し気に言って線路を渡る彼女の背中を眺め、佐上はその場に立ち尽くしたまま頭の中で考えを巡らせる。勘違いかもしれない。自惚れなのかもしれない。でも、どう考えても、聞こえなかったさっきの言葉は。彼女の唇の動きは。

 しばらく考え、思いついた自身が取るべき次の行動に躊躇った後、佐上は彼女に追いついた。内心速まる鼓動を気にしながら、それでも何でもないように取り繕って彼女の手をすくい上げるようにして握った。

「!」

 水波はびくりと肩を震わせ、勢いよく振り向いて酷く驚いた表情を佐上に向ける。佐上が何も言わずに見返すと、今度は視線を逸らし黙って俯いた。

 横髪の間から覗くその耳が赤く見えるのは、きっと空が赤いからとか、もう日暮れ後だからだとか、肌寒くなる季節だからとか、そんな理由ではないのだろう。そして彼女のそれと同じくらいに、佐上の顔も紅潮していた。

 握った手が少し強く握り返される。頭を佐上の方に傾け、水波は先程と同じ言葉をもう一度呟いた。微かに震える小さな彼女の声は、今度ははっきりと佐上の耳に届いた。

「好きだよ、佐上君」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

人魚の歌 和咲結衣 @wazakiyue

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ