あなたがくれた優しさなら偽善でもよかった
「俺は……」
それに続く言葉を聞いてしまわないように、水波はそっと教室のドアから離れた。なるべく音を立てないように、室内にいる二人に気づかれないように足を速めて薄暗い廊下を進む。
ただ、忘れ物を取りに来ただけだったのに。あんな場面に遭遇してしまうなんて、思ってもみなかった。なんというタイミングだろう。
……聞きたくなんて、なかったのに。震えそうになる唇を噛みながら、水波は昇降口へと急いだ。
階段を駆け降り、下駄箱で上靴からローファーに履き替えたところで水波はようやく足を緩めた。ふらふらと外に出て、階段の隅に半ば崩れ落ちるように座る。グラウンドから部活動に勤しむ学生の声が聞こえていた。秋の少し冷たい風が、水波の頬を撫でた。
――あーあ、終わっちゃった。
声には出さずに唇だけ動かして、水波は自嘲する。泣きたい筈なのに、どうしてか涙は一粒も出てこなかった。冷たく重苦しい感情が胸の中に広がっていくのを自覚しながら、水波は膝を抱えて目を閉じる。
思い出してしまうのは、自分が彼と出会った日から今までの事。口に出すことはないけれど、あの夏の夜から、どこか運命的なものを感じていた。
***
人気のない夜の海に行って歌うことは、いつからか水波の習慣になっていた。だから引っ越すその直前の夜も、当たり前のように海に行って、歌って。誰かに歌を聞かれてしまうなんて思ってなかったから、人の気配に気付いた時は内心本当に驚いた。相手は知らない人だったけれど、歳が近そうで、何となく話しかけやすそうな雰囲気で。彼―佐上と話している短い時間の中で、水波はふとこう思った。
――ああ、きっと私は、この人を好きになる。
それは、あまりにも馬鹿らしく、勘というには拙すぎるものだったけれど。でもその時確かに、水波はそう直感した。
一夜限りの邂逅にはしたくないと思った。だから、あえて名乗らずに「人魚」だと名乗り、あの日たまたま持っていた紫貝のストラップを渡した。彼が自分を忘れないように。そして自分自身が彼を、彼に対する気持ちを忘れないように。
まさかすぐに再会できるだなんて自分でも思ってもいなかった。初めて踏み入れた教室の窓際にいた佐上の姿を目にして、これは本当に運命なのではないかと、思ってしまった。
佐上も自分のことを覚えていてくれて、一番最初に自分に話しかけてくれて嬉しかった。その上、自分があの日渡したストラップを携帯電話に付けてくれていたことに気づいた水波は舞い上がらずにはいられなかった。「転校生」という肩書を最大限に利用して、彼の隣を獲得できたような気分になっていた。
だから、気付かないふりをしていたのだ。自分が佐上と話す度に向けられる刺さるような視線を。西村が自分に向ける視線、そして彼に向ける視線……それらの意味に気付いていながら、まるで気付かないとでも言うように振舞っていた。
西村の気持ちは解らないわけではなかった。以前から想いを寄せていた相手、そこに突然現れた転校生。初対面だろうに、すぐに仲良くし出す光景を見れば、早々に恋敵と認識されるのもおかしくはない。
西村について、同じ文化祭の実行委員になり関わる中で、とても女の子らしい人だと水波は感じていた。不器用な自分とは違って表情が豊かで、可愛らしくて、誰からも愛されるような人。優しいけれど気が弱くて、手を差し伸べたいと、守りたいと思ってしまうような印象を受けた。自分が持っていない女性らしさを持っている彼女の事を、羨ましいとも、妬ましいとも思っていた。
「レイ、ちゃん……お願いが、あるの」
彼女がそう切り出したのは、文化祭の前日。男子二人が忙しなく教室と本部や職員室を行き来し、残った女子二人で現場監督を任されていた時。周囲の喧噪に紛れるように、西村は隣に居た水波に囁いた。
「わたし、前から……佐上君のことが、好きで」
唐突な告白。しかし、水波は動じることなく心の中でああ、やっぱり、と相槌を打った。何となく、いつかは彼女からそう切り出される時が来ると予感していた。
「レイちゃんもきっと、わたしと同じなんだって思う」
「……」
確信めいた彼女の言葉に、水波は答えなかった。けれどその無言の沈黙が、肯定の意味を含んでいた。
「……だから、あの、お願いがあるんだけど」
――彼に、近付かないでって? これ以上関わらないでって?
続きの言葉を予想して、水波は自分の手をきゅっと握りしめる。
「……わたしに、時間を下さい」
その申し出に、水波はそこで初めて西村に視線を向けた。どういう意味か、と水波が目で問うと、彼女は頼りなさげに視線を彷徨わせた。
「告白したいの。たぶんだめだけど、でも想いだけでも伝えたい、から」
そのために時間が欲しいのだ、と西村は訴えた。要するに、一定期間彼から離れて欲しいということだった。
駄目、だなんて。そんなの嘘だ。こんな可愛い人を彼が放っておくわけがない。そう思うと同時に、この子はなんて卑怯なんだろう、とも思った。気に入らない、諦めてほしい。敵意をむき出しにしてストレートに言ってくれれば、真っ向から対立する事ができたのに。
失恋を悟ったことによる絶望と、西村に対する怒りとも妬みともつかない感情。その二つが水波の中で渦巻き、ずくりと胸に傷を作る。
心は壊れてしまいそうに震えていた。しかし、水波の唇から零れた声は酷く落ち着いていた。
「……好きにしたらいいよ」
水波の答えに西村は嬉しそうな、けれど悲しそうな顔をして、ごめんね、有り難うと呟く。そして丁度帰って来た彼の姿を見止めると嬉しそうに駆け寄って行った。ひとり残された水波は楽しそうな二人から目をそらして自分の作業に戻る。
作業に没頭しながら、水波は少しずつ佐上から距離を置こうと思った。きっと西村の想いは受け止めてもらえるだろう。そしてきっと彼女は、必ず今以上に自分のことが邪魔だと感じるようになるだろう。だから、そうならないように。これ以上、自分自身が傷付いてしまわないように。少しずつ離れていけばきっと彼も不審に思わない。
……自分の、ために。そう心の中で呟いて、水波は微かに口元を歪めた。
文化祭が終わる。少しずつ日常の雰囲気に戻って行く周囲に紛れて、水波は彼から離れて行った。何かと理由をつけて何処かに行ったり、ほかのクラスメイトと話したり。どうしても回避できない時はなるべく目を合わせないようにして。
……本心とは全く逆の行動を取って空回る自分に嫌気がさした。自分から関わらないようにしているくせに、教室のどこかから聞こえてくる彼の声にいちいち反応して、楽しげに笑う彼の様子を遠くから眺めて、彼と目が合いそうになったらさりげなく逸らして。……本当に、何がしたいんだろうと心の中で何度も自分を嘲笑した。
そしてこの日も、水波は佐上と関わらないよう注意を払いながら過ごしていた筈だった。
「水波さん」
昼休み。昼食を済ませ、教室を出て手洗いに行った帰り。教室の中に入ろうとした所を呼び止められて振り向くと、他クラスの女子生徒がこちらに向けて手を振っていた。彼女は水波と同じく文化祭の実行委員だった一人だ。委員会の時に何度か顔を合わせており、文化祭が終わった後も校内ですれ違ったときは挨拶するなど交流が続いている。
「どうしたの?」
「ちょうど良かった! 秋山君、教室にいたら呼んできてくれない?」
呼びかけに応じて彼女に近寄ると、彼女は水波に手を合わせてみせた。
呼び出す相手の名前を聞いて、水波の心臓が嫌な音を立てる。秋山には、今あまり近づきたくないと思っていたのだ。決して秋山に対して悪い印象を持っているというわけではない。けれど秋山は、教室にいる時は大抵佐上と一緒に過ごしていることが多かった。秋山に声をかけるということは、すなわち避けている佐上に近づくことになってしまう。
「……ああ、うん、いいよ。待ってて」
ためらいながらも、結局水波は断り切れずに頷いた。彼女に入口辺りで待っているように頼み、教室に足を踏み入れながら秋山の姿を探す。
案の定、秋山は佐上の側にいた。自席に座って秋山と雑談している彼の姿を見て、胸の奥を強く掴まれるような感覚を覚える。
――用があるのは秋山君だけ。言伝を伝えたらすぐに離れる。佐上君は見ない。
胸の内で自分自身に言い聞かせ、水波は彼らに近づく。二人はほぼ同時に気づいた。佐上からの視線も感じていたが、水波は気づいていない振りをして秋山のみに焦点を合わせる。
「秋山君、呼ばれてる」
「え、マジで。女の子?」
「そう、二組の子。行ってあげて」
「あーいっ」
勢いよく立ち上がり、秋山は軽い足取りへ待ち人の元へ向かっていった。その姿を目で追いながら、役目を終えた水波はすぐに立ち去ろうと踵を返した――その時だった。
「!」
誰かに、手首を掴まれた。誰か、なんて相手は一人しかいない。相手が誰なのかを意識したとたん、水波は思わず息を止めた。触れられている―握られている手首に熱が集まる。どくり、どくり、と急に鳴り響く心臓の音。そんな焦りを全て抑え込んで、水波はゆっくりと振り返った。
「――なぁ」
「……何?」
自身を落ち着かせるのに必死になりながら、それでも平然を装ってごく自然に問う。佐上は少し視線を彷徨わせながら、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「最近お前、変じゃないか? 上手く言えないけど」
落とされた疑問に肩が震えた。
大丈夫、まだ何も知らない。この人が知るわけがない。動揺が表に出てしまいそうな自分にそう言い聞かせて、水波は無理矢理口角を上げた。我ながら作った表情がぎこちない気がしたが、それでもしらを切る。
「そう? 気のせいじゃない?」
「何か、悩み事でもあるんじゃないのか」
今度は少し強い口調で問われ、水波は言葉を失った。こちらを見上げる佐上の目はとても強く、逸らすことを許さない。
その視線から逃げ出したい気持ちに駆られながら、何も知らないくせに、と水波は思わず心の中で毒づいた。
――何も知らないくせに心配なんてしないで欲しい。誰のせいで私がこんな思いをして、こんな馬鹿げたことをしているのかなんて、あなたは知らないでしょう?
全て吐き出してしまいたい、と思った。佐上に文化祭前日から抱き続けている胸の内のぐちゃぐちゃとした感情を全部吐き出して、あなたのせいだと罵って、大嫌いだと言ってしまいたかった。……けれど、水波にはそんなことはできなかった。
彼は何も悪くないのだ。結局それは自分のエゴをぶつけるだけで、幼い子のわがままのような理不尽で不格好なやつあたりでしかない。そんなことをぼんやりと考えて、自分自身に嫌気がさした。
……それでも。今この時だけでも、何も知らなくても、自分のことを考えて、案じてくれていることが嬉しかった。……その優しさに、本当は甘えてしまいたかった。
……そろそろ手を振り払わなければ、と水波は思う。これ以上この状態が続いたら、きっと自分はおかしくなってしまう。感情的になって、言わなくても良いことを言ってしまいそうになる。
口角を上げて、彼にゆるりと笑って見せる。今度は上手く笑えただろうか。
「何も、ないよ」
「……そうか」
ようやく視線から解放された。手を引くと、拘束はあっけなく解かれた。
「有り難う、心配してくれて」
「あぁ……」
最後の言葉だけは嘘偽りは一切無く、心からのものだった。どこか釈然としない佐上の返事を耳にしながら、今度こそ自分の席に戻る。近くのクラスメイトの話に溶け込みながら、水波はそっと手首を撫でた。彼の体温が、しばらくそこから離れなかった。
***
「やっぱり人魚だから、叶わないのかな」
昼休みに佐上に掴まれた手首に触れながら、ふと、そんなことを口に出す。
人魚姫の童話のように、叶うならば泡になって消えてしまいたい。抱いていた恋心が、自分の身体を離れて空中にでも霧散して消えてしまえばいい。
……あの日ほんの気紛れで自分を「人魚」だと名乗ってしまった時から、この恋は報われないことが決まっていたのではないか、そんな酷くくだらないことを考えて、水波はまた自嘲する。
童話の彼女は地上に出るために脚を望み、その代償として声を失った。自分は彼の隣を望み、結果恋心を失った。そんなところだろう、と。
――……この想いを、消してしまおう。
夕闇に呑まれていく空を見上げながら、水波はそう思った。すぐに消せるわけないのは解っている。けれど、少しずつでいいから。そういう下心無しで、彼とまた、話せるように。
ふと口をついて出る、音。水波は小さく旋律を紡ぎ出す。歌うのは、そう、あの日の曲。
叶わぬ恋に身を焦がした、哀れな人魚の幸せな歌。
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