口を開いても声は出ずに心ばかりが傷んで

 文化祭はあっという間に終わってしまった。慌ただしく早朝の準備の指揮を執り、シフト時には接客に勤しみ、休憩がてらビラ配り。喫茶店はなかなかに好評で、ピークの昼時を別にしても客足が途切れることは無かった。

 休憩は、責任者が常に教室にいるよう調節して実行委員は男女分かれて二人ずつ取ることにらかじめ決めていた。佐上は言わずもがな、秋山と共に他クラスの出し物や模擬店をひやかして限られた休憩を過ごした。その短い時間で佐上は、美人を見つけては声をかけようとする秋山を何回叩いただろう。七回目辺りに彼が声をかけたのが美少女ならぬ女装した美少年で、その後酷く落ち込んでいたのは覚えている。後日思い返してみると、文化祭そっちのけで秋山に付き合ってずっと漫才めいたことをしていたような気がした。

 文化祭の余韻を残しつつ、佐上達は日常に戻っていく。甘ったるい金木犀の香りが学校中に漂っていた。

「さっちゃーん」

「その名で呼ぶな連敗男」

 ある日の休憩時間。がたりと音を立てながら目の前の席に座って倒れこんでくる秋山に佐上が次の授業の準備をしながらそう返すと、奴はぐはっと言いながらわざとらしく胸を押さえた。

「酷いぜ相棒……どうしてこんなにがんばってるのに彼女ができないんだろ」

「男にまで声をかけようとするそのナンパ癖をどうにかすればいいんじゃないのか」

「ぐっ、俺の精神ポイントが半分減ってしまった!! ナンパ癖って、せめてコミュ力って言ってよ。俺実はそんなにチャラくないよ?」

「はいはい。てか、今まで彼女がいたためしのない俺に訊くなよな」

 秋山の軽口に対して投げやりに返すと、えっ、と驚いた声と共に上がる顔。ぽかんと口を開けかなり間抜けな表情になってしまっている。自称「美形」が台無しだ。

「何だよその顔」

「何だよって、お前、まだ付き合ってなかったの?」

「は?」

「水波ちゃんだよ。運命の再会を果たして、一緒に委員にまでなって。文化祭の前の日も戸締まり二人でやったんだろ? なのに進展なしか!!」

 秋山はまくし立てるように言った後、どういうことだよ、と遠い目をする。対する佐上は頭を抱える彼を少し睨んでなに考えてるんだよ、とため息をついた。

「そんな深い仲じゃねぇよ。進展もなにもあるわけないだろ」

「えぇー秋山君つまんなぁい。いい感じだと思ってたんだけどなー……あ、水波ちゃん!」

 噂をすればなんとやら。話の途中で秋山が何かに気づき、突然手を挙げる。佐上が彼の視線を追うと、手洗い帰りだろうか、教室の入り口付近に水波が立っていた。秋山の呼び声に気付いた彼女はゆっくりとこちらに歩み寄る。

「どうかした?」

「いやぁ、姿が見えたからなんとなく。どう、クラスには慣れた?」

「二人のお陰でだいぶね。有り難う、実行委員に誘ってくれて」

「それはそれは、恐悦至極」

「ふふ、なにそれ」

 秋山の冗談に、彼女はおかしそうにくすくすと笑った。

「そうえいば、この前女子だけでカラオケに行ったんでしょ? 佐野っちに聞いたんだけど、水波ちゃん、めっちゃ歌上手いんだって?」

 特に口を挟まずに二人のテンポの良い会話を聞いていた佐上は、次に移った話題に目を瞬かせた。彼女は歌が得意であることを、佐上は知っていた。歌声も、初対面の時と文化祭前日に聴いたことがある。

 秋山の問いかけに彼女は、あぁ、とサイドで一つに結った毛先をいじりながら困ったように眉を下げる。

「上手いかどうかは正直よくわからないけど。元々、歌うの好きなんだ。こっちに来る前も友達とよくカラオケに行ってたし」

「そーなんだ!」

 いや上手いだろ――と喉から出かかった言葉を佐上は飲み込んで、聞き手に徹する。言ったら秋山に目ざとく突っ込まれ、面倒な説明をしなければならなくなる。それに、彼女が歌を自分で作ったりすることを、本人以外がわざわざ口に出さない方が良い気がした。

「今度三人でカラオケ行かね? 水波ちゃんの美声聞いてみたい! な、佐上、今週末空いてるか?」

「あぁ、まあ」

 思考に沈みかけた所に急に秋山から話を振られ、佐上はとっさに首肯する。だよな、と秋山は相槌を打って、次に水波に身を乗り出すようにして尋ねた。

「水波ちゃんは?」

 水波は一瞬表情を曇らせる。あまり見ない表情だ、と佐上は思った。

「あー……ごめん。ちょっと、無理かなぁ」

 彼女にしては珍しく、歯切れの悪い返答だった。違和感を覚える佐上を余所に、秋山がすぐ残念そうな声をあげた。

「マジかぁ……じゃあ今の話はナシだな。むさい男二人で行っても楽しくない」

「って言いながら、大体二人でつるんでるだろ」

「それはそれ、これはこれ。たまには花を、ってやつだよ」

「なんかそれ、中年のおっさんみたいな言い方だな」

「は!? 俺、今をときめく男子高校生ですけど!?」

「ごめんね、秋山君。また今度誘って」

「おう!!」

 申し訳なさそうに告げた水波はそのまま次の授業の準備をすると言って、二人から離れた。その後ろ姿を、佐上はじっと視線で追いかける。

「どした、佐上」

「いや……」

 秋山の問いに首を振って、佐上は彼女から視線をそらす。

 ……昨日まで度々合っていた視線が、今日は一度も合わなかったのは気のせいだろうか。

「あ、もしかして意識しちゃった? かーわーいー」

「アホか」

 にやつきながら茶化し始める秋山に流石にイラついたので、佐上は取り敢えず目の前で揺れる頭を軽くはたいておいた。



***



 あれからさらに数日。佐上の小さな疑問は確信へと変わっていった。文化祭後から、彼女と一度も目が合わない。むしろ、自分が水波に避けられているような気さえする。

 秋山が呼び止めて話を三人でしようとしてもすぐにかわされたり、そうでなくても会話中一度も彼女は佐上を見ようとしない。むしろ、視界に入れまいとしているようだった。

 あくまでさりげないが、この前までとは明らかに違う態度。……何かやらかしたのかと思ったが、佐上が自身の記憶を辿る限りなにもしていない。ただ単に自分が覚えていないだけか、それとも気付いていないのか。どちらにせよ、佐上にとって良い変化とはとても言えなかった。

「さっちゃーん。さーちこー」

 授業に集中できない訳ではないが、昼休みのような手持ち無沙汰になる時間になると、つい水波の様子について思索に耽り外野の音が耳に入ってこなくなる。いや、これは敢えて無視してるだけだが。

「さちこって、おい。……じゃあ、ヒロりん、ヒロコ―」

「やめろ気持ち悪い」

 急に変わった名前の呼び方に流石に不快で鳥肌が立ち、佐上は顔を歪めて横を睨んだ。やっと反応したか、と隣の席に座っていた秋山は笑う。

「ちょ、無視とか寂しすぎるんですけど佐上さん」

「考え事してたんですよ秋山さん」

「え、何? 悩み? よぉしこのワタクシに相談しなさい」

「何キャラだよ。嫌だ」

 即答する。えー酷いとか何とか言い出す秋山を佐上が適当にあしらっていると、珍しく近付いて来る人間がいた。気づいた佐上が視線を寄越すも依然として彼女は彼に焦点を当てようとはせず、その場にいたもう一人に声をかける。

「秋山君、呼ばれてる」

「え、マジで。女の子?」

「そう、二組の子。行ってあげて」

「あーいっ」

 さっきまでのスーパーのお菓子売場で駄々をこねる子供のような態度はどこへやら、秋山は勢いよく立ち上がり軽い足取りで廊下へと向かって行った。

 役目を終えてそのまま何処かへ行こうとした彼女を、とっさに佐上は手首を掴んで引き止めた。思ったよりも細いそれに驚いて、ほんの一瞬躊躇った。

「!!」

「――なぁ」

 声をかけると、彼女はゆっくりと振り返る。目が合うのは何日ぶりだろうと、相手の表情を窺いながら佐上はふとどうでもいいことを考えた。

「……何?」

「最近お前、変じゃないか? 上手く言えないけど」

『俺を避けてるよな』……なんて、口が裂けても言えない。佐上が言葉を選びながら慎重に言うと、彼女は少し驚いたような顔をして――薄く笑みを浮かべた。

「そう? 気のせいじゃない?」

 気のせいなんかじゃない、と佐上は心の中で言い返す。

 心当たりが無いのなら、合わせている筈の目は揺らがないだろうし、掴んだ手首はただの一瞬でも強ばったりなんかしないはずだから。

 それでもなおはぐらかすということは、佐上に理由を言うつもりなど微塵もないのだろう。

「……何か、悩み事でもあるんじゃないのか」

 念を押すように質問を重ねる。だがこれ以上核心に触れるような質問をする勇気を、佐上は持ち合わせてはいなかった。

 二人の間に流れる沈黙。聞こえるのは周囲の喧騒と、微かな彼女の息遣い。

 その沈黙が、佐上にはやけに長く、苦しいように感じられた。

 ――やがて、彼女はゆるりと笑んだ。

「何もないよ、別に」

「――そうか」

 かわされた、と思った。けれどそれ以上問い詰めることは、佐上にはできなかった。

 水波が捕まれた手を軽く引く。元々そんなに強く握っているわけではなかったから、彼女の手は佐上の手から簡単にするりと抜けた。

 その手の感触が、佐上にはどうしてか名残惜しく思えた。

「有り難う、心配してくれて」

「……あぁ」

 調子を崩さずに水波は告げて、佐上から離れていく。彼女の背が佐上にはいつもより小さく見えたのは、気のせいだろうか。

「ただいーって、どした佐上」

 彼女と丁度入れ違いに戻ってきた秋山が、考え込んでいる様子の佐上に気付いて覗き込んだ。彼女に視線を向けたまま佐上は無意識に纏っていた緊張を解くようにひとつため息をつく。今度は素直に疑問が口から出た。

「……なあ、最近あいつ、おかしくないか?」

「んー? ……あぁ、そう見えるのか」

 佐上の視線を辿った秋山は納得したように頷いた。その発言に佐上は眉根を寄せる。

「どういう意味だよ、それ」

「お前は本当に鈍感……いや、無頓着なのか」

「だから、どういう意味だよ」

 答えになってない。少し語気を強くすると、秋山は一度目を伏せ溜息をついた。そして、彼にしては珍しくやけに真面目な顔を佐上に向ける。

「佐上。お前、水波のことどう思ってんの?」

「は? 何をいきなり」

「異性として好きかって訊いてんの」

 秋山からの思ってもみなかった唐突な質問に佐上は目を瞬かせた。

 どうして今そんなことを訊くのだろう。どうして、そんな真剣な目で自分を見つめているのだろう。いつもの軽い調子なら適当に流せるのに、急に真面目くさって言われたものだから、話をそらそうにもそらせない。

 ……自分は、水波のことを異性として好意を持っているのか。一度も考えたことが無かった佐上は、秋山の問いに何も応えることができなかった。

「……わかんねぇ」

「……そっか」

 結局、佐上は相手の視線から逃げるように目をそらし、覇気のない声で答えることしかできなかった。そんな佐上に秋山は何故か苦笑気味に相槌を打つ。

「ま、ゆっくり考えれば良いんじゃね? ……そんなに時間はないかもしれないけどな」

 何かに気付いている様子の意味深な彼の言葉が、しばらく佐上の耳に残っていた。



 昼休みの出来事について、午後の授業は始まってからも佐上はずっと反芻していた。水波の態度、秋山の問い、そして答えられなかった自分自身。考えれば考えるほど混乱してしまって、話を整理する事もできない。秋山の口振りからしてそれぞれのやりとりに何かしら繋がりがあるような気がするのに、どうしてもその繋がりを掴むことが出来なかった。

 ……それに、自分自身のことも。自分は、水波の事をどう思っているのか。秋山に問われるまで考えたことが無かったのだ。

 第一印象は変な奴、という認識が強かった。再会してからは、話しやすいクラスメイト……と、思っていた、筈だ。

 本当に、それだけだろうか。と、佐上は自問する。前にたったの一度会っただけで、秋山が絡んでいたとはいえ再会した転校生にこんなに世話を焼くだろうか。文化祭後に彼女が距離を置いたのを、同性の友人が出来たから離れていったと考えるのが妥当なのにわざわざ疑問に思い問いつめようとしたのはどうしてなのか。

 離れていた事に寂しさを感じたのは何故。あの時とっさに彼女の手首を掴んだのは、手が離れた時に名残惜しいと思ってしまったのは、どうして。

「――佐上君?」

 他人の声で我に返る。気が付くといつの間にか午後の授業はおろか帰りのホームルームさえも終わっていたようで、西日が教室内に差し込んでいた。教室には帰り支度すらせずにぼんやりと自席に座ったままの佐上以外誰もいない。

 佐上が振り返ると、教室の入口に小柄な女子生徒が立っていた。

「……西村。ごめん、今何時?」

「五時半ぐらいかな。もしかして、ホームルーム終わった後からずっとそのままだった?」

「え、何で?」

「わたしが出る時も同じような体勢だったなぁと思って」

 ちょっとびっくりしちゃった、と西村は教室に入りながら肩を竦めて笑う。佐上は思わず頭を掻いた。

「何か、考え事?」

「んー、まぁ、どうでもいいことをつらつらと」

 気にしなくていい、と首を振り、佐上はのろのろと教材や筆記用具を学生鞄に詰め始める。

「西村は? 忘れ物?」

「う、うん。まあそんなところかな」

 何気なく話を振ると、彼女は何故か動揺しながら答える。その様子に佐上は内心首を傾げたが、特に突っ込む事無く帰り支度を済ませた。立ち上がり、外に出ようと鞄を持ってまだ教室に残っている西村に声をかける。

 西村は、いつの間にかほんの数歩離れて佐上の前にいた。腕を伸ばせば簡単に触れられるくらいの距離に、彼女は頼りなさげに佇んでいた。

「鍵閉め俺がやるから、先に帰って大丈夫だよ」

「あ、っと、うん……」

「もしかして、誰かと待ち合わせ?」

「えっ、ううん、そうじゃなくて……」

 首を傾げて佐上が訊くと、彼女の目が忙しなく動き、歯切れ悪く否定する。

「さ、佐上君に、その、用があって」

「俺に?」

「あ、のね……」

 どこか緊張した面持ちの彼女はぎゅっと目を閉じてゆっくりとひとつ深呼吸する。そして自分の手を握りしめながら、小さな唇を震わせた。

「…………好き、です」

「――え?」

 耳を澄まさなければ聞き取れないほどの小さな声で落とされた言葉に、佐上は聞き間違いではないかと思って聞き返す。

「いま、なんて」

「だから、わたしは、佐上君が好き」

 今度は控えめな印象の西村にしては珍しく大きめの声で告げられ、そこで佐上は自分が告白されたのだと理解した。彼女は緊張と羞恥で頬を赤くし、目尻にうっすらと涙を滲ませながらも、それでも強い視線で佐上の目を射抜くように見つめていた。

「前からずっと好きだった。いつか絶対言おうって思ってた。だから、頑張ろうって思って委員になったんだけど……タイミングが掴めなくて」

 こんな微妙な時期にごめん、と彼女は眉を下げる。

 彼女からの告白に虚を突かれた佐上は、一方で別のことを考えていた。

『……頑張らなきゃって、思ったから』

『何もないよ、別に』

『有り難う、心配してくれて』

『お前は本当に鈍感……いや、無頓着なのか』

『お前、水波のことどう思ってんの? 異性として好きかって訊いてんの』

 文化祭準備での西村の言動、秋山の意味深な発言、そして水波の行動……それらが頭の中で巡り、繋がり、佐上はようやく理解する。たぶん、こういうことだったんだ、と。

 ――そして、同時にもう一つ。佐上はずっと自分の中にあったわだかまりがようやく解け、すとんと腑に落ちた気がした。自身が抱えていながら持て余していたひとつの感情について、その時初めて名前がついた。

 そう。自分が彼女に対して抱いていた、この感情は――

「あ、あの、今すぐ返事が欲しいとか、そういうんじゃないの。ただ、知ってほしかっただけで。急に言われて佐上君も混乱してると思うし、だから」

「……いや」

 取り繕うように早口で続けた西村の言葉を佐上は遮った。返事は今、しなければならないと思った。多分、返事を先送りにしてしまうと、負担になってしまうと思ったから。佐上自身にも、彼女にとっても。

 佐上は一度目を伏せ、言うべき言葉を考えてから目を開けた。ゆっくりと口を開く。その声は、いまだに動揺が治まらない心の中とは裏腹に、酷く落ち着いていたように佐上には思えた。

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