取引をしよう、儚い願いを叶えるために

 夏休みが明けてから数週間経った。この時期の午後の授業は普段の講義から二週間後に迫る文化祭の準備に変化し、学校全体が慌ただしい雰囲気に包まれる。佐上のクラスは、飲み物と軽食を出す喫茶店に決まっていた。

 教室や廊下ではクラスメイト達が楽しそうに各々の作業を進めている。そんな中、佐上はというと、我関せずと窓の外を眺めているわけでも、暑苦しくやる気満々で準備に参加しているわけでもなく。

「なー佐上、メニューこれでどうだ?」

「……許可できそうなのがおにぎりぐらいしかないんだが。つか何だよ、このアジの開きって。明らかに無理だろ」

「え、アリだろ」

「ナシだよ。手間かかるし設備的に無理だし、そんなん食堂行って食え」

 文化祭の実行委員という、よくわからない立場に居た。メニュー案を自信満々に持ってきた、一応実行委員長である秋山を佐上は冷たい目で見る。秋山はかなりショックを受けたような顔をしているが、そんな顔をしたいのは佐上の方だ。そもそもコンセプトが喫茶店なのにも関わらず、食堂系のメニューを当然のように出すなんてどんな感性をしているのだろう。

「あの、佐上君」

 佐上が痛む頭を押さえていると、控えめな声音で呼ばれた。振り返ると、小さめのメモ用紙を手に持った女子が立っている。小動物を連想させるくりくりとした丸い双眸が印象的な彼女もまた、実行委員の一人だ。

「頼まれてたメニュー、一応何人かで相談しながらいくつか考えてみたんだけど」

「あぁ、ありがとう西村。助かる」

 差し出されたメモを受け取り、佐上がそう言うと女子生徒……西村はふにゃりと柔らかく微笑んだ。メニューに目を通すと、秋山が持ってきたものよりもずっとまともなものばかりで佐上はほっと息をつく。

「……さすが。まともなやつばっかで安心したよ」

「えっ、西村ちゃんもメニュー考えてたの?」

「お前だけじゃ心配だったからな。案の定変なのばっかだったし。それに、こういうのは女子の方がわかるだろ」

 頼んでおいて正解だった、と付け加えると秋山はそりゃそうだ、と項垂れたまま同意した。

 もともと委員になる気なんてさらさらなかった佐上が何故こんなことをしているのか。その原因は、この秋山にある。元々体育祭をはじめとした行事ごとが好きな性分であるこの男が立候補した時に、お目付け役として佐上も巻き込まれたのだ。リーダータイプではあるが暴走しがちな秋山と、いまいちノリは悪いがきっちりと仕事をこなす佐上。正反対のタイプである二人だが、高校で出会ってから不思議と馬が合い、よく行動を共にする仲になっているのである。

 二人の性格を足して二で割ればちょうど良いのにと周囲からよく言われ、秋山のブレーキ役としてクラスメイトだけでなく担任にまで認識されているから、巻き込まれるのは仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。実際に、文化祭の準備を指揮しているのは委員長の秋山ではなく佐上だった。

 そして、秋山に巻き込まれたのは実はもう一人いる。いつの間にか勝手に立ち直った秋山は教室のある一角に顔を向けた。

「水波ちゃん、ちょっと来てもらっていい?」

 一拍置いて返事が返って来る。数十秒後、佐上達の所へやって来たのは自称人魚……もとい、つい最近転校してきたばかりの水波だった。何故ここに来て間もない彼女が委員になっているのかというと、秋山が誘ったのだ。委員になれば必然的にクラスメイト全員と話すことになるだろうから、早く馴染めるはずだという半ばこじつけのような理由で。

「どうしたの?」

「今メニュー候補を考えてたんだけど、良いのないかなって。水波ちゃん、何かアイデアある?」

「秋山にやらせたらアジの開きとか食堂みたいなやつ出して来たんだよ。酷いだろ」

「秋山君、そんな案出してたんだ……」

「何それ。それにそんなのどこで作るの」

「だろ?」

 思わず笑う女子二人につられて佐上も苦笑する。その隣では秋山がこちらに背を向けて沈んだ様子で何か呟いていたが気にしない。この程度ならどうせ直ぐに立ち直ってまた自然と会話に戻ってくるだろう。

 水波は机に置かれていたメモを眺めると、数秒考えてその下に新たにいくつか付け足した。それを見て、西村がふわりと笑う。

「あ、それ。思いつかなかったなぁ」

「この前お昼誘ってもらった時にそんな話してたの思い出して」

「あ、あの時ね。レイちゃん記憶力いいなぁ」

「そうでもないよ」

 西村が褒めると水波は照れくさそうに笑った。親しげに話すようになったところを見ると、秋山の画策は失敗ではないらしい。クラスと――特に西村と良好な関係を築きつつある彼女の様子に、佐上はなんとなく安心した。

 佐上がそんなことを心の内で呟いていると、そういえば、と水波は何か思い出したのか秋山の方を見た。

「他の子が道具が足りないって言ってたんだけど、そろそろ買い出しに行った方が良いんじゃない?」

「あ、マジで? どうする佐上」

「委員長はお前だろ。……一回行っとくか。足りないものも多いだろうし」

 やや丸投げ気味の秋山を佐上はじとりと睨んでため息をついた。けれどすぐに切り替えて、買い出しに行くけど何か足りないものはないか、と周囲に声をかける。教室内からぽつぽつと挙がった単語をノートの端に書いて破る。このくらいなら一人で行っても大丈夫な量だと踏んで、立ち上がった。

「……よし。じゃあ、ちょっと行って来る。秋山は現場監督続行で。さぼんなよ」

「おー、行ってらー」

「佐上君、わたしも行こうか?」

 そう申し出たのは西村で、佐上は少し驚いた。委員のひとりとはいえ、彼女は大人しい性格であるという認識であったので、買い出しに同行すると自分から申し出るとは思っていなかったのだ。

「西村は現場に居た方がいいんじゃないのか? 水波だけじゃわからないだろ」

「私は大丈夫。秋山君もいるし、皆が助けてくれるから」

 その言葉にちらりと目を移すと水波と目が合う。彼女はじっと佐上を見つめた後、微かに笑って行ってらっしゃいと言った。

「じゃあ、いってきます。行こう、佐上君」

 西村に促され、二人で教室から出る。室内が見えなくなる前にもう一度振り返ると、水波は既に作業に戻っていてこちらを見ていなかった。


 二人が向かった先は、学校から程近い場所にある商店街。地方にも関わらずシャーッター街にはなっていないここでなら、買い出しの物品は全て揃う。メモを確認し値段や細かい種類について相談しながら一件ずつ巡り、数十分ほどかけて全ての品を揃えることができた。

 最後の店を出た後、通りの中央に置かれているベンチにレジ袋を乗せて二人で中身を確認する。

「……こんなもんか」

「うん。大丈夫だと思うよ」

「じゃ、学校に戻るか」

 佐上はレジ袋を選別し、比較的軽いものを西村に渡した。それに気づいた彼女は少し頬を赤らめながらはにかんでありがとう、と礼を言い、並んで学校までの道を歩き始める。

 いつもよりややゆっくりとした歩調で歩くよう気をつけながら、佐上は教室に戻った後のことを考えていた。秋山については、サボるなと釘をさしたがなんだかんだ上手く纏めているだろう。水波は……どうだろうか。クラスに溶け込む事ができているだろうか。秋山がいるから、ひとりで取り残されるようなことは無いだろうが……

「……あ、あの、佐上君」

 悶々と考えていた時、聞き逃してしまいそうな小さな声が横から聞こえて佐上は我に返る。視線だけ動かすと、上目遣いにこちらを見上げる丸い双眸と目があった。

「ん?」

「佐上君って、レイちゃん……水波さんと仲良いよね。転校してきたばかりなのに、なんか前から知り合いみたいだったし。親戚とか何か?」

「あぁ、いや。親戚ではないよ。夏休み中に一回会って、少し話しただけ。……まさかまた会うとはお互い思ってなかったけど」

「そう……なんだ。すごい偶然だね」

「俺もそう思う」

 まさか同じクラスの転校生として再会するとは思わなかった、と笑いながら続けると、西村もくすくすと笑って同意した。

「そう言えば、珍しいよな。西村が委員になるなんて。あんまりこういうの得意じゃないだろ?」

「え、あ、うん。本当は、ちょっと」

 佐上の問いに、口ごもって、西村は苦笑する。良いことなんじゃないか、と俺が言うとはにかむように笑って前を向いた。

「……頑張らなきゃ、って思ったから」

 彼女の呟きには、何かしらの決意がこもっているように佐上には聞こえた。西村なりに、委員をやろうと思った動機があるのだろう。けれど、あまり深く聞きすぎるのもよくないと判断して、佐上はそれ以上話を掘り下げようとはしなかった。


***


 二人で買い出しに行ったその日から、佐上は以前より西村と話すことが多くなった。授業のこと、準備のこと、他愛の無い世間話。佐上にとってそれまで西村は「クラスメイトの一人」という程度の認識だったが、今では「それなりに仲の良い異性の友人」に変化している。秋山や水波も含めて雑談している中で控えめに笑いながら相槌を打つ彼女の姿が、佐上の中で見慣れたものになりつつあった。

 一方で、水波も文化祭の準備を通してクラスメイトたちと仲良くなれたようだ。女子たちと楽しげに話しているのを何度か見かけるようになり、委員になって良かったんだと、佐上は彼女の様子を横目に見ながら思っていた。秋山のざっくりしすぎていた思いつきというのがいささか不安であったが、上手くいって良かった。

 文化祭当日に近づくにつれて少しずつ会場が出来上がっていく。飾り付けられた窓や壁、教室の前に出す看板。宣伝用のポスターに、試作されたメニュー。秋山の暴走を止めつつ、校内の雰囲気が盛り上がっていくのを佐上は感じた。

 そして前日。準備も大詰めになり、委員である佐上は内装や衣装の調整やらの最終確認で何度も教室と職員室とを行き来する。午前中から忙しく動き回り、佐上が一息つくことができたのは結局日暮れ頃だった。クラスの解散を担任に報告した帰り、思わず佐上が少し疲れの混じった溜息をつくと、横を歩いていた西村が微かに笑う。

「お疲れ様」

「あぁ、西村も」

「とうとう明日だもんね。皆張り切ってた。特に秋山君とか」

「基本的に祭り好きだからな、あいつは。一人だけテンションが上がりすぎて困る」

 先日、授業中にいきなり立ち上がって燃えてきた、と叫んだ秋山の姿が鮮明に思い出される。先生からその闘志を勉強に使えと呆れ半分で怒られたのは言うまでもない。

 西村もその時のことを思い出したのか、笑い声を漏らした。

「教室にまだ残ってる人いるかな?」

「秋山あたりがいるんじゃないか? 一応覗いてみるけど」

「わたしも行こうか?」

 昇降口へと続く階段の前で西村は一度立ち止まり、小首を傾げて佐上に尋ねる。彼女の申し出に、佐上はいや、と首を横に振った。

「今日は施錠する必要は無いし、確認するだけだから俺一人で大丈夫だろ。西村は本格的に暗くならないうちに帰った方がいいんじゃないのか?」

「でも……」

「こういうのは、素直に甘えた方がいいと思うけど」

 口ごもる西村にそう言うと、彼女は少し驚いたような顔をして、それからはにかんだ。

「……うん、じゃあ、お言葉に甘えて」

「ん」

「明日、楽しもうね!」

「ああ。また明日」

 片手を挙げ、佐上は階段を降りる西村の小さな背を見送る。そして彼女の姿が見えなくなってから、どことなく軽やかな足音を聞きながら佐上はひとり教室へと向かった。


 廊下の向こう、一番奥にある自分たちの教室。その一つだけが、まだ灯りが付いている。自分の足音が廊下に反響する中、佐上の耳は微かな歌声を拾った。その歌声が女性のものであることに、またその旋律が聞き覚えがあることに気付くのにそう時間はかからなかった。

 教室を覗くと、整えられた内装が目に入る。『WELCOME』とカラフルに描かれた黒板、明るい柄のテーブルクロスがかけられた机。その会場の中央の席に、こちらに背を向けるようにして水波が座っていた。佐上が教室に入る音が聞こえたのか、歌うのをやめてこちらを向く。

「あれ、佐上君」

「まだいたのか」

「うん、なんとなくね」

 佐上は彼女に近付いて、向かいの机に寄りかかる。水波は周囲を見渡して、緩く笑んだ。

「……楽しかったな。文化祭の準備」

「最初はどうなるかと思ったけどな。転校していきなり委員になって大変だっただろ」

「確かに、でも、お陰で皆と仲良くなれたし、こんなに早くクラスに馴染めるなんて思ってなかった。佐上君と秋山君のお陰だね」

 有り難う、と微笑む彼女から佐上はなんとなく目をそらしてそりゃどうも、と呟く。どうしてか、少し照れ臭さを感じていた。そんな佐上の心境を知ってか知らずか水波は言葉を続ける。

「私ね、文化祭は勿論好きだけど、それよりも準備してる時が好き」

「準備が?」

「うん。飾りを作ったり、レイアウトを考えたり、そういう本番までの過程が好きっていうか。ほら、当日ってさ、あっという間に終わっちゃうじゃない? 楽しいんだけどなんだか寂しく感じちゃうんだよね」

 なんとなく、水波の言いたいことが佐上にもわかるような気がした。彼女らしいと言えば彼女らしいのかもしれない。そこまで知っているわけでもないからわからないが。

「――そういうもんなのか」

「うん、そういうもん」

 佐上の言葉を繰り返すように言って、水波は笑う。一息つくと、佐上は体を起こした。

「そろそろ帰るか。長居しすぎると見回りの先生に注意される」

「そうだね」

 彼女も立ち上がり、二人で教室を出る。彼女は最後にもう一度教室内を見渡して、少し名残惜しそうに電気を消した。

「明日が、良い日でありますように」

 暗闇の中で、祈りのような自称人魚の言葉が小さく響いた。

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