人魚の歌
和咲結衣
外の世界を夢見て彼女は歌う
二回目の夏休みが明けた二学期最初の日、佐上は数週間ぶりに自分の教室に足を踏み入れた。窓際の席に着き、壁に背中を預けてぼんやりと周囲を見ると、小麦色に焼けたクラスメイト達が目に入る。日焼けしたのは自分も例外ではない。部活の朝練上がりなのかおにぎりを頬張っている野球部員、何人かで集まって夏休みの出来事を楽しげに話す女子、課題の残りを殺気立って必死に消化している一部……最後の彼らは見ていて哀れだと思うのは佐上だけだろうか。
……なんとなしに眺めていると、突然彼の視界の端から何かが飛び出してきた。彼の目の前で広げられた手がひらひらと上下に振られる。佐上は素早くそれを掴んだ。
「うおっ!」
間抜けな声が聞こえて、佐上は初めて視線を横に移す。自分が掴んだ手首の先を辿ると見慣れた友人の姿があった。相手の顔をたっぷり数秒間じっと見つめ、佐上は真顔で問う。
「……お前……誰だっけ」
「佐上! お前……短期間でこの顔を忘れたのか!? この美形を! ……はっ! まさか記憶喪失!? 頭打った? 何か変な物食べたのか?」
「……落ち着け秋山。どこが美形だよ。お前のどこが」
自分のボケに案の定ツッコミを入れそのままテンポよく暴走し始めた相手に冷静にツッコミ返し、佐上は少し笑いながら嘘だよと言う。すると相手――秋山は大仰にため息を着いた。
「なんだよ焦らすなよ……マジでどうしようかと思ったわ」
「このくらいで暴走するな」
オーバーなリアクションをする彼に佐上は呆れ顔をして見せた。具体的にどうするのか聞いてみたかったが、話が長くなりそうで面倒だったので何も言わないでおく。
「……で、まあ久しぶりなわけだけど。夏休みどうだった? 佐上は何かないのか? 好きな奴ができたとか、彼女ができたとか、綺麗なおねーさんに出会ったとか」
意気消沈した様子からすぐ元の調子に戻った秋山は佐上に問う。……その目が輝いているのは佐上の気のせいだろうか。いや、気のせいではない。この秋山という男はどうにも人の色恋沙汰を聞くことが好きな性分であることを、佐上はよく知っていた。
「……何で全部色恋沙汰の話題なんだよ」
「夏と言えば出会いだろ? やっぱ」
「どの季節でもそんなこと言ってるよなお前」
思わず呆れ顔で呟くが、秋山はあまり気にしない様子だった。にやにや笑っている顔を隠そうともせずに佐上へと身を乗り出し、図々しく机の上で頬杖をつく。
「いいじゃん、思春期真っ盛りの健全な男子高校生ですし。そんなことより、ホントにどうだったのさ夏休み。出会い無しにしても何かあっただろ」
「思い出、ねぇ……例年通り弟とゲームしたり、じいさん家に行ったりしたくらいだけど」
再度問われ、佐上は言葉を濁しながらスラックスのポケットに手を入れた。指先が硬く小さな物に当たる。
――『あげるよ。今夜の記念に』
海辺に佇む少女の姿と少し掠れた声が、ふと思い出された。
***
佐上は夏休みの数日間を例年のように海辺にある父方の祖父母の家で過ごした。出された課題をしたり少し歳の離れた弟と遊んだり、まあまあ楽しい数日を過ごせたと思う。これといって変化はないが、それなりに良い一年の中の数日。今年も、そうであるだろうと思っていた。
……しかしその夏、佐上はいつもとは少し違った思い出を残すことになったのだ。
その日は、父の故郷で過ごす最後の日のこと。佐上は暗闇の中、ふと目を覚ました。時刻を確認しようと携帯電話を探り、開いて画面を確認するとまだ四時になる前だった。真夜中とも、夜明け前とも言い難い、中途半端な時刻。横を確認すると、父の姿は無かったが静かに寝息を立てる母と豪快にタオルケットを蹴飛ばしたまま眠る弟の様子が目に入った。
目を開けたまま、佐上はじっと耳を澄ます。古い家の中は静かだった。遅くまで酒盛りをしていた父と祖父も寝入ってしまっているようだ。父がここにいないということは、そのまま居間で眠ってしまったのだろうか。
変な時間に目が覚めてしまったが、どうしてか目が冴えてしまってもう一度眠る気になれなかった。数分悩んだ末、佐上は外に出て散歩でもしようと決めた。母や弟を起こさないように布団から抜け出して、微かに父と祖父の鼾が聞こえる部屋の前を忍び足で横切り玄関へ。玄関のカギを拝借しながらクロックスを履いて横開きの玄関の扉に手をかける。からからと音を立てて開くのと同時に、むっとした夏の夜独特の湿り気を帯びた熱気と、潮の香りが佐上の身体を包み込んだ。
家の鍵と携帯電話をポケットに入れて、街灯の少ない道を進む。頼りない灯りと月明りを頼りにでこぼこした道を少し擦るように歩けば、五分も経たずに海岸に着いた。眼下に広がる黒い海。人気のない夜の海岸は、佐上の心を落ち着かせた。歩道から石段を降りて砂浜を歩きながら海を眺め、耳を傾ける。ざりざりと自分の足が砂を踏む音。強い潮の匂いと打ち寄せる波の音、それに乗って聞こえてくる歌声……
「…………歌声?」
そこで、佐上は我に返って足を止めた。暗闇の向こうから、確かに歌声が聞こえていた。小さいが、はっきりとした女性の声。誰のものかはわからない。佐上は何となく気になって、引き寄せられるかのように声のする方へ歩いて行った。
『――……』
聞いたことのない歌だ。どこか切なさと少しの懐かしさを感じる、不思議な歌。女性の歌声と波の音とが絡まり、闇に溶け入るような旋律を作っている。
まるでセイレーンみたいだな、と佐上は思った。神話やおとぎ話に登場する、魅惑的な歌声で人を惑わせて船を沈めてしまう海の魔物。物語に登場する船乗りは、こんなふうに人魚の歌声に誘われたのだろうか、と。
歌声の主は、波打ち際で佇んでいた。
やや小柄な背丈。年齢は佐上とそう変わらないだろう。Tシャツからのぞく肌は月明かりに照らされてやけに白く見える。彼女の近くにサンダルが放られているから、きっと裸足なのだろう。踝まで海水に浸かり、彼女は海の向こうを見つめ、時折波を蹴るように足を動かしながら歌っていた。結っていない肩甲骨あたりまで伸びた髪が、海風に煽られてゆらりと揺れた。
「…………」
五メートル程離れた場所で立ち止まり、佐上が無言で見つめている間に彼女は歌い終わる。そして佐上の視線を感じたのか、ふとこちらを向いた。佐上の姿を確認した彼女は驚くこともなくゆっくりと微笑み、口を開く。
「こんばんは」
歌ったからなのか、その声は少し擦れていた。数拍おいて佐上も彼女にこんばんは、と返す。彼女はその反応にくすりと笑って、小さく水飛沫を上げながら近寄ると佐上の顔をじっと見つめて小首を傾げた。
「見た事のない顔だね。この辺りの人じゃないでしょ」
自身と佐上の年齢が変わらないだろうと推測したのか、彼女の口調は砕けたものだった。確信めいた彼女の言葉に、佐上は首肯する。
「……親戚の家が近くにあるんで」
「そうなんだ。どうしてこんな時間に海に?」
「変な時間に目が覚めて、眠れなかったから、散歩。ってか、それはお互い様だろ」
「ふふ、確かに」
眉を顰めた佐上の返しに、彼女は楽しそうに頷く。そして視線を佐上から海へと移すと、少しだけ眉を下げ、目を細めた。
「……私はね、もうすぐこの町から出て行くの」
引っ越すんだ、と彼女は続ける。
「朝には出発するから、この海もこれで見納め。だから、最後に目に焼き付けておこうと思って」
ほんの少し落とされた声のトーンや月光に縁取られた表情から、彼女が海を惜しんでいることがうかがえた。彼女にとってここは、思い入れが強い場所なのだろう。そう感じた佐上は、彼女が静かな夜の海を一人で堪能したかったのではないかと思い至り、気まずくなって頭を掻いた。
「――邪魔したか?」
「ううん、そんなことない。むしろ、思いがけない出逢いに感傷的な気分が吹き飛んで、逆にすっとしてる」
「そうか」
首を振って否定した彼女の返答に、佐上は心の中でほっと息をついた。
せっかくだからもう少し話さないか、そんな彼女の誘いに応じ、佐上は乾いた石段に座る。砂上に放ったままだったサンダルを回収した彼女はその隣に足を伸ばして座ると、体の横についた手を支えに佐上の方に少しだけ上半身を傾けた。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「……佐上」
「佐上君……ああ、佐上さんのお孫さんか」
「知ってるのか?」
「小さな町だからね、大抵の人は顔見知りだよ。道端で会ったら挨拶するし」
「ああ……なるほど。そっちの名前は?」
佐上が訊き返すと、彼女は何故か笑みを深めた。
「私は――そうだな。人魚、とでも名乗っておこうか」
「……それ名前じゃないだろ。というか人でもない」
佐上が思わず突っ込むが、彼女は楽しそうに笑うだけ。細い肩を揺らし、伸ばしていた膝を自分の体に引き付ける。
「いいじゃない、おとぎ話みたいで。夜の海で歌ってるんだし、足をもらって陸に上がった人魚みたいでしょう?」
「……」
おとぎ話、という彼女の言葉に佐上はどきりとした。彼女の歌を辿っていたとき、自分もそう考えていたことを思い出したのだ。自分と彼女は感性が似ているのかもしれない。そう思ったが、人魚を自称する変な人間に同調するのは何だか癪だったので、決して口には出さなかった。
「……いいよ、もう。それで」
佐上は心の中の動揺を隠すように、呆れたふうを装って話を切る。彼女も話題がなくなったのか、何も言わなかった。
訪れた沈黙をさして気にすることもなく、佐上は波の音に耳を澄ます。会話も無くただ流れていくこの時間が、不思議と心地よく感じられた。
「――……」
どのくらい黙っていたのだろう。隣から聞こえてきた微かな旋律に我に返る。何気なく横を見ると、少女が鼻歌を歌っていた。先程歌っていた曲だとすぐにわかる。
「それ、なんて名前だ?」
「この歌の名前? ……『人魚の歌』かな。自分で作った歌なんだ」
彼女は恥ずかしそうに笑う。
「特に題名にこだわりはないんだけどね。でも、一番この題名がしっくりするって思ったの」
それに、私にぴったりでしょう、と自称人魚ははにかんだ。
「……確かに、な」
どうしてかその笑顔に目が離せないまま、佐上は適当に相槌を打った。
空の色がゆっくりと変わる。濃い闇色から、徐々に紫色へ。水平線のあたりから白み始めて――もうすぐ、夜が明ける。
「夜明け、か……もうそろそろ、お別れだね」
少女は朝に染まりつつある空を仰いで呟くように言った。どこか惜しむような声色の言葉に佐上はそうだな、と同意する。ああ、彼女とはもう二度と会えないのだろうなと思うと、少し寂しく感じた。不思議なものだ。歳も名前も知らない、たった一時間弱話しただけの彼女との別れを、惜しんでいる自分がいるだなんて。
「佐上君」
不意に呼ばれ、佐上は横を向く。彼女はショートパンツのポケットを探って何かを取り出すと、彼に突き出した。
「あげるよ。今夜の記念に。二人が出会った思い出に」
「……何で」
「何となく、かな。このまま別れたくないっていうか。すぐ忘れてしまうような思い出にしたくないっていうか……それに、確信はないけど、また、会えそうな気がするから」
だから忘れないように、と彼女は言う。
「私はあなたにこれを渡したことを覚えてる。だから、佐上君はこれを私にもらったことを覚えていて」
「………」
こちらに突き出された自分よりも小さな手と、顔を出し始めた朝日に照らされた自称人魚の顔を交互に見る。佐上は、何も言わずに少女からそれを受け取った。手のひらに乗った重みと、それまでどこか余裕を持っていた彼女の表情が初めて崩れた瞬間を、佐上は絶対に忘れないと思った。
***
「……佐上? おーい佐上、サガミヒロー」
自分を呼ぶ声で佐上は我に返った。どうやら話をふってきた秋山を置き去りにしてひとりで回想にふけっていたようだ。我ながらなんてイタイ奴だ、と内心苦笑しながら自分の顔を覗き込む秋山に目を向け、無表情で言う。
「あれ、まだいたんだ」
「いたよ! ってか、話の途中だったし!」
再び騒ぎ出す相手に聞こえないふりをしてやり過ごす。そして、ポケットに入れっぱなしだった片手を出して机の上に携帯電話を秋山に見せるように置いた。その弾みで先日取り付けたばかりの紫色の貝が付いたストラップが小さく音を立てる。目敏く見慣れないものに気づいた彼は、ストラップを覗き込んで首を傾げた。
「何だそれ。紫貝のストラップ? お前そんな物持ってたっけ?」
「人にもらった」
「誰に!? ……ま、まさか彼女か? そうか、佐上にもついに春が来たか!」
「もう秋だぞ。季節外れにも程がある」
「俺が言ってるのは青春の方だ。ブルースプリング。青い春だぞ」
秋山が目を輝かせてそう言った時、タイミング良くチャイムが鳴った。席に着けと言いながら担任が教室に入って来る。秋山は肝心な所を聞き出せず、じとりとした目を佐上に向けながら後で詳しく、と捨て台詞を残して自分の席に戻る。号令を掛けられもう一度座りなおした後、佐上は担任の話を話半分に聞きながら手の中の紫貝に視線を落としていた。
ふと、あの少女のことが思い出される。彼女は今どこで何をしているのだろうか。きっと、自分と同じように転校先のどこかの中学校か高校に出て、新しい環境に慣れるべく自己紹介でもしているのだろう。
ぼんやりと思いをはせていると、急に教室内が騒がしくなる。どうやら転校生が来ているらしく、今から自己紹介が始まるようだった。
「――水波玲です。よろしくお願いします」
聞き覚えのある声が鼓膜を震わせ、佐上は思わずぎゅっと携帯電話ごとストラップを握りしめた。まさか、と顔を上げた佐上は、教卓の横に立つ転校生の姿に微かに口を開いて絶句する。
やや小柄な背丈。真新しい夏用の制服の袖から伸びる腕はあまり日焼けしているようには見えない。肩甲骨の辺りまでの長さの髪は、今は暗い色のゴムで左下でひとつに結われていた。
あの夜に出会った自称人魚は、クラスメイトになる生徒の中に呆然としている佐上の姿を見つけると一瞬目を大きく開いて驚き、そして、にっこりと笑ってみせた。
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