「小娘と遣い魔とヤキモチ」 〜俺の伝説その四〜
短刀が閃く。
刀身に反射した光の眩さに眉間を顰めた刹那、短刀は木目に突き刺さる。
刃の真下で佇む小娘は頬を染めて瞼を閉じ、屈んで柄を握る旦那の密やかな息遣いを感じる。
半年前に付けた柱の傷との背比べ。年に二度のみの三分もしない行事を俺はリビングのテーブルから眺めていた。今回でもう三回目だ。
大きな体を折り曲げ柄を握った旦那が短刀を動かし今回の傷を付ける。そしてナイフを引き抜くと立ち上がる。
「動いても構わん」
エメラルド色の瞳を見開き、白木の鞘に鍔のない短刀を収める旦那を見上げた小娘は柱から離れる。口許は微かに笑みを浮かべているが柱を振り返ると直様への字に変わった。
前回、初回と同じ場所の溝が深くなっただけの傷に小娘は項垂れる。
「少女は……特に思春期前の少女は成長が早いと聞いているが……」大男たる旦那は小娘を見下ろす。
何故こんなにもちんまいままのだろうか。俺も同じ意見だぜ旦那。栄養価が高い料理を作って貰おうと街への遣いで適度に運動しようと、お肌のゴールデンタイムには必ず寝ていようと小娘はちんまいままだ。一ミリたりとも背が伸びていない。ミルク飲み人形のように全てを無駄にする。
「食事が悪いのだろうか」顎を片手でさすりつつ旦那は小娘を見下ろす。
いたたまれなくなった小娘はテーブルに尻を突いた俺を抱き上げると顔を隠した。おい馬鹿やめろ。俺はぬいぐるみじゃねぇっての。
すると玄関から木製のドアを小突く音が響いた。ノッカーがあるのになんだってドアを小突くんだ。
俺を小脇に抱えた小娘は玄関に赴く。やめろ。俺はぬいぐるみじゃねぇっての。
小娘はふん、と鼻息を吐くと重厚な木製のドアを押し開く。
ポーチには封書を咥えたハーピーがいけすかない目付きで佇んでいた。
小娘はハーピーの口から封書を受け取ろうとする。しかしハーピーは唇を離さない。眉を下げた小娘は小首を傾げる。
にゃろう。小娘をいじめていいのは俺だけだ。
小娘の縛を振り切り、ハーピーの横っ面をひっ叩く。驚いて封書を落としたハーピーは奇声をあげ、俺を咥える。
いでいでいででででっ!
犬歯がプリケツにめり込み俺は思わず悲鳴を上げる。慌てた小娘が口から覗く俺の腕を引っ張るが思い切り噛まれている所為か引き上げられない。
もがきばたつき懸命に抗う。それでもハーピーは俺を離さない。
畜生! こうなりゃ奥の手だ!
俺は全神経を尻に集中させると思い切り息んだ。
ガスが漏れる音が響くとハーピーは悲鳴を上げのたうち回る。口から飛び出た俺は涎で湿った体を犬の要領で身震いする。
はっ。ざまあねぇぜ!
眉を下げた小娘の隣で、のたうちまわるハーピーを指差しゲラゲラ笑っていると旦那が現れた。
「何をグズグズしている」
眉を下げた小娘は旦那の手を取ると悪魔文字で事の顛末を綴った。旦那は眉間に皺を寄せる。すると腹を抱えてゲラゲラ笑う俺を旦那は容赦無く踵で踏み潰す。
「非礼を詫びる」
咳き込むハーピーに詫びた旦那は踵をにじった。
呼吸を整えたハーピーは舌打ちする。
けっ。プライドがドワーフの赤帽子以上に高くていけ好かねぇ奴だぜ!
どうせドデカい靴が庇になってちんまい俺なんか旦那は見えやしねぇ。踏みつけられつつも俺はハーピーに歯を剥く。
ハーピーは眉間の皺を更に深く刻む。歯をカチカチ鳴らし威嚇する。
へへっ。ぶぅあーか!
俺は百面相で揶揄ってやる。ハーピーは更に表情を歪める。
ざまあねぇな!
すると突如として何かが閃きハーピーの表情を正中に分断した。熟れたスイカを割ったように真っ二つだ。解するのに数秒かかった。
目をひん剥いた俺と目が点になったハーピーの間を分断するのは先程旦那が仕舞った筈の短剣だった。片付けで納屋から発掘した代物だ。血色に錆びていた刃を旦那が丹念に研いで鏡面に仕上げた逸品だ。……その凶器が俺の鼻先僅か数ミリで地に刺さっていた。……額が妙に熱い。きっと風圧で切れたのだろう。
短剣を旦那は抜く。重心が足にかかり踵の下の俺は思い切り顔を顰める。
「遣い魔が更に礼を欠いた」
旦那は術で金貨の袋を出すとハーピーの目前に置いた。ハーピーは鼻を鳴らすと落とした封書を咥え、旦那に差し出す。
「書留だ。本人直々のサインを」
受け取った旦那はサインをする。そして封書に付いていた紙を剥がし、ハーピーに渡した。
俺を一瞥したハーピーは舌打ちすると蹴爪で金貨の袋を蹴り倒し、空へと帰って行った。
高慢ちきで可愛くねぇの。金じゃなびかねぇってか。
俺から足を離した旦那が封書を破く。透かさず這い出た俺は額に手を当てる。黒い掌にはベッタリと鮮血がついていた。
「……銀行からか」
呟く旦那を他所にポケットからピルケースを取り出した小娘は俺を抱き上げると軟膏をすくう。
「止め給え」
ぴしゃりと旦那の冷たい声が響いた。小娘は固まる。
「調合した軟膏とてタダでは無い。況してや他者を揶揄った故に作った傷だ。品性に欠けた者に与えるものでは無い。唾でも付ければ治る」
ひっでぇ! 自分の命を削ってまで小娘を助ける癖に遣い魔の俺には軟膏すら許さねぇのか。このしぶちん! 夏至に小娘を危険に晒した事を根に持っていやがる。しょーがねぇだろ。あん時はグズグズ泣いて飯も真面に食わなかったんだからよ。我がまま聞いてやるしかねぇだろ! それもこれも小娘をワイナリーに押し付けた理由をちゃんと話してやらねぇからだ! 元はと言えば旦那の所為なんだよ! ばーかっ!
再び書状に目を通す旦那を睨んでいると血で汚れた額を小娘に拭われた。
同情すんじゃねぇ! 同情すんなら金出しな!
舌打ちする俺の額に小娘は唇を寄せる。
ちょっ……馬鹿! 何すんだよ!
身動き出来ずに仰天していると額に生暖かい、湿った感触が伝わる。
この馬鹿、額の傷を舐めていやがる! 確かに軟膏を使うな、唾でも付けとけって旦那は言ったけどよ!
無関心を装いつつも一部始終を目の端で見ていたのだろう、旦那が凄まじい形相で睨みつける様が小娘の肩越しから見えた。
ついてねぇ。あとでボッコボコにされるわ、俺。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
俺が項垂れると旦那は視線を書状に戻す。そして半ば独り言とも取れる命を下す。
「……今から街に出向く。コードバンを呼び、外套を出し給え。銀行に貸金庫の増設を頼んでいた。この度専用の大部屋が増設されたらしい。財産移動に立ち会わなければならない。……時に石鹸頒布の資金の整理もケイプに泣き付かれているのだったな。失敗したとは言え良くやってくれた……まずは金を動かさなければ」
街、と聞いて小娘のエメラルド色の瞳が見開く。
旦那は長い溜息を吐く。
「正直気が進まない。……独りで出向くと煩い輩に絡まれるからな」
婉曲に同行を許された小娘はケンタウロスのタクシー営業所向けてへ白鳩を放つと外套を出す。そして俺を抱えたまま二階の自室へ駆け上がる。そしてクロークの扉を開け放つと外出着を出し、着替え始めた。
シュミューズ一丁になった貧相な小娘の着替えを俺は眺める。
別に旦那は独りで街に行けない訳じゃあない。ガキじゃねぇ、いい大人だ。ってかおっさんだ。しかし独りで出歩くとウザいのに囲まれる。大量の若い女どもだ。……身内贔屓する訳じゃねぇがダンディな旦那はこの上なくモテる。いい感情を持たない奴もいるが大概の若い女にはモテるんだ。ギリシア彫刻も真っ青な強靭な肉体から知性、教養、品性、余裕が混ざり合った色気がダダ漏れだ。女が放っておく訳がない。行く先々で取り囲まれ旦那は辟易している。島民故に無下にも出来ず、構ってやる他ない。魅力的なのは仕方ない事だ……旦那は夢魔だからな。
夢魔は褥に横たわる人間の腹に乗る。そして性行為に及ぶ。故に褥を共にする人間が拒まぬ程度に魅力的でなければならない。旦那も魔界から足抜けするまでは夜の務めをしていた。……しかしンな事小娘に言える訳がない。非常にデリケートな問題だ。嫌われて出て行かれたら保護者として面目立たない。
そんな事露知らず、旦那との外出に期待に胸を膨らませた小娘は着替えを終える。オーバルの姿見の前でココア色のスカートを翻すと、鏡の中の自分に微笑んだ。
媚態を作り取り囲む女共をあしらい、やっとの想いで旦那は銀行へ入る。離れるまいと旦那の外套にしがみつく俺と小娘は息を切らせていた。女共に押しくら饅頭されて潰されるかと思ったぜ。ケンタウロスのタクシー社員たるコードバンのおっちゃんから降りたら次々と女が押し寄せ……まるで津波だった。香水のきつい臭い、鼻に掛かった気色悪い声が頭から離れない……浅瀬でナマコを踏んじまった気分だ。
旦那は黒い外套に付いた女共の手垢やホコリを払う。
「子連れで正解だ。牽制出来たのだろう、数が減った」
まぢかよ。驚いた俺と小娘は眉間に皺を寄せる旦那を見上げる。
「流行病の際に薬局に詰めた際は酷いものだった。発熱し咳き込むにも関わらず化粧を施し、怒濤の如く押しかけては手料理を差し入れるからな。病原菌で染まった手で『気持ち』を差し出す。外套も破られ、床で作業していた遣い魔共も踏まれた。御免被りたい」
小娘と俺は顔を見合わせた。……あの冬の日、留守を預かって正解だったぜ。
女共に崩されたヘアスタイルを小娘は手櫛で整えていると百合の蕾を偲ばせる程に尖った長耳の行員に旦那は声を掛けられた。涼やかなアクアマリンの瞳を嵌めた背高イケメン行員は旦那を奥の部屋へと通す。流石島一番の金持ち、そして島主様だ。用件を聞かれるまでもない。顔パスしてやんの。
「係の者が待つ新設の金庫までご案内します」
イケメン行員に案内され仄暗い窓口を横切り、旦那は奥の貸金庫室へ向かう。頭に俺を乗せた小娘は旦那の後に従う。
「下見の後、別件で金を動かしたい」広いホールに旦那の小声が反響する。
「畏まりました。本日はどちらに?」イケメン行員は恭しく目礼した。
「先月畳んだシルフの石鹸工場を始め関連会社、関係者各位だ。ケイプに頼んだ以上金は出す」
「……畏まりました」
「ケイプには私に代わり役所の真似事をさせているが商才はないようだ。無理に任せた私にも責任の端はある。しかし高級メーカーのスキュラ社が庶民向けに安価で販売すれば私も島民も苦労しなかった。今はブランドの価値を高める時では無い。スキュラ社はそれを理解していない。……いつまた疫病が流行るかと思うと頭が痛い」
珍しく旦那が愚痴を零している。俺と小娘は再び顔を見合わせた。
イケメン行員は静かに頷いた。旦那は眉間の皺を揉む。
「……愚痴をすまない。どうも君のような若者に甘えやすいようだ」
「いえ。島主ハンス様のお役に立てて光栄です」イケメン行員は恭しく頷いた。
おっさんと若者……仲良さげだな。ポンチ絵なら大輪の薔薇背負ってそうだわ。美中年と美青年って絵になるからムカつくわ。
鼻を鳴らした俺はホールを見渡す。
しかし銀行って奴は本当に金持ちだな。窓口の緑のバンカーランプなんて作家モンだし、馬鹿高い天井の壁画も手入れが行き届いている。旦那は銀行より金持ちだが散らかし屋で物を大切に使わねぇからな。もし几帳面なら銀行よりも豪奢な屋敷に住んでいただろうよ。
豪奢な調度品に囲まれた銀行は壁の所々に木炭画が飾られていた。誰が描いたのだろうか、北の街で働く人々や遊ぶ子供達、そして銀行の中庭が描かれていた。……庶民臭い絵だが人々の表情に惹かれる。所々デッサンがおかしいが独特の優しいタッチがモノクロの世界に色彩と息吹を与えている。豪奢な銀行には大きく荘厳な肖像の油絵を飾るべきだろうが、この不思議な木炭画の方が合っている気がした。……正直、金があったら一枚欲しいものだな。
数歩前を歩く旦那も気になったのだろう。木炭画を一瞥すると心なしか口角が上がっていた。
しかし小娘は珍しく人前で笑う旦那に気付かない。田舎者らしくきょろきょろと首を動かしている。するとシャンデリアに照らされ小柄な行員達の顔が目についた。皆一様に険しい表情を浮かべて鉤鼻にメガネを引っ掛け、天秤に乗せた金貨と頭蓋骨を均衡にしたり、書類にコカトリス羽ペンを走らせたり、せっせせっせと働いていやがる。皆、ゴブリンだ。
大男の旦那に比べれば背は低いが案内役のイケメン行員もゴブリンだ。寡黙で表情が乏しいのが惜しいがな。しかし不細工な小鬼(ゴブリン)としては容貌も非常に麗しいし規格外にデカい。ってか本当にこいつゴブリンか? 鼻筋が通って色が白くて耳が尖ってまるで美の女神の祝福を受けた種族たるエルフだ。正しく規格外。
この島の連中には規格外の奴らがいる。淑やかと言われるシルフはちゃきちゃきの江戸っ子だし船乗りを美声で惑わすセイレーンは音痴だし処刑人はゴキブリすら殺せないし海賊は酒が一滴も呑めない。……常識に当てはまらない。現世では『異常だ』と迫害されるがそんな珍奇な規格外でも、あの世でもこの世でもないこの島は伸び伸びと生活出来る。全ては悪魔として規格外の旦那の計らいだ。
俺が小娘の頭上に上がり胡座を掻いていると窓口で勘定する一匹のゴブリンが小娘を見遣った。ゴブリンらしいよぼよぼゴブリンに小娘は満面の笑みを咲かせる。そして挙げた片手を振った。
視線を手元に戻したよぼよぼゴブリンは再び勘定する。小娘は眉と片手を下げた。
ばーか。ゴブリンが愛想良い訳ねぇだろ。その上仕事中だ。お前なんか邪魔臭いだけだ。
俺が小娘のデコをスコンと叩く。
しゅんとした小娘は旦那の後を追う。片手に書状を携え、片手を懐に差し入れた旦那は行員同様に大股で歩く。置いていかれないように小娘は小走りする。そして手を繋ぐ代わりに旦那の外套を掴もうとした。
すると旦那が歩みを止め振り返る。
「……いつまで従うつもりかね? ここで待ち給え」
伸ばした右手を下ろし小娘は俯く。一瞥した旦那はイケメン行員と共に貸金庫室へと消えた。
可愛くねぇ男だぜ。望んだから付いて来てやったのに用が済んだらポイか。……まあ貸金庫なんざガキが入れる場所じゃねぇしな。
しかし待つっても何処で待てと? 窓口に二、三脚ソファがある他何もない。ホールは只管広い。舞踏会が開かれても狭いとも感じられないだろう。
小娘は所在なさげにホールの壁に凭れ、拒まれた右手を見つめる。……旦那と出掛けるなんて滅多にねぇもんな。他所の家の子供みたいに保護者に自然に寄り添うチャンスだと思っていたのだろう。さっきの女共の押しくら饅頭とは状況が違うもんな。いじらしいじゃあねぇか。
長い溜息を吐いた小娘は勢いよく首を横に振ると手を操って即興人形遊びをする。左手でチョキを作り、右の人差し指と小指以外を窄めてオオカミを作る。まーた同じ芝居すんのか。『ウサギとオオカミと猟師』好きだなこいつ。これを見るのは七回目だ。正直眺めるのもしんどいが暇だから仕方がない、
ぴょこぴょこと跳ねるウサギにオオカミが噛みつく。
どうせウサギを虐めるオオカミを猟師がやっつけに来るんだろ。よくもまあ飽きもせず演るぜ。
頭上からケッと舌打ちしてやると頬を膨らませた小娘が俺を見上げる。
ばーかばーか。芸がない奴め! マンネリ小娘。くるくるぱー!
眉を吊り上げた小娘は片手を挙げるとばちんと頭を叩いた。
俺がひしゃげた音がホールに響く。
一斉にゴブリン共が顔を上げる。皆、眉間に皺を寄せ俺と小娘を見据える。
業務を中断させた小娘は慌てて頭を下げる。深々と頭を下げた所為で俺は床に落っこちた。腰をさすっていると窓口越によぼよぼゴブリンが立ち上がるのが見えた。さっき小娘と目があった奴だ。痺れを切らしたに違いない。
銀行からおん出されるぜ。ばーかばーか。
眉を下げた小娘を指差し揶揄ってやるとふわりと体が宙に浮く。随分と高い。小娘を見下ろす程なので小娘に背の皮を摘まれている訳ではない。じゃあ旦那か? 冷や汗を掻きつつ振り向くと、旦那を案内した背高イケメンが俺を摘んでいた。
なーにすんだよっ。離せよばーかっ!
縛を振り切ろうと身をよじっているとイケメンは片手で小娘の肩を突つく。顔を上げた小娘は俺の有り様に驚いて口をぽかんと開いた。
イケメンは麻紐で簀巻きにした俺を階段の手すりのライトに吊り下げると、小娘に微笑んだ。そしていつの間にやら隣にいたよぼよぼゴブリンの行員に耳打ちする。頷いたよぼよぼは踵を返すと奥の部屋に消える。要領を得ない小娘に再度微笑んだイケメンは窓口にあった赤いベルベットソファを運び、そして何処からかカフェテーブルを出す。そしてフカフカのブランケットと共に特等席を小娘に勧める。
旦那やコードバンのおっちゃん以外の男から親切を受けたのが初めてだろう。小娘はたじろいだが寡黙なイケメンにソファへ座らされる。もじもじと落ち着きなく膝をすり合わせているとお絵かき帳を差し出したイケメンにブランケットを掛けられた。小娘は『ありがとう』とこっくりお辞儀をする。
するとよぼよぼゴブリンが銀の盆を携えて戻って来た。盆にはでっかい苺……ありゃ千個に一個しか取れないルドルフ苺だ、そんな希少苺が鎮座したケーキが乗っている。
畜生め!
ライトから宙吊りになった俺はぶらぶらと体を揺する。目前で小娘にケーキを喰われるたぁなんて拷問だ!
しかし揺すろうが簡易魔術でハサミを出そうが麻紐はびくともしない。……俺の腕ってあのイケメンや旦那に比べると短いからな。刃先が届かねぇ。あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
ぶらぶら揺れる俺の横をイケメンとよぼよぼが涼しい顔で通りすぎる。ショートケーキを両手にした小娘は茫然と行員達の背を見送る。俺は思いっきり舌打ちした。
コッと小気味良い音がホールに響く。
存在を思い出したのだろう。サイドテーブルにケーキ皿を置いた小娘は階段の手すりのライトへと駆け寄る。そして麻紐からぶら下がる俺を外す。
遅ぇんだよ、このデコ助。
デコを軽く叩いてやると小娘は眉を下げたが、直ぐに振り返りカフェテーブルに乗ったショートケーキを指差す。
あったりまえだ。エコヒイキ小娘の毒見はアルレッキーノ様がしてやらんとな!
瞬時にソファへ駆け寄ると俺はサイドテーブルに尻を着く。鈍臭くもたもた戻る小娘を尻目にショートケーキに鎮座するルドルフ苺を手に取る。そして目一杯口を開いて一瞬で食ってやる。
む。甘いが仄かに酸味があって花のような香りが広がりやがる、まあまあだな。
主役の苺を奪われた小娘はエメラルド色の瞳に涙を浮かべる。そして百合の蕾の如く耽美な俺の耳を思いっきり引っ張った。
いでででででで!
意趣返しを甘んじて受けてやっていると銀行に新たに利用客が入った。品のいい若い女だ。豊かで豪華なブロンドからラピスラズリの小さな角を二本覗かせている。レースのグローブを嵌めた手にはモスリンの小さなバッグを提げ、ハイネックのグリーンのドレスを纏っている。泉のように深く青い瞳は理知的だ。如何にも『上品な金持ち』って様だ。
俺らに気付いた若い女はにっこり微笑む。俺を離した小娘は赤らんだ顔を瞬時に伏せた。
若い女が窓口の方へ視線を遣るとすかさずイケメン行員が用向きを伺う。どうやら常連らしい。見知った体……いやそれ以上に仲睦まじく世間話をしている。しかし男女の仲ではなさそうだ。若い女は時々イケメン行員を冗談交じりに軽く叩く。イケメン行員は微笑みを浮かべ返事し、バッグからハンカチを取り出す若い女を優しく見つめる。
寡黙で表情乏しい癖に小娘の時よりも愛想がええでないの。……こりゃアレだな。
談笑後、窓口で手続きを進める若い女の背を俺と小娘は眺めていた。窓口の向こう側に座すよぼよぼゴブリンとの間で専門用語が飛び交う。女の朗らかでも筋の通った声音、小難しい言葉が響く……誰かに頼まれてここに来た訳じゃなさそうだ。きっと実業家なのだろう。数々の厄介な取引先と対等に渡り合って来たのだろう。
小便臭いお前とは大違いだな。
意地の悪い笑みを浮かべてやると眉を下げた小娘は俯いた。
実業家の女は手続きしつつもずっとハンカチを揉んでいた。きっとお守り代わりなのだろう。未だに緊張するんだろうな。何か握っていないと落ち着かないもんな。遣り手そうだが可愛いねーちゃんじゃねぇか。
残りのケーキを食いつつぼやっとしているといつの間にか手続きを終えたらしい。実業家の女は席を立つ。するとフローリングにハンカチを落とした。
女はそれに気づかず銀行を後にした。
俯きつつも一部始終を眺めていた小娘はハンカチを拾う為に席を立つ。
ばっか。それはお前の仕事じゃねぇ。イケメン行員の仕事だろう。ってか色恋のチャンスを奪ってやるなや。
俺の制止を振り切り、恋のこの字も知らぬ小娘は純粋な親切心でハンカチを拾う。そして銀行を飛び出し実業家の女を追っかける。
平日の昼下がりだ。往来には人が少ない。小娘が田舎者特有の良い視力で辺りをキョロキョロと見渡すと女は直ぐに見つかった。降り注ぐ午後の日差しに嫌気が差した彼女は日傘を開くと慎ましやかに往来の端を歩く。
小娘は一目散に駆け出す。相も変わらずガキ特有の無駄の多い動きで体幹を揺さぶる。肩に乗っている俺はなるべく遠方を眺めて乗り物酔いを防ぐ。
追いついた小娘は日傘を掲げる女の腕をつつく。そして振り返った女に微笑むとハンカチを差し出し、片手で銀行を指し示した。
「ハンカチを届けてくれたの?」
女の問いに小娘はこっくり頷く。
「ありがとう」
女は満面の笑みを浮かべハンカチを受け取る。そして仕舞おうと金ボタンを外してモスリンのバッグの口を開けた。
すると秋の風が女と小娘の間を吹き抜けた。小娘の赤毛がふわりと靡く。午後の日差しを受けてそよぐ豊かな髪の一房は黄金と見まごう。やがて風を失い舞い降りた赤毛はバッグのボタンに絡みつく。
「あら」女は眉を下げて微笑む。
粗相を起こした小娘は慌てて自らの髪を金ボタンから解こうとする。しかし焦れば焦る程に髪はボタンに絡みつく。
ばっか。呆れる程に不器用だな!
見かねた俺が割って入り、髪に手を掛ける。しかし不器用の馬鹿がいじくった所為で深い所まで絡まっている。
しゃあねぇ。髪を切るか。
俺は魔術でハサミを出した。しかし全てを解した小娘が嫌がり俺を突き飛ばす。地に転がった俺は瞳を潤ませた小娘を見上げる。
ばっか! 折角助け……いやいや、手伝ってんのにそれはねぇだろ!
涙を浮かべた小娘は喚く俺を睨む。毎日旦那に梳られる髪を、旦那が愛してやまない赤毛をちょっとでも失うのは小娘にとって胸を裂かれるに等しい。
気持ちは分かるけどよ、お前が悪いだろ。切らなければそこなねーちゃん困るじゃねぇか。
身振りで反論する俺の背後で女は眉を下げる。
「いいの、バッグなんて幾らでも買えるから。女の子の髪を切るなんて可哀想だもの。バッグは差し上げるから中身だけ取らせて頂戴な」
我が儘を言った自分を恥じたのだろう、心優しい女の提案に小娘は俯く。
俺が肩を突くと小娘は顔を上げ、声の出ぬ口で『ありがとう』と言の葉を作る。にっこり笑みを浮かべた心優しい女は小娘の髪が引っ張られぬようにバッグを軽く掲げ、財布を取り出そうとした。しかし突如俺と女は何かに突き飛ばされた。
ちんまい俺は往来によーく転がった。六回だか七回後転キめた後に往来を見上げると小娘が痩せっぽっちの男と揉めているのが見えた。小娘を引き離そうと男はバッグと引き上げるが金ボタンに髪が絡まっているので小娘まで引き上がる。ちんまい小娘は宙に浮き上がりそうになり背伸びする。そして財布を抜こうとする男の腹を叩き、懸命に抗う。
……ひったくりだ!
金持ちの女に目をつけていた輩だろう。抗う力が強い女よりも小娘の手を捻る方が労は少ないと踏んだのだろう。
目を見張り、口を両手で覆う女を他所に俺は小娘の許へと駆け出した。しかし俺に気付いた男は小娘を小脇に抱えると往来を駆け出す。
ちっくしょう!
男は野次馬を乱暴にかき分け、片手で突き飛ばしひた走る。
俺と男じゃちんまいザリガニとでっかいタカアシガニの差だ。歯を食いしばろうとこいた屁の風力で速度を補おうと距離は縮まらない。いや開く一方だ。
徐々に遠ざかる男の背と共に後ろ前に抱えられた小娘の顔が見える。男に打たれただろう頬を腫らし、涙を浮かべ遠ざかる小娘は瞼をぎゅっと瞑る。突然の不幸にやりきれず心細いだろう、乱暴されて悲しいだろう、きっと旦那を思っているのだろう、言の葉を発せぬ唇を動かし何かを叫んだ。
その刹那だ。背後からバリトンが響いた。
「アルレッキーノ」
思わず足を止め振り返ると眉間に皺を深く刻んだ旦那が佇んでいた。
「手が離せぬと言うに。遣い魔風情が私を喚ぶとはいつ多大な力を得た?」
……俺が旦那を喚ぶ? 勝手に現れたんじゃねぇのか? いや、今は悠長に首捻ってる場合じゃない!
射殺さんばかりに睨む鈍色の瞳に俺は身振り手振り懇願する。
喚んだのは俺じゃないけど渡りに舟、仕置きは覚悟の上だ! 助けてくれ!
小娘を抱え野次馬をかき分け逃げる男の背を俺は指し示した。
瞬時に旦那の顔色が青くなる。鈍色の虹彩が囲む漆黒の瞳孔はぎゅんと絞られ白目を走る血管は火柱のように朱く輝く。しかし腐っても島主、人前で冷静さは欠かない。旦那は懐に手を差し入れると短剣を取り出し、鞘を払う。
「散れ!」
往来にバリトンが響く。狙いを定め短い詠唱をすると旦那は投げ矢の要領で短剣を放った。
短剣は目にも留まらぬスピードで真っ直ぐに空気を切り裂く。光を受けて閃くカジキのように速い短剣に驚き、往来で荷物を担いでいたケンタウロスは脚を止め、キキーモラは道を譲り、野次馬共は散開する。
短剣の切っ先が男の大腿に突き刺さった。その場に崩れ落ちた男は小娘を離す。小娘はすかさず起き上がり、こちらへ駆け寄る。
「アダム、ヴェネレ、アイザイック、ジークムント、拿捕しろ!」
喚ばれて姿を現した四匹の遣い魔共は起き上がろうとする男を捕縛する。
すると身動き取れぬ男へと歩む旦那に小娘が駆け寄る。ぶつかった小娘は旦那の膝に顔を埋め泣きじゃくる。
旦那は小娘を片腕で抱き上げる。
「……大事ないかね?」
物憂げな鈍色の瞳と優しい声音に小娘はこっくり頷く。頭が動くと髪からぶら下がったハンドバッグも揺れた。
小さな溜息を吐いた旦那は顔を胸に伏せる小娘の背をポンポン叩いてやった。
「アルレッキーノ」
突如呼ばれた俺は瞬時に両肩を上げる。やべぇ! 仕置きの時間だ!
こごまる俺に旦那は言葉を続ける。
「仔細に話せ」
どうやら直ぐに咎める訳ではなさそうだ。俺は身振り手振り経緯を説明する。すると女が漸く追いついた。小走りでも息を弾ませていた。
挨拶も程々に(なんと旦那は女の名と顔を知っていた。有名な宝石商の代表だと)女を交えて俺は説明を続ける。
「……成る程。ニエの髪がシャンタル嬢の手提げに絡まった所、引ったくりに遭い、ニエ諸共連れ去られた、と」
「ええ」
女もといシャンタルは大男たる旦那を見上げる。瞳の奥に妖美な火が灯っている。……旦那の色気に当てられたな。
「言うまでもなく盗人が悪い。しかしシャンタル嬢、貴女も感心しない」
咎められたシャンタルは小首を傾げた。
「クロワ・デュ・スュド社の代表とあろう者が供を連れぬとは……」旦那は視線を逸らす。
「私、一人で歩けますわ」
「それでも今回のような事がある。供を連れ立つ事を奨める」
「ではハンス様がエスコートして下さるかしら?」シャンタルは悪戯っぽく微笑んだ。
すげぇ! 商会の代表ともなると度胸が凄まじいな! 聡明で美人で一経営者の女に好かれれば島主たる旦那も悪い気はしない筈だ。金持ちの嫁さんが出来たら俺だって楽が出来る。嫁さんの金で使用人雇えばいいもんな! 俺の代わりにバリバリ働かしゃいいんだ。期待を胸に俺は旦那を見上げる。
「……しかし誰が私を喚んだのか。アルレッキーノでないとすれば……いやニエには使えまい……。だが現に……いや、ありえん」明後日の方を向き呟く旦那は眉間に皺を寄せていた。
シャンタルは苦笑を浮かべる。すると遣い魔共の悲鳴が上がった。大腿から短剣を生やした男が遣い魔共の縛を振り切ろうとしていた。
旦那は小娘を下ろす。
「……アルレッキーノ。ニエの目と耳を塞げ」
うげ。仕置きの時間だ。盗人の野郎、不運だったなぁ、相手が小娘じゃなければ旦那は逃がしてやっただろう。
俺は術を使い察しの悪い小娘の両眼を閉じ、耳を塞いた。
「シャンタル嬢、貴女も耳を塞ぎ、目を背け給え。ご婦人の目に入れる物ではない」
外套を翻した旦那は野次馬共に囲われた遣い魔共の許へ悠然と歩む。
短剣の主であり、遣い魔共の主人たる旦那に人々は道を譲る。……きっと凄まじい形相をしてんだろう。真冬に小娘を外に出して風邪を引かせた俺なんて蹴り殺されかけたからな。
地を這う男の前に旦那が佇むと野次馬達は群がり再びギャラリーが閉じた。
数秒後、高い秋の空を切り裂かんばかりの男の悲鳴が上がった。
旦那と男を囲っていた野次馬からも様々な声が上がる。悲鳴だったりブーイングだったり、はたまた地に倒れる音や赤子の泣き声に嗚咽……。
少し間を置いて旦那がギャラリーから出てきた。後に四匹の遣い魔共を従えている。野次馬は散り、冷徹な悪魔である旦那に道を譲る。皆一様に顔が青ざめていた。涼しい顔をした旦那は右手に短剣、左手にだらりとした何かを携えている。左手の何かからは紅色の液体が滴っていた。
おい……そんな生臭い物を小娘に近づけてやるなよ……。術を解けないじゃねぇか。
眉間に深い皺を寄せる俺に気づいた旦那は左手を見遣る。どうやら忘れていたらしい。切断した男の右手を旦那は術で仕舞うと短剣を払う。宙に朱の吹き墨が舞った。
「返して欲しくば荒地まで来い」振り返りもせずに旦那は言い放った。
長い溜息を吐くと俺は隣にシャンタルが居たのを思い出す。……見ちまったか? お上品な金持ちはこんな場面嫌いだよな。旦那よぉ、島の経済に関わるだろうし金持ちに嫌われるのは得策じゃないと思うんだが……。
ちらりと隣を見遣るとシャンタルは手首についた返り血を舐める旦那を平然と……いや、相変わらずの熱のこもった瞳で見つめていた。
よくもまあ血生臭い大男を。アバタもエクボってやつか……。こんな鬼畜の何処がいいんだかってかダダ漏れの色気にあてられちゃ仕方ねぇわな。
疲れた表情の旦那は手を払うと小娘の術を解いた。
眉を下げた小娘は顔を上げる。
「……帰ろう」
エメラルド色の瞳を潤ませた小娘はこっくり頷いた。旦那は長い溜息を吐く。
「作業途中で離脱した。銀行には後で遣いをやらせよう。……ではシャンタル嬢、ご機嫌よう」
踵を返した旦那に続き、小娘も裾をつまみお辞儀をする。髪から下がったハンドバッグがぶらりと揺れた。
足を止めた旦那が振り返る。
「……失敬。手提げをお返ししよう」
旦那が立ち止まったにも関わらず止まり損ねた小娘は旦那の膝に顔を突っ伏す。相変わらず鈍臭い。小娘が顔を上げると旦那は術でハサミを出す。
午後の光を受けたハサミの刃が光る。
意味を解した小娘は眉を下げて目を見開き、唇を震わせる。
おいおい。いくらなんでもそれは酷いだろ。小娘は『赤毛を大切にしろ』と言う旦那の為に伸ばしていたのに。旦那が自ら手をかけるなんざあんまりだ。汚れ役は俺が買ってやる。
『ギィ』と強く唸り、忠言したが旦那は聞く耳を持たない。ぎゅっと目を瞑る小娘の赤毛にハサミを入れようとする。
「おやめになって。見ていられませんわ」シャンタルは眉を下げる。
ハサミを止めた旦那はシャンタルを見遣る。
「しかし」
「私は構いませんの。お嬢さんの髪が少しでも失われるなんて同じ女性として辛いですもの」
視線を逸らしたシャンタルはドレスの胸許をぎゅっと掴む。小さな溜息を吐くと微笑を浮かべる。
「……後日、バッグを取りにお宅へお伺いしますわ。ですから中身を下さいな」
旦那は小さな溜息を吐いた。
俺は首を捻る。さっきは『バッグを差し上げる』と言っていたのに言い換えたぞ?
『ね? よろしくて?』と旦那に詰め寄るシャンタルを見つめていると途端に解した。
ほーん。成る程ねぇ。流石経営者だな、頭が切れる。この女、押し掛けるチャンスを作りやがった。そればかりじゃねぇ。『同じ女性として辛いですもの』と優しさアピールまでしやがった。薬局に詰める旦那に食い物やら贈り物やらを押し付けもみくちゃにする馬鹿女共とはやり方が違う。
旦那は渋々と上等な革鞄を魔術で出すとそれに女の所持品を移してやった。
「ご厚意痛み入る」
無骨な革鞄を胸に抱いたシャンタルは満足そうに笑んだ。
小娘の唇はへの字に曲がっていた。
赤毛に絡まったシャンタルのバッグを取ろうにも取れず、結局旦那が小娘の髪にハサミを入れちまったからだ。
誘拐されそうになった事、『大切にしろ』と命じた赤毛を現場で旦那が気軽に切ろうとした事、結局切ってしまった事……色々と堪えたらしい。小娘は帰宅してからずっと俯き、旦那がご機嫌取りに作ってやった豚のリエットすら口に運ばなかった。
晩餐の後の勉強もさせずに旦那は小娘を二階の自室で早めに休ませてやった。帰宅してから小娘はずっと疲れた顔をしていた。家事を免除された程だ。しかしシーツを替えたばかりのベッドに横たわっても、ベッド脇のバラのポプリを嗅いでも寝付けない。かれこれ数時間は幾度となく寝返りを打っては溜息を吐いている。
小娘の枕でとぐろを巻き横たわった俺は赤毛を見遣る。カーテンの隙間から注ぐ月の光に照らされて小娘の頬がぬらり光っていた。
鼻を啜る音が絶え間なく響く。
グズグズ五月蝿ぇ。これじゃ俺も寝付けねぇ。すこんと一発デコを叩いてやろうと思ったが拳を引っ込めた。
……俺も小娘同様納得いかねぇ。なんだってあの時、旦那は簡単に小娘の髪を切ろうとしたんだ。切るしか道がないのは分かるが少しの躊躇いもなかった。
あー……ドえらく腹立つ。
眉間に皺を寄せ両腕を組んでいると階下から大きな音が響いた。玄関の方からだ。重厚な木製のドアが開く音がした。
おいおい。夜更けの客とは穏やかじゃねぇな。俺は小娘に気付かれないように術を使うと階下へ降りた。
リビングでは洗面器や薬箱を掲げた遣い魔共がせかせかと右往左往していた。
おい、どうしたんだよ。病人か?
鳴き声を掛けるが奴らは知らんぷりする。小娘係の俺を構う暇がないのだろう。
ふと革のカウチを見上げると背もたれから旦那の頭が見えた。
家具を飛び越え旦那のお気に入りの場所まで参じる。巨躯を折りたたむように屈んだ旦那が腕を手に取り眺めていた。手首から先がない。旦那の腕じゃない。骨が見え、断面の肉が綺麗に切れている。血は滴らず、凝固しかけていた。俺は腕の根元を見遣る。
旦那の対面には手首のない男が何とも言い難い表情で座していた。昼間小娘を拐かそうとした男だ。食卓には血染めの布の塊がある。
ほーん。恥を忍んで縋りに来たか。
「……新鮮とは言い難いが断面が綺麗だ。私が断ったからな。そして手も揃っている。魔術で付くだろう」涼しい顔をした旦那は男の腕を食卓に下ろすと遣い魔の一匹……ボインのヴェネレに湯を絞ったタオルを作らせた。
男は長い溜息を吐く。
「無償で付けてやろう」
男は頭を深々と下げた。
ヴェネレからタオルを受け取った旦那は鼻を鳴らすと切断された手を拭き清める。
「見かけぬ顔だな。……北の街の者ではないな?」
男は頷く。
「……食いつめて流れてきたか? 何処の街だ?」
東の街から外れた農村、捨ててきた、と男は答えた。
「……栄えた街なら食えると思ったのだな。何故東の街ではなく此処へ?」旦那は男の手首周りを拭いてやる。
東は村も街も病が蔓延している、有力者さえ倒れ苦しむ者が多数いる、と男は答えた。
眉間を顰めた旦那は男に幾つか問うた。街の事、生活の事、衛生の事……特に手洗いや洗濯に関してはしつこい程質問した。そして黙り込むと視線を右上に遣る。……何かを考え込んでいるようだ。
そんな事より早く手を腕に繋いで欲しい、と男は懇願する。
「東に遣いを出さなければ……。一度目に失敗したツケが回ったか。……よく答えてくれた」
自らの手指を蒸留酒で洗い流した旦那は遣い魔のジークムントを呼びつけると一言二言命じ、家にあるスキュラ社の石鹸の在庫全てと金貨でぶくぶくに太った革袋を持たせ東に走らせた。そして男の手首と手を同じように洗い流す。
蒸留酒が手首の断面に垂れる。男は顔を顰め、呻き声を漏らした。
手首と手の断面を確認した後、接合面に手を添えた旦那は術を詠唱する。腐りかけていた肉は赤みを帯び血管が浮き出、切れた神経同士は繋がろうと錯綜する。水から揚がった魚のように腕が暴れ出す。苦悶の表情を浮かべた男は歯を食いしばり、切断時よりも過酷な痛みに耐える。
旦那は腕から手が離れぬよう、接合面をしっかり握る。
……無償の治癒や人助けに使う魔術は旦那にとって命を削る重作業だ。食いつめて罪に手を染めたとはいえこの男は小娘の仇だ。ようやるわ……。
呆れた俺は詠唱を続ける旦那を見上げる。……旦那の瞳を見て息を呑んだ。いつだったか金持ちの家へ遣いに行った際に見かけた絵画……赤子を抱く聖母に似ていた。聖母と違わず眼差しが慈愛に満ちている。故意に作った表情じゃない。何も気に留めず術に集中している。……素でこんな表情が出来る悪魔なんざ、魔界じゃ肩身が狭かっただろうな。
苦悶の表情を浮かべていた男もいつの間にか呼吸を整え、穏やかな顔になっていた。しかし接合面はまだ血の気が失せている。
治癒風景を眺めていると上方から木が軋む音が響いた。
旦那と俺と男は木製の階段を見遣る。そこには手すりに片腕を掛けた小娘が佇んでいた。
小娘のエメラルド色の瞳に手と腕を接合される男が映る。小娘は恐怖に唇を震わせるが、男の手に添えられた旦那の大きな手を見遣ると唇をぎゅっと噛む。
旦那は接合面に視線を戻す。決まりが悪くなった男は肩を落とすと目を伏せた。面倒事が嫌いなヴェネレは術を使って消え、逃げ遅れた俺は狸寝入りを決め込む。
再び木が軋む音が響く。音は階下に向かう。
ばっか。何やってんだよ。怖い目に遭ったのによ!
狸寝入りを解いた俺は小娘の肩を目指して飛びつく。肩から頭へ飛び乗ると手綱の要領で赤毛をひっつかんで制止を試みる。しかし頭皮が引き攣れ痛い筈だろうに小娘は階段を下る。
リビングに降り立つと小娘は旦那の許へまっすぐ歩む。そして旦那が掴んでいる男の手と腕に白い小さな手を添えた。
瞼を閉じた小娘は声の出ぬ唇を動かす。胸中で術を詠唱しているのだろう。固唾を飲み、見守っていると表皮から血管がいく筋も浮き出て接合面に血の気が戻る。先程の旦那だけの施術よりも早い。しかしどうも早すぎる。魔術師二人がかりなら早いのは当然だが片方は半人前以下だ。
男は涙を流す。苦痛の所為ではない。
ほんっとにお人好しだな。馬鹿すぎるぜ。頭から垂れ下がった俺は小娘を見遣る。お人好しの大馬鹿はまだ瞼を閉じて唇を動かし詠唱している。
自棄に詠唱が長い。……もしかして旦那と同じく高等魔術か?
同じ疑問を抱いたのだろう。顔を上げると旦那と視線が合った。旦那は詠唱を続けつつも小娘を見つめる。既に慈愛に満ちた眼差しではない。一人の弟子を持つ魔術師として弟子の底知れぬ力を確信した目つきだった。
翌昼から新しい日課が加わった。
小娘は午前中の手伝いを終えると庭に出てナイフ投げの練習をするようになった。昨晩の治癒魔術と言い、誘拐と言い、足手纏いになるのが余程堪えたのだろう。旦那には内緒で短刀を拝借して練習した。
空き樽に乗せた腐れ林檎目掛けて短剣を投げるが足許に突き刺さったり、手からすっぽ抜けて背後で冷やかしていた俺の横をかすめたりする。……センスがないってかちょっとした体操に於いても小娘は鈍臭い。
昼飯を食べるのを忘れ大好きなデザートのババロアすら忘れナイフ投げ(投げられもしねぇが)に没頭していると旦那が現れた。
「何をしている? ミートパイとババロアを放って置くつもりかね?」
背後から声を掛けられた小娘は驚いて短剣を落とす。慌てて拾おうとするが屈んだ旦那に短剣を拾われた。
短剣と樽の上の腐れ林檎を見遣った旦那は全てを解す。
「……的の周りにすら一度も当たっていないようだが」
小娘は瞬時に頬を染めた。
「今一度投げ給え」旦那は刃先を自らに向けて短剣を返した。
的を見据えた小娘は屁っ放り腰で短剣を投げる。案の定今回も三歩先の地に刃が刺さった。またか、と小娘は眉を下げる。
旦那は小娘の肩に手を掛ける。
「……まず一つ、姿勢が悪い。上を狙うにしても下を狙うにしても先ずは真っ直ぐ佇むよう」
小娘は背筋を正した。しかし真っ直ぐに立っているつもりでも体幹が揺れ、頭がフラフラと動く。
「……軸の問題からか。少し鍛え給え。体幹のバランスが治る」
旦那の苦笑に小娘は頬を赤らめた。
魔術を詠唱した旦那は腐れ林檎に短剣を投擲してはその都度説明する。小娘は一言一句聞き逃すまいと集中した。幾度か旦那が投げては腐れ林檎に刺さった短剣を小娘が抜きに行く……端から眺めていると飼い主と忠犬だ。
短剣を持った旦那は目前に掲げる。
「この重さの短剣は飛距離が短い。短剣が手から離れた際に魔術を以って質量を軽くし飛距離を伸ばす。故に柄から手を離すまでが勝負だ。軽くすれば飛距離が伸びるが的に当たった際の衝撃は少ない。的に到達する直前に質量を戻す。理解出来たかね?」
小娘はこっくり頷く。
「やってみるといい」旦那は小娘に短剣を渡した。
両腕を組んだ俺は小娘の一挙一動を見守る。出来るのか? 短距離の移動術がやっとの小娘には難しいテクニカルな術だぞ? ……普段の旦那なら半人前以下の不肖弟子の小娘に合った事しか命じない。いや待てよ? ひょっとしてあの誘拐事件の時に旦那を喚んだのは小娘なのか? だったら頷ける。陣無し、そして短い詠唱のみの召喚術を使えるなんて……旦那を喚ぶにも陣も描かないなんざかなりの手練だ。旦那は昨晩の小娘の高等の治癒魔術で確信したのだろう。今はクソでも小娘は魔術師として大成すると、師を越えかつて師を外界に追いやった魔界の奴らに復讐する程の力を備えていると。
顎を引き背筋を正した小娘は深く息を吸うと短刀を構える。胸の内で術を詠唱しているのだろう、暫く静止していた。
腐れ林檎を見据えた小娘は深く息を吐くとエメラルド色の瞳を見開く。
おおっ? すげぇ気迫だ。これなら的を射るかもしえねぇ。射てまえ射てまえ! 期待に胸を膨らませた俺は旦那を見遣る。両腕を組んだ旦那は口許に細やかな笑みを浮かべている。
期待を一身に小娘は短剣を放った。
小娘はその日の昼食中、ずっと俯いていた。師の期待を一瞬で裏切ったのだ。足許に落ちた短剣を思い起こしては洟を啜っている。エメラルド色の瞳を潤ませ手付かずのミートパイを見つめている。……おい、メインディッシュ平らげねぇと大好きなチェシャ猫社の茶葉『黒猫のタンゴ』で煮出して作ったババロア喰えねぇぞ。
旦那は自らが焼いたミートパイを咀嚼している。何考えてんのか分かんねぇ昆虫的な無表情は相変わらずだ。街のシェフが裸足で逃げ出す程の腕前だ、美味い筈なんだろうけどよ……毎回不味そうに喰うよな。出来の悪い小娘の事なんざいつも通りお構いなしだ。
俺は小娘のミートパイに海賊の旗を立ててやったりマッシュポテトを盛りに盛ってヴェスビオ山を建造したり、ナプキンで折った紙飛行機を飛ばして悪戯してやる。しかしそれでも小娘は疎か、食い物の悪戯にはどちゃくちゃ厳しい旦那も反応しない。
おい……俺居辛いじゃねぇかよ。針の筵だぜ。
給仕の俺は空になった旦那の皿を下げると、小娘の肩に駆け上がりデコをパチンと叩いた。
眉を下げた小娘は俺を見つめる。俺は身振り手振りで叱咤した。
ばっか! いい加減にしろ。いつも通りのへなちょこで失敗しただけだろ。ちょっと期待されたからって調子に乗って落胆してんじゃねぇ! 期待裏切って悔しいならミートパイ平らげろ! 体作って魔術も勉強して何度も挑戦しろ! 諦めた時点で進歩は止まるんだよ! だーからお前は成長しねぇんだ! グズグズグズグズ洟啜って鬱陶しいわ! なあ、旦那!
革張りのデカいカウチを振り向くと既に旦那は消えていた。
皿を片付け、午後の仕事である雑巾縫いをこなしているとノッカーの音が響いた。小娘は旦那から手ほどきを受けたちょっとした運動(上半身を真っ直ぐに保ちつつ倒す……グッドモーニングってヤツだ。背筋を鍛えてバランスを良くするらしい)で手が離せない。旦那はその隣でシルフのケイプ宛に書状を記している。
……仕方ねぇ出てやっか。俺は手を止め、木製の重厚なドアを開く。ポーチに佇んだシャンタルが微笑んでいた。首まで隠れる品の良いドレスに耳には大粒のサファイアのイアリング……しかし靴は砂埃で汚れていた。金持ちの癖にケンタウロスを使わずに歩いて来たのだろう。
旦那に咎められたのに今日も一人歩きかよ。
「御機嫌よう、遣い魔ちゃん」
手土産の菓子箱を俺に押し付けるや否やシャンタルは屋内へ上がる。おいまだ用件も聞いてねぇし招いてもねぇぞ。……すげぇ根性と気迫だ。バッグを取りに来た体を装って旦那を口説くつもりだ。ジャブでこれならストレートは強烈だろうな。火遊びなら我慢するが、こんな女傑が女主人になられたら堪ったモンじゃねぇぞ。
圧倒された俺がぼやっと眺めていると書状を伏せた旦那はペンを置く。
「わざわざ御足労とは……遣いの者に手提げを届けさせたものを」
昨日とは打って変わって旦那は唇に笑みを浮かべ歩み寄る。どうしたんだ。すんげぇ気持ち悪い。いつも昆虫みてぇに無表情の癖に。見慣れぬ旦那の表情に小娘もたじろいだ。
部屋の漂う匂いを嗅いだシャンタルは微笑む。
「まあ! パイのいい香り! クラーケンのデリカテッセンよりも……いいえ、スピンクスのリストランテよりも美味しそうな香りが漂っているわ! ……どなたが作りましたの? お嬢さん? それとも遣い魔ちゃん? とってもお料理上手なのね!」
捲し立てるシャンタルに旦那は椅子を進める。
「まずは喉を潤すといい。話がある」
「あらお話って何かしら。楽しみだわ」
旦那も(女に対しては)鬼ではない。相手は女の細足で遠路遥々荒地まで来た客人だ。……昨日『一人で出歩くな』と咎めたが世辞の一つこぼして茶くらい出してやるのだろう。しかしそれにしてはヤケに愛想がいい。惚れたのか? ……まさか、な。
旦那はキッチンへ向かうと竃に人差し指を突っ込み魔術で火を灯す。
旦那の意を汲んだ俺はシャンタルにブランケットを勧めると察しの悪い小娘を手伝うように促す。こっくり頷いた小娘は俺を肩に乗せてキッチンに入る。するととんでもない現場に出会した。
昼に食べ損ねたババロアを旦那が切り分けているのだ。小娘の大好きな旦那が作った大好きなあのババロアを、だ。高級茶葉ブランドのチェシャ猫社の茶葉『黒猫のタンゴ』で煮出して作ったあのババロアを、だ。
小娘のエメラルド色の瞳が潤んだかと思いきや涙がこぼれ落ちる。涙が一筋頬を伝うと後から後から生まれ落ちた涙が頬を伝う。
あー……あー……旦那が小娘泣かした。小娘を虐めていいのはアルレッキーノ様だけなのによ!
ギリギリと歯軋りした俺が小娘の赤髪をぎゅうぎゅう引っ張っていると小娘はくるり踵を返す。そしてキッチンを出、家を飛び出した。
乾き切った荒地の砂を巻き上げる風すら、水分奪い肌を切りつける大気すら気づかずに小娘は駆ける。肩に乗せた俺を忘れ、外套を羽織る事すら忘れて遥か街へと続く荒地の道を突っ走る。
俺は振り落とされないようにしっかりと首っ玉にしがみついた。普段はでべでべでべでべとガキ特有の無駄の多い動きで走るが今ばかりは違う。ケンタウロス……いやそれは言い過ぎだ、バンビにでも乗ってんじゃねぇかってくらいに速いの速くねぇっての。そんな事すら今の小娘は気付いていない。頭ン中は大好きな旦那の裏切りでいっぱいだ。
俺は別に小娘の肩を持っている訳じゃない。小娘を虐めて良いのは俺様だけだ。旦那は許せん。しかしンな事を旦那に言えば蹴り転がされるのがオチだからな。不承不承認めてやってんだよ。畜生。
おーい、街まで向かうようだが夕飯までには機嫌直せよ。旦那が気に食わなくとも俺だって晩飯くらいは喰いたいしベッドでとぐろ巻いて寝てぇんだ。
頬をペチペチと叩いてやると大口を開けた小娘は鼻水を垂らし始めた。
声なく大泣きする小娘とは裏腹に午後の日差しを浴びる北の街は長閑なモンだった。商店の主人共は休憩中なのか弁当を広げ一杯きこしめし、親子は手を繋いで往来を歩き、貴婦人どもはティールームのテラスでおしゃべりに興じている。キキーモラは午前中に集めたゴミをドラゴンの口に放り込み、刃物屋の処刑人は金属の粉で灰色に汚れた手をせせらぎで洗っていた。
女神像の真下で小娘が泣いても穏やかな街は素知らぬ顔で呼吸する。
小娘なりに感じるものがあったのだろう。俺がショートケーキの苺を喰ってやってもぷんすか怒る程度だが相手は旦那だ。断りもなく、妙齢の美女に大好物のババロアをくれてやったのだ。髪の件といい、大好きな旦那お手製のババロアといい、深く傷付いたのだろう。突如自分と旦那の世界に闖入してきた女を旦那が優先させたのだから。……大人しそうに見えてなんて傲慢な小娘なのだろう。
ひとしきり泣いた小娘は俺をお気に入りの豚のぬいぐるみのようにぎゅっと抱きしめる。
うぜぇ……。
抱きしめると往来にくるり背を向け女神像の台座に人差し指で悪魔文字を綴る。
『……あの人……シャンタルさん、先生の何? シャンタルさんは先生が好きで先生もシャンタルさんが好きなの?』
うお……ヤキモチ炸裂してんなぁ……すんげぇうぜぇ……。
意地悪こいて『嫁さんになるかもな』と綴り返すと小娘は歯を食いしばった。
『そうなったらとても悲しい』
結婚すりゃ仕事が楽になると思ったが多分違うな。今よりもバリバリ働かされる。俺もあの遣り手ねぇーちゃんにこき遣われるの辛いわ。
『髪の毛切られた時もババロアを切られた時も辛かったけど……先生がシャンタルさんと楽しそうに話しているのが辛いの』
旦那とシャンタルがくっついたら居候の小娘は居辛くなるわなぁ。
『……先生はあまり笑わない。一つ屋根の下で暮らしてニコニコしないのに、シャンタルさんにはニコニコしてる。無表情の先生が笑うのは嬉しいけど……ニコニコさせているのが私じゃなくてシャンタルさんなのが悲しい。……ううん、悔しい』
小娘ながらもムカつくのか……。凄まじいヤキモチだな。旦那にその気があってもシャンタルの真心がそうだとは限らんが。何せ旦那は夢魔だ。性的魅力がダダ漏れ故にシャンタルは他の女と同じく恋に落ちたのだろう。……しかし真の愛でなくとも籍入れちまえば旦那の一人勝ちだからなぁ。恋は一瞬で吹っ飛ぶが愛は育める。まあ無愛想旦那の努力次第だが。
旦那が夢魔である事、夢魔独特の魔力によって魅力的に見える事、シャンタルはそれに当てられている事を綴ろうと台座に指をかけた。しかし止めた。『夢魔である事を小娘に告げるな』と厳命されている。小娘を危険に晒す事同様にこれを破ったら俺は間違いなく消される。
深い溜息を吐くと俺は泣きじゃくる小娘を見遣る。
……まあ、俺がなんとかしてやれる訳じゃないよな。
さめざめ泣く小娘の肩から往来をぼやっと眺めているとバスケットを携えたイケメン行員と視線が合った。相手は野郎だが無視は決まりが悪いわな。よう、と俺は手を挙げた。
こっくり頷いたイケメンは歩み寄る。そして俺に問うた。
「こんな所で何を……?」
小娘は泣きじゃくるのに夢中だ。渋々俺は身振り手振り分かりやすいように経緯を説明してやった。
イケメン行員は小さな溜息を吐く。
「……今日はどうもシャンタルが来ないと。用がなくとも毎日顔を見せに来ていたのに」
俺は首を捻る。呼び捨てって……意中の相手でも一応客だぞ?
するとイケメン行員は屈み、小娘の肩を軽く叩いた。驚いた小娘は振り返る。イケメン行員は微笑む。
「ハンス様のお嬢様、こんな賑々しい所で涙を流してはいけませんよ」
眉を下げた小娘は手の甲で涙を拭った。
「悲しい時は泣くべきです。しかしレディ、ここは往来です。……悲しみに暮れる場所にご案内しても?」
微笑み手を差し出すイケメン行員に小娘はこっくり頷いた。
ナラズモノヒヨドリの甲高い鳴き声が庭中に響く。小春日和だってのに寒々しい。秋の風が庭を素通りする度にビスキュイケヤキの葉を悪戯に落としていく。
イケメン行員の計らいにより俺と小娘は銀行の裏庭の小さな茶会に招かれた。泣きじゃくり脱水気味だった小娘は暖かいブラックティーを一気に飲み干した。
スケッチブックやパン屑、木炭が広げられた白いアイアンテーブルの上で胡座を掻いた俺が名を問うとイケメンはイーヴォと答えた。
「寒々しい庭しかお招き出来ずに失礼しました。宅にご案内出来ないのを失念しておりました」
スケッチブックや木炭を仕舞うイーヴォの手に小娘は手を掛けた。イーヴォは小首を傾げるが直ぐに察するとスケッチブックを差し出した。
小娘はスケッチブックを広げる。モノクロでも華やかな世界が飛び込んできた。風景画、人物画、静物画……全てモノクロだったがページを繰る度に様々な世界を旅する。偶にパースが狂っているので手放しで巧いとは言い難い。しかし独特の柔らかいタッチがモノクロの世界に色彩と生命を与えていた。更にページを繰ると行内の風景画や行員達の肖像画も載っていた。
こりゃ行内に飾られていた絵と同じじゃねぇか! あの絵の画家はイーヴォだったのか!
驚いた俺と小娘はイーヴォを見つめる。注目を一身に浴び恥じらったイーヴォは既に空になった小娘の茶器にブラックティーを注ぐ。そして先程手に提げていた籠からフィナンシェが盛られた皿を差し出した。
「もし宜しければ……行員達の好物の茶菓子です」
小娘はこっくり頷くと一口齧る。エメラルド色の瞳がさざめいたかと思いきや、先ほどの絵の感動や旦那の事すら忘れたように次から次へと口へ運ぶ。ババロアを食い損ねた所為もあるが泣いて腹が減ったのだろう。
皿に盛られたフィナンシェを平らげると人心地着いたのか小娘は小さな溜息を漏らす。そしてイーヴォの手を取ると『ありがとう』と礼を綴る。
そんな小娘にイーヴォは微笑む。
「もしお話ししたい事が御座いましたら聞きますが……如何しましょう?」
イーヴォの申し出に小娘はエメラルド色の瞳を丸くしていたが、こっくりと頷いた。
昨日の誘拐事件、その際にシャンタルと旦那が知り合った事、旦那が躊躇いなく自分の髪を切ろうとした事、昼にシャンタルが家を訪れた事、昨日とは打って変わって旦那がシャンタルを憎からず想っていた事、自分の為に作ってくれた大好きなババロアをシャンタルに出そうとした事、到頭堪忍袋の緒が切れて家出した事……小娘の怒りや悲しみは堰を切り指先に流れ、イーヴォの掌に様々な事情を綴った。
「……成る程。それで行く宛てもなくへカテ女神象の足許にいらっしゃったのですね。遣いの途中でお見かけして良かった」イーヴォは微笑んだ。
ってかどうして行員の癖にフィナンシェなんておやつの遣いなんかしてんだよ。
魔の者や魔術師でなければ解せぬ筈の俺の『ギー』と言う呟きにイーヴォは恥ずかしそうに笑んだ。
「私は正式な行員では御座いません。……父の仕事を手伝っているだけです」
高々手伝いごときで銀行で働けないだろう。要領を得ない小娘の隣で俺は首を捻るがちょっと考えると察しがついた。
親父ってまさか……。俺はピジョンブラッド・ルビー並みに耽美な目ん玉をひん剥く。
「昨日、よぼよぼに年老いたゴブリンが窓口で勘定をしていたでしょう? 頭取と言えど下の者に仕事を任せられない性分のようです」
マジかよ! あのじじい頭取なのかよ! ってか……イーヴォの奴、じじいに似ずイケメンの上に御曹子じゃねぇか……旦那に次いでモテるだろうよ。
俺が口をあんぐり開けているとイーヴォは『内密に』と人差し指を唇の前で立てた。
「私は魔物と父の間に生まれました。幼少時に両親が別れ、私は父に連れられこの北の街に根を下ろしました。その折に隣家のシャンタルと馴染みになったのです」
イーヴォは瞳を伏せる。
「ゴブリンにしては体格が良くも引っ込み思案で誰とも馴染めず、日がな一日絵を描き一人遊びをする私は近所の子供に虐められました。しかし矢面に立ち虐めっ子を討ったのがシャンタルでした。……男勝りで親の言いつけを聞かないシャンタルは私より三つも年下でしたが姉のような存在でした」
うお。長くなるなこの話。両腕を組んだ俺は瞼を瞑る。
「聡明で負けず嫌いなシャンタルは親の反対を押し切り、店に奉公し勉強を重ね宝石商として独立しました。父も私も彼女への融資に融通を利かせたかったのですが他のお客様の手前、不公平になります。幼馴染みとして見守っておりました。しかしシャンタルは誰の助けも借りず、持ち前の賢さと気性、広い人脈で事業を拡大し島一番の宝石商として成功を収めました。飛ぶ鳥を落とす勢いの商人でも未だに供を連れずに歩き、昔と変わらず気安く話しかける彼女にハンス様のような良いお方が現れるなんて……」
俺が耳を掻っ穿っているとイーヴォは寂しそうに笑む。
「シャンタルが大きな方に出会えて良かった。彼女はああ見えて意地っ張りですから……自分よりも頼もしい存在でないと甘えられません。……私では役不足ですから」
イーヴォの密やかな溜息に小娘は眉を下げた。
俺はイーヴォを睨みつける。おい。小娘に変な事言ってやんなや。ヤキモチぷーすか妬いてる小娘には絶望的な話なんだよ。お前だってよぼよぼの親父が突然美人のねーちゃんと再婚したらビビるだろ?
「確かに……ハンス様のお嬢様……いえ、レディにとっては苦しい話ですね……。でもシャンタルは悪い女性ではありません」
そーゆー問題じゃねぇよ。お前だってシャンタルを愛してるんだろう?
旦那と同じく表情が乏しいイーヴォは頬を染める。
「……シャンタルは磨き上げられた大粒のダイアモンドのような女性です。画家にもなれず、父の跡目すら継げない半人前の路傍の石ころに好かれても迷惑になるだけです」
けっ。うじうじしやがって。女々しい野郎だぜ。ショック受けても誘拐犯の治療の手伝いをする小娘の方がご立派だ。
「自分を拐かそうとした男の手当てをしたのですか?」
両腕を組んだ俺は小娘を横目で見遣る。イーヴォの問いに小娘はこっくり頷いた。
「……なんてお方だ、ハンス様もレディも。私だったら自分に危害を加えた相手に情けなんてかけられません」
小娘は首を横に振るとイーヴォの掌に『違うの。そんな大層な事じゃなくて……先生があの男の人の手首を繋げようとしていたから』と綴る。
「それは……ハンス様の言い付けでしょうか?」
小娘は首を横に振ると『先生を手伝いたかった。……先生が好きだから。それだけ』と綴る。
イーヴォは目を細めると自らのシャツの胸許を握りしめた。
その晩も小娘は何とも居心地が悪そうだった。
旦那が遣わせたケンタウロスタクシーのコードバンの背に乗って帰還したのだ。家出した癖に保護者に迎えを寄越されたのだ。何とも情けない話じゃねぇか。シャンタルは既に帰ったがリビングには彼女の香水の残り香が微かに漂い、小娘は眉を下げて膨れツラを晒した。
『食べ損ねただろう』と晩飯の後に旦那は小娘の前にババロアの皿を差し出してやった。晩飯に手を付けられなかったのにデザートを出したのだ。相変わらずの仏頂面でも旦那なりに小娘の機嫌をとってやってるんだな。タクシーで迎えてやったり、ババロア出してやったり……本当に小娘にはゲロ甘だよな。
しかしその心遣いが今の小娘には苦痛にしかならないようだ。小娘は常にエメラルド色の瞳を伏せ、肩を落としている。ババロアさえも食べられず晩飯の後の数学も身が入らなかった。
そんな小娘に追い討ちをかけるようにシャンタルは翌日も宅を訪れた。昼飯の支度をしている時間だ。幾分か機嫌が直った小娘は旦那と共にナトワ風サンドウィッチを拵えていた。リエットを塗り、カナリア農園のピクルスを粗微塵にした玉子フィリングを挟んだイギリスパンをラタンのバスケットに詰め、デザートのガトーショコラを詰める。大好きな先生がご機嫌取りに荒地でピクニックでも付き合ってくれるのだろうと小娘は唇に微笑を浮かべていた矢先だった。
シャンタルとの挨拶も程々に旦那は小娘にバスケットを持たせると玄関へと優しく背を押す。師の命には逆えまい。小娘は膨れっ面を下げて大人しくポーチに出た。
迎えに来たケンタウロスのコードバンの背に乗り(小娘は幾度も荒地の背高の家を振り返りながらも)銀行へ向かう。
銀行の大理石階段の前でコードバンの背に礼を綴り下馬するとイーヴォに出迎えられた。
「こんにちはレディ。どうぞ庭へ」膨れっ面の小娘の手からバスケットを取るとイーヴォは微笑む。
テラス席で玉子サンドを齧った後、イーヴォは掌を開く。小娘が綴る経緯を黙って眺めてやった。瞳を伏せたイーヴォはジャケットの内側に手を差し入れると手紙を取り出し、広げた。
「……実は昨晩ハンス様から手紙でお相手をお願いされました。僭越ながらレディのエスコートを務めます」
道理で話が早い訳だ。ってか子守押し付けられたのかよ。これじゃ家出にもなんねぇぜ。
ギィと笑った俺と眉を下げた小娘にイーヴォは微笑む。
「暫くはランチから夕刻までよろしくお願いします」
小娘はイーヴォに寂しそうな微笑を浮かべるが直様俯いた。ランチまで持たされ旦那に厄介者として扱われていると悟ったのだろう。そんな小娘を見つめつつイーヴォは話を続ける。
「レディ、本日から数日の間の一時間、貸金庫の財産の移動を監督願えますか?」
驚いた小娘は顔を上げた。
「昨晩手紙と共に血液で記名された委任状が届けられたのです。信頼足る愛弟子ニエに監督を、との事です」
打って変わって小娘のエメラルド色の瞳がさざめき、頬が薔薇色に染まる。『愛弟子』が余程利いたのだろう。幾度となく頷いた。あーあバカみてぇ。
明かりもつかぬ長い廊下は辛気臭い……ってかカビ臭い。崩れた蜘蛛の巣が降ってきたり、埃を吸い込んだりと俺は顔を顰めた。まったく陰気な廊下だぜ。
旧貸金庫の小部屋の一つから出てきた俺たちは新設された大部屋へと向かっていた。あの部屋以外に数百って部屋があるらしい。その三分の二以上は旦那が借りていた貸金庫なんだと。金貨や高価な調度品をいっぱいに積載した猫車を押すイーヴォを先導に、俺を肩に乗せた小娘は従うように歩く。
無駄話をさせぬ程に物々しく暗い廊下をひたすら歩くと突き当たりに大きな扉が見えた。新しい鉄製扉だ。他の青く錆びた扉と違い、血の匂いがあまりしない。
猫車を止めたイーヴォは鉄の扉を開く。すると目が眩んだ。蛍スコンスの光に照らされ黄金が輝く。見渡す限り一面黄金の畑、いや金貨や調度品がうず高く積まれた山……まるでファラオの墓の宝物庫だ。旦那、どんだけ貯めてんだよ。流石島一番の金持ちだ。こんなに金持ちだったら古ぼけた背高の家なんかじゃなくて屋敷に建てかえりゃいいのによ。……まあ気が向かないんだろうな。その代わりに小娘一匹、道楽で育ててんだから酔狂な主人だよまったく。
黄金の山脈に驚き口をあんぐり開ける小娘を他所にイーヴォは猫車を傾けると、旦那の財産を丁寧に掻き出す。せせらぎのように流れ出た金貨や宝石は黄金の畑の一部となる。
「レディも驚かれるとは……。財の量はご存知の事と思っておりました。ハンス様は秘密主義ですね」
イーヴォは慎重に手を動かしつつも静かに笑む。それを眺めて俺は両腕を組む。……ちょっとでもちょろまかそうとしたら噛みついてやろう(俺だって旦那の遣い魔の端くれで目付役だ。非力な小娘じゃ話になんねぇし)。しかしそんな素振りすらイーヴォは見せない。これだけの財があるんだぜ? 俺なら金貨の二、三枚ポッケにないないしてやろうって思っちまうがイーヴォは思いつかないらしい。クソ真面目っつーか、邪がないっつーか、小娘と同類のお人好しの馬鹿だな。
猫車に積載された黄金をイーヴォは丁寧に掻き出し続ける。しかし幾ら丁寧にやっても財の量が多すぎる。勢いがついて金貨や宝石、小さな調度品がダダッと流れ出た。金が煉瓦造りの床に当たる音が四方で聞こえる。眉を下げたイーヴォは猫車を立たせると金貨を拾う。小娘も手伝おうと屈んで床に手を差し伸べた。
すると小娘はエメラルド色のどんぐり眼を見開き、差し伸べた手を止める。
なんだ? 小娘の視線の先を見遣るとそこには金のダートが転がっていた。小娘はおそろおそるダートを摘むと眼前に掲げる。ポイント、バレル、シャフト、大概の部位が金だがフライトは不死鳥の尾羽をカットした物だ。……ぶったまげた。俺も開いた口塞がらねぇ。不死鳥の羽は高等魔術の材料だが魔道具屋でも裏ルートでも扱いがない。俺も生で見るのは初めてだ。金よりも希少で高価な材料使いやがって……ってかそんなモンすら貯め込んでるって本当にいけ好かない男だよな旦那って。
ダートのフライトにされた不死鳥の羽は夕焼け色の火の粉を巻き上げ小娘の視線を奪う。そんな小娘にイーヴォは気付く。
「……ダートにご興味が?」
小娘はイーヴォを見上げる。
イーヴォは小娘の手からダートを優しく取り上げると狙いを定め、放つ。イーヴォの無骨な手から飛び出した金のダートは鉄の扉のノブを突き刺した。
すげぇ!
俺と小娘は惜しみなく拍手を贈った。イーヴォは白い頬を染めて瞳を伏せるが言葉を紡ぐ。
「シャンタルと出会う前に一人遊びとして嗜んでおりました。もし宜しければ……」
小娘はノブに突き刺さったダートのフライトを見つめる。短剣とダートでは質量も破壊力も違う。しかし運動が苦手な上に非力な小娘は短剣の投擲よりもダートの方が入り易いだろう。
顔を上げた小娘はイーヴォを見つめると深々と頭を下げた。
その日以来イーヴォの心遣いに甘え、小娘はダートの稽古を受けるようになった。ランチを抱え、ケンタウロスのタクシーの世話になり正午には銀行の階段を上る。優しいイーヴォと共に旦那特製のナトワ風サンドウィッチを平らげ、貸金庫の移動を一時間程監督し、裏庭でダートの稽古に励む。そしてティータイムから一時間過ぎた頃には行員達と共にフィナンシェを頬張り、イーヴォに似顔絵や風景画を描いて貰うのが日課になった。
家を後にする時は寂しげだったが銀行や裏庭で小娘は常に笑みを浮かべていた。旦那とシャンタルの件や勉学から解放される所為だろう。子どもらしくヘラヘラ笑っていた。
しかしケンタウロスのコードバンの背に揺られ家路に着くと表情は沈んだ。
家に着くと必ずシャンタルと顔を合わせるからだ。シャンタルは小娘が乗ってきたコードバンの背に乗り、街へと帰る。
儀礼的に挨拶を交わし旦那と共にシャンタルを見送ると、小娘はリビングの窓を開け放つ。シャンタルの残り香を追い出す為だ。……幼いとは言え徹底的にヤキモチ妬きだ。俺が苦笑を浮かべているとザッと秋の風がリビングを吹き抜けた。するとテーブルに山積していた書類が舞う。
「窓を閉め給え」
キッチンから旦那の声がぴしゃりと落ちる。
眉を下げた小娘は急いで窓を閉めると書類を拾い上げようとする。しかしキッチンから出てきた旦那に制された。
「大事な書類だ。……石鹸の頒布……島民の生命に関わる物だ」
屈んだ旦那は書類を一枚一枚丁寧に拾う。大男の旦那は屈んでも小娘より丈がある。眉を下げて瞳を伏せる小娘を見下ろした。
旦那の手を取ると『ごめんなさい』と小娘は綴った。
「……近頃帰宅すると窓を開けるようだが暫く控え給え。書類が山積している。生命としても金銭面としても大事な書類だ。一枚たりとも失う訳にはいかない」
凛と張っていても何処か穏やかな深い声に小娘はこっくりと頷いた。
旦那は小娘の頭に片手をポンと添えた。
銀行に出入りしてから一月近くが経った。
財の貸金庫移動も漸く半分終わったし、短剣投げが全く出来なかった小娘もイーヴォのお蔭でダートのコントロールなら出来るようになった。イーヴォに言わせると『狙いを定めるのが巧い。筋力や魔力がつけば短剣でも投擲出来る』らしい。……心根の優しい坊ちゃんだからよ、お世辞と思った。しかし百発百中とまではいかないが九割程ワイン樽の的を射る小娘はそこそこセンスがあるのかもしれない。距離を伸ばしても樽に到達する。……思えば小娘は子供にしてはそこそこ腕力あるんだよな。幻の雪の精を探しに雪原に出た際、俺ぶん投げられたからな。
最近では貸金庫移動が終わるとダートの稽古も程々に、イーヴォと共に行員達のおやつを買いに散歩するようになった。懇意にする惣菜屋がこっそり作ってくれるらしい。イーヴォの数少ないダーツ仲間だとか。イーヴォが連れたニコニコと愛想の良い小さな客に惣菜屋の主人も気を良くして、様々な試作品を持たせる。マートル苺ジャムを添えたクッキー、ペリロス牛のチーズケーキ、デメテル小麦のラングドシャ……食材を凝りに凝った菓子を大量に頬張るのでこの所小娘の肉付きが良くなった。
今日も今日とてイーヴォと共に菓子を買うと小娘はのろのろ歩きつつ銀行へと戻る。のんびり屋のイーヴォも小娘を年の離れた妹のように思っているようで道端に咲いている花は何の種類だとか鳥の鳴き声の聴き分け方とか他愛もない事を教えてやっていた。小娘はそれが心地良いらしく素直にこっくり頷いていた。
カフェの傍のせせらぎで魚の種類について説明を聞いていると嗅ぎ慣れた香水の香りが漂った。
シャンタルだ。
俺と小娘、イーヴォは一斉に顔を上げた。
俺らに気付かずカフェへ向かうシャンタルは旦那のエスコートを受けていた。いつも大股で歩く旦那は自分よりも遥かに背が低いシャンタルのペースに合わせる。普段は唯我独尊な癖に。すげぇむかつくな。
ふん、と鼻を鳴らすと眩い光が目を刺した。俺と小娘は思わず目を伏せるが直ぐに光の在所を確かめる。旦那の腕と体幹の狭間に差し入れたシャンタルの左手から大粒の宝石の付いた指輪が光っていた。
話に花を咲かせる二人は睦まじくカフェへと入っていった。
先ほどまで笑顔だった小娘は俯く。イーヴォも旦那とシャンタルの睦まじさを間近で見てショックを隠し切れないのだろう、口を閉ざした。
旦那の馬鹿野郎! 折角和やかに過ごしていたのに一気にお通夜に逆戻りじゃねぇか! ……しかし何故街になんて姿を現したんだ? 今までシャンタルと家にしけ込んでたじゃねぇか。ってか左手に指輪って……すげぇヤな予感がする。
俺が眉間に皺を寄せていると懐かしい奴に声を掛けられた。
「ようよぉうハンスの嬢ちゃんじゃねぇか」
顔を上げずとも江戸っ子訛りなので直ぐに分かる。四大精霊が一人シルフのケイプだ。ワイナリーの木登り事件以来だな。
小娘はココア色のスカートの裾を摘むと丁寧にお辞儀する。ケイプは旦那の数少ない友人だ。それも古くからの。小娘とはディオニュソスのワイナリーで知り合った。
軽く会釈するイーヴォを横目に狐顔のケイプは問う。
「ハンスはどうしたンでぇ? 先にキッチャ店に入ったンかい?」
小娘は『知らない。先生なんか嫌い』とばかりに首を横に振るとケイプの手を取り、経緯を綴る。
「……ほーん。そこな兄ちゃんと散歩してたンか。別行動ってやつか。ま、秋は散策に向いているよな。ポテトチップみてぇな落ち葉をバリバリ踏むンがあっしの秋だ。あーあー散歩したかったぜ。ハンスに例の件で呼び出されてよぉ、まあ元はと言えば一度目にあっしが失敗させたのが悪かったンだが。漸く話が纏まったからキッチャ店に来いってな。雨降って地固まるって言うしよ……前回はあっしがワヤにさせちまったから今回は楽しみだ」
雨降って地固まる……? 俺と小娘とイーヴォは違いを見遣る。雨天の結婚式でよく聞く言葉だ。こんな時だけ察しがいい、小娘のエメラルド色の瞳は潤んだ。
「おうおう、ところでよ宝石商のシャンタルってどンな美人だい?」
おいっ……空気読めよクソシルフ!
小娘の瞳から涙が溢れ出そうになったので俺は術を使って小娘イーヴォ諸共、銀行の裏庭へ送った。
漸く纏まった話って……やっぱり結婚だよね? だって大切な友人のケイプにシャンタルさんを紹介するくらいだもの。左手に指輪もしてたし。雨降って地固まるって……先生は始めシャンタルさんに冷淡に接してたし……。今日先生がケイプを呼び出したのもきっと仲人さんやって欲しいってお願いしたんだよ。
裏庭に戻った小娘は俺の手に文章をそう綴った。こんな事だけ察しが良くて呆れるってか不憫になる。
まあ俺も同意見だがな。穴蔵を決め込んでいる旦那の事だ。古き友人の一人であるシルフのケイプとわざわざ街で会うなんざ大層な理由を引っ提げているんだろう。ケイプの『一度目にあっしが失敗させた』ってのも付合する。俺が生まれる以前の話だが旦那は一度、愛し合った者と破局している。その時ケイプの馬鹿が邪魔したのかもしれない。
おいイーヴォのあんちゃんよ、何とか宥めてくれよ。鼻を鳴らした俺がイーヴォを見遣るとイーヴォも放心していた。……そりゃそうか。イーヴォもシャンタルが好きだもんな。
その日のティータイムは誰も菓子に手を伸ばさなかった。小娘は裏庭の片隅に屈みスコップを片手にひたすら穴を掘り、スケッチブックを広げたイーヴォは裏庭を眺め出鱈目な線の集合体を描いている。……小娘もだがイーヴォも相当キているようだった。
帰宅してからも小娘はおかしかった。旦那に呼ばれても上の空だわ、カルパッチョに掛けるバルサミコ酢とチョコレートソースを取り違えて台無しにするわ、パントリーからチーズの在庫を出そうとすればスキュラ社の石鹸と間違えるわ……あまりの不注意に旦那が苦笑した程だ。
しかしその大好きな、大切な旦那の注意すら耳に入れても左から右へと抜けていくらしい。風呂に入り就寝支度をするまで小娘はおかしかった。……旦那とシャンタルが結婚したらこれ以上酷い状態になるんだろうな。見てられねぇ。
歯磨き粉と旦那のナイトクリームを取り違えそうになりつつも歯磨きを終えた小娘は就寝前の挨拶をしに旦那の許へと歩む。旦那は毎晩リビングの革のカウチで寛いでいる。書物を読むのが常だがここ最近は膨大な書類に目を通しサインしている。……つまり日中は仕事を放っぽり出してシャンタルといいコトしているので晩になったら島主として務めを果たしている訳だ。いけすかねぇ。
旦那は書類から顔を上げない。左薬指の股を幾度も切って滴らせた血でサインを綴る。傷が直ぐに閉じないよう次のサインをするまで左手を水の張った盆に漬け、度数の高い酒を呷り心拍を上げ血の巡りを良くしている。そんな旦那を見上げ小娘は眉を下げ、エメラルド色の瞳をうるませ、唇を震わせる。
小娘は鼻を啜る。すると旦那は顔を上げ、小娘を見遣ると直ぐに視線を書類に戻した。
「……疲れただろう。よく休み給え」
穏やかなバリトンがリビングに響く。
しかし小娘はいつものようにネグリジェの裾を摘んでお辞儀もせず突っ立ったままだ。旦那の言葉は行く宛てなく宙を彷徨い、霧散する。
小娘は唇を強く結び、旦那を見つめる。
休みたくない、まだ起きていたい、大好きな旦那の側に居たい、シャンタルと結婚しないで欲しい、自分だけの先生でいて欲しい……小娘の言いたい事が痛い程に俺の胸を揺さぶる。しかし小娘は旦那の娘ではない。ただの弟子だ。弟子は師に意見は出来ない。……意見は出来なくとも自分の気持ちを知って欲しいのだ。例え旦那がシャンタルの物になってしまうとも。
我慢していた涙が頬に伝う。小娘はネグリジェの袖で悲しみを拭う。
いつの間にかそれを横目で眺めていた旦那は小さな溜息を吐いた。そして盆から左手を抜くとタオルで拭い、血止め草を潰し薬指の股に押し付ける。
「……ここの所、立て込んだ所為で君から座学の機会を奪ったな。落ち着いたらまた機会を設けると約束する」
旦那は血止め草を放ると両腕を差し出し、小娘を引き寄せた。
抱き上げられ、大男の旦那の膝に乗せられた小娘は驚き途惑う。雪舞う厳冬の海を偲ばせる鈍色の両眼に頬を染めた小娘が映る。
「銀行はどうかね? イーヴォは良くしてくれるか? 財の移し替えは滞りなく進んでいるか?」
小娘は身じろぐと旦那から視線を外す。答えなければならないのに気恥ずかしくて出来ない。……当然だ。旦那にここまで甘やかされた事はないのだから。これじゃあまるで親子だ。
膝から降りようと小娘は爪先を伸ばす。しかし親指は床に着かない。
旦那は軽く揺さぶり小娘を抱き直す。小娘は旦那の胸に突っ伏しかけるが旦那の左手にうなじをおさえられ抱き留められた。
ぬるりとした感触に小娘は驚き、体勢を整えうなじに手を当てる。掌には旦那の鮮血が広がっていた。
「先程まで血を止めぬよう努めていた故に止血が不完全だ」
小娘はテーブルを見遣る。山積された書類の側にはスピリッツの瓶、そして滲み出た血液で紅色に染まった盆が瞳に映る。
小娘は鮮血が流れる左手を取ると唇を寄せた。そして名残惜しそうに手を離し旦那の胸に抱きついた。
すん、と小娘は鼻を鳴らすと大好きな旦那の香りを嗅ぐ。シャンタルの香水の匂いはしない。ムスクとスパイスとハーブが織り混ざった旦那の香りが鼻腔に広がる。
「明日、街へ出る。付いて来給え。重要な話だ。シャンタル嬢や街の有力者、銀行、商会等を集めて話をする。島民には必要な事だ。次ばかりは成功させねばならん……察しの良い弟子なら分かるな?」
旦那のポエットシャツを握りしめる小娘の手が震える。……シャンタル? 有力者? 銀行? 小娘の脳内は混乱する。
「粗相の無いよう『いい子』にし給えよ」
……俺も小娘同様話がよく見えねぇがきっと嫌な予感は当たるんだろうな。島民に必要な事……島主がいつまでも独り者で居る訳にいかねぇもんな。四大精霊や古い友人に政治を丸投げするよりも、聡明で機転の利く伴侶を得て島主自らも伴侶と友人たちの輪に加わり島の政治を執る方が島民としては安心出来るもんな。
しかし酷な事を言うもんだ。『自分とシャンタルの為にいい子でいろ』だなんて。小娘はいつも『いい子』にしている。行き違いやすれ違いもあるが小娘は命をよく聞き遣いをこなし、勉学に励んでいる。同年の子供じゃ考えられない程に大人の言う事をよく聞く。所謂『都合のいい子』だ。大好きな旦那の思うように務めたい、嫌われたくない、好かれたいと強く思って『いい子』にしている。小娘だって一人の人格だ。これ以上の『いい子』を望めば壊れちまう。それも旦那一人の為ではなくシャンタルの為だなんて。
先生はシャンタルを心の底から愛しているのだろう。『いい子』を強制し自分を上手く丸め込もうとしているのではないか? 不安に駆られ嫉妬に悩む小娘は顔を上げない。
そんな小娘の赤毛を旦那は撫でてやった。小鳥の雛を愛しむように撫でてやった。
翌日は酷いモンだった。
朝からお通夜さながらだ。いや死刑執行当日だ。泣き腫らした小娘の瞼は絵本の赤ノネズミと青ノネズミのパンケーキさながら膨れていた。すんげぇブス、気の毒になる程にブス。蛇頭のメドゥーサも裸足で逃げ帰る程にブス。あまりもの酷さに旦那が氷を持って来た程だ。
しかし旦那に憤る小娘は受け取った氷を瞼に当てず口へ放り込むとバリバリ噛み砕く。小娘の不機嫌の理由に見当もつかぬ旦那は苦笑を浮かべた。
ケンタウロスのコードバンの背に揺られ街へ出ると、カフェへと向かった。昨日シャンタルをエスコートした所為か旦那に近付く女はいない。無表情なりにもどこか安堵の表情を浮かべる旦那を小娘は詰まらなさそうに見上げる。
貸し切ったカフェには既に名士が集まっていた。シャンタルやシルフのケイプを始め、銀行頭取のよぼよぼゴブリン、木版印刷屋の朱河童、薬局のケイロン、大工の親方の人狼、中央地帯にあるオリーブ大農園のオーク、そして赤い帽子を被り赤いインパネスコートを纏った見慣れぬチビ助が卓に座していた。
うっひゃー、おっさんじじいばっかじゃねぇかクソつまらん席だな。いやチビ助は面白いぞ。靴にコートに鞄に帽子に全部赤だ。センスが狂ってら。背の低い思春期前の雄ガキだ。プチトマトみてぇ。
よぼよぼゴブリンの背後の壁ではスケッチブックを抱えたイーヴォが眉を下げて佇んでいた。視線が合うがイーヴォは直ぐに伏せた。……惚れた女の結婚宣言を今から聞く訳だからいたたまれねぇよな。
ワイナリーのデカい風景画が掛かった上座へと旦那は進む。座すと斜向かいの席でハンカチを揉むシャンタルと軽い挨拶を交わす。シャンタルの左手に鎮座した大粒のダイアモンドリングが燦然と輝く。俺を肩に乗せ俯く小娘は旦那に従い絵の側に佇んだ。
ん? 夫婦の宣言するなら普通、横並びするよな? あんで別々なんだ?
書類を取り出す旦那を横目に何かおかしいぞ、と小娘の頭を引っ張ろうとすると聞き馴れぬ好青年の声が場を制す。
「ニエちゃんだろう?」
初夏の緑を偲ばせる若々しい声に小娘と俺は途惑う。イーヴォを見遣る。しかし目を丸くしたイーヴォは慌てて首を横に振る。
確かに穏やかなイーヴォの声じゃないよな。それに馴れ馴れしく『ニエちゃん』だなんて呼ばない……じゃあ誰なんだよ。
「会いたかった。噂に違わぬ可愛いおチビさんだ」
グラスに満たされたワインを回しつつ声を掛けたのはプチトマトさながらのチビ助だった。
小娘と同じくらいのチビの癖にチビなんて片腹痛いぜ。味が分からん生意気クソガキがワインなんて嗜むなよな。
鼻を鳴らす俺を他所に小娘は丁寧にお辞儀する。
「そんな所で突っ立ってないで膝にお乗り」生意気クソチビは自らの膝を叩いた。
満面の笑顔と臭い台詞に面食らった小娘は旦那の背後に身を潜める。旦那は書類から顔を上げずに窘める。
「……キリアン、その辺にし給え」
え? 名前がキリアンで赤がトレードマークつったら……クルーラホーン商会の会長じゃねぇか。若いって聞いていたがこんなに若いたぁ……びびったぜ。流石爪弾き者や規格外、変わり者が集う辺鄙な島だ。うわー鳴き声に出して揶揄わんで良かった。
赤尽くめのチビもといキリアンは肩をすくめ悪戯っぽく微笑する。
「今回もバックアップするのは僕だよ?」
「……君の商会にのみいくばくかの利益が出るビジネスとして今回も頷いた筈だ」旦那は眉間に皺を寄せた。
「確かに今回はアンタが指揮を執っている。しかし我が商会は前回損失を受けた。今回は利益を生まないと割に合わない。……聡明なアンタなら僕の言いたい事分かるよね?」キリアンは足を組み替えた。
旦那は長い溜息を吐く。
「酌する女ではない」
「当然。ディオニュソス同等、古い友人たるアンタの弟子だ。僕はそれなりの待遇を考えている。商人共の話で聞いてるよ。よくお遣いに来てはニコニコ愛想振りまいてるってね。気立てもいいし、働き者だし、素直だし、誰にでも思いやりがあって愛らしい。福の神じゃないか。福の神が僕の山の神ならこれ以上願っても無い事だ。商会はますます発展する」
皺寄った眉間を旦那は揉む。案じた小娘は旦那のシャツをぎゅっと握りしめた。
クルーラホーンってのは酒蔵に住みつく妖精で酒蔵の番人とも称される全身赤づくめのじじいだ。島一番のワイナリーのオーナーたるディオニュソスのおっちゃんとクルーラホーンのキリアンは旦那とは古い付き合いだ。キリアンは島の酒を始め食い物の販売……いや経済と流通を握るどデカい商会のトップで旦那と争う程の富を握っている。そんな奴がに小娘が見初められるとはな。ってか見た目がクルーラホーンにしては規格外のガキなのに旦那と対等なんて……いや旦那を困らせるなんてキリアンは相当キレる奴だ。
「コレにも好みがあるからな」旦那は小娘を目の端で見遣った。
「当然。この後ゆっくり口説かせて貰うよ」キリアンは微笑んだ。
話が纏まる頃には陽が傾いていた。『可及的速やかに』との号令に名士達は遣いを呼んだり書類を眺め推考しつつ茶を飲んだり、各々の役目に取り掛かっていた。
旦那はシャンタルやケイプ、ケイロン、オークのグリエと顔を突き合わせ事細かく製品の話をしている。一方クルーラホーンのキリアンは眉を下げた小娘の片手を握りつつ、頭取や人狼、朱河童と共に生産と流通の話をしている。
小娘の肩の上で俺は溜息を吐いた。
……結局、結婚のけの字も出なかった。石鹸を安価に大量生産し、流通させ、島民に手洗いを習慣づけさせるのが旦那の目的だった。
以前北の街の纏め役であるケイプに任せた話だが頒布の仕方に悩み行き詰まったらしい。どうすれば石鹸使ってもらえるか、どうすれば広く行き渡るか。ケイプは幾度か『石鹸は汚れを落とすし黴菌から身を守る非常に良いものだ』と島民に手洗いを推奨した。しかし広まらなかった。人々の購買欲を煽る為にコレクション出来る記念コインを入れて販売したが大した成果はでなかった。結果、工場は潰れ損失だけが残った。
そうこうしている内に旦那やケイプと最も縁の薄い東の街に病が蔓延した。
石鹸を使用した手洗いで大概の病を防げる。その価値を(痛い目に遭っても黴菌やら病原菌と言う観念がないので)人々は分からない。また楽しめもしない食べられもしない物に金を払いたくないのだ。
思わず金を支払いたくなるような……石鹸を積極的に使いたくなる工夫はないか、手洗いを習慣づけさせる方法はないかと旦那とケイプは頭を抱えていた。
そこにあの流れ者たる東の街の男が起こした誘拐事件で宝石商のシャンタルと旦那が知り合った。旦那は脳内で算盤を弾く。シャンタルは自分に気がある。商談を持ち掛ければ多少不利でも頷いてくれるに違いない。そして『パンがないならお菓子をお食べ』理論で『記念コインがダメなら金目の宝石入れたらいいじゃない。換金出来るし可愛いし』と旦那はたらし込んだシャンタルに商品として価値が低いクズ宝石を卸す事を頷かせた訳だ。
つまりシャンタルの恋心を利用し島民の救済をしたって訳だ。
まったく喰えねぇ男だぜ。そんな腹づもりなら小娘にちょろっとこぼしてやってもいいのによ。可哀想に純真な小娘は『大好きな先生がシャンタルと結婚しちまう』と絶望のドン底だ。
左手で書類にサインし呼び寄せた部下共に指示を出したり、オークや人狼の親方に空いている土地に工場を建てる話を進めたりとキリアンも忙しい。しかしそれでも小娘の手をずっと握っている。異性から『女性』として初めて向けられた好意に小娘は困惑するが旦那の友人なので安易に手を振り解けない。瞳を潤ませて俺を見遣ったり、頭取やシャンタルと額を寄せて話し合う旦那に視線を送ったり、その場で足踏みしたりと小娘は忙しない。……どうにもならん。我慢しろ。
「前回の工場を早急に取り壊したのが勿体なかったな。でもまた君の会社に利益が出る。どうせハンスの金だからね。資材はこの後僕が問屋に話をつける。取り敢えずは明日からでも直ぐにあの土地に基礎を築いて欲しい」
大工の親方の人狼と話を進めるキリアンはふと気が付く。キリアンの上がった片眉に小娘は漸く離して貰えるチャンスが来たと腕を引っ張る。
「当分は無料頒布でその内経営者据えて低価格で販売するんだろう? その際は僕の推薦を通させてね。時に宣伝はどうする?」キリアンは旦那を見遣りつつも小娘の手を握り返した。落胆する小娘を他所に旦那はキリアンを見遣る。
「……朱河童印刷にポスターを注文するつもりだ。しかし文章のみでは前回と同じく印象が薄かろう。広告塔に誰かを据えるべきだ」
「じゃあハンスやれよ。アンタは女ウケがいい。買い物が好きな上に財布の紐が緩いのはは男よりも女が多いからな」
旦那は鼻で笑う。
「冗談を。……街が穏やかなのは私が穴蔵をきめているが故だ。それに女だけが手洗いしても話にならん。……共感しやすく見栄えがする者がいい。シャンタル嬢如何かね?」
突如話を持ち掛けられたシャンタルは眉を下げて微笑む。
「見栄えするなんて光栄だわ。……でも嬉しい話ですけど辞退します。宝石屋のトップが看板になると金儲けだと思われて失敗するわ。石鹸だけではなくて私の事業の心証も悪くなりますし……。ハンス様を始め、名士達が起こす慈善にも近いこの試み、成功させるにはトップの顔を出してはなりません。一切の利益を得ない無垢な者を立たせるべきだと考えますわ」
微笑みつつも一経営者として芯のある発言に男達は唇の片端を上げて笑む。男共を蹴散らす幼なじみの勇姿に壁に佇むイーヴォは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあニエちゃんがいいな。僕のニエちゃんをポスターで見せびらかしてやりたい」キリアンは小娘をぐいと引き寄せる。驚いた小娘はバランスを崩しキリアンに寄っかかった。
キリアンは小娘を抱き直す。
「ハンスに泣かされたのか瞼が晴れちゃってるけどさこの娘、華があるから誰もがポスターに目を留めると思うよ。純真な子供が顔になるならお金臭くないでしょ? ニエちゃんなら納得じゃない?」外見がクソガキに見えても老齢なキリアンはにっこり笑った。
外見は小娘と同じだからお似合いの恋人に見えるが旦那と同じく何世紀も生きてる凄まじい年寄りなんだよなこのとっつぁん坊や。
しかし旦那は頷かねぇだろうな。メディアなんざ大嫌いだしきゃあきゃあ騒ぐミーハー女も嫌いだし流行の最先端なんぞもっと嫌いだ。軟派が大嫌いだ。大嫌いなモンを弟子に背負わせたくはなかろう。
眉間に皺を寄せた旦那は小娘をちらりと見遣る。『助けてくれ』と小娘はエメラルド色の瞳を潤ませ旦那を見つめる。
眉間に皺を寄せた旦那は顎をさすると溜息を吐く。
「……構わん。シャンタル嬢の話を聞いてから半ばそのつもりだった」
旦那の命令に小娘は項垂れた。キリアンは満面の笑みを浮かべ小娘を抱きしめ頬擦りする。やめろ。野郎の頬なんざ擦り寄せられたくない。小娘の肩に乗る俺まで巻き込むな。
「やったね。しかしそうなると誰がニエちゃんの絵を描くかだ。ハンス、木版印刷屋を呼んだ癖に何故画家を呼ばなかった? 画家が先だろ?」
「画家ならそこに居るだろう」
鼻を鳴らした旦那は壁を見遣る。一同もそれに倣い見遣る。壁にはイーヴォが所在なげに佇んでいた。
「……私ですか?」イーヴォは瞳を丸くする。
「他に誰が? 頭取の息子として呼んだ覚えはない。君の画力が必要だ」
旦那は鼻を鳴らすと視線を書類に戻した。そんな愛想のない旦那にイーヴォは深く、勢いよく頭を下げる。
良かったじゃねぇか! 旦那に目をつけられるって事は金になる、大成するって事だぞ!
自分の事のように嬉しいのだろう。お人好しの小娘もキリアンの縛を振り切りイーヴォに抱きつき、溢れんばかりの笑顔を浮かべた。
「イーヴォ、悪いが給金は出せぬぞ。……島主の私を始め、ここに集う名士達が島民の為に尽くすのだからな」
「滅相も御座いません。こんな機会を与えて下さるとは恐悦です」イーヴォは再び深々と頭を下げた。
「代金を請求するならばケイプや私ではなくキリアンにし給えよ。今回、前回の利益を補填するのは彼のみだ。……しかしポスターのみでは宣伝効果が低かろう。石鹸を包む紙の意匠も考え給え。島民一人につき一つに配る予定だ。金を得る事が出来ぬ分、名を売り給え」
それから一月も経たない内に街角にポスターが貼られ、ビラが配られた。モノクロの世界で小娘が泡だてた石鹸で手を洗っている。銀行でのおやつの前だったり印刷所や農園そして宝石のカットの仕事上がりだったり出資者達の生活や家庭の風景を何パターンも描いた物が北の街のあちこちに貼り出された。旦那の話では北の街のみならず島の各地域に満遍なく貼り出されているらしい。(俺が言うのは癪だが)愛らしい少女が農夫や商人、行員の姿で石鹸を泡だて、懸命に手を洗う様が大衆にウケたらしい。石鹸を無料頒布する以前から話題になった。
東の街を皮切りに石鹸を頒布すると強い反響があった。石鹸に仕込まれた小さな宝石を早く取り出したいと島民達は作業後や帰宅後、そして食事の前の手洗いに専念した。特に炊事場に立つ事が多い女どもはこぞって手を洗うようになった。どの石鹸にも小さなクズ宝石は仕込まれているが何千個かに一個だけ大当たりで大粒のダイアモンドの指輪が入っているらしい。俺と小娘とイーヴォが街で見かけたシャンタルの左手のあの指輪だ。あれのお蔭でただでさえ金が嵩むのに更に酷く嵩んだらしい。しかしその甲斐あって皆こぞって手を洗い、それが習慣化し今年の冬は疫病が流行らなかった。
一方でポスターや石鹸の包装紙のデザインを担当したイーヴォは一躍時の人となった。石鹸が普及した今では石鹸工場の広報の専属デザイナーだけではなく、キリアンのクルーラホーン商会やシャンタルと手を組みデザインの仕事をこなし売れっ子として非常に忙しいらしい。更には金持ち相手に絵も売っている。父ちゃんの銀行の手伝いをしている暇なんて一秒もない。……一人前になったのだ。
イーヴォ不在の銀行から貸金庫の解約を勧める封書が届いた。石鹸普及に旦那が尽力したので財が殆ど無くなってしまった。……贅の限りを尽くした豪邸を建てられる程にあったのに。印刷工場や商会を始め薬局等への手間賃、大工の給料、オリーブ農園への支払い(石鹸はオリーブオイル製なんだぜ)の所為だ。島主として大半の資本を出さなければならない。……ウチが豪邸じゃないのも納得いったぜ。
封書ばかりではなく各地方の村長からも礼の手紙が届き、更には小娘を拐かそうとした男からも礼と謝罪を綴った手紙が届いた。東に住んでいた男は現在、中央地帯に引越し、石鹸工場で働いているそうだ。
財が空になっても自らの計らいが功を奏し旦那は満足そうだった。
旦那は貸金庫の解約、各工場や企業への振り込み、その後の石鹸の販売方法、キリアンへ石鹸工場の権利の譲渡等、書類仕事に追われている。しかし家に引き篭もれる所為か以前よりも機嫌が良さそうだ。
そんな多忙の旦那を気遣い、銀行からの遣いから戻った小娘は茶を淹れてやる。新しい年になったってのに節制に続く節制で旦那や自分好みの高い茶葉を買えない。しかし家に平穏が戻り幸福そうだ。
書状に目を通す旦那に小娘はティーカップを差し出した。礼の一つも溢さず字面を追う旦那を見上げて微笑むと盆を胸に抱きくるり踵を返す。
「……シャンタル嬢からの書状だ」
久しぶりに聞く平穏を裂く女の名前に小娘の両肩は瞬時に上がる。それを目の端で見遣っていた旦那は喉を小さく鳴らし笑む。
「春にイーヴォと式を挙げるらしい。収まるべき所に収まったな」
未婚の美人と言う脅威が消えた事、そして世話になったイーヴォの想いが実を結んだ事に小娘は満面の笑みを浮かべる。
「新郎は名の売れた画家故にシャンタルと並んでも見劣りしないだろう。いや、イーヴォには商才なくとも愛する者や絵を諦めぬ力があったのだ。大成するだろう。……近くに招待状を出す予定らしいが……私は人を惑わせる上に教会は好きでは無いからな。式の日は家で過ごすとしよう。アルレッキーノを連れ出席し給え。祝いの金を包んでおこう」
こっくり頷いた小娘は盆を抱き直すとキッチンへ退がろうと軽やかなステップを踏む。後ろ姿を眺める旦那はふと気づく。
「待て」
リビングにトーンの低い旦那の声が響く。
驚いた小娘は徐に振り返った。眉を下げ不安な表情を浮かべる。今の態度は良くなかった、浮かれるなと咎められるのではないか。そんな不安がマントルピースに寝っ転がる俺からも見て取れた。
「来なさい」
非常に響く旦那の命に小娘は渋々歩み寄る。お叱言だ。大好きな先生に嫌われてしまう。盆を強く抱きしめた小娘は自らの爪先を眺めつつ、カウチに座す旦那の膝下へ寄った。
旦那はしょぼくれる小娘を見下ろす。
「顔を上げ給え」
小娘は恐る恐る顔を上げる。しかし旦那の口は開かない。自分をしげしげ眺め、顎をさする旦那に耐えきれず小娘は瞼をぎゅっと閉じた。
「……背が伸びたかね?」
思いがけない言葉に小娘は瞼を上げる。
「伸びた筈だ。いや伸びたな。柱に背を」
言われるがまま小娘は背比べの柱に背をつける。カウチから腰を上げた旦那は柱に寄ると屈む。逞しい膝に押されてベストの腹ポケットからチェーンで繋がれた懐中時計が顔を覗かせる。
直立不動の小娘の頭に手を乗せ、小娘の髪を撫でつけ前回の柱の傷を探す。しかし傷は頭に隠れて見えない。
「少々伸びている」
微笑を浮かべた旦那は立ち上がる。すると懐中時計がポケットから滑り降りる。チェーンで宙ぶらりになった拍子で留め金が外れ、蓋が開く。蓋と文字盤の狭間から折り畳まれた紙切れが落ちたのが小娘の瞳に映った。
眉間に皺を寄せた旦那は再び屈み、拾おうとする。しかしチビで小回りの利く小娘の方が早かった。旦那は苦笑を浮かべた。
旦那の落とし物を拾い上げた小娘は紙切れを開くと思わず口を開いた。
小娘が手にしたのは石鹸の包装紙に描かれた自らだった。
包装紙を開き自分を見上げる小娘のエメラルド色の瞳に耐えきれず、旦那は外方を向く。
「……希望を胸にいつか君は家を出るだろう。師や親は虚しいものだ。雛が若鳥となり巣立てば何も残されない」
観念した旦那は長い溜息を吐くと小娘の頭を撫でると人差し指で赤毛を一条すくう。そして胸ポケットに手を差し入れると赤毛の束を取り出した。
「未来を偲び虚しさを覚えていた矢先にシャンタル嬢の手提げに君の髪が絡んだのだ。手提げに絡んだ髪を断つ事でシャンタル嬢との接点を無くせるとも思ったのだが……私にも何かを残される機会だとも思った。……宝石商たるシャンタル嬢は若くとも老獪だった。ならば好意を利用しようと石鹸に入れるクズ宝石を利益分の金額を省かせ私に卸させた。意図を理解しない君は杞憂を抱いてむくれ、私は困らされたものだ」
石鹸の包装紙に小娘の涙が降り注ぐ。
モノクロの紙の世界ではイーヴォが抱えるフィナンシェの籠の傍で手を洗う小娘が微笑んでいた。
「悪魔の許で魔術を学び数年経つ。偶に成長の片鱗を見せるものの術が安定せず高等術の初歩すら届かない。薬草学や医術ばかりに傾倒し実践には全く向かない。師としては頭が痛い。ナイフ投げを教えても満足に出来ぬのにイーヴォの許でダートを簡単に覚え、生まれて初めての嫉妬に途惑い、キリアンに気に入られ、背も伸ばすとは……。いつまでも子供だと思っていたが……大人になるのだな」
旦那は寂しそうに微笑を浮かべた。
「成長しないのも頭が痛いが、早く大人になるのも心が痛い。あまり急がないでくれ」
こっくり頷いた小娘は涙を拭う。
ごう、と湿った強風がマントルピースの傍の窓を揺らす。いつまでも動かぬ冬将軍の尻を蹴り上げる花の女神の風だ。
膨らむ木の芽と同じく小娘は成長する。
旦那の『子供』で居られるのもいつまでやら。
了
小娘と遣い魔 乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh @oiraha725daze
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