「悪魔の休日」〜ちっとしか出ねぇが俺の伝説その三〜

 セピア色の大地が続く一帯にも風は緑の匂いを運ぶ。


 ニエを引き取ってから二度目の夏が到来した。


 悪魔ランゲルハンスは大きな体を折り、汚れで曇った小さな窓から荒地を覗く。昼の強い光が眉弓を突き刺す。彫りの深い顔を一層顰め、広大な土地を見渡す。土の匂いが立ち昇る。昨晩まで雨が降った所為だろう。


 止んで安心した。ニエが留守の内に片付けよう。


 雨天に作業する訳にはいかぬ。新たな家具を向かいの家に搬入するのだ。しかし晴天ならばいつでも良かった訳では無い。空き家に家具を運ぶが故にニエに疑問を持たれるのが面倒だ。故に風の匂いや気候を入念に調べ、天気を予測した。そして適当な日に当たりを付けるとニエとお調子者(アルレッキーノ)をディオニュソスのワイナリーへ追い出した。


 島を震撼させたあの事件から初めて連絡を寄越した事、そして隠者の大男が小娘を寄越した事にディオニュソスは甚だ驚いていた。理由は聞かれなかったが『呑みに来い』と強く要求された。しかし顔を出しては作業が進まぬし、何よりあの事件以来人が多く集まる場所が苦手だ。酒の神たる彼が醸造する逸品……特に秘蔵のワインを呑めるのは非常に魅力的だが。


 ……ニエはどうしているだろうか。


 七日前の朝、出立前の事だ。彼女は泣いていた。夜通し泣いていたのかもしれない。白目が嫌に赤かった。


 朝食を作ると……熱したフライパンにバターと卵を落とすと彼女は階段を駆け下りダイニングに顔を出す。深呼吸し胸いっぱいにオムレツの香りを満たすと微かに甘い香り……ハーブの香りがする水場に溜まった調理器具を洗い、自らの顔を洗う。そしてワンピースの裾を摘み、お辞儀をすると満面の笑みを向ける。それが毎朝の儀礼だ。しかしその日は顔と調理器具を洗えども、お辞儀をしようともニエは決して晴れやかな表情を向けなかった。出立の際にも玄関で脚にしがみ付き、なかなか離れなかった。鼻をすすり、首を横に振っていた。叱責して言う事を聞かせたが半刻も削った。その所為で彼女を乗せるコードバンが急用で営業所へ戻り、代わりの新顔ケンタウロスに乗せる羽目になった。


 一体何が不満だったのだろうか。滞在先であるワイナリーの主人は気のいい男だ。古き良き友人だ。それにニエよりは年上だが若者も沢山居る。この時期なら終始手伝う状況ではない。午後になれば暇を持て余した若者達に遊んで貰えるだろう。いい息抜きだ。故に長期預けたのだ。遣いや勉学に追われる彼女にとっても仕事を片付けたい私にとっても利点しかない。


 溜息を吐き、窓を閉めると足許に遣い魔どもが集まっていた。懐中時計を見遣ると既に正午を回っている。一通りの家事、気象調査、魔術工房の片付け、道具の発注、地方権力者から届く手紙の開封や仕分け等雑事も終ったのだろう。午後の指示を仰ぎに来たらしい。


「ご苦労」


 左掌を開き、人差し指の爪で皮膚を破る。遣い魔どもは床へと滴り落ちる紅い雫をこぞって口にする。


「用はない。速やかに散れ」


 遣い魔共は口許を拭うと散じた。


 不死の身であるが故、そして心臓に異物を取り込んでいる故に治癒魔術は自らに使えない。床に血液を滴らせつつ、庭へ出ると鉢から血止め草を摘む。掌に貼るとポーチの方から物音がした。


 懐からペンを出しつつ雨でぬかるんだ道を進む。さっさと仕事を済ませて積んでいた書籍を読み進めてしまおう。子供を引き取ってから読書の進みがどうも芳しくない。アルレッキーノに面倒を押し付けているとは言え手に負えなくなると彼奴は泣きつく。……子供にしては分別を心得るニエはおっとりしているが時々予想外の理由でお転婆し、言う事を聞かぬので頭が痛くなる。……それで七日前の朝も頭が痛くなった訳だ。


 ポーチへ向かうとミノタウロスのダイダロスが寝台をぬかるんだ地に置き、何処ぞから拾っただろう紙巻き煙草を吹かしていた。牛頭特有の巨大な鼻の穴から噴き出た紫煙は新品の高価な寝台に掛かる。磨き上がれた脚は梱包されず、泥を被っている。


 ランゲルハンスは咳払いをした。すると北の街一、二番を争う程の巨躯のダイダロスは瞬時に煙草を地へ放る。そして反芻しつつ寝台を持ち上げ愛想笑いを作った。


「ノッカーを叩こうと想いましたが両手が塞がっているもので」


「呼べば良いだろう」眉一つ動かさずランゲルハンスは血止め草を口に放る。


「まさか。島主様をお呼びたてなんざ出来ませんよ」


「では私が気付くまで君は佇んでいたと言うのかね?」


「左様で」ダイダロスはくちゃくちゃと反芻しつつ屈託なく笑った。


 ランゲルハンスはダイダロスの鳶色の瞳を見詰める。


 サボっていた癖に呆れる。北の街に居る輩の殆どがこの調子だ。悪魔であり島主たる自分に遠慮なく神の御子の誕生日を盛大に祝う。その癖に流行病や金が掛かる問題が浮かぶと泣きつく。……不出来のお調子者とは言え素直に悪事の次第を説明して頭を下げるアルレッキーノの方がまだ可愛げがある。


 ……それでも島民はニエと違い無い。あの男が……あの心根の優しい、悲しい男が運んで来た魂達だ。皆、私の『子』だ。家具の運搬方法だろうと神の御子の生誕日であろうと些細な事に怒りを覚える必要は無い。ダイダロスとて島民の一人だ。『子』に変わらぬ。


 鳶色の瞳を凝視していると消化物を飲み込んだダイダロスは眉を下げた。


「……すんません。嘘です」


 物思いに耽っていただけだがダイダロスは睨め付けられたと想ったらしい。巨躯を折り畳み、頭を幾度となく下げた。


「そうか」


 ランゲルハンスは構わず受取書にサインする。地に放られたままの吸い殻が視界の端に入った。目障りだ。ダイダロスに受取書を突きつけると火が点いている煙草を摘まむ。外には捨てる場所が無い。しかしこんな毒物を家に持ち込みたくもない。


 鼻を鳴らしたランゲルハンスは火が点いた吸い殻を口腔へ放り込んだ。


 じゅ、と燃焼現象が終了する音がランゲルハンスの咽頭から響いた。


 一部始終を見詰めていたダイダロスは思わず口を開く。精悍な顔から多量の汗を流すがそれに気付く余裕は無い。島一番の権力者であり送り先の主である悪魔の奇行を怯えて眺める他なかった。


 顔から血の気が失せたダイダロスなぞ気にもとめずランゲルハンスは煙草を嚥下する。刻まれた葉が乾いた喉に引っかかるのが気になったが胃の腑に落ちたのを感じた。これでいい。たかが煙草だ。以前盛られた毒よりも随分と可愛げがある。強酸に溶けてしまえば無になるだけだ。……しかしどうにも火の点いた物を飲み下すと喉がエグい。


 ランゲルハンスの咳払いにダイダロスは我に返る。彼は首に掛けていたタオルを取ると寝台を片手で持ち上げ、寝台の脚を拭く。


「お、お部屋まで届けます」


「断る」


「……お怒りは御尤もですが……その、仕事ですし」


「憤ってなぞない。構うな」


「でも……」


 隣の空き家に運ぶ荷物だ。余計な詮索をされたくない。そうでなければ噂になり、いつかあの家に住む者が贔屓だと反感を買う。ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「やり方があるのでね」


「せめてものお詫びです」


 誤解されるなら物思いに耽るのではなかった。ランゲルハンスはダイダロスを睨め付けた。


「可及的速やかに営業所に戻り給え」


 見た者を永久に凍り付かせる冬将軍の眼差しにダイダロスは蹄の脚を震わせ、鳶色の瞳に涙を浮かべる。


 強者と弱者、支配者と被支配者、ライオンとネズミが互いを見据える。


 ダイダロスは戦慄しても視線を外せなかった。外したが最期、うわばみのように不気味で奇怪な男に飲み込まれると想ったからだ。


 静謐でいて張りつめた、失透を起こし今にも砕けそうなガラスを偲ばせる雰囲気を破ったのは闖入者だった。


「よーう。元気かハンス。わざわざ遊びに来てやったぜぇ」


 空から狐顔の細身の男が宙返りをして舞い降りる。ダイダロスとランゲルハンスの間に舞い降りた彼はシルフのケイプだった。


 彼に会うのは何百年振りだろうか。島民を管轄する四大精霊が一体たるケイプを横目で見遣り、ランゲルハンスは舌を動かそうとする。しかしケイプの早口に制された。


「何年振りだぁ? 音沙汰ねぇモンだから寺院の屋上で石化してむっつりしてンじゃねぇかって想ってたぜ?」


「……私はガーゴイルではな」


 ランゲルハンスの挨拶をケイプは遮る。


「あの事件以来お前さん荒地にすっこンでるからなぁ。あのむっつり石像とお前の区別なンざつかねぇよ、とまぁ冗談も程々に。あっしもプーも心配してやってンのに街に顔出さねぇなンてよ。昔から愛想が良かった訳じゃあねぇがあの晩バリバリボリボリ頭から貪り食った野郎みてぇになンとまあ無愛想になっちまって。しっかし私信一つ寄越さねぇってのはどーいう了見だ。嬢ちゃん預かったって風の噂で聞いたぜ? 今日は嬢ちゃん拝みに来てやったンだ。可愛いンだってなぁ。しょっちゅう街に遣いに出てるって聞いてるぜ。しっかしあっしにもプーにも見せねぇでよう、勿体付けやがって。今日と言う今日は拝ませて貰うからな。ンで、嬢ちゃんは何処だい?」


 ケイプは手を額に当て庇を作る。長話に辟易したランゲルハンスが片手で頭を押さえているのが見えたが無視し、切れ長の眼を見開き周囲を見渡す。すると背後に佇み、呆気にとられているダイダロスに漸く気付いた。


「あンれま。ダイダロスじゃねぇか。どうした? ンな重そうなベッドなンざ持って突っ立って。こンな荒地に何用だい?」


 我に返ったダイダロスは太眉を下げて瞳を潤ませる。そして寝台から手を離すとくるり背を向け街へと一目散に駆け去った。


 要領を得ないケイプと無表情のランゲルハンスは荒地の道を見詰める。


「なンでい」肩眉を顰めたケイプはランゲルハンスを見遣る。


 長い溜め息を吐いたランゲルハンスは経緯を搔い摘んで話した。無論、寝台の主が誰であるかを伏せて。


 理知的で深く低い声が静かに荒地に響く。


「……そりゃ調子ブッこいたダイダロスが悪ぃな。島主様をおかんむりにさせちゃあ終いよ。更には島民なンざ頭上がらねぇ魔術師様だ。その気になれば一瞬にして首が地に転がっちまう。だのに……お前さんも気が長いってか、大分我慢したな。あっしならケツ蹴っ飛ばしてる所だ」ケイプはフンと鼻息を鳴らす。


 ランゲルハンスは瞼を閉じた。


「しっかしハンス、お前さんも悪い」


「……何故?」ランゲルハンスは瞼を上げる。


「ビビらせ過ぎだわ。言葉が足りねぇ。それに火が点いた煙草を飲み下すなンざなかなか出来ない芸当よ」


「誰しも出来る訳では無いのかね?」ランゲルハンスは表情一つ変えずに問うた。


「ったりめぇだ。馬鹿か!」


 ケイプは呆れ笑うと再度荒地とランゲルハンス宅を見渡す。


「ンで、肝心の嬢ちゃんは何処だい?」


 ランゲルハンスは寝台の脚の泥を払う。


「追い出した」


「へ?」


 ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「……何処に?」ケイプは細眉を顰めた。


「ワイナリーだ」


「んんっ? するってぇと季節外れの手伝いか? 今の時期なら芽かきかい?」ケイプは髪を掻き乱す。


 ランゲルハンスは頷いた。


「っかー。相変わらず紛らわしい言い方すンなぁ。ンじゃいつ拝めるんだい? 明日かい? 明後日かい?」


 肩をすくめたランゲルハンスは小さな溜息を吐いた。ケイプは髪を掻き毟る。


「っかー。秘密主義も相変わらずって所だな……ま、宝物程他人に見せたくねぇわな」


「ただの弟子だ」


「またまたぁ。可愛くねぇ野郎だぜ」キツネ顔に悪戯っぽい笑みを浮かべたケイプはランゲルハンスの腕を小突いた。


 ランゲルハンスは長い溜息を吐く。夏至が近付いている所為だろう。この時期の精霊やニンフは活動的だ。力が有り余っているが故に普段なら足を伸ばさぬ場所へと気軽に出向く。賑やか師であり社交家であるケイプの場合、もてなさずに『帰れ』と言っても聞かないだろう。……東の街から取り寄せた希少な茶葉で作ったアイスティーがあった。三十分ももてなせば帰るだろう。


「ようよーう、この大人用寝台、噂の嬢ちゃんのか? 嬢ちゃん、ちンまいって噂だけどよ、でけぇのかい? ま、お前さんやダイダロスに比べりゃちンまいだろうがよ」


「狭い場所に運ぶ故、手伝いは無用だ」


 断りに構わずケイプは寝台をまじまじ眺め『良い木材使ってンなぁ。東の方のブランドだよな? まーた高ぇ買い物しやがって、この金持ちが』とヘッドボードを軽く叩く。ランゲルハンスは眉間に皺を寄せる。余計な興味を持つとは……。気を逸らさねば。


「眼鏡と髭社の限定茶葉である官僚的なソナチネが手に入った。冷やすと美味だ。振舞おうではないか」


「パス。あっしは茶に興味ねぇ」


 ランゲルハンスは舌打ちする。


「……先日菓子を焼いたのだが」


「それもパス。茶ぁより酒の気分な訳よ」


「では花冷え種の」


「いンや遠慮しとくわ。まっ昼間から呷ンのはプーに止められてるンだ。腹に脂肪が付くってな。だからよ、寝台の搬入手伝いてぇ訳よ、どの部屋まで運べば良いンだ? 物で溢れかえったお前さん家が狭いのは重々承知だっての」


「独りで出来る」


「あっしは手伝いたいンだよ。ここン所体力が有り余って仕方ねぇんだ。どうせ魔術でパパッと上げちまうんだろ? 楽するな。体を動かせ。腹に肉が乗るぞ中年め」


 ランゲルハンスは長い溜息を吐く。乗り気であるなら幾ら断ろうとも詮無い。島民の一人たるダイダロスとは違い、四大精霊であり一部の島民の管轄者たるケイプは島主たる自分と同等だ。そして古くからの友人だ。無碍に出来まい。


「勝手にし給え」


「そうするぜ」フンと荒い鼻息を漏らしたケイプは寝台のヘッドボードを持ち上げるとランゲルハンス宅へ引きずる。


「家ではない」


「そしたら何処へ搬入するンだよ。庭にでも運べってか? 嬢ちゃんのツリーハウスでも作ンのかい? 日曜大工なら好きだぜ。力有り余ってるからなぁ」ヘッドボードから手を放したケイプは掌底で鼻をこねる。


「……案内する」


 向かいの家を魔術で解錠しドアを傘立てで押さえるとランゲルハンスは正面に設えられた階段を顎で示した。幅が狭く大荷物の移動に労する階段だ。


「さあ『手伝いたい。体力が有り余って仕方ない』と宣った四大精霊シルフよ、『楽するな。体を動かせ。腹に肉が乗るぞ』と零した中年ケイプよ、どうしても運びたいのだろう? 先陣を切り給え」


 ケイプは苦笑いを浮かべた。


 階段の途中で幾度も休憩を挟み、狭い踊り場でアクロバティックな姿勢で向きを変えケイプは寝台を引っ張り上げた。ミノタウロスのダイダロス程ではなくとも大男たるランゲルハンスはいつも通りの無表情で寝台を押し上げた。ランゲルハンスは息切れを起こすケイプに幾度となく魔術の行使を認めるよう申し出たがケイプは首を横に振った。


 ランゲルハンスの魔術なら……そして家具の配達員であるダイダロスなら一瞬にして終わらせただろう。寝台の搬入を二人は三十分もかけてやり通した。


 二階に寝台を入れるとケイプは尻をついた。普段涼やかなキツネ顔が上気している。額から汗が止めどなく流れ落ちる。息を切らせたケイプは寝台の配置を直すランゲルハンスを見上げた。


「……よ、う。やり遂げたぜ」


 小窓に向かう形で寝台を配置するランゲルハンスはケイプを見遣ると鼻を鳴らす。


「気骨はあるようだな」


「この野郎。あンなに言われちゃあっしも引き下がれねぇわ。全く、スパルタ人も羨むナイスな逆三角形の体躯してンなら率先して引き上げ役買えよ。押すより引く方が辛ぇンだよ。魔界足抜けしても鍛えてンだろ? 毎晩、庭の物干しで懸垂してるって風が噂してンの聞いてンだからな」ケイプは舌打ちした。


「……あれだけ動いても口は疲れぬようだな。大したものだ。では魔術で寝台を下ろし、今度は君独りで上げるかね?」


 ケイプは唇を尖らせた。ランゲルハンスはふ、と唇に微笑を浮かべる。


「喉が渇いただろう。アイスティーでも用意しようではないか」





 ランゲルハンス宅に招かれたケイプは風呂を借りると汗を流した。ランゲルハンスはその間に氷雪セイレンが住む床下倉庫から冷えた茶瓶を取り出し焼き菓子を用意した。


「っかぁー。さっぱりしたぜ」ランゲルハンスのシャツを借りたケイプは生乾きの髪をタオルで拭きつつリビングに現れた。大男たるランゲルハンスから借りたシャツは彼の小さな尻を越え、膝まで隠す。出で立ちはパジャマのようだ。しかし下着を借りる訳にはいかず何も穿けない。股座の風通しが良いのでケイプは苦笑を浮かべる。


 気を取り直しアイスティーが満ちたグラスを掴むとケイプは喉へ一気に送る。それでも乾きが癒えず、ランゲルハンスの分も飲み干した。


「まあまあだな。本当はキンキンに冷えたビールでもガーッと飲み干したい所だがよ」


 口元を拭いおくびを吐くケイプにランゲルハンスは鼻を鳴らす。


「……子供は不在だ。日が高い内からきこしめすなら誂え向きだがね」


「遠慮しとくわ。腹出っ張るとプーが五月蠅ぇからなぁ」


「尻に敷かれているな」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「可愛い彼女がニコニコならいいンだよ」


 生乾きの髪を掻き毟るケイプは外方を向く。片付けの出来ないランゲルハンスらしい。床にはガラクタが詰め込まれたワイン箱が森のキノコさながら群生していた。


 あっしもガサツだがここまでじゃねぇよ。ケイプは溜息を吐く。すると異質なワイン箱が目についた。他のワイン箱は物が山積して溢れ返っているのに、そのワイン箱だけは整然としている。白金の針が刺さった針山や天馬のタテガミを紡いだ糸等の高級裁縫道具を始め、老舗ブロッケン怪物社の豚のぬいぐるみ、フクロウとアテナ社の美麗な表紙の本が整然と仕舞われていた。以前……かつてランゲルハンスが土の精霊と親しかった時代には置かれていなかった代物だ。


ケイプは目を細める。


「……嬢ちゃん、確かにここで生きてンだな」


 ケイプの視線の先を見遣ったランゲルハンスはグラスに付けていた唇を離す。


「悪魔と雖も取って食いはしまい」


「一流職人が使う道具に玩具の老舗や島一番の活版印刷所のラベルが眩しいわ」


「必要最低限の物を末長く使えるように対価を支払っただけだ」


「流石金持ち島主様だ。心配したンだぜ? ……ヴルツェルとはあンな終わり方だったしよ、ハデスに取られちまったとは言えアイツの血を引くホムンクルス娘が居たじゃねぇか」


「……過ぎた話だ」


「沢山可愛がってやれよ」


「……甘やかしはしまい。アレは弟子だ」


「弟子でも娘でもデカくなったらお別れだろ? 黒い森の旦那へ嫁に出す前に愛を注いでやれ。嬢ちゃんの為じゃない。お前の為だ。お前自身の為に可愛がってやれ」


「知識を注ぐのは構わん。しかし情を注げば注ぐ程、裏切られた際に切ない」


「嬢ちゃんはヴルツェルと違うだろ」


 鳥籠の小鳥が止まり木から落ちるようだ。肋骨の奥が……心筋がぎゅ、と疼く。


 シャツの胸許を掴んだランゲルハンスは鼻を鳴らす。四大精霊は苦手だ。過去を知り過ぎている。あの男を話に出す。特にシルフのケイプは触れられたくない部分にズケズケと踏み込み、痛い所を突く。しかしこの胸の痛みは決して不快ではない。最も辛い時に彼は傍で叱咤し、そして慰めたからであろう。あの凄惨な事件でも彼は真っ先に事態を受け止めてくれた。真に欲している言葉を与え、道を示す者……迎合すべきお節介者なのかもしれない。


「別に嬢ちゃんを始め、島民とベタベタ馴れ合えって言ってンじゃねぇぜ? どンなに孤高だろうと他者に愛情を抱かずにはいられないだろ? それが生きるってモンだろ?」


「魔界を追われた時点で死んだも同然だ」


「それでも奴と睦まじくしてたじゃねぇか」


「過ぎた話だ」


「ハンスよぉ」


 ケイプは空のグラスの底を木製のテーブルに打ち付ける。ガラスの音の他にアイスキューブが均衡を崩す音が響く。


「……気付いてンだ。向かいの家、嬢ちゃんのって訳じゃねぇだろ? 木箱に入っている玩具は愛らしいのに運ばされたベッドは飾り気無しだ。誰か野郎を待ってンだろ? ……ヴルツェルか?」


 両腕を組んでいたランゲルハンスは片手で頭を抱えた。遠い昔を思い出す。神とは雖もどうしても欲しい魂だった。現世で彼に会い、その心根と魂に触れどうしても欲しくなった。『やり方が温い』『人の心に染まってしまった』『異端者』と罵られた自分と、神であろうとも神の域を超えられぬ彼の苦悩は似ていた。彼の純粋な悩みもささやかな抗いも愛しく、そして悲しく思えた。彼の苦悩を出汁に使い契約を結んだが未だに彼はこちらへ来ない。……死神たる彼は子孫を残さぬ限り死ねない身だ。厭う仕事を子孫に継がせたくないと女と交わらぬ故に詮無い事だが。しかしそれでも待つ。彼が自由になるのを、友人として隣人として傍に居てくれる事を。


「……遠い昔に契約を結んだ男だ」ランゲルハンスは額から手を離す。


「島に来ないって事はなかなか死なない……精霊か神だな?」


「……死神だ」ランゲルハンスは鼻を鳴らした。


「……心配して損した。ヴルツェルじゃなかったらそれでいい。お前さんも前に進み始めたンだな。安心した。だったら尚更だ、嬢ちゃんを可愛がってやれ」


「程々に。手離す際に惜しくなる」


「親の発言だな」ケイプはカラカラと豪快に笑う。


 世間話の序でに公衆衛生や予防法等、四大精霊であり島の重鎮の一人であるケイプにランゲルハンスは相談を持ちかける。込み入った話は学の無いケイプには理解しかねる。ランゲルハンスは分かり易く例えを出し言い回しを変え、掻い摘んで説明した。両腕を組んだケイプは初めこそ険しい表情を浮かべていた。しかし理解が進むと『ンじゃ病気の予防の為に石鹸を普及させたい訳だな?』『だったらデカい力を利用しようぜ』『クルーラホーン商会に話を持ちかけりゃ食いつくだろうよ。プーの店で定期的に石鹸買ってる。取引があンだ。大量に注文すりゃ安く仕入れられる。それをまず配ればいい』『……そうだな。家庭で定着させるのが問題だよな』『特別な香料入れるとか石鹸中に記念コインが入ってるってのどうだ? 早く使いたくなるぜ?』と嬉々として言葉を紡いだ。


「……君に相談して良かった」紙に案を纏めたランゲルハンスは顔を上げる。


「だろ? あっしは馬鹿だけど天才だからな」ケイプは鼻息を吹いた。


 得意げに笑むケイプのグラスにランゲルハンスはアイスティーを注ぐ。


「ではこの件君が進め給え」


「あンでだよ!?」


「他者の心を掴むのが上手いからな。専門家ではない故に異なる視点も持ち合わせている。柔軟性もある。新しい風が吹く。君が適任だ」


「……ンな事言って面倒押し付けてンだろ?」


 ランゲルハンスは微笑を浮かべた。仕事を押し付けたのも事実だが実際にケイプは適任だ。島民の一部を任せられているものの島民の一人としても物事を考える。弱い立場の者に寄り添う男であるケイプにランゲルハンスは信頼を置いていた。


「わーったよ。やりゃいいンだろ、やりゃ」


 ケイプは鼻を鳴らすとグラスに唇をつけた。するとアイスティーに渦が巻く。驚いたケイプが顔を離すと渦中から腕が伸びる。鳥の蹴爪のように鋭く黒い爪、コウモリのように薄く張られた漆黒の皮膚、細くとも筋肉が浮き出た前腕……異形の中で最も異形である者の一部が突如現れ、椅子から飛び上がったケイプはグラスを放った。


 宙に弧を描いたグラスをランゲルハンスは片手で捕らえる。アイスティーを頭から被ったが平然としていた。


「……何用だ」腰を抜かしたケイプを余所にグラスの中を覗いたランゲルハンスは問うた。


 グラスから上肢が現れたかと思いきや、縁から黒い上半身がナメクジのように這い出る。姿を現したのは濡れ鼠状の遣い魔だった。


 フローリングに降り立った遣い魔アルレッキーノはケイプの目前で身震いしアイスティーを振り払う。そして大男たる主人の膝に乗るときいきいと喚き立てつつジェスチャーする。


 なンだ。ハンスの遣い魔か。安堵の溜息を漏らしたケイプは引っ繰り返った椅子を戻すと座す。遣い魔を見下ろすランゲルハンスをぼぉっと眺める。しかし安堵して眺められるものではなくなった。言の葉を口に出来ぬ遣い魔のジェスチャーが大きくなる都度、ランゲルハンスの表情は険しいものへと変わった。穏やかな話ではなさそうだ。


 面倒に巻き込まれる前に帰るか……。ケイプは音もなく立ち上がると踵を返す。


「帰るのか」


 バレた! 面倒に巻き込まれるぞ! リビングに響くバリトンにケイプは全身を硬直させるが振り向く。すると遣い魔を踏みつけたランゲルハンスが大きな革靴の踵をにじっていた。


「竃の側に焼き菓子がある。持って行け」ランゲルハンスは悲鳴を上げる遣い魔を見下ろす。


「……いいのか? しかも土産まで貰っちまって」


「火急の用事が出来た。君を構う暇がない。菓子は持って行け。どうせ今日の件をプワソンに話すのだろう? 土産でも無ければ君の立場が危うくなる」


 ケイプは涼やかな眼窩の中の瞳をぐるりと回した。確かに。プーに話せば『どうして連れてってくれなかったの!? ずるい!』と喚き立てるに違いない。しかし黙っていればいつかはバレる。将来を約束した可愛い女は耳ざとい。素直に話して菓子でも渡しておくのがスマートかもしれない。


「……ありがとな」


 ランゲルハンスは鼻を鳴らすとアルレッキーノのコウモリの翼を片手で摘まみ上げる。


「性懲りも無くニエを危険に晒したな?」


 ニエ? 嬢ちゃんの名前だよな? ケイプは眉間に皺を寄せたランゲルハンスを見つめる。


「クリュサオル・オークに登って降りてこないだと? 何の為にお前を世話役に就かせたと思っている?」ランゲルハンスはアルレッキーノの体幹をもう一方の手で掴むと体から翼を捥ごうとする。アルレッキーノは表情を顰め、歯を食いしばる。


「おい……そこら辺にしとけよ。サメの歯じゃねぇンだ。捥いだら生えてこないだろ」遣い魔の苦悶の表情に耐えかね、ケイプは仲裁する。


 ランゲルハンスは鼻を鳴らすとアルレッキーノを放る。


「私の血から派生した生物だ。子ではない。眷属だ」


「そりゃ……子分たる遣い魔に何しようが勝手だろうがよ……嬢ちゃんの前でやるなよ? あとあっしの前でも。寝覚めが悪ぃだろうが」


 ランゲルハンスは翼の付け根を気にするアルレッキーノを睨見下ろす。


「だから無駄に殺生すンなって。庭に世話係の土饅頭出来たら嬢ちゃん泣くだろ? ってか嬢ちゃんどうしたンだよ?」


「早朝にクリュサオル・オークに登ったそうだ」


「もう正午も回ってるじゃねぇか!」


 ランゲルハンスは唇を嚙む。


「遣い魔が口を出しても降りてこないらしい。……お転婆め」


「でっかい樹だ。枝で昼寝こいて体が冷えて降りられなくなったって事もあるだろ。乗りかかった舟だ。あっしも行ってやるよ」鼻息を吹いたケイプは腕を回す。


「兎にも角にも赴かなくては」





 魔術を使いランゲルハンスとケイプはワイナリーに出向いた。


 ディオニュソスのシャトーたる白亜の館の側にはオークが茂っている。クリュサオル(巨人)の名を冠す程に背の高いオークだ。低木のぶどうが並ぶ農園では否が応でも目立った。


 二人は裏庭から館の門前に佇むオークまで急ぐ。庭の井戸を抜け、金無垢のミダスの娘像やロバの耳の男像を通り過ぎるとオークを取り囲む人だかりを見つけた。膨れに膨れ上がり今にも爆発しそうな老星を偲ばす程に肥えたディオニュソスが根元から大樹を見上げていた。主人たる彼を囲むように若者たちは大樹を見上げている。ある者は『降りておいで。怖くないから。ブランデーのケーキを一緒に食べよう』と叫び、またある者は大樹の上の少女の主人について噂をしていた。『年端のいかない少女をあんなにやつれさせるなんて……島主は弟子を大切にしない。酷い男だ』心無い憶測がランゲルハンスの胸を突き刺した。


 ケイプは悪口を垂れた若者を睨みつける。ランゲルハンスは口々に囀る若者を無表情で掻き分け主人に声を掛ける。


「また肥えたな」


 懐かしい声に農園の主のディオニュソスは顎を引く。舌骨筋に多大な脂肪が乗っている所為で首に肉の階段が出来上がる。


「あいも変わらずキツい冗談だな、ハンス。痩せ細りそうな想いをしているって言うのに。ケイプの糸目程に細くなりそうだわい」


 再びオークを仰いだディオニュソスは高所の枝を見つめる。ランゲルハンスもケイプも彼に倣い、目を凝らした。館よりも随分高い枝から赤毛と白い衣服が垣間見えた。ニエだ。


「アルレッキーノが訴えたよりも高い」ランゲルハンスは溜息を吐く。


「足場が折れそうになって移動したんだよ」ディオニュソスは小鼻から噴き出た脂汗を拭う。


「低所に居た内に遣い魔や若い衆が下ろしに登らなかったンかい?」右手で庇を作ったケイプはディオニュソスを見遣る。


「気付いたのが朝食の後でな。ニエちゃんしょんぼりしとってな、食事も進まないようだった。無理くり笑顔を作って毎朝食事の途中から顔を見せに来るんだが今朝は現れなかった。気を遣ういい娘だ。主の儂が行っても気を遣わせるだけだ。スーホに部屋まで行かせたんだ。しかしもぬけの殻だ。遣い魔のアルさえ居ない。館の若い衆を動員して探し当てたら既に大分高い所におってなぁ……。身軽な奴に登らせたが高過ぎてダメだった。アルも降りるように説得したらしいんだが降りられなくなったらしくてな」


「遣い魔とはいえアルレッキーノも悪魔の端くれだろ? ハンスみてぇに移動術使えばいいじゃねぇか」ケイプはランゲルハンスを見遣る。


 ランゲルハンスは額を抑える。


「たかが遣い魔だ。化け物じみたクリュサオル・オークの高さでは移動術も使えまい。ニエも魔術師の端くれとして程度が知れている。この高低差では術は使えないだろう」


「ほーん。するってとあっしの出番だな。挨拶代わりに行ってくらぁ」


 肩を軽く回したケイプは地を蹴ると高く跳躍する。ランゲルハンスが何か言いかけていたがケイプは耳も貸さない。


「……心遣いは有難いがアレが自ら降りなくては」遠ざかるケイプを仰ぎランゲルハンスは溜息を吐いた。


 瞬きする間もなく館の屋根を軽く越え、ケイプは宙に舞う。風を操り、逆光を浴びた美青年の影にディオニュソスは目を細める。しかしランゲルハンスから借りた大きなシャツから裸の小尻が見える。


「流石腐ってもシルフ。風に乗る様はどの精霊よりも美しい……と言いたい所だがなんであいつは下着を穿いてないんだ?」


 館の主たるディオニュソスと同じく権力を握るシルフがひょうきんな格好をしている事に若者達はどよめいた。


 下界の事は我関せず。数々の枝を飛び越え、ケイプは樹の中腹で蹲る赤毛の少女に近付いた。ディオニュソスの体幹よりも太い幹の側の枝で少女は震えていた。枝に尻を乗せ、幹に抱きつく彼女はケイプに気付かない。ケイプは頬骨を人差し指で掻くと声を掛けた。


「飯も食わずに疲れたろ? 風に乗って下に降りないかい?」


 突如響いた声に赤毛の少女はやつれた顔を上げる。エメラルド色のどんぐり眼でキツネ顔を暫し見つめる。


 ケイプは切れ長の眼を笑顔で細める。


「あっしはシルフのケイプってんだ。嬢ちゃんの先生と一緒に来たんだ。下で先生が待ってるぜ? あっしと一緒に降りようぜ?」


 少女は瞳を潤ませる。下瞼から溢れ出した涙は桃色の頬を伝う。しかし彼女は首を横に振った。


 宙に浮いたケイプは首を横にひねる。はて。何故拒否する。ハンスの野郎は嬢ちゃんを大切にしている筈だ。だのに何故嬢ちゃんは嫌がる? ……もしかして叱られでもして決まりが悪いのか?


「先生心配してンぜ? 仏頂面が血相変えてやってきたンだ。酷く怒りはしねぇよ」


 少女は再度首を横に振ると人差し指を差し出し、ケイプの手の甲に触れ、何かを綴った。目を丸くしたケイプはひっくり返し掌を見せる。少女は字を綴った。


「『来て下さってありがとう。私はニエと先生に名付けられました。でも私は降りられません。先生に見放されたんです。不出来な弟子だから』……ってなンだそりゃ?」


 手の甲で涙を拭ったニエは続きを綴る。


『お別れの前夜、先生は何も言わず、アルレッキーノに私の荷物を纏めさせました。嫌な予感がしたんです。今までこんな事一度もありませんでしたから……。纏まった荷物を眺めていると不安の内に朝になりました。いつも通り先生が美味しい朝食を作って下さっても気分が晴れません。その内玄関に追い出されました。ケンタウロスに乗りディオニュソス様の農園に向かうよう先生は命じました。……良い弟子になるから優秀な弟子になりますからそれだけは、と首を振りましたが無駄でした』


 ケイプは片眉を顰める。鼻を啜ったニエは続きを綴る。


『アルレッキーノにはお前は捨てられたんだ、と言われました。やはりそうなんでしょう。だってディオニュソス様も農園で働くお兄さんやお姉さん達もとても優しくしてくれますから。私を不憫に思ってか、先生の事は一言も話しません。ディオニュソス様も好きなだけここにいなさい、と気を遣って下さって……でもそれが辛くて。私の家は先生の家、荒地の家です。館の大きなオークの樹に登れば……随分遠いですけど、北の荒地の家が微かに見えるかもしれないと思って。眺めるだけなら罪はないと思って』


 そこまで綴るとニエはしゃくりあげた。大きな幹に顔を埋め、悲しみに耐える。


 ハンスの悪い癖が出たか。長い溜息を吐いたケイプは『ちょいと待ってな』と潜水する要領で地上へ向かう。


 地上に降り立つとランゲルハンスを睨みつける。


「おい。ダメっ子弟子のニエちゃん、お前さんに捨てられたと思ってるぜ。どうやらふざけたアルレッキーノが『捨てられた』と追い討ちを掛けたらしい」


 眉間に皺を寄せたランゲルハンスはアルレッキーノを掴む。ケイプはそれを制す。


「遣い魔も遣い魔だけどよ主人も主人だ。お前さんまた聞く耳持たずして物事進めたろ? それに碌に説明しねぇ。ちゃンと説明してやれ。そうしねぇからニエちゃん勘違いしたンだろうが。マメにならねぇから遣い魔に揶揄われさせる隙を与えンだよ。ディオニュソスも娘さん預かるならちゃンと理由を聞けよ」


悪怯れぬディオニュソスは脂で光る禿頭を撫で回す。


 細かい事を気にしないと言えば聞こえは良い。ディオニュソスは大雑把だ。ケイプは溜息を吐いた。


 ランゲルハンスは呟く。


「薬草学は兎も角、アレは魔術師としてセンスが全くない。不肖の弟子だ。故に期待していない。アレはお手上げだ」


「そーゆー問題じゃねぇし冷たい事を言うな!」憤ったケイプはランゲルハンスを睨みつけた。


「して、アレをどう降ろすかだな」ランゲルハンスはクリュサオル・オークを見上げる。


「あっしに説明しろよ。あっしがニエちゃんに説明しねぇと降ろすに降ろせねぇだろ」ケイプはランゲルハンスを睨む。


 ディオニュソスを追い払うと大男たるランゲルハンスは体を折り曲げケイプに耳打ちする。


「向かいの家に家具を搬入する故にアレをディオニュソスに押し付けたまでだ。着々と準備する様を見られれば『向かいの家に追い払われる』と誤解される。しかしこのような形で誤解されるのは心外だ」


 ランゲルハンスはケイプの耳から唇を離す。ケイプは長い溜息を吐く。


「じゃあ尚更あの家主の話をきちンとしてやれよ」


「現世にいる男の説明をするのも骨が折れるだろう? それにまだニエは……」


 オークを見上げるランゲルハンスをケイプは見上げる。そうか……そうだったな。嬢ちゃんが現世の記憶を取り戻さなければ説明出来ねぇな。命取りになっちまう。


「わーったよ。怖ーい先生が普段イビってるから息抜きにワイナリーで過ごさせたって言っとくよ」


 眉を顰めたランゲルハンスは顎を引く。


「イビってなぞおらん」


 意地の悪い笑顔を浮かべたケイプは地を蹴ると宙へ舞い上がった。


 ニエの許へ戻ったケイプは経緯を説明した。ニエは項垂れつつも聞いていたが『降りようぜ』とケイプが手を差し出すと首を横に振った。


「んんっ? どうした?」万事丸く収まると思っていたケイプは戸惑う。


 眉を下げたニエはケイプの手を取ると字を綴る。


「『先生の心遣いを無駄にしたばかりかオークに登って降りられなくなった所為で恥をかかせてしまいました』って、ンな事……ちゃンと説明しなかったあいつが全部悪い!」


 ニエは首を横に振ると更に綴る。


『そればかりではありません。自分の始末は自分でつけろ、任された仕事をこなせなかった際に先生はそう仰います。私はあなたの手を取れない。私が自ら降りなければならないんです』


 ケイプは眉を下げる。


「でもよ、朝飯食わずにこンなバカ高ぇ樹に登って数時間も経ってンだ。一人で降りられる訳ねえだろう」


 ニエは首を横に振ると足場を見やりつつ小さな手を動かし態勢を整える。しかし体力はもう限界に近い。バランスを崩す……が何とか持ち堪えた。


 見かねたケイプは彼女の脇に手を差し入れ抱き上げようとする。ニエはそれを嫌がりケイプの手を跳ね除ける。


 ケイプは溜息を吐く。嬢ちゃんが協力してくれねぇとあっしも抱き上げられねぇ。暴れられたら落ちちまう。思ったよりも面倒な問題だ。ってかあっしが出る幕じゃねぇ。


 頭を掻き毟ったケイプは『ちょいと待っててくンなよ』と下界へ降りた。


「……手ぶらで戻るとは子供の遣いかね?」


 片眉を上げて呆れるランゲルハンスにケイプは食いかかる。


「馬鹿野郎。まーたお前さんの所為でややこしい事になってンだよ」


 ランゲルハンスは眉を顰める。ケイプは口角泡を飛ばす。


「降りられねぇ癖に自分で降りるって駄々こねて抱き上げさせてくれねぇンだ。これじゃ下界に下ろせねぇ! ってか子供相手に厳しい事言いやがって! 親代わりだろ? ンな厳しい事言うな!」


「親代わりである前に私は魔術師だ。そしてアレは弟子だ」


「馬鹿野郎! 己の言葉を返してやる。『自分のケツは自分で拭け』! お前さんが移動術使って下ろしに行ってやれ!」


「……『自分の始末は自分でつけろ』だ」


 ランゲルハンスはクリュサオル・オークを仰ぐ。助けてやってもいい。助けてやりたい。しかし師の教えは絶対だ。ニエが自ら降りなければならない。自分の始末は自分でつけろ、と教えた。……それが今、自分の首を締めているとは。


 ランゲルハンスは苦笑を浮かべた。


 しかし……律儀な娘だ、非常時さえも師の教えを忘れぬとは。純粋だが程度が過ぎて時々こちらの頭が痛くなる。冷淡に接したつもりだがどうもアレには利かない。弟子とは言えまだ子供だ。師たる私が後始末するのは吝かではないが……私の体がまた責を負う。この件で削ればあと如何程体は持つのだろうか。……そればかりではない。懐かれる要素がまた増えるやもしれない。懐かれては困る。黒い森のあの者にアレを引き渡す際に切なくなるのは御免被りたい。今でさえ切ない。小鳥を縊るように肋骨に閉じ込められた心がぎゅうと萎縮する。


「……勘弁してくれ」


 そう呟くとランゲルハンスは魔術を使い、掌から木綿のハンカチーフを麻紐で縛って拵えた簡素な巾着袋を出した。そして足許に控えるアルレッキーノに渡し、命じる。


「それをアレに渡せ。焼き菓子が入っている。一口でもいい、食べさせろ」


 アルレッキーノはまじまじと巾着袋を眺める。


「お前は一口とて齧るな。齧れば今度こそ命は無いと思え」


 睨めつけられ厳命されたアルレッキーノは猿の子のような鳴き声をあげると一目散に大樹へと駆け出した。


 太い幹を駆け上がり途中から数多くの枝を飛び越え、小柄で身軽なアルレッキーノはニエの許へ参じる。憔悴し幹に寄り添うニエは息を弾ませるアルレッキーノに気づかない。アルレッキーノはニエの肩を突く。しかしニエは首を横に振り顔を上げない。深呼吸し息を整えたアルレッキーノは『キキッ』と鳴く。すると顔を上げたニエが徐に虚ろな視線を遣る。


 アルレッキーノは木綿のハンカチーフを麻紐で縛って拵えた簡素な巾着袋を差し出した。受け取ったニエは巾着袋を眺めると鼻に寄せた。


すると虚ろだったニエのエメラルドグリーンの瞳に光が宿る。麻紐から微かに先生の香りがする。ほんの僅かなムスクとスパイスの香りがニエの鼻腔をくすぐった。


……先生からだ。


 麻紐を解くとハーブのクッキーが入っていた。敬愛してやまない師の匂いが鼻腔から消えハーブの甘い香りが満ちる。朝から何も口にしていない弟子を案じて甘い菓子をくれたのだろう。ニエの頰に涙が伝った。


 きっと先生はこれを食べてから降りなさい、と仰っているんだ。


 涙を拭ったニエは師の匂いが染みた大切な麻紐をポケットに忍ばせると巾着袋を小さな鼻に寄せる。甘い香りを胸一杯に吸い込んだ。そしてクッキーを一枚摘むと唇に寄せる。しかし思い止まった。涎を垂らしたアルレッキーノがまじまじと眺めている。


 ニエは眉を下げる。私のワガママで彼を付き合わせてしまった。アルレッキーノも朝から何も食べていない。自分だけ先生のクッキーを口にするなんて……。それにきっとアルレッキーノは私の代わりに先生に怒られている。踏んだり蹴ったりで良い事が一度もなければ可哀想だ。まずはアルレッキーノにあげよう。自分が口にするのはそれからだ。


 ニエはアルレッキーノにクッキーを差し出した。アルレッキーノはクッキーを奪取する。甘い香りに脳みそが蕩けそうだ。朝から何も食わず飲まず、大樹を何往復も駆け下りし、主人に踏みつけられ引き裂かれそうになった。疲れて腹ペコだ。


 大口を開いたアルレッキーノはクッキー一枚を丸ごと食らおうとすると脳内に主人の言葉が響く。

──お前は一口とて齧るな。齧れば今度こそ命は無いと思え。


 思い止まったアルレッキーノは唇を噛む。引っかかる。馬鹿が付く程にお人好しな小娘が俺に何かを分けるのはいつもの事だ。俺には渋ちんな旦那も了承済みだ。しかし今回は『一口とて齧るな』と念を押された。俺が喰ったらマズい理由があるんだろう。……まさか毒か? 愛らしさ余って手に負えなさ百倍の弟子を始末しようとでも思っているのか? 今回旦那は相当恥をかかされている。しかも多くの若者の前で、だ。『弟子を大切にしない。酷い男だ』と若者に罵られた。旦那なりに可愛がっていたが……相当悔しい思いをしただろう。旦那は悪魔らしくないとは言え悪魔だ。俺の翼を捥ごうとしたり二階から蹴り飛ばしたり、と冷酷無比な面もある。遣い魔仲間から聞いた話だが最愛の者に裏切られそいつを殺して喰った程だ。バベルの塔なみに高いプライドが傷付いたから愛弟子を殺しちまう事だってあるかもしれないし悪口垂れた若者を始末する事だって有り得るかもしれない。……若者は兎も角、小娘が不憫だ。


 アルレッキーノはクッキーを放り投げると『喰うな。多分毒だ。お前に恥をかかされた旦那は始末するつもりだ』と身振り手振り伝えた。


 それを眺めたニエは首を横に振ると唇に微笑を浮かべると『先生が私を殺す? ……ありえない』と綴った。


 アルレッキーノはきいきいと金切り声を上げた。馬鹿野郎! あんなにプライド高い男が衆人の前でお前に恥かかされたんだよ! 腸煮え繰り返ってるわ! お前を殺すつもりだ!


 短い付き合いでも兄妹のように過ごした遣い魔だ。彼が何を言いたいかニエは直ぐに理解した。『でも……そうだとしてもいいの。先生のお菓子食べて死ねるなら幸せ』と綴る。そしてアルレッキーノの制止を振り切り、クッキーを齧った。


 一枚、また一枚と愛らしい小さな口はクッキーを齧る。多少勢いがあったものの、礼儀作法に厳しい師に仕込まれた通り、ニエはクッキーを優雅に食す。


 まるで冬籠り前に木の実を詰め込むリスだ。笑みを浮かべつつ師のクッキーを次々と食すニエをアルレッキーノは呆れ眺める。既に四枚以上は食している。遅効性の毒なのか? それとも小娘が言う通り毒なんぞ入っていないのか?


 案じ眺めているとニエはクッキーを取り出す手を止める。


 毒か? やはり毒なのか? アルレッキーノは彼女にしがみ付き表情を窺う。


 ニエは瞼を閉じると掌で口を覆う。ぷかり一つ欠伸を浮かべた。


 アルレッキーノは胸を撫で下ろした。……何だ。心配して損した。だったら俺も食おうかな。


 ニエにしがみ付いたアルレッキーノが袋に手を伸ばした刹那、世界が反転した。バランスを崩したニエが大樹の枝から落ちる。驚いたアルレッキーノは彼女のワンピースの身頃を握りしめる。


 毒だったか!


 大樹の枝に背を打ち付けつつ落ち行くニエの顔をアルレッキーノは見上げる。瞼を下ろし安らかな表情を浮かべていた。


 クソ! まっ逆さまじゃねぇか! しがみ付いてたらお陀仏とはいかねぇが俺まで大怪我する! 


 身頃から手を離し、コウモリの翼を広げ飛び立てば自分は救われる。しかしそんな気になれない。僅かな間でも世話してやった小娘だ。死んじまっても綺麗な状態で地に体を横たえてやりたい。


 歯を食いしばったアルレッキーノはコウモリの翼を広げるとニエの身頃を思いっきり引っ張り飛んだ。


 減速したものの枝に当たりつつもニエは落下する。小さな遣い魔の微力な飛行では少女の落下を妨げるのには無理がある。アルレッキーノは叫び声を上げた。


 一方、地上では叫びを聞き届けたランゲルハンスが大樹を仰ぐ。はらはらと青い葉が舞い落ちる。枝が折れる音が徐々に大きくなる。順調に落下しているのだろう。


 遣い魔の悲鳴にケイプ、ディオニュソスそして若者達が互いの顔を見合わせ、ニエの安否を案じる。


「おい! まさか落ちたンじゃねぇか!?」ケイプはランゲルハンスに問うた。


 若者達もそう思っていたのだろう、一斉に不気味な大男を見遣り口々に罵る。


 それでもランゲルハンスは大樹を仰ぐ。そして唇の前で人差し指を立て、一同に沈黙を促した。


 ケイプは眉を顰めたが拳を握り、怒鳴りたいのをグッと堪えた。飛び立って嬢ちゃんを抱きとめてやりたい。しかしハンスには何か考えがあるようだ。それを無駄にしてはならない。


 ランゲルハンスは耳を澄ます。枝が折れる音に紛れ微かに翼がはためく音が聴こえる。落下速度は確かに落ちているようだ。狡猾なアルレッキーノは主命を守った。普段虐めていてもニエを妹分として可愛がっている。信じて正解だった。


 大樹を睨み仰いでいると白い布の塊が閃くのが見えた。ニエだ。天蓋のように空を遮る枝を見つめ、落下するニエを見つめ、ランゲルハンスは瞬時に落下地点を予測する。そして予測地点に佇むと天に手を差し伸べ術を詠唱した。


 聞きなれない言葉が響いた途端に落下速度が酷く緩慢になる。否、落下ではない。重力に逆らい宙に浮いている。一同はどよめいた。


 それを意に介さずランゲルハンスは差し伸べた徐々に下ろしてゆく。同時に宙に横たわるニエの体も徐々に降りてゆく。


 好転した状況に驚いたアルレッキーノがニエの平らな胸から顔を覗かせた。アルレッキーノは下界を見渡す。若者達は歓声を上げまた魔術を使うランゲルハンスを憧憬の眼差しで眺め、ディオニュソスは肥えて垂れた胸を撫で下ろし、シルフのケイプは満足そうに笑んでいた。


 馬鹿! 喜ぶな! アルレッキーノは鳴き叫んだ。


 小娘は死んじまったんだぞ! 旦那を信じたばかりに!


 アルレッキーノはニエの死顔を見遣る。


 可哀想に。仇はとってやる。しかし相手は大男の旦那だ。例えナイフで刺したとてささやかな反抗にしかならないかもしれない。


 唇を歪めたアルレッキーノはニエの白い頬を撫でてやった。すると微かに手に風がかかるのを感じた。


 アルレッキーノは煌々と光る真紅の瞳を丸くする。


 いや……まさか。


 さくらんぼ色の唇に手を翳し注意深く見つめる。すると吐息を感じた。


 あ、は! 生きてる!


 笑顔とも泣顔ともつかぬ表情を浮かべたアルレッキーノは深い溜息を吐いた。


 密集する枝をくぐり抜け、生い茂る葉からニエが現れる。アルレッキーノを乗せたニエの体はランゲルハンス目掛けて徐々に徐々に降る。それと同じくランゲルハンスの筋を纏った腕も徐々に下がる。


 地上から三メートル程に距離が詰まった頃、ランゲルハンスは腕を降ろし切ると術を解いた。途端に重力が働く。ニエは勢いよく落下する。ランゲルハンスは両腕を構えると彼女を抱きとめた。その様はミケランジェロが彫った「ピエタ」のようだった。


 転がり落ちたアルレッキーノは直様ランゲルハンスの肩によじ登る。


「おっかなかったろうな。落ちちまったンだもの。気絶してら」ランゲルハンスの腕の中のニエをケイプは覗く。ニエの帰還に若者達も周囲に押し寄せる。


 ランゲルハンスはニエの四肢を検める。枝に打ち付け痣が咲いたがこの程度ならば回復術で治療出来そうだ。翼を広げ羽ばたき落下速度を下げたアルレッキーノの手柄だ。……危険をとって誤魔化したつもりだが掟には背けぬ。心臓が痛い。


 小さな溜息を吐いたランゲルハンスは平静を繕う。


「打ち身で済んで幸いした。食い意地張っているアルレッキーノが慎重になったお蔭だな。……釘を刺して正解だった」


「んんっ……どう言う事だ?」ケイプは問う。


「偶然にも焼き菓子に睡眠を促すハーブが入っていたのだろう。眠りに落ち、バランスを崩して落下した。幸運にも私が落下地点に佇んでいたので術を以って受け止めたのだ」


「馬っ鹿! あぶねぇ助け方しやがって! 力尽きて落ちたンじゃないのか!?  お前さんが移動術使って降ろせば良かったじゃねぇか!」ケイプはランゲルハンスを睨む。


「さすればコレは何も学ばない。恐ろしい想いをして学ぶ事もある」ランゲルハンスはニエを見下ろした。安らかな表情を浮かべている。


「子供相手だぜ!? お前さん親代わりだろ!」


 ケイプの文句を革切りに若者達もブーイングを上げる。しかしランゲルハンスは無表情を崩さない。


「保護者である前に私は魔術師であり、コレの師だ。言葉に責が伴う事を示さなければならない。コレは体力の限界で落ち、偶然にも落下地点に居た私はコレを抱きとめたのだ。それ以上でもそれ以下でもない」


「でもよ!」


 ケイプの口吻をランゲルハンスはぴしゃりと遮った。


「私は悪魔だ」


 何年振り……否、何百年振りだろうか。ハンスが強い感情を声音に表すのは。ぞぶり、と鳥肌を立てたケイプは親友の瞳を見つめた。雪が舞う厳冬の海を偲ばす鈍色の瞳は微かに潤んでいた。


 ランゲルハンスはニエを見下ろす。


「言わせるな……こうでもしなければ私は彼女を救えない。魔界を追われた者とて掟に縛られている。無償で一つの命を救えば私の命を削る。貴奴を食らった今、私の体は私だけの物ではない。罪を贖う為にも可能な限り生きねばならん……しかし誤魔化したつもりだが効かんようだ」ランゲルハンスは胸の痛みに眉を顰めた。


 ケイプは握った拳を徐に下ろした。そうだ。どんなに人間臭くても魔界を追い出されてもハンスは悪魔だ。掟に縛られている。島民の為にそれを破り、見返りなしに水の濾過の方法を教えたり貧しい者から金を取らずに薬を調合してやったりと命を助けている。無償で命を助ける事は悪魔の掟に反する。反すれば罰が下り、自らの命を蝕まれる。


「……悪かった」瞼を閉じたケイプは項垂れた。


「理解を示す古き良き友人に感謝する。……君に渡した焼き菓子には何も入れていない。安心して食べ給え」


 痛みを堪え苦笑を浮かべたランゲルハンスはニエを抱き直す。そしてアルレッキーノを呼びつけると術を使い消えた。





 休日のつもりだったが色々と巻き込まれて疲れた。


 胸の痛みをやり過ごし宅に戻るとニエに魔術で治療を施す。寝台に横たわらせたニエにブランケットを掛け、ランゲルハンスは溜息を吐いた。枕許にはアルレッキーノが控えている。


「コレが全快した後にお前共々掃除を言いつけるからな。あの納屋だ。七日で創世した神が裸足で逃げる程の片付け困難極める納屋だ」ランゲルハンスはアルレッキーノを睨め付けた。


 しかしアルレッキーノは悪怯れない。世話係に就かせてから既に一年は経つ。それに今回の件で神経も太くなったのだろう。小生意気な遣い魔は顎をしゃくり反抗の意を示した。


「コレは贄だ。預かる間に大事あれば島がひっくり返るぞ。……命を厳守した故にこの程度の罰で済んだと思え。本来ならお前をハーブ畑の肥料にする所だ」


 アルレッキーノは不服そうに眉間に皺を寄せると『ギィ』と鳴いた。


 鼻を鳴らしたランゲルハンスは踵を返す。しかし思いとどまり振り返ると寝台に近づき、安らかに眠るニエの頬を撫でた。小さな溜息を漏らし、踵を返すとドアノブに手をかける。すると衣擦れの音が聞こえた。ランゲルハンスは振り返る。瞼をこすったニエが寝台から上体を起こしていた。


「……聞いていたか?」


 頬を染めたニエはブランケットを掴むと引き上げ隠れた。


 きまりが悪いのだろう。騒ぎを起こし多くの者を案じさせ、更には師を呼び出したのだ。


 聞いていた訳ではなさそうだな。ランゲルハンスは安堵する。


「案ずるな。先程詫びの品を持たせた遣い魔をディオニュソスにやった。君は枝に当たり打ち身を起こした。従って治療を施した。幾日も真面に眠らず食事を摂らなかったようだな。栄養不足と疲労で気絶し落下したのだ。……食事を持って来よう。食べてからまた眠り給え。叱言はそれからだ」


 淡々と述べるとランゲルハンスは踵を返す。ブランケットを引き下げたニエは眉を下げる。ランゲルハンスの広い背と瞳を潤ませたニエを交互に見遣ったアルレッキーノは『ギィ』と強めに鳴いた。


 ランゲルハンスが構わずに退室しかかるとアルレッキーノはけたたましく鳴く。ランゲルハンスもニエも思わず耳を塞いだ。金切り声が鼓膜を突き刺す。ランゲルハンスは不承不承振り返る。


「遣い魔め」


 大きな鼻息を漏らしたアルレッキーノはニエの豊かな赤毛に潜り込んだ。


 鼻を鳴らしたランゲルハンスは寝台に近付く。するとアルレッキーノは赤毛の迷宮から飛び出し何処かへ消えた。頬を伝う雫を拭ったニエは右手を伸ばした。


 か細く小さな手を取ったランゲルハンスは寝台の側の丸椅子に腰掛けると、自らの掌を広げた。


 瑠璃で造られた巨大な天球儀を掴んでしまう程の大きな手にニエの華奢な指が悪魔文字を綴る。


『ごめんなさい。先生に捨てられたと思っていたんです。急に荷物を纏められて、ワイナリーに向かわされたから。私、不出来な弟子だから。失敗ばかりだし難しい魔術だって無理だし』


 ランゲルハンスは涙で潤むエメラルド色の瞳を見下ろす。


「確かに君は不肖の弟子だ。魔術を紐解いて一年が経つ。遣いや下働きが出来ても悪魔文字が読めようと術の使いは全くなっていない。魔力は高位の悪魔を凌ぐ程……いや無尽蔵だがそれを指先へ流す水脈も逆流を防ぐ弁も不完全だ。故に潜在能力が高くとも不肖なのだ」


『ごめんなさい』


 ニエは瞼をぎゅっと閉じる。涙が溢れ、幾筋も頰に伝う。


 ランゲルハンスは視線を逸らす。違う。傷つけたい訳ではない。魔術とてニエを引き取る上の体裁として教えているに過ぎない。魔力も神力も元を辿れば同じ力だ。彼女は神の嫁だ。黒い森に封じた神に嫁がせる為に育てている。失った記憶を取り戻し、自ら神の許へ歩むまで一人の人間として生を謳歌して欲しいと引き取ったに過ぎない。しかし口外する訳にもゆかぬ。然すればニエが罰を受ける。


 小さな溜息を吐いたランゲルハンスは左手でニエの頬を拭う。


「一度受け入れた年端のゆかぬ者を見捨てる訳がなかろう。責は放らん。……しかし言葉が足りず、君の心境を鑑みず心細い思いをさせた。君が……出て行かぬ限り手放さない」


 瞼を上げたニエは徐にランゲルハンスを見上げる。


「二言はない。……立てた誓いを破れば神でも不幸を免れぬ冥府の河ステュクスに誓う」


 安堵したニエは右手を離すとランゲルハンスのシャツの身頃を握り、広い胸板に顔を埋めた。身頃が湿るのを感じたランゲルハンスはニエの頭に大きな手を添えた。


「案ずるな。私は師であり親代わりだ。土に還らぬ限り責を放らん」


 ニエは顔を上げる。眉を下げ笑みとも憂いともつかぬ表情を浮かべると再び顔を埋めた。


 安堵させた。これでいい。二度とあのような事件は起こるまい。小さな溜息を漏らしたランゲルハンスは階下へ向かおうと腰を上げようとする。しかしニエがシャツを握りしめ、身動きが取れない。


 無下に出来ぬ。……いや実の親と等しく思われては応えたくなる。別れの日が切なくなろうとも。


 浮かせた腰を座面に降ろし、居住まいを正す。ランゲルハンスは我が子を慈しむようにニエの頭を撫でてやった。


「……悪かった」


 午後の日差しが降り注ぐ部屋に穏やかなバリトンが響く。


 ランゲルハンスはいつまでもいつまでも頭を撫でてやった。


                                   了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る