「小娘と遣い魔とクリスマスの奇跡」〜俺の伝説その二〜


「いつ帰るか分からない。長丁場になるやも知れん」


 古びた外套を旦那が纏う。所々虫に喰われて大分黴臭い。何十年前に新調した物だったろうか。長年旦那に仕える俺でさえ想い出せない代物だ。


 保管状態が悪かったかそれとも樫の木のように背がまた伸びたのか、縮んだ外套に旦那は眉間に皺を寄せる。首のボタンをしめようにも喉笛まで絞まり話にならない。


 胸から下のボタンをかけつつ、くたびれた生地を見詰めた大男の旦那は鼻を鳴らす。


 悪魔の旦那は人っ子一人通らない荒地に居を構える。理由は簡単、人嫌いだからだ。そんな旦那がこの時期、何十年振りだかに外套を引っ張り出して長い間家を空けようとしているのだ。


 プティサイズのちんまい俺を肩に乗せかかしのように突っ立つ小娘は唇を引き結ぶ。眉を下げ子豚のぬいぐるみをきつく抱く。


 旦那は小娘のささやかな反抗を見遣らない。しかし察している。


「聞き分け給え」


 小娘は渋々頷いた。


 旦那の足許では他の遣い魔達が、口を開ける豚革トランクにせっせとドライハーブや乳鉢、乳棒、着替えを放り込む。


 精が出るなぁお前ら。俺の分も頑張れよ。俺は楽するぜ。普段『小娘係』と揶揄される俺はピジョンブラッド・ルビーの如く煌煌と光る瞳を細めて他の遣い魔達を蔑み笑ってやった。


 旦那に薬草学を紐解かれそろそろ一年が経つ。まだまだ見習いだが知恵が付いた小娘は自ら調合した薬で人助けをしたいらしい。以前『災害、疫病等有事の際には手を借りるやも知れん』と旦那に頼まれた小娘はこの日が来る事を身構えていた。しかし今回は同行を断られた。残念そうに子豚のぬいぐるみの脚を弄ぶ。


「災害ではなく中程度の疾病だ。故に薬草学の実習にいいと想ったが……また機会があれば伴うと約束する。案ずるな。アルレッキーノを残す」


 言葉を話せぬ小娘は首を横に振った。余計に心配だ、と言いたいんだろう。けっ。可愛くない奴め。遣い魔筆頭の俺が残ってやるんだからもっと嬉しそうにしろ。


 弟子の小娘に師たる旦那は機嫌を取ってやる。


「……黒パンやピクルス、腸詰め、チーズ、ザワークラウトの他、パントリーには豚のリエットがある。大切に食べ給え」


 リエットのリの字を聞いた途端、表情を曇らせていた小娘は笑顔を咲かせる。エメラルド色のドングリ眼を喜びで潤ませ白い頬を珊瑚色に染める。


 遣い魔の一匹から赤いストールを旦那は受取ると首に巻く。縮んだコートの所為で首を覆えない上に防寒具は薄手のストールしかないらしい。分厚い胸筋に圧されたタイトなコートに薄手のストール……雪舞う厳冬にそんな恰好で外に出させるのは旦那に仕える一匹としても忍び難いぜ。


「念を押すが保存食故に『大切に』食べ給え」


 笑顔から一転、小娘は眉を下げばつの悪い表情を見せる。数ヶ月前、旦那が気まぐれに作った大量の豚のリエットを小娘は一晩で平らげちまった。大瓶五つ分、まるっとだ。普段感情を表に出さない、何を考えているのか分からない昆虫みてぇな表情の旦那もこれには苦笑を浮かべた。


 揶揄いの笑みを浮かべる旦那に痛まれぬ小娘は子豚のぬいぐるみで顔を隠す。


 身悶えする小娘を余所に旦那は俺以外の遣い魔を引き連れて家を後にした。


 重厚なドアが閉まる音がリビングに響く。


 我に返った小娘は玄関へ突っ走るとドアを押し開け、荒地に出る。


 小雪が舞うポーチにはケンタウロスが居た。ケンタウロスのタクシー社員たるコードバンのおっさんだ。禁足地である黒い森を背にして白い息を弾ませている。遣い魔から荷物を受取ると旦那の荷物を右肩に担ぐ。革のトランクの当たり所が悪いのか肩をもぞもぞ動かして位置を直しているとコードバンのおっさんは小娘と俺に気付いた。


「久し振りだな、ニエ嬢ちゃん。元気そうで良かった。嬢ちゃんは風邪を引くなよ。街は流行病で寝込んでる奴らばかりだ。薬を作れるのはハンス様しかいねぇ。大事な先生様を借りて行きますぜ」


 小娘はこっくり頷くと胸に手を当て、その掌をコードバンに差し伸べ小首を傾げた。


「あっしですかい? この通り元気そのものだ。普段ハンス様が運び賃と共にハーブを下さるからなぁ。女房に渡して飯に入れて貰ってますぜ。社でも動けるのはあっしくらいなモンだ」


 コードバンは左手の親指を立てた。


 術で遣い魔共を先に薬局へ送った旦那は眼の端で俺を見遣る。


「アルレッキーノ。子供は体が弱く罹患し易い。くれぐれも街なんぞに出さぬように」


 おいおい。留守は預かるが寝小便小娘の面倒まで見ろってか。街への遣い以降、何かと俺の後を付いて回って鬱陶しいのによ。鬼が居ぬ間になんとやら、外で色々悪戯してやろうと想ってたのによ。俺まで家で大人しくしてなきゃならんなんて最悪だ。あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。


 俺がギリギリと歯ぎしりしていると騎乗がてらに旦那は一瞬だけ小娘を見遣った。俯いた小娘は心細いのか唇を引き結んで涙を堪えている。


 またか。また今日もか。こいつの泣き顔にはうんざりさせられる。こいつの泣き顔は後の不幸の暗示なんだ。


 何かを呟いた旦那はコードバンを促し、家を後にした。


 小雪が舞う荒地の道の彼方へ消えて行く旦那の背を小娘はいつまでも見送った。





 旦那が街のケイロンの薬局に詰めてから三日が経った。


 小娘は赤い絨毯に座し暖炉に当たり過ごしていた。


 暖炉の薪が爆ぜる。炎に照らされ小娘の白い頬が茜色に染まる。


 小娘は薬草学の書籍を読み進めた。髪結い出来る主が不在になり、彼方此方好きな方を向いた髪が大きな影となって書籍に落ちる。悪魔文字が影に隠れて読み辛いらしい。小娘は眉を顰めて読んでいた。


 自分で満足に結えない癖に伸ばすからだ。勉強中、小娘は常にくしゃ顔をしていた。


 勉学に飽きると小娘は簡易魔術を復習いがてら薪を喰らう炎に手を翳して術で形を操って遊ぶ。それに飽きては小遣いを貯めに貯めて買った銀の王冠を取り出す。喉から手が出る程に欲しがっていた蔦の冠が捌けてしまい、代わりに買った宝物だ。代替品のつもりだったがこちらはこちらで甚く気に入っているらしい。銀の王冠をボサボサの頭に載せて鏡を覗く。……しかし直ぐにまたくしゃ顔になる。当たり前だ。そんなツバメの巣みてぇな頭の王女が何処に居るってんだ。


 小娘は頬を膨らませると裁縫道具を引っ張り出し端切れで子豚のぬいぐるみにケープを作ってやったり、パントリーからマシュマロを出しては串に刺し暖炉で炙ったりとのんびりしていた。


 しかしどうにもやる事が無くて暇らしい。


 絨毯に寝そべった小娘は天井から吊り下がる呪い道具を眺めて声が出ぬ口を動かし移動術の詠唱の真似事をする。外に出たいらしい。短距離の移動術を修得したばかりなのに街へ出て気晴らしさえ出来ない。


 俺は頬を膨らませる小娘を横目に旦那愛用の革製のカウチに寝そべりポンチ絵を眺めていた。特に仕事もねぇし、小娘も暇そうだし、ポンチ絵も正直つまらねぇ。俺好みの腹がよじれる下らないポンチ絵ではなく、中央地帯の伝説を描いたポンチ絵だ。幻の雪の精が煌びやかな毛糸を紡ぐ話だ。小娘に、と本の行商人から旦那が買った代物だ。大きな眼玉の中にミルキーウェイが流れる少女ポンチ絵しかウチにゃねぇんだよ。読むモンがなくて仕方なしに眺めている。溜め息を吐く小娘の横で俺も欠伸をぷかぷか浮かべる。……贅沢な時間だ。


 旦那の在宅時は仕事が山積してサボる暇もないんだがな。旦那は片付けられない性分で放って置けば家がゴミ屋敷になる。従って俺を始め遣い魔達が後を付いて回って片付けをする。魔術工房の危険な道具は専ら俺達遣い魔が片付けるが、生活スペースの調理器具や書籍、ガラクタ等は小娘も進んで片付ける。……まあそれでも片付けは追っ付かないんだがな。リビングの床はガラクタが入ったワイン箱が森のきのこみてぇにぽこぽこと置かれているし、テーブルも直ぐに書籍の山になる。


 そんなだらしなさの根源……おっと口が過ぎたぜ、旦那のヤツは何処で悪口を聞いているか分からねぇ、地獄耳だ。……そんな片付けられない男が家を空けたのだ。俺も小娘も暇を持て余した。


 小娘は窓の外を見る。埃や汚れがこびり付いた窓から見えるのは音も無く降り積もる小雪ばかりだ。小娘は眉を下げると溜め息を吐いた。


 ばーか。そんなに早く帰って来るもんか。もう保護者が恋しくなってやがんの。流石寝小便小娘だな。


 爪先で小突くと小娘は眉を顰めた。俺は口角の両端を吊り上げて意地の悪い笑みを浮かべる。


 唇を尖らせた小娘は鼻を鳴らすとカレンダーを引っ張り出し、日付の一つ一つを指で小突く。どうやら数えているらしい。気になりカレンダーを覗くとクリスマスまでの日数を数えていた。


 クリスマスまであと一週間ある。それまでに帰ってくるだろうか。溜め息を吐いた小娘は窓の外を眺める。


 ばーか。肩に乗った俺は小娘の頭をぽかんと一発殴る。


 おセンチなムードをぶち壊された小娘は俺の耽美な尖った耳を想い切り引っ張る。


 痛ぇ痛ぇやめろって。


 小娘の魔手から逃れた俺は暖炉の前に佇むと身振り手振りで説く。


 クリスマスなんざ悪魔の旦那が祝うもんか。お前去年の初秋から厄介になってるだろ? 去年も祝わなかっただろうが。街で祝ってる奴らはなぁも考えとらんの。島主たる、薬の調合師たる旦那なんかおかまい無しだ。普段感謝の念を欠片も抱かねぇ癖にクリスマスなんか祝う癖に困った時にだけ尻尾を振りやがる……身勝手な島民を旦那は甘んじて受け入れてやってんだ。悪魔の旦那がンなモン祝ったらそれこそクリスマスの奇跡だわ!


 小娘は眉を下げた。俺は更に説く。


 それにその日は旦那がこの世に生を受けた日だ。神の子と同じ晩に生まれて悲惨ってか、旦那の方が先に生まれてるからいい迷惑してんだ。機嫌が悪くなるからクリスマスの支度は絶対にやめろ。プディング作ってみろ、ヒイラギのリースで玄関を飾ってみろ、七面鳥のロースト代わりにお前の丸焼きが食卓に上がるぞ。


 身振り手振りで力説すると小娘は涙を浮かべた。


 やめろ。やめてくれ。泣くんじゃない。お前が泣くのは後の不幸の暗示だ。そうやって前回の街への遣いも碌な目に遭わなかった! 俺は金切り声を上げて制す。


 小娘は頬を伝う涙を拭うと小さな溜め息を吐いた。そして俺の手を取ると悪魔文字を指先で綴る。


『私のわがままで先生に嫌な想いをさせる所だった。止めてくれてありがとう、アルレッキーノ。クリスマスの支度はしない。でも先生のお誕生日はお祝いしたい。いつも良くして下さる先生を喜ばせたい。今までお祝いしなかったんでしょ? お祝いしてもいいかな?』


 まあ……祝った事なんて一度もねぇな。面倒臭ぇし。それに俺ら遣い魔が祝ってやっても『ゴマ擦る暇があるなら働け』と尻を蹴り飛ばすに違ぇねぇしな。


 俺は鼻で笑ってやった。しかし別の考えが脳裡を過る。


 いや……待てよ? 俺では全く効果はないがこのエコヒイキ小娘が祝うなら機嫌を良くするな。……あとで俺が誕生日を教えてやった、と小娘から旦那に伝えさせれば、賃金アップも夢じゃない。遣い魔から成り上がるサクセス・ストーリーも夢じゃない!


 口角の両端を吊り上げた俺は小娘の長いおさげを引っ張ると親指を立てた。


 さぁて! アルレッキーノ様の伝説の始まりだ!





 家中を引っ掻き回した。ケーキの材料、馳走の材料、プレゼントの材料があるか探しまわった。しかし使えそうな物は一切無い。食料はリエットや豆袋等の保存食だけだし、ワイン箱に山積するガラクタはプレゼントに化けそうもない。この分じゃ買い出しに行かねぇと何も出来ねぇな。


 俺の溜め息を横目で見遣った小娘は自室へ駆けて行くとクロークからモスグリーンのフード付きポンチョを引っ張り出し外へ出る。小娘の肩に飛び乗った俺が何処に行くかと爪先を眺めていると街へ向いた。冗談じゃない。街は黴菌だらけだ。お前が床に臥せれば俺は旦那にぶっ殺される。


 古びた綱を偲ばせるおさげを想い切り引っぱり、小娘を引き止めた。小娘は頬を膨らませ俺を摘まむ。蝙蝠の翼を摘ままれつつも俺は彼女の頬を引っ叩いた。


 眉根を寄せた小娘は俺の掌に『先生の為にマフラーを編みたい。出立の時寒そうだったから……。先生が病気になるのは悲しい。だからマフラーを編みたかった。街の手芸屋には毛糸がある筈。こっそり行きたい。おねがい。アルレッキーノ』と悪魔文字を綴った。


 良い考えだったな。確かにコートの首元を締められず、その他の防寒具も薄手のストールしか持たない旦那にとって気の利いたプレゼントだろう。しかし小娘を罹患させる訳にはいかん。黴菌だらけの街へは出せない。約束を破れば俺が殺される。


 目前の死よりも平穏無事が一番だ。


 小娘の肩に飛び乗ると『誕生日大作戦は諦めよう。戻って暖炉に当たってようぜ』俺は肩を叩き家へ促す。しかし俯いた小娘はそこを動かない。


 聞き分けろ。旦那はお前を想って実習がてらに連れて行かなかったし『街なんぞに出さぬように』と俺に念を押したんだ。有り難ぇと想え。


 結い馴れない茜色のボサボサおさげを綱の要領できゅうきゅう引っ張っていると、抜け穴に気付いた。


 ……待てよ? 旦那は飽く迄も『街なんぞに出さぬように』と言ったんだよな? するってと街に行かなければ咎められはしない訳だよな。


 眉を下げた小娘はおさげから手を離した俺を見遣る。俺は親指と人差し指を顎に当ててダンディに思案する。


 そういやさっき眺めたポンチ絵に幻の雪の精が煌びやかな毛糸を紡ぐ話が載ってたな。街に出る訳じゃないから約束を反故にはしない。それに美しく希少な毛糸なら喜ぶに違いねぇ。小娘が編んだマフラーに気を良くした旦那に『俺の入れ知恵だ』と伝えれば……賃金アップは間違いねぇ!


 唇の両端を吊り上げ俺は笑むと小娘に中央地帯にいる幻の雪の精が煌びやかな毛糸を紡ぐ話をしてやった。


 エメラルド色のドングリ眼を輝かせた小娘は一も二もなく頷くと俺の長距離移動術を頼りに、中央地帯へ急がせた。





 強くはないが吹雪いていた。広大なぶどう棚すら霞んで見える。


 中央地帯には赤ワインに使用する茜ぶどうや春限定のスパークリングに使用する花冷えぶどうを生育するディオニュソスのワイナリーが在る。中央地帯は気候が冷涼で生育に最も適した土地だ。そして酒の神ディオニュソスの力によって季節を問わずして棚にはぶどうが吊り下がる。しかし気候と神力に恵まれていても冬になれば酷寒の地と化す。


 赤いフラットシューズで臨もうとする小娘を咎めると俺は魔術でゴム長を出してやった。


 エメラルド色のドングリ眼で小娘は俺を見詰める。俺は外方を向くと鼻を鳴らした。


 湿った布靴で滑って頭打ち付けてみろ。小さなたん瘤でも作ってみろ。旦那にたん瘤だらけにされるのは俺だ。


 にっこり微笑んだ小娘はゴム長に穿き替える。そしてフラットシューズを革のリュックサックに入れると目深に被ったフードに俺を入れた。


 お。楽していいってか。じゃあ暖取り代わりにミニボトルでも呷ってやらぁ。


 術で出したウィスキーを立て続けに三本俺が呷っていると、白い息を吐きつつ雪で隠れた道に小娘は足を踏み入れる。雪風はスカートから覗く裸の脛を容赦なく斬り付ける。鳥肌を立たせていた脛はあっという間に赤くなる。小娘は立ち止まった。


 何だ? もうへばったのか? だらしねぇなぁ。俺だって寒いんだからな。魔力温存してぇからこれ以上防寒具は出せねぇぞ。


 ふん、と鼻を鳴らすとミニボトルを開栓する。すると小娘は首を横に振り、エメラルド色のドングリ眼を向けた。


 あー、場所か。分かんねぇ、と。……そりゃ言い出しっぺは俺だがよ。詳しい場所までは分からんぞ。何せポンチ絵だ。それに空きっ腹に酒を三本入れたばかりだ。頭の動きが大分鈍い。


 ぽかぽかと気持ちの良い脳内で記憶の糸を手繰る。確かポンチ絵では……雪に閉ざされた森に現れては輝く毛糸を紡ぐらしい。その様は夜空を引っくり返して星々を纏うよりも幻想的らしい。妖精の中で最も美しいらしいが誰も見た事が無いので噂に尾ひれが付いているのかもしれない。


 ぎぃ、と唸る。……よくよく考えれば毛糸は美しく希少価値が高いモンじゃねぇかもしれない。何せ噂や伝説だからな。しかし旦那の愛弟子たる小娘がそれを取りに行き、その毛糸で旦那の為にマフラーを編んでやるのだ。毛糸がボロでも旦那は決して悪い気はしねぇだろう。


 俺は小娘の頬に『多分森だ』と悪魔文字を綴る。


 小娘は眉を下げると両膝をもぞもぞ擦り合わせ躊躇した。そりゃそうだ。小娘は『家の隣の黒い森や中央地帯の森に足を踏み入れてはならない』と厳命されている。病が蔓延する街へ行ってはならない命とは次元が違う。中央地帯の外れにある森には蛇頭の醜い化け物のメドゥーサが住んでいる。メドゥーサの醜い姿を見た者は石に変えられてしまうからだ。


 普段の俺だったら流石に止めている。目付を命じられていた対象が石化しました、なんて半殺しでは済まない。しかし相手は蛇頭だ。爬虫類と女は寒いのが苦手だろ? 特に蛇は冬眠するからな。どうせ家か穴蔵に引き蘢って出てきやしないさ。化け物がちょっと散歩に出たっても見なきゃいいんだ。サクセス・ストーリーに多少の危険は付きモンだ! ……小遣いで買ったミニボトル全部空けちまったからな。大分脳内が快適になっていた。


『怖いのか?』


 酔っ払った俺は小娘の頬に爪先で悪魔文字を綴る。キョトンとした小娘は首を横に振った。


 だよな。昆虫みてぇに何考えてんだか分かんねぇ旦那に懐く程の変わり者だものな。旦那の言い付けを遵守するだけの阿呆だ。


『じゃあいい子ぶるのはやめな。バレなきゃセーフなんだよ。後で旦那に詰問されたらお前はここで棒立ちして俺が取りに行った事にすりゃいい。冬場は蛇も冬眠するからメドゥーサも引き蘢ってるだろうよ』


 すん、と鼻を鳴らした小娘は掌に悪魔文字を綴って俺に見せた。


『森に行く前にトイレに行きたいな』


 ……紛らわしい。我慢しろ、寝小便小娘が。





 雪に埋もれる広大なぶどう棚を素通り、外れの森に入る。樹々は葉を纏っていなくとも天に差し伸べた無数の枝が目の粗いアーチとなり、雪風が大分柔らかくなる。寒いのには変わらないが先程とは異なり、小娘は大分歩き易いようだった。


 鼻先を薄桃に染めた小娘は白い息をヒイラギの実の色に染まった両手に吹きかける。華奢な手は寒さでかじかんでいた。洗い物や掃除で荒れた手に寒さが堪えるらしい。気を紛らわせる為か時々革のリュックサックから宝物の王冠を出しては眺めて大事そうに仕舞っていた。


 阿呆だな。毛糸を必要としているのはデカい旦那じゃなくてちんまいお前なのに。幻の雪の精が紡ぐ毛糸で自分の手袋を編めば良い。きっとそんな事すら気付いてないんだろうな。大したお人好しだ。


 息を吐き、手を温める小娘はくしゃみを二発した。


 風邪ひかせちゃならねぇ。俺は先を急がせた。


 冬にも関わらず花々に満ち、温かい泉が湧く庭の家を通り過ぎ湖を越えると森を抜けた。静謐な平原が一人と一匹を迎える。吹雪は止んでいた。


 森から出ちまった。ってかいつの間にか止んでいたか。振り返ると裸の樹々が並ぶ森では雪が降っている。だのに雪が積もる平原は止んでいる。ゲリラ豪雨の境目に居るようだ。


 奇妙な平原だ。静謐さと穏やかさに寒気を覚える。


 外界が騒がしいのに内は穏やかだったり、向こうの気候が厳しいのにこちらは過ごし易かったり……ハサミで切り取ったように不自然な空間には必ず何かが潜んでいる。蟻地獄のように何かが待ち構えている可能性が高い。これは魔の者の気配だ。すっかり酔いが醒めちまった。


 メドゥーサか? だったら不味い。冬だから蛇の動きも緩慢で鳴りを潜めているだろうと高を括ったのが不幸を呼び寄せたか。


 直様、金の悪魔文字が綴られた黒包帯を魔術で出すと俺は小娘の眼窩を遮蔽した。これなら突如出くわしても石化する心配は無い。


 察した小娘はキングコング宜しく俺の腹をぎゅっと掴む。あまりの力に俺は『ゲッ』と呻く。小娘の両手は胸へとするする上がる。首を掴まれた時は流石の俺も小娘の手を齧る。


 結局小娘はピジョンブラッド・ルビーのように高貴な俺の瞳を遮蔽した。


 ……良い子ちゃんめ。余計な真似するんじゃねぇ。俺の目が開いてなきゃどうやって退こうってんだ。俺は悪魔の旦那の一部なんだよ。例えメドゥーサを見て石化しても旦那の許に帰れば石化は解けるんだよ。ぶぅあーか。


 しかし小娘はンな事露知らない。瞼ばかりか俺の頭をぎうぎう締め付ける。


 ばっか。痛ぇんだよ。離せ!


 薄目を開き小娘の縛を解こうともがいた。しかし俺が石化するのを恐れてか怖がってか小娘は俺を離さない。


 ちっくしょう! 離せ! ビビリーめ!


 もがいている内に辺りが急に明るくなったらしい。小娘の手の血管を透かした光が俺の瞳を突き刺す。見た事も無い妖しい光だ。途端に本能が警鐘を鳴らす。


 まずい。得体の知れない何かが来る!


 俺は小娘の手を想い切り齧ると縛を振り切った。


 飛び出した刹那、光に包まれた。雪をエメラルドグリーンに照らす幻想的な光は俺の赤い瞳を覆う。


 いつの間にか暮れていたのだろう。夜の女神ニュクスが敷いた星空から薄絹のように柔らかい光が垂れている。


 オーロラだ。……現世の北極や南極で見かけられると聞いたがまさかこんな穏やかな島のど真ん中で見るとは想わなんだ。


 オーロラはコロコロと秋の空の如く表情を変える。エメラルドグリーンがアメジストに変わったりトルマリン色に変わったかと想えばシトリンに変わったり……。美しくも妖しげな光は空ばかりではなく雪原もオパール色に照らし出した。


 うぉお……ミルキーウェイを引っくり返すよりも幻想的だぜ!


 オーロラに圧倒されていると小娘が俺を突ついた。案じていたのだろう。石ではない柔らかな肉の感触に小娘は胸を撫で下ろす。


 大丈夫だ。それよりも見てみろよ! ぶったまげるぜ!


 俺は小娘の黒包帯を外してやった。


 視界が開けた小娘はまばゆい光に目を瞑る。あかぎれだらけの指で瞼を擦ると再び瞼を上げる。エメラルド色の瞳にオーロラを映すと驚きのあまり口を開いた。


 な? 阿呆みてぇにすげぇだろ?


 エメラルド色の瞳を窺うと、涙を薄ら浮かべた小娘はこっくり頷いた。


 一人と一匹で棒立ちになり星空から垂れ下がる虹色クレープのようなオーロラを見上げる。暫く見入っていると小娘は俺の頬に『先生にも見せて上げたかった』と悪魔文字を綴った。


 やべ。すっかり忘れていた。旦那のマフラーの為に幻の雪の精から毛糸を貰いに来たんだった。


 両手で頬をぴしゃりと叩くと目を凝らし平原を見渡す。すると遥か彼方、オーロラの裾の真下で白い独楽のような物がクルクル回っているのが見えた。独楽は同じ所を回らず気まぐれにふらふらと辺りを優雅に舞う。意志があるようだ。


 俺と小娘は顔を見合わせる。


 こんなに幻想的な所に居るんだ。幻の雪の精かもしれない。


 互いにこっくり頷くと小娘は俺をフードの中に放り込み独楽へと駆け出した。


 移動術すら使うのを忘れて小娘はガキ特有の無駄の多い動きで走る。でべでべ、でべでべ、横揺れしながら不格好に走る。端から眺めている分には無様で腹がよじれる程面白いが小娘に乗るとなれば話は別だ。まっすぐ走れない所為か着地が下手な所為か体が揺れまくる。俺は小娘のボサボサ頭に乗り髪を掴んでいたが堪え切れずに手を離してしまった。料理上手な旦那に中華鍋ごと煽られるチャーハンよろしくフードの中を縦横無尽に舞い、目を回す。


 惨状に気付いた小娘は急停止するとフードの中に手を突っ込む。そして目を回した俺を掴み上げた。


 力加減を知らぬ小娘の指が腹に食い込む。既に酔いが醒めているとは言え平衡感覚を失って気持ち悪いのに、胃を圧迫されて昼食だった物が喉元へと込み上げる。口蓋まで押し寄せるゲロに頬を膨らませて俺は堪えていると小娘の顔色は青くなる。どうしようか、背を擦ろうかと小娘は慌てふためく。その間にもゲロは口蓋を乗り越え俺の唇に押し寄せる。


 歯を食いしばり目に涙を浮かべて最後の砦を死守する。だがそんな健気な俺を小娘は捨てた。エンガチョ、とばかりに彼方へ勢いよくぶん投げたのだ。


 ぶん投げられ着地したと思いきや、固い雪上を凄まじい勢いで尻が滑る。冷ややかな摩擦熱と頬を斬りつけるに風圧に驚き俺は思わず唾……いやゲロを飲み込む。手を突いて止まろうと試みるものの、神経が密集した手には氷熱が痛くて指すら当てられない。凄まじい風圧に抗い振り返ると尻目に小娘が見えた。口を開いて『やりすぎた』と言う顔をしていた。しかし直ぐに遠ざかる。俺よりも背が高い小娘は豆粒大に変わってしまった。


 どうやって止めるってんだよ!?


 雪原はずっと続いてる訳じゃない。しかし何処に出るか分からない。雪原の先がスノーマンならクッションになりそうだが崖なら冗談じゃない。旦那に蹴り転がされるよりも酷く痛い目に遭う。


 風圧に抗い懸命に霜焼けの手を掲げる。術の発動を試みるものの気持ちが急いて上手くいかない。奥歯を噛み締め幾度と試みていると顔面から衝突した。


 感覚が麻痺した腰と尻を擦りつつ顔を上げると真っ白な女が俺を見詰めていた。


 滑って一周でもして小娘にぶつかったかと想った。普段小娘に意地悪する俺が言うのも何だが、白い女は小娘と同じく随分と端正な顔をしていた。


 エメラルドグリーンの眼玉を嵌めた白い女は輝く青い蝶を従わせている。彼女は古典主義バレエの白い衣装を纏っていた。衣装には胸や裾に青いアラベスク柄の刺繍が施され、ニュクスのドレス……夜空を引っくり返したように銀のビーズが彼方此方にちりばめられている。俺が滑った雪原のように広がるチュチュ(スカート)には無数の青い蝶がとまっている。こんなに綺麗なモン、俺生まれて初めて見た。……幻想的だ。間違いなく彼女が幻の雪の妖精なのだろう。


 妖精は雪原のように白く長い腕を俺に差し出す。白い腕の周りにも光り輝く青い蝶が舞っていた。どうやら起こしてくれるらしい。


 遣い魔とは言え俺は悪魔だ。借りは作らない主義だ。……しかし腰と尻の感覚がない以上自力で立てぬ。それにこんなに綺麗なねーちゃんに親切にされるなら悪い気はしない。妖精に甘えて手を差し出した。


 しかし差し出された瞬間、俺は手を引っ込めた。ぎょっとした。白く長い腕は近くで見ると幾つも節があり、和毛が生えていた。手……と言うべきだろうか、差し出された腕の先は猫の足を偲ばせる三日月型の黒爪を隠していた。……妖精が差し出した手は蜘蛛の脚だったのだ。麻痺した脚で立てぬまま俺は蜘蛛の脚を見詰める。視線を差し出された手から胸、腹、臀部へと下ろす。清楚で華やかなチュチュの下は六本ものおどろおどろしい脚が隠れていた。


 妖精……もとい蜘蛛女は微笑む。


 開いた口が閉まらない。起こす振りして蜘蛛女は俺を頭から喰っちまうかもしれない。きっと蜘蛛女の周囲を舞う青い蝶は喰われた蝶の亡霊だろう。俺も喰われたら蜘蛛女の周りをコウモリの翼で舞うのか。嫌だそんな少女ポンチ絵な絵面。恥ずかしくて死んでも死に切れねぇ!


 逃げるべきだ。しかし脳が下した命を脚は聞かない。腰が抜けて立ち上がれない。進退窮まり脂汗を掻いていると駆けつけた小娘に肩を揺すられた。


 小娘は『放り投げてごめんね』とばかりに両手を合わせ、眉を下げて微笑んでいる。


 ばっか! 目前に佇む女を見ろ! 蜘蛛女だぞ! 早く俺を抱えて逃げろ!


 指差し喚き立てると小娘は蜘蛛女に気付いた。


 蜘蛛女と小娘は互いを見詰める。端から見れば小娘が鏡を覗いているようだった。両者、容貌が瓜二つである事に驚き眼を見張る。蜘蛛女は不思議そうに小首を傾げると黒い爪を隠した和毛の脚を手のように振る。


 そら見ろ! そいつは化け物だ! 一刻も早く俺を抱えて逃げろ!


 俺は金切り声を上げる。


 訴えに耳も貸さず小娘は蜘蛛女を魅入る。両者互いを見詰めたままだ。しかし静かな均衡を小娘が破った。人が好いのか馬鹿なのか、蜘蛛女ににっこり笑む。そして赤いスカートを両手で摘まむと礼儀正しくお辞儀をする。


 ……他人の礼儀に厳しい旦那に育てられたとは言え……馬鹿過ぎだろう。俺は痛む頭に手を当てた。


 蜘蛛女は黒い爪で口許を覆い笑むと、左脚を差し伸ばし軽く弧を描くように両手を天に上げる。そして上体を前に倒しつつ両腕を下げ、バレリーナの要領でお辞儀をした。


 優美さに小娘は見惚れ微笑む。美しい者を見て羨む瞳だ。そんな小娘を見て蜘蛛女は母親のように笑む。笑顔の応酬だ。


 どうやら敵意はないらしい。胸を撫で下ろすと萎えていた俺の脚が甦った。


 蜘蛛女は小娘のモスグリーンのフードを一撫ですると、ふらふらと立ち上がった俺を尻目に天に片腕を差し出し舞う。青い蝶も煌煌と彼女の後に付き従う。


 オーロラの裾で舞っていると蜘蛛女の白い顔にエメラルド色の裾が当たる。蜘蛛女は眉を下げて微笑み、和毛の脚でオーロラの裾に触れた。すると蜘蛛女の黒い爪の狭間にオパール色に光る小さな玉が生まれた。蜘蛛女が片腕で宙に弧を描く度に不思議な色の玉は太る。オーロラは徐々に短くなる。蜘蛛女はオーロラを解し、毛糸にしていた。


 伝説は真だった。


 蜘蛛女の正体が幻の雪の精であると小娘も気付いたらしい。オーロラの裾から毛糸を紡ぐ蜘蛛女に小娘は駆け寄る。そしてオパール色に輝く毛糸を指差し両手を合わせた。


 言の葉を発せぬ者として蜘蛛女は小娘の願いが分かったようだ。毛糸の塊を見詰め、小娘を見詰めると満面の笑みを向けた。どうやら毛糸を褒められ嬉しいらしい。しかし彼女は首を横に振った。


 小娘は眉と肩を下げ、しょげる。


 なんちゅーいけずなやっちゃ! 小娘に意地悪していいのはこのアルレッキーノ様だけだ!


 お株を奪われ腹が立った俺は蜘蛛女の肩に飛び乗るときいきい喚き立てる。蜘蛛女は眉を下げ、首を横に振る。そして毛糸の塊を指差し、小娘のフードを下ろすと豊かな赤毛を束にして掴んだ。


 毛糸と赤毛を交換したい。それが彼女の条件だ。


 意味を解した小娘は途端に表情を曇らせる。それもそうだろう。自分で面倒見切れなくても伸ばしていたのだから。毎朝、小娘は豊かな茜色の髪を旦那に梳られている。魔術の教育と趣味の料理を除き一切世話を焼かない、父親代わりとは言え小娘に触れようともしないあの旦那が世話を焼いているのだ。『茜色の髪は魔力を蓄える。髪が長ければ長い程、豊かであれば豊かである程、美しければ美しい程に。魔道に身を置く者として大切にするように』と諭され小娘は髪を結われているのだ。


 旦那の言い付けを遵守する娘だがこの事に限ってはそれだけではないと想う。……多分、小娘は長い髪が好きな訳じゃない。よく鬱陶しそうに搔き上げているからな。自分の髪を好いてくれる旦那の為に伸ばしているのだ。


 節くれ立った大きな手が髪を分け、滑り、頭皮に触れる度に小娘は心地良さそうに目を細めていた。絶大な信頼を寄せる者に触れられるのは誰だって悪い気はしない。髪が短くなればその機会を失う。それに旦那を悲しませる。


 しかし毛糸は必要だ。どうしても必要だ。マフラーを編んで大好きな師の首を暖めたい。


 進退窮まりエメラルド色の瞳を潤ませた小娘は俯く。


 蜘蛛女は眉を下げ『全てを切る訳じゃない。長い髪の半分を望んでいる』と和毛の脚を掲げジェスチャーする。しかし小娘は顔を上げない。


 残酷な条件を提示したと今更分かったのだろう。蜘蛛女は六本の脚を深く曲げ、小娘と同じ視線になる。肩にそっと和毛の二本脚を置き『悪い事を言った』と眉を下げる。


 小娘は首を横に振る。顔を上げても表情は曇ったままだ。


 辛気臭ぇなぁ。言の葉を発せぬ者同士、さっきまで微笑み合っていたじゃねぇか。長い溜め息を吐いた俺は蜘蛛女の肩から小娘の頭に飛び乗り、茜色の髪をきゅうきゅう引っ張る。


 しかし荒れた髪型を更に乱してやっても広いデコをサンバのリズムで叩いても鼻先に屁をこいても、いつもの意地悪をいくらしてやっても小娘の表情は変わらない。残酷な条件を真摯に考えているのだろう。さくらんぼ色の唇をきゅ、と引き結ぶと小刻みに震えた指で小娘は髪を取る。涙で潤みつつも真剣な眼差しを茜色の束に向けると震えていた指は力を持つ。


 ……まずい。切る気だ。


 一ミリでも切ってみろ。旦那の機嫌悪化は必至だ。


 俺が小娘係に就かせられる以前の話だ。伸びた前髪を煩く感じた小娘はこっそりハサミを入れた。子供の不器用な手で適当に髪を切ったのだ。ザルを被ったような不細工前髪の小娘を見た途端、旦那の機嫌は悪くなった。俺を始め、遣い魔一同に裏で酷く当たっていたのは言うまでもない。小娘に甘くとも遣い魔に当たり散らす旦那の事だ。小娘係の俺が引き止めなかった、とバレたら俺の命は無いに等しい。


 俺は小娘の頭皮を想いきり齧る。生え際に痛みが走った小娘は瞼をぎゅっと瞑る。俺は喚き散らして注意を向けさせた。そしてデコっぱちからぶら下がり眼前で『旦那を喜ばせるよりも悲しませる』と身振り手振り説教を垂れる。


 小娘は再び眉を下げる。


 だからそんな時化た顔すんなって。髪は無理でも他に大事な物を差し出せばいいじゃねぇか。俺は革のリュックサックに潜ると銀の王冠を取り出した。


 掌に乗せられた宝物に小娘の眉が上がり、瞳が見開く。


 蜘蛛女を指差した俺は鼻を鳴らす。意を理解した小娘は躊躇する。……旦那と触れ合う機会をもたらす髪程ではないが銀の王冠も宝物だからな。小遣いを貯めに貯めていたのを俺は知っている。しかしそれが一番の捧げ物であると決めて小娘はこっくり頷いた。


 愛しげに王冠を一撫すると小娘は蜘蛛女に差し出す。蜘蛛女はにっこり笑むと脚を折り白鳥を偲ばす程に優美に頭を垂れ、小娘から王冠を白い頭に戴いた。


 胸を撫で下ろし、息を吐いた一人と一匹は顔を見合わせる。小娘は微笑むと俺の頭を撫でた。鼻を鳴らした俺は外方を向く。


 それを眺めていた蜘蛛女はくすりと笑む。銀の王冠を白い髪に戴いた様はまるで白鳥の王女だ。彼女は片手を天に差し出すと優美に舞い、オーロラの裾から糸を紡ぐ。


 蜘蛛女……いや、幻の雪の精たる舞姫の舞台を俺達はいつまでも観覧した。





 帰宅後、小娘はオーロラ色の毛糸に付きっきりだった。


 寝食忘れて……大好きな豚のリエットすら忘れて黙々と編み棒を動かす。そりゃセルフカットでザル被り前髪に仕上げちまう小娘の事だ。無意識に毛糸を強く引いたり緩めたり稚拙な手つきは決して褒められたもんじゃない。不揃いな編み目は不細工だ。その道の玄人なら使いこなせるだろう希少な材料を素人が無駄にしている。しかしそれでもいい。いつも良くしてくれる旦那に、身寄りの無い自分を引き取ってくれた旦那に少しでも恩を返したい。……純粋で健気な心が夜を徹する小娘を支えていた。


 三日目の夕方、漸くマフラーが完成した。やはり仕上がりは決して褒められた物じゃなかった。編み目が飛び、アイロンを当てても所々よれて不格好だ。あまりにも見事な出来映えに俺は思わず失笑する。不味いと想ったのだろう。目の下に隈を拵えた小娘は眉を下げた。しかしそれを慰めるのは俺の役じゃない。……旦那が帰宅するまで落ち込んでいればいい。俺はお前が困っている顔を眺めるのが好きだからな。


 小娘は旦那に喜んで貰えてホクホク、小娘に知恵を吹き込んだ俺は旦那に賃金を上げられホクホク。俺のサクセス・ストーリーの第一話が完結間近だぜ!


 口角の両端を吊り上げて笑んでやると小娘はくしゃみをする。洟を啜ると立て続けに三発した。


 とまらないらしい。声を発せぬ小娘が発する音が幾度となく家に響く。それでも小娘は最後の仕上げをする。ガラクタ箱からワインレッドの包み紙と鈍色のリボンを取り出すとにんまり笑んだ。プレゼントのラッピングが決まったようだ。


 小娘の鼻の頭が赤く染まりルドルフ(赤鼻のトナカイ)を彷彿させる。マフラーを包むと瞼をとろんと下げた。鈍色のリボンをハサミで切るとそのまま寝込んでしまった。


 最も恐れていた事態を起こした。術で二階のベッドへ運び、急いで布団を掛けてやる。発熱しているらしい。呼吸を荒げて苦しそうに眠る小娘を俺は見下ろす。


 風邪を引かせた。考えてみれば無理も無い。雪の中を何時間も歩かせ、幾晩も徹夜を許したんだ。風邪を引いてもおかしくない。


 帰宅した旦那に見つかれば半殺しじゃ済まない。『子供は体が弱く罹患し易い』と懸念されたからな。病原菌だらけの街に出さなくとも風邪を引かせたら旦那にぶっ飛ばされる。これではサクセス・ストーリーどころじゃない。


 証拠隠滅を図るべきだ。一刻も早く……旦那が帰宅する前に全快させようと氷で冷やしたタオルをでこっぱちに乗せ、夢から覚めれば匙で蜂蜜を小娘の唇の奥へと落としてやった。


 ……確かに回復魔術を掛ければ良いと想う。しかし俺は遣い魔だ。自らの命を削る大きな回復術は使役出来ない。そこまでの魔力が無いのだ。故に甲斐甲斐しく世話を焼くしか無い。俺は小娘の額に乗ったタオルを替えてやった。


 虚ろな眼をした小娘は俺を見て微笑む。『ありがとう』と言ってるように。馬鹿だな。風邪を引かせたのはお守役の俺の所為だって言うのに。


 愚かでお人好しな小娘の苦しそうな寝顔を眺めていると玄関のドアが開く音が聴こえた。


 まずい。旦那だ。


 小娘は日中いつもリビングに居る。山積する雑用をこなし旦那の教育を受ける為だ。しかし今日は居ない。訝しんだ旦那は階段を上がる。堅牢な木の階段と言えども大男の体重が掛かるとギシギシと悲鳴を上げる。一段上がる度に俺の心の悲鳴も大きくなる。


 まさかクリスマス前に帰って来るとは想わなかった。回復させられなかった。……殺される。


 観念した俺が項垂れているとノックの音が鳴った。独特のリズムだ。小娘はいつもなら身形を整えて直ぐにドアを開けるが今日は起きない。


 益々訝しんだ旦那は二度、三度と間を空けてノックする。しかし呼吸を荒げて病魔と闘う小娘は瞼を上げない。


 痺れを切らした旦那は『入る』と断った後に入室した。


 旦那の冷ややかな鈍色の瞳に病床の小娘が映る。俺は覚悟を決めた。


「……アルレッキーノ」


 呼ばれた刹那、恐怖で強張っていた背がピンと張る。喚ばれたら直ぐに馳せ参じなければならない。俺は小刻みに震える脚を懸命に動かし、フローリングを見下ろしながら旦那の足許へ駆けつけた。


 顔を上げた途端にどデカい革靴が凄まじい勢いで振り子のように飛んで来た。


 鼻っ面にヒットを喰らった俺は弧を描いて吹っ飛ぶ。小娘が寝込むベッドを越え、書き物机を越え、窓ガラスをぶち破り庭のハーブ畑の凍った土にガラス共々頭から突き刺さる。


 霜柱が立った土に手を当て、地中から頭を引き抜こうとすると背後で旦那の気配を感じた。きっと術で移動したのだろう。旦那は武骨な指で俺の華奢な首根っこを掴むと頭を地中奥深くへとねじ込む。


 ──念を押した筈だ。『くれぐれも街なんぞに出さぬように』と。何故床に臥せらせた?


 旦那の心の声が脳内に響く。怒り狂っているものの、術を介して聴こえる声は冷たい。聴いた者を永久に凍り付かせる冬将軍の声だった。


 ユリの蕾を偲ばせる程に耽美で尖った耳がつかえて頭を引き抜けない。それでもやっとの想いで引き抜くと言い訳を並べる。身振り手振りがワンパラグラフ区切る度に俺は旦那のどデカい足に蹴り飛ばされた。それでも正直に説明した。神の子と重なった旦那の誕生日の事、小娘の心遣いの事、雪の精の伝説、街じゃなければ大丈夫だと想った事、オーロラの毛糸、幾晩も徹してマフラーを編んだ小娘の事……。


 中央地帯の森に入った話では幾度となくトマトのように旦那に踏み潰された。悪魔文字が綴られた黒包帯で目隠しした、と説明すると長い溜め息を吐かれた。


「冬ごもりのメドゥーサが現れぬ故に良かったものの……決して褒められた事ではない。愚かな事を。……しかしアラクネに出会っても驚かぬアレは心が清いばかりか眼も曇りが無い。メドゥーサに鉢合わせても石化しないのやもしれない。」


 両腕を組んだ旦那は二階の窓を横目で見遣るとぽつり独りごちた。分厚い筋肉を纏った肩は下がり、いつもの何を考えているか分からない昆虫的な表情に戻っていた。


 仁王立ちの旦那を見上げる。……鈍色の瞳からは既に殺気が失せていたが、白眼がいつもよりも濡れていた。


 旦那は目頭を押さえるが俺の視線に気付くと鼻を鳴らし、外方を向く。そして『私は次第を聞かなかった。遠出で病に冒されたアレが床に臥せっている。それが全てだ。そうでなければ愚かなアレが不憫だ。他言無用だ……いいな?』と念を押し俺を睨みつけると目前から消えた。


 半殺しの体を引きずりつつ俺は家に戻る。幾度も踏み潰されて頭がぼやっとするし耳鳴りもするし体のあちこちが痛い。しかし部屋に戻って看病せねばなるまい。自分で蒔いた種だ。


 既に短距離移動術すら使える魔力は残っていない。重厚な階段を這い上がり、やっとの想いで小娘の部屋のドアを押す。体力すら残っていない。ドアを数センチ開けるだけで精一杯だった。


 ドアの向こうから旦那の声が聞こえる。僅かに残ったスズメの涙の魔力で聴力を小回復させると旦那が回復魔術を詠唱しているのが聴こえた。


 懸命にドアを押し隙間から部屋を覗く。ベッドで病と闘う小娘の顔から汗が引いていた。荒げていた呼吸も穏やかになり、安らかに眠っている。小娘の額を撫でる旦那の鈍色の瞳は何処か優しげだった。


 俺ら遣い魔には冷淡な癖に、小娘には見えない所で何とも言えねぇ表情するんだなぁ。くたばる前に良いモン見れたわ。しかし俺のサクセス・ストーリー……伝説はここまでか。なんだか眠いわ。死ぬんだな、きっと。


 訪れる死を感じ清々しくなった俺は微笑を浮かべる。しかし体力をそれで使い切ってしまったらしい。意識はそこで途切れた。





 目が覚めたのは大分後だった。


 芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。馳走の匂いだ。夢現つで大口を開けて齧り付こうとすると舌を思い切り噛み、激痛で目覚める。


 うお! 俺ってば生きてた!


 痛みと生の喜びに目尻に涙を浮かべて辺りを見回す。リビングだった。どうやらガラクタが入ったワイン箱で寝かされていたらしい。ガラクタのゴツゴツした感触を背中で味わう。身を起こしテーブルを見上げると晩餐用の高級皿が並んでいた。


 汚れで曇った窓から外を覗くと既に日が暮れていた。


 キッチンから物音が聴こえる。旦那が調理しているに違いない。……何時間……いや幾日意識を失っていたか分からんが仕事をサボったのには変わらねぇ。一刻も早く手伝わなければまた蹴り飛ばされる。俺はキッチンへと駆け出した。


 するとキッチンから出て来た小娘と鉢合わせた。既に全快しているらしい。小娘は満面の笑みで俺を抱き上げると小走りでキッチンへ戻る。竃の様子を見下ろす旦那の背を突つくと拾った子犬のように俺を見せた。


 鼻を鳴らした旦那は視線を竃へ戻す。眉を下げ小首を傾げると小娘は俺を見詰める。


 馬鹿め。エコヒイキのお前を病に陥れた俺に旦那は良い想いを抱いている筈が無い。


 ケッと舌打ちすると振り向いた旦那に凄まじい眼付きで睨まれた。


 おぉ怖や怖や。魔界の底の底の御方様よりもお怖いわ。


 旦那から顔を逸らすと小娘の縛を振り切り、肩に飛び乗る。するとある事に気が付いた。いつもの小娘と今日は何処か違う。いつもの簡素なスラブ風のワンピースではなく、よそ行きの白く長いドレスを纏っている。まじまじ眺めると頬を染めた小娘は片手でスカートの裾を摘まむと茜色の髪にもう一方の手を当てた。


 そうか。おべべ着て粧し込んでるんだな。それにいつものおさげじゃなくて今日はゆるふわのシニヨンなのか。指を鳴らした俺はニヒルに微笑んでやった。


 それじゃ今晩は小娘の快気祝いってか! まーた小娘には甘いんだなあの旦那は。


 馳走の匂いを鼻腔いっぱいに取り込む俺を余所に小娘は旦那から焼きたての七面鳥の大皿を受取る。しかしよろめく。力仕事に慣れていない故に重いのだろう。充分回復していないが大皿くらい持てる。俺は小娘から皿を奪うとリビングへと運んだ。


 テーブルのど真ん中に皿を置くと華やかに飾られたマントルピースが視界に入る。煤で薄汚れた棚には松ぼっくりで拵えた小さなクリスマスツリーが飾られていた。


 俺は目を引ん剝いた。クリスマスの飾りじゃねぇか!


 卓上の花を活け直す小娘の肩に飛び乗ると俺は頬をつねる。


 おいバカ! クリスマス飾りなんざ捨てちまえ! あれだけ口酸っぱくやめろと説いたのになんて事しやがんだ! 殺される! 七面鳥の次は小娘ローストの仕込みを始めるぞ! 逃げろ! 今直ぐ逃げろ! 俺を摘まんで即刻逃げろ!


 きいきい喚き立て小娘の頬を想い切りつねり玄関に促す。するとマートルイチゴのタルトが乗った皿を片手に持った旦那に耽美な翼を摘ままれた。


「何を戯れている。席に着き給え」


 一瞥もせず小娘に命じた旦那は俺を小娘の席の前に下ろす。小走りで席に着いた小娘は状況を把握出来ぬ俺に微笑む。すると大きな革のカウチに着いた旦那が食前の(糧への)感謝の祈り、そして七面鳥の名を口にする。小娘も神妙に頭を垂れ声が出ぬ口を動かし祈りを捧げる。


 ……クリスマス飾りが見えてないのか? いや、まさか。


 俺が小首を傾げていると旦那は締めの言葉を紡ぐ。そして顔を上げると武骨な手で花冷え種のスパークリングワインが満ちたグラスを手に取る。


 イマイチ状況が把握出来ないが晩餐が始まったらしい。給仕は俺の役目だ。七面鳥の丸焼きを切り分けようとナイフを手に取る。


 すると旦那の声が食卓に響く。


「アルレッキーノ」


 なんだよ。(お前に蹴り殺されかけて眠っていた所為で)よく分からねぇけど一応働いてるだろ。怒られる筋合いはねぇよ。


 唇を尖らせ鈍色の瞳を見詰めていると旦那が顎をくい、と上げる。すると背後から小娘に掴まれた。


 ばっ……やめろ! まさか七面鳥のホロホロ君じゃ物足りず俺をローストする気か!? 小娘ローストを心配してやってた俺が丸焼きなんざ馬鹿の極みじゃねぇか!


 ビロードと見紛うきめ細やかな肌の背をよじり、牡鹿を偲ばせる耽美な脚をばたつかせているとナイフが床に落ちる。小娘は足掻く俺を自らの皿の手前につかせると、プティサイズの皿を俺の目前に置いた。


 皿にはいたずらミントのキャンディが乗っていた。


 大好物を前にして俺は目を引ん剝く。


 一体全体どうしたってんだ。晩餐の給仕を止めるばかりか、小娘の席に着かせて好物を差し出すなんて。……さては俺が皿に手を付けたら旦那のヤツ、ぶっ飛ばすつもりだな? この前の遣いのスパークリングワインでの仕置き、覚えてるんだからな! そーゆー仕置きなんだな? いやらしい奴め!


 スパークリングワインのグラスを傾ける旦那を顔に皺を寄せて見上げていると頬を染めた小娘は席を立つ。薄い胸には見覚えのあるワインレッドの紙包みを抱いている。旦那の瞳と同じ鈍色のリボンが掛けてあった。


 あ……! そうか。快気祝いでもクリスマスの祝いでもなくて誕生祝いの席だったのか。ツリーや七面鳥で騙されたぜ。ったく紛らわしいモン飾るなよ。


 胡座を掻いた俺は両腕を組むと、カウチに座す旦那へと恥じらいつつ近付く小娘を眺める。先日まで鼻を赤く染めていた小娘が今度は頬を真っ赤に染める。紙包みをぎゅっと抱きしめると旦那を見上げ、差し出した。


 小娘の企みを知っていた癖に旦那は片眉を僅かに上げて乏しい表情で驚いてみせる。


 更に頬を上気させた小娘は旦那の大きな手を取ると指で悪魔文字を綴る。『お誕生日おめでとう御座います。いつも良くして下さる先生に心ばかりのプレゼントです。受取って貰えたら嬉しいです』綴り終えると武骨な手を名残惜しそうに離し深くお辞儀した。


 深々と頭を下げる小娘に微笑を浮かべた旦那は鈍色のリボンを解くと包み紙を丁寧に剥がす。紙の音がリビングに響く。顔を上げた小娘は今にも泣き出しそうだ。大好きな師にプレゼントを気に入って貰えるか否か、裏の焼却炉に突っ込まれないかどうか不安で仕方ないのだろう。


 不安な小娘が唇を震わせていると、旦那は例のマフラーと対面した。


 幻の雪の精と謳われた蜘蛛女のアラクネが紡いだオーロラの毛糸が輝く。沢山の呪い道具が吊り下がる白い天井があの雪原の空色に輝く。辺りがオパールみたいだ。


 高級な材料を使っていても編み目が飛んだ不細工マフラーを旦那は見詰める。


 小娘は服の胸許の生地をぎゅっと握り締める。


 すると旦那は無造作にマフラーを首に巻いた。


「似合うかね?」


 大好きな師に問われ小娘は幾度となく首を縦に振る。


 ……正直な所、ダークレッドや黒等渋好みなダンディミドルの旦那には似合わない。旦那自身もそう思っているだろう。しかし切れ長の眼窩から覗く鈍色の瞳はいつもよりも穏やかだった。


 旦那はふ、と微笑む。


「互いの存在に感謝する日……クリスマスとやらだからな」


 一言添えると小娘の頭に旦那は蔦の冠を被せた。セイレーンのアクセサリー店で見かけて小娘が懸命に小遣いを貯めて買おうとした品だ。額を貯めた頃にはもう捌けてしまった幻の品だ。


 手鏡を渡された小娘は頭上に戴いた新しい宝物に気付くと破顔する。諦めていた物が手に入ったのだ。その上旦那からのプレゼントだ。嬉しくて仕方ないのかエメラルド色の瞳に薄ら涙を浮かべている。


 あーあ、ばかみてぇ。あーあ、クソみてぇ。


 鼻を鳴らした俺がいたずらミントのキャンディを頬張っていると小娘が肩を突ついた。

 あんだよ。


 振り返ると小娘を睨む。すると満面の笑みを浮かべる小娘はリリアンで編んだ小さな赤い手袋を差し出した。


 俺に?


 俺は自らを指差す。小娘はこっくり頷くと俺の片手を取り『霜焼けしてたから』と悪魔文字を綴った。


 受取った手袋をまじまじと眺める。……旦那のマフラー同様に編み目が飛び、よれて不細工だった。マフラーを編んでから作ったのだろうに成長しないやっちゃな。しかし嵌めてみるとなかなかどうして暖かい。これならこの冬辛い想いはしなさそうだ。


 ……礼なんざ言わねぇからな。


 鼻を鳴らし小娘を横目で睨む。小娘は満足そうに微笑を浮かべていた。


「アルレッキーノ」


 突如響いた旦那の声に瞬時に俺は肩を跳ね上げる。


 いやだ! 絶対ぇ礼なんざ述べてやるもんか!


 旦那が怖くとも俺の子分たる小娘に礼なんざ言いたかない。頑に唇を結び尖らせていると旦那は小さな紙包みを差し出した。


 ……え? 俺にも?


 不肖の弟子でも可愛い小娘にプレゼントをくれてやるのは当然だ。しかし一端の遣い魔たる俺にまで……小娘を床に臥せらせた俺にまでくれるのは驚いた。開いた口が塞がらない。神の子と同じ晩に生まれた悪魔がクリスマスを祝い、子分の遣い魔にプレゼントを贈る……正にクリスマスの奇跡だ。


 ピジョンブラッド・ルビー並みに高貴な眼玉を引ん剝いていると鼻を鳴らした旦那に包みを押し付けられた。


 ……ぃやった! 俺の物は俺の物! 貰える物は俺の物!


 包みを掲げて地を蹴り、両足の裏を互いの足で叩く。


 ニヤニヤが止まらないぜ! 運が向いて来たぜ! 俺のサクセス・ストーリーはここからだ!


 欣喜雀躍、満面喜色。暫し幸運を堪能し小躍りしてから包み紙を豪快に破いた。


 笑顔から一転、顔に皺が寄る。


 包みから姿を現したのはプティサイズの首輪とハーネスだった。


「アルレッキーノ、貴様は目を離すと碌な事をしない。故に見習いたるニエでも扱える魔術の首輪と綱を用意した。ニエ、アルレッキーノと行動を共にする際は彼に首輪を付け給え。主従を分からせ給え」


 俺はがっくり肩を落とした。





 クリスマスから旦那は外に出るようになった。


 金持ちで人嫌いの引きこもりだ。街への用事は遣い魔や小娘に全て押し付けている。外に用がある筈が無い。


 小雪が舞う荒地をオパール色に輝くマフラーを巻いた大男がのしのし歩く。どうやら散歩のつもりらしい。……まあそうでもしねぇと引きこもりはマフラー巻けねぇもんな。家ん中で巻くのは不自然だ。


 行く当ても無く荒地を右往左往する旦那を、首輪を嵌められハーネスを付けた俺と蔦の冠を被った小娘は薄汚れた窓から覗く。


 鼻を鳴らすと小娘を見遣る。彼女は微笑を浮かべていた。……しかし片手は胸許のドレスの生地をぎゅっと握り締めている。


 俺は小娘が何をしたいのか直ぐに気付いた。


 あーあ、ばかみてぇ。 あーあ、クソみてぇ。


 ムカついたので小娘の頭をぽかんと一発殴る。頭を押さえた小娘は肩に乗る俺を涙目で見遣った。


 一緒に散歩したいんだろ? だったらポンチョ羽織って外に出ればいいじゃねぇか! ぶぅわぁーか!


 きいきいと喚き立てる俺に小娘は面喰らう。しかしこっくり頷くと小娘は自室のクロークへと駆け出した。


 小娘の肩から飛び降りた俺はハーネスを引きずり大きな革のカウチをよじ登る。


 やれやれ。鬼とエコヒイキが居ぬ間に何とやらとでもすっかな。


 座面に辿り着くと魔術でポンチ絵を取り出し、寝そべる。すると階段を駆け下りる音がでべでべと聴こえて来た。


 モスグリーンのポンチョを纏い、蔦の冠を頭に戴いた小娘を俺は一瞥する。


 なるべく遠くまで、ゆっくり散歩して来いよ。何なら島を一周してくりゃいい。旦那とお前が居なけりゃ、俺はのんびり寛げるからな。


 小娘は反抗的に鼻息を鳴らすとハーネスを引っぱり、家を飛び出した。ハーネスがぴんと張り、首輪に気道を締められた俺は文句を垂れる暇も与えられない。


 あんだよ! 折角気を利かせてやったってのに! 最悪じゃんか!


 苦し紛れにちらりと小娘を見上げると先程よりも良い表情をしていたので大人しく付き合ってやる事にした。


 でべでべ、でべでべと小娘は荒地を駆ける。がっくんがっくん揺らされながらも俺は指定席……小娘の肩へとよじ登る。


 ガキ特有の無駄の多い走り方は派手なので目に付く。気が付いた旦那は歩みを止めると小娘を待つ。小娘は満面の笑みを浮かべて加速する。


 大男の背に追いついた小娘は息を弾ませ、黒い外套の裾を掴む。旦那は視線を荒地の彼方へ戻すと小娘の歩調に合わせて歩き出した。


 小娘はこれ以上無い笑みで旦那を見上げる。旦那は素知らぬ顔をして、小雪が降り積もる地面を黙々と歩く。


 なんだかこそばゆくなった俺は魔術で赤い手袋を出すと、徐々に遠ざかる背高の家を小娘の肩から眺めた。


                                   了

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