小娘と遣い魔
乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh
「小娘と遣い魔とおつかい」〜俺の伝説その一〜
喚ばれて馳せ参じると、二階の寝室で旦那は両腕を組んで佇んでいた。
大男の旦那の足許では赤毛の小娘が涙ぐんでいる。
またか。また今日もか。
こいつの泣き顔にはうんざりさせられる。
そりゃ俺は悪魔だからして他者の不幸は蜜の味だ。しかしこいつの泣き顔は後の不幸の暗示だからな。今日もこいつの尻拭いをせにゃならんのか。あーあバカみてぇ。
毎度毎度『もうしません』と誓ってもこの小娘は旦那を裏切り続ける。
まったく旦那ときたら大したお人好しだ。無二の友に裏切られても尚、人を信じる。特にこの小娘には週三で裏切られっぱなしだ。だのにいつも許しやがる。顔には出さないが憎からず想ってるんだろうな。このロリコンめ。
ベッドに上がった俺は枕に尻を下ろすと大きな溜め息を吐く。うん。今朝も今朝とてお見事だ。
眼前いっぱいに広がる寝小便。大いなる世界地図。『大航海の夢の後。大後悔を大公開』ってか?
冗談言ってる場合じゃねぇ。モタモタしてると俺が旦那にどやされちまう。小娘が初めて寝小便垂れた朝に揶揄ってやったら旦那に蹴り飛ばされた。遣い魔の俺は人間よりも……いや、実を言うと小娘よりも随分とちんまいからよーく転がった。旦那の蹴りは痛ぇのなんのって。
小娘とは言え二次性徴が始まる直前の娘が寝小便垂れるなんて普通はあり得ないわな。それ程新しい環境にストレスを感じているんだろうな。旦那に引き取られ未だに魔術師の弟子として慣れていない。その上叱られもしないし滅多に目も合わせて貰えない。何考えてんのか分かんねぇ昆虫みてぇな旦那と二人きりなんてよ。
それよりもシーツをとっとと洗っちまわねぇと。仕事を怠れば蹴り転がされるのは俺だ。
濡れたシーツを剥ぎ取ると大男の旦那の足許でさめざめ泣く赤毛の小娘を一瞥する。エメラルド色のドングリ眼が零れ落ちるんじゃないかってくらい潤んでいる。口の利けない小娘は謝罪すら出来ない。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
泣きたいのはお前じゃなくて俺だっての。叱られるお前よりお前の小便シーツを洗う俺の方が哀れだよ、全く。
目の端で俺を気にする小娘に俺は下瞼を下げて舌を出す。小娘が口角を下げるのを見遣ると部屋を後にした。
シーツを引きずりつつ重厚な木製階段をリズミカルに降り、小柄な俺は庭へシーツを運ぶ。他の遣い魔達が『小娘係』と揶揄うのを無視して仕事に励む。水瓶からデカい盥へ水を流し込み、シーツを漬ける。早起きして幾度も井戸を往復したのに小娘の所為で台無しだ。まーた往復せにゃならんと想うと肩ががっくり落ちる。
スキュラ印の石鹸を片手にシーツを擦り洗いしていると盥に影が落ちる。
顔を上げると向かいに小娘が佇んでいた。
口が利けない俺は眉間に皺を寄せ、中指を立てた。
小娘は眉を下げて洟を啜るが屈むとシーツの端を握り、洗い始めた。
お前の粗相とは言え、俺の仕事を横取りするんじゃあない。他の遣い魔共に見られたら旦那にチクられるだろうが。チクられなくとも旦那は何処で見ているか分からねぇ。見つかりゃ蹴り飛ばされちまう。むかつく小娘だぜ。良い度胸だ。
俺はシーツを引っ張る。弛んでいたシーツはピンと張り小娘はぐいと引っ張られる。
泣き虫でも負けず嫌いらしい。小娘はシーツを引っぱり返すと端を洗う。
諦めないってのか。寝小便垂れの泣き虫小娘の癖に生意気だぜ。
立ち上がった俺は腰を落として踏ん張りシーツを想い切り引っぱり返す。小娘はバランスを崩し掛かるが同じく立ち上がると持ち堪える。
小娘は再びシーツを引っぱり返す。俺も負けじと引っぱり返す。
小娘は唇を横一文字に引き結び、俺は歯を食いしばる。
両者一歩も譲らない。
「朝食も摂らずに何をしているかと想えば」
突如現れた旦那に驚いた小娘はシーツから手を離す。するとピンと張っていたシーツは芝生に落ち、張力は均衡を失う。俺は地に尻を着くと転がった。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
あの後『遊んでいただろう』と旦那に蹴り転がされた。
畜生。どこまで小娘に大甘なんだあのロリコンは。
小娘が邪魔をした、と弁解したかったが同じ悪魔として階級が上であり生みの親である旦那には逆らえない。
俺は旦那から生まれた。生まれたっても人間のように股ぐらからぬるんと出て産声を上げた訳じゃねぇ。悪魔ってヤツは便利なモンで自らの血液をちょちょっと細工すりゃ下位の悪魔を生み出せる。俺は旦那にそうやって作られた。
俺が最下級の遣い魔ごときなのは断じて俺の所為じゃない。俺を作った旦那がケツから数えて二番目の『夢魔』なのが原因だ。魔界を治めるルキフェル猊下なんざ雲の上のお方……いや魔界の底の底のお方よ。まあ、俺も旦那も大したモンじゃねぇんだ。でも旦那には逆らえない。逆らったら殺(ヤ)られる。まじで。
罰として今日一日だけ魔術を使役出来ない体にさせられた。その上オンディーヌの洗濯屋までポエットシャツを取りに行く遣いを仰せつかった。
移動術が使えないとは不便だ。荒地の道をえっちらおっちら歩く。家が街から大分離れているので静かだがクソ不便だ。スラッとナナフシのように長い……と言いたい所だが残念ながら短い俺の足で往復すりゃ半日掛かりだな。
魔界に街がある訳じゃない。あるかないかなんて俺は知らねぇんだ。
旦那は悪魔らしくない悪魔だ。それ故に『周囲に示しがつかない』と魔界を追放された。それ故にこんな長閑で辺鄙な島で暮らしている。
俺は追放されてから作られたんだ。旦那の代わりにこうやって下らん用を済ませている訳だ。あーあ本当に下らん。あーあバカみてぇ。魔女の遣い魔にでもなって悪戯してみたかったぜ。
黒いベルベットと見紛う程に美しい肌から汗を流していると背後から足音が聴こえた。パタパタと忙しない足音はちゃりちゃりと金属が触れ合う音と共にこちらへ近付く。振り返るとガキ特有の無駄が多い走り方で小娘がスラブ風の白いワンピースをはためかせている。片手に籐の籠を抱いている。
げろげろ。また邪魔しに来やがった。
小娘を引き離す為に駆けようにも短い足は想うように動かない。諦めた俺は足を止めて小娘を待ってやった。旦那の弟子の癖に未だに簡単な移動術すら使えねぇなんて呆れるぜまったく。……ま、俺も今日は術の使役禁止されてる身だけどな。
息を弾ませた小娘は追いつくと俺にメモを差し出した。俺はピジョンブラッド・ルビーと見紛う程に美しく煌煌と光る瞳で悪魔文字を追う。
クルーラホーン商会で花冷えぶどうのスパークリングワインを一本、オークの肉屋でイチジク豚の生ハム三百グラムとオパール豚のリエット二百五十グラム、クラーケンのデリカテッセンでラオコーン蛸とセルリーのマリネを二百グラムとスミレ鴨のテリーヌ三百グラム……こいつぁ今晩呑む気だな。
メモ書きはどうやら遣いのようだ。
文末にはケイロンの薬局で用聞きしろ、と旦那特有の尖った神経質な字で記されていた。
悪魔の旦那はこの島の主であるからして大地主の金持ちだ。しかし魔術で精製した薬剤を薬局へ卸している。『働かざるもの喰うべからず』そんな殊勝な考えをしている。
更には魔術を使役出来る癖になかなか使わない。例えば移動術を使って自ら街へ繰り出せるが火急の用でなければ自らの足で出向くかケンタウロスのタクシーを利用する。魔術に頼り過ぎると他者の仕事を奪いかねないからだ。魔術師がその気になれば全ての仕事は術で済んでしまう。それによって通信、運送、商業、工業等々仕事が廃れる。島主たる旦那の計らいによって街の者は仕事に就き、豊かに暮らしている。
ぼんやりとメモを眺めているとユリのように尖った耽美な耳を小娘に引っ張られた。
驚いた俺は手をはね除ける。すると小娘は首から下げていた革巾着を見せた。小遣い袋だ。今まで貯めに貯めていた分、まるまると太ってやがるぜ。
はーん。街で小遣いを使おうって算段だな。
ふん、と俺が鼻を鳴らすと小娘は微笑む。籠を持ち直した小娘は街の方角を指し示した。
『一緒に行こう』と言ってるのか。そうか。これを利用する手はない。馬公代わりに乗ってやろうじゃないか。俺は小娘の肩に飛び乗ると小娘の長い赤毛を手綱代わりに引っ張った。
意を汲んだ小娘はこっくり頷くと籠を振り回しつつ街への道を歩み始めた。
小娘がセイレーンのアクセサリー店を物色している間、俺はオンディーヌの洗濯屋でシャツを受取った。遣いを小娘に肩代わりさせたった。しかしあの洗濯屋の女店主はお喋り好きで、客が女なら小一時間は付き合わせる。口が利けぬ小娘なら取っ捕まるのは必至だ。貴重な時間をドブに捨てるのは惜しいので俺一匹で臨んでやった。……それにシャツに手垢を付けられると旦那にぶっ飛ばされるのは俺だからな。
アクセサリー店に戻ると黄金やプラチナ、宝石の宝飾品に埋もれ小娘は蔦の冠を前に革巾着の中身と睨めっこをしていた。銀貨と銅貨を取り出し幾度も数え直す。どうやら持ち金が足りないらしい。ここではガラクタでも値が張るからな。
小娘は眉を下げて唇を尖らせている。
しかし俺はあくまでも悪魔だ。小娘に自分の小遣いの一部を恵んでやろうなんて考えてやらない。スラブ風のワンピースのもたついた裾を引っ張ると出立を促した。
薬局で用聞きを済ませ肉屋とデリカテッセンで買い物を済ませ、クルーラホーン商会で花冷えぶどうのスパークリングワインを一本購入した。
籐の籠のハンドルは小娘の華奢な腕にめり込む。随分とまあ重そうだ。だのに表情一つ変えず、ポエットシャツを担いだ俺を肩に乗せ、人の往来で賑やかな帰り道を歩く。数区画先に覗く街の外れに佇む女神像の頭が夕陽に映える。
急いだ方がいい。あまり待たせると旦那に俺が蹴り転がされる。
小娘の髪をぐいと引っ張ると先を急がせる。
意を汲んだ小娘はこっくり頷くと先を急いだ。
しかし以前から知っていた事だが小娘はどうも鈍臭い。無駄な動きが多く真っ直ぐに走れない。重い荷物に体幹をぶれさせつつ、でべでべと小走りする。
すると往来を横切っていたアルラウネの婆さんにぶつかった。転んだ小娘の手から籐の籠は放り出され、デリカや生ハムが弧を描いて宙を舞う。シャツを担いでいた俺は地を転がり、後から転がって来たボトルを足で止めた。しかしポエットシャツを尻に敷いて土まみれにしちまった。
頭を下げて平謝りする小娘にアルラウネの婆さんは『大丈夫だからそんな謝らないで』と言葉をかける。しかし小娘は頭を上げようとしない。婆さんはそわそわと落ち着きない。どうやら先を急ぎたいらしい。困った婆さんは小娘にいたずらミントの飴玉を握らせると往来に消えてしまった。
小娘はそれでも頭を下げていた。どうやら泣いているらしい。地にポタポタと水滴が滴り落ちる。こいつの泣き顔にはうんざりさせられる。泣くな。泣くんじゃない。こいつの泣き顔は後の不幸の暗示だからな。もっと碌でもない事が起きちまう。
先ずこの状況を打破せにゃなるまい。
さて。どうしたものか。往来には容器から雪崩れたデリカや生ハムが転がり、ポエットシャツは胡麻汚し、花冷えぶどうのスパークリングワインはよく振られた所為で泡立ち『開けるな危険状態』だ。俺の遣いの品も相当香ばしい状態に仕上がっている。このまま胡麻汚しのシャツを持って帰ったら一週間は飯抜きに決まっている。それは困る。
急かしたのは俺だがぶつかった小娘に非がある。『転んだお前の所為でシャツが台無しだ』と責めてやりたいが少々罪悪感があるので黙っててやる。しかし俺は知らん。ポエットシャツの遣いは俺の領分だし、デリカや酒の遣いは小娘の領分だ。俺は俺のリカバリーしかしねぇぞ。小遣いが減るのは悔しいがポエットシャツはデュラハンの服屋で買えばなんとかなる。胡麻汚しのシャツを渡して蹴り飛ばされるよりは大分マシだ。
ふん、と鼻息を荒げると何処からとも無くやって来たキキーモラが散らかっていたデリカを箒で掃き清めた。便利なモンだな、と眺めていると俺に近付いたキキーモラは広げた片手を差し出した。
畜生。ただ箒で掃いた癖に金貨五枚も請求しやがった。悪魔よりも悪魔らしいじゃねぇかキキーモラってヤツは。
ポエットシャツを買い直そうとしたのによぉ。ケツの毛まで毟り取られたぜ。三年も貯めてた俺の小遣いの殆ど毟り取りやがった! 残りの銀貨数枚と銅貨じゃ何も出来ねぇ。
残金を握り締め俺が喚いていると涙を拭った小娘がふらりと近付く。小娘は革巾着を首から外すと銀貨と銅貨を往来に並べ、俺の握り締めた拳を指差した。そして俺を見詰め、ワンピースの身頃を摘まんではためかせにっこり微笑んだ。
……互いの手持ちを合算してシャツを新調しようと言う腹積もりらしい。
自分が持っていたデリカでもなく酒でもなく、俺が担いでいたポエットシャツを、だ。
すげぇ腹が立つ。良い子過ぎて腹が立つ。半人前ですらねぇ癖に一丁前に他人の心配をするなんざ気に喰わない。小娘の癖に俺のプライドをガラガラと崩してくれる。
お前の金なんか小便臭くて使えねぇ、と横っ面を引っ叩いてやった。しかし頬を腫らした小娘は鶏冠にキたのか、俺の尖った両耳を千切れるんじゃねぇかってくらい引っ張りやがった。しょうがねぇな。使ってやるぜ。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
太陽が地平線に身を沈める荒地の道を歩く。
肩を下げ、背を丸めた小娘と俺の影が長く伸びる。
あの後、デュラハンの服屋に行って身振り手振りで事情を説明したが『現在店頭では取り扱いが無い。あのシャツはオーダーメイドなので即日販売は出来ない』と断られた。……そうだよな。大男の服なんて頻繁に売れるモンじゃねぇから店頭に置かないよな。その上、金が全く足りなかった。生地をたっぷり使うもんな。金が掛かる筈だ。
シャツを諦めたその足でクラーケンのデリカテッセンやオークの肉屋、クルーラホーン商会へ寄った。シャツがダメならせめて食品はあった方が良い。全てダメよりかは旦那の機嫌はマシの筈だ。……それにさっきの小娘の計らいには胸を打たれたからな。
しかしデリカも肉も花冷えぶどうのスパークリングワインも全て捌けた後だった。小娘と俺は知恵と金を寄せ合い、売れ残りのセール品の中で旦那好みの品を見繕った。タイムセールが味方したお蔭で品数は揃えられたし、銅貨二枚が余った。
小娘の肩から眺める夕陽が眩しくて溜め息を吐く。
とぼとぼと歩いていた小娘も溜め息を吐く。
黒い森へ続く荒地の道を見詰めると、旦那が待つ背高の不気味な家が彼方に見えた。
帰り道は長いようで短い。足取りは重い筈なのに一歩進むだけで大口開けた家に飲み込まれる気がした。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
死刑執行を待つ囚人の気持ちが痛い程によく分かる。
長い溜め息を吐くと背後から蹄の音がした。小娘と俺は振り返る。
やって来たのはケンタウロスのタクシー社のコードバンだった。人当たりがいい優良ドライバーで有名なおっさんだ。
コードバンは小娘が提げた食品でいっぱいの籠を見下ろす。
「街に居ないと想ったら家路についていたのか。重そうな荷物だ。ここまで大変だったなぁ。背に乗りなせぇ」
髭面に優しい笑みを浮かべるコードバンに小娘は首を横に振ると革巾着から残金である銅貨二枚を取り出して見せた。代金ねぇから帰ってくれって言ってるんだろうな。
「お代はハンス様が先に戴いてるよ。ニエ嬢ちゃんの帰りが遅いって心配してるぜ。早く乗りなせぇ」
眉を下げた小娘は潤んだエメラルド色の瞳で俺を見遣る。……俺だって乗りたかねぇよ。いつもなら一も二もなく飛び乗る所だが帰ったら大目玉通り越して拷問アンド死刑執行だ。不幸が目に見えてるのに死に急ぐ馬鹿が何処に居る。
すん、と俺は鼻を鳴らす。
でもよぉ、旦那が計らってるんだから乗らないかんわな。俺は小娘の髪をぐい、と引っ張ると鞍上へ促した。
正直に旦那に話した。
経緯を身振り手振りで簡潔に説明し、俺と小娘は深々と頭を下げた。どうこう弁解するよりも一番潔い。
しかし怖ぇモンは怖ぇ。
旦那が悪魔らしくない悪魔とは言え、メシアや菩薩様って訳じゃねぇ。無償の愛を注がれエコヒイキされる小娘は最悪拳骨一発で済むだろうが、俺は半殺し通り越して全殺しだ。庭のハーブ畑の肥料にされるのがオチだ。
革張りの大きなカウチに座し、籠を検める旦那は溜め息すら吐かない。売れ残りの品や胡麻汚しのシャツ、スパークリングワインをテーブルに並べる音だけが非情に響く。
あまりもの恐怖に膝が笑う。隣で頭を下げて涙ぐむ小娘なんて漏らしてるかもしれねぇ。いや、俺もちびってるかもな。死ぬ前に小便済ましておくんだった。
瞼を閉じると走馬燈が見える。旦那の右腕の血液から生まれた事、先住の遣い魔に尻をどつかれた事、シーツに寝小便垂れてベソをかく小娘の事、デリカをぶちまけた小娘が有り金を差し出した事……。そういや小娘に要らんお節介焼かれたなぁ。
……拳骨一発と全殺しか。
どうせ殺されるんだったら小娘の一発分くらい俺が引き受けてやってもいいかな。
瞼をぎゅっと瞑り、両腕を広げ一歩踏み出す。
すると旦那の声が響いた。
「ご苦労だった」
低い声が行き場を失い、霧散する。それでも俺と小娘は顔を上げられなかった。
旦那は溜め息を吐く。
「……礼を述べただろう。井戸で手を洗い、惣菜を皿に移し替え給え。晩餐だ」
驚いた俺は思わず顔を上げる。すると旦那の冷たい鈍色の瞳と目が合ったので肩を瞬時に跳ね上げた。
萎縮する俺から視線を逸らすと旦那はボトルを手に取った。コルクを包むワイヤーを外して金属キャップを取り去ると抜栓する。小気味よい音が祝福のようにリビングに響いた。
「他の遣い魔の目を借りて全て見ていた。成果も過程も決して褒められたものではない。しかし術を使えない者同士、手を取り知恵を出し合った事は評価に値する」
っかぁー。全く旦那は小難しい言い回ししやがる。罰が無いなら罰が無いって端的に言えばいいじゃねぇかよ。ったく。昆虫みてぇに何考えてるのか分からん顔しやがって!
拷問及び死刑執行を免れた俺は思わず笑んだ。しかしそれを旦那に目の端で見られ、睨まれた。
いつまでも頭を下げる馬鹿な小娘の髪を引っぱり、庭の井戸へ促す。要領を得ない小娘は戸惑う。俺は彼女に親指を立ててニヒルに笑ってやった。
漸く『許された』事が分かった小娘は俺に微笑みかけると師である旦那にもう一度頭を下げる。そして革巾着に仕舞っていた、アルラウネの婆さんから貰ったいたずらミントの飴を俺の口に押し込んだ。どうやら礼らしい。
ガキ臭いけどよ、俺この飴好きなんだよな。鼻を……いや脳天を突き抜ける清涼感とざらざらした質感が堪らない。飴玉をにょごにょご舌で弄びつつ、微笑を浮かべる小娘の背を押し井戸へ促していると旦那に喚び止められる。
「アルレッキーノ」
足を止めた俺は小娘に先を促すと旦那を見上げた。小娘がリビングから姿を消すのを見届けると旦那は本題を掲げる。
「道中、全て見ていた。私の弟子をよく世話してくれたな。礼をしよう」
あは! 旦那に褒められちまった! これは給金アップに違ぇねぇ! キキーモラに分捕られた金貨五枚もそう遠くない内に回収出来るかもしれねぇ!
俺が欣喜雀躍していると旦那はボトルを傾けフルートグラスにスパークリングワインを注ぐ。グラスをテーブルに置いた旦那はなみなみと中を満たしているボトルの口を俺に差し出した。
「呑み給え」
ちっ。給金アップじゃなかったか。ま、こんな程度で褒美をたんまりくれるヤツじゃねぇよな旦那はよ。しかしクルーラホーン商会の花冷えぶどうのスパークリングワインたぁ貴重な品だ。ディオニュソスの春のワイナリーでしか獲れない貴重な花冷え種を使っているんだよな。タダで呑ませてくれるならボトルごと貰ってやろうじゃねぇの。
早い所呑んじまわないと。こんな良い品、小娘に一滴もくれてやらねぇぞ。俺のものは俺のもの。貰えるものは俺のもの。
ミント飴を片頬に寄せた俺はボトルを両手で受取ると注ぎ口を咥え、一気にボトルを傾けた。芳醇な酒が舌に乗った途端、嫌な予感を覚えた。
飴表面の微細な凹凸部にワインに溶けた炭酸が反応し泡に変わる。泡は際限なく生まれ口腔を暴れ回り俺は目を白黒させる。
もったいねぇ! 誰が吐き出すものか! 俺のものは俺のもの。貰ったものは俺のもの!
旦那はフルートグラスを傾け、涼やかな瞳で俺を見下ろしている。
多量の泡を噴き出すまいと堪えていると脳裡を旦那の言葉が過った。
──道中、全て見ていた。私の弟子をよく世話してくれたな。礼をしよう。
畜生! 旦那のヤツ、俺が小娘の髪引っ張ったり横っ面を引っ叩いてやったり虐め(かわいがっ)てやった事を根に持ってやがる!
手脚をばたつかせ旦那を恨みがましく見上げている間にも口内の泡は増殖する。炭酸を含んだ泡は行き場を失い、鼻腔へと駆け昇る。
粘膜をぎゅぎゅんと刺激され俺は盛大に泡を噴いた。
だから小娘の泣き顔は後の不幸の暗示なんだよ。
あーあバカみてぇ。あーあクソみてぇ。
了
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