金輪王と赤毛の竜

ラブテスター

金輪王と赤毛の竜

「ルーニィ」


 私はベッドから顔を起こし、ドアからそっと覗いている影と、ゆらめく燈台カンテラの明かりへ向けて声を投げた。

 私の覚めきっている声を聞いて、小さなともし火とその主はすっと部屋にはいり込み、静かにドアを後ろ手に閉めた。

「起きていたんだね――眠れない?」

 足音で彼とはわかっていたけれど、ルーニィの背の高い姿、そのやさしい深い声を聞いて、私はあらためて安心する。私は、上半身を起こし、枕に腰をあずける。冷えこむ夜気を感じ、毛布を胸までひき上げる。

「わからない。眠くないんだ。ルーニィ、見回り?」

 ルーニィは微笑み頷きつつこちらへ歩み寄り、私の机の上、積まれた本のかげにカンテラを置く。私の目にじかに届かない火の輝きが、天井にあたたかく揺らめいて光の水面をつくる。

「見回り、いつもしてるの?」

 私がつづけた問いかけに、ルーニィはまた頷き、椅子を私のベッドのそばへひき寄せた。

「そうだよ。いつもひと回りして、皆の顔を見てから眠るんだ。誰か、一人で泣いている子がいないか、夜の街に惹かれて宿舎を抜け出している子がいないか」

 記憶を指おり数えるように話しながら、ルーニィは椅子に腰かける。

「――とくに何もないのに、眠れないでいる子がいないか」

 そう言って、わらう。それはいつものやさしい笑顔だったけれど、私は、私をからかうようなことを言ったルーニィをつい困らせたくなって、声をとがらせた。

「ぜんぜん何も無かったわけじゃないもの。先のこと、自分の将来のことを考えていたの。そうしたら、眠くなくて」

 私は、意地悪な声を出したつもりなのに、ルーニィはくすぐられたみたいにちょっと噴き出して笑う。そうした後、今度は襟を正すように、私の目を真っすぐに見て真面目な声を出す。

「将来、将来か。それはとても大事だね。そうだね、何か――なりたいものがある?」

 私は、そう言われて自分が考えこむと思った。自分のなかに、そんな確かなものはまだ存在していないと思っていた。

 しかし、言葉は、思うよりするすると私の口から流れでた。

「うん。ねえ、ルーニィ。私ね――私も、

 言ってしまってから、私は毛布で口もとを隠した。恥ずかしいことを言ったとは思わないけれど、でも、やはり、こわいような気もちが湧いたのだ――その言葉への、だれかの反応が。私とその夢とを天秤にかけてみる、誰かの心が。

「……なれるかな?」

 おそるおそる、続ける。つい上目づかいになって、ルーニィの顔色を伺う。

「そうだね――」

 ルーニィの、私から外された視線に不安を覚える。視線の先を追いかけるようにしていた私の目に、でも、ルーニィの表情はすぐに戻ってくる。

「――なら、私たちの国の成りたちについて、もう知っておくのがいいかもしれない」

 私のほうへ顔を戻したルーニィは、しかしそこで、ふと何かを見とがめて言葉を切る。

「――だめだよ」

 ルーニィは、私の毛布の胸元から指をさし入れ、毛布の影で私がその端を口にしていた小さな木札カルタを、私の口から離した。

 私がいつも、寝るときも首から紐で下げているお守りのカルタ。私は気もちが落ちつかないときに、これを噛むがあった。

「これは、君が産まれたときに身につけていた、君の親がくれたものだろう? そう扱っちゃ、いけない」

 今ついた歯形はがたのあるカルタを見て、ルーニィが、私をやさしく叱る。でも。正確には、そうではない。

 産まれたとき、ではない。

「――捨てられていたときだよ」

 私の言葉に、やさしいルーニィは黙る。私のために。そして、また静かに、口を開く。

「そうだね――そうだ。だから、身よりのなかったきみをこの国に迎えてくれた、われらが王、父たる金輪王こんりんおうの話をしようか」

 金輪王。

 それは、この国、私を拾い、育ててくれている国の王さま。

 生きながらにして、既にあまたの伝説とともに語られる、無敵の英雄。

「金輪王について語るには、まず、ある竜の話からはじめる必要がある」

 話しはじめたルーニィの視線は、遠くを見るようにすこし上向いた。

 私も合わせて、カンテラの光が踊る天井を仰ぎみる。刻々とかたちを変えてゆく光と影の紋様は、ルーニィの穏やかな声音をいろどる音楽のようにも見える。


「かつて――一匹の竜がいた。誰よりも強い、燃えるような赤毛の竜が」


 宿舎のなか、夜はしんと静まりかえっていて、どこにも誰も起きている気配はない。


 この夜ふけ、ふいに訪れた二人きりの秘めやかな時間に、私の心はときめき、ルーニィの話にすぐにひき込まれていった。




***




 大国と大国をへだてる、神話の巨人の名を冠する山脈の――そのゆたかな森が尽き、重なる雲を抜け、岩ばかりになるほど高いところに、大きな竜が棲んでいた。

 その竜は、全身が赤かった。そして、さらに輝くように赤い瞳と、鳥の羽毛に似た、燃えたつように巻き上がる赤いをその背に誇っていた。

 竜は、時おり低地におりては、滝から水を飲み、牛の何倍も大きなシカや、その翼が樹木のような影を大地に落とすオオワシをとらえて食うことがあった。

 地を這うばかりの弱い人間たちは、天に舞うその威容がはるか遠く、小さくにあってさえ、ちっぽけな身を家屋や岩かげに隠しておそれおののいた。ただ竜は、その巨体にとっては豆つぶほどの、腹の足しにもならぬ人間にわざわざ見向きすることはなかった。


 けれど、人のほうからは、愚かにもその竜に挑みかかる者たちがたびたびあらわれた。

 あの赤き竜に触れてはならぬ。あれは人のちからの及ばぬものだ。その息吹は森を灼きつくし、その爪は巨人の岩の肌を切り裂き、そのあぎとは獣のかおをした地の底の悪魔をも食らう――

 そうおそろしげに言い伝えられていたが、いや、だからこそ、その伝説をうち倒して、ほんの瞬きのような人の短い生涯を名誉と栄光で飾らんと、剣と蛮勇とを振りかざしてその身を冒険に投げうつ者がいた。人里とおく離れた、登りつめることすら困難をきわめる険しい山々で、ついにたどり着いたその深奥で、非情にして獰猛どうもうな爪と牙にあたら若いいのちを散らす者たちが、いつの世も絶えることはなかった。


 また、そのような、向こう見ずながらも勇ましいものではない――くたびれて消え入りそうな力ない人影が、その山にふみ込んでいくことがあった。

 ――それは、すでに死んだ人間のたましいであり、幽霊として歩く、かつて人間だったものの影であった。

 幽霊たちはみな、産まれた地、死した地を離れて北へ向かって歩いていた。肉体を失い、光を失ったその目の虚空にただひとつ映る、北の最果てにあり、この世の終わりに開くという、神のもとへとつながる楽園の門、そのきらめき。もはや心もないままにそれを目ざして、影たちは山河に、荒野に群れなしてどこまでも歩んでいた。

 竜のように神を必要としない存在を除けば、人間は生き物の頂点にある。その人間に産まれついたとしても、生きた肉体を失えばそのような苛烈な境遇に落ちるのだ。王族のように、死後も肉体を木乃伊ミイラとして保ち、大きな墳墓のなかで神の国が開かれるまで待つことができる地位でもなければ、しょせんは野山に生きるけだものと魂の末期はさして変わらぬのだった。


 そんな哀れな幽霊たちにとって、この山域は北方の地にいたる前にたちふさがる、大きな壁であった。

 すでに骨肉のないかれらから、無情にもまだはぎ取られるものがある。それは、その人としてのかたち、また存在そのものである。

 吹けば飛ぶようなはかない存在となったかれらは、まさに吹く風、そよぐ木の葉にその身をこすられただけで輪郭を乱され、元に戻りきれずにかたちを失ってゆくことがあった。

 行く手につづく深いやぶ、荒れた地面に消耗し、少しずつ存在を削られることがあった。あるいは、夜に獣が駆けぬけて影をかき乱し、あるいは遭った妖魔にたわむれにかじられ、だんだんとその姿を人のものから遠ざからせてゆくことがあった。とうに心のない彼らは、行く先に崖や滝つぼがあっても避けることを知らず、落ちいってひとたびに砕けちることさえあった。

 そうして散らばった魂のかけらは、すぐにちっぽけな虫けら、もしくはひ弱な鳥や小動物にちりぢりに生まれ変わってしまう。そして、絶え間なく食い食われる、無間の苦しみの輪廻へと落ちこんでゆくのであった。


 竜は、自らの棲む山でくり返されるそんな生命の営みを見慣れていたし、昼は日の光にかすみ、夜であっても闇に溶けてしまう、幻にひとしい人影など地面のこいしほどにも気にかけていなかった。

 ――その日、その一個の小さな魂と出会うまでは。


 ある朝、目覚めた竜は、地面に流れるおのが赤いたてがみにうもれ、眠るように体を丸めている――小さな影があることに気づいた。

 影は、竜がよく目を凝らしても、やはりおぼろな影でしかなかった。

 ――それは、幼い子どもの幽霊だった。

 夜どおし山道をさ迷い、いつかゆき合った竜の巨大な体を乗り越えられずそこでうずくまってしまった、何ら変哲のないあわれな幽霊の一体であった。

 しかし、そのとき竜は、この小さな影に見入っていた。その透けるような頬に涙がつたい、細い肩が嗚咽おえつに震えるのを見つめていた。

 人の涙とて見飽きていた。時おりうるさく群がり、刃でわずらわしく刺してくる人間ども。ちくりとやられたところをほとんど反射でなぎ払うと、血と、涙を流して地にたおれてゆく、理解しがたい者たち。

 人の慟哭であれ、とうにうんざりしていた。夜の静けさのなか、幽霊どもが心ないままにすすり泣き、あるいは泣きさけぶ声が竜の眠りを邪魔することは幾度となくあった。

 しかし、涙をながす幽霊を見たのは初めてだった。肉体をもたぬ幽霊が、涙をこぼすことはないと思っていた。

 そればかりでない、涙する子どもの幽霊には、無いはずの心が、その顔に表情があるように見えた。――それは悲しげに眉根をゆがめた、痛ましいものではあったけれど。

 それでも、竜は、その子どもの幽霊を踏みつぶさないよう、体を丸めておのれの四肢で守るように包みこむと、ともにまた眠ってしまった。


 その日から、その幽霊は、竜がもうその行く手をさえぎっておらずとも、先へ、北へは進まずに竜のまわりにまとわりつくようになった。

 幽霊は、日の光に透けてその姿をかすませてしまうものだけれど、この子どもの幽霊の髪はうつくしい栗色の巻き毛をしており、それは光に薄れてなお竜の目にまばゆく綺羅きらめいて、高山にあって孤独な、竜の無聊のなぐさめとなっていた。

 そう、この子どもがあらわれてより、竜はおのれが孤独を感じていたことに気づかされた。

 誰よりも強いために、誰からも寄り添われることがない。山の獣たちですら、どの一匹さえも竜に心ひらくことはなく、そばまで寄るのは心を失った幽霊ばかり。それすらも、竜をかえり見ることなくゆき過ぎるだけであったのだ。

 しかし、この子どもは、やはり幽霊であったけれど、なぜか竜のそばを離れなかった。竜は、おのれの灼熱の体温がこのか弱き者を傷つけるのではとはじめ恐れたが、むしろ溢れる生命力の恩恵をけるのか、影のようだった姿が日々かたちをより確かに定めてゆくように見えた。

 竜は、時おりその巨大な頭をもたげて、地べたにたたずむ小さな子どもの目をのぞき込むようになった。

 今や、まつ毛の一本一本まで見分けられるほど輪郭の確かになった子どもの幽霊は、瞳の色も髪ほどにうるわしい栗色をしていた。湖のように色深いその瞳の奥を、らしくもなく朴訥ぼくとつな気もちでのぞき込んだ竜はそのはじめ、背後から打たれたように低くみじかくうめき声をもらすこととなった。

 その瞳の奥、子どもの心は砕けていた。

 竜は、この子どもの幽霊に心らしきものが残っているのは何らかの奇跡か、心そのものの強さによるものと勝手な合点をしていたが、違った。それは、生きているうちから人らしさを崩すほどに壊された心が、肉体を失ったあともまっとうに死ぬことができず、魂の残骸のなかでいびつな怪物のようにうごめいている、地の底の悪魔こそよろこびそうな、残酷な偶然の結果だった。

 竜は、砕けた心のなかにその壊れるときの光景を見た。子どもの心を砕き、ついには肉体の死にまで至らしめたのは、その子どもの親、またその家族であった。おそくに産まれた、一族のなかでもう割りあてる役目のない子である、そういった、山野に生きる竜には縁どおい下らない理屈のために、その子どもは心と生命が壊れるまで腕力と、言葉で日々打ちのめされたのだった。

 竜は、正体のわからぬ胸中の痛みに喉を震わせ、細くながく吠えた。しかし、過ぎ去ってしまった時間に対しては何の力もふるうことはできなかった。

 それからというもの、竜はこの幽霊をよりいつくしむような仕草を見せるようになった。これまでのように、より添い、羽毛にうずもらせるばかりではなく、日夜となく話しかけるように鳴きかけ、においをぎ、頭をすり寄せては目をのぞき込んだ。

 そうするうち、子どもの影はいっそう濃くなり、生きていると見まがうほどになっていった。その振るまいも幽霊らしくなく、子どもは、竜のまわりを遊ぶようにゆらゆらと歩きまわり、その体をよじ登っては跳ねるように飛びおりることさえあった。

 だから、竜は思いちがいをした。おのれが、子どもの存在の助けになっていると、その魂を救うことができていると思っていた。自分のそばに置いていれば、この幽霊がいつか救済に迎え入れられるように思いこんだ。

 その傲慢をあざ笑うかのように、竜の棲む山に、魔の気配が濃くたち込めるようになっていた。


 いのちも魂もない、欲望ばかりで動くいやしい妖魔たちが、どこからか子どもの存在を嗅ぎつけて集まってきていた。

 むき出しの、心ある生きた魂が――肉体のうつわにおさまっていないままこの山をさ迷っていると。肉をひき裂いてすすろうとすればあえなく崩れて死んでしまう、をここで味わうことができそうだと。

 妖魔たちは、子どものそばに竜がいるのを見てすぐには襲いかかりこそしなかったけれど、諦めて山を去ることはなく、子どもと竜を遠まきにして森の、岩のあちこちにひそんだ。そして夜になると闇にまぎれて、横たわる竜とそのたてがみに眠る子どもの様子を輪になってうかがっていた。


 その気配を知り、竜は子どもをただ手元に置いていたことを悔やんだ。

 しかし、北へ向かわせることは誤りだと知っていた。神の国へつづく楽園の門は、この世の終わりまで開かない。その光にさそわれて集まった幽霊たちが大海のようになり、門のある大地はこの世の地獄さながらになっていることを知っていた。

 人のいる土地へ子どもの魂を送りとどけることも、正しいとは思われなかった。この悲しい存在はまだ、人のうつわに入り生まれ変われるほどにいやされていると思えない。それに、今さらこの幽霊を背に乗せて人里へ急いだとしても、その脆弱な魂は空中でくだけ散り、風に巻かれて消えてしまうだろう。


 妖魔たちはいつか、子どもへ向けて石や木の枝を投げつけるようになった。竜はそのたびうなって威嚇し、追い散らしていたが、ついにその一個が夜ふけに微睡まどろんでいた竜の目をくぐって子どもに当たり、その輪郭をかき乱した。

 竜はいきどおり、たけって吠えた。

 食うための狩り、身を守るためのたたかいにしか力を振るわなかった竜が、岩を蹴り、木々をなぎ倒してまわった。それで多くの妖魔がいちどきに死んだが、雲霞うんかのたち込めるがごとく山にひしめいていた妖魔は尽きることなくあらわれ、しかも元から命のないかれらは怒り狂う竜におびえることもなく、魂のない表情で、同族の亡骸なきがらの山にさえ興じてと笑った。

 夜山に、妖魔たちの笑い声が、空虚にして邪悪な嬌声きょうせいが鳴りひびく。けたけたけたと妖しくわらい転げる声の、そのおぞましい魔の律動にのせられ、子どもの幽霊が、その弱くはかない魂が、共鳴するかのように体をふるわせ、立ちあがると人形のようにかたかたと首を揺らしはじめた。

「やめろ。聞くな! 魂をとらわれる!」

 竜は、子どもの瞳の奥の光景から学んだ、人の言葉で子どもの幽霊をいさめたが、心を奪われかけている魂にはとどかず、子どもは終わりぎわの独楽こまのようにがくがくと頭を揺さぶるばかりだった。

 竜はついに、灼熱の息吹で四方の大地をさらった。

 あっという間に、妖魔とともに、あらゆる生命が焼けつき消しとんだ。木も、鳥も、獣も、火をまとう真っ黒な炭となって地面に平たく積みかさなった。

 妖魔がいなくなり、子どもは呼応して笑うことはやめていたが、すべてがかき消えて燃えあがる風景を見ておそろしさに泣きだした。流れる子どもの涙に戸惑う竜に、天から話しかける声があった。


「強きものよ」


 それは、前触れなくふるわれた大きな力の理由を確かめようとした、この世の神の声であった。

「なぜ斯様かようなことをしたのか。弱きものをしいたげるのがお前の役目だったか」

 降りそそぐ威厳ある声に、竜はしかしおそれず牙をむき出した。

「その口が言うか。強きが弱きを食らう世を造ったのは、貴様ではないか」

 しかし神は、その言葉を無下に退けるのみであった。

「愚かなものよ。摂理なくしては、世界はない」

 それを聞いた竜の牙のすき間に、炎がうず巻いた。

「ならば俺はこの力で、この世界を焼き尽くしてやる」竜は羽根を散らして翼を広げた。「弱き魂ひとつ助けられぬ世界なら、滅びればよい」

 しかし神のつぎの声に、竜は動きを止めた。

「その死者ならば、助けることはできる」

 竜が、目を見開き天を見返した。しかし、

「お前の、その竜のからだをその魂に譲ればよい。弱き魂はこの世で最も強い肉に、永劫に護られるだろう」

 告げられた言葉に、竜はたじろいだ。

「私が、それをしてやろう」

 天を大いなる光が割り、神の手が見えた。

 竜は思わず頭を抱えこんで地に伏せた。この、並ぶもののない強い肉体を差し出すことに心底おびえた。

 それを見て神は笑った。弱い人間とは異なり、神を求めることのないこの竜が、神の力を、神の意思をおそれている。竜とて、その体なくしては森の小ネズミと変わらぬ、手のひらで細かく震えるあわれな生き物に過ぎないことを証したことで神は愉悦に浸った。

 だが、そのとき、

「大いなる者よ――唯一にして、至高たる存在よ」

 あまりに深く重く響いた声があり、神は笑うのをやめて地上を見下ろした。

 土を舐めるようにかがんでいた竜が、その顔を起こして神を睨んでいた。


「かならず助けろ。?」


 竜の赤い目が、刺すように光っていた。




***




「――竜は、どうなったの」


 しんとした夜の静けさが、ふしぎに不安をかき立てる。

「死んでしまったの?」

 自分の声が、他人のもののように耳に響く。おとぎ話でしかないような昔語りの、人ならぬものの運命をたずねるだけのことが、ひどくおそろしいように感じられた。

「神の手により、魂が肉体からきり離された。魂が死んだわけではないけれど、肉体を失いもはや行き場もなく、ただひとつ見える光を目ざして、茫洋と北の果てへ向かうしかなかった」

 ルーニィが語る。その視線はいまは下に落ちている。

 腕を伸ばして、ルーニィの手に手を重ねてみる。とても冷えていたので、すこし力を込めて握りこむ。


「――でも、その魂は、こごえるような北の地で、おのれを受け容れられるだけのうつわに出会い、そこへ入っていった」




***




 その子どもは、とおい北国の貧しい土地の、ごく少数の部族のもとに産まれた。


 そこではみなが、灰色の瞳、灰色の髪をしているなか、その子は、産まれながらに輝くような赤い瞳と、燃えたつように巻き上がる赤い髪をそなえていた。

 子どもは、誰よりも強かった。ほんの幼いころから、何歳も年うえの、何倍も体の大きな別の子におそれず挑みかかり、決して退かぬ気迫で泣かせてしまうことが何度もあった。その子の体が十分に大きくなってからはさらに、部族でもの大人たちと互角にわたり合い、剣をもつことを許されるようになっては最早、誰もかなう者はおらず、彼は南へくだり兵士として軍隊に加わった。

 そこで、彼はいなずまのように軍功をつらねた。血しぶきと死がたけり狂う戦場を駆けぬけて野ウサギを狩るように敵将をつぎつぎと討ち、また与えられたひと握りの小隊で、とても勝ち目のない押し寄せるような大軍の要所をいて烏合のごとく散らした。


 若くして英雄と賞されながらも、辺境の生まれのために隊長どまりであった彼も、ついにその時代の戦乱を決する大戦を経験することとなった。

 侵略をくり返し巨大となっていた帝国が、いまだまつろわぬ国を殲滅せんめつでもって制圧し始めたのだ。

 残忍なその帝王は、今度の征服では敵国の子どもをすべて殺し、成人を奴隷としていた。

 赤髪の英雄たる彼のいた国は、決して大きくはなかった。また、続く戦火のため政府に軍人が台頭しており、政権を実質支配していた大将軍が、交渉で生き残る道ではなく、玉砕をもって帝国に一矢報いる号令を発していた。

 戦場に絶望と死がたち込め、さらには虐殺による苦悶があふれていた。

 赤髪の彼もついには剣を下ろし覚悟を定めたところ――その背を一喝するような、つんざく雷鳴にも似た咆哮が大気をふるわせた。


 大戦の兵たちは、雨をしらせる雲のように空をかげらせる、力づよい翼のはばたきを見た。

 

 を首すじにはためかせた竜が、大空から飛来していた。


 この竜の、天高くからの灼けつく息の一吹きで、帝国軍の中央部隊の主翼が消しとび、そこから全軍が総崩れとなった。さらに、地におりた竜は、赤髪の英雄をその背に迎え、ともに戦い始めた。

 長く続いた戦乱が、その大勢たいせいが、ただの一日で一変した。

 ひとり戦勝を得ると思われていた帝国が、その全軍と、首都とを焼き尽くされて完全に力を失ったのだ。




 そして、大戦の始末をつけるための、各国の重鎮がつどう会談の日が訪れた。

 その会談に、あの、戦場を竜を駆って飛翔した赤い髪の若者の姿があった。

 救国の英雄として、大将軍の地位さえ望むことができた彼は、しかしそれを辞退していた。そこへ、長く傀儡かいらいで実権のなかった国王が、その娘――王女をかの英雄にめとらせ、国王の代理たりえる国の権威者として、この会談へおくり込んだのだ。


 その会談で彼は、あの栗毛の竜の力を他国へふるわぬことを条件に、分割された帝国の領土の一部と、他国との平和条約を得て――名実ともに、一国の命運をその身に引き受けた、その国の次の王たるべき者として世界に知られることとなった。


 はるか地の底にあり世界を支える至宝、金輪こんりんの力をたずさえ生まれた者とたたえられる――のちの金輪王の誕生であった。




***




 私が語り終えると、その子はほうっと深いため息をついた。


 窓の外、夜闇のどこか遠くから、まだ未明のうちからはじまる、早朝の祈祷オラショが聞こえてくる。

 今年の夏には、金輪王の戴冠二百周年を祝う大祭が待っている。王への感謝を捧げることができるその日を、私も楽しみにしている。

 

「ルーニィ」

 その子が、夢うつつの瞳で私を見る。

「ねえルーニィ、その木札カルタの竜が、お話の竜なの?」

 その子は、私が首もとでいじっていたカルタを指さしていた。

 カルタの表面には、竜の飾り絵が焼き印でされている。その模様は、私が捨てられていた年に、とある寺院が売っていた無病息災のお守りの柄と一致する。

 つまり私は、街の一角に捨てられはしたけれど、健やかに育ってほしいと、そのくらいは願ってもらえていたということだ。

「そうだよ。これがその竜だ。巻き毛だから、栗毛の竜だね」

 幼い日につけた小さな歯形も、年々かすれて見えなくなっている。竜の印紋を見つめる、無垢にきらめく瞳を私は愛おしいと思った。

「――ほしいかい?」

 私の口から、ふとそんな言葉が出ていた。

 その子の目が今度はぱちくりとして、言葉をつまらせていた。だがそう思ったのもつかの間、その子は恥ずかしそうに指を合わせながらおずおずと言った。

「あのね――僕ね、ルーニィになりたいんだ」

 こんどは私が驚く。その子は思い切ったようにつづける。

「僕も、いつかきっと、ルーニィになる。頑張って、なるから。そうしたら、必ずルーニィに会いにいく。その時に、それ――頂戴」

 確かな意思に輝く目。どこか覚えのある光景に、私の口から自然に笑いの息がもれた。

「ああ。楽しみに、待っているよ」

 私は手を伸ばし、その子の頭をなでた。


 この子も、決して幸福とは言えない理由のために、この宿舎へ来ていた。

 この国は、そういった子たちをいっさい拒まない。すべて受けいれ、十分な生活と、教育とで成人までを保護する。

 金輪王が実現しようとした、どんな子どもも泣くことのない国。親のある子であっても、自らの意思で宿舎の門をたたくことが許されている。

 そして、金輪王の夢みた治世を体現し、その存続の助けとなるため、国が受けいれた子たちと向きあい、世に送りだすための、きわめて大事な、尊い職業があった。

 それが、子どもたちを教えみちびく――私たち教師ルーンマスターだ。


「忘れないでね、約束だからね」


 そんな、子どもたちの守護者たる教師ルーンマスターは、その教え子たちから敬愛をこめて、こう呼ばれていた。


「きっと、きっとだよ、先生ルーニィ――」

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