エースウォンバット~蒼穹の社畜戦士~
海野しぃる
HOLOGRAM ROSE
「妹が見せてくれました。この綺麗な薔薇を、私の大事な作品に、一輪添えて欲しいのです。こんな腕じゃあ、もう無理ですから」
*
背中のジェットパックからバイオペンキを噴射し、辺り一帯を企業カラーの青に染めながら、オフィス街のメインストリートをかっ飛ばしていく。
とっくに身体に合わなくなっているスーツを無理やり着込むくたびれたサラリーマンも、うふふ私輝いてる~みたいな顔のOLも、校舎の窓から空を眺める学生も、その時ばかりは子供みたいに目を輝かせる。
誰かが叫んだ。
「広告軍だ!」
それが切っ掛けになって、建物の内に籠もっていた人々の視線まで俺たちに集まる。
ジェットパック、体重移動とワイヤー射出装置のみを武器として、電気信号分解性のバイオペンキを用いて絵を描く。
オフィスビルの外壁に、窓ガラスに、アスファルトに、たまたま目についた車のボンネットに、男が飛び去った後の様々な場所に、超国家企業アルスマグナ社のロゴを描き、新商品の宣伝ならびに示威行為を行う。
『あなたの生活に“知性”を。アルスマグナ社』
『食事をスマートに、倫理的に、アルスマグナフーズのエティカルオートミール』
『太平洋上で暮らそう! アルスマグナ社のメガフロート! 居住区画分譲中!』
『スマートライフ、スマートブレイン、アルスマグナ。アルスパッドⅨ、発売中』
『アルスマグナ社は現在太平洋湾岸を中心に地球上の三割を占める経済圏を構築しております』
流麗なフォントと蒼を基調とした鮮やかな色使いで次々と宣伝文句が町中に浮かび上がる。我ながら良い仕事ぶりだ。ワイヤーを看板にひっかけ、一回転しながら手元の放水機でペンキをばらまく。次々と街の中に飾り付けられたAのロゴが浮かぶ。
子供の足元にペンキを射出する。少しだけ工夫してAのロゴに綺麗な花を添える。腕を振って嬉しそうに喜ぶ姿。彼らの服も、家も、親の仕事も、アルスマグナ社に関係するものだ。
「おいウォンバット1、未来のエリート社員候補に気持ち悪い媚び売ってるんじゃないよ。花なんてガラか?」
隣を飛ぶウォンバット2が通信回線を雑談に浪費する。
いや、雑談ではない。ロゴデザインの無断改変は軍法違反だ。どうせ一時間もすれば分解されるバイオペンキとはいえ、SNSなどにアップされるとイメージが良くない。
「まさか。少しヒーローに憧れちまっただけさ。あれくらいの改変なら、処罰の対象にはならんだろ?」
「俺たちはもうとっくにヒーローだろ?」
「これからだよ。この地域ではここ最近、他社による敵対的広告権買収が続いている。大規模侵攻の前触れだろ。それを阻止して、俺たちはこれからヒーローに――」
その時だ。背後からかすかにジェットパックの飛行音が聞こえた。スマートゴーグルに、ALARMと巨大な表示が浮かぶ。
「ウォンバット、
俺たちが左右に回避行動をとった直後、その間をペンキミサイルが通り抜けて俺たちの前方のオフィスビルに巨大な広告画が完成する。
『ソイレントの焼き肉食べ放題がお一人様1000円!?』
『ヤスイ! ウマイ! アンゼン! 焼き肉ソイレント!』
『看板見たよでアンケート! 1000円焼き肉フリーパス!』
『1/30 オープン!』
『ソイレントミートで毎日元気!』
デフォルメされた牛さんが美味しそうに焼き肉を食べている。
この下品でサイコ極まりない広告、確実にアルスマグナ社のものではない。
本当に安心安全な企業の食品がわざわざ安全を売り文句になどするものか。
何だそもそもこの広告、牛さんが肉を食べるのは良いとして、どこにも牛肉とは書いていない! 知っているぞ……こうやって牛を出すことで肉の内容を誤認させようとしているのだ!
「ウォンバット1、他社からの広告爆撃だ。うちの子会社の連中が安物のソイレントミートを喜んで食うようになっちまうぞ」
バイオペンキによって作成される広告には、見た人間の精神に重大な影響を与える力がある。だからこそ、企業同士の塗り合い合戦もこうして起きる。だがおかしい。なぜ、我が社の索敵システムが起動しなかった?
「ふざけるな。弊社の経済圏ではストレスのない環境でのびのび育てた認証済みビーフしか食わせん」
「高くてお祝いのときでもないと食えないけどな」
「黙れ、とにかくあのテロ屋どもにお引取りいただくぞ」
脳内に埋め込んだマイクロチップから、ソイレントの企業データが送られてくる。やはり対立企業の出資で設立された焼き肉チェーンらしい。他社経済圏を荒らし回る為の尖兵だ。
「ん……おいおいおいマジかよ! やべえぞウォンバット1! あいつら国際法違反のペンキミサイル使ってやがる! 一発で広範囲を塗れる代わりに人間を巻き込むと怪我させるやつだ!」
「は!? 企業への印象を考えてないのか!? アホか!?」
「ペンキミサイルの炸裂に巻き込まれた民間人に被害が出ている!」
「テロ屋上がりが図に乗ったな……貴様らの作品が浴びるのは喝采ではない。ホコリだ」
本社からの応援が来るのは十五分後。戦闘開始までに間に合わない。
ああ……くそったれだ。だがまあ、国際法に違反した相手ならば、こちらも使える武器は増える。
『Let's get Ars Magna and future.』
『暴徒鎮圧用武装を解禁します』
脳内で電子音声が響いた。
*
三時間後、戦闘に関する報告書制作もそこそこに、俺は病院に呼び出しを受けていた。
「広告軍中尉、
「ああ良かった! ウォンバット小隊の方ですよね! 本当に広告軍の方にお見舞いに来ていただけるなんて……ありがとうございます!」
腕をギブスで固めた若い女性がベッドの上でニコニコと微笑んでいる。
ほんの僅かにペンキの香りがする。バイオペンキではない。本物のペンキだ。
患者用の白い検査着を着ているが、元々は絵描きかなにかなのだろうか。
「いえ、この度は我々の力不足により大変なご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございませんでした。雇用・生活の保障や支援は弊社が責任もって担当させていただきます」
頭を下げる。
有り体に言えば気分は最悪。俺のミスじゃない。ソイレントの連中の国際法違反が原因だ。なぜ俺が謝らなくちゃいけない。そもそも都市防空用の索敵装置はどうした。大体この女もこの女だ。なんで俺と話をしたいなどと担当者に無茶を言った。賠償金を釣り上げる為にごねた方がよっっっぽど有意義だろうに。
「顔を上げてください。なにもアルスマグナの社員さんが怪我させたわけじゃないんですから。私は
ゆっくりと顔を上げる。相手の顔が見える。
「個人的にお願いしたいことがございまして」
「お願い? 私個人で可能なことでしたら対応させていただきますが、なにせ私も只の軍人ですから何ができるか……」
「絵を描いて欲しいんです。もう少しで完成する予定だった銭湯の絵を」
「銭湯絵? 俺にそんなの……」
「この薔薇を描いて欲しいんです」
彼女は無事な左腕でスマートフォンを俺に差し出す。
先程、戦闘開始前に子供相手に描いてあげた花の絵だ。青のインクを多めに使うので、余った黄色で描いた薔薇。
「妹が見せてくれました。この綺麗な薔薇を、私の大事な作品に、一輪添えて欲しいのです。こんな腕じゃあ、もう無理ですから」
綺麗な薔薇。そう言われると、先程までモヤモヤとしていた感情が薄れる。
それに、彼女の腕のことに関しても、俺に責任が無いではない。少なくとも彼女自身の腕で納期までにあれを描き加えるのは難しい。ここで断る気にも、弁護士に対応を任せる気にもなれなくなってしまった。
「かしこまりました。スケジュールを調整いたします。ぜひお手伝いさせてください」
そう言ってから背後に突っ立っていた会社の弁護士を見る。涼しい顔だ。怒られるとしても、まあそこまで困ったことにはならなさそうだ。内心、安堵のため息を吐き出した。
*
定時で職場から出て、俺は家にまっすぐ戻った。
扉を開けるとケアロボットが出迎える。白いボディにパステルカラーのオレンジ。人権団体からのクレームを予防する為に、人間からはあえてかけ離れたまるっこいデザイン。足代わりのタイヤと家事の為に備え付けられたアーム。
「雅人様、おかえりなさいませ。普段よりお早いですね」
「ああ、晩飯を頼む。腹が減って死にそうだ」
その日、俺は諸々の処理でまた残業した。
社割制度で安く手に入るエティカルオートミールを適当に流し込む。栄養補給完了。それから冷蔵庫の中の缶を開ける。
プシッという音、それに甘ったるい匂いが漂ってくる。アブソルートZERO。短時間で適切に酔う為に開発された合成酒だ。
中身を喉に流し込めば、その毒々しいデザインとは似ても似つかない清明な味が口に広がり、思った以上の滑らかさでよく冷えた高濃度アルコールが喉を潤してくれる。
「マサト様、おつまみは不要ですか?」
ケアロボットが勝手に起動して話しかけてくる。一杯飲んだので俺がリラックスしていると判断したのだろう。パステルカラーの丸っこいシルエットをぼんやり眺めているといくらか落ち着く。
「家になにかあったか?」
「スシチューブがございます。今からですとピザやジャーキーの配達が可能です。手作りチーズも近隣のアルスマートに入荷しておりますので、手配いたしましょうか?」
便利なものだ。
人権の無くなったヒト脳髄を加工して作った思考回路に、一定の受け答えパターンを組み入れただけの簡単な人工知性が、現在世界各国で流行の兆しを見せている。人間のストレス解消の相手をさせるなんて過酷な労働を人間にさせられないからだ。
「サラミピザを頼む。あとスシチューブもとってきてくれ。あれは足りなくなったら追加で注文を頼む」
ケアロボットの頭をポンポンと撫でる。
仮に不満があるとしても、雅人のそれは少なくとも会社に対するものではない。
鮮やかな赤を放つスシチューブを開封し、マグロを吸う。
「注文が完了しました」
「早いもんだよな。いつもありがとう」
「いえ、業務ですので」
「無理とかするなよ。壊れられると困る」
「メンテナンスは雅人様がご不在の間に定期的に行っております。雅人様のようにアルコールは摂取できませんが」
思わず吹き出してしまう。
「俺とお前と、何が違うんだろうな」
「?」
ケアロボットは首をかしげる。
「高いパーツか、安いパーツか、その違いじゃないか」
仕事して、休んで、仕事して、休んで。その繰り返しだ。それをいかに円滑に行うことができるかを価値として、ただただ追求を続けるだけの存在だ。俺も、こいつも。アルスマグナで働く前の俺は、趣味の絵を楽しむ時間くらいはあったはずなのに。今は一緒だ。
「おっしゃられることはよく分かりませんが必要とされることは、人間の生存に必要なことなのではないかと思われます」
「必要でなければ生きてちゃいけないのか?」
ケアロボットの動きが止まる。数秒間の沈黙。淡々とした合成音声でまた話し始める。
「申し訳ありません。今の言語機能で会話に追いつくことは不可能なようです。ところで雅人様、ピザは後五分で到着いたします」
良い会社。良い生活。良い仕事。此処ではこういう歪みをみんな見ないふりをする。今、俺も。
「……オッケー、二本目のZERO用意しておいてくれよ」
少なくとも人間には酒が必要だ。一仕事終えた人間には、特に。
明日の休暇は跪座明日香の手伝いがある。普段よりも早めに眠るとしよう。
ケアロボットから渡された二本目のZEROを流し込み、ケアロボットが俺の代わりに受け取ったピザを半分だけ食うと、俺は布団に潜り込んで目を閉じた。
*
翌日、俺は休暇を利用して跪座明日香の職場に出向いた。
「……駄目ですね」
俺の背後を飛ぶドローンから跪座の残念そうな声が聞こえる。
彼女の描いた銭湯絵のモチーフは竜宮城。蒼を基調とした城の中庭に、アクセントとして一輪だけ黄色い薔薇をという発想は良いと思う。
「デザインですか? あの薔薇は元々俺の描いたデジタルイラストをペンキシューターに取り込んでいるだけだから、手描きでも同じ絵は出せると思っていたのですが……」
「いえ、違います違います。言葉が足りなくてごめんなさい。違うんです。中尉さんが悪いんじゃないんです」
「中尉じゃなくて久我で良いですよ。オフですし」
「オフなんです!? なんで来てるんですか!? 貴重な休みに!」
「週に二回ある休みを一回使ったって良いじゃないですか。別に何かやることがある訳でもなし」
「ええっ!? 完全週休2日制!? ひぇえ……ホワイト……私なんて土日絶対に休めないのに……」
驚かれてしまった。
法律では完全週休二日制が義務付けられている筈なのだが……まあ下請けあるいは管理職だと人員が足りずに残業扱いで出社することもあるとは聞く。
大変なのだろう。
「完全なパフォーマンスを常に発揮するのも軍人の勤めです。休暇の間は勉強、訓練、体調管理など為すべきことが多々あります。内容に関してより多くの裁量が認められているというだけです」
「あっ、じゃあ根っこは私たちと変わらないんですね。むしろ自分で決めるのって大変そうです……」
「学生の頃は、趣味の絵を描いていたんですけどね。この薔薇もその名残です」
「うわー学生さんだったんだ。エリート。最近は?」
「仕事を覚えるのに精一杯なもので」
わざとらしく肩をすくめてみせる。それ以外にも思っているところは多いが、流石に大声でアルスマグナ社の悪口は言えない。時間拘束が少ないこととワークライフバランスが成立するかは全く別の問題とか、大声では言えない。
「あんな襲撃から街を守っているんですもんね、神経使いますよね」
ドローンの向こうで跪座明日香はニッコリと笑う。どうやらお見通しらしい。
「そこはノーコメントにさせてください。本題に戻りましょう。この薔薇、不足しているのは分かります。全体的に色調が竜宮城と噛み合わない。そういうことですよね?」
「色に関しては多分ペンキが違うんですよね。でもそれだけじゃない。色味ならば合成で再現はできる。そうじゃなくて……ほら」
ドローンのモニターに写真撮影された薔薇の絵が映し出される。
「ほんの少し歪んでいるんです。飛行中にペンキを射出したから、風や機動の影響を受けて、元の図像に歪みが生じている。広告軍のデザインはそういった歪みへ高い耐性を持っているんですが、久我さんのオリジナル図案はそういったことへの配慮がされていない。だから歪んだ、けど、それが味になっている」
バイオペンキ分解用のスイッチを入れて、先程まで描いた薔薇の絵を消す。
スイッチひとつで消えるのがこのペンキの便利なところだ。何度でも描き直せる。
「軍のジェットパック借りる訳にもいかないしなあ。高いところから飛び降りながら塗ってみるか……」
「本気ですか!? 久我さんまで入院したらやばいですって!」
「軍人がこの程度で怪我するわけないし、何より俺が描きたいんだ。良い感じに歪んだ薔薇の図像がバイオペンキで出来たらそれを普通のペンキで上書きして塗り直す。それで良い筈でしょう?」
「バイオペンキだって跡が残らない訳じゃないんですからあんまり繰り返せませんよ? 特にこういう銭湯絵の場合は長年高温多湿の環境に置くので、そういう痕が他の環境よりも目立ちやすいんです」
「同系統の色なら多少は大丈夫、多少は……」
そもそもこの街はアルスマグナ社のイメージカラーである青が多い。バイオペンキを使う分にはそれで問題は起きない。変に色が残らないように、そこらへんは研究開発部門も配慮している。
「雑では?」
「雑とか言うな。傷つく」
「あっ、久我さん笑った」
「はて、初対面から笑っていた筈ですが?」
「素の表情ってことですよ。
跪座明日香は自らの髪をくるくると指で巻きながらヘラヘラ笑っている。なんだか力の抜ける相手だ。だがまあ話せる奴ではある。嫌いじゃない。
「そうはおっしゃりますが、オフであっても俺は軍人ですので……」
「変なところで真面目なん――」
バヂュッと嫌な音が天井で響く。
黄色の飛沫が換気用に開いていた天窓の隙間から降り注ぎ、銭湯の壁にペンキの粒がポツポツと降りかかる。
「……マジかよ」
頭上を仰いだまま、天窓の向こう側を眺めて悪態をつく。
「う、うわぁ!? 久我さん! 逃げてください! どこだか知らないけど、でっかい飛行機がビラとペンキ撒きながらそっち向かってます!」
ドローンの向こう側から跪座明日香の悲鳴が聞こえる。
同時に脳内のマイクロチップから、頭の中へと警報が飛ばされる。
ジェットパックのある最寄りのアルスマグナ社の拠点、襲撃してきた他者広告飛行船の詳細なデータ、その他戦闘に必要な諸々が次々と脳の中に詰め込まれる。驚くべきことに、敵が使用しているのはバイオペンキではなく、通常の生活に使われる本物。純粋な広告テロだ。アルスマグナ社の権威を失墜させる為だけの嫌がらせ、営業妨害に他ならない。
俺は思わず口角が上がる。
「これは都合が良い。サービス残業じゃあ無くなったな」
「久我さん! 危ないですって! 今日は――」
『Let's get Ars Magna and future.』
四肢に組み込まれた
『本社から非常事態宣言を発令、交戦・撃墜を許可します。暴徒鎮圧兵装の使用を許可します』
尺骨に沿うようにして腕は青白く発光し、大腿部の人工筋肉は大きく膨らむ。
「久我さん!? なんですかそれ!? なんか若干マッチョになってません!?」
「言っただろう。俺は広告軍人だ。企業の経済圏と市民の生活圏を守ることが仕事だ」
銭湯の天井をぶち破り、五連刃のチェーンソーが降ってくる。愛称は“
チェーンソーを横に五つ並べただけの簡単な作りで、それぞれが指を動かす神経と接続されて個別に動き敵を切り刻む。リーチも無いし至近戦闘時の取り回しも悪いが破壊力は随一。テロ屋どもの船を落とすにはこれくらいでちょうど良い。
「さて、跪座明日香さん。申し訳ないのですが別件の業務が入ってしまいました。すぐ戻りますので、少々お待ちを」
俺はわざと広告軍人らしく慇懃に振る舞ってから、
「あ、あの!? 無事に帰ってきてくださいね!? この絵、まだ終わってないんですから!」
「ああ、乗りかかった船だ。修復も手伝わせてくれ」
彼女が言うところの“素の表情”とやらで笑った後、俺は外に飛び出した。
*
それから一週間後。戦闘に巻き込まれて結果的に納期が伸びた銭湯の壁絵の前で、俺と跪座は二人して腕を組んでいた。
「それで、腕は良いのか?」
「骨折なんてちゃんと入院して治療受けたら一週間有れば十分すぎですよ。治療用のなんたら細胞移植とかしてもらいましたし」
「高かっただろう」
「早く働きたかったんです。アルスマグナ社から十分な治療費も出ましたし、急いで働いて休んだ分を取り返さないと。骨治るのが遅いならサイバネにしてもらおうかなって思ってたくらいで」
そう言って腕まくりをして力こぶを作ろうとする。できていない。スラリとして柔らかそうな女性の腕だ。
「薔薇じゃなくて、花びらにしないか?」
「花びら?」
「この黄色いペンキが残った上から、薔薇の花弁を描くんだよ」
それは広告テロリストとの戦闘が終わった後から考えていたことだった。戦争において他社の広告を塗りつぶすのはよくある話だ。今回も同じようにしてやればいいというだけだ。
「竜宮城に散る黄色の薔薇の花弁ですか」
「黄色の花なら何でも良いんだけどな、薔薇ってのもなんか変だし」
「いや、面白いし、戦争絡みで現場はどこもバタバタしてますし、勢いに任せて仕込んでも怒られませんよ。っていうか、もう完全に素ですね久我さん」
「オフだし」
「あはは、じゃあ私がバイト代出さないと駄目ですねえ」
「病み上がりなのに奢らせたら悪いだろ」
「いえいえ、働けばお金はちゃんともらえますから」
「その分は貸しておくよ」
「おや、取り立てに来てくれるってことですか? 軍人さんなのに案外ナンパですこと」
口元を隠してニヤニヤと笑う。赤い瞳がいたずらっぽい色を帯びて俺を見つめ、白い指先に塗られた桃色のネイルが陽の光を映してキラリと輝く。
個人間の送金ならアプリで簡単にできるだろうに、わざわざそんな事を言っておいてとぼけるのかねこいつは。
「休日は暇でね。まあ君の貴重な休暇に邪魔をするのも悪かったかな」
「いえ? 別に? ふふ、まあそれはさておき、ですよ」
跪座明日香は黄色い染みがいくつもついた壁を指差す。
「ここ、サクッとやって飯行きますよ。実はこの後もお仕事がありますので。完全週休二日制の民とは住む世界が違いますから、大変なのです」
「そんなに銭湯絵あるの?」
「いえ、銭湯以外にも帰ったらデザインのお仕事が待っています」
「成程、お疲れさまです。花弁の塗りの雰囲気は俺の画風に寄せてもらえるか? 絵描きとしてはアマだし、君の方に寄せられる自信が無い」
「構いません。もともと久我さんの色使いを取り入れたかっただけなので。高いところお願いできますか? はしご使わなくてもかなり高いところまでいけますよね?」
「任せておけ」
「助かります~!」
俺たちは手分けして同時に彩色を開始する。
良い町だな、と思う。
格差のようなものが無いではないが、働けば働いたなりに報酬があって、それなりに幸せになれる。
未来を目指す若者の町。老人の居ない町。
誰もそれを疑わない。恐怖と統制ではなく、安定した生活と未来による支配。
「この近くに良い感じのイタリアンがあるんですよ」
「ほう? 聞かせてほしいな」
俺もきっと良い町と疑わない。
少なくとも、今日一日は。
少なくとも、この後のランチが終わるまでは。
エースウォンバット~蒼穹の社畜戦士~ 海野しぃる @hibiki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます