5. 帰郷

 飛行能力を有しているにも関わらず、古龍エンシェントドラゴンの生息地は第四大陸に限られている。大陸を囲む海が、古龍の拡散を防いでいるのだろう。

 だがヴィッチセップは諦めてはいなかった。故郷には飛来した古龍の伝承が残されていた。第一大陸まで辿り着いた個体が、過去にいたはずなのだ。


「いつまでやってるんだ。」


 不器用に飛行練習を続けるヴィッチセップに、竜の女王はうんざりしたように問いかけた。故郷に帰るまで、とヴィッチセップは答えた。竜の女王は重苦しい溜息を吐いた。


「いい加減、受け入れろ。お前は古龍。故郷はここだ。」


 竜の女王はいささかきつい口調で言ったが、ヴィッチセップは譲らない。彼の故郷は大時計がそびえるあの街だ。彼の強情さに、竜の女王はいよいよ呆れたようだった。


「ドラゴンは大きく二種類に分かれている。空を飛ぶ飛竜、地を這う地竜。古龍は飛竜の一種だ。だが、そのご立派な翼でその大層な巨体を持ち上げることが、本当にできると思うか?」


 突如始まった雑談への対応として、ヴィッチセップは耳をピクピク動かした。興味の薄い反応にも構わず、竜の女王は先を続ける。


「ドラゴンは翼で飛ぶのではない。魔法で飛ぶんだ。自然に生じやすい現象ほど少ない魔力消費で実現できる。空を飛ぶなら翼を持っているべきなのだ。だから飛竜の多くは翼を持つ。私はこれを概念進化と呼んでいる。」


 竜の女王はヴィッチセップの翼を指さした。


「飛ぶのが下手なのは、翼を使おうとしているせいだ。」


 ヴィッチセップは己の翼に目をやった。力を込めて一振りすると、地面に叩き付けられた空気の反動がヴィッチセップの巨体を浮かせた。あまりにも軽々と。不意に、ヴィッチセップは己と世界とを繋ぐ巨大な力の流れを意識に捉えた。彼は翼を打ち鳴らし、空へと舞い上がる。


「……さよなら、ヴィッチセップ。」


 少しだけ寂しそうに、竜の女王はヴィッチセップに別れを告げた。ドラゴンは別れを惜しまない。竜の女王の呟きを置き去りに空へと舞い上がる。大きなものと繋がった心地! どこまででも飛べると、彼は確信した。


 北へ、北へ……。

 山を越え、父の吐き出す炎を潜り、海へと出て、なお北へ……!




 辿り着いた先に求めた故郷は存在しなかった。


 残された廃墟に佇んで、ヴィッチセップは不安と闘った。場所を間違えたのだと思い込もうとした。だが、かつて毎日のように見上げた大時計の朽ちた姿がヴィッチセップに誤魔化しを許さない。ここはヴィッチセップの故郷である。

 ならば懐かしい家族はどこへ行った? 恋人は? 友人は?


 ふと、ヴィッチセップは己の目線の高さをいぶかしんだ。

 孵化直後のヴィッチセップには、人間の歩みに踏み潰されるような下草でさえ巨大に見えた。今のヴィッチセップには、人間だった頃遥か頭上に見上げた時計塔が目の高さに見えている。ヴィッチセップは何年かけて、ここまで大きくなったのか?


——古龍は性成熟に五十年かかる。


 竜の女王の言葉が蘇る。ヴィッチセップはピンと耳を立てた。

 性成熟に伴う飛翔の衝動に身を任せてヌシの逆鱗に触れた後、ヴィッチセップと竜の女王は長い時間をかけて意思を通じ合わせた。時にはただ一言を伝えるためだけに、いくつもの太陽を見送った。

 いくつの太陽を数えただろう……?


 嘘だ! ヴィッチセップは叫んだ。応える者はいなかった。


 古龍は生まれながらに孤独だった。

 彼は一匹の古龍でしかない。

 ヴィッチセップはただ一匹、滅んだ故郷で慟哭どうこくした。



 *****


 ——ドラゴンを倒して、名もなき若者は英雄になる――


 *****



 ヴィッチセップは故郷の廃墟に棲み着いた。数えきれない昼と夜とが、彼の頭上を通り抜けた。


 彼の存在は、功名にはやる愚者を惹きつけてやまなかった。竜殺しドラゴンスレイヤーの名を欲した若者たちは、ことごとく彼の息吹に溶けた。

 彼は炎を含んだ鼻息を吐き出して、苛立ち紛れに尾を振った。その度に彼の故郷は小さく欠けた。


 苛立ちが彼の故郷を破壊し尽くした頃、彼は各地の伝承に残るドラゴンと同様に人間に敗れた。

 ズタズタになった体を引きずり、彼は逃げ出した。


 南へ、南へ……

 ふらつきながら平野を抜け、海を越えた。惨めな彼は、ヌシから見向きもされなかった。

 懐かしい第四大陸の上空で、彼は力尽きた。


 いつかのことを思い出しながら、落下したそのままの姿勢で身体を丸め、ヴィッチセップは歩み寄って来る足音に耳を澄ませていた。二本の足で歩いてくる。片方の足を引きずっているようだ。

 それはヴィッチセップの前で足を止めた。苦労して首をもたげ、足音の主を見上げる。


「お帰り、ヴィッチセップ。」


 いつかと変わらぬ姿形で、いつかはなかった温かさを瞳に乗せて、彼女は彼に人間の言葉をかけた。


 彼女との奇妙な共同生活が始まった。


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古龍の慟哭 文月(ふづき)詩織 @SentenceMakerNK

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