4. 竜の女王

 彼女との奇妙な共同生活が始まった。


 彼女はヴィッチセップに怯えなかった。かといって愛情を注ぐこともなく、淡々とヴィッチセップの世話をした。

 ヴィッチセップは大人しく体を丸めて、彼女の手に身を任せていた。彼は徐々に力を取り戻していった。


 人の言葉を耳にして、人と共に暮らすうち、ヴィッチセップの精神は劇的に人間味を取り戻した。ドラゴンの孤高に抑え込まれていた望郷の念が次第に大きくなる。


 ヴィッチセップは度々彼女に話しかけようと試みたが、なかなかうまくいかない。何とか人間の言葉を再現しようとするのだが、無理難題である。リズムを再現するのがやっとだった。


 長い長い時間をかけて、ヴィッチセップは彼女とのコミュニケーションを図った。鱗を鳴らして声をかけ、彼女が音を解釈して声に出す。ヴィッチセップが首を振って正否を示す。


「ヴィッチセップ……」


 彼女の声が始めて彼の名を結んだ時、ヴィッチセップは感激して天に吠えた。彼女はうるさそうに顔をしかめた。


 次にヴィッチセップは彼女に名を尋ねたが、長い長いやり取りの末、彼女は答えてくれなかった。


「どうせお前が私の名を呼ぶことなどないのだから。」


 彼女はそう言ってそっぽを向いた。


 古龍エンシェントドラゴンと向かい合い、言葉を交わす女性。その姿からヴィッチセップが連想するのは、竜の女王の物語だった。人類未踏の第四大陸。強大な古龍の息づくその地に君臨するのは、若い女性の姿をした魔性なのだという。

 恐れもなく、気負いもなく、淡々と古龍に寄り添う彼女の姿は、伝承の中の竜の女王そのものに思われた。

 ヴィッチセップは彼女に竜の女王と仮名かめいを付けた。自分の声が彼女の名を紡ぐことはないと気が付いたのはその直後のことだった。ヴィッチセップはしょんぼりと翼を垂らす。


 自分は二度と人の言葉を操ることができないのだろうか。一体、どうしてこんな姿になってしまったのだろうか。いつかの疑問がまた湧き出してきた。


 自分に何が起きたのだろう。疑問を表する言葉が竜の女王に届くまで、また幾日かを要した。鱗を鳴らして示した言葉を彼女はようやく理解して、ああ、と頷いた。


「ヌシに落とされたのさ。若い古龍エンシェントドラゴンにはよくあることだ。性成熟して繁殖期を迎え、浮かれ気分で飛翔する。ヌシは地を這う者に餌以上の関心は示さないが、空を舞う雄には獰猛だ。初飛行で叩き落される若雄は多い。」


 どうやらヴィッチセップの疑問は正しく伝わらなかったようで、竜の女王は彼を負傷させた要因について語り出した。


「古龍は太古の昔から姿を変えない。それをして完璧な生物と称される向きがあるが、私に言わせれば単に世代交代に至るまでが長すぎて変異が蓄積しないだけだ。性成熟に五十年以上も要するものな。お前を叩き落したヌシはかれこれ千年、この空に君臨している。お前の父親はあいつだと思うよ。」


 父親。その言葉に、ヴィッチセップはピンと耳を立てた。古龍の父に親近感は湧かない。思い返すのは、人であった頃の父親だった。


 ヴィッチセップは、また何日もかけて竜の女王に語った。自分の過去と、そして現在を。


「なるほどね。交通事故で命を落とし、気が付いたら古龍になっていた、と。」


 竜の女王の確認に、ヴィッチセップは幾度も首を縦に振った。竜の女王はしばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「……古龍のお前なら感じ取っているのではないかな。この世界はマナによって構成されている。無機物、有機物、そして生命に至るまで、突き詰めればマナの流れの一部だ。人の心、人の記憶もまた同様に。」


 竜の女王は自分の考えを整理するようにぐるりと視線を巡らせる。


「万物は形を失えば世界を循環するマナの流れへと還る。混ざり合い、拡散し、世界と一つになる。そして新しい何かに変化する。だが、拡散も混合も不十分に新しい形を得ることがある。既視感だの前世の記憶だのという奇怪な現象の原因はこれに求められる。」


 ヴィッチセップは半信半疑に彼女の言葉を聞いていた。竜の女王は一つ息を吐いて、ヴィッチセップに向き直る。


「ただし、マナの流れからそのまま生命が誕生するわけではない。空気中から、あるいは食物連鎖の果てに、マナは物質として生命に取り込まれ、代謝されて定着する。人の記憶のような巨大な容量を必要とするものが、そっくりそのまま生命として新しい形を得るのは極めて異例だ。……古龍だからこそ生じた奇跡だろうな。」


 竜の女王は好奇心に光る眼にヴィッチセップの姿を映した。


「魔物は食事以外にも物質を介さないマナ代謝を行うからね。古龍ともなれば、息を吸うように大量のマナを吸い込み、そっくりそのまま腹に収めてしまう。たまたま拡散を免れたお前の自我が古龍特有のマナ代謝に巻き込まれ、卵に魂を定着させたのだとすれば……実に面白いな。」


 竜の女王は頬を上気させてヴィッチセップの巨大な目に顔を近付けた。


「こんな事例が存在するなど今まで想像だにしてこなかったが、もしかしたら古龍では比較的頻繁にあるのかもしれないな。古龍の孵化実験をしてみたい……。お前、雌を何匹か孕ませてくれないか?」


 何故そんなことを調べようとするのか、とヴィッチセップは恐る恐る問うた。通じるのにまた半日ほどかかった。


「そんな下らない質問のために半日を無駄にするのか……。知りたいからに決まってるじゃないか。」


 竜の女王は呆れたように溜息を吐いた。ヴィッチセップは首を傾げて見せた。


「知識の蓄積は爪も牙もない人間にとっては重要な生存戦略だ。まあ、古龍に言っても仕方がないが。」


 竜の女王は口元を歪めた。人間の表情はころころと変わるのだということを、ヴィッチセップは不意に思い出した。これは笑顔というのだ。彼女の笑顔はヴィッチセップを不安にさせた。


「お前は非常に稀な事情を持って生まれ出た。そこには確かに前世人間だった頃の記憶と心があるのだろう。それでもお前は一匹の古龍でしかない。人間ではないし、人間にはなれない。分相応に古龍の幸せを求めろ。父親を打倒し、ハレムと第四大陸の覇権を握り、自己複製に励み、生意気に空を飛ぶ若雄を叩き落して回る。古龍の雄に生まれたからには、それが最大の幸福だ。」


 ヴィッチセップは憤慨ふんがいした。勝手に決めるな。自分は人間だ。人間なのだ。

 興奮して振り回した翼が、竜の女王のすぐ傍らの空間をえぐり、地面に深い傷を作る。竜の女王には傷一つない。だがそれは竜の女王が野生のドラゴンに向き合う時に取るべき安全な距離を熟知して立ち位置を決めたからに過ぎなかった。そうでなければヴィッチセップの翼は彼女を粉砕していただろう。

 己が人を殺し、今また殺しかけたことをドラゴンとして受け入れてしまっていることに、ヴィッチセップは気付かない。


『帰る!』


 ヴィッチセップは吠えた。ここは第四大陸。北へ向かえばヴィッチセップの故郷があるはずだ。ヴィッチセップは力強く羽ばたいて、空へと浮き上がる。生じた空気圧が竜の女王を転倒させた。彼女は冷たい目でヴィッチセップを見つめていた。


 ヴィッチセップは彼女に一声残して舞い上がった。

 北へ、北へ……。海を越え、山を越え、懐かしの故郷へ……。


 しかしヴィッチセップは大陸の端に到着するよりも前に疲れ果てて地面に落ちた。翼を動かす筋肉がひどく痛む。ヴィッチセップに海は超えられない。


 すっかり意気消沈して、ヴィッチセップは竜の女王の下に戻った。


 竜の女王はますます冷たい目でヴィッチセップを見つめ、呆れたような溜め息を零したが、何も言わずに迎えてくれた。

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