3. うろことば

 いつしかヴィッチセップは考えるのをやめていた。朝日と共に目覚め、日向ひなたに身を横たえ、体に熱を蓄えれば歩き出す。

 気ままに食事をし、水に浸かり、時には脱皮をする。そうするうち、彼の身体はさらに巨大になっていた。最近では同族さえも彼を見れば逃げ出した。


 彼は誰憚だれはばかることなく森を闊歩かっぽした。いつの間にか、彼の主食はドラゴンになっていた。孵化した直後の彼を襲った小型の地竜は、今は彼のおやつである。


 食事をしながら巨大な翼を揺らすと、翼と地面との間に挟まれた空気が下草を潰し、血生臭い空気を吹き散らした。体がふわりと軽くなる。


 唐突に、ヴィッチセップは空を舞う衝動に駆られた。大きく翼を広げて、ヴィッチセップは走る。空気が翼に絡みつき、彼の身体を持ち上げる。足が地面から離れるとバランスを崩し、再び地に足を着いた。

 ヴィッチセップはひたすら走った。走り、走り、森の果てに到達すると、踵を返してまた走る。奇妙な高揚感が彼を地面に留めておかなかった。


 滑空距離は次第に伸びた。やがて彼は不器用ながらも空気を捉え、大空高く舞い上がった。胸元の筋肉が隆起する。羽ばたく度に周囲の空気を地面に落とし、いっそうの高みへと舞い上がる。彼は快哉かいさいを叫んで翼を大きく打った。


 青空を背に飛翔する彼に、一匹のドラゴンが寄り添った。雌の古龍エンシェントドラゴンだった。しなやかな尾が誘うようにくねった。ドラゴンたる彼は大いに喜び、人間たる彼は困惑した。


 気が付けば、数匹の雌が彼の周囲を囲うように飛んでいた。雌たちは彼をおちょくるようにして、周囲をくるくると回ってみせる。若い古龍の胸が期待に踊る。


 不意に彼の頭上に影が落ちた。蜘蛛の子を散らすように雌がいなくなった。怪訝に思って視線を上げれば、ヴィッチセップの頭上に、凄まじく巨大な古龍が飛んでいた。

 目が合うなり、巨大な古龍は吠えた。彼の声帯から生じた振動が空気を吹き飛ばし、下方に広がる木々の枝葉を引きちぎった。

 彼はその場を逃げ出そうとしたが、驚きと恐怖がその動きを阻害した。飛び方を見失った彼に向けて、加減のない息吹ブレスが放たれた。

 恐ろしい熱と光に身を焼かれ、ヴィッチセップは鱗をくすぶらせながら、はるか高みから落下した。


 高度と自重に押し潰されて、体が砕ける音がした。



*****



 落下したそのままの場所で身体を丸め、ヴィッチセップは迫る死の足音に耳を澄ませていた。それはどうやら二本の足で歩いてくる。ただでさえ二本しか足がないのに、片方の足を引きずっているようだった。

 それはヴィッチセップの前で足を止めた。苦労して首をもたげ、足音の主を見上げる。


 人間の、若い女だった。顔の左側を埋める鱗のような古傷が緑色に輝いていた。左目もまた怪しげな緑光りょっこうを発している。薄い青色をした右の目に怯えの色はなく、ただつまらなさそうに死のふちうずくまるヴィッチセップを見つめていた。


 彼女はおもむろに踵を返して去ろうとした。ヴィッチセップは鱗を鳴らした。精一杯、人間の言葉のリズムに合わせて音を立てる。


『イ・カ・ナ・イ・デ……!』


 女はぴたりと足を止め、ヴィッチセップを振り返った。左目の緑が輝いた。


「まさか……お前、人間?」


 彼女の言葉に、飛び立ちかけていたヴィッチセップの精神が引き戻された。ヴィッチセップは必死に舌を操って、自分の意思を伝えようともがく。


「こんなことが、あるのか?」


 女は眉間に深い溝を作って、ヴィッチセップの目を覗き込んだ。思わず瞬きをすると、危うく女の顔を潰しそうになる。彼女の顔は、ヴィッチセップの眼球程度の大きさしかなかった。


『タ・ス・ケ・テ……』


 ヴィッチセップは必死になって訴えた。腕を組んでいぶかしそうにヴィッチセップを見つめていた彼女は、やがて踵を返した。雑にまとめられた干し草色の髪が彼女の動きに合わせて揺れた。


 助けてもらえなかった。ヴィッチセップは静かな絶望に身を浸し、己の命が零れ落ちていくさまを俯瞰ふかんした。眼球を保護する水分が鱗の隙間をなぞり、地面に沁みを広げた。


「安心しろ、助かるから。」


 ふと落ちて来たその声が、ヴィッチセップを闇の底から拾い上げた。目を開けると、先ほどの女がヴィッチセップの目の前にいた。


「助けてやるから、寝返りを打ったりするんじゃないぞ。潰されてはかなわん。」


 女はそう言い置いて、ヴィッチセップの視界から消えた。


 傷口に触れる柔らかな手のぬくもりが、ヴィッチセップの人の部分を優しく撫でた。青い草の匂いと鈍い痛みの中、ヴィッチセップはそのぬくもりを抱きしめ、むせび泣いた。

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