2. 逆鱗

 ヴィッチセップは人間だった。

 それを思い出した途端、様々なことが腑に落ちた。

 納得と共に、切なさが胸を打つ。


 家族はどうしているだろう。恋人は? 友人は?


 なぜ自分はドラゴンなのか?


 池に映る自分の姿をまじまじ眺めて、ヴィッチセップはおののいた。

——ドラゴンを倒して、名もなき若者は英雄になる―― 

 竜殺しドラゴンスレイヤーの英雄譚とは切っても切り離せない、完璧な生物。ヴィッチセップの故郷にも同様の伝承が残っていた。


 ヴィッチセップは人として思考しながら、ドラゴンの本能に忠実であった。

 獲物が前を過る度、ドラゴンの本能がヴィッチセップの人間性を食い潰す。鋭い爪で皮を裂き、強靭なあごで骨を砕き、温かな血で口を濡らして肉を胃に流し込む。恍惚こうこつと食事を済ませてから、ふと己の人間であることを思い出して狼狽うろたえる。


 なぜ自分はドラゴンなのか。……あるいは、以前人であったことこそが思い込みではなかったか。


 人間が恋しかった。住み慣れたナワバリを離れて、ヴィッチセップは人の姿を捜し歩いた。深く広い森のどこにも、人間の姿は見えなかった。


 ヴィッチセップは何度か同種のドラゴンと出会った。彼らは一様に牙をき、翼を広げ鱗を立てて威嚇した。ヴィッチセップも同様の反応を返し、時には爪と鱗の強度を競い合った。

 相手の細やかな意図は不明だ。この生き物は生まれながらに孤独。卵から孵ればすでに一匹。他者は全て敵である。それ故に相手に意思を伝える手段は極端に少ない。戦意の有無を示す以外のコミュニケーションを、ヴィッチセップは持ち合わせなかった。


 それなのに、ヴィッチセップの耳は人の言葉を細やかに捉えた。


「噂に違わぬ深い森だ……」

「ああ、実に植生豊かだな。素晴らしい!」

「気をつけろ。ここは第四大陸、竜の女王の領域だ。噂の通りなら、危険な魔物が多数生息しているはずだ。」


 静かな森で囁き交わされる人語を鋭敏な耳が捉えた時、ヴィッチセップは喜びの余り振るった尾で周囲の木々をなぎ倒した。


 ヴィッチセップは走った。彼の足音は大地を揺らし、木々をおののかせた。


 木々をなぎ倒して進み、枝葉を掻き分けて顔を出すと、鱗も爪も牙もない小さな二本足の動物の群れが、ヴィッチセップを見上げていた。


『こんにちは……』


 ヴィッチセップはおずおずと彼らに声をかけた。自分の咽から零れた音が人語を為していないのを耳にして、ヴィッチセップは酷く落胆した。彼の舌も声帯も、人語を繰るのに不向きだった。

 言葉ならざる言葉は、人間たちを一層怯えさせた。


古龍エンシェントドラゴン……!」

「そんな! いきなり出くわすなんて!」

「怯むな、この個体はまだ若い! 迎撃するんだ! 竜殺しドラゴンスレイヤーの称号は目の前だぞ!」


 人間は槍を掲げた。ヴィッチセップは鈍く輝く穂先が迫るのをぽかんと口を開けて眺めていた。槍が鱗を打つ。

 ヴィッチセップは抗議の声を上げた。恐ろしい声に恐怖を喚起された人間は、一層理不尽に槍を振るった。穂先が鱗を突く痒みが、ヴィッチセップを苛立たせる。


『やめろ! 話をしたいだけなんだ!』


 ヴィッチセップの声は届かない。苛々と振り回した尾が、一人を叩き潰した。悲鳴と怒声が空へ昇る。ヴィッチセップが広げた翼が、人間たちから空を奪った。


『タスケテ!』


 人間ヴィッチセップの切なる悲鳴は、彼に踏み潰される人々の断末魔に埋もれ、誰にも知られることはなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る