古龍の慟哭

文月(ふづき)詩織

1.孵化

 ヴィッチセップ・アーウィングは第一大陸の小国に暮らす青年だった。

 ある日、御者ぎょしゃの意思を外れた荷馬車が街を駆け抜けた折、たまたま彼を巻き込んだ。憐れ儚く彼は短い一生を終えた。

 街のシンボルたる大時計の針が彼の死によって止まることはない。ごく平凡な青年の死は人並みに悲しまれ、時の流れと共に人々の記憶から薄れていった。


 *****


 人の踏み入らぬ深い森の腐葉土にいだかれて育った一腹ひとはらの卵が、孵化の時を迎えていた。


 卵の殻を鼻の先で破ると、土の香りを宿した空気が彼の肺へと分け入った。初めての光が柔らかく目に沁みた。

 彼はのそりと世界へ這い出した。翼が殻に引っかかって彼の誕生を阻んだが、力づくで引き抜いた。


 同じ巣で生まれたきょうだいたちが、どこかに向かって走ってゆく。彼もまた走り出した。


 小型の地竜が彼のきょうだいをまみ食いしていた。きょうだいが咀嚼そしゃくされる隙をついて、生まれたばかりの彼らは地竜の足元を駆け抜けた。


 その生き物は生まれた瞬間から孤独だ。きょうだいは生存を争うライバルであり、また敵の目を逸らす囮である。その生き物にとってはそれが普通で、戸惑うことでも悲しむことでもないはずだった。

 だが彼はその在り方に戸惑い、ひどく悲しんだ。彼は温もりを求めて鼻を鳴らした。きょうだいたちはそんな彼をかえりみない。


 知らぬ間にきょうだいたちは散り散りになっていた。彼はただ一匹で、森の地面を覆う草の根元を歩いた。

 体のくねりに合わせて短い足を前に出す。肩甲骨から伸びた脆弱な翼が、歩みに合わせて揺れた。

 小さな耳が空気に触れて冷たい。

 鱗の隙間から突き出した丸い角がむず痒いので、木の根に擦り付けていだ。

 草にしがみついているバッタを見つけて食いつく。生まれ持った牙で昆虫の外骨格を噛み砕き、丸呑みにする。ずしりと体が重くなった。


 彼は日当たりの良い場所にある平たい石の上に移動して、翼を広げ、鱗を伸ばした。太陽の熱を宿した石が彼の腹を温めると、内臓が活発に動いて消化を助ける。彼は満足して目を閉じた。




 太陽と共に目覚めて日の当たる場所で体を温め、食事をしながら地を歩き、沈む太陽を見つめて眠る。彼はそうやって日々を過ごした。

 過酷な生活は柔らかな鱗に細かな傷を刻んだが、しばらくすると鱗はめくれ、下から新しい鱗が顔を出した。

 鱗が換わる時期は無性に湿気が欲しくなる。すると彼は森の奥の池に浸かった。初めは魚に襲われたが、気が付けば魚が彼のおやつとなっていた。


 食事の幅は時と共に広がった。小さな虫を食べていたのがネズミを襲うようになり、兎を狙うようになり、今では鹿がご馳走だ。夢中になって食らいつき、温かな血肉を堪能する。己の姿に、時折小さな違和感を覚えた。そんな時、彼は池に身を浸して考え込んだ。

 水面に映る彼の姿は固く鋭い鱗に覆われていた。小さかった角は凶悪な弧を描いて天を指している。口を開けばギザギザの歯が怪しく光った。


 やがて彼は池から出て、巨大な翼を二度三度と羽ばたかせて水を払った。池を覆う草がざわざわと揺れた。

 下草をはじめとする小さな生き物の命を足の裏に貼り付けて、木々の間を窮屈そうに歩き、森の切れ目の岩場に向かう。お気に入りのホットスポットである。日の光を溜め込んだ石の上に腹を乗せ、広げた翼を横たえて、うつらうつらと目を閉じる。


 日光を浴びてカルシウム代謝を行い、熱を吸収して変温動物なりの体温調節をするのである。そんな知識と共に古い紙の匂いを思い出して、彼は鼻の穴を膨らませた。

 あめ色に変色した紙に黒いインクで刻み込まれた文字の列。人の知恵と想像の具現。ページをめくる度に指を刺激する紙の感覚……。


 彼は目を見開いた。縦長の瞳孔が興奮で広がる。おぼろげな追憶の中、ページをめくる彼の手に鱗はなかった。鋭さの欠片もない柔らかな爪と恐ろしく繊細で器用な指……。あの手を持つ生き物を、彼は知っていた。


 興奮に鱗を打ち鳴らす。唐突に記憶が蘇った。そうだ、彼は人間だった。ヴィッチセップ。そう、ヴィッチセップだ。暴れる尾が地面を叩く。彼の名はヴィッチセップ!


 ヴィッチセップは大地にどっしりと被さった自身の前足を見つめる。固く鋭い鱗に覆われた、逞しい前足。黒く固い鉤爪かぎづめは、獣の皮膚を容易に引き裂く。彼は人間ではなかった。


 ひどく混乱して、ヴィッチセップは肩甲骨から生えた翼で、角の生えた頭を抱え込んだ。

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