ショートショート Vol14 八月。逃げ水の向こう

森出雲

八月。逃げ水の向こう

 市内で最後の信号が『青』変わると、車体重量200kgを越える怪物は、ほんの数秒で時速100km以上のスピードに引き上げる。

 蒸し風呂のようなSHOEIのフルフェイスの中は、一瞬の間に『窓辺のテラス』のように、居心地の良さを取り戻し、僅かなシールドの隙間から、緑の香りさえ漂わせた。


 Suzuki GSX1100S 刃

 決して、性能の良いバイクではない。

 『ハンス・ムート』 のデザインを優先するあまり、性能が犠牲にされた感がある。直線では1100ccの排気量にモノを言わせ、馬鹿でかいトルクで易々と200km超まで引き上げるが、残念ながらカーヴでは、その長いホイールベースと軟弱なフレームが災いして、前・後輪が別々に走っているような錯覚を起こす。しかし、それにも増して魅力のあるバイクであることは間違いはない。性能と魅力は比例しないのだ。


 周山街道と呼ばれるこのR162は、京都市内からほぼ真北の日本海の小浜まで続く。

 道路整備が進んだにもかかわらず、道幅の狭いワインディングロードが続く場所も今なお残る。そのためか、利用者も少なく、高速ライディングに適しているのかも知れない。

 京都から京北町、藁葺き屋根の残る美山町へと続き、その後、福井県の大井町から小浜へと入る。R162の周山街道から、小浜でR27を西に、ほどなく日本海に出る。


 ライディングポジションが良く、ボディーを抱きかかえたままハングオンが意のままにできる1100刃は、『曲がらない』 までも、スピードにさえ気を配れば、比較的思い通りに動いてくれる。

 前・後輪新品のタイヤが、真夏の太陽に照らし続けられたアスファルトを見事に掴みトランクションを生み出す。バイクの性能を、高性能タイヤが見事にカバーしている証拠かもしれない。

 ほとんどのカーヴを、思い通りのラインでクリアする。

 ガードレール近くの浮き砂を気にすることもなく、快適に1100刃は走る。緑深い香りとカムシャフトのサウンドが、ソロライディングであることすら忘れさせてくれるようだ。


 京都を出て約40分。

 小浜までの中間地点、美山町に差し掛かる手前で、1100刃をエスケープスペースに止めた。キンキンとシリンダー付近から、エンジンの冷える軋み音が聞こえる。蝉の声と杉林の間を抜ける風とすぐそばを流れる小川のせせらぎだけが、俺と1100刃に語りかけている。

 目的地まで、あと半分。

 残された時間は、一時間。


 二本目のメンソール煙草にジョッポで火をつけ、薄汚れたガードレールに腰掛けた。

『ねぇ、約束忘れるほど、眠い?』

 その日、彼女のそんな一言で始まる電話の声で、俺は起こされた。

「ん?」

『もし、今日が地球最後の日だったら、何も知らないうちに死ぬよ?』

「なんだ? どうした、朝から」

 窓から流れ込んでくる爽やかな風より、カーテンの隙間から差し込む太陽の光が勢力を増し、決して居心地が良いとは言えないベッドの上で、俺はひとつ気だるく伸びをする。

『だから、今日が何日で、あなたがどこに居るべきかって、言ってるのよ?』

 俺は、枕もとの卓上カレンダーを手にとった。

 フリーランスのライターの俺が、すぐに日付を忘れるからと、彼女が銀行から貰ってきたものだ。

『新しい水着と、二人分の宿泊費と、私が無駄に過ごした一日を、弁償してくれる? あ、ワインを二本飲んだからね。それも追加』

 銀行のマークの入った卓上カレンダーをもとの場所に置いて、深呼吸を一度だけする。

「何時?」

『今? いまは……』

「違う。帰りの汽車」

―― 汽車は、変だよな?

「あと、何分そこにいる?」

『ちょっと待って……。えっと、小浜を10時42分だから、あと2時間くらい?』

「待ってろ」

『え?』

「地球最後の日に、お前を怒らせたままなのは、ちょっとな」

『ここで?』

「ああ、服を全部脱いで、もう一度ベッドで寝てろ」

『……うん。でも、10時30分までよ? チェックアウトだから』

「分った」

『ねぇ?』

「なんだ?」

『私、白雪姫?』

「まぁな」

 銀行のマークの入った卓上カレンダーに、赤丸が付いていた。


 二本目のメンソール煙草を、薄汚れたガードレールに押し付けて消す。

 バッグから、ボトルタイプのミネラルウォーターを取り出し、残りの半分を一気に飲み干す。空のボトルを握りつぶし、そして栓をして、バッグに戻す。

 杉林の木漏れ日が、メタリックシルバーのタンクに跳ね、キラキラと輝く。フルフェイスを被り、シールドを引き上げる。スピ―ドメーターの下に押し込んでいた、カンガルー皮製のグローブをはめ、輝くタンクに触れる。


 ほんの数分前までの熱を帯びた感触ではなく、ほんのりと温かい程度。

 1100刃にまたがり、サイドスタンドを起こす。キーを差込み、左手のクラッチレバーを握り、右手のセルスイッチを押す。一瞬ののち、1100刃の心臓は低い息吹を発し、再び蘇る。4-1の集合管がら、微かに生焼けのガソリンの匂いが漂う。ハンドルから両手を離し、グローブをはめ直す。カンガルーの皮が手の平にしっくりと、気持ち良く吸い付くのが好きだ。

 ゆったりと身体を前傾させ、肩の力を抜きセパレートハンドルを握る。クラッチを握り、チェンジペダルを踵で蹴り込む。乾いた『カシャン!』 と比較的大きな音を立て、1stにギアが入る。ズズズズッと低音で響くアイドリングが、ほんの僅かアクセルを煽るだけで車体もろとも身震いをする唸りに変わる。


 人差し指と中指で握るクラッチを、低めの回転でつなぎ、アクセルを開く。俺を含めて300kgを超える車体は、やすやすとアスファルトの路面に滑り出し、3rdギアに入る頃には、時速100kmを越す。杉林がトンネルのように流れ、往復二車線の道が、5thギアに入るとタイトロープのように細くなる。


 美山町の中心部にかかる由良川の橋をすぎ、突き当たりの信号を左に曲がる。僅かな、アスファルトのわだちに後輪がバンプし、グリップを失ったタイヤが簡単にスライドする。ハングオンのまま、構わずアクセルをあけると、新品のタイヤは容易く火照ったアスファルトを捕まえた。

 由良川沿いにしばらく走ると、またR162は山間部に入って行く。

 京都と福井の県境の堀越トンネルを抜け、R27に入った時、時計の針は、10時5分をさしていた。


 目指すホテルまでほんの数分。

 シールドを引き上げ、看板を探しながら、ゆっくりと走る。

 海を右に見ながら、緩やかに左にカーヴするその先に、目指すホテルが反対車線に建っていた。ウインカーを点滅させ、センターラインに近づく。トラックと何台かの乗用車をやり過ごし、ホテルの敷地内に入った。

 入り口ゲートをくぐるとロータリーがあり、その右側奥に駐輪場が見える。アイドリングのまま、ゆっくりと駐輪場に1100刃を入れ、エンジンキーをOffにして抜いた。

 フルフェイスを脱ぎ、汗で湿ったグローブとエンジンキーを中に放り込む。気づかなかった、海の匂いが、突然鼻をくすぐった。


 白いTシャツの方袖を捲り上げ、ホテルの入り口ガラスドアを通った。

 ロビーは、予想以上に冷えた空気で満たされていた。折角の海の香りも、効きすぎのエアコンに消されている。

 ロビー正面にカフェがあり、その向こうに砂浜が見える。

 プライベートビーチなのか、カフェにも水着姿の男女が座っている。右側の壁際にフロントがあり、品の良さそうなホテルマンが俺を見て微笑んだ。笑みに誘われるように、カウンターに近づきフルフェイスを置く。

「あの、すみません」

 ホテルマンは、笑顔で彼女の部屋の番号と、エレベーターの場所を教えてくれた。


 J-ポップの流れる廊下を歩き、エレベーターに乗る。⑦と書かれたボタンを押し、壁に貼られたポスターを見た。最上階のラウンジ、海の見えるレストラン、オープンカフェに地下のバー。幾分色あせた案内が、エレベーターの到着まで、時間をつぶしてくれる。

―― チン!

 奇妙な到着合図と共に、ドアが開く。何故かレンジの出来上がりの音と同じだ。

ロビーに比べて、僅かにエアコンの効きが悪いのか、汗をかいた身体にはちょうど良い。

 エレベーターを降りると、目の前に自動販売機があり、缶のコーラを二本買う。それを、フルフェイスの中に放り込む。

 廊下の壁には、国道側の右に「→ 701~707」、左の海側に、「← 708~712」と記されていたプレートが嵌められてあった。

 コーラの入ったフルフェイスに右手を通し、左へ進む。いくつかのドアがあり、一番奥の712のプレートの前で止まる。深呼吸を一つして、フロントのホテルマンから借りた合鍵でそっとロックを外した。

―― カチッ

 静かにドアを開け、部屋に入る。空調の唸る音が微かに聞こえる。

 フルフェイスを、窓際の椅子の上に置き、時計を見た。

 10時15分

 静かな寝息を立てる真っ白なシーツの膨らみ。

 入り口横のバスルームのドアを開け、静かにジーンズとシャツを脱ぐ。

 バスタブに入り、Coolと書かれたコックを開く。火照った身体にはちょうど良い冷水を頭からかぶる。


 置いたままの、彼女のシャンプーで髪を洗い、彼女の石鹸で身体を洗う。最後に再び水を浴び、彼女の使ったバスタオルで身体を拭く。いつもの彼女の匂いが、ほんのりと香る。


 バスルームのドアを少し開け、耳を澄ませる。部屋に入った時のまま、規則正しいリズムで、聞こえる寝息。

 フルフェイスの中に入れた缶のコーラを取り出し、サイドテーブルに置く。そして、もう一度、時計を見る。

 10時25分。

 腕時計を外し、サイドテーブルに置き、静かにゆっくりとシーツを捲る。

 背中から尻にかけて美しいカーヴを描く素肌の彼女が、そこにうつ伏せで眠る。起こしてしまわないように、そっと横に潜り込む。

 頬にかかった、彼女の髪を指でよけ、そっとKiss?

「遅い!」

 彼女は、大きな丸い目を開けた。

「あと、2分でチェックアウト」

「大丈夫、白雪姫の眠ってる間は、時間が流れないから」

 彼女は、首を小さく傾げる。

「……?」

「もう一泊、フロントでしてきたからね」

「ふーん。じゃ、おニューの水着は無駄にはならない?」

「勿論」

「私の昨日は?」

「今から、始まる」

 コーラを彼女に一缶渡す。

「何にカンパイ?」

「目覚めた、白雪姫と」

「と?」

「地球最後の日かな?」

「今日が、その日でも一緒?」

「だから、死ぬ気で来た」

「ありがと」

「うん」


 窓の外は、真夏の海。

 きらきらと、きらきらと、輝く海。

 まだ、地球最後の日には程遠いようだ。



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