二十五 星の友情

 ――そしてしばらく後。

 エリーザベトは年が明けた頃にはまた活力を奮い立たせて活動を再開させた。彼女が第一に取り組んだのはドイツじゅうに知れ渡った新ゲルマニアの「よくない噂」に反撃するための著書の執筆だった。

 数ヶ月で書き上げた反論の書『ベルンハルト・フェルスターの植民地・パラグアイの新ゲルマニア』の中で彼女は、新ゲルマニアについてマスコミが広めた悪い情報の全ては悪辣な虚偽であり、じっさいのパラグアイは気候もよく農作物の収穫は安定した素晴らしい国でありいまや人々はドイツ本国にいた頃よりはるかに健康で真のドイツ人らしい生活を送っている、亡くなったり帰国した人が出たのは事実だがそれは彼らの素行の悪さこそが大きな原因であった、ことに大変なうそを新聞に売りつけたクリングバイルという男は悪質で天性の詐欺師か運悪く紛れ込んだ精神異常者、あるいはイエズス会のスパイである可能性が高く、そんな者の話を真に受けるのは愚かしいことだ……と苛烈な攻撃を加えた。

 一方でフェルスターに対しては「生まれながらの開拓者でありイエス・キリストとアーリア人種の理想イメージが重なり合った英雄的男性」としてほとんど神格化したような記述を重ね、「一部の卑怯者たちの陰謀と不義が彼の精神と心臓を傷めつけ続けた末に遂に命を落とした」悲劇的な最期だったというのが唯一確かな事実であり、自身は一人のか弱い女に過ぎないがいまや覚悟を決めて夫の名誉と理想を傷つける卑怯な報道に抗議するために戻ってきたのだ……と語った。一連のスキャンダルへの興味によって彼女の著書の売れ行きは好調だったがすでに帰国していた元新ゲルマニア住民や新聞社からは当然のごとく猛反論を受けた。

 おそらく彼女はそれらの反応を意図的に無視することを決めたうえで出版直後から自身の講演会を各地で開き、新ゲルマニア再建のための寄付を募りながらドイツじゅうを飛び回る日々を送っていた。ある日はベルリン、ある日はバイロイト、その翌日はライプツィヒという調子で彼女が一ヵ所に留まっていることはほとんどなかった。これはけっきょく成功しなかったが彼女はビスマルクと皇帝に自ら謁見して援助を願い出る計画まで立てたという。


 しかしその精力的な活動にも関わらず、新ゲルマニア奪還計画の実際の進捗は彼女の見込みをずっと下回ったままだった。

 端的にいって彼女の事業はいまや時代遅れとなっていたのだ。十九世紀最後の十年における経済繁栄と安定の時代の到来はドイツ大衆が長い間抱き続けてきた反ユダヤ主義というとてつもなく古い怨恨への関心を急速に薄れさせつつあった。反ユダヤ主義者は求心力を失い、バイロイトの著名人さえ「転向」を表明する体たらくだった。

 この時期にエリーザベトは『バイロイト新聞』への寄稿記事を書き、それは新ゲルマニアの窮状を訴えて援助を請う内容だったが、散々持て囃しておきながらいざという時に力を貸さない反ユダヤ主義者たちへの恨み節も少なからず感じさせる檄文になっていた。


〝反ユダヤ主義者のみなさん、最も理想的な指導者の事業を見捨てるという恥知らずな振る舞いが貴方達にとっての誠実さですか? 勇敢さですか? ……反ユダヤ主義にはとりわけ明確な一面があります。それはアーリア人の特性と高貴さを守りたいという思いであり、真のドイツ人らしさが外国に侵されることのない社会を創造したいという熱意です。……私の夫はいったい何のために斃れたのでしょうか? 今こそ新ゲルマニアという真のドイツの伝統を取り返す戦いに力を貸すことで、反ユダヤ主義の理想と誠実さを証明してください。〟


 自分が不在の数年間のあいだに祖国の空気が大きく変わっていることにエリーザベトもこの頃には気がついていたに違いない。抱いた信念に時代が背を向けたことを認めないわけにはいかなくなっていた。失望は大きく、彼女が抗えば抗うほどブルジョワ社会は彼女を嘲笑うように冷遇した。そして引き継いだ事業の負債と責任が重くのしかかり続けていた。

 一方で彼女が確実に気づいていたことがもう一つあった。二十世紀間近の――彼女の兄が汚らしい奇形の群れとまで罵ったあの――大衆社会の真っただ中で、彼女の理性がずっと無価値だと見なしていたものが黄金へと変わりつつあることに。


                 ◆


 1891年の半ば――ようやく春らしくなったばかりの頃。何度目かの陳情旅行も不首尾に終わったエリーザベトはさすがにうんざりした気持ちでナウムブルクへと舞い戻ってきていた。地方貴族ユンカーはまだ同情的だったがベルリン財界人たちの「反ユダヤ主義の有名人」への拒絶反応は本当に露骨で、彼女が新ゲルマニアの理想を熱弁すればするほど面談すらほとんど叶わなかった。

 自分たちの理想はいまやすっかり否定されてしまった――屈辱感を抱いたまま重い足取りで実家まで帰ってきたエリーザベトはふと足を止める。

 実家からピアノの音色が聞こえてくることに気がついたのだ。誰かがショパンの舟歌バルカロールを弾いている。母にあんな難しい曲が弾けるはずがないし兄だとも思えず、エリーザベトは訝しんだ。

 帰宅しても出迎えもなく、ピアノの置いてある客間へエリーザベトが向かっていくとそこには母と兄とアルヴィーネがいて――彼女がひどく驚いたことは、兄がピアノの演奏に合わせるように踊っていたのである。

 ニーチェの身体は滑稽によたついていたがそれでも流れるようなステップを踏み、一心不乱に踊り続けていた。母は座椅子に腰かけて微笑を浮かべながら踊る息子を見つめていたし、エリーザベトはピアノを弾くその男の後ろ姿にも見覚えがあった。

 気配に気がついたのかピアノを弾いていた男の手が止まり、振り返って彼女の方を見た。

「エリーザベトさん! パラグアイからお帰りになっていたんですね」

 男はやはりニーチェの一番弟子を自称するペーター・ガストだった。ガストは柔和そうに微笑みながら歩み寄り、十年以上ぶりに再会したエリーザベトと握手した。

「ありがとうございます。事業再建のための一時帰国ですわ」

「ああ、その、ご主人の自殺の件は新聞で読みました。ええと、なんとお悔やみを言ってよいか……」

「いいえ。主人の死は不幸な事故ですわ。それは悪質なデマゴーグです」

 エリーザベトが手を握ったままじろりと睨んで訂正するとガストは一瞬面食らった様子だったが、すぐに「なるほどよく分かりました」とだけ答えて話を切り替える。

 ガストは辺りを見回して部屋にいる全員の顔を見た。エリーザベト、フランシスカ、アルヴィーネ、そしてニーチェ。彼はピアノの音色が止んだ途端に他者への関心を失ってしまったようで、今では絨毯の上にじかに座って自分の指の数を気難しい表情でかぞえていた。その姿を見たガストは一瞬だけひどく悲しそうな顔をしたが、すぐに感情を噛み殺して話を切り出す。

「お母様には前にもお話したのですがますますちょうどいい。エリーザベトさんにも聞いていただきたいのです。この提案、貴女にならきっと賛成していただけると……」

 席についたガストがそう前置きしてから大きな鞄をまさぐり始めるとフランシスカが珍しく露骨に不快そうな表情を浮かべたのにエリーザベトは気がついていた。そうしてガストが油紙の中から丁寧に取り出した極めて乱雑な文字が書かれた原稿用紙を見たとき、彼女は思わず驚きの声をあげた。

「――フリッツの文字!」

 一目見てほとんど直観的に分かったがそれは間違いなく兄が書いた文字だった。ずいぶん昔、バーゼルで彼の文章の清書を手伝っていた自分だからこそ分かる兄の文字のくせがそこにはありありと現れていたのだ。

「さすがエリーザベトさんだ。先生の悪筆をすぐ判別できるのはたぶん私と貴女だけですよ……これは先生が遺された遺稿ナハラスなんです。幸運なことに大部分が保管されているんです! ――先生が斃れたと知った時にオーヴァベック氏が誰よりも早く動いてくれていたんですよ。トリノだけじゃない、ニースやジェノバにあった先生の別荘にも行って残されていた遺稿の大部分を回収してくれたんです。

 じつをいうと、私はこれら遺稿を元にしてニーチェ全集を作りたいと考えるようになりました」

 興奮した言葉遣いで語られるガストの話をエリーザベトはなかば唖然として聞いていた。兄が何冊も本を出してきたのは知っていたが、遺稿の存在など考えたこともなかった。手渡された原稿用紙に目を遣ればどれにもびっしり字が書き込まれている。古典からの写しもあれば手紙の下書きらしきもの、途中で諦めたらしい詩や日常の単なるメモ書きまで。非常に雑然としているこの紙切れの束こそが、見ようによっては整頓の不得意だった兄の人柄そのもののようにも思えた。

「今回は持参しませんでしたが、中にはほとんど完成原稿としか思えないものまで在ったんですよ。印刷所に持って行けばそのまま本にできそうなものまで!」

「だけど、ガストさんも兄の現在の状態はご存じなのでしょう? いくら以前に書いた原稿が残っているといっても、書いた本人が何もできないとなると……」

「たしかに今の先生にはもう書くことも編集することもできないかも知れません。ですがエリーザベトさんもご存じのように先生は今まで多くの文章を書いてきて、その多くは誰にも認めてもらえなかった……出版社に販売を拒否された原稿もある。私はこれらを世に出したいと思っているんです。私とオーヴァベック氏とで時間を作って何年かけてでも編集して、どれだけ赤字になろうとも刊行する覚悟でいます」

 鼻先まで赤くして熱っぽくそう断言したガストの気迫にエリーザベトは驚き、それから訝しみながら見つめた。十数年ぶりに再会したがガストはあいかわらず莫迦正直を絵に描いたような男で、極めて真摯にその計画を語っていることはすぐに分かった。だから余計にその真意を問わずにはいられなかった。

「いったいどうして? 何がそこまでアナタを駆り立てているの?」

「それは……」

 その時、今まで沈黙を守っていたフランシスカが口を挟んだ。

「いいかげんにしてください。今日は単なるお見舞いということだから貴方をお招きしたんです。その話は以前にもお断りしたはずです」

 フランシスカの話し方はあくまで静かで控えめだったがそれは有無をいわさぬ拒絶と怒りの態度だった。しかしガストも引き下がらない。

「諦めきれないからまた参ったんです。この事業は私とオーヴァベック氏の私費でおこなうつもりです。ニーチェ家の皆さんには一切ご迷惑かけません。ただ、今や先生の法的後見人はお母様で、どうしても許可が要るんです。それだけで良いのです」

「どれだけ頼まれてもお断りします。私は息子の書いたものが世に出るべきではないと考えていますので」

「……どうしてですか?」

「神や道徳を否定するひどく恐ろしいことをたくさん書いている。それ以上の理由が必要ありましょうか? 私には息子の名誉を守る義務があります」

「名誉? 名誉ですって?! 先生が血を流し身悶えしながら書いた言葉を……先生の哲学をこの世から無かったことにしてしまうのが……名誉ですって?!」

 かっとなったガストの詰問を無視するようにフランシスカはゆっくりと立ち上がり、床に座ったまま自分の指の数を一心不乱に何往復もかぞえ続けている息子の傍に行く。彼女がその肩に手を置いてもニーチェは気にも留めなかった。

「息子は不幸でした。父親を早くに失い、弟を失い、病気がちで世間の人々ともうまく渡り合えず苦しんでいました。私は何もしてやれなかった親でしたが、今となってはもうこの子が天に召される日までできるだけ静かに過ごせるよう守ってやる以外ないと思っています。病気のこの子を今さら世間に晒すなんてとんでもないことです」

 痩せこけた小柄な母親はそれまでになかったほど強い調子でそう云い放った。それは自分の子供を庇おうとする母親としての本能かも知れなかったし醜聞と禁忌タブーを何より恐れる老人の保身かも知れなかった。それが何に突き動かされたものだったにしても、忍従ばかりが取り柄だった母親が明確に拒絶する姿をエリーザベトは初めて目にした。

アンチクリストの著者の鍵を握っているのが敬虔な牧師夫人だなんて、まったくひどい冗談だ……」

 とりつく島もない反応に憔悴したガストは髪を掻きむしりながら思わずそう呟いたが、老いた母親は歯牙にもかけない様子だった。

「それが用件だったのならおかえりください。貴方の考えていることは私には理解できません。――この子はこれからもずっと私の息子です。リースヒェン、その方を駅まで送ってきておくれ」

 フランシスカはそう言うと息子の手を取り、女中の手を借りながらなかば強引に立たせて部屋から連れ出そうとした。ニーチェの方はされるがままに手を引かれて歩いていたが急に足を止め、きょとんとした表情を浮かべたままこう口にした。

「マダム、いったい彼は何をしに来たのですか?」

「気にしなくっていいんだよフリッツ。お客さんの用は済んだんだ。さあ、お部屋に戻ろうね」

 フランシスカがなだめすかしてまた歩かせようとしたがニーチェは動かない。そればかりか視力の悪い目をしぱしぱさせながらガストの顔を見つめ「僕はあの人を知っているような気がするのですが……」と気がかりそうに呟いたのだ。

 その反応にガストは目を輝かせて喜んだ。狂気に侵されて以来すべての記憶が錯乱したという彼が自分のことを覚えていたとしたら、それ以上の親愛の深さの証明はないように思えたからだ。

「先生、私です! わかりますか! 貴方の弟子のケーゼリッツ! ……いやペーター・ガストです! 貴方にいただいた筆名なんですよ!」

 ガストが思わず口走った言葉を聞いたニーチェはほんの暫くの間何か考えているような表情を浮かべたが、すぐにこめかみを押さえて頭を俯かせてしまった。

「君が誰なのかどうしても分からない。いいや。僕のまわりにはまとわりついた人間や手先の器用なだけの人間はうようよしていたが……なぜなら僕は十字架にかけられた者でありディオニュソスであったから……だとしたら僕は血をいっぱい吸った蚤の汚らしさに唯々辟易する一柱の神だ……なあきみ、神も倦むのを知っているか?」

 彼が口走ったのはけっきょく何の意味もない言葉の羅列で、顔を紅潮させたフランシスカが強引に手を引いてニーチェを連れていく。ニーチェもおとなしく引かれて部屋を出ていったが、去り際に喚き散らした言葉がかろうじて聞こえたのだった。

「僕の友人たりえたのは……ワーグナー、あとは……ルーとレー……」


                 ◆


 客間に残されたガストとエリーザベトはしばらくの間呆然としていたが、やがてガストはがっくりと力が抜けたようになって再び椅子に座り込んだ。落胆ぶりは大きくその顔はほとんど青ざめて唇を震わせていた。

「無理もない話ですわ。最近ではフリッツはもう母を見ても私を見ても誰なのだか思い出せない様子なので……」

 エリーザベトはそう言って慰めたが彼のショックの受け方を不可解に思ったのか、「ルー・ザロメやパウル・レーと何かあったのですか?」と探りを入れるように尋ねた。ガストは気の毒なほど狼狽しながら顔をあげたが、やがて観念したように口を開いた。

「そう、パウル・レーとのことなんです。私は先生を裏切ってしまったんです。先生が誰よりも〝人間的なもの〟に飢えていることを知っていたのに、私は先生がそれを取り戻せる機会を奪ったんだ」

「……どういうこと? 良ければ聞かせてくださるかしら」

「私は数年前にレーと会ったんです。彼から訪ねてきたんです。ひどく傷心していて先生に会って謝罪することを求めていたんですが、その時は反発の情に駆られて取り合いもせずに追い払ってしまった……」

 一度話しはじめるとガストは堰を切ったように言葉を吐き出し続けた。もしもあの時彼を再び先生に引き合わせていたらどうなっていただろうか? 先生が求めていたものを彼ならば与えられたのではないか? 彼が戻って来てさえいればあんなことにはならなかったのではないか?

 嗚呼。先生はたった今まとわりつくばかりの人間、手先が器用なだけの人間と蔑んだ呼び方をしたではないか。自分の存在は先生にとってはけっきょくその程度だったのではないか?

 ガストはなかば促されるように己の中で渦まいていた罪悪感を吐露し、エリーザベトは傍に立ったままその告白を聞いていた。まるっきり牧師の前で行う懺悔だ。ほんの一時だけ考え込む風な仕草をした後、ガストの肩に手を当ててこう述べた。

「アナタは間違ってなんていない。フリッツの周りからユダヤ人を遠ざけたのはだわ。きっと彼は道を誤らずにすんだはずよ。――だいたいレー博士は彼を苦しめた張本人ではないですか。許されてよい人間なわけがないし、きっと私だって同じことをしましたよ。アナタにはなんの責任もありませんわ」

 彼女が筋金入りの反ユダヤ主義者であることを思い出したガストは内心気が気ではなかったが、それでも自分の中の負い目を許され肯定されることは少なからず安堵をもたらしたのだった。

「すみません、おかしなことを話してしまって……いまの先生の姿を見るとどうしても考え込んでしまいます。自分はいったいどうするべきだったのかと」

 少しばかり落ち着きを取り戻したガストはともかく礼を言ってテーブルの上に出しっぱなしになっていた遺稿を片付けようとしたが、その時ふとエリーザベトが遺稿に目を遣っていることに気がつく。彼女がぽつりと口を開いた。

「Wille ...zur Macht...」

「どうしました?」

Wille zur Macht…力への意志……兄はここにそう書いていますよね?」

 エリーザベトが指し示した一枚の原稿にはたしかにそう読める文字が書き込まれていた。

「ええたしかに。先生の原稿の中には度々その概念が出てきます。あまりに説明不足で、はっきり言って私にもよく分からない言葉なのですが」

「でも、とても魅力的で目を引く言葉に感じます。なんというか、人の持っている力強さと気高さの根源をたった十三文字で言い当てているような……」

 エリーザベトは原稿を眺めながらうっとりとした様子で言葉を続けていたが、急にふと何かを思い出したような顔をするとガストに少しだけ待つよう伝えて部屋を飛び出して行った。じっさい彼女はほんの数分で戻ってきたのだが、その手にはちいさく小綺麗なクッキーの缶箱が握られていた。

 不可解に感じたガストがそれについて尋ねると彼女は「子供の頃の私が宝物入れに使っていた箱です」と語り、その蓋を開けてみせた。中には色褪せた紙切れがたくさん詰め込まれており、どれもこれも丸っこい字や絵が描かれていたのである。

「幼い私はフリッツが何かを書いた紙を宝物だと思って拾い集めるクセがあったんです。彼が書いた詩とか単なる落書きまで、クッキーの箱いっぱいになる量をいくつも集めて……大きくなると恥ずかしいから捨てるようにと頼まれましたがどうしても処分できなくて……彼の字を見ていたらそのことを思い出したんですよ。じつに懐かしい気持ちになりました」

「とすると、フリードリヒ・ニーチェの最初の信奉者はやはり貴女だったというわけですか」

「ええ、その通りですわ」

 そう言うとエリーザベトは可笑しげに微笑み、ガストもそれにつられるようにして柔らかい笑みを浮かべた。すると彼女は不意に上目遣いで彼を見つめ、こう告げたのである。

「私はガストさんの提案に賛成の気持ちですわ。思い出の宝物を見て確信しました。兄の言葉を葬り去るなんてとんでもないことだと思います。絶対に進めていくべきです」

「ありがたい言葉ですが、お母様の同意が得られなければこの原稿も世に出る機会はないでしょう。先生の法律上の保護者ですから……」

「母のことは任せてくださいな。私から根気強く話せばきっと分かってくれるはずです、家族ですもの。それに……」

 そう語る彼女はいつの間にかガストの手を握っていた。手袋越しでも分かる体温はエネルギーを感じさせるほど熱く思えたし、その大きな瞳でじっと見つめられると射すくめられたような気持ちになることにガストは内心ぎょっとしていた。彼女の青い瞳までがいまや熱を放っている気がしたのだ。

「私はこの数ヶ月間、ベルリンはじめドイツじゅうの街を飛び回りました。そして私に向けられる人々のまなざしから否が応でも気がついたんです。いまや私や夫の名前より私の旧姓に結びついた名の方がずっと人々の注目を浴びている――みんながフリードリヒ・ニーチェの存在に気がつき、彼の言葉に耳を傾けたがっているんです」

 そう語るエリーザベトは相変わらず笑っていた。ほとんど恍惚にひたるような微笑み。そして彼女の言葉はじっさいその通りだった。

 じつに皮肉なことに彼女の兄の名は発狂して再起不能というスキャンダラスなニュースが知られるとともに国内で有名になり始めていた。生涯を孤独の中で過ごしたの言葉こそを大衆はこぞって知りたがっていた。フランシスカがおぞましく思い避けさせようとしていたのはまさにこの好奇の目に対してだったのだが……。

「ですが貴女はまたパラグアイに戻るのでしょう? ご亭主の仕事のために……」

「ええ。だけどすぐにまた戻ってきます。今日のアナタの話を聞いて、私の第二の使命は今やパラグアイではなく兄の元にあるんだと確信したんです」

 彼女がそう告げた瞬間、窓から差し込んできた日差しがエリーザベトとガストを照らし出す。その明るさがかえって二人にかかった影を色濃くする。

「ですがこの仕事にはほんの少しだけこまやかな気遣いが必要になると思います。あの頑迷で臆病な母を納得させるにはあるていどの手心も必要になるでしょうし……まずは易しい言葉で分かりやすくフリードリヒ・ニーチェの教えを説くこと。そして何よりフリッツが私たちの祖国ドイツを心から愛していた点を強調すること……そして不穏当な表現には何よりも注意するべきです。彼一流の激しい言葉遣いは時に誤解までも生んでしまいますから」

 彼女の言葉には熱気がこもっている。しかし同時にきな臭ささえ放っている気がした。何かが違う。何かをかけ違ってしまったようなひどい胸騒ぎをおぼえる。その感覚にガストは心臓まで凍り付きそうな気持ちになりながらかろうじて尋ねる。

「エリーザベトさん、貴女はどうしてそこまで……」

「ガストさんがここまで献身的になってくださるのは、兄のことを愛してくださっているからでしょう? 同じですわ。私もやはり、兄を愛しているからですよ」

 不安感に震えあがりそうになっているガストとは対照的にエリーザベトはじつに堂々とそう答え、少女時代の宝箱の蓋を丁寧に閉めながらこう続けた。

「世界はまだ私たちのフリッツのことを何も知らない。だから語らないといけない。彼がいかに偉大な人物だったのかを。じつは過去の私が切々と残したものを見てほとんど電撃のように直感したんです。もしかして私たちはフリードリヒ・ニーチェの教えを人々に伝えていく運命なのではないかしら……」

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