二十四 ヴィルト・ヤークト(後編)


 ――1890年12月。ドイツ・ナウムブルク駅。

 クリスマス前のくすんだ空に雪がぱらつき空気は凍てつくように冷え込んでいる。六十四歳のフランシスカ・ニーチェは長い外套を着込んでホームに立って汽車の到着を待っていた。

 彼女は一人で待っているわけではなく息子と一緒だった。彼女の四十五歳になる息子は今ではすっかり従順になり、母親と腕を組んで耐え忍ぶようにじっとしていた。

 自分よりだいぶ大きい息子の横顔をフランシスカはふと見上げる。息子の目つきはうつろで、振り続ける雪をぼんやりと目で追いかけているように見える。ずっと頭が小刻みに揺れているのはおそらくはそのせいで、だらりと垂れ下がった口ひげに雪が霜のように積もっていたがそれを気に留める様子もないようだった。

「フリッツ、顔をよく見せて」

 彼女が穏やかに呼びかけると息子は素直に応じて大げさなくらいにその顔を近づける。フランシスカがハンカチでひげを拭ってやるとはじめはびっくりしたように身をよじらせたが、雪を払い落としてやると可笑しそうに顔を歪めてまるで赤ん坊のように笑った。

 その屈託のない――なさすぎる笑顔を見たフランシスカは返すように微笑んで、「お前はよい子だね」と告げる。しかし言い終える頃には息子は既に興味を失ってしまったようで、また降ってくる雪を眺めては頭を揺らしているのだった。


 列車が少し遅れて駅に到着する。既にクリスマス休暇は始まっていたのでこの時期に降りてくる乗客はまばらで、真新しい黒色のコートと帽子をまとっているその待人がホームに降りてきたのはすぐに見つけられた。

「――お母さん!」

 フランシスカが声をかける前に感極まった娘の方が呼びかける。娘はおもわず引いてきたキャリーを放り出して駆け出し、そのまま小さな母親の手を握りしめた。

「お母さん! 私よ、帰ってきたのよ!」

「嗚呼、嗚呼、よく帰ってきたね……寒くはないかい?」

 フランシスカは娘――エリーザベトの背中をぽんぽんと叩いてやりながらそう言葉をかける。

「すごく寒い! ドイツってこんなに冷えたのね」

 そう答える娘も母も鼻先が赤くなっていたが勿論寒さだけが理由ではない。フランシスカの方はすでにこらえきれない様子だった。

「ほらフリッツ、」

 ほとんど鼻声のままフランシスカは腕を引かれた格好のまま突っ立っている息子に声をかける。

「リースヒェンが帰ってきたんだよ。わかるかい?」

 そのまるっきり小さな子供に向けたような言葉遣いにエリーザベトは息を呑んだ。とっくに分かっていたことだが、そこに居るのは間違いなく兄――フリードリヒ・ニーチェであった。彼女が誰よりもよく知っていた兄その人だ。だけど何もかもが変わっている。いまでは子供みたいに母の腕にしがみついているし、たいていは不機嫌そうにしわがよせられ、ほんの時々は機嫌がよさそうに上がっていたあの眉間が今ではだらしなく弛緩している。目つきもひどくうつろだ。誰かの顔を見ようとするとひどい近眼で睨みつけるようになっていたのに今では一切注視していないように思え、ぼんやりと母と自分の間にある虚空だけに視線が向いていた。

「フリッツ兄さん、私よ。リースヒェン……わかる?」

 エリーザベトはできるだけ兄の視線上に入り込むように顔を見せながらおずおずとそう尋ねた。すると話す彼女の口元や目を何度も交互に見つめ、初めて少しだけあの睨みつけるような目をした。そして小声だがたしかに「ラーマ」と呟いたのだ。

「――お母さん! 兄さんが私を覚えているわ」

 エリーザベトは一瞬だけ母と目を合わせ、それを聞いた母が泣いているのを見た。彼女もこらえきれなくなって兄の大きな身体にすがりつき、声を上げて泣いた。女たちが泣きじゃくる様子をニーチェだけが困惑したように見つめ、その手だけは帽子ごしに妹の頭を意識せずに撫でつけていた。


 その日の晩。エリーザベトは本当に久しぶりに家族といっしょに夕食をとった。並んで台所に立つと母親が昔より小さくなっていることに気がついてエリーザベトは驚いたが、そう感じたのは母の腰が曲がってきているためだった。

 兄はテーブルについた後は声をかけてもほとんど無視してスプーンで食事をしていたが、かと思うととりとめのない話をいきなり喋り出すことがあった。話す内容は大抵何十年も前の出来事かでそれも脈絡なくどんどん移っていくという具合だったが、食事中にも関わらず母はその話を丁寧に聞いては相槌をうったり頷いてやっていた。その何もかもが本当に初めて見る光景だった。

 夕食が済むと昔から家に仕えていたアルヴィーネという女中が兄を二階の寝室へと連れていった。今では日が暮れたら兄はもう寝る時間なのだという。ともかく母娘はこれでようやくゆっくりと話す時間が持てた。

「今日のフリッツはとても機嫌が良かったよ。きっとお前が帰ってきたことを喜んだんだろうね」

 淹れたばかりの紅茶を持ってきたフランシスカがカップを渡しながらそう言った。たしかにエリーザベトが見た限りでは兄の様子は想像よりずっと穏やかだった。

「精神病院に入れられたと聞いた時はどれだけ酷いことになったんだろうと心配だったけど、思っていたよりずっと元気そうで安心したわ」

 落ち着きのない挙動とうまく嚙み合わない会話にはやきもきさせられたが、それが半日見ていての正直かつ率直な感想だった。

「最初の頃より落ち着いてくれたんだよ。時々は私のことも思い出してくれるし、元気な日には普通の人のように話ができる時もある。このまま元に戻ってくれたらどんなに嬉しいだろうと思うけど……」

「きっと元気になってくれるわ。兄さんは強い人よ」

「リースヒェン、お前も向こうでずいぶん大変なことがあっただろうによく帰って来てくれたね。いろいろなところで話を聞いては心配していたんだよ」

「ありがとう。夫が先立ったのは今でも本当に残念ならないけれど、心配はしなくて大丈夫よ」

 紅茶の香りだけを嗅いでいたエリーザベトはけっきょく口をつけないままいったんカップを皿の上にもどし、それからこう続ける。

「本当のところ、新ゲルマニアの事業はいまとても順調に進んでいたの。野菜は豊作が続いていたし、サトウキビの生産も黒字化の目星がついてラム酒製造の計画が出ていたくらい。まだ口外はできないけれどじつは貴族の方々からも移住の打診が来ていたくらいで……」

「ええ?」

 エリーザベトが語る事業の話にフランシスカは怪訝そうな顔をして口を挟もうとしたが、彼女はそれを予期していたかのようにそのまま言葉を遮って続ける。

「お母さんはやはり間違った話を信じさせられていたようね。ユダヤ人と自由主義者の新聞がいつまでもデマゴーグで私たちを攻撃しているの。彼らが一部の離脱者に都合のいい証言をさせて私たちの事業を妨害しようとしているというのが真相よ」

「……そうなのかい?」

「そういうひどい誤解を払拭するために私は戻ってきたの。帰国前に送った手紙でとりあえずバイロイトとベルリンの政治新聞に私の反論文を載せる約束を取り付けたから、明日以降執筆に取りかかるつもり。たぶん近いうちに直接ベルリンに行くわ」

 一切動じる様子もなくそう断言されると世事に疎いフランシスカにはもう分からなくなってしまう。しかし娘が語った今後の見通しには反発せざるをえなかった。

「なんだって? ベルリンへ? もしかしてお前、まだ政治だとか植民地だなんて話に口を出すつもりなのかい?」

「当然よ、私は負けられないの――私たちの国を取り返すまでは辞められないわ。新ゲルマニアをいま名義上仕切っているのが誰だかご存じ? ドイツ人以外の人種のほうがずっと多い! イギリス、イタリア、スペインにデンマーク人よ。アーリア人のための新天地が外国人に支配されるなんて……こんなひどい侮辱ってあると思う?」

「そんな今さらお前、何を言って……」

「お母さんには分からないの? 私は夫の無念を晴らしたい、ただそれだけなのよ」

 そう言うと彼女は苛立ち始めた自分の感情を抑制するかのように小さく息をついたのだった。


 ――そう、エリーザベトの孤独な帰国は決して悲観や失意とともになされたものではなかった。1889年末に百四十家族の入植が達成できなければ全ての財産と権利はパラグアイ政府に譲り渡される……この無謀な契約は当然ながら達成することができなかった。彼女の夫はその期日が来ることを恐れて早々と自死する道を選んだが、すくなくとも彼女は無抵抗でそこを債権者たちに明け渡す道を選ばなかった。すなわちエリーザベト自身がアスンシオン在住の投資家たちと交渉を行い、彼らにかなり有利な条件で新ゲルマニアの全ての権利を連名で買い取ってもらったのだ。

 パラグアイ政府に没収されればもう永遠に取り返す機会を失うが、他の者の手にわたればまだ買い戻せる可能性がある。そう考えての苦肉の策だったが……フェルスターがアーリア人の再生という大義を掲げて築いた植民地がドイツ人以外の者の手に渡ったというのは、急場しのぎにしても彼女にとっては大変な屈辱だった。

 このたびのわずかな現金をかき集めての帰国もじっさいは単なる帰郷や引退という思いは毛頭なく、かねてから考えていた通りドイツ本国で情宣活動を大規模におこない、今度こそ資金を集めて植民地を自分の手に取り戻そうと考えているからだった。


「じゃあドイツ人のお金持ちがお前の国を買い取ってくれたら、今度こそ納得して家に帰ってくれるのかい?」

「いいえ。その時は私もパラグアイに戻るわ。私が求めているのは新ゲルマニアの全てをドイツ人のみに所有させることとフェルスター家と私の財産権を認めてくれることだから。あそこはこれからもずっと私の国なのよ」

 いっさい臆することもなくそう言ってのける娘の言葉にフランシスカはもう唖然とした。てっきり兄の介護を手伝うために帰国を決意したのだと思い込んでいた彼女にとって、一度の失敗にこりずまた地球の裏側へ旅立つなど信じられない話だった。

「とんでもないことだ。まだ夢みたいなことを続ける気だなんて……生活はどうしていくつもりなの」

「ここで挫けたらもう何もかもおしまい。悪いけどほかの選択は考えたくもない」

「……私やフリッツのことはどうだっていいってのかい?」

 娘の話しぶりにまったく共感できないフランシスカはおおげさに顔を覆ってほとんど泣き落としのような調子でそう口にしたが、その態度にエリーザベトは強い不快感をおぼえた。それは間違いなく彼女の正直な感情だった。母や兄への想いは人並み以上にあるつもりだ。だが田舎町で老いた母と生活能力を失った兄をただ世話するだけの自分――この時代の女のごく平均的な人生――は想像するだけでぞっとする。自分の精神はまだもっと高みに昇ることを夢見ているではないか。だけどこの想いをどれだけ母に説いても決して理解はしてもらえないのだろうという失望感だけがあった。


                ◆


 ――その時二階から突然に大きな声、それもまるで獣の咆哮のような荒々しい声が響いてきて母娘の言い争いは中断させられた。エリーザベトはおもわず天井を見上げたが声に混じって激しい物音が立て続けに鳴り響いている――すぐに気がついたが、それは兄が大声をあげながらドアを力任せで滅茶苦茶に叩いている音だった。いったいどうして?

「まさか兄さんを部屋に閉じ込めてるの?!」

 驚いたエリーザベトはそう尋ねたが、母は口元を抑えたまま黙り込むばかりで何も応えない。彼女の顔色が真っ青なのが答えだった。

「なんてひどいことを……いくら病気だからってまるで動物みたいに」

「病院からは夜は鎖で手足をベッドに繋いだ方がいいと言われたんだけど……それだけはどうしてもできなくて……」

「最低」

 フランシスカは呻くような声でこれだけ答えたがエリーザベトはもう何も取り合わず、一瞬で噴き上がった激しい怒りをおぼえながら二階へ向かっていく。大きな声を聞きつけて自分の寝室から飛んできたアルヴィーネがそれを止めようとする。

「お嬢さま! ダメですよ! 鍵をかけておかないと危険なんです!」

「ふざけないでよ! 此処にいるのは私の兄さんなのよ! 兄さん――フリッツ! いま開けてあげるから」

「お兄さまは悪い夢を見るときまって暴れるんです! そうしたら力がお強いから大変なことに。奥様なんて何度か首を……」

「きゃっ!!」

 後ろからわめきたてるアルヴィーネを無視してエリーザベトは兄の寝室のドアにつけられたかんぬきを外したが、その瞬間ドアが遠慮なく押し開けられて彼女はほとんど突き飛ばされる格好になった。倒れた拍子に頭をぶつけてほんの一瞬意識が遠のいたが、あおむけに倒れた自分の視界一杯に現れた黒い影への驚きが彼女の意識をかろうじて押し留めたのだった。

 朦朧とした薄闇の視界の中で彼女を見下ろしている影――それは間違いなくニーチェその人であった。エリーザベトはかろうじて名前を呼んだ。

「フリッツ……」

 彼はどろんとした眼差しで孔があくほど彼女を見つめていたが、次の瞬間にはその大きな手でエリーザベトの身体を抱え上げて部屋に連れ込んでしまっていた。それを目撃したアルヴィーネが大慌てで現場に駆けつけた時にはもう内側から鍵がかけられ、何度呼びかけても返事がなかった。


「今すぐ私の妻を呼んでこい! 私を拷問から守ってほしいと伝えるんだ!」

「汚ならしい末人どもの臭いを嗅ぐだけでも私はもう耐えられない!」

「嗚呼! ビスマルクは木偶の坊だったのか? 私は全ての反ユダヤ主義者を撃ち殺せと命じたのではなかったか?」


 ドアの向こうからは激しい物音と抑揚の弁がはじけ飛んだようなニーチェの大声が何度も響いてくる。何から何まで無意味な言葉の羅列でそれでいて激昂した情だけが滲み出ていて、それにアルヴィーネは恐怖をおぼえた。彼女の旧友でもある女主人を殴りつけ首を絞めた時もまるっきりこんな調子だったからだ。

 危険を感じたアルヴィーネがあわてて階下に駆け下りていくと、フランシスカは席についたままじっと目を閉じていた。

「奥様たいへんですよ! お嬢さまが部屋に連れ込まれてしまいました! フリッツさんもひどく興奮していて……」

「……」

「ドアも閉じられて連れ戻せないんです!どうしましょう?!」

「……」

 それを聞くとフランシスカはひどく苦しそうに顔を歪め、何をするかと思えば指を組ませて祈りの形を取った。――違う、ポーズだけではなく本当に祈っていた。アルヴィーネは呆気にとられたがとにかく進言した。

「あのぅ奥様どうしましょう? 女だけでは何もできませんわ。夜も遅いですがもう警察を呼ぶしかないでしょうか……?」

 フランシスカは首を横に振って拒絶する。あの大騒ぎが聞こえていないはずもなく彼女は事態を悟っている。醜聞だけは避けたい――そういう意志表示だった。アルヴィーネを押し留めさせ、そうして彼女はささやくような声でこれだけなんとか口にした。

「嗚呼、嗚呼……どうして私の子どもたちばかりにこうもつらいことが続くのだろう。私はあの子たちがあまりにも可哀想で……」

 それだけ言うとフランシスカは肩をぶるぶる震わせ、声を漏らしながら泣き始めた。老いた母親は祈りながら泣いていた。二階からは抑揚のない罵声や暴力じみた物音がいまも響き続けていたにも関わらず――それ以外のことは何もしなかった。

 アルヴィーネはニーチェ家の人々を憐れんだ。そしてずっと昔に聞いたゲルマン人古来の伝承こそがいまの彼らの不幸を唯一言い現わせるだろうと素朴に思い至ってこう口にしたのだった。

「フリッツさんはきっと魅入られてしまったのですわ。だってまるでワイルドハントヴィルト・ヤークトのお話しそのものですもの。きっとヴォータン様の嵐の槍が、彼の頭を突っついてしまったのですよ……」

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