二十三 ヴィルト・ヤークト(中編)

 1889年6月4日未明。エリーザベトは馬車の中でまんじりともせずに朝を迎えようとしていた。

 急な報せを携えてやって来た迎えの馬車に取るものも取らず乗り込み、徹夜で向かっている行き先はアスンシオンにほど近いサン・ベルナルディノ。ドイツ系スイス人たちが建設した居留地である。サン・ベルナルディノはイパカライ湖畔にあるヨーロッパと見まがうような洗練された快適な街だったが、彼女を今そこに向かわせている理由は悲壮なものだった。

 ――フェルスターが死んだ。それもというのである。

 嫌な予感はあった。彼はアスンシオンの資本家たちに再度融資を求めに出かけていったがその結果は希望通りにはいかず、「しばらく此方に滞在して頑張ってみる」という簡単な手紙だけをよこして帰らなかった。その後も手紙のやり取りは頻繁に交わしたがその進捗がまったく芳しくないことは筆致から容易に読み取ることができた。

 彼の手紙は日に日に弱音の言葉ばかりが増えていき、現地の資本家たちはまったく我々をばかにしている、体調が悪くて近頃はホテルから出かけることもままならないと嘆き、クリングバイルが書いた暴露本がドイツじゅうに知れ渡ったことで祖国は俺たちをまた見捨てたのだと泣き言ばかりを言った。

 エリーザベトは崩壊寸前の新ゲルマニアの人々の生活をかろうじて維持させながら毎晩のように彼をなだめ慰め、もう少しだけがんばればきっと事態は好転する、理想主義者は最後には必ず勝利することができると励まし続けた。文字どおり泥にまみれて働く合間に彼女が送ったこの時期の手紙の文面のほとんどは夫を勇気づけようとする誠意にあふれていたが、たった一度だけ彼女の方が懇願するような言葉を綴った。

『毎晩とても寂しく思っています。すぐに戻って来てくださったらと願わずにはいられません』――彼女がこう綴った手紙を差し出したのは結婚記念日の二日前で、すでに二ヶ月以上も帰って来なくなってからだった。

 それでもけっきょくフェルスターは帰って来ず、返ってきた手紙にはまた自分自身の苦悩や悲観、そして『この苦しみが終わる日がくることを望んでいる……』という後から見れば不穏に受け取れるフレーズだけが記されていた。

 自殺したと聞かされた時は驚いたが、それは「とうとう起こってしまった」というずっとおぼえていた予感と半々の感情だった。


「奥様、着きましたよ」訛りのあるドイツ語を話すメスティーソの御者から声をかけられ、エリーザベトははっとして見渡す。そこは報せをよこしたホテルの前で、フェルスターはこの真新しく近代的な二階建てのホテルに三ヶ月ちかく滞在していたことになる。

 御者が到着を知らせると彼女は広いロビーへ案内されたのだが、中に入るとすぐに違和感をおぼえた。今まで嗅いだことのないような、そしてひどく鼻につく臭いが建物じゅうにどことなく漂っているのである。

 すぐに背広姿の白人男性たちが出迎えにやって来るのが見えた。エリーザベトがなんとか表情を取り繕って挨拶を済ませると男たちが自己紹介をはじめる。一人はホテルのドイツ人オーナー、もう一人はパラグアイ籍の医師でこちらは顔見知り程度の面識があった。

 髪の禿げあがったオーナーは通りいっぺんのお悔やみを述べた後に「ご遺体は本来なら警察で検死解剖を受けるところですが、明らかに自殺ということで親族の確認のみで大目に見てもらいました」と告げる。

「……本当に夫は自殺したのですか?」

 エリーザベトが尋ねると同席した医師は様々の症状から死因は疑いなく急性中毒による窒息であり、部屋には劇毒ストリキニーネとモルヒネの瓶があった、おそらくはそれらを酒に混ぜて飲んだのでしょうと淡々と説明してくれた。

 それからようやくエリーザベトは夫の宿泊していた二階客室に案内されたのだが、ドアを開けた瞬間にそれまで嗅いだことのないぞっとするようなにおいが鼻についた。男たちは慌ててハンカチで口元を覆っていたが、エリーザベトは焦りから躊躇もせず部屋に入って行く。それからベッドに横たわらされた姿の遺体をようやく確認したのだがかぶせられた布をめくって顔を見た時には思わず嗚咽が漏れた。

 夫の顔は不気味な紫色に染まり、引きつったような笑みさえ浮かべたままこと切れていた。そしてこの鼻をつく臭いは――すでに腐り始めている遺体の臭いであった。ホテルに来た瞬間から感じていたぞっとする臭いはこの死臭だったのだ。

 紫色の顔は毒によって全身の筋肉が痙攣をおこして呼吸できなくなったことが原因で、笑った顔も表情筋の引きつりによって起こされたものだということ、そして遺体の発見が遅れたために硬直して元に戻らないのだと説明されたが、あまりにも無残な夫の姿にショックを受けたエリーザベトの耳にはほとんど残らなかった。

 それでもようやく「苦しんだのでしょうか?」とだけ尋ねると、知人の医師は言いにくそうに言葉をしばらく濁した末に「モルヒネで緩和を試みたのでしょうが相当に」とだけ答えたのだった。

 エリーザベトは視界の端っこにチカチカとした光が飛び交いだすのを感じ、内心このまま自分が失神してしまうのではないかとおそれたが、それでもなんとか気丈にふるまい続けていた。――ここで挫けてしまってはいけない。すでに一日半が経過して遺体からは嫌な臭いさえ漂い始めている。一刻も早く葬ってあげなければあまりにも可哀想だ。

「間違いなく私の夫です。申し訳ありませんが棺と埋葬の手配をお願いします」

 ようやく取り出したハンカチで口元を覆ったままそう口にするとオーナーの男は明らかに安堵したような表情をみせた。多分この亜熱帯の国で客室にいつまでも遺体を置いておくのが本当に迷惑だったのだろう。その態度が腹立たしい気もしたが今はどうでもよかった。

 オーナーは悪臭を嫌うかのようにさっさと下に降りていく。医師が下で一緒に葬儀屋を待つかと尋ねたのでエリーザベトは「しばらく夫と過ごしたい」とだけ答えてそれを断ったのだが、そう言われた医師が困ったような顔をした理由を彼女はすぐに察し、机の上に置きっぱなしになっていた小瓶を手に取ると医師に手渡した。

「……心配なさらないでください。少しこれからのことを夫と一緒に考えたいだけなんです。私は死んだりはしませんよ」

 そう告げられ毒薬も引き渡されたことでようやく医師は安心したらしく、そういうことならと小声で頷きながら彼も部屋を出ていき階段を下って行ったのだった。


 ようやく二人きりになったエリーザベトは椅子を引いて座り部屋全体を見渡した。テーブルの上や部屋の隅に酒瓶がいくつも転がっていて、彼がこの部屋でアルコールに逃避する生活を何カ月も続けていたことを雄弁に物語っている。

 夫の亡骸を見ても涙は出なかった――もしかして自分は悲しんでいないのだろうかと思った。現状を見てショックを受けたのは勿論だし伴侶を失ったという喪失感もある。それでも涙は枯れてしまったように出てこないのだ。内々でずっとこういう事態を不安視し続けていたせいかも知れない。心の内側はという失望感の方がずっと強かった。

 エリーザベトの目にはここ最近の夫の態度は責任から逃げ続けていたように映っていた。ずいぶん前、自分はこのホテルを拠点にしてパラグアイを旅し、新ゲルマニア建設の最初の計画を練ったのだとフェルスターは語っていた。彼はけっきょくそこから一歩も出ていこうとしなかったのだ。

 彼は人生や現実を少しも愛していなかった。己の力では叶えられない理想ばかりを謳い、それにまったく追い付かない現実や自分自身を忌み嫌い続けたあげくに死を望んでしまったのだ。これは酷い考え方だろうか。

 その時ふと、机の上に乱雑に散らばっている紙が書き損じの手紙の山であることに気がつく。ドイツ本国の植民地協会にあてたものやアスンシオンの資本家や議員たちに宛てたもの……清書したものが届いていたとしてもどうせ無視されたであろう空しい言葉の羅列ばかりがつらつらと並んでいる。中には自分宛ての出しそびれた手紙もあり、それも読むとあの医師が私をここに残すのを躊躇した理由がすぐに分かった。あいかわらずの泣き言と共に自分と一緒に死んでほしいなどと結んであったのだから。呆れてしまう惨めさだと思った。

「ベルン、アナタって可哀想な人ね」

 夫は弱い男だった。私はいつもそれを哀れんだ。いつの頃からかはっきり分かっていたのに私は何度も手を差し伸べた。それは愛情か、あるいは期待だったのか。それでも彼は最後まで応えてはくれなかった。

 いま悲しく思っていることがあるとしたらきっとそのことについてなのだろう――。そう気がついた瞬間、どういうわけかはじめて目頭が熱くなるのを感じる。

 私は違う。私は、負けない。物言わぬ亡骸となった夫の横顔を見つめながら、エリーザベトは何度も何度もそう呟いた。


                 ◆


 職業上の義理から参加せねばならなかったうら寂しい葬儀も終わり、医師はいつもよりだいぶ遅い時間に帰宅した。辺りはすっかり日が暮れてしまい既に真っ暗になっていた。

 家族での夕食を終えた彼は書斎にこもり、この日の珍事といえる出来事をどう日記に記したものかとしばらく考えあぐねていた。――ホテルじゅうに死臭が漂ったが明日には消えているだろうか、オーナーはあの自殺した客の妻に宿泊費と酒代の精算を求めていたが、破綻寸前と噂の植民地からはたして取り返せるだろうか。馬車が家の前に停まる音が聞こえ、使用人が遅い来客を告げに来たのはようやく書き出そうというまさにそのタイミングだった。

「おや貴女は……フェルスター夫人ではありませんか。一体どうしてこんな夜分に……」

 玄関口まで応対に出た医師は内心ひどく驚いていた。ほんの数時間前の葬儀で見かけた喪服姿のエリーザベトが、その姿のまま彼の目の前に現れたのだから。

「遅い時間にすみません……ですがどうしても今夜のうちにお願いしたいことがあるのです。」

 エリーザベトは被ったベール越しに医師の方を見つめながら低い調子で喋り続ける。押し殺したような、しかし迷いは感じさせない声だ。

「夫の診断書を書き換えて欲しいのです」

「なんですって?」

 突然の申し出に医師はさすがに驚愕した。「どうしてですか?」医師が続けてそう問うとエリーザベトはこう続けた。

「夫はずっと前から似非自由主義者とユダヤ人のマスコミからいつもひどい攻撃を受けていました。夫が自殺したなどと知ったら彼らの攻撃は余計に激しくなるでしょう。そうなれば植民地はどれだけの痛手を負うか……おわかりでしょう?」

 新ゲルマニアの窮状を知っている医師はその説明を聞いて一応は納得したが、それでも簡単に請け負う気持ちにはなれない。

「しかしそれは……重大な違法行為だ。嘘がばれたら私も奥さんもタダでは……」

「診断書はドイツ本国に送りますから先生には絶対に迷惑をかけませんわ。それに私のことなんてどうでもいいんです。大切なのは夫の――ベルンハルト・フェルスターの名誉。彼は典型的アーリア人でなければいけないんです。ヴァルハラへ迎えられるにふさわしい英雄であり、その横顔はキリストのように誠実でなければいけない……敗北者であってはならないんです……」

 とうとうと語るエリーザベトの目が異様な煌めきを放っていることがベールごしでも分かる。それがランプの火の揺らめきのせいだと分かっていてもどういうわけかひどく気味が悪かった。どういうわけだろう、この小さな未亡人の言葉にほとんど気圧けおされてしまいまごついて口を挟むことすらできなかったのだ。

「私はアーリア人の誇りを守らねばならない。そのためにはなんでもする覚悟です」

 彼女が大きくはないが力強い声でそう告げた時にはもう、医師はくたびれ果てて頷くほかはなくなっていた。「望みの死因は?」と押し殺したような声で尋ねるとほんの少しだけ面白げに彼女の口元が微笑んだのが見えた。そして彼女は告げた。


「できるだけ英雄的、そして悲劇的な死を――」


                 ◆


 ベルンハルト・フェルスターの遺体は腐敗の懸念もありその日の夕刻にはイパカライ湖近くのドイツ人共同墓地に葬られた。埋葬と簡素な葬儀に立ち会ったのは司祭一人とホテルのオーナーと医師、それに妻のエリーザベトだけだった。彼の墓標には『植民地新ゲルマニア創立者ベルンハルト・フェルスター、ここに神とともに眠る』と刻まれて現在まで存続している。

 フェルスターの死因が自殺であることは多くの証言証拠により同時代から既に露呈していたが、エリーザベトが存命中にその事実を認めることは決してなかった。

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