二十二 ヴィルト・ヤークト(前編)
新ゲルマニアの経営は悪化の一途をたどっていた。移住者たちのうち比較的余裕のある者はドイツに帰国するか、あるいはもう少し豊かな生活が期待できるブラジルやアルゼンチンへの移住を選択して続々と離脱していった。いまや新ゲルマニアに留まっているのは〝アーリア人種の国〟という夢を心の底から信じている筋金入りの反ユダヤ主義者がほんの少しと、あとの大多数はもはや出ていく費用も捻出できない貧しい人たちだった。
一方でドイツ本国では逃げ帰った移住者たちが自らの体験を新聞記者に語ったことでスキャンダルを巻き起こしつつあった。その決定打は前年暮れに帰国したクリングバイルが出版した『ベルンハルト・フェルスター氏の植民地新ゲルマニアの実情』という一冊の暴露本だった。彼は怒りに満ちた筆致で「私やパラグアイへ移住した他のドイツ人が味わった経験はあまりに悲惨かつ理不尽なものであり、良心に従い真実を知らせなければならない」と述べてから新ゲルマニアでの過酷な日々を150ページにわたって描写し、経営さえもいまや赤字であり、フェルスター夫妻がドイツ人に販売していた土地はまもなくパラグアイ政府に押収されるだろうと告発したのである。
新聞が連日このスキャンダルを取り上げてフェルスターを糾弾しはじめると、それまで協力的だった企業や移民協会までもが彼らの事業の誠実さに対して不信を抱き始め、事実関係が判明するまで援助金の投入を凍結すると通達してきた。それまでギリギリのところで植民地を延命させていた最後の命綱がとうとう引き上げられたことを意味していた。最悪の破綻の時がもはや目前まで迫り来ていた。
◆
1889年4月。うだるような暑さがかろうじて和らぎだした夕暮れ時。ドイツ人たちは死んだような
野生イモ掘りは苦労の多い作業だったがエリーザベトも皆と一緒にジャングルに入って働いていた。(育ちの良い中流階級である彼女が率先して腕まくりしてイモを掘るのは残された人達の消沈しがちな士気を鼓舞する意図もあったし、もちろん監視の目を光らせる意味もあった)
飛び回るマラリア蚊を追い払うために火を焚くので作業中はひどく暑苦しく、男も女も煤だらけでたちまち真っ黒になった。いつも参加していたシュルツ夫人が今日は顔を出しておらず、代わりにまだ十歳の娘が来て慣れない手つきでイモを掘っているのに気づいた彼女はなにげなく尋ねた。
「あら、お母様はどうなさったの?」
「病気なんです」
「アナタはまだ子供じゃない。それならお父様か上のお兄様が来るべきだったわよ」
「父も兄も病気で寝ていて、働けるのは私だけなんです」
シュルツ氏の娘は土の中をまさぐる手を止めることなくそう答える。不愛想というよりは話す余裕が無いという感じだったが、母親が怠けているのだろうと決め込んでいた彼女は予想もしていなかった答えに言葉を詰まらせてしまう。
「特にシュルツさんの家は菜食主義ですから。毎日こんなイモを少ししか食べられないんじゃ誰だって倒れちゃいますよ、可哀想に」
隣で作業していたベッカー夫人が機を見たとばかりに非難めいた調子でそう口を挟んだ。じっさいワーグナーの信念に従って此処でも菜食主義を貫いていた人々の食生活は特に悲惨で、ほとんど栄養失調のような状態だった。そうしてシュルツ氏の娘もひどく痩せているのに気付いた時、エリーザベトはひどくうしろめたい、謝りたくなるような気持ちを抱いたのだ。それでも彼女はそれを口には出さなかった。
「だいじょうぶ。皆でがんばればもうすぐ何もかもが良くなるわ」
代わりに口を突いて出た言葉はなんとも空虚で、今日生きる糧を掘り当てるのに必死な人々はもうほとんど関心すら示さなかった。シュルツ氏の娘だけが「もうすぐって、いつだろう?」となにげなく呟いたが、その言葉にエリーザベトは背中に氷を押し付けられたような心地がしたのだった。
その日の夜遅く。フェルスター・ホーフで焼いたソーセージとスープと硬いパンという簡単な夕食を取ったあと、エリーザベトとフェルスターは深刻な顔をして話し合っていた。
「いっそ新ゲルマニアの運営を信頼できる人に任せて、一度ドイツに戻ってみない? 私たちの事業に対する良くない噂が昇っているのが目下最大の問題よ」
エリーザベトが言いにくそうに、だがはっきりと提案してみたがフェルスターはひどく顔をしかめて拒絶する。
「帰国だなんて冗談じゃない! 俺の植民地を捨てて逃げ出せというのか?!」
「違うわよ。一時帰国よ。じかに話すことで移民協会や支援者が信じてしまったつまらない誤解を解くの。片道三カ月もかかる手紙では弁明にも限界があるわ」
「できるもんか、本国には俺を憎んでいる奴が大勢いるんだ。いま戻ったら告訴されかねない。それに……」
そこまで言うとフェルスターは続きを言い淀んだまま神経質そうに口ひげをいじくりだしたが、やがてうんざりしたようにこう口走った。
「俺たちがついてきた嘘はもうみんなバレちゃってるじゃないか。いまさら申し開きなんて、できるもんか」
夫の言葉を聞いたエリーザベトはおもわず咄嗟に辺りを伺ったが、屋敷の中ではドイツ語の分からないパラグアイ人の召使いが食器を洗っているだけだった。
「ベルン……アナタまでそんなことを言わないでちょうだい。私たちは遠からず実現できるはずの理想について述べただけなのよ。そしてみんなはその理想を信じた。きちんとやり遂げて成就させれば誰にも嘘だったなんて言わせないわ。なのに先頭に立つべきアナタがそんな弱気になってしまってどうするのよ」
エリーザベトは夫の顔を見ながら強い調子でそう告げたが、フェルスターの方はほとんど目も合わせないまま肘をついて眉間にしわを寄せるばかりで、そうしてまるっきりふてくされたような調子で「エリーは現実を知らないんだ」とぼやくのだった。
――現実を直視する気も、立ち向かう気もないのはどちらか! 事業の傾きがあらわになりだすとほとんど屋敷にこもるようになって、今や移住者たちと顔を合わせることすら嫌がるようになった彼の仕事をほとんど肩代わりしているのは私なのだ。なのにフェルスターはもはや現実を直視する気持ちも失敗を取り戻そうという気力すらも失っているように思え、ひどく憤った感情が湧き上がってくる。
「ベルンがどうしても嫌だというなら私一人で一時帰国して、移民協会に駆け合いに行きます。クリングバイルだって他の意気地なしだって徹底的に言い負かしてやるわ! 私たちの夢は私たちで守るしかないの」
ほとんど啖呵を切るような調子でエリーザベトがそう叩きつけるとフェルスターははじめひどく驚いて呆然とし、それからようやくメンツを傷つけられたことに気がついて顔をみるみる紅潮させ、席を立って自分を睨みつけている妻を――睨み返すこともなく視線もそらしたまま拒絶して見せるのが精いっぱいのようで、そのいじましいだけの態度にエリーザベトの方はほとんど呆れてしまっていた。
フェルスターはしばらく何事か考え込んでいたようだったが、彼が消え入りそうな声でようやく口にしたのは妻の失望感と昏い感情をさらに逆撫でするような言葉だった。
「君が帰国にこだわるのは俺の元から逃げ出したいという心があるからじゃないのか?」
その猜疑と嫉妬の入り混じった厭味な言い方に、とうとうエリーザベトも我慢できなくなる。
「アナタはそういう考え方しかできないの? どうして現実に立ち向かおうと、変えようとしないの? 信じて戦わなければ何も変えられない、そんな簡単なことがどうして分からないの?! ――アナタは男でしょう。なんだってできるし決められる、何とでも戦える。なのにどうして?」
衝動に突き動かされるまま言葉に出しているうちに彼女は自分でも驚いた。すなわち、女であるばかりに何も決定させてもらえないことにこんなにも憤っていたとは。それをこうして口に出すと胸のすくような思いでいっぱいになっていることが、自分自身の内心に対する答えだった。だがフェルスターの方は妻が火のように吐き出した深層心理下の呪縛にはまるで気がつきもせず、一方的に自己憐憫に浸るかのような言葉を吐くばかりだった。
「分かってるさ、君は俺みたいな男について来てしまって今では貧乏クジを引いてしまったと思ってるんだろう。嗚呼、君はけっきょく気楽なんだ。なにせ君には帰る家もあるし、そうだ、俺と違って立派な兄上もいるからな……」
「――兄なんて関係ない!! 私はいま、アナタに幻滅しているの!」
夫のあまりに卑屈な態度にかえって自分の心情をどこまでも蔑ろにされたと感じ、エリーザベトはとうとう大声で彼を罵ると部屋を飛び出し、屋敷から出て行ったのだった。
兄がトリノで昏倒して精神病院に入院させられた、あわてて見舞いに行ったが会話もままならないほど精神が錯乱している様子である……悲報を伝える母からの手紙がエリーザベトの元に届いたのはほんの数日前のことで、筆跡の震えからして母も相当に動揺しながらこの報せを書いただろうことが伺えた。
自分自身も手紙を受け取った夜は一睡もすることができなかった。一番最近……ローマで会った時の兄の姿が思い起こされる。誤魔化すかのように酒を飲み鎮痛剤を濫用する姿は明らかにおかしかった。もしかするとあの頃からもう何かが限界を超えつつあったのではないか? ――私が傍で彼を見ていればこんなことにはならなかったのではないか? そんな思いが四六時中頭の中を駆け巡った。
夫はこの悲しい事件の報せに嘆きと悔恨をこれっぱかしも共有してくれなかった。私たちの国の問題で手一杯でとてもそんな余裕は持てない、そのことはまだ理解できるつもりだ。だが自己憐憫と猜疑にまみれて力を失っている姿を見せられるのだけは御免だった。夢と闘志に燃えていた彼のかつての姿はもうどこにもないと感じた。苦難の積み重なりが彼から勇気を削ぎ取ったのか。それとも最初から虚像だったのだろうか。自分はどうしてこの男と一緒になり、故郷から五〇〇〇マイルも離れた亜熱帯の空の下で一人の味方もなく戦っているのだろうか。
もしかすると自分の失望とドイツへの郷愁の念に関しては、夫の疑念は正しいのかも知れない。
「嗚呼、エリー! 待ってくれ! 許してくれ!」
厭な気持ちでいっぱいになりながら雨上がりの泥地を歩いていると、後から追ってきたフェルスターの声が聞こえる。涙でひたひたになり鼻水を啜るような声だった。途中で足がもつれて転げたような音がしたが、彼女はそれを無視して歩き続ける。
「待ってくれ! 俺が悪かった! 全部、俺がいけなかった!」
あいかわらず泣きわめくように叫びながら走ってきたフェルスターは彼女の腕を強引につかんで引き留め、そのまま泥の中に跪いてみせて哀れな姿をさらす。そうして顔を涙と鼻水でぬらして真っ赤にしながら、フェルスターはほとんど哀願のような有様でエリーザベトの顔を見上げてみせる。
「俺が悪かった、君の気持ちを考えていなかったんだ!」
自分の手を握ったままひざまずく夫の姿をエリーザベトは心理的に拒絶した。かつては奇妙な嗜虐心をおぼえたその姿に今は心底ぞっとしたのだ。
「私はもう、アナタを信じることができないかも知れない」
エリーザベトがためらいがちにそう口にしたことに、フェルスターはひどいショックを受けたらしく――まるでそう言いさえすれば免責されると今の今まで信じ切っていた様子で――目を皿のようにして見開いたまま凍り付いたように動かなくなり、息さえ詰まりそうな様子だった。
「……お願いだ、見捨てないでくれ」
ようやく絞り出したような声でフェルスターは懇願したが相も変わらず口を開けば自身を卑下する言葉を吐くばかりで、彼女の期待をますます下回る男であることを証明するばかりだった。
「そんな風に思って欲しいんじゃないわ。私はただ、アナタに戦う気概が見えないことが残念でならないの。私とアナタで始めた戦いなのよ」
「……」
「あきらめちゃダメよ、まだ希望はある。地元の投資家たちに融資を求めるのよ。あと三年で植民地は大きく成長する……パラグアイにとっても大きな利益になることを理解してもらえば政府も無碍な扱いはできないはずよ」
「そんなこと望めるもんか。俺たちの事業はもう……」
「希望が持てない? そんなの私たちが国を発つ時からずっと言われてきたことじゃない。だけど私たちは食いしばって乗り越えてきた。今だってその時よ」
ひざまずいて震えるばかりの夫をほとんどなだめるようにして彼女はそう告げた。妻からの叱咤にフェルスターはほとんど放心したかのように黙りこくっていたが、やがてそれまでより幾分落ち着きを取り戻した調子で
「……たしかに君の言う通りだ。俺は夜明け前にアスンシオンに出かけるよ。有力者たちにかけ合ってくる。二、三日留守にするけど後はお願いする」
そう告げ、ゆっくりと泥を払いながら立ち上がった。
「アナタなら大丈夫よ。きっとここから何もかもうまくいくわ」
エリーザベトがそう激励するとフェルスターも昔のようにはにかみ気味に――じつに久しぶりに――笑い「エリーのおかげ」と照れ臭そうに言う。
彼はまだ戦える。まだ、敗けていない。それを見たエリーザベトはようやく心の底から安堵し、汚れるのもかまわず泥まみれの夫に抱き着いたのだった。風はなく大気はひどく蒸し暑い。快適とは言い難い南米の典型的な夜だったが、空を見上げると痩せ細った三日月が空にかかっているのがよく見えた。
これが二人が共に過ごす最後の晩になるとは、この時の彼女には思いもよらなかった。翌朝早くにアスンシオンへと出かけていったフェルスターは、それっきり戻ってくることはなかったのだ。
(続く)
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