二十一 善悪の彼岸


 近代都市はいまやおぞましい者どもで溢れかえっている。洗練されたメーンストリートはまるっきり砲弾が降った戦場か屠殺所のようだ。人間の切れ端ばかりがそこらじゅうに散らばっているのだ。

 道端に落ちている耳や目玉をつまみ上げ、眼鏡をかけて覗いて見よ。みすぼらしく痩せ細った芥子粒のように小さな人間が目や耳にぶらさがっていることがわかるはずだ。何よりぞっとすることは、彼らはほとんど人間の断片のような有様でありながら己を一個の人間であると疑いも無く信じているのだ。

 彼らはたった一つの職能に富み、それ故に今日こんにちの世界でもっとも尊重される奇形人間たちだ。他の部分が萎え萎んでいようがまったく誰も気に留めない。ジャーナリズムによって飛び出した目玉、ロマン主義の感傷ですっかり肥えた耳、職業的労働者として必要とされる腕……あの膨れ上がった脳髄は学者どもだろうか。今にして思えばカントもショーペンハウアーも一個の奇形であった。

 都市には様々な奇形たちばかりが寄り集まり、お互いに尊重し合い利用し合い、それなりに平穏で平等で幸福な社会を築き上げようとしている。自らの欠如には気づきもせず、幸福な都市で永遠に生存し続ける気でいるのだ。神は死んだが、賤民たちは肩を寄せ合うことで身の毛もよだつ千年王国を実現しようとしている。

 男がつまみ上げている耳が――正確には耳にぶら下がっているだけの芥子粒のような人間が言った。

「わが音色は大衆に受け入れられ、わが命は永遠になった。だが教授、お前は?」

 ワーグナーそっくりの小人が嘲るようにそう口走ると、町じゅうに散らばっている人間の断片――目や耳や口、腕や足や腹や脳髄、それにすっかり腐ってぶよぶよになった乳房――が揃って空気が漏れるような気味悪い笑い声をあげ始めた。目のある者もない者も男を見つめて嘲笑している。切れ端どもからガスのように噴き出してくるかすれた声が私を舐め回す。

「人間は超克されねばならない? それはお前が人間の温かみを信じられないから、人間を呪っているに過ぎないのではないか?」

「神は死んだ? そんなこととっくに知っていたが――いったいそれが何か?」

「しかしじっさいのところ、私たちはお前のことなんて務めて無視しているのだ」

「我々こそが血の通った人間だ。我々こそが来たるべき未来なのだ」

「我々は、幸福を、発明した、のだ」

 しかしそれら千の嘲笑以上に男をぞっとさせ吐気を催させたのは、じっさいは最後に聞こえた猫撫ぜ声であった。

「嗚呼――嗚呼、解ります。解りますとも。人間を超えた人間。権力への意志。。それはわが種族の魂の叫びだ。嗚呼――解ります。貴方こそが私たちの預言者なのです……」

 脳髄や目玉をかきわけてべちゃべちゃと不快な音を立てながら擦り寄ってくるどす黒い蛇――その正体が金色の髪と血液が混ぜ合わさった汚物なのだと気付いたとき、男はとうとう甲高い悲鳴をあげながら逃げ出したのだ。

 嘲笑と猫撫ぜ声は後から後から追いすがり男はたちまち袋小路に追いつめられる。そこには鉄の大きな扉が設えられていて、男は錆びついた鍵をがちゃがちゃと鳴らしながらはずし、一心にそれを押し開けて逃れようとした。しかし扉は重たくたったの指一本ぶんも開かなかった。

 その時だった。切り裂くような一陣の風が私の背後から押し寄せてきて、蹴破るように扉を開けた。世界に充ちる臭気にもう窒息寸前だった男は無我夢中でその先へと飛び出して行き――。


 ――切り裂くような音を立てながら冷たい風が吹き抜け、ぷんと湿った草の匂いが漂う。黒々とした暗い森にはかろうじて一本道があり、仰ぎ見える空は闇夜だがやたら大きく見える満月が蒼白い光で全世界を照らし出している。

 男は突き動かされるようにその狭い小路をまっすぐに進んでいく。木々がこすれ合う音だけが響き続けている。静けさに鳥肌が立つが、鎮められない何かが私の足を動かし続ける。しばらくすると小さな声が男の耳をくすぐりはじめる。間違いなくそれは誰かの泣き声だった。道は他になく、もはや引き返すことはできなかった。

 そうして最後に行き着いたのは月明かりの差し込む丘で、そこには木製の腐りかけた門が建っていて、その根元には四、五歳くらいの小さな娘が一人で座っていた。金色の髪だけが月明かりの下でもなお煌めいていて、それを見た途端男は胸の中が熱くなるような思いを感じ、それからようやく娘の正体に気がついた。

 膝をかかえて不貞腐れたように座っていた――妹。男の姿に気づいた途端にその表情がぱっと明るくなったように見え、「フリッツ!」と男の名を呼ぶ。男は駆け寄ってくる小さな妹の身体を抱きとめ、そのふわふわとした髪を撫ぜる。抱かれた妹が顔をあげると月明かりを湛えた涙っぽい瞳が私を見つめる。

「助けにきてって呼んだら、やっぱり来てくれた」

 妹が嬉し気にそう言い、再び男の胸に鼻をこすりつけるようにして顔をうずめる。男はもう一度妹の頭を撫ぜてやり、なにか言ってやろうと思った。しかし不思議なことに声が出なかった。まるで喉が縫い付けられたような圧迫感だ。困ったように妹の顔を見ると、相変わらず彼女は青い目で男を見上げている。

 ちょうどその時、妹の服の襟元や袖、髪の間からざわざわと何かが這い出してきているのが見えた。それが何匹もの大きな蜘蛛なのだと気がついた時には戦慄した。蜘蛛たちは腕から胸元から男の身体を這い上がろうとしてくる。蜘蛛の毛の生えた肢が男の顎に取りつき、口の中にまで入り込もうとしている。男はそれでも妹を抱き留めた腕を離すことはできなかった。

 風が一層荒々しくびゅうっと吹きはじめ、それに乗ってどこからか犬の悲しげな遠吠えが聞こえる。風はたちまち旋風となり狂ったように男を責め立て、男は妹を抱き留めたまま庇うようにしてうずくまった。その時ふと腐りかけの木の門を見上げると男は心底驚き、もはや息をすることもままならなかった。

 門の向こう側にはまた黒々とした森と小高い丘と門があり、その根元でもまた同じように男と妹がうずくまっている。その先の門にも同じ光景があり男と妹がいて、そのまた先の門にも、幾つも幾つも、おそらくは永遠に同じ光景が広がっていたのだ。男は妹を抱いたまま、ぞっとする心地でどこまでも無限に続いていく永遠の門を見つめていた……。


「――妹を助けるだと? ふざけやがって……」


 荒い息を吐きだしながら、ニーチェは憎々しげにそう呟いた。目だけをぎょろぎょろと動かしてみるが辺りは真っ暗闇で何も見えやしない。夜明けはまだ先のようだ。

 もう初冬にも関わらずシャツは汗でぐっしょりと湿っていたし、息苦しさのためか右手は無意識に喉元を押さえていた。

 一度は起き上がろうとしたが身体は鉛のように重たくろくに動かない。自分は死人でありここは棺の中なのではないか? おぼろげなうちはそんな想像さえも脳裏を掠めたが、慢性的な不眠に悩まされてきたニーチェにとっては睡眠麻痺――いわゆる金縛りの見せる幻聴や幻覚は珍しいものではなく、夢の中とさして変わらぬ風のような幻聴も、ベッドのまわりを這いずっているうすぼんやりした幽霊の姿もずっと昔から知っているものだ。こんなものはもはや恐怖の範疇に入らなかった。

 そうして半覚醒のまんじりとした状態でいま見ていた夢を思い返す。鮮烈に覚えているのはやはり妹の顔だった。崇拝じみた色をのせて自分を仰ぎ見る、今となってはうんざりするあの眼差しに、髪のあいだから無数に這い出してきた蜘蛛……。自身の中にある愛憎がそのまま噴き出してきたような出来すぎなビジョンではあるまいか。

 ニーチェにとっては妹が選んだ伴侶も身を委ねた理想も吐き気を催すもので、その選択自体が彼に対する裏切り行為だった。彼の方でも妹のことはもう忘れてしまおうと何度も心に決めているのに実際はしがらみがそうさせてはくれなかった。

 なによりの迷惑は反ユダヤ主義者どもが妹の旧姓から自分を見つけ出して下らないメッセージを寄越すようになったことで、彼らの機関紙に『ツァラトゥストラ』の一節が手前勝手に引用されているのを知った時には言いようのない怒りを抱いた。

 それに妹自身も相変わらずパラグアイから無遠慮な手紙を寄越してきた。有利な投資への誘いだと言いつつしつこく寄付を募る仕草は鼻持ちならず、それでいて断るたびに気が咎めるような感情をおぼえるのが不愉快でたまらなかった。

 妹夫婦の植民地事業成功の報告自体をニーチェは内心怪しんでいたが、最近では雲行きの怪しい話が実際に伝わってきはじめていた。先日の新聞にはパラグアイから逃げ帰ってきた移住者がベルリンで「新ゲルマニア」の詐欺行為を訴えてスキャンダルが巻き起こっているとまで書かれていた。

 彼がずっと軽蔑してきた事業の鍍金メッキがとうとう剥がれ落ち、どうやら近いうちの敗北さえも見えてきそうなことに対しては意地悪い悦びがあったが、それでも妹の性格を考えると居ても立ってもいられない心地をおぼえるのもたしかだった。妹は自分の負けを認めるくらいならきっと死を選ぶだろうという確信があった。

 妹への反感と軽蔑と敵意、一方でどれだけ突き放そうと思っても残り続ける肉親としての愛情。愛憎半ばする感情という内面的問題が妹の結婚以来ずっと彼に付きまとっていた。そしてそんな感情の葛藤に悩まされること自体が、いまや〝世界の運命を左右しかねない〟問題を語らなければならなくなった彼にとって大変な負担だった。


 暗闇の中でもなお真っ黒に見える幽霊どもはいつの間にかベッドを取り囲み、冷たい眼差しで彼を見下ろしている。彼らは写真のように微動だにせず口を閉ざしているが、ずっとざわざわ聞こえていた幻聴の方はしだいに声のように聞こえ始めていた。すすり泣くような何人もの声が――妹を見捨てるというのか? ――お前の人生はまったく愛情に欠けている! ――お前には何もできないのではないか? ……そういった調子で彼を軽侮する言葉を吐きかける。

「黙れ! 黙れ、黙れ、黙れ!」

 彼だけに聞こえる呪詛を振り払うかのようにニーチェは叫んだ。

「クソ野郎、お前たちは……お前は何もわかっていないんだ! 愚かな妹め、自分が数千年来の問題への決定的な答えを導き出しつつある……人類の未来を言葉どおりに握っている男の最も近い肉親であるということが……お前にはわからないんだ! 俺の言葉はそのものだ! 行き詰まった精神の奇形ども、末人ども! !!」

 じっさいに声が出せていたのかは本人にさえ分からない。自分の頭の中からとめどなく溢れてくる幽霊どもの声を打ち消すために彼はとにかく叫び続けた。それでも――彼がいくら叫んでも真っ黒な幽霊どもは身じろぎもせず彼を見下ろし続けていたし、風と声が入り雑じったような幻聴も鳴りやまなかった。

 喚き続けながらニーチェの脳裏には様々なことが閃光の如くよぎってゆく。

 私はずっと、この黒い幽霊どもと戦っていたではないか? ちっぽけで痩せ細り冷え冷えとした理性。数千年にわたって良心とか道徳とか正義とか愛とか呼ばれてきたもの。で満足せよという分別、やめておけという良識、と引き返させようとする氷のような定言命法。すなわちソクラテスのダイモニオンどもと。

 いっぽうで人間の頭の中には自身で認識している理性以外のものが同居していることを、私はずっと昔から感づいていた。支配欲、征服欲、破壊欲、わけもなく己が力を示したくなる衝動と忘我、ときに自分自身さえ破滅させる生命の力そのもののような――我々はあまりにもこのを抑圧してきたのだ。若い頃の私はそれをディオニュソスと呼び、熟れた私はツァラトゥストラと名付け――私が語ろうとしたことは伝わったのだろうか? 誰かたった一人でも、私が人生の中で何と戦っていたかを理解してくれただろうか?

 そう疑念を抱いた途端、ぼんやりとした夢うつつの中で記憶が遡られていく。現れてくるのは人間の顔ばかりだった。母親、学校時代の友人、オーヴァベック、ガスト、ワーグナー、レー、ザロメ、それに妹……近い記憶も遠い記憶もごちゃまぜになって噴き出してくる。過去も未来も数珠繋ぎとなり現れては消えてゆく。


 そうして明け方。人間たちの幻影も幽霊どもも消えていき、浅い眠りと夢と現実が雑じり合って幾度となく繰り返された奇怪な夜がようやく明けた。近頃は夜が来るたびにこの始末で、枕元に転がる睡眠薬や鎮静剤はほとんど効果を感じさせなかった。

 窓辺から差し込みはじめた朝の光に今度は刺すような痛みを感じだし、途端にぼろぼろと涙がこぼれだす。ニーチェは両手で目を覆ってなんとかやり過ごし、

「リースヒェン……」

 ほとんど無意識に妹の名を呼んだことに、自分自身ひどく驚いた様子だった。



                ◆


〝およそ生ある者は、何をおいてもまず、自らの力をしようと欲するものだ。

  ――生そのものが権力への意志なのだ――。〟『善悪の彼岸』


                ◆



 ニーチェの精神状態は妹の結婚前後から、それまで以上に振幅が大きくなっていた。ひどく陽気になる時もあれば、鬱屈して塞ぎ込む時間も多かった。

 暗澹とさせる出来事は数多く彼の身に振りかかり続けていた。病状は悪く年金はまもなく打ち切られる可能性がちらついていた。新たな著作を出す方法はもはや自費出版しかなかったため経済的負担がとても大きく、自身の今後の生活への不安が重くのしかかってきていた。87年にニーチェと再会したパウル・ドイセンという人物は、彼の雰囲気が数年で大きく変わっていたことを報告している。


〝かつての誇らしげな姿勢、あの軽快な足取り、流暢な弁舌はもはやなかった。少し体を横に傾けて、まるでひきずるように歩いていた。話しぶりもしばしば重苦しげで途絶えがちだった。私が訪ねた時はたまたまひどく具合が悪かったのだろう。……ニーチェは隣村まで私たちを見送りに歩いた。下り坂を歩きながら彼はひどく不吉な予感を口にし、不幸なことにそれは間もなく現実のものになった。別れの挨拶をした時、彼の目には涙が浮かんでいた。こんな風なニーチェをそれまで私は一度も見たことがなかった。……〟


 それでいてなお1886年から88年にかけては疑うべくもなくフリードリヒ・ニーチェの魂と精神が最も燃え盛った時代だった。自費出版という形で新たな著作――現在までも名高い――『善悪の彼岸』を刊行。ここでニーチェはキリスト教とそれに連なる既存道徳の価値を徹底的に批判し、その楔から解き放たれた未来に向けてのまったく新しい哲学の展開を試みたのである。

 この挑発的かつ露悪的な新著は期待通り多くの反響を呼び、いくつもの文芸誌や文学者が批評を寄せた。いくつかの批評は彼をひどく傷つけたし落胆もさせたが、ともかく人々からの反響が起こり始めたという事実そのものがニーチェにかつてない喜びを与えたのだ。『善悪の彼岸』に対して寄せられた様々な批判と誤解に対して反芻するべく、彼はさらに具体的な論述を目ざした著作『道徳の系譜』を一年かけて執筆し、自らの思想をかなり具体的に解説さえして見せた。


 ニーチェをそれほどまでに興奮させた理由の一因は、たしかに世界にあった。ようやく見つけた新たな出版社から自身の過去著作を新装版として刊行し(中期著作の殆どはこの時初めて人々から存在を認知された)さらに続けざまに発表した『善悪の彼岸』『道徳の系譜』が少なからぬ反響を受けたことによって、哲学者ニーチェの名前は非常に遅々とながら論壇に乗せられ始めていたのだ。

 彼を最も喜ばせた〝読者〟はデンマークの著名な文学教授のゲオルク・ブランデスで、ブランデスはニーチェの書いた本を一通り読んでその「急進的貴族主義」を評価し、彼に賛意と祝福を伝えた。そればかりかブランデスは大学の講義の題材としてニーチェのことを取り上げ(存命中の哲学者が研究対象として取り上げられるのは極めて異例……)その講義が三百人の聴衆を相手に大成功を収めたと伝えられた時、ニーチェの悦びは頂点に達した。

 ニーチェはブランデスからの紹介をきっかけにしてキルケゴールを知り、著名な作家ストリンドベリとも交流を得た。ドストエフスキーの存在を知ったのもこの頃だった。自身と同じような問題に立ち向かっている思想家や文学者の存在をようやく知ったのである。孤独でありながら常に反応を求め、しかしずっと冷酷な無視を貫かれていた彼がこの曙光への歓喜に酔ったのも、無理からぬことだったかも知れない。

 彼の高揚と多幸感は一度膨らみだすと途方もなく広がるようになり始めていて、時には自分を地上で最も強く幸福な男だと感じるようになっていた。じっさいのところ彼はその高揚に突き動かされるようにして、ほんの数カ月の間にすさまじい勢いの創作を続けていたのだ。……『ワーグナーの場合』『偶像の黄昏』『アンチクリスト』……いずれも彼がずっと語り続けてきた理念上の敵に対する最終攻撃だった。かつて愛したワーグナーは人類に感傷と憐みを振りまく病的芸術家であり、既存の道徳と諸価値は間もなく旧い偶像として崩れ去る運命にあり、いまや西欧文明そのものがナザレのイエスという一人の〝白痴〟がもたらした教えによって退廃デカダンスの末期状態にあると断じたのだ。

 これらの絶叫じみた調子の原稿の引受先はあいかわらず無く自費出版するしか道はなかったが、書き上げた頃には彼は不安をほとんど感じなくなっていた。ほんの数年……いや事によれば数カ月もすれば自分は世界で最も偉大な哲学者として讃えられるようになり、全ての不安は解決するのだと本気で思うようになりだしていた。そんな気分の中で書いた手紙や走り書きを後から見て、そこにびっしりと書かれた誇大妄想じみた言い回しに自身で驚いてあわてて書き直すこともときどきはあったが、次第にその気分が普通になってきていた。

 彼の意欲は増すばかりで、それまではほとんどやれなかった夜間の執筆作業も苦にならなくなりだした。不思議なことに大して眠たいとも苦痛だとも感じなくなってきていたのだ。そうしてこの昼夜を問わぬ仕事の果てに、世界に雷鳴のように轟いて紀元さえも変えてしまうような事件が仕上がるのだと今や心の底から確信していた。


 ――ニーチェはいったい何を語ったのか? 君主道徳と奴隷道徳、怨恨感情ルサンチマンの克服と運命愛――金髪の野獣、超人、権力への意志。そして今日こんにちニーチェの思想として知られている概念の大部分はこの時期に彼自身によって言及されたものである。

 危険を恐れず犠牲も顧みない蛮勇さと弱者に対する冷酷さ、そして自らを生まれながらの強者と信じて疑わない者の傲慢な心を〝高貴さ〟としてニーチェは称揚していた。そうして何よりも〝生命の衰退の兆候〟である同情心を憎んでいた。

 いまだ世界のほぼ全てから無視され、身体は病に苛まれ、杖をつかねば歩くこともままならない半盲目の男の中からこの様な荒々しい言葉が生まれてくるとはまったく思いもよらないことだった。


                ◆


 1888年の終わりごろ、ニーチェはイタリア北西部の町トリノに滞在していた。彼がこの町を訪れたのは二度目で、最初の訪問はこの年の春先だった。郵便局に図書館に劇場、彼にとって必要な全ての施設が整い、そのうえ彼好みな十七世紀の建築が立ち並んだ古都をニーチェはたちまち気に入り、今年の冬はニースではなくこの街で過ごそうと早くから決めていたのだ。

 ――ある日の彼は昼前から散歩に出かけていたが気候は非常に穏やかで好ましく、それがたまらなく嬉しかった。昼食のオムレツが美味だったことも彼の機嫌を良くしていたし、立ち寄った市場で果物屋の婦人が愛想よく上等な葡萄を選び出してくれ、しかも値引きしてくれたことも彼をひどく喜ばせていた。些細なことが逐一無上の喜びを感じさせた。いまや世界の全てが彼に奉仕しているのではないだろうか。

 歩きながらニーチェは機嫌よくステッキを片手で振り回し、はるか昔の軍隊時代に覚えたサーベルの構えを取る。腕はぴんと伸びたまま降り上げられステッキの金細工がきらきらと夕陽を反射している。それをほんの一時見つめていたニーチェは嬉しげに目を細め、そして呟く。

「フ、フ、フ、今の僕は一人の老砲兵というわけさ……世界を吹き飛ばすね……」

 片手に葡萄の入った袋をぶら下げながらステッキを振り回している姿を近所の婦人が不可解そうに見ていたが、もはや気にもとめずまた悠々と歩き始めていく。

 それからニーチェが立ち寄ったのは新聞の販売代理店だった。太った店主が愛想よく挨拶をしてから「お探しの号はちゃんと取ってありますよ」と告げると彼も微笑みながら「全部いただくよ」と応え、小銭を渡して新聞を買い取って立ち去った。


「あの人は何者なんだ? わざわざ取り置きなんてしちゃって」

 居合わせた客が怪訝そうに尋ねると新聞屋の店主は鼻をこすりながら答えた。

「ドイツの偉い先生なんだってよ。一ヶ月定期購読する金がないからドイツの記事が載っている号だけを買わせてもらえないかって頼まれちまって……あんまり気の毒な感じだったからつい引き受けちまった」

「へぇ。いやね、女房も市場でドイツ人に値引きをしてやってるって話してたんだ。身体が不自由で独りで買い物してるのが気の毒だって……あいつのことなのかな?」

「かもしれねぇ」

「あの先生の名前は?」

「さあ? 知らないな。おそらく誰も知らないんじゃないかな……」


                ◆


 夕暮れになるとニーチェはきまってポー川が見える郊外に散歩に出た。具合が良ければ大のお気に入りのウンベルト橋まで足を延ばしたが――彼はそこから見える暁の光景をと称えた――この日は川辺に行くまでで留めた。

 柵によりかかりながら紅く染まった川やゆったりと行き交う小舟を眺めているのは忘我を誘うような時間で、水面で揺れている夕陽をじっと見ていると自然と目に涙がうかんできた。涙と鼻水ですっかり垂れ下がるほど伸びた口ひげが濡れていたが、それを気にすることもないまま彼はまじまじと呟いた。

「この年が明けたら、理想というは完膚なきまでに破壊される。全人類は僕という一個の先触れが報せた未来に向き合うことを否応なしに迫られ……紀元が変わるほどのカタストロフィが起こる。ゆえに、僕はこれから僕について語らなければいけない。僕が人間どもに贈ったメッセージについて……」

 自身に言い聞かせるように彼が喋っている間にも風がポー川沿いをぴゅうぴゅうと吹き抜けていく。身を切るほどに冷たく感じたが、それはニーチェに却って異様な活力を与えているようにも感じられた。



 ――10月15日。ニーチェ四十四回目の誕生日に、彼は自分自身について語ることを唐突に決意してペンをとった。この原稿が出版されれば、もはや世界は彼の真価を認めざるをえない……そう確信し、それまで以上の熱量を以て執筆に臨んだ。


 〝私の言ったことを聞いてくれ! 私はこういう者なんだ!

  何はともあれ、私を他の誰かと取りちがえるような真似はしないでくれ!〟


 ECCE HOMO(この人を見よ)……自身をキリストになぞらえたような題名がつけられた、自画自賛と人類への痛罵に充ちた奇妙な自伝の序文の中で、彼は絶叫するかのようにこう書いた。まるで自身の運命を暗示するような不屈な叫び声だった。

 ニーチェという一個の人間の精神が最後の煌めきを見せた時間は、こうして暮れていったのである。

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