第三部・テンポ・フォルティシモ

二十 新ゲルマニアの真実


 フェルスターの移民団が最終的な移住を完了させたのは1888年3月に至ってのことで、彼らがパラグアイに渡ってからけっきょく二年近くも足止めを食らった一番の理由は土地の取得自体にひどく手間取ってしまったからだった。フェルスターが以前訪問した時に「ほとんど契約は終わっている」はずだった土地は後からやって来た金払いの良いイタリア人移住者たちによってすでに買い上げられてしまっていて、計画はいきなり白紙に戻ってしまったのだ。

 移民団は土地を獲得するまでのあいだやむをえずパラグアイの首都アスンシオン郊外の借地を借りて仮住まいを建造したのだが、彼らの自給自足の生活はひどく難航した。多くの者は戦争で灰塵に帰していた首都での日雇い労働に出て日銭を稼ぎ、女たちも耕作や乳搾りを手伝って生活をつなぎ続けた。この頃はエリーザベト自身も慣れない百姓仕事を懸命にこなしながら、「もうすぐ私たちの国が手に入る。あと少しだけ耐えましょう」と皆の士気を維持し続けることに務めたという。

 苦しい忍従の日々が続いていたが、それでも一年以上パラグアイの地主との交渉を続けていたフェルスターがついに我々の領地を得たと報告した時、移民団の人々はたしかに歓喜した。〝新たなるドイツ〟という夢は、すくなくともこの貧しいドイツ人一団にとってはやはり栄光と希望の象徴であった。

 かくして彼らはアスンシオンから北東二百キロの場所に建築された植民地『新ゲルマニア』へと移り住んでいったのだった。地図上での新ゲルマニアの領地はおよそ四万エーカーに及び、ドイツ本土ならば一公国にも相当する広さだった。エリーザベトは本国の母親や反絶縁状態の兄にまでその華々しい凱旋を手紙で報告している。

〝3月5日に我々は新しい祖国に到着し国王にも相当する領地を手に入れました。

……我々が通過する道々では礼装した現地の人々が花や葉巻を贈ってくれ、祝福を求めるかのように競って乳飲み子を私に抱かせようとしました。……我々の領地に近づくと歓迎の礼砲が鳴り響き、シュロの葉で彩られた美しい馬車が紅い玉座を私たちに提供しました。……領地には凱旋門が建てられ、私たちはそこで歓迎を受けたのです。植民地の誰もが誠実で率直な真のドイツ人といった顔をしています。先に到達していた入植者の代表が私を讃えて「植民地の母」と呼んでくれた時、私の心は喜びに満たされたのです! あの荘厳な『世界に冠たるドイツ』の大合唱に讃えられながら、私たちは彼らが建ててくれた素敵な家に向かっていったのです。……〟

 別の手紙で彼女は誇らしげにこうも知らせている。あるアメリカの実業家から「新ゲルマニアの若き女王」というニックネームを与えられ、とても嬉しかったと。


 1888年7月の時点で新ゲルマニアには約四十世帯のドイツ人家族が入植していた。少数ずつながら移民がわたって来続けていたのは政府の植民地事業の協力もあったが、パラグアイ移住以降もフェルスター夫妻が欠かさず寄稿していた『バイロイト新聞』での宣伝記事も大きな成果をあげていた。

 温暖で過ごしやすい気候、広大な自然と負担なき労働の実現された牧歌的な世界、そのシンボルとしての豊富に実る食べきれないほどの果実と、純朴で白人の言うことをよく聞く原住民の召使たち……資本主義時代の幕開けによって壮絶な搾取に晒されることになったドイツの貧困層は彼女が描きあげたその情景に心を奪われ、その中でも「自分の人生はユダヤ人によって不幸にされている」と信念のように思い込んでいた人たちはたしかにそこを楽園だと信じ、全財産を投資して移住してきていたのだ。

 いまやフェルスターは新ゲルマニアの国王でエリーザベトは女王だった。

 しかし彼らの王国の実態は彼女が人々に知らせていたものとは大きく違っていた。


                 ◆


 ――激しい雨がすでに幾日にも渡って降り続けていた。現地の住民たちはこれをタボナーダとかスコールとか呼んでいる。前触れもなくバケツをひっくり返したような豪雨が降り、そのまま何日も続く。どんなに対策を施しても家屋はひどい雨漏りに悩まされたしそのまま洪水を引き起こすことさえもしょっちゅうだった。

 しつこく降り続けた雨は降り始めのときと同じように止むときもほんの一瞬で、打つような雨音が聞こえなくなると人々は這い出すようにして薄汚い家の中から出てくるのだった。

「こりゃあダメだ! また全部水にやられちまってるぜ!」

 ひげ面の男の一人が、水びたしになったあたりを指さしながら失望しきった様子でそう叫んだ。彼が指し示したあたりには畑があるはずでその周りには水はけをよくするための溝が作られていたが、今ではその全部が水の下に沈んでしまっていた。辺りの畑は全て水害にやられてしまっていて無事に残っているものは一つも残っていないようだった。

「俺たちが知ってる耕法は全部使ったがまったく対策になっていないな」

「土を見ろよ、赤土だらけでほとんど粘土だぜ。水を吸ってくれるわけがないんだ。どこかもっと土壌のいい場所から土を持ってこないと……」

「そもそもあんな気狂いじみた雨がしょっちゅう降るんじゃあ、小麦を植えようがコーヒーを植えようが根腐れしてみんな枯れちまうだろうよ」

 広大な水たまりになった耕地にブーツのまま踏み込んだひげ面の男たちは彼らなりに現状を分析してみていたが、肯定的な材料はまるで出てこない。どう見てもここは不毛の地だった。

「やっぱり俺たちはとんでもない土地を掴まされたんじゃないのか」

 ひげ面の男の一人がそう呟いたとき、少し離れてついて来ていた召使の男が――彼だけは白人でなく赤茶色の肌をしていて、そしてひどく太っていた――笑いながらゴニョゴニョと何か口にした。スペイン語ができるひげ面の男がそれについて二、三言会話を交わし、他の仲間にこう伝えた。

「こんな釜のような土地に何かを植えようなんて金髪の旦那エル・ルビオの考えることは無茶だ、だとさ」

「――じゃあどうしろっていうんだ?」またゴニョゴニョとやり取りが続き、

「雑草を食う牛を食って、あとは酒を飲んでれば一日が終わる」

 ひげ面の男が自分の言葉を訳して伝えたのを確認すると、召使の男はそんなことも知らないのかとばかりにニヤニヤ笑って唖然とする男たちを見つめていたのだった。


 先刻まで狂ったような雨が降り続けていたにも関わらず、すでに日差しは刺すように熱くなっていた。あっというまに汗だくになった男たちの一団は脇目も降らずに集落の外れへと向かっていく。辺りの民家はほとんどが泥レンガと腐りかけの木材を組み合わせただけの掘立小屋で中には泥を固めただけの家未満のものさえあったが、外れにある屋敷だけは場違いなほどに立派だった。それは青々とした葉で覆われた三角形の屋根が地面に接するまで続いている熱帯式の屋敷で、この形式の家はアスンシオンでも滅多に目にする事のない贅沢なものだった。

 雨上がりを察してあっというまに湧いてきた無数の羽根虫ども――ドイツでは見たこともないほど大きな蚊だった――を苛立たしそうに手で追い払っていた男は、その贅を尽くした屋敷のドアをほとんど憎しみのこもった目で見上げていた。

「知ってるか? この家には本国から運んできたグランドピアノまで置いてあるんだぜ。キッチンにはでっかい戸棚があってワインからリキュールまでなんでも……」

 連れの男たちがぼそぼそとそんな話をしているのを無視するように、先頭に立ってやって来た小柄だが筋肉質の男はがなるような大声をあげる。

「ドクトル・フェルスター! いらっしゃるんでしょう?! お話があって来たんです!」

 ほとんど呼びつけるような調子で何度もそう声をかけたが屋敷からはなんの反応もない。男は小さく舌打ちしてドアノブに手をかけようとしたが、ちょうどその時ドアが開かれ――屋敷から出てきたのはエリーザベトだった。彼女はこの暑い最中でも真っ黒なスカートを履いて大仰なヴェールまで羽織っていた。

「アナタはたしか……アントワープ出身のユリウス・クリングバイルさんでしたね? 何かご用かしら?」

 彼女は屋敷の前にやってきた男たちをじろりと見渡し、フェルスターを呼びつけていた小柄な男の名を呼んで尋ねた。クリングバイルと呼ばれた男は一瞬ひるんだように眉をひそめたが、すぐに気を取り直して言葉を続ける。

「ええ、クリングバイルです。一緒に来ているのはベッカーとアンガーマン……私たちはフェルスター氏に話があって来たんです。彼はどちらに?」

「主人はアスンシオンに出かけていますわ。ご用件は私がうかがいましょう」

「……奥様にではなくフェルスター氏に直接伝えたいのですが」

「彼はとても忙しいのでなかなか捉まりません。の生活の監督については私が責任を任されていますので、さあどうぞ」

 エリーザベトの有無を言わせぬ口ぶりに男たちはしばらく顔を見合わせたがクリングバイルだけは馬鹿にしたように鼻を鳴らし、それならば遠慮なくと前置きしたうえでこう口にした。

「小麦とサトウキビの畑がまた全滅しましたよ。サトウキビに至ってはもう苗も残っていない有様です」

「まあ、それは大変ね……早くまた植え直さないと。季節に入ってから作付けに成功しているのはトウモロコシだけね。これはひどい損失だわ」

「もう五度も植えているんですよ。ほとんどあの気狂いじみたスコールで台無しになったし、一度は運よく芽が出るまでは行ったがあまりの酷暑で育つ前に枯れた……奥様にはこの意味が分かりますか? 土が粘土状で水を保持しない上に塩分を含んでいるんですよ!」

「……それをなんとかできないの?」

「私はともかくベッカーやアンガーマンは国では農民だったんです。その彼らがいくら知恵を絞っても打つ手がないんだ。土があまりにも悪すぎてドイツ式の農法はここではなんの役にも立たないんですよ」

「だけど、そこで諦めてしまっては何の意味もないでしょう? たとえば新ゲルマニアには四万エーカーもの領地があるのよ、原生林を切り開いていけばもっと耕作に適している土だって見つかるのではないかしら。とにかくこのままじゃ輸出する作物どころか、この国で食べる物さえなくなってしまうわ」

 エリーザベトは発破をかけるような言葉をかけたが、それはかえって男たちの感情を害したらしかった。後ろに控えていたベッカーが「開墾? 不可能ですよ!」と呆れたような声を上げ、人出も足りないし年単位の時間がかかる、そんなことをやっている間に植民地の全員が干上がってしまうだろうという悲観的な見解を述べ始める。

「――分かった、分かったわ。由々しき問題だということはおかげで私にも理解できました。皆さんのいう問題点は夫とも話し合って打開策を見つけますから、どうかもうしばらくの協力をお願いします」

 エリーザベトはそれまで報告を苦々しい顔つきで聞いていたが、とうとううんざりしたとばかりに首を振って彼らの言葉を途中で遮ろうとした。いつもなら移住者たちのあげる不満の声はそれで断ち切れになってしまうのだが、この日は違っていた。

「いつもそう言って誤魔化すが、アンタたちに何ができるっていうんだ?」

 声を荒げて彼女を難詰したのはクリングバイルで、それまでエリーザベトは屋敷の日陰から一歩も外に出なかったが、パラソルをまるで威圧するように掲げてから差すと日向の方へと出て行った。彼女はあくまで優美な足取りで近づいていき

「誤魔化すとは失礼な言いかたね。少し頭に血が上っているんじゃない? 一体どういうつもりなのかしら」

 そう言って面前のクリングバイルをじろりと睨みつけたのだった。

 予想外に挑発的な態度を取られたことにクリングバイルは一瞬面食らった様子だったが、すぐに反撃に出る。

「悪いが言葉を取り消すつもりはないね。――俺たちはアンタ達とこの植民地に大いに失望しているんだ。はっきり言って酷いペテンにかけられたと思い始めてるよ」

 俺たち、という言葉を聞いてエリーザベトは咄嗟に連れ立っている男たちの方を見たが、彼らは目が合うと恐れるようにしてさっと目を逸らしてしまった。

「ドクトル・フェルスターは講演会でたしかに約束していたはずだ。パラグアイは土地も安く気候も温暖で非常に過ごしやすい。果物や野菜も安価で供給されて移住すれば古いドイツよりもずっと楽に生活できるようになる。ことに菜食主義者にとっては楽園だ――たしかにそう言っていたしパンフレットにも散々書いていた。だが現実はこれだ」

 そう言ってクリングバイルは辺りにある移住者たちの家を指し示す。大通りの脇に点々と並んでいる家は比較的質のよいもので丸木小屋、ほとんどが泥レンガを積み上げただけの共同住宅というありさまで、華美豪奢なフェルスター・ホーフと並ぶと悲壮なばかりの光景だった。大通りといっても剥き出しの泥と雑草と水たまりが折り重なって馬車も通れない状態の獣道で、エリーザベトは本国へ送った記事ではこの道のことを「フェルスター・ローデと名付けられた新ゲルマニアのメインストリート」と称していたのである。

 新ゲルマニアの広大な領土の大部分は手も付けられていない未開のジャングルで、わずかに開けていた盆地に建てられた施設もフェルスター・ホーフ以外は全て完成前に放棄されていた。それはパラグアイの気候が原因だった。ドイツ人たちはパラグアイ人の昼寝シエスタの習慣を怠惰さとして軽蔑していたがけっきょくすぐに模倣せねばならなくなった。あまりに暑くなる日中は労働に不向きであり一日じゅう働くとあっというまに熱中症で倒れてしまうのだ。人々が働くことのできる時間はわずかでそれは日々の糧を得る仕事に割かざるをえなかった。家や道路を作る余裕などとても持てなかったのだ。

 そしてそうまでして注力してきた食糧の自給自足もめぼしい成果は出ていなかった。クリングバイルも他の男たちもその顔がひどく肌荒れして醜くなっていたが、それは強すぎる直射日光による日焼けとビタミン不足による吹出物の常態化、ひどい虫刺されの混合物だった。新ゲルマニアではドイツから持ってきた農作物の栽培はほとんど全て失敗していたので、移住者に多かった菜食主義者は信念を曲げて痩せた家畜を屠って肉を食べるか、さもなくば自然繁殖している豆やイモ、あるいはキャッサバの根を煮たタピオカなどを拾い集めて飢えをしのぐことを強いられ、おかげでワーグナーや反ユダヤ主義の食事的信念に強く固執した人物ほど新ゲルマニアではかえって瘦せこけるという事態になった。――ちなみにフェルスター夫妻は前者を選び、クリングバイルは後者だった。

「たしかに新ゲルマニアの現状は豊かだとは言えない。だけどそれは分かっていたことでしょう。私たちは未来のドイツ人のための楽園を建設しにきたの、移住さえすれば遊んで暮らせると思ったの? ふざけないでちょうだい」

 エリーザベトはまるっきり子供に対して叱りつけるような調子で口罵したが、クリングバイルの方も引かなかった。彼はもう遠慮もかなぐり捨てて怒鳴りつける。

「フェルスター夫人、アンタこそふざけるなってんだ! 俺たちは家族に少しはましな生活をさせてやれると信じてここまでやって来たんだぞ、ここにあるのは最低の貧民街以下の生活だけじゃないか。なのにアンタたちだけが皆から受け取った金で建てた立派な屋敷で暮らし、移住者には商売に従事することを禁止しておきながら植民地で唯一の商店を経営してバターやチーズを法外な値で買わせていることも、俺たちはおかしいと思っているんだ」

「フェルスター・ホーフが先に建設されたのはパラグアイや各国の要人を招く際に必要になるからだし、皆のあいだでの商取引を禁止したのは資本主義のユダヤ的な習慣が持ち込まれる前に排除するためよ。みんな未来のために必要なことなのよ。いい? 他人を疑う前にまずはよーく頭を冷やしなさい!」

 糾弾すればするほどエリーザベトはまるっきり相手を見下した調子で言い返していったが、彼らの喧騒にいつのまにか辺りにいた人たちがぞろぞろと様子を見に集まって来ていた。ドイツ人入植者は誰も彼も疲れ切ってうんざりしたような顔つきで両者の言い争いを聞いていたが、原住民の召使たちはドイツ語などまったく分からないはずなのにさも滑稽そうに言い争う二人を眺めているのだった。

 クリングバイルは彼女の毒舌にいまやすっかり興奮させられてしまっていたが、それでもまだ乗せられてはいなかった。じっさい彼には切り札があった。

「ユダヤ的商習慣の排除だと? ケッよく言ったな! アンタがたが俺たち全員に対して交わした契約自体がある種の信用取引だろうに。俺は知っているんだぞ、アンタの亭主が俺たちに買わせた土地はじっさいは。未だに所有権はパラグアイ政府にあるんだろう。――いいかみんな! そして土地は間もなく召し上げられてしまうんだぞ!」

 クリングバイルが集まってきた人々に対して宣告するようにそう叫ぶと、何人かの入植者は寝耳に水とばかりにひどくびっくりした顔をした。

「ユリウス、今の話は……」

「全て本当なんだぞ! フェルスターは新ゲルマニアの領土全体をたった二千マルクで手に入れたとぬかしていたが、引き換えに契約していたんだ。

 1889年末に百四十家族の入植に達していなかった場合、全ての権利をパラグアイ政府に譲り渡すってな!」

「なんだって?!」「俺は大統領に事業を見込まれて特別に譲り受けたと聞かされてたぞ?!」「そんなことよりあと一年で最低百家族の入植だって? 不可能だ、二年かけて三十組がかろうじて来ただけなのに……」「パラグアイ人に全財産を没収されるなんて冗談じゃあないぞ!」

 クリングバイルの暴露を聞き、何も知らなかった入植者たちは一気に動揺しはじめた。そして全てを知っているはずのエリーザベトの様子を伺うようにして全員が彼女に注目した。その時だった。押し黙っていたエリーザベトが急にパラソルを畳んで下ろすと、刺すようにぎらぎらとした日差しが彼女の金髪を過剰なほどに煌めかせた。

「私は皆さんがあんなひどい嘘を真に受けたりすることはないと、信じていますよ」

 彼女を凝視する全員に対して目くばせをし、にこやかにそう告げたのだった。


                 ◆


 エリーザベトは彼女を糾弾する人々の声をなかば無視するようにしてフェルスター・ホーフの中へと戻っていき、鍵をがっちりとかけて扉を閉ざす。それからようやく長く息を吐き出して……吐き気を催すような暑さにも関わらず、彼女の肩はぶるりと震えた。

「いったい誰が漏らしたのだろう……」

 消え入るような声で呟くのが聞こえて振り返ると、肌着姿のフェルスターが膝を抱えてすぐそこの床に座っている。壁に貼りついて外の様子を伺っていたらしかった。

「契約のことは俺の忠実な仲間にしか知らせていなかったのに、どうして知られたんだ? 知っていたのは君と、エルクと、あとはビーダーマンと……」

 フェルスターは猜疑心に満ちた目でボソボソと呟きながらエリーザベトの方を見上げた。その顔を見るとエリーザベトはいたたまれない気持ちになった。

「クリングバイルは蛇みたいに狡猾な人間よ、自分で探り当てたのかも」

「もしかしてあの男はユダヤ人なんじゃないのか?」

 入植者全員の身元を調べて純血アーリア人だと認めたのは自分自身だということをすっかり忘れたかのように、フェルスターは憎々し気にそう呟いた。


 ――フェルスターが大地主ソラリンデ、そして移民事業に積極的だったパラグアイ政府に対して結んだ契約は少々特殊なもので、政府が八万マルクを肩代わりしてソラリンデから土地を買い上げ、フェルスターは二千マルクの手付金を支払うことでその土地を受け取るというものだった。しかしそこには引き渡し後二年以内に植民地の人口を百四十家族(最初の入植者の十倍)に成長させられなかった場合は土地を政府に返却するという特殊な条件がつけられていたのだ。今日から見ると、この契約自体が(実際に引き渡された土地の大部分が移住に不向きな荒地と原生林しかない土地であった点も含めて)手付金やその後の投資分を政府と地主がグルになって巻き上げる詐欺が目的であった可能性が高いように思われる。

 フェルスターがこのような不可解な契約にサインをした理由については、定住決定までが予想以上に難航してすでに資金が枯渇し始めていたことに対する焦りの感情があり、彼自身に農業や開拓事業の経験がなく土地の良し悪しの判別ができなかった、またドイツで絶大な支持を得ているという自信から提示された条件を易々と達成できるもののように受け取ってしまったなどの理由が考えられよう。じっさい当時の手紙を見る限り、事業が始まりさえすれば大挙して人々がやってくると楽観していた節がある。自身と反ユダヤ主義の正当性を心から信じていたがゆえの誤算だった。

 彼らの植民地はそうした危うい契約の上に立ち上げられたが、手にした土地は自分たちを富裕にする能力が欠けているという事実をフェルスター夫妻が理解するまでには時間がかからなかった。豪奢な自分たちの屋敷の建設やドイツ式農法の相次ぐ失敗による損失、それに作物の輸出を当て込んで汽船を購入したことによる膨大な負債によって彼らの資金はほんの数カ月で底をついたのだ。

 現在の新ゲルマニアの経営はほとんどが高利で借りた借金によって賄われており、ほんのわずかだが本国から渡ってくる移住者の支払う投資金やドイツ移民協会からの援助金を利息に当ててかろうじて存続しているという状態だった。期限が過ぎて土地を没収されるか、それ以前に不審をおぼえた移住者が返金請求でも起こせば新ゲルマニア、そしてフェルスター夫妻が破滅を迎えるのは明らかだった。その予感とタイムリミットを意識せざるを得なくなって以来、ことにフェルスターは精神的重荷に耐えきれなくなりつつあった。


「大丈夫よベルン、大丈夫――ドイツ人はアナタを英雄だと分かっているわ。今に移民協会もビスマルク公も援助を向けてくださるわよ。ほら見て、私のお母さんや女中のマルヴィーネまでが土地を購入して下さったのよ」

 エリーザベトが部屋から戻って来て見せたのは数枚の手紙や証券だった。彼女は植民地の財政状態が危険だと察するや親族や友人に片っ端から手紙を書き(危機的状態だということは伏せ、むしろ有利な投資への誘いだと言って……)新ゲルマニアの土地を数百マルク分買って地主にならないかと誘いを繰り返しており、同情心か面白半分かはともかく何人かは広大な山林を買って名義上の地主になってくれていた。――実は兄にも有利な投資の誘いだと言って手紙を送っていて、ニーチェも一度だけそれに応じていた。エリーザベトは三百マルクで購入した森をフリードリヒラント(フリードリヒの国)と名付けようと提案したが、彼はそれは断りラーマラント(ラーマの国)とでも呼びなさいと返信を書いている。

 しかしエリーザベトの必死のなぐさめもすっかりナーバスに陥ったフェルスターには自尊心を傷つけられるものに感じられたらしく、気の合わない義兄の名前までがそこに連なっているのを見ると拒否するかのように顔を両手で覆い「そのくらいじゃ何の足しにもなりやしない」とかえって忌々しそうにぼやくのだった。エリーザベトは窮状を理解しつつも打開の可能性を常に考えられる人間だったが、フェルスターは精神的に脆かった。

 それからフェルスターは力なく立ち上がると柳のようにゆらゆら歩いていき、途中で戸棚から酒の小瓶を取るのが見えた。アルコールが人種的堕落を招くという信念も不眠症には敵わなかったらしい。彼は寝室に戻る前に一度だけ振り返り、妻に呼びかけたのだった。

「エリー、俺を見捨てないでくれよ……」


 客間に残ったエリーザベトの方には悲観に暮れる暇もなかった。植民地の財政上の処理に農業計画の立て直し、ドイツ本国への援助の請願とともかく仕事は山積みだった。実務に関心を失いつつある夫に代わって全てを引き受けねばならなかった。気を抜くと自分までが全てを投げ出してしまいそうだった。

「ぜったいに……負けるもんですか」

 誰に聞かせるでもなくエリーザベトはそう叫んで客間の壁を見上げた。そこには『困難を退け自らを守れ』が金細工で刻まれていて、そのすぐ下にはあの『騎士と死と悪魔』の銅版画が飾られていた。それらをひとしきり見つめた後、棚からリキュールの瓶をつかみ取り、彼女もまた書斎へと消えていった。何もかも露呈しつつあるがもはや止めるわけにはいかなかった。

 この日もエリーザベトは世界に向けて大嘘の記事を描き続けた。彼女たち夫婦の夢を生き延びさせるために反ユダヤ主義者たちに支援を請い、アーリア人種の楽園『新ゲルマニア』がそこにあるという虚構を彼女は書き続けるのだった。

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