十九 収束していく運命


 この年の夏、ペーター・ガスト(本名ハインリヒ・ケーゼリッツ)は作曲家・指揮者としてのデビューを果たすためにベルリンにやって来ていた。彼の書いた曲に関心を持った興行主との面談にもまずまずの手ごたえを感じ、前途に対する期待の気持ちは膨らむばかりだった。

 しかしながらその気分に水を差すかのように(財政上の問題で値段だけで選んだ)最安値のホテルの部屋はまったく人をばかにしたような環境で、これだけはどうにもうんざりした心持ちにさせられた。使用人の愛想は悪いし食事も不味い、おまけに夜半になってから降り出した雨によってとうとう雨漏りが発生し、水が滴る音がいまやどこからかずっと聞こえてくる有様だった。

「明日までの辛抱だ、明日までの……」

 そう自らに言い聞かせながらガストはそれを無視するように努めたが、一度気にかかりだすとその音はひどく耳障りで不愉快だった。そうしてその不快感に触発されるようにして、数カ月前にも全く同じ苦々しさを味わっていたことを彼はふっと思い出したのだった。


 ――5月半ばのヴェネチア。ガストはニーチェの様子伺いにその下宿を訪ねたが、邂逅は振るわなかった。季節外れの悪天候に触発されたかのようにニーチェの健康状態は悪化していたし、近況のことを話せば暗く不快なことばかりだった。

 この年、ニーチェは長年彼の著作を発行してきたシュマイツナー社との契約を解消していた。それまでも彼の著作は一般への売り上げがほとんど無かったが、自信作であった『ツァラトゥストラ』三部作までがなんの反響も及ぼさないことに彼はひどいショックを受け……同時に訝しんだ。そして実際に調べたところ、シュマイツナーはと判断して書店への出荷や広告を後回しにされていたことが発覚したのである。『人間的、あまりにも人間的』『曙光』『悦ばしき知識』……じっさいのところニーチェの中期著作は人々から打ち棄てられたのですらなく、大部分が誰の目にも触れないまま出版社の倉庫に放置され続けていたのだ。

 シュマイツナーがそのような背信行為に走った理由は会社がほとんど破産しかかっていたからで、ニーチェの本を棚上げすることで延命した資金で(シュマイツナー自身が傾倒していた)ユダヤ人排斥運動のパンフレットを延々刷り続けていたという事実はもはや究極の侮辱だった。

 雨漏りの起こす妙に甲高い音だけが微かに響く部屋の中で、ニーチェは固いベッドの上で丸まるように横たわっていた。数週間前にやりとりした手紙の中にはまだ灯っていた闘志の色も絶え間ない頭痛や吐気によって今やすっかりかき消されている。

 物のない下宿なのでちょっと見ただけでは分からないが、ベッド脇の棚には安酒の瓶や薬の空き箱が無造作に転がったままになっていて、これもガストが気付いた変化の一つだった。以前のニーチェはいつ見ても部屋全体を小綺麗に整頓していたが、いまは脱いだ上着さえ椅子にかけたままほったらかしだった。

 殊にガストが危惧したのはニーチェが明らかに処方を超えた量の薬を服用している点で、苦痛から逃れるために欲しいだけ劇薬を濫用していることは確実だった。じっさい机の上には鎮痛剤や睡眠薬が剥き出しで転がっていたし、イタリアの薬局は処方箋のない客でも望むままに薬を売ることで当時悪名高かった。

「飲まなければ眼球を潰されるような痛みが襲ってきて、とても正気で過ごせないんだ。睡眠薬についてもそうだ。最近は一包ではもう何にもなりはしない、毎日何時間も散歩に出かけているのに夜は少しも眠れないんだ」

 心配したガストが薬について忠告するとニーチェは口元をかすかに歪めてそう弁解し、それからさらに呟くようにこう続けた。

「……ああそうだ、それで気がついたこともあるんだぜ。このアパルタメントの家主のマダムには会ったかい? たぶん彼女の仕事は娼婦だぜ。夜間に将校どもがこっそり訪ねてきてるのも艶声があがるのも筒抜けでよく聞こえて、まったくツァラトゥストラの著者にふさわしい宿だと笑ってしまうよ」

 部屋に案内してくれた婦人が妙に着飾っていたことを思い出したガストはおもわず赤面し、その様子を見てニーチェは少しだけ可笑しそうに鼻を鳴らしたのだった。


 暫くしてようやく起き上がったニーチェは熱い紅茶を一杯だけ飲んだ後、すぐにピアノの前について鍵盤に触り始めた。彼が他に何もない粗末な部屋を選んだのはこの古いアップライトピアノがおいてあったからこそだった。

 ニーチェは若い頃から音楽好きで(とはいえ腕前は十人並みだったが)それでもピアノを弾くことは彼の気晴らしの一つであった。決別した後もワーグナーの曲はよく弾いたが、彼が生涯にわたって好んだのはショパンの曲だったという。

 文筆の分野ではニーチェが師匠であったがピアノを弾くときはもっぱらガストが先生だった。ニーチェが弾き、ガストが同じ曲を弾いてみせ、その完成度に対抗心を燃やしたニーチェが再び同じ曲を弾く。特段に指導があったりするわけでもないがそれが彼らにとっては非常になじみのある時間の過ごし方だった。

 そうやって何度目かの連弾を終えたあと、席に着いたニーチェはまったく唐突にこう口にした。

「僕の人生には果たして意味があったのだろうか?」

 突然の問いかけにガストは何も答えることができなかった。鍵盤をじっと見つめたまま口にされた問いは自分に向けられたものかもわからなかったし、そうだとしても答えようのない話だと思った。そしてニーチェ自身も――まるで答えを聞くのを拒むかのように――待たずにさらに言葉を続ける。

「僕は自らの血肉を皆に分け与えるような気持ちで今までずっと本を書いてきた。だが、ほとんど誰の手にも渡らなかった……ライプツィヒでは談判した編集者に嘲笑われたよ。たしかに貴方は十三冊も本を書かれていますね。だけど誰も読んでいないんです! 誰も読まない本をどうしてうちで扱えましょうか! ってね。言われてみればたしかにそうなんだ。を贈った友人達も、誰一人あれを理解してはくれなかった……」

 最近の彼は自身の著作を買い取ってくれる出版社を見つけることに奔走していたがその状況も芳しくなかった。ひどく無念そうなニーチェの横顔を見ていると、ガストは叫びたかった。――違います! それは違います。貴方を愛している人間はいるんです、たとえばオーヴァベック氏もそうだ、そして此処にも一人! そう訴えたかった。しかし彼が求めているのは只の友情ではないのだ。現に自分もを受け取った数少ない人間の一人だが、彼はまるで理解者の数に入れていない。

 きっとそれを与えられるのはたとえばワーグナーであり、たとえばルー・ザロメなのだ。彼を理解し、彼が見出したを共有できる器を持った人間。彼の渇きはうわべの慰めでは埋まりようもないものなのだ。彼が雷鳴と共に見出したもの……すなわち超人の理想に応えるに足る人間たちがあらわれない限りは。

 ――あるいはニーチェを苦しめているのは彼自身の理想そのものなのではないか? ガストはそう思わざるをえなかった。孤独と苦しみに苛まれた時、信心深い人間ならばそこに救いを求めるだろうし、同情深く生きてきた人間ならば自分を救い出す人間が現れてくれることを期待するだろう。

 だがあの預言者……軽快な足さばきで舞い、神の死と人間が克服されねばならぬ何者かであることを告知するあの老獪なおどけ者は、自身の運命を愛せない人間を唯々哄笑するだろう。救いの手など跳ねのけよ、同情する者を振り払え、己が不運の必然を愛せよ――没落せよ――ツァラトゥストラはそう語ったのだ。

 彼が見出した理想は彼自身の苦しみの存在をも否定するのだろうか。彼のペンは、ツァラトゥストラは荒々しい風となって門を蹴破り、ひ弱な精神の息の音をふさぐと書いた。彼自身の精神さえも、決してその例外ではないとしたら……。

師よ、これからどうなさるのですか?Quo vadis, Domine?

 愚痴をこぼしたっきり押し黙っていたニーチェに、少しだけ皮肉がかった調子でガストはそう尋ねる。

「ともかくまたジルス・マリアへと向かうつもりだ。この先ツァラトゥストラが語るのか僕が語るのかは、まだ分からないがね……」

 それだけ短く答えるとニーチェはようやく鍵盤に指を落とし、ほとんど目を閉じたままでまた同じ曲を弾き始めたのだった。


 ガストはそれから何カ月ものあいだ、あの時の彼の寂しげな横顔を思い出してはそう自問していた。そしてその時の思い出にはいつも、あのせわしない雨漏りの音がつきまとっていたのだった。この時も感傷にすっかり囚われていたので、彼の部屋の戸をノックする音にもおかげで随分気が付かなかった。

「ケーゼリッツさん! ケーゼリッツさん! 寝てらっしゃるんですか?」

 しびれを切らしたホテルのボーイが声を張り上げ戸を叩いたことでガストはようやく我にかえって応対したが、ボーイは仏頂面のまま「お客様がいらしてますよ」と不満げに彼に伝えたのだった。

 興行主から連絡があるかも知れないから客は必ず取り次いでくれと頼んでいたことを思い出し、ガストは多めのチップを渡しながら客の名を尋ねる。期待していた興行主からの使いではなかったが彼はそれでもひどく驚かされた。ボーイは本当にまったく予想外の人の名を告げたのだ。パウル・レー博士、と。


                ◆


 旧友レーは濡れたままの傘を手にしたままロビーに立って待っていて、降りてきたガストの姿に気が付くと柔和な微笑みと共に慇懃に挨拶し、握手を求めてきた。

「――本当にお久しぶりです。ガストさんがベルリンにいらしていると音楽アカデミーの友人から聞いて、これは是非ともご挨拶しなければと思っていたんです。興行主との交渉中だそうで……いよいよデビューなさるのですね」

「まだ五分五分といったところです。ベルリンの作曲家のレベルは高いですからね。そういえばレー博士は今は何をなさっておられるのですか?」

「論文をいくつか書きましたが、哲学教授の資格を取るのには結局失敗しまして……今は医業への転身を考えているところです。ところで、今日は折り入ってお願いがあってこうして伺ったのです。少しお時間をいただいて構わないでしょうか」

「と言いますと?」

 申し出に少々不審の念を抱きながらガストはレーの姿をまじまじと見る。久方ぶりに対面したレーは少々老け込んでいるように見えたが、二人が最後に会ったのはもう十年近く前だ。バーゼルの屋敷の思い出はもはや遠くなり、ガストもレーももう壮年といってよい歳回りになっていた。……それにしてもレーは三十代半ばにしては白髪が多く、あまり元気そうにも見えなかったが。そうしてレーはおそらく無意識に手でネクタイを整え直しながら、こう切り出したのである。

「じつは、ニーチェ教授の所在を教えていただきたいんです。ガストさんならばご存じなのではないのかと」

 その言葉にガストはさすがに驚いた。年中旅をしながら暮らしているニーチェの所在は自分を含めたごく少数の友人にしか知らされていなかったし、他人が局留めの手紙で連絡を取ろうとしたら数カ月から半年はかかってしまうのが普通だった。しかし彼がそんな不便な生活を送るようになったそもそもの理由は可能な限り他人を遠ざけて暮らしたかったからで、ガストもまた自分の所在を極力他人に知らせないように頼み込まれていた。

 申し出を聞いてガストは少しばかり悩んでいた。知的な紳士であるレーに対しては懐かしさも好意も抱いていたが、同時にレーがニーチェの元に呼び込んだ〝災難〟についてもよく知っていたからだ。ルー・ザロメとの出会いと拒絶。そしてなによりザロメとレーが自分の知らないところで男女として交際していたと後から知った時、ニーチェは自殺をほのめかすほどに傷心したのだ。彼らはそのあいだにベルリンで同棲を始めてしまい、いまやかつての三位一体は二人と一人として敵のように絶縁状態のはずだったが……なぜ今さら再会を考えるのか。

「まさか先生に会いに行くつもりなのですか? 先生がいまや貴方をどれだけ憎んでいるか知らないわけではないでしょう。それに彼女……ルー・ザロメ嬢はその事を知っているのですか?」

 ガストが問い詰めるようにそう尋ねると、レーは一瞬唇を噛みしめてひどく厭そうな顔をした。そうして押し殺すような声でこう答えたのだ。

「ルーは先日私のもとを去りました」

「それはまたどうして?」

「……彼女はけっきょく私を男性として求めていなかったし、近づくことも望んでいなかったんです。噂では最近アンドレアスという性的不能の男性と同棲を始めたそうですよ」

 そう語るとレーは自嘲気味に口角を上げてみせたがそれはひどく哀れっぽく格好のつかないもので、ガストの方はといえばその赤裸々な告白に面食らい、思わず誰かが聞いていやしないかと辺りを見渡したが、その場にたった一人だけいたフロント係すらこちらを見てはいなかった。

「ええと、貴方がまた独り身に戻ったということは分かりました。……だけど先生が貴方との再会を望んでいると思うのですか? 申しにくいが、貴方は先生をひどく傷つけたんですよ。そのことは変わらないんだ」

 ガストは辺りを伺って若干声を落としつつレーに忠告する。その言葉をレーは苦しげに聞いてしばらく押し黙っていたが、やがて意を決したようにこう口にした。

「分かっています。私は教授を利用したあげく裏切った……ルーを最初に彼に引き合わせた時からそうだったんです。私はルーが好きで求婚もしたが断られた。そこで間に立って仲を取り持ってもらおうと思って彼をサークルに誘ったんだ。彼が私以上に彼女に入れ込んでしまうことになるとは思いもよりませんでしたが……今となってはせめてあの時のことを直接会って償いをしたいんです」

「……」

 勢いに任せるようにして過去のいきさつを語りだすレーを、ガストはあっけにとられながら見つめていた。なぜ彼が過去の醜聞をこんなに洗いざらい話しているのか分からなかったからだ。しかし彼の口から償いという言葉が出た時、ようやくなんとなく察することができた。

 つまるところレーは贖罪と懺悔、そしておそらく赦しをも求めているのだ。それも自身とザロメとの関係が破綻して自信を失い、途端に過去の裏切りに対する罪悪感と呵責に襲われて耐えきれなくなったことが理由なのだ。そうしてという感情でいっぱいになりながらニーチェにすがりつこうとしているに違いなかった。

 それはあまりに身勝手、あまりに虫のいい話ではないか? ガストはそう思った。レー自身がどこまで自覚しているのかは分からないが、斯様な腹立たしい懺悔を聞かされた自分は要するに牧師であり、ニーチェにはさながら彼の罪を許す神の役割を演じて欲しがっているのだ。許すことを求められる側の感情はどうなる。彼が目の前に現れるだけでニーチェの忘れかけた傷口は再びぱっくりと開き、ひどい苦痛を味わうというのに。

「申し訳ないが、僕の口から先生の所在を伝えるのは信義に反すると思うのです。他の人にあたってもらえないでしょうか」

「オーヴァベック氏にも頼んだが同じように断られたしナウムブルクの実家からも答えはもらえなかったんです。……まさかあの反ユダヤ主義者の妹に聞きに行くわけにもいかないでしょう。ガストさんしかもう頼れる人がいないんです」

「それはできない。誰にもんだ」

「せめてもう一度だけ……許されなくてもいい、どうしても謝りたいんです」

 ガストはそれでも苛立ちを抑えて穏便にレーを帰らせようとしたが、レーはいまや掴みかからんばかりの様子で食い下がってきている。興奮して自分の腕をつかもうとしてきたレーの手をガストは強引に払いのけ、「いいかげんにしなさい!」とうとう怒鳴りつけたのだった。

「先生が貴方たちの裏切りでどれだけ傷ついたか、貴方には分からないのか?! 先生はずっと自分の理解者を求めていたんだ。貴方ならきっとそういう相手になれたのに、どうして裏切るような真似をしたんだ?! 先生にも、自分自身に対しても恥ずべき行為だったんじゃないのか。ともかく貴方には何も教えられない。私は貴方のしたことを許すことができないし、許されるべきだとも思わない」

「……」

 ガストが我慢しきれなくなって糾弾している間じゅう、レーはというと尻餅をつかされたきり立ち上がるのも忘れたまま彼の顔を見ているだけで、大声に気づいたフロント係が怪訝そうに彼らの方に目を向けていた。一呼吸おくとさすがに言いすぎたのではないかという懸念がガストの脳裏に浮かんできていたが、レーの方はようやく立ち上がると幾分か落ち着いた……というよりは熱が引いたかのような様子で「何もかもがもっともだ」そう呟いた。

 それからのレーは表面的にはいつものような平静を装おうとしていたが、顔色は青ざめ所作からはひどい落胆が伺えた。それでも彼は突然現れて無理を申した非礼を詫びて、自分がこうして訊ねたことは先生に知らせないで欲しいと告げると寂しげに立ち去って行ったのだった。そうして結局この時が、ガストがレーの姿を見た最後となったのだった。


 ガストは再び部屋に戻るとうんざりとした様子でシャツを脱ぎ捨て、そのままソファの上に座り込む。レーに冷酷な態度を取ったことへの心地悪さはあったが間違っていたとは思わない……。しかしそれにしても、ほんの十五分話しただけなのにひどい疲労感だ。それに、自分はある種の嫉妬の念で以てレーを追い払ってしまったのではないか? そういう疑念が後からあとから湧きおこって来てどうしても拭いきれなかった。

 しんとした室内にはあいかわらず雨漏りの音だけが響いていた。ひとしきりうなだれた後、長い溜息を吐いてようやく顔をあげたガストの目に入ったのは本だった。

 ――『ツァラトゥストラはこう語った・第四部』。ベルリン行きのお守り代わりに彼自身が持参したニーチェの最新作。この世にたった四十冊しか存在しない本。発行してくれる出版社が見つからないためやむなく自費出版され、そのうち数冊がごく親しい友人に配られただけで終わったものだ。

 ガストはこの本の編集の大部分を引き受けたので当然内容にも精通していたが、それでもこれは不思議な本だと感じている。じつを言うとニーチェ自身も扱いかねていて、この原稿は破棄する、いや新たなシリーズの第一章にするなどと指示が二転三転していたが、けっきょく『ツァラトゥストラ』を半ば強引に終わらせるための最終幕として再構成されたのだった。

 第三部までとの大きな違いは、それまで孤高に教えを説いていたツァラトゥストラの周りに様々な人間が集まってくる戯曲調で描かれている点だ。二人の王、神の死を知った法王、魔術師、最も醜い人間……奇怪でユーモラスでさえある「高等な人間たち」がツァラトゥストラの洞窟に集まってきて、彼を讃えて宴を開く。しかし最後には「獅子の咆哮」によってその者たちも追い払われ、ツァラトゥストラは再び一人きりで旅立ってゆくのである。彼がこの整合性のない本を迷ったすえに印刷にまわした理由は分からなかったが、彼自身が己に科してきた信念と孤独、そして共に讃え合える仲間への渇望の両方がそこに塗りこめられているようにも感じられる。

 まだ世界の誰にも知られていない本を見つめながら、その時ガストはふと思った。

 もしも――もしも自分が私心を捨ててレーをニーチェに引き合わせていたらどうなったのだろうか? 獅子のごとき咆哮で追い散らしただろうか。それとも案外、再び友として迎えただろうか。裏切った友を許したことで彼の孤独は埋められ、隣人愛と同情が彼自身さえをも癒し、過酷な超人の夢に追い立てられたニーチェの精神を救っただろうか。もしも――。


 パウル・レーはその後スイスの小さな村に移り住んで医師として働きながら静かな生活を送っていたが、1901年に突然世を去った。不審な点が多くおそらく自殺であるとされているが、その理由は不明である。今日からみれば……まるでかつての親友の運命が決したのを見届けたかのようなタイミングでの死であった。



                ◆



 大西洋上を航行する蒸気船ウルグアイ号が夜間に見舞われた嵐は大変なもので、航海に不慣れな二百人あまりの乗客たちは、よもやこのまま沈没するのではないかと不安を抱いて眠れない夜を過ごしていた。

 夜明けと共に一転して天候は回復し、甲板から見れば空には雲一つかかっていないのが分かる。快晴も決して心地よいものではなく今日も容赦のない日差しと蒸し暑さに苦労させられるのだろうという確信があったが、なんにせよ嵐よりはましだった。

「さあ皆さん、いまのうちに洗濯物を干しましょう!」

 大きな洗濯かごを抱えて最初に甲板に飛び出したのはエリーザベト・フェルスターだった。彼女の後に続いて同じようにかごを持ち袖をまくった作業服姿の婦人たちがぞろぞろとついてくる。彼女たちはすっかり慣れた手際で物干し竿を立ててレンチで固定し、それから各々の山のような洗濯物を干し始める。

 自分の干し終わった洗濯物が潮風の中でたなびいているのを確認しながら、エリーザベトはふと海の方を見た。見渡す限りの水平線は鏡のようにきらきらと輝いているが陸は影も形も見えない。女たちはみんな同様に魅入られるように海を見ていた。

「あと一週間でパラグアイに着くんだよ」「もう揺られるのは心底うんざりだわ」「新天地は海の上よりは涼しかったらいいんだけどねぇ」

 女たちの雑談を耳にしながら、エリーザベトも思いにふける。

(嗚呼。ナウムブルクもベルリンも、兄のいるイタリアも置いてきてしまったのね)

 いまやすっかり見慣れた情景なのだが、それでもなおエリーザベトの胸中には故郷からはるか遠くに離れてしまったのだという郷愁が押し寄せてくるのだった。


 ――フェルスター夫妻が志願してきた移民団員に召集をかけ、ハンブルクから出港したのは1886年2月のことだった。出発時点で彼らが擁していたのは十四家族の移民で、人数は幼い子供を含めておおよそ百五十人。当初の計画では三十家族を確保してから出発する予定だったのでこれは大幅な見切り発車だった。

 予定人数の揃わないうちに出航を決意した一番の理由は予算的な問題で、フェルスター夫妻はドイツじゅうを巡って講演旅行を強行しつづけ各地で大勢の聴衆を集めては賞賛されたが、じっさいに寄付する者や参加を申し出る者はひどく少なく、結果的にこれが大幅な赤字を招いた。いくら待とうともちっとも増えない参加者と出発前から目減りしていく予算に不安をおぼえたフェルスターはそこで予定を大幅に繰り上げ、本来の予定の半分以下の段階でドイツを発つことを決定したのである。結婚後の夫婦の時間をもう少しゆっくり持てると考えていたエリーザベトは落胆したが、反対する理由も術もなかった。

 彼女は夫と共に着飾ってハンブルクの港で移民団の参加者を待ったが、エリーザベトにとって彼らの大多数は正直〝期待外れ〟であった。ほとんどはドイツでは土地も持てず困窮していた貧農で元職人や商人が少し。外国にいけば祖国よりはましな生活ができるのではないかと期待する無産階級とその家族――それが彼女の抱いた仲間たちへの第一印象だった。もっともアルコールへの嫌悪や反種痘、そして反ユダヤ主義というイデオロギーだけは多くの者が共通して抱いていたのだが。

 フェルスターが安価でチャーターしてきた蒸気船は最下等のもので、移民団の多くの人たちは船内では大部屋で雑魚寝同然で過ごさなければならなかった。炊事夫や使用人の類いは当然一切おらず、船中での生活は全て自分たちが分担で賄わなければならなかった。――それでもなおウルグアイ号は彼らにとって希望の舟であった。祖国ドイツから見捨てられた、あるいはユダヤ人の悪意によって陥れられたと感じる人々は揚々と新天地を目ざして乗り込んだのである。彼女もまた戸惑いながら見送りに来た母親を抱擁し「十年、いやきっと五年で素晴らしい国を作るから! その時はお母さんを招待するわ」と自信たっぷりに語ってから旅立ったのだった。


「フェルスター婦人、見てくださいよこれ!」

 厨房に立ち入ると、船内での給仕係を任されていたベッカーという中年女性が憤然としながら缶箱を突きだす。中身のビスケットは穴だらけになっていたし、缶の底の方では小さなものが元気にはいずり回っている。虫が食っていたのである。エリーザベトは危うく失神しそうだったがどうにかこらえ「捨ててちょうだい」と指示するが、ベッカーの方も「これを捨てたらもう向こうに着くまで食糧が持ちませんよ」と譲らない。

 パン焼き窯もない船内での主食はほとんどビスケットが中心で内心みんなうんざりしていたが、それすら無くなったら一体どうなるのだろうか。彼女としては考えたくもなかった。

「うーん……じゃあ虫が食ってない部分だけをなんとか選べない? 知らなければみんな気にしないでしょうし……ああ、いっそ粉々にして男の人に出すカツレツとかに混ぜ込めないかしら? とにかくなんとかお願いするわ」

 渋るベッカーをどうにか説き伏せて誤魔化しに同意させると、エリーザベトは朝食のビスケットとほとんどしなびかけたオレンジを持って彼らの個室に戻っていく。

 部屋に戻るとフェルスターはベッドで死んだように横になっていた。夜間の揺れのせいでひどい船酔いにすっかりまいってしまい、朝になってもまったく動けないでいたのだ。

「ああ、エリーか……おかえり」

 フェルスターは横になったまま、すっかりむくんで土気色になった顔で彼女に声をかける。少しは元気を取り戻してきたらしい。彼のげっそりした顔が妙におかしくてエリーザベトは思わず吹き出してしまいそうだったが、気を悪くしてはいけないのでなんとか抑えつつ「ベッカー婦人がまた食糧の品質に文句をつけていたわよ」とごまかすように話題にした。

「ハア……また彼女か! 彼女がいるのはレストランの厨房ではなく、求められているのは工夫だということをいつ分かってくれるのやら……まったく女ってやつは」

 フェルスターは心底ばかにしたような調子でそうぼやいたが、すぐに思い出したように「エリーのように優秀な女性の存在を忘れたわけではないがね」とはにかみまじりで付け足すのだった。

 それからエリーザベトはオレンジの皮をナイフで丁寧に剥いてやりながら、彼女自身がさんざん投げかけられた疑問を夫に差し向ける。

「航海中の生活がひどく窮屈なのもあって、なんだかみんな不安に思いだしているみたいなのよ。本当に自分たちはパラグアイでうまくやっていけるんだろうかって」

「うまくいくに決まっているさ、なにせパラグアイにはユダヤ人がいないんだ! 何もしなくても食べられる果物が実るうえに原住民は白人に対して従順だ。

 だいいち計画は綿密で、それに俺は向こうですでに合意を取り付けたうえでドイツに戻ってきたんだぜ。パラグアイは長い戦争のおかげで人手不足で、おまけに大地主ソラリンデは持て余している広大な農地を譲りたくてうずうずしているというんだからこれは渡りに船だよ。神様のお恵みだ」

 フェルスターが自信ありげに語る話を聞きながらじっさいのところエリーザベトも事態をかなり楽観していた。この航海は正直うんざりするもので苦労が絶えないが、おそらくいまが正念場に違いなくパラグアイにつけばすべてがうまくいく……うまくいきだせばきっと皆が力を貸してくれるし、自分たちの努力と忍耐、そして善意は必ず報われるときがくる、と。

「私たちはやるべきことをやりましょう。これしかないわね」

「ああ、俺たちはアーリア人種再生のための最初の矛になるんだよ」


 とにもかくにも彼らの国『新ゲルマニア』の建国は間近に迫っていた。エリーザベトとフェルスター、それに百五十人の移民団の運命は船上で一つに繋がれていて、もはや切り離しようもなかった。――そして五千マイル彼方のヨーロッパではフリードリヒ・ニーチェの運命も決しつつあったのである。

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